万葉集その六百三十六 (田植は神事)

( 春日大社本殿から御田植神事の会場へ   奈良 )
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( 巫女が勢ぞろいする中神主がゆっくり歩む  同上 )
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( 笛と打ちものの楽奏に合わせて舞を奉納   同上 )
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( 巫女の舞   同上 )
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( 春日山からの湧水に向かって祈る  同上 )
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(  苗やり  同上 )
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(  御田植祭のイラスト  月刊 ならら )
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(  住吉大社の御田植祭  大阪 )
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(  大神神社:おおみわじんじゃ の御田植祭  奈良 )
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(  菅原天満宮の御田植祭    奈良  )
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( 田植が終わったあと  安達太良山麓 )
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万葉集その六百三十六 (田植は神事) 

日本列島の田植は3月末頃から始まり、6月中旬まで続きます。
沖縄、九州は同じ畑で年2回栽培、収穫する2期作や、麦、小麦など2種類の
作物を収穫する2毛作を行うところがある関係で早い時期から始まり、
中には8月まで続くところもあるようです。

北海道、東北は5月、関東は6月が多いようですが、必ずしも南から北へと
順次移るわけではなく、気温や品種により各地域毎にその都度判断されており、
ばらつきがあります。

古代の田植は、先ず田の神を迎えて豊作を祈願する儀式を行うのが習いでした。
早乙女(田植する女性)が巫女になり、屋根の上に菖蒲や蓬(よもぎ)を葺(ふ)いて
邪気を払い、家の中には香り高い草を積んでその上に座り、
一夜お籠りをして身を清める。
やがて夜が明けると、乙女たちは早々と紺の着物に紺の手甲脚絆、菅笠に
赤いたすきという出で立ちで田植に向かったのです。

「 青柳の 枝(えだ)伐(き)り下ろし 齊種(ゆたね)蒔き
   ゆゆしき君に 恋ひわたるかも 」  
                           巻15-3603 作者未詳

( そろそろ田植の時期です。
  青柳の枝を伐り取って田に挿し、ゆ種を蒔いて神様に豊作をお祈りいたします。
  そのような神様のように恐れ多く、近づきがたい身分違いのあなた様に
  恋をしてしまって- - 、毎日々々焦がれ続けている私。 )

奈良時代の水稲耕作は、直接籾種を蒔く直播式から苗代で育てた苗を移植する田植式へ
移行する過渡期にあたり、二通りの方法が行われていました。

「ゆ種」とは「神が宿る神聖な種籾」という意味で、ここでは直播式と思われ、
苗代の中央や水口(田の水の取り入れ口)に生命力の強い青柳やツツジの枝を挿して
苗の順調な発育を祈ります。

この風習は現在でも続けられており、ウツギの枝、地竹の細いものなども
用いられているそうです。

「 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに
     国別れして 我(あ)れは  いかにせむ 」 
                    巻15-3746  狭野弟上娘子(さの おとかみの をとめ)

( 世間の人はみな二人一緒に田植をなさるというのに
 新婚早々、あなたは別の国へ旅立ってしまわれたのですね。
 別居することになってしまった今、私はこれから一体どのようにして
 生きて行けばよいのでしょうか。 )

当時の官人は、都で暮しつつ農耕の状況に応じて郊外にある庄(たどころ)で
農作に従事していました。
農繁期の5月、8月には田仮(でんけ)という15日の休暇が与えられ
夫は妻の労働を助ける習慣がありましたが、作者の夫、中臣宅守は新婚早々、
罪を得て配流の身になってしまったのです。(740年)、

罪は何によるものかは定かではなく、一説に政争に巻き込まれた讒言によるもの
ともいわれていますが、二人の悲しみは如何ばかりであったことでしょう。

本来なら一緒に田植え作業が出来たはずなのに!
一人寂しく作業を営むにつけても別離の悲しみが込みあげてくる新妻。

なお、ここでの田植は苗代で育てた苗を移植したようです。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植えし田を
     刈りて収めむ 倉無(くらなし)の浜 」
                         巻9-1710  伝 柿本人麻呂

( 可愛いあの子が 赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに
 その収穫を刈りとって収めようにも 収めきれる倉がないという
 この倉無の浜よ )

「倉無の浜」という珍しい地名に興を覚えての歌。
収めようにも収めきれる倉がないの意で、それほど稲の豊かに稔る地だと
機知を込めた、土地褒めの通過儀礼。
古代、異郷を旅する時、その土地の神様に敬意を表して祟(たた)りなきよう
歌を奉納して祈ったのです。

人麻呂は九州まで旅をしたのでしょうか。
「万葉集地名歌総覧」(樋口和也著 近代文芸社)によると

「 倉無の浜は大分県中津市竜王町の浜。
  現在、闇無浜(くらなしのはま)神社とよばれる社ある」 そうです。

   「 雨乞に 曇る国司の なみだ哉 」   蕪村

古代、水不足による旱魃は人々の生死に関わる重大事であり、
雨乞いは国司(国守)の大切な仕事の一つとされていました。

749年越中の国で6月(陰暦)下旬から1ヶ月近く雨が降らず
秋の収穫が心配されはじめます。
7月もまもなく終わろうとする頃、空の彼方に雨雲の気配が見られたので
国守、大伴家持は雨乞いの歌を詠って天に祈りました。

「 -  雨降らず 日の重なれば 
  植ゑし田も 蒔きし畑も 
  朝ごとに凋(しぼ)み 枯れゆく 
  そを見れば 心を痛み 
  みどり子の 乳乞ふごとく 
  天つ水  仰(あふ)ぎてぞ 待つ - 
  との曇りあひて 雨も賜はね 」 
                      巻18-4122 大伴家持 (長歌の一部)

「との曇りあひて」: 四方から雲が広がって一面の曇り空になる
          との:一面に
(訳文)

( 雨が降らない日が重なり、
 苗を植えた田も、種を蒔いた畑も
 朝ごとに萎んで枯れてゆく。
 それを見ると、心が痛んで
 幼子が乳を求めるように
 天を振り仰いで恵みの雨を待っている。- -
 どうか一面にかき曇って 雨をお与え下さい )

幸運にも祈祷三日後、家持は雨に恵まれ面目を果たしました。
祈祷には天文学や気象学の知識も必要とされ、国守の仕事も楽ではありません。

もし雨が降らなければ、この人は神に見放されたのだと、部下や領民から
冷たい眼で見られるだけに、必死の思いだったことと思われます。

 「早乙女の 重なり下りし 植田かな」     高濱虚子

田植や雨乞いにかかわる神事は現在もなお各地で継承され、神社の
重要な祭事となっています。
中でも春日大社(奈良)の田植神事は、田の中ではなく、神社の境内の一角で
宮司や巫女たちが笛や打ちものに合わせて舞を奉納する優雅な催しです。

「 早乙女に 早苗さみどり やさしけれ 」    池内友次郎



           万葉集636(田植は神事)完

           次回の更新は6月16日(金)の予定です
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by uqrx74fd | 2017-06-08 16:26 | 生活

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