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カテゴリ:万葉の旅

  • 万葉集その三百四十二 (明日香:南淵山)
    [ 2011-10-23 09:14 ]
  • 万葉集その三百四十一(歌姫街道)
    [ 2011-10-16 07:41 ]
  • 万葉集その三百三十六 ( 高円山 )
    [ 2011-09-10 20:02 ]
  • 万葉集その三百二十九(伊香保)
    [ 2011-07-24 08:30 ]
  • 万葉集その三百二十八(夏美=菜摘の里)
    [ 2011-07-17 08:07 ]
  • 万葉集その三百四(国栖の里)
    [ 2011-01-31 20:19 ]
  • 万葉集その二百八十二 (明石海峡)
    [ 2010-08-29 19:50 ]
  • 万葉集その二百七十四(六義園は紀の国の箱庭)
    [ 2010-07-04 20:11 ]
  • 万葉集その二百七十一(吉備の国)
    [ 2010-06-13 18:14 ]
  • 万葉集その二百六十五(鞆の浦)
    [ 2010-05-03 07:38 ]

万葉集その三百四十二 (明日香:南淵山)

( 明日香:棚田1)

( 明日香:棚田2)

( 明日香: 案山子)

( 明日香:南淵山)

( 男綱 )


明日香の石舞台から南へ1㎞ばかり歩くと、そこは一面に広がる棚田。
春は刈田のレンゲやタンポポ、秋には稲穂が風にそよぐ中、
彼岸花やコスモスが咲き乱れています。
そして、子供たちが丹精を込めて作った数々の案山子がお伽の世界を演出して
くれるのです。

昔、このあたり一帯を南淵とよんでいたそうですが今は稲渕といいます。
飛鳥川に添う道は吉野に通じており、かって持統女帝や大海人皇子が通ったかも
しれないと遥か遠い時代に思いを馳せるのも楽しいものです。

やがて、集落の入口。
飛鳥川をわたす橋を挟んで道が二手に分かれ1㎞位先で再び合流します。
村の手前の川とその上流には子孫繁栄、五穀豊穣、悪疫侵入防止を願って
神の降臨を勧請する縄、すなわち雄綱と女綱が張り渡されており、古の時代から
神と共存する人々の心が今なお息づいている村のたたずまいです。

飛鳥川の両岸には屏風のような山々が連なり、進行方向に向かって左側の山塊を
南淵山といいます。
地元の農家の人に「南淵山はどの山ですか?」と聞くと
「この辺から見える山全部を昔から南淵山と言うてんねん」と答えてくれました。

「 まそ鏡 南淵山は今日(けふ)もかも
   白露置きて 黄葉(もみち)散るらむ 」
                     巻10-2206 作者未詳


( 南淵山では今日あたりも白露が置いて、紅葉が散っていることであろうか)

まそ鏡の「ま」は立派な「そ」は充分の意で「よく映る立派な白銅製の鏡を見る」
すなわち「見る」と同音の南淵の「ミ」に懸けた枕詞です。

作者はかって見たことがある南淵山の黄葉が今どうであろうか、
白露が置いてもう散っているであろうかと想像しています。
まそ鏡という美しい枕詞が白露がキラキラ光る様子を連想させている一首です。


「 御食(みけ)向ふ 南淵山の巌には
   降りしはだれか 消え残りたる 」
                    巻9-1709 柿本人麻呂歌集


( 南淵山の山肌の巌には、いつぞや降った薄ら雪が消え残っているのであろうか )

天武天皇の子、弓削皇子に献じた歌とあり、「残雪」を見ながら自然の美しさを
雄大に詠った一首です。

「はだれ」とは雪や霜などがうっすらと降り積もっている状態をいいます。
明日香はめったに雪が降らないところで、たまに降り積もっても
すぐに溶けてしまいます。
それだけに、巌のところに消え残ったまだら模様の雪、白黒の対比の美しさに
人々は心惹かれたのでしょう。

「御食向ふ」は神または天皇に捧げる食事のことで、
粟(あわ)、味鴨(あじかも)、酒(き)、蜷(みな:田螺などの巻貝) などを奉るので、
それぞれ同音の地名、淡路、味経(あじか)、城上(きのへ)、南淵に掛かる枕詞と
されています。

「 野菊挿す 南淵請安先生に 」 高繁 泰治郎

さらに歩いて行くと集落のはずれの丘に「南淵請安先生の墓」と彫られた
石碑が立っています。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。

彼は、608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間
当地に滞在して儒教などを学びました。
帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、のちの天智天皇)や
藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられています。

当時(642年)は皇極女帝の時代で、執政、蘇我入鹿が聖徳太子の子、
山背大兄(やましろのおおえ)を殺害するなど横暴を極めていました。
皇子と鎌足は請安宅に足しげく通い、ひそかに打倒蘇我氏と後の政権構想の
秘策を練り、645年、クーデータを敢行して蘇我氏を滅亡させました。

そして、孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、藤原鎌足は内大臣となり
新しい時代、大化の改新の幕開けとなります。

請安先生が打倒蘇我氏の計画に関与したかどうかは定かではありませんが、
二人の政権構想に指導的役割を果たしたことは充分に考えられ、古代日本史の
影の立役者だったといえましょう。

澄み切った川のせせらぎ、蛍が飛びかう山里。
緑深い山塊、その間を吹き抜ける爽やかな風。
明日香は古代の雰囲気をいまなお濃厚に伝えてくれている美しい村です。

    「 勧請縄張る村境 蛍飛ぶ 」 田辺洋子 


( 女綱 上山好庸 明日香路 光村推古書院より)

( 南淵請安の墓 )

( 明日香の春   上山好庸  明日香路 光村推古書院より)

by uqrx74fd | 2011-10-23 09:14 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その三百四十一(歌姫街道)

( 歌姫町の農家 )

( 付近案内図 )

( 添御県座神社:そうのみあがたにいますじんじゃ)


『 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。
  歌姫という美しい字名(あざな)だ。
 こんな村の名にしては、どうもすこし とおもうような村にもみえたが、
 ちよっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。
 大きな門構えのなかに中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も
 家畜小屋も果樹もならんでいる。
 そしてその日あたりのいい明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながら
 のんびりと働いている光景が、ちよっとピサロの絵にもありそうな構図で、
 なんとなく仏蘭西(フランス)あたりの農家のような感じだ。 』
                            ( 堀辰雄: 大和路・信濃路 新潮文庫より)

平城京大極殿から北へ1㎞ばかりのところに歌姫という町があります。
このあたりに昔、「歌姫越え」とよばれた大和と山城国を結ぶ幹線街道がありました。
比較的平坦な道なので平城京造営の折、木津川に集められた木材や建設資材を
都に運ぶために重用されたそうです。

歌姫という名前はかってこの地に松林や池に囲まれた宮殿があり、そこに
雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官たちが住んでいた、あるいは美しい恋歌を詠んだ
仁徳天皇の皇后、磐姫に因むともいわれていますが確かなことはわかりません。
(磐姫陵はすぐ近くにある)

歌姫町をさらに500mばかり行くと緩やかな上り坂になり、登りきったところが
大和と山城の国境です。
そこには旅の安全を守護する「添御縣座神社」(そうのみあがたにいますじんじゃ)があり、
天照大神の弟、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)と
その妻、「櫛稲田姫命」(クシイナダヒメノミコト)、
そして土地の神様である武乳速命(タケチハヤノミコト)の三神が祀られています。

『  佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は
     妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ 」
                       巻3-300 長屋王


( 佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に幣を奉ります。
 どうか、道中安全、無事に帰ることができ、いとしい妻をいつも
 見ることができますよう。 )

作者は公用で山城を訪れた時、この神社で旅の安全と、妃、吉備内親王との
一日も早い再会を祈り幣(ぬさ)を奉りました。
長屋王は高市皇子(天武天皇皇子)の第一子で、聖武天皇のもとで左大臣の
要職にあった人物です。
また、佐保楼という豪華な別邸を持ち、新羅の使者など多くの人びとを招いて
詩宴を催すこともたびたびあり、風流文雅の貴公子ともよばれていました。
政治の面でも能力、気骨があったようですが、それ故か藤原氏と衝突し、
その讒言により自死に追い込まれた悲運の人でした。
藤原不比等は政敵を葬ることにより娘を聖武天皇の皇后として送り込むことに
成功し首尾よく光明皇后を誕生させたのです。

『 このたびは ぬさもとりあへず たむけ山
    紅葉の錦 神のまにまに 」 
                              菅原道真 古今和歌集


( このたびの行幸には幣の用意も出来ませんでした。
 この手向山ではさまざまな色の紅葉が散っております。
 どうかその紅葉を神の御意のままに幣としてご受領下さい )

宇多法皇奈良吉野行幸の折の詠。
実際に幣の用意が出来ていなかったわけではなく、紅葉の散るさまが
あまりにも見事なので幣をまき散らす必要がないと詠ったようです。
ここでの幣は紙を小さく切ったものを意味しています。

この歌は「「添御縣座神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」で詠まれたものとして
境内に長屋王の歌と共に歌碑が置かれていますが、この辺りは紅葉が少ないので、
東大寺法華堂(三月堂)近くの手向山神社で詠われたのではないかとする説もあります。

舞台は大きく変わりご存じ池波正太郎の鬼平の世界です。
鬼平こと長谷川平蔵が休暇で京都に行った折、旧知の浦部与力が
奈良を案内することになりました。

 (浦部) 「 宇治をあとまわしになさいますなら石清水から山沿いの古道をたどり、
        奈良へ入りますのが、おもむきが深いかと思われます。」
 (平蔵) 「 ほほう。これはおもしろい」
 (浦部) 「 は。この道を歌姫越えと申しまして、むかしむかし、奈良に
        皇都(みやこ)がありましたときは、この道こそが奈良と山城の国を -
        京をむすぶ大道でございましたそうで 」

   と浦部はなかなかにくわしい。
   ( これはおもしろい旅になりそうだ。 浦部をつれてきてよかった )
     平蔵も、こころたのしくなってきている。
 - - 
 (浦部) 「このあたりは、むかしむかし、棚倉野とよばれ、ひろびろとした原野に
      穀物をしまった倉がいくつも建っていたそうでございます。
      かの万葉集にも- -

「 手束弓(たつかゆみ) 手に取り持ちて 朝猟(あさがり)に
          君は立たしぬ  棚倉の野に 」 
                     (巻19-4257 古歌 船王伝誦す)


とございますな 」

(平蔵)  「これは、おどろいた、おぬしがのう・・・」

                    ( 池波正太郎  鬼平犯科帳3 凶剣 文芸春秋より ) 

さて、この歌は
( わが君が手束弓をしっかり手に取り持って、朝の狩場にお立ちになっている。
この棚倉の野に。) 
の意で、「手束弓」は手に束ねやすい弓、「棚倉の野」は京都府山城町付近の野です。

紀飯麻呂(きのいひまろ)という官人の屋敷で催された宴席で披露された
古くから伝わる歌で、「君」は聖武天皇とされています。
かって山城近くに久爾(くに)という都があったとき天皇は盛んに猟をされたらしく、
往時を懐かしむとともに、宴の時期が丁度10月下旬の狩猟の季節にあたっていたので、
それにふさわしいものとして紹介されようです。

それにしても、鬼平でいきなり万葉集が出てくるのには驚きました。
あまり知られていない歌だけに池波先生が万葉集にも深い造詣をお持ちだったことが
窺われる一文です。

「 歌姫を 鬼の平蔵 過ぎゆけり 」  筆者

( 神社内の長屋王歌碑 )

( 手向山八幡宮の壁付近)

by uqrx74fd | 2011-10-16 07:41 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その三百三十六 ( 高円山 )

( 高円山 後方右上 奈良公園浮見堂より )

( すすき 奈良大仏池より )

(おみなえし 山辺の道で )

( 萩 同上 )

( なでしこ 入江泰吉 万葉賛歌  雄飛企画より )


高円山(たかまどやま)は奈良市東南にある標高432mの山で、昔は「たかまとやま」と
清音でよばれていました。
平城京に近く、奈良時代には貴族たちの遊宴の地として親しまれ、その頂上近くに
聖武天皇の離宮、尾上(おのうえ)の宮があったと伝えられています。
大宮人たちは時には狩を行い、酒壺をさげて逍遥し、四季それぞれの風物を楽しみ、
鶯、雁、鹿、桜、なでしこ、おみなえし、葛、萩、尾花、昼顔、紅葉など27首もの
歌を詠んでいます。

「 高円(たかまと)の 尾花吹き越す 秋風に
   紐解き開(あ)けな 直(ただ)ならずとも 」
                    巻20-4295 大伴池主


( 高円の野のすすきの穂を靡かせて吹き渡る秋風。
 その秋風に、さぁ着物の紐を解きはなってくつろごうではありませんか。
 いい女に逢うのはあとにして。 )

753年、数人の官人たちがそれぞれ壺酒を提げて高円の野山に登りました。
時期は現在の9月中旬。秋とはいえまだ暑さが残る時期です。
汗をかきかき小高い丘を登った大宮人たちは、山頂近くの秋風に心地良い
爽やかさを感じたことでしょう。

「さぁ、さぁ酒宴だ。衣の紐を解いて寛ごう。」と作者は皆に声を掛けます。
「紐解き開く」はくつろいで遊ぶさまを表し、「直ならずとも」には
「直ちに女性に交(あふ)にはあらずとも、」の意を含んでいるとされています。
「女性との交渉は後として取りあえずは衣服の紐を緩めて飲みましょうや」と
茶目っ気たっぷりの一首です。

万葉人はススキの花穂(かすい)を尾花とよびました。
そのさまが動物の尾に似ているからといわれていますが、米粒ほどの白い小花を
さしたのかもしれません。

「 女郎花(をみなへし) 秋萩しのぎ さお鹿の
    露別け鳴かむ 高円(たかまと)の野ぞ 」
                       巻20-4297 大伴家持


( ここ高円の野は女郎花や秋萩がまっ盛り。
 おぅ、あそこに見えるのは牡鹿かな。
 萩の花の上にしとどに置く露を押し分け、踏みしだき、やがて、
 妻を求めて鳴きたてることであろうよ。 )

鹿、萩に露、さらに女郎花をそえ、深まりゆく高円の秋の景観を
美しく詠った一首です。
萩は鹿が好むので「鹿の妻」ともよばれました。

「 高円の 秋野の上の 撫子(なでしこ)が花
   うら若み 人のかざしし 撫子が花 」
            巻8-1610 旋頭歌     丹生女王(にふのおほきみ) 


( 高円の秋野のあちらこちらに咲く撫子の花よ
 その初々しさゆえに、あなたが 挿頭(かざし)に愛でたこの撫子の花よ)

都に住む作者が大宰府長官大伴旅人に贈った歌です。
二人の関係は詳細不明ながら若い頃から親しく交際を続けていたらしく、
伊藤博氏は

『 長年の信頼と愛情を上品にやさしく託しており、女王の人柄が偲ばれる。
「なでしこの花」には若き日に旅人に愛された自分の姿を暗示しているらしく、
ほのぼのとした追懐の情が美しい。
恐らく押し花にした撫子にそえた歌で、ふるさとを思わせ、古く長い人の心を
思わせ、一首を受け取った旅人の心底からの安らぎを偲ぶことが出来る。』
(万葉集釋注) と評されています。

高円周辺は今なお古の面影を残しているところで、白毫寺、新薬師寺、志賀直哉旧居、
入江泰吉記念奈良市写真美術館もその山麓にあります。
堀内民一著「大和万葉旅行」は、その付近の様子を次のように伝えています。(要約抜粋)
 
『 高円山は原始林の春日山とは対照的な山で白毫寺の東の山だから
土地では白毫寺山ともよんでいる。
この白毫寺は天智天皇の第七子志貴親王の山荘を移して寺にしたと伝えられ、
著名な「五色椿」があり、奈良市小川町の伝香寺境内の「散り椿」、
東大寺開山堂境内にある「のりこぼし椿」とともに奈良の三椿(さんちん)と
よばれている。- -
新薬師寺の十二神将を見て、そこの山門をでたところに小さく祀られている鏡神社の境内から
高円山を眺めると西側斜面の大地をふくめて山がのどかで美しい。
十二神将を見た目にはこの山が親しみを覚えるのは、奈良末期の彫刻と歌との
関係からくるものであろうか。- - 

高円山の頂上に立つと、山上にかけての高円野の形相がよくわかる。
「高円山」の「高」は美称で、「円」は山の形をいったのであろう。
東の方は芳山の高峰が渓谷をへだてて見え、遠く伊賀、伊勢の山々が、
新秋の陽ざしを受けて蒼波のうねりをみせ、西の方は平城の古京へ、
稲葉の田園が豊かで、そのはては摂河泉を接する葛城山系が生駒山につらなり、
青空と山のあいだの一線が白けて、はるかに美しい。 』 
                                     (講談社学術文庫より)

    「萩芽吹く 石段粗き 白毫寺」 佐藤忠

        白毫寺は萩の寺としても知られています。

by uqrx74fd | 2011-09-10 20:02 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その三百二十九(伊香保)

(榛名富士)

『 「今日は榛名から相馬が嶽に上って、それから二ツ嶽に上って屏風岩の下まで来ると
   迎えの者に会ったんだ。」
  「 そんなにお歩き遊ばしたの?」
  「 しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。
    一方は茫々たる平原さ、利根がはるかに流れてね。
    一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいているなんぞは
    すこぶる妙だ。
    歌でも詠めたら、ひとつ人麻呂と腕っ比べしてやるところだった。
    あはははは。 」 』
                         ( 徳富蘆花:不如帰:ホトトギス 岩波文庫 より )

 「夏の夕やみに ほのかに匂ふ月見草」のような楚々たる美女、浪と
 その夫、川島武雄との会話です。
 明治末、この悲恋小説で伊香保は一躍全国に知られるようになり、
 新婚旅行のメッカになったといわれています。

伊香保は「巖穂(いかほ)」で大きな山が国の中央に聳え立ち、いかつく、大きく
秀でているの意で、古くから神が鎮座する秀峰として崇められてきました。

「 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありと云へど
    我が恋のみし 時なかりけり 」
              巻14-3422 作者未詳(東歌)


( 伊香保の峰から吹き降ろす風、この風は吹いたり、吹かなかったりする日が
 あるが、私の恋の風は、休みなく毎日吹き続け、やむ時がありません。)

東歌にしては方言もなく非常にわかり易い歌。
上州名物の空っ風は、今も昔も健在です。

「伊香保嶺(ね)に 雷(かみ)な鳴りそね 我が上(へ)には
  故(ゆゑ)はなけども 子らによりてぞ 」
           巻14-3421 作者未詳(東歌)


( 伊香保の嶺 雷なんぞ鳴らないでくれよ。
 俺は何ともないが、あの子は恐がるだろうからな。
 こうも雷が鳴ってばかりでは、デートもおちおち出来やしないよ。)

伊香保嶺は現在榛名山とよばれている山々です。
作者は女に逢いに出かけているのでしょうか。
その昔、雷は「鳴神」と呼ばれ農耕の水をもたらすものとして崇められていました。
その神様を「恋の邪魔になるから鳴るな」と注文を付けているのです。
自然崇拝から脱皮しつつある民衆の感情が窺われる一首です。

この歌の解釈に奇説があります。
真夏の太陽が照りつける中、二人の男女が母親の監視の目を盗んで交会に
及ぼうとする場面だというのです。

以下は根岸謙之助氏(上武大学教授)による生々しい描写です。

『 男は手をさしのべて、女を寝床にさそう。
女は男のなすがままに身を委ねて、草の上に仰臥する。
そして男の愛を受け入れるべく、思いきり四股を伸ばし、眼をつぶる。
すでに半裸体になった男は、身をかがめて、もどかしげな手つきで、
女の下裳の紐を解きにかかる。
その時である。
突如として大地をゆさぶるような大音響がおこった。
続いて二度三度。
それはたたなずく伊香保の山々にこだまして、ゴロン、ゴロンという
連鎖音が二人の耳朶を撃つ。
びっくりした女は、むき出しになっていた下半身を反射的に両手でおさえ、
ついでに下裳の裾を合わせようと身もだえた。
女へのつもる思いを、この一刻(ひととき)に遂げようと満身の血をわきたてて
いた男は、いっぺんに気勢を殺がれ激怒して思わず叫ぶ。
「 雷公 鳴るな!!」 』  
                       ( 上州万葉の世界:煥乎堂より)

さらに「雷は女の臍(へそ)を取るのでこれはまさに絶好の餌食」とも。
想像力豊かな方ですねぇ。


「 伊香保ろの 沿ひの榛原(はりはら) 我が衣(きぬ)に
   着(つ)きよらしも ひたへと思へば 」 
                     巻14-3434 作者未詳(東歌)


       ひたへ: 一重の方言:裏がない着物

( 伊香保の山の麓の榛原。
  この原のハンの木の実で染めた俺の着物はぴったりしてよい具合だ。
  一重で裏地もなく、涼しいし。)

「この榛原の女はおれにぴったりだなぁ。裏心もなく純粋一途で。」と
一人悦に入っている男です。

伊香保は火山灰地が多く、土地は痩せて崩れやすいため、丈夫なハンノキが
多く植えられ、治山工事の植栽木とされていたそうです。
ハンで染めた衣は触媒によって栗色や鼠かかった黒色になります。


「 高山の頂(いただき)に立つ 幾岩山(いくいわやま)
    烏帽子(えぼし)鬢櫛(びんぐし) 名のあはれなり 」 窪田空穂


 「榛名山」は単一の山の名称ではなく、掃部(かもん)ヶ岳(1449m:最高峰)、
  臥牛(がぎゅう)山、鬢櫛(びんぐし)山、烏帽子岳、榛名富士、相馬山、水沢岳、
  二つ岳など榛名湖を囲む一帯の山々の総称とされています。
    
    

      「 初蝉や 榛名修験の 水行場 」 水谷爽風

by uqrx74fd | 2011-07-24 08:30 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その三百二十八(夏美=菜摘の里)

(菜摘の川:後方は菜摘の里)

(宮滝で泳ぐ)


『 気が付いてみると、いつの間にか私たちの行く手には高い峰が眉近く聳えていた。
  空の領分は一層狭くちぢめられて、吉野川の流れも、人家も、道も 
  ついもう そこで行き止まりそうな渓谷であるが、人里というものは狭間(はざま)が
  あれば何処までも伸びて行くものと見えて、その三方を峰のあらしで囲まれた、
  袋の奥のような凹地(くぼち)の、せせこましい川べりの斜面に段を築き、草屋根を構え、
  畑を作っているところが菜摘の里であるという。
  なるほど、水の流れ、山のたたずまい、さも落人の栖(す)みそうな地相である。』

             ( 谷崎潤一郎 吉野葛 岩波文庫より )

古代、吉野離宮が営まれていた宮滝から国栖(くず)に向かう途中に夏美(現在では菜摘)と
よばれる里があります。
目が覚めるような瑞々しい新緑や錦織りなす紅葉が美しい処で、山々の間を流れる
吉野川は、湾曲して瀬や淀みをつくり、巨岩にうち当たって飛び散る波の飛沫(しぶき)は
いかにも涼やかです。
この山紫水明の地に多くの人たちが訪れ、数々の歌や物語が生まれました。

「 吉野なる菜摘の川の川淀に
    鴨ぞ鳴くなる 山かげにして 」
             巻3-375 湯原王 (天智天皇の孫)

( ここ吉野の菜摘の川。
 その川淀で鴨の鳴く声が聞こえる。
 ちょうど山の陰のあたりで )

古代の人たちは吉野川が宮滝の奥あたりを流れる場所を菜摘の川とよんでいました。

静寂そのものの山の中でひときわ高く鳴く鴨の声がこだまの様に響く。

「よしのる つみのはの はよどに
 もぞ る やまげにして 」  と

同音の「な」と「か」を重ねた軽快なリズムは細やかな技巧の冴えを見せ、
結句「山かげにして」は余韻のある情感を醸し出しています。
菜摘の里の幽寂な情景を見事に詠った秀作です。

「山高み 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ
  菜摘の川門(かわと) 見れど飽かぬかも 」 
             巻9-1736 式部の大倭(おほやまと)


(山が高いので、岩場に砕け散る川波はまるで白い木綿で作った花のよう。
その菜摘の浅瀬(川門)の清流は見ても見ても見飽きないことだ。)

作者は式部省の官人。
宮滝に流れ込んだ川は岩にあたって逆巻く激流に。
やがて浅瀬に達し、さざ波を立てながら流れすぎてゆきます。
湯原王の静に対する動の歌で、爽やかな涼感が漂ってくる一首です。

菜摘の里は源義経が秘蔵していたという「初音の鼓」を家宝とする大谷家の
所在地としても知られています。
この家は壬申の乱の折、天武天皇に従った村国男依(むらくにおより)の末裔という
伝承もあるそうです。

「義経記」によると吉野に入った判官が静御前に今生の別れを告げるに際し、
 秘蔵の紫檀の胴に羊の皮で張った鼓を静に与えて、
「 初音は平清盛の祖父の正盛、父、忠盛、そして清盛と3代にわたり伝えられたが、
  清盛死後は誰に伝えられたのであろうか。
  屋島の合戦の時、わざと海にいれられたか取り落とされたか、波に揺られて
  漂っていたのを、伊勢三郎が熊手に懸けて拾い上げた- 」ものだと語っています。

その由緒ある鼓が義経から静へわたり、その後どのような経緯で大谷家に渡ったのかを、
記した巻物があるそうですが判読不能とのことで委細は不明のようです。

菜摘はその美しい名前と幽玄を感じさせる周囲の風景からでしょうか、
お能「二人静」(ふたりしずか)の舞台にもなっています。
菜摘のほとりで神に供える若菜を摘む女の前に静御前の霊が現れ、
「 今みよしのの 川の名の  菜摘みの女と思ふなよ」 と謡い、
昔を偲びつつ二人して舞う美しい能です。

万葉当時の面影を今なお強く残し、ロマンあふれる菜摘の里。
谷崎潤一郎をはじめ古くは本居宣長、芭蕉も訪れ、それぞれ一文を書き残しています。

「 東のかたの谷の底はるかに夏美の里見ゆ。
  ゆきゆきてまた東北の谷に見くださるる里をとへば、国栖(くず)とぞいふ」

               ( 本居宣長 菅笠日記)

「 独(ひとり)よし野のおくにたどりてけるに、まこと山深く白雲峰に重り、
  烟雨(えんう))谷を埋(うづ)んで山賊(やまがつ:木こり)の家ところどころに小さく、
  西に木を伐る音 東にひびき、院々(寺院)の鐘の聲(音)は心の底にこたふ。」

         註: 烟雨(えんう):煙のようにそぼ降る霧雨
            心の底にこたふ:心の底にしみじみと響く
                       (芭蕉 野ざらし紀行)

菜摘という名は余程好まれたのでしょうか。
「若菜摘」「磯菜摘」という言葉が生まれ、また、娘の名前に「菜摘」「夏美」「菜津美」
「なつみ」と命名する人も多いようです。

「 遠き世の 御幸(みゆき)の道や 若菜摘む」  編木佐さら

by uqrx74fd | 2011-07-17 08:07 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その三百四(国栖の里)

「浄見原(きよみがはら)神社:国栖奏(くずそう) 入江泰吉 祭りと歳時記 小学館より」

「同上」

「同上 天武天皇を祀る祠」

「紙すき 万葉の旅 創元社より」


国栖(くず)の里は奈良県吉野川上流の山奥にあり古代は秘境ともいうべきところでした。
人々は今でも昔ながらの方法で楮の繊維を吉野川の水に晒して手漉きの紙を作ったり、
山から切り出した木を製材して生業を立てており、また「昆布」という変わった姓の人が
多いことでも知られています。

この地を訪れた谷崎潤一郎は、その著「吉野葛」(岩波文庫)で、

「史実による豊富な題材のうえロケーションが素敵で、渓流、茅屋(ぼうおく)があり
春の櫻、秋の紅葉、それらを取り取りにして面白い読み物を作れる」と述べています。

日本書紀によると
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、
歌舞を奏して歓迎した。
  その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の
食物としている 』とあり、

天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の所作をするものであったらしく、それは、のちに
「国栖奏」(くずそう)とよばれました。
 
「 国栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の
       しばしば君を 思ふこのころ 」 
                            巻10-1919 作者未詳


( 国栖人たちが 春の若菜を摘むという司馬の野。
  その名のように しばしば貴方のことを想うこのごろです )

 古代、国栖は「くす」または「くにす」とよばれていたようです。
 うら若き乙女は男に一目ぼれしたのでしょうか?
 眼(まなこ)を閉じ、うっとりと夢見ているような感じのロマンティックな一首です。
 司馬」の野は国栖付近の地と思われますが所在は不明。

 「 みよし野の 山のあなたに やどもがも
      世のうき時の かくれがにせむ 」 
                    読み人しらず 古今和歌集


( あの遠い吉野の山の なお向こうに宿るところが欲しいものだ。
 この世が厭になったら隠れ家にしょうと思うので- 。)

以下は 白州正子著 かくれ里 (新潮社)からです。

『 吉野は古くから伝統的な「かくれ里」であった。
  天武天皇が壬申の乱にいちはやく籠られたのは有名だが、西行も義経も
 南朝の天子方も、近くは天誅組の落人に至るまで「世のうき時」に
 足が向かうのはいつも吉野の山奥であった。
 いうまでもなく地理的な理由によるものだろう。
 大和へも河内へも伊勢へも近く、南は熊野へ通じる山つづきで、
 しかも険阻なことこの上もない。
 攻めるに難く、守るに易い要害の地であった。 』
                  

大海人皇子(おおあまのみこ)が近江で兄、天智天皇と決別し
吉野の浄見原(きよみがはら)に籠ったとき、国栖の翁たちは栗やウグイ(鯉科の魚)を持ち寄り、
舞を奏して皇子を慰めました。
皇子は大いに喜び、戦い勝利の暁には宮中に招待すると約束します。
壬申の乱ののち、即位して天武天皇となった皇子はその約束を果たし、都に招かれた
国栖の翁たちは宮中で舞を奉納し、その後も宮中の大嘗祭と元旦の節会の儀式に
毎年奏せられるという栄誉を担いました。

国栖奏は今なお引き継がれて、毎年旧正月の14日(本年は2月16日)に吉野川上流、
天武天皇を祀る「浄見原神社」で奉納されています。

『 舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導かれてあらわれる。
 桐竹鳳凰の紋を青摺りにした装束は川風になびき、冠、木沓(きぐつ)、
 芍(しやく)もここでは特別な気がしない。
 淵の上の細い石段をのぼると拝殿の屋形が作られ、その奥の岸壁に高く
 天武天皇がまつられ、岩の上に神饌物たる生きたカエルやウグイが
 供えられているのだ。
 右手に鈴、左手にサカキを持った二人の舞翁がこの岩陰の屋形に舞い始めると、
 笛の音、太鼓は岸壁に反響し、単純にして素朴な時間が古代のかなしみと
 歓喜をはらんでくる。

「 すずのねに しらきのふえの おとするは
           くずのおきなの まゐるものかは 」


歌翁たちの大らかな歌いぶりとともに舞はいよいよ白熱し笛は冴えわたる 』
                            ( 前 登志夫  吉野紀行 角川選書 )

「 国栖の野に 翁の笛や梅三分 」        中川晴美

by uqrx74fd | 2011-01-31 20:19 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その二百八十二 (明石海峡)

『 私は海峡がせばまって くろぐろとした潮流が滝つ瀬のように流れていると
胸がおどってしまう。- -
どうも海峡がよほど好きであるらしい。

海峡という文字をながめているだけでも気持がさざなみだってしまう。
日本の島のなかの海峡では壇の浦と明石海峡が好きである。

明石海峡の場合、須磨や舞子の松原ごしにながめてもよく、また明石の宿の浜側の
障子をあけてながめてもいい。

目の前の淡路島の北端が単純な山のかたちをなしてせまっている。
そのあいだを、青黒い潮が奔(はし)り、ときには九ノットで
はしりすぎてゆくのである。』 

                (司馬遼太郎 街道をゆく 明石海峡と淡路みち)
                 「甲賀と伊賀のみち砂鉄のみちほか」所収 朝日文庫 )



 「 燈火(ともしび)の 明石大門(あかしおほと)に入らむ日や
     漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず 」 
                                  巻3-254 柿本人麻呂


(  船が明石海峡にさしかかる日には家族が住む家そして山々が見えなくなり、
   そのまま故郷から漕ぎ別れてゆくことになるのであろうか )

暮色に浸された海の彼方に大和の山々がまだうっすらと見えている。
それもやがて視界から消え、いよいよ異郷の世界へと踏み込んでゆく。
「燈火」は明るいことから「明し」を引き出し、同音の地名「明石」に掛る枕詞ながら、
ここでは海人の漁火がチラチラと波間に見えるのでしょう。

当時「畿内」と「畿外」の陸地の境界は「赤石の櫛淵(くしふち)」とされていました。
現在の神戸市垂水区塩屋町と須磨区西須磨との間を流れる境川あたりです。
そして海の境界が明石海峡だったのです。

境界は地理的、自然的な区分にとどまらず、行政人為的な意味合いを強く帯びていました。
即ち、中央官人は畿内から登用され、さらに畿内の民衆は中央特区住人として
税(調庸)を免除されていたのです。

都から地方に旅する人たちにとっての明石海峡は、異質の世界へ踏み込む
不安感があったことでしょう。

 「 わが舟は 明石の水門(みと)に 漕ぎ泊(は)てむ
    沖へな離(さか)り さ夜更(ふ)けにけり」  巻7-1229 作者未詳


( 船頭さんよ、我々の船は岸へ向かい明石の港に停泊しましょう。
  沖の方へ離れていかないようにしておくれよ。
  夜も更けてきたことだしねぇ。)

明石海峡の最短部は幅4㎞。その潮流は凄まじく、西流の最高速度は7,1ノット
(時速13㎞)東流5、6ノット(同10㎞)の難所で、手漕ぎの木造船では
潮に逆らって進むことはできません。
まして遭難の危険性もある夜。 早々と港に寄港することになります。

「 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
       島隠れゆく 舟おしぞ思ふ 」 
                     古今和歌集 柿本人麻呂の歌なり



( ほのぼのと明るくなってゆく明石の浦の朝霧のなか、島陰に次第に姿を消してゆく
  舟を見ていると、しみじみとした気分になってゆくことだ )

港で一夜明かして英気を養った旅人。
次第に明るくなってゆく海に舟が漕ぎ隠れていくのを眺めながら、これから先の旅に
想いを馳せています。

やがて出発。船は一路筑紫に向かいます。

「 - 天さかる 鄙(ひな)の国辺(くにへ)に 直(ただ)向ふ 淡路を過ぎ 
粟島(あはしま)を そがひに見つつ 朝なぎに水手(かこ)の声呼び
夕なぎに 楫(かじ)の音しつつ 波の上をい行(ゆ)き- -」
      巻4-509 丹比真人笠麻呂 (たぢひのまひと かさまろ)


( 都遠く離れた田舎の国、筑紫へと真正面に見える淡路島を通り過ぎ、
  粟島をも背後に見やりながら、朝凪に水夫(かこ)が声高に呼びかわし、
  夕凪には櫓の音を響かせつつ、波を押し分けて進み- ) ました。

粟島:淡路島もしくは阿波の近くか? 未詳
そがひ:背後   声呼び: 掛け声を発し  

それから数ヵ月後、公用を終えた旅人は再び明石海峡にさしかかります。

「 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば
   明石の門(と)より 大和島見ゆ 」    
                          巻3-255 柿本人麻呂


( 遠い田舎の長い道のりをひたすら都恋しさに上ってくると
  明石海峡から大和の山々が見える )

遠い異郷からの長い船旅。潮と波の怖さに耐え抜き、やっと最後の関門に到着です。
はるか彼方にうっすらと懐かしい大和の山々。目に浮かぶ故郷の山川、そして妻の顔。
あぁ、やっと帰ってきた。もう一息だ。
往路の悲壮感とは打って変わった歓喜と安堵の表現です。

「 人麻呂の神も淡路も朧かな」   小田眺生

              ※ 「人麻呂の神」:  「明石市人丸町 柿本神社」

by uqrx74fd | 2010-08-29 19:50 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その二百七十四(六義園は紀の国の箱庭)

「六義園 元禄の亀 鳴けりけり」 鈴木栄子

六義園(りくぎえん;東京都文京区) は徳川五代将軍綱吉の側用人として寵愛された
川越藩主、柳沢吉保が1702年に築造した回遊式築山泉水庭園です。

古典文学に造詣が深かった吉保は、「万葉集」や「古今集」などの歌の世界から
ゆかりの名勝を選び、園内に八十八景をちりばめて作庭したもので、完成までに
7年の歳月を要したそうです。

約2万7千坪の広大な庭の中心部は紀州の景勝である和歌の浦、藤白峠、妹背の山、
紀ノ川が配置されており、さながら和歌の庭 。

枝垂れ桜の大木が立つ六義園の入口、内庭大門を通り、少し歩くと大泉水(池)。
そこには海や川を想定した和歌の浦、紀ノ川が映し出され、左手に蓬莱島が浮かび、
右手の築山には妹山、背山が可愛らしく乗っています。

「 我妹子(わぎもこ)に 我が恋ひ行けば羨(とも)しくも
    並び居るかも 妹と背の山 」  巻7-1210 作者未詳


(家に残してきた いとしいあの子に恋焦がれながら旅していくと、
 羨ましくも妹の山、背の山が仲良く並び立っていることよ。 )


「人にあらば 母が愛子(まなご)ぞ あさもよし
   紀の川の辺の 妹と背の山 」 巻7-1209 作者未詳


( あの紀の川辺に立つ妹山と背中の山がもし人ならば、
  母にとっては最愛の子供たちだよな。  )

あさもよし:枕詞 麻裳(あさも:麻の衣類)で有名な の意を含む
妹の山、背の山を夫婦とみた前の歌に対し、これは兄妹と解しています。
作者は独身だったのでしょうか。

紀の国は大和の人の憧れの海の国、湯の国でした。
浮き立つような気分で旅する人たち。妹山、背山のおだやかな山容。
その脇を滔々と流れる紀ノ川は奈良県の大台ケ原山と吉野の山地を水源とする
吉野川で、和歌山県に入って紀ノ川とよばれます。

庭園を回遊しながら瀧見の茶屋、千鳥橋、吹山茶屋、つつじ茶屋、藤浪橋と
優雅な名前の名所を巡り、やがて蛛道(ささかにのみち)に至ります。

「 わが背子が来べき宵なり ささがにの
   蜘蛛のふるまひ かねてしるしも 」 
                 衣通姫(そとおりひめ)   古今和歌集
 

( 今宵はきっとわが背の君がいらして下さいますよ。ほら御覧なさい。
  蜘蛛がこんなにせわしげに動いて、そのことを教えてくれているんですもの。)

作者は允恭(いんぎょう)天皇の妃で、その美しさが光となって衣を通すというので
その名があるそうです。
「ささがに」は蜘蛛の古名で、古代では蜘蛛が活発に動くのは待ち人が来る前兆と
考えられていました。
「 細長いこの道が蜘蛛の糸に似ているので、和歌の道の長く続くことを
 思い合わせて名付られた」そうです。

森で囲まれた涼やかな道を歩いてゆくとやがて小高い丘。
標高35mの藤代峠です。
頂は富士見山とよばれ、そこから素晴らしい庭園の全景を眺望することができます。

「 藤白の 御坂(みさか)を越ゆと白袴(しろたへ)の
   我が衣手は 濡れにけるかも 」 
                      巻9-1675 柿本人麻呂歌集


( 藤白の坂を越えているうちに、私の着物の袖は山の雫に
すっかり濡れてしまったよ。)

紀の国から大和への帰路での歌です。
一行は坂の草露にも汗にも濡れたのでしょう。

この峠は659年謀反の罪に問われた有馬皇子が絞殺された所でもありました。
『 40年前のその悲しい事件を「わが衣手」が「雫」に「濡れる」ことを背後に
意識しながら作者は山を越えているのであろう』 (伊藤博)
『表面は単なる旅情の形にし、皇子を悲しむ心をその旅情の溶かし込んでいる』
(窪田空穂)  一首です。

「 藤白の 落花を敷きて 皇子の墓 」   山口 超心鬼

紀伊本線海南駅から1㎞ほど南にある藤白神社の近くに藤白峠へ登り口があり、
その途中に皇子の墓と歌碑があります。
藤白坂はかなり急な山道で古の人たちもさぞ大変だったことと偲ばれます。
やがて頂上。黒牛潟、名高の浦、和歌の浦の眺望はまさに絶景。
古人の歓喜の声が聞こえてくるようです。

「 浜木綿(はまゆふ)や 南紀の海に 落つる日を」   黒米松 青子

ご参考:

「六義」とは中国の詩経に由来する詩の分類法です。
紀貫之はそれを和歌の分類に転用し、古今和歌集の「かな序文」に
「そもそも歌のさま六つなり。漢詩(からうた)にもかくぞあるべき」と述べ、
次のように分類しました。なお、漢字の部分は詩経のものです。

「風」 そへ歌:地方の民謡ともいうべきもの
「賦」 数え歌:心に感じたことをそのまま述べるもの
「比」 なずらえ歌:類似のものを取り立てそれにたとえるもの
「興」 たとえ歌:外物にふれて感想を歌うもの
「雅」 ただごと歌:朝廷の雅歌のようなもの
「頌」 いはひ歌:祭祀に用いる壽詞に類するもの
                                         以上

by uqrx74fd | 2010-07-04 20:11 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その二百七十一(吉備の国)

 「まほろばの吉備津の神の青嵐」      倉田紘文 

         ※青嵐(あおあらし:青葉の頃に吹くやや強い風)

吉備の国は古代有数の地方国家の一つで、その支配地は現在の岡山県全域、
広島県東部、香川県の島々の一部、兵庫県西部にまたがる広大なものでした。
北九州とともに真っ先に稲作が始まった地とされ、さらに鉄の生産、塩田の経営、
瀬戸内海の制海権掌握による海上貿易、造船技術を持つ強大かつ豊かな王国です。

歴代の天皇とも婚姻関係を結び大和朝廷とは政治的な同盟を結んでいましたが、
強大になり過ぎることを恐れた雄略天皇は国の解体をもくろみます。
そして、7世紀から8世紀のはじめ、度々の反乱にもかかわらず、ことごとく制圧され、
ついに備前、備中、備後、美作(みまさか)の4国に分国されました。

現在では上記4国のほか吉備路、作州(美作)ともよばれ、歌や文学、観光案内などに
その名をとどめております。

「 大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば
    筑紫の児島 思ほえむかも 」    巻6-967 大伴旅人


( 都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんの
 ことを思い出して辛い気持になるだろうなぁ )

吉備の児島は現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島で、古代は独立した
大きな島でした。
付近の海流が早く、潮待ちの港として栄えたところです。

730年大伴旅人は3年間の大宰府長官の任を終え、帰途の旅につきます。
筑紫を去る日、多くの見送り人の中にまじって児島という遊行女婦(うかれめ)の姿が
みられました。
貴族の宴会に招かれ歌を詠んだり、民謡を歌ったりして座を取り持つ教養のある地元の
女性です。
大宰府赴任直後に妻を亡くした63歳の旅人にとって児島のような歌才と優しさを持つ
女性の存在は大きな慰めであったことでしょう。
別れに際して袖を振る児島。

袖振るという行為は古代人にとって相手の魂を鎮め、その魂を招く事を意味していました。
「身分違いの自分なのに無礼とは知りつつ、ついつい我慢が出来なくなり、
はしたないことをいたしました。お許し下さい」と涙ながらに詠う児島。

衆目が注視する中、「ますらをと思っていた私もつい涙が流れでたことよ」と
情の断ちがたい心のうちを打ち明け、「児島を通過する時、お前を思い出すのは辛い事だ」と
応えた心優しい旅人です。

「 牛窓の波の潮騒 島響(とよ)み
   寄(よ)そりし君に 逢はずかもあらむ 」 巻11-2731 作者未詳


牛窓は現在の岡山県瀬戸内市にあり、日本のエーゲ海と讃えられている美しい港町です。
小高い丘にはオリーブ園が広がり、そこから眺める紺碧の海と島々はまさに風光絶佳。
とりわけ夕日が次第に落ちていくさまは幻想的ですらあります。

潮流が早く、満潮時に逆風が強く吹き付けるとサワサワと音を立て、静かな夜などは
島中に鳴り響いていたのでしょう。

( このように港中に噂されたあなたと私との間柄なのに、もう逢いにきて下さらない
  のでしょうか ) と嘆く乙女。

明治から大正にかけて活躍した竹久夢二は牛窓の生まれです。
代表作「宵待草:よいまちぐさ」の一節「待てど 暮らせど 来ぬ人を」を
思い出させるような一首です
 
   「夏来ると 備前の窯の 焔(ほ)むら立つ」 平岡真木子



by uqrx74fd | 2010-06-13 18:14 | 万葉の旅 | Comments(0)

万葉集その二百六十五(鞆の浦)

 「春の海ひねもすのたりのたりかな」 蕪村

『 私の家(うち)は先祖から広島県の鞆(とも)であった。- -
  筝曲「春の海」は瀬戸内海の島々の綺麗な感じを描いたもので、
  長閑(のどか)な波の音とか、船の櫓(ろ)を漕ぐ音とか、また鳥の声と
  いうようなものをおり込んだ。
  曲の途中で少しテンポが速くなるところは舟歌を歌いながら、
  櫓を勇ましく漕ぐというような感じをだしたものである。』 
                     ( 宮城道雄 「春の海」より要約 岩波文庫)

「 海人小舟(あまおぶね) 帆かも張れると見るまでに
     鞆の浦みに 波立てり見ゆ 」 
              巻7-1182  作者未詳 (173:古代の船 既出) 


( 鞆の浦の海が荒れてきたようだ。
 海人が小舟の帆を張っていると思われるほどに白波が立っているよ)

普段は穏やかな鞆の海上に風が出てきて、白帆のような波が立っているさまを
詠った一首です。

鞆の浦(広島県福山市)は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西の潮流の分岐点、
すなわち、東は紀伊水道、鳴門海峡、西は豊後水道、関門海峡から瀬戸内海に
流れ込む潮がちようど鞆の浦あたりでぶつかり合うため、古くから潮待ちの
要港として栄えました。

「鞆」とは弓を射るときに使う皮製の防具のことで、その昔、神功皇后が
征韓のとき往路ここに寄港し、海の守護神、大綿津見(おおわたつみ)に戦勝と
海路の平穏を祈り、凱旋の時に鞆を奉納したことに由来すると伝えられています。

( 他に「トマ」転訛説あり。「ト」は瀬戸と同じ水道、「マ」は対馬と同じ島の意)

「 ま幸(さき)くて またかへり見む ますらをの
     手に巻き持てる 鞆の浦みを 」 巻7-1183 作者未詳


( 無事に戻ってまた見よう。
 ますらをが手に巻き持つ鞆と同じ名前を持つこの美しい鞆の浦を )

作者はここに寄航してさらに西へ船旅を続けていくようです。
地名起源の伝説を読み込み、かって神功皇后が旅の平穏を祈ったように、
自身の前途の幸運を願ったのでしょう。

   「鞆の津の古りし雁木(がんぎ)や鳥雲に」 亀井朝子

雁木とは江戸時代に築かれた船着場の石段で、潮の順位を見せ、満ち引きに
関係なく荷物の積み下ろしが出来るようにしたものです。
( 現在、200mにわたって残されている)

「山紫水明」 この言葉は中国のものではなく
頼山陽、鞆滞在の時の造語とされています。
「山水の景色は清麗、朝暮の眺望はことによい」の字義通り鞆の浦は
古くから景勝の地として知られており、江戸時代、朝鮮通信使(使節)は
「日東第一形勝」(日本で一番美しい景勝地)と褒め称えています。

鞆の浦は景観だけではなく昔から話題に事欠かない土地柄で
幕末には坂本竜馬が率いる海援隊の「いろは丸」(170トン)と紀州藩の軍艦、
明光丸(880トン)とが衝突し、竜馬が巨額の賠償金を大藩からせしめた事件、
最近では、映画「崖の上のポニヨ」製作にあたって宮崎駿監督がここに滞在して
構想を練り一躍有名になり、さらには港の一部を埋め立てるという景観を
破壊しかねない計画が裁判になり差し止め判決が出るなど- -。

そして鞆の浦の食の名物はなんといっても鯛。

『 春、魚島の季節になると、鯛は産卵のため外洋から三つの関門を潜って
瀬戸内に入ってくる。 
みんな燧灘(ひうちなだ)の走島を目がけて来て、走島の近くの岩礁に卵を産み、
それがすむと一方的に西の関門から外界に出る。
どういふものか鯛は瀬戸内に入ってくるときには三つの関門から入ってくるが、
ことごとく長門の関門から出て行って、豊予、紀淡の関門から出て行く鯛は一つもない。
これは瀬戸内の七不思議の一つだと思っておる。』 

(井伏鱒二 [ 鞆ノ津茶会記]より要約 福武文庫)

筆者註:魚島の季節=鯛が多く取れる陰暦三月から四月の頃をいい
魚島時(うおじまどき)ともいう。

  「 燧灘(ひうちなだ)目差し鯛網 船続く 」  岡田一峰

by uqrx74fd | 2010-05-03 07:38 | 万葉の旅 | Comments(0)