万葉集その五百六十七 (光明皇后)

( 法華寺山門  奈良 )
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( 同  本堂 )
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( 厄除けの茅の輪  同 )
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( から風呂  同 )
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( 本尊 十一面観音像:国宝  同 )
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( 光明皇后  小泉淳作画 )
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(  同上    林屋拓蓊:はやしや たくおう 画
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(  同上絵本  梶田幸恵 作、絵)
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(  光明皇后陵  佐保山の麓、聖武天皇の隣 )
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( 光明天皇が人々の為に作ったと伝えられる守り犬  昭和45年年賀切手 )
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光明皇后は701年 藤原不比等と橘三千代の間に生まれ、安宿媛(あすかべひめ)と
名付けられました。
聡明にして美しく、光り輝くごとしで、長じて光明子(こうみょうし)とよばれ
16歳にして後の聖武天皇の皇太子妃となり,阿倍皇女(後の孝謙天皇)を出産されます。

724年、聖武天皇即位。
5年後の729年光明子は妃から皇后に。
立后が遅れたのは、当時、皇后は天皇亡き後女帝になる可能性があり、出自は
皇族出身に限るという不文律があったため長屋王などが強く反対し難航したためです。

天皇の熱意と藤原家の強力な後押しで皇后に冊立された光明子は、内外の政治混乱、
大飢饉、大地震、悪病の流行、大仏建立等で疲労困憊する夫を献身的に支えます。

仏教に篤く帰依した皇后は、東大寺、国分寺の設立を天皇に進言し、
自らも興福寺五重塔や西金堂を建立したり、貧しい人を救済する施設「悲田院」、
医療施設「施薬院」を設置されました。
また、能書家としても知られ、王羲之の「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)
されたものが、正倉院に収められており、その書は

『 筆力 勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない
  美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
  まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』

との最高級の評価がなされています。(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)

さらに、聖武天皇崩御後四十九日に遺品などを東大寺大仏に寄進しその宝物を
収めるための正倉院を創設するなど、その功績は大なるものがあります。

万葉集での皇后の歌は3首。
慈愛に満ちたお人柄を偲ばせるものばかりです。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
     この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                         巻8-1658 光明皇后

( この降り積もる雪の見事なこと。
 わが背の君と一緒に見ることができましたら、
 どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 皇后40歳。

「 朝霧の たなびく田居(たゐ)に 鳴く雁を
     留(とど)め得むかも  我がやどの萩 」
                          巻19-4224 光明皇后


( 朝霧のたなびく田んぼにきて鳴く雁。
  我が宿の萩はその雁を引きとめておくことができるであろうか )

聖武天皇吉野行幸の折、吉野に美しく咲く萩と雁が音を聴き、
平城京の自邸に思いをいたした宴席での歌と思われます。

当時、雁と萩との取り合わせは秋の花鳥の代表的なものと考えられていました。
さらに、「雁に男性、萩に女性を連想するのはこの時期の共通の詩情」(窪田空穂)
だそうで、この説をもとに深読みするならば
「 私皇后(萩)は彷徨する天皇(雁)を留めることができようか」とも解釈できます。
 聖武天皇は740年九州で藤原広嗣の乱が起きた時、都を次々と遷都し
5年間地方を彷徨した時期がありました。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                          巻19-4240  光明皇太后(既出)

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

孝謙天皇の時世、第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の旅の無事を
祈願した神祭りの歌。
清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
皇太后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠ります。
威厳と力強さが感じられ、当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なもので
あったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

「 いにしへの 古き堤は 年深み
    池の渚に 水草(みくさ)生ひにけり 」  巻3-378 山部赤人


( ずっとずっと以前からのこの古い堤は 年の深みを加えて
  池の渚に水草がびっしり生い茂っていることよ  )

皇后の父、藤原不比等がかって住んでいた屋敷の庭園で故人を偲んで詠ったもの。 
法事の折のものかも知れません。
いにしへ、古き、年深みと時の経過と共に神々しくなっていくさまを詠い
鎮魂の意を奉げています。

「 ふぢはらの おほききさきを うつくしみ
    あひみるごとく あかきくちびる 」   会津八一


佐保路の終わり、平城京跡近くに法華寺という尼寺があります。
( 法花寺とも記し 山号は「法華滅罪寺」)
もと藤原不比等の邸宅であったものを没後、皇后宮、さらに諸国の
総国分尼寺として女人信仰の中心となった古刹で、本尊は十一面観音立像(国宝)、
皇后をモデルとしたものとも伝えられている美しいみ仏で赤い唇が印象的です。

和辻哲郎は古寺巡礼で次のように述べています。

『 この観音は何となく秘密めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。
 胸に盛り上がった女らしい乳房。
 胴体の豊満な肉づけ。
 その柔らかさ、しなやかさ。
 さらにまた奇妙に長い右腕の円(まる)さ。
 腕の先の腕輪をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に
 移っていく間の特殊なふくらみ。
 それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、
 しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような
 一種隠微(いんび)な蠱惑力(こわくりょく)を印象するのである 』 (岩波文庫より)
  
境内はいつも箒の目が清々しく、凛とした風格が漂い、東門の奥には
千人の入浴を発願し、千人目の病人の願いにより患部の膿を
吸い取ったところ、病人は阿閦如来(あしゅくにょらい)の化身で、
光を放って昇天したと伝えられる「から風呂」が残されています。

我国社会福祉の原点と云うべき建物。
当時としては珍しい蒸し風呂で近年まで焚かれているそうです。

最後に、荒木靖生著 万葉歌の世界 (海鳥社)からです。

『 数年前、奈良の佐保路を散策していたとき、法華寺の白い築地塀の外側に
  さらに からたちの生垣が百メートル近く続いていたのが印象的であった。
  
  皇后の母「県犬飼 橘三千代」の姓の一字「橘」は後に賜姓されたものである。
 「からたち」すなわち「唐橘」の「橘」が何かしらそんなことに
  かかわりのあるものとして、後世の人たちが「からたち」の生垣を
  作ったのだろうと考えながら、おりからの小雨に濡れる白い花に
  目を落としていた。 』

        「 法華寺に 守り犬買う 小正月 」 河合佳代子

            守り犬: 精進潔斎した門主と尼僧のみで作る土製彩色された子犬。
            小正月: 旧暦の正月15日あるいは正月14日~16日





















               
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by uqrx74fd | 2016-02-11 14:12 | 生活

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