万葉集その五百六十六 (玉藻と海苔)

( 養殖海苔発祥地大森には問屋が多く残る)
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( 大森海苔 名産御膳乾海苔所と記されている )
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( 海苔の保存箱  お茶屋が海苔屋を兼業しているのは保存技術を生かせるから
              : 大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔干し  大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔船からの採取 第2次大戦後   同上)
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( 荒波で散乱した海苔を玉網ですくい取る作業 (ふっきり拾い) 同上
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( ヒビ建て  ナラやクマギの枝に海苔の胞子を付け養殖する 高下駄を履き
         太い棒を突き立て海底に穴を開けてヒビを突き立てる   同上)
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( 海苔の養殖風景  震災前の相馬双葉 )
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( 生きている海苔 大森海苔のふるさと館 水槽 )
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( ホンダワラの見本  市川万葉植物園 )
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( 羅臼昆布 )
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( 若布  鎌倉材木座 )
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( 東京湾での海苔つくり風景:江戸時代  柴田是真 諏訪神社に奉納 大森海苔のふるさと館)
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玉藻とは美しく、立派な藻の意で海藻の総称とされています。
ミネラルの宝庫、コンブ、ワカメ、アラメ、ミル、ヒジキ
風味がよいアマノリ、アオノリ、アサオ、
寒天に加工できるテングサ、フノリなど。
採集しやすく、栄養に富み、乾燥すれば持ち運びが容易な海藻は
昔も今も貴重な食材です。

延喜式によると藻の料理は醤(ヒシオ)、酢、飴、酒などの調味料を使い、
ナス、マメ、ナギ、ショウガ、ノビル、などと煮て和え物にしたり、
酢の物、吸い物など現在と変わらない食べ方をしていたようです。

万葉集では74首の藻の歌が見られ(内玉藻 57首)、身近で生活に必要不可欠な
食材であったことが窺われますが、藻そのものを詠ったものは少なく大半が恋の歌。
次の歌は藻刈を詠った数少ない例外で、百人一首で有名な「これやこの」という
言葉が既に出てまいります。

「 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に
   玉藻刈るとふ 海人娘子(あまおとめ)ども 」
                           巻15-3638  田辺秋庭


( これがまぁ、名にし負う鳴門の渦巻き。
そんな激しい渦巻きに掉さして玉藻を刈るという,海人娘子たちなのか )

新羅に派遣された使人が鳴門にさしかかった時に目にした光景。
名だたる鳴門の渦潮をものともせず、小舟を巧みに操って玉藻を刈る
娘たちに驚嘆し、褒めたたえています。
当時「藻刈舟」に乗り、竿に鎌を括り付けて海に靡く海藻を
刈り取っていましたが、女性が鳴門の渦潮逆巻く危険な場所にまで
出かけていたとは信じられないことです。
このような光景を目の当たりにした作者が驚嘆したのも無理もありません。

( ご参考:百人一首 

  「 これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも 逢坂の関 」  蝉丸 )

「 風高く 辺(へ)には吹けども 妹がため
         袖さへ濡れて 刈れる玉藻ぞ 」 
                            巻4-782 紀郎女(きのいらつめ)


( 風が高く吹き渡り岸辺に激しい波がよせていました。
 でも、これは、あなたのためにと思って袖まで濡らして
 刈り取った藻ですよ。)

こちらは磯の岩礁に貼りついた海藻を鎌で刈り採ったもの。
詞書に藻に何かを包んで友に渡したとあり、親しい女友達に贈り物をしたときに
添えた歌のようです。
乾いた海藻に海産物でも包んだのでしょうか。
藻でプレゼントを包んだというのも奇抜な趣向が面白く、受け取った女性は
さぞ驚き喜んだことでしょう。
当時の女性の髪は長く、緑なす黒髪にはヨードを大量に含む海藻を食することが
何よりも効果的でした。

「 荒磯(ありそ)越す 波は畏(かしこ)し しかすがに
      海の玉藻は 憎くはあらずて 」
                           巻7-1397 作者未詳

( 荒磯を越す波は恐ろしい。
 でも、波に寄せられる玉藻は決して憎くはないんだよ )

こちらは恋の歌、美しい女に惚れた男が女を玉藻に譬え、
どんなに苦難があろうとも荒波を乗り越えて結ばれたいと願っています。
当時、娘の結婚については母親の発言力が強かったので、
何らかの事情で猛烈に反対されていたのかも知れません。

「 花のごと 流るる海苔を すくひ網 」  高濱虚子

海苔は太古の時代から食されていたと推定されていますが、文献での記述は
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」の
「ヤマトタケルが常陸国乗浜で海苔を干しているのを見た」
「出雲国風土記」の
「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬひのこほり:島根県出雲)がもっとも優れている」
などに見られ、さらに公式文書としては、701年に公布された大宝律令に
税(調)の対象として紫菜(のり)の貢納を定めた記述などがあります。

当時は生海苔か、素干しだったので日持ちがせず、極めて高級品として
扱われていました。
因みに「のり」の語源は、生海苔のぬるぬるした感触をさす「滑(ぬら)」が
転訛したものとか。

鎌倉時代、源頼朝が伊豆名産の海苔を4回にわたって朝廷に献上し、
以来、岩海苔は贈答用に使われ、室町時代は僧坊料理や喫茶の茶うけとしても
食されました。

「 海苔の香や 障子にうつる 僧二人 」 
                      梅室 (ばいしつ:江戸末期の俳人)

今日の一般的な「板海苔」の誕生は江戸時代からで、「ヒビ」といわれる
生簀の柵で養殖がはじまり、生海苔を細かく刻んで水に溶かし、
紙漉の要領よろしくスノコで薄く延ばして作る製法が確立すると
生産が飛躍的に向上し、巻きずしなど江戸っ子には欠かせないものになりました。

昭和24年、イギリスの海藻学者ドリユー女史が海苔の糸状体を発見。
これにより海苔のライフサイクルが解明され、不確定な天然採苗に変わり
人工採苗が実用化され大量生産が可能となりました。

2月6日は海苔の日。
この日は、大宝律令が施行された大宝2年1月1日を西暦に換算すると
702年2月6日になるとのことで、昭和41年、海からの贈り物、
海苔に対する感謝の気持ちを込めて全海苔漁連が定めたそうです。

  「 海苔あぶる 手もとも袖も 美しき 」 滝井孝作
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by uqrx74fd | 2016-02-05 06:30 | 植物

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