万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

( 雨、雨 降れ降れ     学友N.Fさん提供 )
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( せっかくのお祝いなのに、、  春日大社 奈良 )
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( 二人で仲良く   海外からの客人か  春日大社参道 )
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( 紫陽花が美しい季節です )
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( 同上 )
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( 雨の長谷寺   本堂から  奈良 )
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(  同上  五重塔 )
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( 紫陽花と僧侶  長谷寺にて  筆者 )
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( 雨の室生寺    奈良 )
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( 雨晴れて   室生寺 )
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万葉集その六百三十七 (梅雨の季節)

日本列島は今や梅雨の季節。
南の沖縄は既に5月半ばからはじまり、関西、関東は6月上旬、
東北は6月中旬、それぞれ約ひと月の間、雨が断続的に降り続きます。

大地を潤し稲や野菜、草木を育てる恵みの雨は、時には洪水や
土砂崩れなどの災害も引き起こす気まぐれもの。
どのように付き合ってゆくのか、大昔から死活上の大問題でした。

梅雨と表記されるのは「梅」の実が黄色く熟れる頃に降る「雨」。
その語源は湿っぽい(多湿)を意味する「つゆ」が本義だそうな。

また、「梅雨」は時候をさし「五月雨」は雨そのものをいう表現。
「さみだれ」の「さ」は神聖な稲にかかわる言葉、あるいは五月(さつき)の「さ」
「みだれ」は「水垂れ」とされています。

またこの時期の長雨を「卯の花腐(くた)し」とも。
盛りの卯の花を腐らせるように降る雨の意です。

「梅雨」が歌語になるのは意外や意外、江戸時代から。
「五月雨」(さみだれ)は平安時代、「卯の花くたし」と「長雨」は万葉集に。

「 卯の花を腐(くた)す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                                  19―4217 大伴家持

( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑が
  いっぱい集まっています。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が
  集まってくれたらいいのになぁ)

水始(みずはな):「はなみず」とも読み水量の増した流れの先端のこと。
ここでの「腐(くた)す」は「腐らす」ではなく「散らす」「だめにする」の意。
後に「五月雨(さみだれ)」の異名となります。

「 谷川に 卯の花腐し ほとばしる 」 高濱虚子

万葉人にとって雨は大して苦にならなかったらしく、ロマンティックな若者は
乙女の赤い裳裾が雨に濡れて、白い素足がチラチラのぞくさまを
想像しながら詠っています。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳の裾(すそ)の ひづつらむ
    今日の小雨に 我れさへ濡れな 」 
                        巻7-1090 作者未詳

( 今日は小雨、いとしいあの子は今頃赤裳の裾を濡らしていることだろう。
 おれも濡れながら行こう、あの子を思い出しながら 。)

作者は旅をしながら故郷に残した いとしい人を目に浮かべています。
あの子はきっと雨に濡れていることであろう。
遠くに離れていても心は一緒、俺様も濡れていこうじゃないか。

「赤裳」:
       腰から下に付ける女性の衣服、
       赤い裾が濡れるさまは男の官能をそそった

「ひづつらむ」: 「泥(ひぢ)打つ」の約で「濡れる」、「泥がかかる」の意

このフレーズは近代でも好まれ「浜辺の歌」の3番でも引用されています。

「   疾風(はやち)たちまち  波を吹き
    赤裳の裾(すそ)ぞ  濡れ漬(ひ)じし
    病みし我は  すでに癒えて
    浜辺の真砂  まなご(愛子)いまは 」
  
                     ( 作詞 林 古渓 作曲 成田為三)

上の歌とは逆に「濡らさないでくれ」と詠う男もいました。

「通るべく 雨はな降りそ 我妹子が
   形見の衣 我(あ)れ下に着(け)り 」 
                         巻7-1091  作者未詳

( 着物の中へ通るほど雨は降らないでくれ。
      いとしいあの子と交換した形見の衣をおれは下に着ているのだから.)

旅する時にお互いの下着を交換するのが当時の習い。
形見とは亡くなった人の記念のものではなく、お互いを思い出す
よすがとなるものです。

それにしてもこの男、旅の間中ずっと下着を脱がずに
着ていたのでしょうかね。

「 ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が
       やどに今夜(こよひ)は 明かしてゆかむ 」 
                               巻6-1040  大伴家持

( 雨よどんどん降り続けるがよい。
      いとしいあの子の家で思う存分夜をあかしてゆこう )

藤原八束の家で宴があり安積皇子と共に招かれた作者が
「雨が降るとはこれ幸い、腰を落ち着けてゆっくり楽しませて戴きますよ」と
謝意を込めて詠ったもの。

八束は藤原房前の第3子、家持の父、旅人と房前が親しかった関係で
子の代になっても親交が続いていたらしく、お互い気心が知れた仲でした。

安積皇子は聖武天皇の子、将来を嘱望されていたが惜しくも
早世された方です。

以下は長谷川櫂氏著「日本人の暦」からです。

『 梅雨は日本人の生活や文化に大きな影響を与えてきました。
  日本人の文化の土台となったのは梅雨だった。
  梅雨がなかったら、それはもっと違ったものになっていたはずです。

  というのは、梅雨のもたらす大量の雨水は大地にしみこみます。
  梅雨が明け、そこに真夏の太陽が照りつけると、水蒸気となって日本列島を
  包み込みます。

  天然の蒸し風呂の中にいるような、この蒸し暑い夏をどうしたら涼しく快適に
  過ごせるのか。これこそ日本人にとって昔からの大問題でした。

  そこでさまざまな工夫がされて生まれたのが、日本人の文化です。
  一言でいうなら、それは「間(ま)」を大事にする文化です。

 物と物、人と人が、べたべたくっつかないようにする十分な「間」をとる。

  切れ目を残す着物の仕立て、さらりとした料理の味付け、
  風通しのいい家づくり、絵画の余白、音楽や芝居の沈黙の部分。
  こうした「間」を重んじる日本の文化を育んだ大きな要素の一つが
  梅雨のもたらす大量の雨水でした。 』 (筑摩書房)

「 日本文化の源泉の一つに梅雨があり 」

なるほど、なるほど。
このような説を唱えられた方は寡聞にして存じませんでした。

「 あふち咲く 外面(そとも)の木陰 露落ちて
              五月晴るる 風わたるなり 」       藤原忠良 新古今和歌集

       外面(そとも):家の外の

高々と伸びて空に枝を広げる栴檀(あふち)の木
梅雨の晴れ間の風が、その薄紫の花を揺らして吹き渡ってゆく。
五月晴れとは梅雨の晴れ間。
清々しい香りが漂ってきそうな気持よい1首です。



万葉集637 (梅雨の季節)完


次回の更新は6月24日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-06-15 18:09 | 自然

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