人気ブログランキング | 話題のタグを見る

万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

( オオムギ    奈良万葉植物園 )
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16344935.jpg

( コムギ     同上 )
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16343432.jpg

( キビ      市川万葉植物園   千葉)
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16341725.jpg

( アワ      同上)
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16335879.jpg

( ヒエ      同上 )
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16334636.jpg

( 赤花そば  栗橋  埼玉県 久喜市 )
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_16333117.jpg

( 高層ビルの前で堂々たる風格、 老舗砂場の発祥地は大阪  虎の門 東京 )
万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)_b0162728_1633986.jpg

      万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

古代の五穀は「 粟(アワ)、稗(ヒエ)、稲、麦、豆 」(日本書紀)とされていますが、
庶民の主食は「 麦、粟(アワ)、黍(稷:キビ)、稗、蕎麦 」。
米や豆は税として朝廷に収められ、大多数の人たちの口に入らなかったのです。

万葉集では蕎麦以外すべて詠われていますが、苦しい農作業にもかかわらず
いずれも楽しいものばかり、まずは麦からです。

大麦の原産地はカピス海から地中海の沿岸、小麦は西アジアとされており
弥生時代には早くも日本に伝わっていたと推定されています。
723年、朝廷は飢饉に備えて麦などの雑穀の栽培を奨励する太政官府を
発布しており、「廣野 卓著  食の万葉集 (中公新書) 」によると

「 オオムギはそのまま粒食し、コムギは主として粉にして、
 餅(団子)や煎餅に加工したので用途が広く、時代と共に多用された」
 そうです。

「 馬柵(うませ)越しに 麦食(は)む 駒の 罵(の)らゆれど
       なほし恋しく 思ひかねつも 」 
                              巻12-3096 作者未詳

( 馬柵越しに麦を食べている馬が怒られているように
     私もあの子の母親から、もう娘に会うなと怒鳴りつけられてしまった。
     でも、やっぱり恋しくて恋しくて--。
     そう簡単に忘れられるものか! )

通い婚の時代、母親は子と同居していたため家庭内の発言力が強く、
結婚や交際は自身の眼鏡にかなった男しか許可しませんでした。
男は女の家の前で呼び出そうと声をかけたら母親が出てきて
怒鳴られたのでしょう。
自分を馬に譬えるとは、なかなかユーモアセンスがある男です。

「 梨 棗(なつめ) 黍(きみ)に 粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の
      後(のち)も逢はむと 葵花(あふひはな)咲く 」
                             巻16-3834  作者未詳

( 梨が生り棗(なつめ)や黍(きび)、さらに粟(あわ)も次々と実り、
 時節が移っているのに、私は一向にあの方に逢えません。
 でも、延び続ける葛の先のように、
  「後々にでも逢うことが出来ますよ」
 と葵(あふひ)の花が咲いています。 )

言葉遊びの戯れ歌。
宴会で梨、棗(なつめ)、黍(きび)、粟(あわ)、葛、葵を詠みこめと
囃されたものと思われます。
これらは、すべて食用とされる植物ばかりで

「 季節を経て果物や作物が次から次へと収穫の日を迎えているのに、
  長い間愛しい人に逢えないでいる。
  でも葛の蔓先が長く這うように、長い日を経た後でも、きっと逢えるよと
  葵(あふひ)の花が咲いています。」

つまり、「あふひ(葵)」を「逢う日」に掛けて見事な恋歌に仕立てたのです。

古代中国で五穀の筆頭に「キビ」を置き、重要視していたことが
「社稷(しゃしょく」という言葉に窺われます。

廣野 卓氏によると

『「社」は「土地」を意味し、「稷」は「キビ」、
従って「社稷を守る」という事は国を維持すること。
これは古代中国の歴史は黄河流域を中心として展開したため、
その地帯は水田耕作よりも畑作に適しており、必然的に陸作のキビが重視された。

  キビにはタンパク質やカルシュウム、鉄、ビタミンB2をふくみ、
最近注目されている食物繊維も多く、必然的にわが国でも多く栽培された 』
                                ( 食の万葉集  中公新書 要約 ) 
なお、上記歌の葵は冬葵(フユアオイ)とされ、若葉は食用、
実は利尿に効ありとされています。

「 左奈都良(さなつら)の 岡の粟蒔き  愛(かな)しきが
    駒は食(た)ぐとも 我(わ)は そとも追(は)じ 」
                                巻14-3451 作者未詳

( ふさふさと実る粟を楽しみに左奈都良の岡に種を蒔いています。
 でもその粟があのお方の馬に食べられようともかまいませんわ。
 いとしいお方の馬ですもの。決して追い払ったりはしません )

左奈都良:常陸説など諸説あるが未詳   
「そ とも追(は)じ」 :「そ」は馬を追う声

可愛い娘が憧れの人を想いながら粟の種蒔きをしている場面です。
房々とした実がなる時節を思い描いているところから恋の成就と豊作を
祈ったのでしょうか。

粟の原産地はインド北部から中央アジア。
ユーラシア大陸で栽培化されたものが中国に伝播したのが紀元前2700年頃で、
我国へは縄文時代に朝鮮を経て入り、稲が伝来するまで主食とされていました。

715年元正天皇は「粟は長年の間人々の生活を支える中心であり、
色々な穀物の中でも最もすぐれたものである。
納税に粟を納めたいというものがおればこれをゆるせ」
と命じています。(続日本紀)

粟は痩せた土地や寒冷地でも良く育ち、澱粉、蛋白質、ビタミンB1,B2を含み、
しかも、保存性がよいので明治40年頃までは20万ヘクタール以上の栽培面積を
誇っていましたが、稲作技術の向上により米の生産量が増えると急速に減少し、
現在では九州と東北地方の一部でわずかに生産されているのみです。

なお、粟には「うるち種」と「もち種」があり、「うるち種」は、
飯に混ぜて炊いたり、粟おこしに、「もち種」は、だんご、粟餅、粟饅頭、
水飴、泡盛(酒)などに使い分けられています。

因みに世界最古の麺は中国青海省 喇家(らつか)遺跡で出土した
「アワ(粟)で作った麺」で今から4000年前のものとか。

「 打つ田に 稗(ひえ)はし あまた ありといへど
    選(え)らえし我ぞ 夜をひとり寝(ぬ)る 」 
                         巻11-2476 作者未詳

( 田んぼに稗はまだたくさん残っているというのに
 よりによって抜き棄てられた俺は、夜な夜な一人寝だわい )

もてない男が「おれは稗より劣る」とひがんでいます。
というのは、稲の間に稗が混じっていると米の味が落ちるので、
抜き棄てられていたのです。
尤も貧農は棄てずに食べていたので、作者はそれなりの余裕がある男だった?

『 ヒエの原産地は東アフリカ、インド説があり、野ビエと水ビエから栽培種に
  改良されたといわれ、現在インドにはヒエを主食とする地方があり、
  粥にしたり、粉を団子にしたり、薄くのばして焼くなどと調理されているが
  万葉時代のヒエ食を推測する参考になる。

主な栄養成分は、ビタミンB1が白米の半量である以外は、ほとんどの
成分が米より1.5~2倍、カルシュウム、鉄の含量が2倍~3倍あるので
調理法を研究すれば日本人に不足しがちな栄養素の補給源として有効な穀物 』
だそうです。  ( 廣野卓 同 要約 )

   「 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 」    芭蕉

 蕎麦の花は秋の季語。
「 折角お出でいただいたのに蕎麦はまだ花の状態で何もご馳走ができません。
 蕎麦を打っておもてなししたいところですのに。」
と作者の挨拶句。

蕎麦も古くから栽培されており、約3000年前といわれる縄文晩期の
埼玉県真福寺遺跡や弥生時代の静岡県登呂、韮山山木遺跡からソバの実の
出土例があり、また722年、元正天皇詔に

「 全国の国司に命じて人民に勧め割り当てて、晩稲(おくて) そば、大麦、小麦を
  植えさせその収穫を蓄え、おさめて凶年に備えさせよ」 とあります。

さらに、宮本常一氏は
『 平城宮から出土した木簡(租税の荷札)に「波奈作久」(はなさく)とあり、 
  この「ハナサク」がソバであろう。
  ソバの古名はソバムギだと図鑑は記しているが別名ハナサクと
  いっていたのではないか 』      ( 日本文化の形成 講談社学術文庫 ) 

  と述べておられ、当時そば粉を湯で溶いて「そばがき」のようにして食べて
  いたようです。
  にもかかわらず、万葉集に歌が1首もないのは誠に残念至極。

   「 古を 好む男の 蕎麦湯かな 」      村上鬼城

蕎麦閑話 ( 楠木憲吉 たべもの歳時記 おうふう より)

 蕎麦の「蕎」は「キョウ」と読み「ハヤトグサ」という薬草であり
 「タカトウダイ」(ヒルガオ)の古名。
 ヒルガオに似た葉をもち、麦のような実を付けるので
 「蕎麦」という字が生れた。
 タデ科のソバ属でありながら、麦という名が付いたのは粉にすると
 麦と変わらないところからきたもの。

 蕎麦の字が初めて登場するのは「続日本紀」(元正天皇養老6年:722年7月の条)で
 「蕎麦及大小麦」とある。

 「そばがき」が現在のソバの形状になるのは江戸時代からで
 江戸にはすでに4000件近くの蕎麦屋があった。

 蕎麦屋には「更科」、「藪」、「砂場」の3系列がある。

 「更科」は寛政の初めごろに初代の布屋清右衛門が江戸麻布永坂に
 「信州更科蕎麦処」を始めたのがその起こり。
 「布屋」はその名が示すように、もとは呉服屋で信州更科郡保科出身の
 晒し布の行商人であった。
 元禄期に領主の保科兵部少輔について江戸にのぼり、江戸屋敷の
 麻布十番の長屋に住んでいたが、蕎麦打ちの特技を買われ、領主のすすめで
 「そばや」になったとのこと。
 「更科」という屋号は、故郷の更級郡の「更」と主家、保科の「科」を
 合わせたものである。

 「藪」は本郷団子坂の藪のなかにあった「つたや」のニックネーム「やぶ」から
 きたものとされる。

 「砂場」は、もと大阪のそば屋であった。
 新町遊郭の付近を砂場といい、新町疎開のための砂利置場であったのであろう。
 この砂場一党が江戸へ進出して、最初麹町7丁目に開業し、後に芝魚藍坂に
 移り、現在は三ノ輪にも系類が残っている。
 「本石町砂場」や「芝琴平町砂場」はそこから出たものである。

 俗に「更科は白米の味、藪は七分搗きの味」といわれる。
 つゆも「藪」の方が濃い目だ。

             万葉集656 (庶民の五穀 )完



           次回の更新は11月3日(金)の予定です。

by uqrx74fd | 2017-10-26 16:48 | 植物

<< 万葉集その六百五十七 (万葉人...    万葉集その六百五十五 (桑の木) >>