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万葉集遊楽その三百七十一(白つつじ)

( 白つつじ 学友 n.f 君提供)

( 根津神社にて )

( 同上 )

( 六義園にて )


「山の上の 躑躅の原は 莟(つぼみ)なり
     山ほととぎす 鳴くときにして 」 島木赤彦


我国自生の植物である「つつじ」は種類が多く古くは30~50種、江戸時代末期には
盆栽の流行により500種類を超えたとも言われています。(現在は300~350?)
万葉集では9首のつつじ、即ち白つつじ(3首)、岩つつじ(2首)、丹つつじ(1首)、
単なる「つつじ」(3首)が詠われていますが、現在の「どの「つつじ」に当たるのか」を
特定するのは極めて難しいようです。
古代は野性のものばかりでしょうから、「ヤマツツジ」とする説が多く、
白つつじは「ドウダンツツジ」あるいは「シロヤシオ」(白八入)とする説もあります。

「八入」(やしお)は、何度も色を重ねるという意味を持つ染色用語ですが、
「にほえ娘子(おとめ)」と詠われているイメージには小さな「ドウダン」よりも
大ぶりな花を咲かせる「シロヤシオ」の方がふさわしいように思われます。

「 風早(かざはや)の 三穂の浦みの 白つつじ
   見れどもさぶし なき人思へば 」 
                        巻3-434 河辺宮人

( 風が激しく吹く三穂の浦に咲く美しい白つつじ。
 この地で亡くなった女性のことを思うと、いくら見ても心がなごまないよ。)

三穂の浦は和歌山県日高郡美浜町三尾の海岸とされています。
711年、作者は旅の途中、かって美しい娘が溺死して白つつじに
変身したと伝えられている故地を訪ねました。

今も変わらずに咲いている白つつじを見ながら古に思いを馳せている作者。
花の白さと幻想が一体となり、さらに清純な乙女の面影を連想させる一首です。


「 をみなへし 佐紀野に生(お)ふる 白(しら)つつじ
    知らぬこと以(も)ち 言はれし我が背 」
                           巻10-1905 作者未詳


( おみなえしが咲きにおうという佐紀野に生い茂る白つつじではないが
 自身がつゆ知らぬことで、人に言い騒がれたあの方よ )

佐紀野は平城京北あたりの野 
「をみなへし」は「咲く」と「佐紀(さき)」に懸けた枕詞で、
「白つつじ」も「「知らぬ」の「しら」を掛けています。

お互い清い関係なのに周囲からあれこれと噂を立てられている二人。
「あの方はきっと迷惑しているでしょうね」と相手を気遣っている可憐な女性です。
「我が背」と言うからにはその乙女は心の奥底で男に恋心を抱いているのでしょう。

なお、「佐紀野」を「咲く野」と訓む説もあり、この場合は固有名詞ではなく
単に「おみなえしが咲く野の白つつじ」と「知らぬ」に掛かる序になります。

「 白つつじ影かと見えるうす紅の
      ほのかな色に 花々はにほふ 」 片山廣子


『 白つつじは朝の花が美しい。
  咲きたての花に近く眼を寄せてみると、ほのかな紅が芯の深みにひそんでいることがある。
 「影かと見える」という、あえかな色の捉え方も、白つつじのこまやかな
 花の色の、光りへの反応をよくあらわしている。
 咲きたてのつつじの花のつややかな花びらの可憐さを、間近にみるのもじつに美しいのである 。』   
                             ( 馬場あき子 花のうた紀行 新書館より )

「傘ふかう さして君ゆく おちかたは
        うすむらさきに  つつじ花咲く 」  与謝野晶子


ツツジ類は花期が長く、3月にミツバツツジ、4月アカヤシオ、
5月ヤマツツジ、ミヤマキリシマ、オオムラサキ、クルメツツジと
華やかな花の競演を続け、6月のサツキで締めくくります。

( シロヤシオ yahoo画像検索より )

( ドウダンツツジ 同上 )



# by uqrx74fd | 2012-05-13 18:20 | 植物 | Comments(0)

万葉集その三百七十(岩つつじ)

( ミツバツツジ  新宿御苑 にて)

( 学友  n.f 君提供 )

( 葛城山 yahoo画像検索より )

( 同上 )


 「 葛城の神の鏡の春田かな 」 松本たかし

大和盆地の西南に青垣をなして連なる二上山、葛城山、金剛山の峰々は、古くは共に
葛城山と総称され、修験の霊場であるとともに古代豪族、鴨、葛城氏の本拠地でした。

今から40年ほど前、1970年のことです。
当時の葛城山は人間の背丈を越すような大きな笹(葛城笹)に覆われていました。
その笹が、ある日突然一斉に開花して実を結び、その後完全に枯れてしまったのです。
百年に一度と言われている出来事だそうですか、ところがなんと! 
笹の日蔭になっていたヤマツツジの灌木が太陽の光を受けて急成長し、たちまち
山一面のツツジの園が出現したというのです。
地元の人たちはその木を大切に育て、今や「一目百万株」といわれるツツジが群生し、
ヤマツツジ、コバノミツバツツジ、ミヤコツツジ、レンゲツツジ、モチツツジなどが
色とりどりに全山を覆いつくしています。

この出来事は遠い昔、ツツジが生い茂っていた山が笹に占領され、再び復活した
ものでしょうが、日蔭になりながらも細々と長い年月を生き延びた強靭な生命力には
驚かされます。
万葉時代の人たちも葛城山越えの旅をしながらこのツツジを愛でていたのでしょうか。

「 山越えて 遠津の浜の 岩つつじ
      我が来るまでに 含(ふふ)みてあり待て 」
           巻7-1188 作者不詳 (既出)


( 山を越えて遠く行くという「遠」の名がある遠津の浜。
  そこに美しく咲く岩躑躅よ。
  私が帰ってくるまで、蕾のままでずっと待っていておくれ )

山陽道海路の旅の歌ですが、遠津の浜は所在不明です。
「岩つつじ」は岩と岩との間に咲いているヤマツツジと思われます。
「あり待て」: 今の状態のままで待て

作者は旅の途中、岩間に蕾を膨らませているツツジを見つけ、戻るまで
散るなと願ったものですが、寓意が含まれており、土地のうら若き女性に
一目ぼれして、「他人のものになるなよ、処女のままで待っていてくれ」と詠ったようです。
伊藤博氏は
「 旅ゆく地や人へ気づかいを示した歌で、このように詠う事でこの地へ
一刻も早く帰って来ることを願い、かつ約束をしているのである。」(万葉集釋注四) 
とも述べておられます。

「 岩つづじ 折り持てぞ見る 背子が着し 
     くれなゐ染の 衣(きぬ)に似たれば 」 和泉式部


( 岩つつじを手折って じっと見つめています。
 わたしの恋しい人が着ていた紅染めの衣の色にとてもよく似ているので )

「紅染めの衣」は公家の男女装束の内着である五位の衵(あこめ=下着)の色ですが、
身分の高い男性でも下着としての着用なら珍しいことではなかったようです。
恋人と家でくつろいでいる時の姿を思い出しているのでしょう。
紅の下衣の男とは式部らしい濃艶な一首です。

以下は「加藤 廣 著 秀吉の枷 文春文庫」からです。

『 「ご無礼して、かく数寄者の風姿にて、海辺を回り道して帰らせて戴きましょうかな。
  万葉の躑躅を詠んだ歌など口ずさみながら。
  さて、さて、歌は何にしょうぞ 」
わざとらしく,小首を傾けて訊ねるような様子が挑戦的に見えた。
だが生憎秀吉の歌の薀蓄は古今集、新古今まで。
万葉集まで遡った歌の知識がなかった。
第一、万葉集に躑躅の歌があることすら知らなかった。
くやしいが黙っているしかない。
義昭は、これみよがしに朗々と口ずさみ始めた。

「 みなつたう いそのうらみの いわつつじ
      もくさくみちを またみなむかも 」

秀吉は目をつぶって歌を諳んじておくだけで精一杯。
歌の唐文字が解らないからその意味もとれない。
義昭が待たせている毛利の乗物に向かって去る後姿を、
ただ呆然と見送るだけだった。 
                         (註:義昭=足利義昭室町幕府15代将軍) 』        

「 水伝う 磯の浦みの 岩つつじ
           茂(も)く咲く道を またも見むかも 」  
                        巻2-185 作者未詳(既出)


( 水が伝い流れる池のほとり。岩と岩との間に、美しいツツジが咲き乱れています。
  これからは、この懐かしい道を再び見ることがあるだろうか? 
  もうないだろうなぁ)

この歌は689年 草壁皇子(父:天武 母:持統天皇)が28歳の若さで薨じ、
その一回忌に皇子の側近たちが詠った追悼の一首です。
明日香の皇子の宮所(島の宮)には素晴らしい庭園があり、四季折々に花が
咲き乱れ、池には水鳥が遊び、皇子存命中華やかな宴が催されていたそうです。
「磯の浦見の岩つつじ」とは池を海に見立てて、水際が湾曲したところの岩間に
植えられているつつじ花を詠ったものと思われます。
優雅で絵画的な風景ですが往時の賑やかな様子を思い浮かべるにつけ、
歌を聞いていた人たちは一層寂しさが募ってきたことでしょう。

「 松刈りし 山のひろさや 躑躅咲く 」 飯田蛇笏

# by uqrx74fd | 2012-05-05 09:33 | 植物 | Comments(0)

万葉集その三百六十九 (つつじ花 にほえ乙女)

( 桜花 栄え乙女 新宿御苑の八重桜 )

( つつじ花 にほえ乙女  笠間にて )

 ( 新宿御苑 )

( 同上 )

( 奈良 二月堂近辺 )

『 つつじが咲くと初夏を感じる。
  庭には小ぶりな赤色の花と、紅むらさきの中型と、やや大きい紅白の絞りのつつじが咲く。
  誰がいつ植えてくれたのか思い出すこともできないまで、すっかり庭に馴染んで、
  定番の季節の花になっている。
  つつじが咲くと、そのほとりにしゃがんで、「つつじ花 匂え乙女」と囁いてやる。
  花も私もちょっとうれしい。
  「万葉集」の昔から、それは「さくら花 栄え乙女」と一対に賞(め)でられてきた
  花乙女なのだ。』
                  ( 馬場あき子 花のうた紀行 新書館より)

「 物思(ものも)はず 道行く行くも 
  青山を 振り放(さ)け見れば
  つつじ花  にほえ娘子(をとめ)  
  桜花(さくらばな)  栄え娘子
  汝(な)れをぞも  我れに寄すといふ  
  我れをぞも  汝れに寄すといふ
  汝はいかに思ふ

  思へこそ 年の八年(やとせ)を 
  切り髪の よち子を過ぎ 
  橘の ほつ枝(え)をすぐり 
  この川の 下にも長く
  汝が心待て 」
           巻13-3309 柿本人麻呂歌集 (一部既出)

(訳文)
( 男: 
  「何の物思いもせずに道を行きながら、
  緑したたり茂る山を振り仰いでみると、
  目に入るのは色美しいつつじ花 その花のように匂ひやかな乙女よ、
  咲き誇っている桜花、 その花のように照り輝く乙女よ、
  そんなお前さんを世間では私といい仲だと噂しているようだ、
  そんな私をお前さんといい仲だと噂しているそうだ。
  当のおまえさんはどう思っているかね。 」
(女: 
  「憎からず思っているからこそ、この長い年月を、
  あの切り髪の年ごろを過ごし、同じ年頃の子よりも背丈が伸び
  橘の枝先を越えるようになった今の今まで、
  この川の底よりも深く、心の奥で長い間
  お前さんの気持ちが私のほうに向くまで待っていたのに。 」 )

(語句解釈) 

「物思はず」無心に 
「道行く行くも」道を行きながら
「寄す」 心を寄せていると人が噂する
「思へこそ」 貴方を想えばこそ
「切り髪」 肩のあたりで切りそろえる少女の髪型
「よち子」原文「吾同子」 自分と同じ年頃の若い子 
「ほつ枝」 秀(ほ)つ枝 枝振りがよい 
「すぐり」 過ぐり 背丈が枝を超え

この歌は問答歌とされており、「汝はいかに思ふ」までが男の問いかけ
「思へこそ」からは「このようなことを今さら聞くのは心外だ」という
気持ちがこもる乙女の答えです。
また、男の歌の「山」に対して女は「川」となっており、
「人麻呂の表現に多い対句(伊藤博)」とも指摘されています。

今日、「匂う」という動詞は嗅覚に関する語として用いられていますが、元々は
内面の奥に隠れているものが何かに触発されて表面に美しく映え出たさまをいいました。
その語源は「丹」(に)「穂」(ほ:秀)「生」(ふ)で、鉄分を含む丹土が高熱で焼かれて
鮮やかな朱色に変身することにあるとされています。
赤や紫の美を讃える以外に「白妙に にほふ」と白色を賛美する表現もあり、
女性の美しさ、衣装、自然、季節の花々などあらゆるものを褒め称える言葉として
万葉集で75例もみられる慣用句です。

また、娘子(おとめ)は原文で「遥越賣」となっていますが、一般的には
「未通女」と表示されることが多く、清純な処女を暗示しています。

「 つつじ花 にほえ娘子(をとめ) 」

犬養孝氏は 「ツツジのように美しいおとめではなく、つつじの花の美が、
そのまま、かぐわしいおとめの美とかさなっているのだ」(万葉12か月 新潮社) 
と述べておられます。
まさに瑞々しく、輝くような美貌の乙女が彷彿される一首であり、調べ美しく
多くの人たちに歌い継がれたことでありましょう。

 「 吾子(あこ)の瞳(め)に 緋つつじ宿る むらさきに」 中村草田男


( 新宿御苑 )

# by uqrx74fd | 2012-04-28 18:18 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百六十八(谷ぐく=ヒキガエル)

( 吉野山の薬屋で)

( 鏡背にみる月の世界 中央に蛙  中西進 古代日本人・心の宇宙 NHKライブラリー)

( 山の辺の道  玄賓庵にて)

( 自来也 yahoo画像検索より )

「谷ぐく」とはヒキガエル、いわゆるガマの古名で、「谷間を潜(くく)り渡る」
あるいは「谷間の陰湿地に住んでククと鳴く」ことに由来するとも言われています。
早春の2月頃、冬眠から覚めて交尾し、ひも状の寒天のような卵塊を生んだ後、
再び冬眠に入り初夏にモコモコと地上に出てきますが、昼間は土石の中に隠れ、
夜になると食用の昆虫などを求めて活動し、中には鼠を捕食する大きなものも
いるそうです。

そのユーモラスな表情の中に王者の風格さえ感じられ、万葉集では深い意味をもつ
両生類として長歌二首に登場しています。

「 -  この照らす 日月の下は 
  天雲(あまぐも)の 向伏す(むかぶす)極み 
  谷ぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ - 」
             巻5-800 (長歌の一部) 山上憶良


( - この月日を照らす下は
  天雲のたなびく果て 
  蟇(ひきがえる)の這い回る果てまで
  大君が治められている 秀(すぐ)れた国なのだ - ) (5-800)

「きこしをす」 は「きこしめす」でお治めになる。
この歌は父母に孝養を尽くすことを忘れ妻子まで捨てて、自ら「世俗に背く先生」と
称して山野を浮浪している民に反省を求めた歌です。
当時、そのような人が多く社会問題になっていたらしく、この歌に続く短歌で
「 天への道のりは遠いのだ。
  私のいう道理を認めて、素直に帰り家業に励め」と
  聖の真似事などせず、普段の生活に戻れと諭しています。

「 - 山彦の 答へむ極み 
    谷ぐくの  さ渡る極み
    国形(くにかた)を 見したまひて 
    冬こもり 春さりゆかば 
    飛ぶ鳥の  早く来まさね  」
                      巻6-971 (長歌の一部) 高橋虫麻呂


( - 山彦のこだまするかぎり
   ヒキガエルの這い廻るかぎり
   国のありさまをご覧になって
   冬木が芽吹く春になったら
   空飛ぶ鳥のように 早くお帰り下さい。 ) (6-971)

藤原宇合が対馬、壱岐を含む九州全土の軍事を監督する「西海節度使」に
任じられた時の送別歌です。

憶良の歌共々「谷ぐくのさ渡るきわみ」すなわち「ヒキガエルが地上を這い渡って
行く隅々まで」と、空間のこの上ない広さを示す表現が使われていますが、
鈍重なヒキガエルがなぜそのように詠われたのか? 
さらに「さ渡る」と神聖を表す「さ」という敬称がなぜ用いられたのでしょうか?

伊藤博氏は友人の話として
『 ヒキガエルは一定の個所に棲息していて、そこを基地にしつつ、谷から谷へ、
  野から野へ、ほとんど現在いう一郡程度の広範囲を這い回る習性を持つと
  いうのである。
  幼年時代、大きなガマガエルに赤い紐をつけて放置しておいたら2,3日後
  2㎞離れた村はずれで奇しくも再会した。
  しかしそれにしても,油の筋を地上につけて谷グクのノタウチが一郡に及ぶとは
  つゆ知らぬことであった。
  万葉びとは一体どのようにして谷グクの生態を知ったのであろうか。
  万葉びとの物を見る眼の深さや確かさに、今さらながら驚嘆せずにはいられない 』
と述べておられます。  (万葉のいのち はなわ新書より要約 )

今一つの「さ」という敬称です。
中西進氏は
『 冬眠してまた姿をあらわすことは、死と再生の実修者としてイメージされたらしい。
  そもそもヒキともガマともよぶこの動物は和名がヒキ、漢名がガマで、ヒキとは
  日招(お)き、つまり太陽を招く動物だと考えられた名前である。
  それも太陽の力が 強くなる春に地上に姿をあらわすから、逆にヒキの力によって
  太陽が復活すると考えたのであろう。 (万葉時代の日本人 潮出版社) 』

いささか強引な説ですが下記の話は説得力があります。

 『 中国の伝説だが、月の世界を描いた鏡の裏の中央に蛙、右上に桂の木、
   右下は杵で薬をねっているウサギ、左上は天女に桃、左下の池に2匹の蛙
   こうした図像はすべて不老不死をかたどったもので、もちろん月が死と生を
   繰り返すからです。
  その中の一つとして登場するのがカエルですから、やはりカエルの性格の中心が
  死と再生-冬眠にあったことになります。 (添付写真ご参照) 』
                   ( 古代日本人 心の宇宙 NHKライブラリーより要約 )

上記の話をまとめると、古代の人はヒキガエルが広範囲に這い回って活動していることを
子細に観察した上、冬眠を生命の再生、すなわち神のなせる業と考え
「谷ぐくの さ渡る極み」と表現したのです。

たった一行の歌の中にも古代人の限りなく厚い信仰と鋭い洞察力が込められている一例です。

「見る限り 青野ゆたかに起き伏せば
    水の中にて ひきがへる鳴く 」 斎藤茂吉


 「 ヒキガエルは大型で長い舌端を飛ばせてかなり離れた位置にいる昆虫などを
  捕食するため、引きよせるものとして「引き」とよばれたという。
  動作は鈍重で姿が醜怪な上に、背にある疣(いぼ)から有毒な粘液を分泌し、
  これを捕食しょうとする蛇、イタチ、猫などを撃退する。
  これを神秘とする人間が、ガマとよんで怪物の一つと考えるようになり、
  近世の怪談や小説にも取り入れられるようになった。
  その分泌液からは心臓の作用を刺激強化する蟾酥(せんそ)という白色の薬品が製される。
  これを主成分とするのが俗にいう「ガマの油」で切傷や腫れ物に
  効ありとされる漢方薬である。
  その路傍における効能の口上は大道芸の一つとして、江戸時代から
  明治大正期までよく耳にするものであった。」 
                      ( 角海 武 万葉の動物に寄せて 自家出版)

ガマの呼称は想像上の怪物。
歌舞伎などで自来也(児来也)が上演され、宮沢賢治は詩を作り、小説でも
「かえるくん東京をすくう」(村上春樹著 神の子どのたちはみな踊る所収 新潮文庫) 、
さらに、忍者コミックなどにも登場する人気者です。

「 雲を吐く 口つきしたり 引蟇(ひきがへる) 」  一茶

番外編

「 宮沢賢治 蛙のゴム靴 」(一部抜粋)

『 一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峰を見ることが大すきです。- -
  眺めても眺めても厭(あ)きないのです。
  そのわけは雲のみねといふものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)てゐますし、
  それから春の蛙の卵に似てゐます。
  それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処を、蛙どもは雲見をやります。

  「 どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
  「うん。 うすい金色だね。 永遠の命を思はせるね。」
  「実に僕たちの理想だね。」

  雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。
  ペネタ形といふのは、蛙どもでは大へん高尚なものになってゐます。
  平たいことなのです。 』
( 吉野山にて )


# by uqrx74fd | 2012-04-22 08:28 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百六十七(枳殻:カラタチ)

( カラタチの刺  市川万葉植物園 )

( カラタチの花  yahoo画像検索より )

( 同上 )

( カラタチの実  同上 )


「 からたちの 固くかぐろき刺(とげ)の根に
    黄色の芽あり 春たけにけり 」  木下利玄

                      (かぐろき=か黒き 「か」は接頭語)

カラタチは「唐橘:カラタチバナ」の略称でミカン科カラタチ属の落葉低木です。
8世紀ごろ遣唐使が中国から薬用として持ち帰ったものといわれており、
我国に自生する橘とは別種のものとされています。

春になると、葉に先立って直径3㎝位の白い花を開いて芳しい香りを漂わせ、
新緑の初夏にはアゲハチョウ類が産卵のために葉を求めて集まります。
花後、緑色の円い果実をつけて秋には黄色く熟しますが、酸味が強く種子が多いため
食用にはなりません。
漢方では未熟果を輪切りにして乾燥したものを枳実(きじつ)といい、健胃、整腸、
利尿などに用いているそうです。
また古くから枝や棘を活用して生垣に、近年ではミカン類の台木として重要な役割を
担っています。

万葉集でのカラタチは一首しかありませんが、それも極めて特異な歌です。

「 からたちの 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ
    屎(くそ)遠くまれ 櫛(くし)つくる刀自(とじ) 」
              巻16-3832  忌部首(いむべのおびと)


( 櫛作りのおばさんよ、俺様はこれからカラタチの茨を取り除いて、そこに
 倉を建てようと思っているんだよ。
 だからさぁ、屎は遠くでやってくれよな 。)

まぁなんと!万葉集に屎(くそ)と言う上品なからざる言葉が飛び出してきました。
この歌は倉つくりに従事している下級官人が夜の宴会で数種の物の名前を歌に
詠みこめと催促され「カラタチ」「茨」「倉」「屎」「櫛」を詠みこんだ
「物名歌」といわれるものです。

指名された人は即座にひらめく機知とアッと驚かせる意外性が要求されます。
とはいえ、宴席の人々もさすがに「屎」には驚き、呆れたことでしょう。

当時、外で作業中に尿意を催したときは、辺りかまわず穴を掘って
用を足していたのですねぇ。

「屎遠くまれ」の「まれ」は排泄を意味する「まる」の命令形、
「刀自(とじ)」は一家の主婦の尊称ですがここではわざと敬語を使って
相手をからかっています。
さらに、カラタチの「ラ」うばらの「ラ」、くらの「ラ」と「ラ音」を続け、
「ク」の音も クラ、クソ、クシと揃えています。

即興でこのような歌を詠めるのは並大抵の才能ではありません。
このような歌が後々の俳諧、川柳、狂歌へと発展していったのでしようか。

古代、カラタチはその鋭い刺ゆえか人々に忌まれた植物でした。

「枕草子」133段「名恐ろしきもの」に

「 いかずち(雷)  はやち(暴風) おほかみ(狼) ろう(牢) いきすだま(生霊) 
    いりずみ(刑罰の入れ墨) むばら(茨) からたち(枳殻) 」


などとあるように人を寄せ付けない親しみにくい存在とされていました。

その傾向は平安時代から江戸時代まで続き、蕪村は
「からたちになりても花の匂ふなり」と詠んでいます。

この句はかって宮中の女官第1位にあった長橋という女性を
「さすがにそういう人は落ちぶれても立派で美しい」と詠っているのです。

「からたちになっても芳しい香を漂わせている」「腐っても鯛」という意で、
決して良い意味で引用されていません。

  その悪い印象を完全に払拭したのが北原白秋の「カラタチの花」 。

「 からたちの花が咲いたよ
  白い白い花が咲いたよ

  からたちのとげはいたいよ
 青い青いとげだよ 
 
  からたちは畑(はた)の垣根よ
  いつもいつもとほる道だよ

  からたちは秋はみのるよ
  まろいまろい金のたまだよ 」 


1924年に発表され、翌年山田耕作が作曲、 藤原義江が帝国劇場の舞台で独唱して
以来全国に知られるようになり、その美しいメロディーによってカラタチは
好ましい印象の花に変身したのです。

「 からたちの つぼみひそかに ほぐれ初む 」 清風郎

「エピローグ」

『 数年前、奈良の佐保路を散策していたとき、法華寺の白い築地塀の外側に
  さらに からたちの生垣が百メートル近く続いていたのが印象的であった。
  法華寺は、平城京にあった藤原不比等の邸宅に、
  娘の安宿姫(あすかべひめ:光明皇后) が母の橘三千代のために創建し
  「総国分尼寺」ともなった尼寺である。

  もっとも、この寺のからたちの生垣が創建の奈良時代からのものとは思わない。
  母の「県犬飼美千代」の姓の一字「橘」は後に賜姓されたものである。
  「からたち」すなわち「唐橘」の「橘」が何かしらそんなことに
  かかわりのあるものとして、後世の人たちがからたちの生垣を作ったのだろうと
  考えながら、おりからの小雨に濡れる白い花に目を落としていた。』

                (荒木靖生 万葉歌の世界より 海鳥社)

    「雨細く からたち咲きぬ 昨日より 」 岸風三楼

# by uqrx74fd | 2012-04-14 17:42 | 植物 | Comments(0)

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