万葉集その六百十一 (橘諸兄邸の宴)

( 橘諸兄 前賢故実:江戸~明治時代に刊行された伝記集 菊池容斉筆 )
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(  赤塚不二夫の万葉集  学研 )   画面をクリックすると拡大できます
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( あたしたちの古典 万葉集  学校図書 )
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( 橘の花  山の辺の道  奈良 )
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( 橘の小さな実  同上 )
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( 右近の橘  興福寺南円堂前  奈良 )
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( 春日大社若宮   奈良 )
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( 橘諸兄が愛した山吹  山辺の道 奈良 )
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天平の頃 左大臣 橘 諸兄(もろえ)は山城の国,井手の里、玉川のほとりに
山荘を営み、遣水した庭園を中心に山吹を植え、川の両岸を埋め尽くしたそうです。
740年、その見事さを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸されたことにより、
天下に喧伝され「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど
詠われるようになります。

それから12年後の752年、退位された聖武太上天皇は井手の橘諸兄宅へ
再び行幸され、肆宴(とよのあかり)を催されました。
肆宴とは天皇、上皇が催す酒宴のことですが、臣下の屋敷を訪問されて
一席を設けるというのは破格のこと。
長年の忠誠に対する労をねぎらわれたものと思われます。

出席者は上皇を入れて4人。
気心が知れた人ばかりの内々の酒席です。
時は12月中旬、まだ晩秋の気配が漂う時期。
美酒と松茸、桃、栗、梨、山海の珍味がふんだんに供され、
選りすぐりの美女が大勢侍(はべ)って座をとりもったことでしょう。
かた苦しい宮中では味わえない雰囲気、上機嫌の上皇はまず挨拶歌を
詠われます。

「 よそのみに 見ればありしを 今日(けふ)見ては
    年に忘れず 思ほえむかも 」  
                        巻19-4269 太上天皇(聖武)

( 外ながら見るだけであった以前ならともかく、今日こうして見たからには
 もう毎年忘れずに思いだされることであろうな )

12年前の行幸は山吹見物だけだったのでしょうか。
ようやく邸(やしき)を訪れることができたと詠われています。
続いて恐縮した橘諸兄のお迎えの歌。

「 葎(むぐら)延(は)ふ 賤(いや)しきやども 大君の
    座(ま)さむと知らば  玉敷かましを 」 
                                巻19-4270 橘諸兄

( 葎の生い茂るむさくるしい我家、こんなところに大君がお出ましいただけると
 存じておりましたら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに )

勿論、事前にお達しがあったでしょうが、謙遜しながらの感謝と歓迎の辞。

「 松陰の 清き浜辺(はまへ)に 玉敷かば
    君来まさむか  清き浜辺に 」 
                      巻19-4271 藤原八束

( このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に、玉を敷いてお待ちしたなら
 大君はまたお出まし下さるでしょうか。
 この清き浜辺に )

庭の砂、松の木、借景の川を海に見たて、松に待つの意を響かせ、
再度の行幸を願っています。
作者と諸兄は伯父、甥の関係。
家持とも親しい間柄です

「 天地に 足(た)らはし照りて 我が大君
     敷きませばかも 楽しき小里(をさと) 」 
                    巻19-4272 大伴家持

( 天地にあまねく照り輝いておられるわが大君。
その大君が国をお治めになっておられますゆえ、
この里も楽しくてしかたがない所でございます。)

橘邸周囲全体が楽しく、賑わっていると太上天皇の治世をたたえたもの。
もっともこの歌は予め用意したが披露されなかったとの注記があります。
席が盛り上がっている最中の結びの歌だけに、出しそびれたのかもしれません。

さて、聖武天皇の寵臣、橘諸兄とはどういう人物だったのでしょうか?

諸兄は敏達天皇の後裔で父は大宰府帥、美努王(みぬのおほきみ)、母は縣犬養三千代。
三千代は後に藤原不比等に嫁し、光明皇后を生む。
従って光明皇后は諸兄の異父妹という間柄。
元々は王族で、葛城王と称していましたが自ら臣籍降下を請い、
許されて母の姓、橘を名のりました。

737年天然痘の流行によって朝廷の中枢、藤原4兄弟が病死したことにより
一躍、右大臣に任じられて国政の中心になり、吉備真備、玄昉をブレーンとして
聖武天皇を終生補佐し続けます。

然しながら孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂の発言力が強大になり、
755年酒席で不敬の言ありと讒言され、756年、辞職を申し出て引退。
強力な支持者を失った大伴家は諸兄の政敵仲麻呂に疎まれ次第に衰退し、
遂に因幡、多賀城へ左遷されました。

この聖武太上天皇による宴の時期が、橘諸兄、大伴家持の絶頂期で
あったと言えましょう。

「 橘と 家持編(あ)みし よろづ葉の歌 」 筆者

特筆されることは、橘諸兄は万葉集1~2巻の編者とも推定され、
その後を家持に託したことです。
引き継がれた万葉集の編纂は、多くの人たちの超人的な努力、協力により、
遂に20巻4516首をもって完結します。
天皇から庶民、老若男女を網羅する歌集は世界でも類がなく、
我国文学界に燦然たる光を放ち、いまなお褪せることなく輝き続けているのです。

「 家橘(いえきつ)が 植えし万葉 年を経て
     日本(やまと)の大樹に なりにけるかも 」 筆者


        万葉集611 (橘諸兄邸の宴) 完



        次回の更新は12月23日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-12-16 05:57 | 生活

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