万葉集その六百四十 ( 七夕・相撲・ナデシコ)

( 護国神社の七夕  仙台 )
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( 優雅な仙台七夕 )
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( 同上 )
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( 平塚七夕 )
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(  同上 )
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( 笹に願いを  同上 )
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( 相撲  国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
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( 大相撲凧  海外向け観光案内所  東京京橋)
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( カワラナデシコ  古くは七夕の花とされ生花の源流となった )
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( 庄司信州作  撫子  万葉の茶花 講談社より )
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万葉集その六百四十 (七夕・相撲・なでしこ)

今回は何やら三題噺めいたお題ですが、それぞれ密接な関係があり、
すべて日本文化の源流をなしているというお話です。

まずは「七夕」。
何故この漢字を「たなばた」と訓むのでしょうか?

遥か遠い古の時代、我国では夏秋の行き会いの時期に遠来のまれびとである神を
迎えるために水辺に棚を掛けて乙女が機織りする風習があり、
精進潔斎して待ち受ける聖女を「棚(たな)機(ばた)女(つめ)」(たなばたつめ)と
よんでいました。

一方、中国では7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語があり、遣唐使(山上憶良?)が帰国後伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

物語のヒロインは片や織姫、こなたは「たなばたつめ」。
二人共、織物にかかわる女性とはなんという偶然の一致。
そこで、万葉人は中国で「七夕」と表記されていた漢字に
「たなばた」という訓みを当てたのです。

次は相撲。
734年、聖武天皇の時代、7月7日に相撲を奉納し、その夕方、文人に
七夕の歌を詠ませる行事が定着していました。
相撲と七夕の節会を同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力と技を競ったのが
始まりとされ(日本書紀)、以降、宮中で行われた相撲節会(すまいせちえ)は
源平争乱で廃絶になる1174年まで続けられました。
( ただし824年、平城天皇が7月7日に崩御されたため以後7月下旬に変更)
今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲をとる歌」はありませんが相撲使の役人が諸国から
力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者大伴熊凝(くまごり)が急病で
亡くなり、それを悼んで本人になり代わって詠った歌が伝えられています。
長い説明文の序と6首の歌があり、相撲史を知る上での貴重な記録です。

「 出(い)でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日(けふ)今日と
     我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
                                巻5-890 山上憶良

( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら今日こそはと私の帰りを
  待っておられるであろう父母よ-- あぁ・・・)

最後に生花。
我国の7月7日の七夕節会の記録は持統天皇の691年が最も古いとされており
公卿以下に宴を賜り、朝服を下される宮廷儀礼でした。

平安時代になると「花合わせ」といわれる「ナデシコ(撫子)」の花の
優劣を競い合う行事も七夕の日に行われるようになり、
櫻井満氏によると
『 この「ナデシコ合わせ」が後に「秋の七草合わせになり」五節会に
結びついてハレの花になり、生花への道に進むことになった。』のだそうです。
                    ( 節会の古典要約 雄山閣) 
        筆者注: 五節会 
                 1月1日(正月)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、
                 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)

何故ナデシコなのか定かではありませんが。その可憐で美しく凛とした姿が
織姫を想像させ「七夕の花」として特別視されたのでしょうか。
日本が誇るべき生花文化の源流は七夕節会にありと考えられているのです。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 
     君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立って 私が恋焦がれているあの方がこちらの方へ
 いよいよお出でになるらしい。
 さぁさぁ、私も衣の紐を解いてお待ちいたしましょう。)

724年、作者が東宮(のちの聖武天皇)に命じられ詠った12首のうちの一.
教育掛(侍講)として唐の文化の説明も交えながら織姫の立場で詠ったものと
思われます。

憶良の歌は天空の世界の物語ではなく、人間界の現実のものとして詠っており
後の人々に多大な影響を与えました。
人々は自身が牽牛、織姫の立場になって思いのたけを詠う。
七夕はいわば愛を告白する日、共寝する日だったのです。
だからこそ135首もの多くの歌が詠われたのでしょう。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                            巻10-2029  柿本人麻呂歌集

( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

人麻呂歌集には38首の七夕歌があり、憶良にはじまった現世表現様式を
確立させた感があります。
作者が銀河を眺めながら織姫、牽牛の逢瀬を想像し、
「俺もそろそろ行かなくては」と呟いているのかもしれません。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                         巻10-2031  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7日の1夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに
 夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく二人は逢うことが出来たが、時はあっという間に過ぎて行く。
1年に1度の逢瀬は、この上もない幸せ。
だが、のちに長い長い苦しみが待っている。
あぁ、時は止まらないのか。

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                      巻10-2050 作者未詳

( 私たちの寝床を払い清めたとしても、明日からあなたと共寝することができずに 
ただ、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。)

七夕、相撲、撫子。
日本文化の源流には山上憶良がすべてかかわっています。
秋の七草の歌を初めて詠んだのも憶良でした。

 「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                          巻8-1537 山上憶良

 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                             巻8-1538  山上憶良

ナデシコが七夕の花とされたのは、この歌とかかわりがあった
からなのでしょうか。

   「 木曽山に 流れ入りけり 天の川 」 一茶

貴族の行事であった「七夕節会」は、さらに中国古来の行事である、
「乞巧奠(きこうでん)」(女子が機織り等の手芸巧みになる事を祈る行事)と
結び付けられ、機織、裁縫、手芸、歌道、書道の上達を祈る行事として
定着してゆきました。
そして、次第に拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事に変わってゆき、
江戸時代、庶民の間にも手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり現在に至っています。

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は陰暦7月7日。
初秋の行事です。
太陽暦の7月7日より約1ヵ月後のこの時期になると、夜空が澄みはじめ
星もさやかに見えるのです。

           「 荒海や 佐渡に橫たふ 天の川 」  芭蕉




万葉集640 (七夕・相撲・ナデシコ) 完


次回の更新は 7月14日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-07-06 17:26 | 生活

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