カテゴリ:万葉の旅( 64 )

万葉集その六百七十二 (足柄の箱根 )

( 富士山  三国峠から )
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( 箱根山は列なる山々の総称  手前芦の湖 )
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( 駒ヶ岳山上から芦の湖 )
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( 駒ヶ岳の杉並木 )
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( 大湧谷 )
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( 懐かしの映画 箱根山のポスター )
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( アマドコロ 万葉名:にこ草  暮らしの植物園 佐倉市 )
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万葉集その六百七十二 (足柄の箱根)

奈良時代、足柄は上下二郡に分かれ、箱根は足下郡(あしのしもぐん)に属する
山地でした。
東海道の箱根路はまだ開かれておらず、都との往復は駿河の横走駅(御殿場市)から
足利峠(759m)を越えて相模の国に入り足上郡の坂本駅(南足利市関本)に達する
官道を利用していたそうです。
駅とは公用の旅行や通信の為に馬や船、人を常備している場所をいいます。

日本紀略によると、
「 平安時代、桓武天皇802年、富士山が噴火して通行できなくなったので
  箱根路を開いたが、翌年足利路は復旧された」
という記録があり、その後噴火の心配がない箱根峠を通る街道が
次第に整備され、現在に至っております。

万葉集では「箱根」という地名が見られますが、すべて「足柄の箱根」と
詠われており、その地名の由来は、

「足柄」: 足柄山の杉材で造った船の足が軽くて速いことから
       足軽→足柄に転訛された。

「箱根」:「箱」は「山の形が箱型」であるため、
      あるいは古代、急な崖を「ハケ、ハコ、ホキ」などと呼んだことにより
      「崖のような斜面が多い」の意。

「根」は「嶺、山」を意味しているそうです。

 
「 足柄(あしがら)の 箱根飛び越え 行く鶴(たづ)の
      羨(とも)しき見れば  大和し思ほゆ 」
                           巻7-1175 作者未詳

( 足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴、
  その鶴が羨ましくも都をめがけて飛んでゆくのが見える。
  あぁ、妻のいる大和が懐かしくて仕方がない。)

作者は都から東国に向かって旅をしているのでしょう。

足柄峠を越える途中、西に向かって飛んでゆく鶴をみて、都が懐かしく
思い出された。

富士山の美しさに感激しながらも、早く都に帰り、愛する妻子に会いたいと
望郷の念を募らせています。

「 足柄(あしがら)の 箱根の山に 粟(あは)蒔きて
        実とは なれるを 粟無くも あやし 」 
                           巻14-3364 作者未詳

( 足柄の箱根の山に粟を)蒔いて 見事にに実ったというのに粟がないとは
 一体どういう事なのだ。)

「粟なく」に「逢わなく」が掛けられており、
「一生懸命育んだ愛なのに、あの子に逢えないとは一体どういうことだ」と
嘆く男です。

女が心変わりしたのか、親が反対しているのか。
からっとしており、畑仕事の作業歌(伊藤博)、あるいは歌垣で詠われたもの
かもしれません。

「 足柄(あしがら)の 箱根の山に 延(は)ふ葛の
      引かば寄り来(こ)ね 下なほなほに 」 
                    巻14-3364 作者未詳(或る本の歌)

( 足柄の箱根の山に延いまわる葛を引っ張るように
  俺が引っ張ったら、素直にこっちへ来てくれよね。)

       下なほ なほに : 「下」:心底 
       「なほ なほに」:「直直に」で「素直に」

前の歌と同番号で掲載されていますが、内容が違うので、同じく
作業歌だったのかもしれません。
素朴な詠いぶりで、当時葛を引いて収穫する作業は女性の仕事、
束ねて運ぶのは男の仕事だったようです。

「 足柄(あしがり)の 箱根の嶺(ね)ろの にこ草の
    花つ妻なれや 紐解かず寝む 」 
                       巻14-3370 作者未詳

( お前さんが箱根山の嶺に咲いている「にこ草の花」のように手が届かない
  聖女の花妻ならば仕方がないが、そうでないのだから共寝しょうよ。
  何で嫌だと言うのかねぇ?)

「花つ妻」は花のように美しい妻、あるいは新妻。
美しい万葉人の造語です。

何らかの事情で夜の共寝を拒絶された男の嘆き節と思われますが、
拒絶されたのは、神祭りの時など触れてはならない期間、あるいは月の障り?
男の恨めしげな顔が目に浮かぶようです。

折口信夫氏は「結婚前、ある期間厳粛な隔離生活をする処女」とされていますが
結婚後でも新嘗祭などで一定期間精進潔斎する人妻の歌がみられるところから
結婚の有無に関わりなく神に仕えている間の女性か。

「にこ草」:  ハコネシダ、アマドコロ説あるも未詳
         「似児草」「和草」の字が当てられており
         「花が咲く柔らかい草」の意とも。

   「 春祭り  足柄峠  下り来れば 」  平野青坡


        万葉集672 (足柄の箱根) 完


        次回の更新は2月23日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-02-15 16:16 | 万葉の旅

万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

( 伊勢神宮外宮:げぐう 参道 )
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(  同 正宮   衣食住と産業を司る 豊受大御神:とようけおおみかみ を祀る )
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(  同 風の宮 )
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( 宇治橋を渡って内宮参道へ )
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( 宇治橋の下を流れる清冽な五十鈴川 手前の柱は橋を流木から守る木よけ杭 )
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( 伊勢神宮 JRのPRポスター 神々しい雰囲気 )
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( 伊勢神宮 内宮正宮  天照大御神を祀る )
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( おかげ横丁 )
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( おはらい横丁 赤福本店 )
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( 伊勢海老の活き造り  おかげ横丁伊勢丸で)
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(  浜木綿:はまゆふ )
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( 二見が浦 夫婦岩 )
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 万葉集その六百六十六 (伊勢の国)

伊勢といえば伊勢神宮、神風、美しい海、浜木綿、伊勢海老、鮑、真珠。
四方山々に囲まれた盆地に住み、海に無縁の都人にとって憧れの国。
天皇の行幸ともなれば従駕(じゅうが)希望者が続出し、いざ出立の日は
官人、女官、数百人がきらびやかに着飾り、徒歩4~5日の旅を楽しみます。

早朝の清々しい空気の中、神宮に詣で、その神々しさに心洗われて気持を新たにした後、
岩をも砕く荒波、浜木綿が咲き乱れている浜辺、海に潜って鮑を獲る海女などを
目の当たりにした人々は思わず歓声をあげ、夜の宴で美味しい酒や魚貝類に
舌鼓をうったことでしょう。

  「 水澄むや 内宮へ木の橋 匂ふ 」  森高 武
 
万葉集には伊勢海老以外すべて歌に詠みこまれています。
まずは壬申の乱に神風を吹かせて大海人皇子(のち天武天皇)を勝利に
導いたとされる伊勢神宮からです。

「 度会(わたらひ)の 斎(いつ)き宮ゆ  
  神風に い吹き惑はし
  天雲を 日の目もみせず  
  常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を  神ながら 太敷きまして ― ― 。」
                   巻2-199 長歌の一部  柿本人麻呂

     度会(わたらひ):伊勢国の郡名 伊勢神宮の所在地

( 度会に斎き奉る伊勢の神宮から 
  吹き起こった神風で 敵を迷わせ
  その風がよぶ天雲で 敵に日の目も見せず天を真っ暗にして
  平定なさった瑞穂の国、 この国を我が天皇(天武、持統)が
  神のままに ご統治遊ばされ ― )

人麻呂が詠った歌の中で最も長く、かつ傑作とされているもので、
戦いの陣頭指揮を執り獅子奮迅の活躍をされた天武天皇の長子、高市皇子が
亡くなった時、当時の活躍の様子を偲び、褒めたたえたものです。

672年、近江朝との戦いを決意した大海人皇子は吉野を出発し
味方を集結させながら鈴鹿,不破の関を越えて近江の戦場に向かいました。
山越え、谷を渡り、難儀しながらようやく四日市北部の朝明川に辿りついたとき、
皇子は遥か南方の伊勢神宮に向かい戦勝と武運長久を祈ります。

歌は乱戦の最中、突然神風が吹き天地が暗闇に包まれて敵が混乱しているあいだに
攻め込んで大勝を収め、その結果、天皇が神としてこの瑞穂の国を
統治されていると詠っています。(実際には勝利するまで約1か月かかったようですが)

以来、「神風」は伊勢の枕詞となり、国難に際し必ず天照大神(あまてらす おおみかみ)、
豊受大神(とようけ おおみかみ:衣食住、産業を司る)の二神のご加護があると信じられ、
皇室の氏神を祀る守護神として崇められます。

天武天皇は即位後、感謝の意を奉げ、未婚の皇女(大伯皇女:おおくのみこ) を
神に奉仕させるため斎王(さいおう)に任命、神宮に派遣して絆を強化してゆきます。

斎王の始原は崇神天皇の代と伝えられていますが、その後途絶えており。
制度化されたのは天武時代が初めて。
一代一人限りの任命とされ、以降、南北朝時代まで続けられました。

「 大海(おほうみ)の  磯もとどろに  寄する波
       われて砕けて  さけて散るかも 」    源 実朝

伊勢神宮の参拝終わったあとは憧れの海へ。
荒波が岩礁にあたって砕け散る勇壮な場面が出現し、実朝の名歌は
次の一首を本歌取りしたものです。

「 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波
      畏(かしこ)き人に 恋ひわたるかも 」   
                           巻4-600 笠郎女

( 伊勢の海の磯をとどろかして 打ち寄せる波
      その波のように畏れ多いお方に私は恋ひ続けているのです。)

               畏き人:身分が高い人(大伴家持をさす)

作者は大伴家持に恋をしますが、一向に靡いてくれません。
郎女にとっては厳しくも辛い恋。
あらん限りの心情を吐露した24通の恋文をせっせと送り続けましたが反応なし。
遂に諦めて故郷に帰りました。

「 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが
        包みて妹が 家づとにせむ 」 
                  巻3-306 安貴 王 (あきの おほきみ)

( 伊勢の海の沖の白波よ。
  これが花であったらなぁ。
  包んで持ち帰り、いとしいあの子の土産にしょうに。)

作者は志貴皇子の孫(天智天皇の曾孫)。
美しい白波を眺めながら都に残してきた愛しい人の顔を思い浮かべています。
流石、歌の名手の血を引くだけにロマンティックな一首です。

「 伊勢の海の 海人の島津が 鰒玉(あはびたま)
     採りて後もか  恋の繁けむ」   
                        巻7-1322 作者未詳

( 伊勢の海人が、志摩のアワビ真珠を採っています。
 もし私がそのような貴重な真珠、すなわちあの女性を得ることができたならば、
 後々まで変わることなく心を引かれ、思いを募り続けることが出来ようか。)

  困難であった恋がまさに成就しようとしているのですが、
  男はその前途に不安を抱いているようです。
  相手は身分違いの高貴な女性でしょうか?

 「島津」は「しまの津」すなわち「志摩」の地名(沢瀉久孝)で、
  当時から鮑、真珠の名産地として知られていました。

 万葉集での真珠は主として白玉と詠われ、水晶をも含む白い玉の総称と
 されていますが、アワビのみは別格。
 特に重んじられたのは、希少であることと、
 ピンクや青色の色彩が極めて美しく、まさに珠玉であったのでしょう。

「 伊勢の海女の 朝な夕なに 潜(かづ)くといふ
        鮑の貝の 片思(かたもひ)にして 」 
                      巻11― 2798 作者未詳

( 私の恋は伊勢の海女が朝に晩に水に潜って採るというアワビ貝のように
  片思いなのです。
  あぁ- この恋心。一体どうしたらよいのでしょう )

アワビは二枚の貝を持って生まれますが、生後十五日ほどで
透き通った片方の稚貝を捨ててしまうため「磯のあわびの片思い」と
詠われています。

水が澄み、潮の流れが良い海底の岩肌に居を定め、海藻を食べながら成長し、
古くは朝廷への貢物、お祝いの食用として重宝され、また干し鮑にして
保存されました。
 
「 み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももへ)なす
       心は思(も)へど 直(ただ)に 逢はぬかも ) 
                         巻4―496 柿本人麻呂

    熊野: 三重県牟婁(むろ)郡 温泉としても有名

( 黒潮の洋々たる海辺、浜木綿の葉が幾重にも重なり合い白い花は実に美しい。
  このような素晴らしい光景なのに私の心は貴女にじかに会えないので一向に
  晴れやかになりません。
  まるで浜木綿のあの大きな葉が重なり合っているような重々しい気分です。
  貴女に対する熱い想いはあの黒潮の海のように広くて大きいのですが- -)

690年 持統天皇行幸された折の一首。
当時、人麻呂は朝廷の美しい官女に恋をしていたようです。

 浜木綿は茎の先に咲く白い花が神に祈る時に使う木綿の幣(ぬさ)に
似ているところからその名があり、大きな葉は万年青(おもと)に
そっくりなので、「浜おもと」とも。
群生し百合に似た甘美な香りを浜一面に漂わせます。

  「 浜ゆふや はら一ぱいの 花ざかり 」  沾圃(てんほ)

    「はら一ぱい」: 原一杯と腹いっぱい(満足、満足)を掛けているか。
             

江戸時代、「伊勢詣で」は「おかげまいり」と称して爆発的に流行しました。
十分な旅費がなくても道中で無料の食べ物、施行宿があり、神様や街道の
おかげで参宮出来たのです。

以来、現在に至るまで参拝者が絶えることなく大賑わい。
平成25年の年間参拝者は、なんと過去最高の1420万人に達したそうです。

おかげ横丁に入ると昔の面影を残す店の佇まい。
松坂肉、鮑、伊勢海老、赤福餅、美味しそうなものがいっぱいです。

特大の伊勢海老をお造りと焼き海老にしてもらいました。
美味い! 
満ち足りた万葉伊勢の旅。
またいつか訪れたいものです。

   「 伊勢海老の 髭の見事や 生きて着く 」 宮下翠舟


            万葉集666(伊勢の国)完

           次回の更新は1月12日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2018-01-04 15:56 | 万葉の旅

万葉集その六百五十八 (難波)

( 難波宮跡  大阪 )
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( 同上  後方 大阪歴史博物館 )
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( 前期難波宮復元模型 中央大極殿  同上 )
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( 大極殿復元図  同上 )
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( 後期難波宮復元模型  前方 朱雀門  同上 )
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( 女官  大阪歴博 )
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( 侍従  同上 )
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( 堂島米市  同上 )
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( 蔵屋敷   同上 )
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( 北海道の珍魚 フサギンボ  海遊館  大阪港前 )
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(  マイワシ群  同上 )
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(  タカアシガニ   同上  )
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万葉集その六百五十八 (難波:なにわ)

古代の難波は摂津国(大阪府北半と兵庫県南東部)の中心部に位置し、なかでも
大阪湾に面する難波津は瀬戸内海を経て大陸に通じる航路の要衝でした。

古くは5世紀に仁徳天皇が難波高津宮、645年孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
744年聖武天皇の難波宮が営まれ、784年桓武天皇の長岡京遷都までの
約140年間、首都,副都として栄えました。

とりわけ、仁徳天皇の時代、淀川と大和川の合流地点で頻繁に起こる氾濫を
防ぐため、水流を大阪湾に落とす大規模な運河(堀江)を造った結果、
大和から九州、大陸を結ぶ道が直結され遣唐使や防人の往来の
拠点となります。

朝廷は、難波津を管理するために屯倉(みやけ)とよばれる役所を構えて、
役人を常駐させ、天皇の行幸も度々行われたようです。
また、都から貴族、官人たちの出張も多く、海がない大和人にとっては
珍しい光景に接するまたとない機会であり、明るく楽しそうな歌が多く残されています。

「 昔こそ 難波田舎と 云われけめ
    今は都引(みやこひ)き 都(みやび)にけり 」 
                        巻3-312 藤原宇合(うまかい)

( 昔は難波田舎と馬鹿にされもしただろう。
 だが今はすっかり都らしくなり、雅やかなことよ )

645年、孝徳天皇の時代に遷都の詔が出され、652年に完成した難波宮は
役所なども整備されましたが、天武天皇の時代になると再び大和に還り、
683年に難波を副都とする詔が出された僅か3年後の686年に火災ですべて
焼失してしまいました。(前期難波宮)
その後、聖武天皇の726年に都城の再建開始、732年に後期難波宮が完成します。

難波宮再建の責任者であった作者は藤原不比等の3男。
有能な人物であったらしく、見事に期待に応えて立派な宮都を造営させ、
きらびやかに立ち並ぶ建物を眺めながら長い間の苦労が報われた喜びを
噛みしめつつ、感慨にふけっています。
なお、藤原宇合は異色の万葉歌人高橋虫麻呂の庇護者として、あるいは
常陸国風土記の編集者とも推定されています。

「 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
      淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 」
                       巻7-1160 作者未詳

( 難波潟 この潮の引いた千潟に立って見渡すと
 淡路の島のかなたに向かって鶴が鳴きわたって行く )

晴れた日に大阪湾から遠望すると淡路島が美しく臨まれたのでしょう。
その中を鶴が飛び去ってゆく、絵画的な風景です。

「 難波潟 潮干(しほひ)に出でて 玉藻刈る
    海人娘子(あまをとめ)ども  汝(な)が名 告(の)らさね 」
                巻9-1726  丹比真人( たぢひの まひと)

( 難波潟 この潮干の潟に出て 玉藻を刈っている海女の娘さん、
 あなたの名前を私に教えてくれませんか )

「 あさりする 人とを見ませ 草枕
        旅行く人に 我が名は告(の)らじ 」
                          巻9-1727 作者未詳

( 私を千潟で獲物を漁る名もない女とでも見ておいてくださいませ。
     行きずりの旅のお方に大切な私の名など、教えられませんわ。)

海に縁がない大和の官人にとって、海辺の海人乙女は異国情緒が漂う憧れの姿。
当時、女性に名前を聞くという行為は、関係を持つことを意味していました。
見も知らない旅のお方に、共寝するなんてとんでもないとはねつけた乙女。
宴席での座興歌だったかも知れません。

「 我が衣 人にな着せそ 網引(あびき)する
      難波壮士(なにわおとこ)の 手には触るとも 」
                  巻4-577  大伴旅人

( 私の大切にしている着物、この着物は、他の人には着せないで下さいよ。
 綱を引く難波男のあなた様が手に触れるのは仕方がありませんが。)

作者が難波に訪れたとき摂津職の長官、高安王の暖かいもてなしを受け
お礼に新しい朝服を贈ったときに添えた1首。
親しい間柄だったのでしょう、長官を難波の漁師に見たてて戯れています。

「人にな着せそ」の「な」-「そ」は禁止を表す言葉で「人」は共寝する女を暗示し、
「寝床の場で着るような代物ではなく、ありあわせのお粗末なもので恐縮ですが」
の意がこもります。

「 津の国の 難波の春は 夢なれや
     蘆(あし)の枯葉に 風わたるなり 」  
                       西行 新古今和歌集

( 明るい光に満ちていた津の国の難波の春、あれは夢だったのであろうか。
 今目に映るものは、蘆の枯葉だけ。
 ただただ、風がさびしく吹き渡っている音がする。)

津の国とは、港の国の意。

都が平安京に遷って以来、難波は政治の中心から外れ、商業、文化都市として
発展してゆきます。
繁栄を誇った難波宮は784年長岡京遷都の時に解体され、
その後埋め立てられたのか後世になると、どの場所にあったか
全く分からなくなってしまいました。

現在、大阪城近くに北接する難波宮遺跡は1871年(明治5年)以降
兵部省(のち陸軍省)の管轄地になり、戦後占領軍に接収。
戦後に解除された後、偶然にも大極殿屋根に使われたと推定される
鴟尾(しび)が発見され、発掘作業がなされた結果、難波宮跡と確認、
現在も作業が続けられています(約89000㎡)。
この発見がなければ恐らく今ごろはビルが立ち並んでいたことでしょう。

この遺跡保存最大の功労者は、元大阪商大教授山根徳太郎氏。
「ここが難波宮跡」と説きつづけても誰からも相手にされず、
幾多の反対、無視をはねのけた氏の確固たる信念と燃えるような
情熱が無ければ、日の目を見ることが出来なかった(直木孝次郎氏)そうです。

また、近くの大阪歴史博物館で発掘された品の数々や、当時の復元模型などが
展示されており、近くの大阪城とあわせ古代から中世をつなぐ
歴史街道となっています。

今や大阪人の「難波」は「なんば」、「なにわ」と呼ぶ人は滅多におりません。

 「 堀返す 難波(なにわ)の宮や 花菫(はなすみれ) 」   阿部月山子


          万葉集658(難波)完


          次回の更新は11月17日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-11 19:55 | 万葉の旅

万葉集その六百三十一 「 美(うま)し 東北 」

( 東大寺大仏  創建時 金色に輝く東北産の金で覆われていた )
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( 安達太良山  福島県 )
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( 多賀城跡 奈良時代最北の国府 宮城県 )
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( 陸奥の国の範囲  10世紀には東北全域に及ぶ  多賀城跡で)
                    
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(  裏磐梯 五色沼  福島県 )
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(  裏磐梯  福島県 )
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(  三春滝桜    福島県 )
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(  復興を祈って旗のぼり  三春 )
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(  護国神社 仙台 )
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( 仙台七夕 )
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( 田沢湖  秋田 )
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( 奥入瀬川   青森 )
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(  ねぶた    同上 )
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万葉集その六百三十一「美(うま)し東北」 

「大震災の発生が東北でよかった」
無神経かつ心無き発言で被災者の方々を傷つけ、多くの国民から顰蹙(ひんしゅく)を
買って即刻罷免になった某大臣。

「東北でよかった」(東北に住んでよかった)
と即座に切返し、美しい四季の風景や特産品の写真と共に
暖かい言葉で支え、勇気づけた19万人超のツイッタ-の投稿。

まさに言葉は心の鏡。
一度口から発せられたものは二度と戻りません。
一言の重みをつくづく感じさせられた出来事でした。

今から1300年前の万葉時代、常陸(茨城)下野(栃木)から北方を
陸奥(みちのく)の国とよんでいました。
今の福島県、山形県内陸部、宮城県一円の地域にあたり、万葉歌に見える
北限に近い場所とされています。

東北に関する歌は多く残されていますが、その中から数々の挿話と共に
語り継がれてきた3首を取り上げてみたいと思います。

まずは、大仏建立に関するものです。
743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。

当時の世相は藤原氏と天皇親政派の間の権力闘争、加えて農村にうち続く疫病と飢饉。
戦乱や相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃と村人の逃亡、
など混沌としていました。

天皇は社会のあらゆる面で対立が激化する国内の混乱を、
世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかろうとしたのです。

ところが、大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生しました。
像に塗るべき金(きん)が入手出来ません。

海外からの輸入もやむなしと検討していた矢先の749年、
なんという幸運! 陸奥の国から金が産出したとの報告があり、
陸奥国守、百済王敬福(くだらの こにしき きょうふく)が
管内の小田郡から産した黄金を献上。

今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が
発揮されたものと思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた
用意周到な人事が功を奏したものと思われます。 

天皇は狂喜され、産金は神仏が大仏の造立を祝って表出してくれたものと受け止め、
そのことを寿ぐ長大な詔を発せられました。

その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、
感激した大伴家持が感謝の意を捧げて下記の歌を詠みます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                            巻18-4097 大伴家持 

( 天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

今日、巨大な大仏を仰ぎ見る時、古の東北の人々が苦労を重ねて金を探し求め
天皇に献じた有難さをしみじみと思い浮かべます。
奈良の大仏は永遠に東北と共にあり、その慈悲ある目ざなしで
復興早からんことを見守り続けられることでしょう。
なお、金産出場所は現在の宮城県遠田郡とされ「黄金山産金遺跡」として
遺されています。

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の
     浅き心を 我が思はなくに 」 
                          巻16-3807  前采女(さきのうねめ)

( 安積山の姿さえくっきりと映し出している清らかな山の井、
 あの水は浅いですが、私はあのような浅はかな気持ちで、
 あなた様をお慕いしているのではありません。
 本気であなたさまを想っているのですよ )

「安積香山」 :福島県郡山市日和田の郊外にある小さな丘

「影さへ見ゆる」: 山の影までくっきりと映っている清らかな浅い水

「山の井」 : 人工の井戸ではなく、山から自然に湧き出た水を堰き止めて
         飲料水にしているところ

「浅き心を」: 浅くは

「我が思はなくに」: 私はあなたを想ってはいないのに
             浅く思っていない→ 深く想っている

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 」までが
「浅き心を 我が思はなくに 」を引き出すための序詞です。

この歌の前に註があり

「 云い伝えによると、葛城王(後の左大臣 橘諸兄とみられる)が若き頃 
 陸奥国に派遣された時、国司の接待が極めていい加減だったので
 王は怒りの表情を顔に浮かべ飲食の饗応もまったく楽しげではなかった。

 その宴席に、以前天皇に近侍していた采女がいた。
 立ち居振る舞い風流(みやび)やかな美女である。
 客人のご機嫌ななめと見て取ると、おもむろ立ち上がり、
 左手に酒杯、右手に水瓶を持って、王の膝をたたきながら拍子をとり、
 この歌を詠んだ。
 すると王の気持ちはすっかり和らぎ、始終楽しく飲んで過ごした。」

この歌は元々安積香山近くに住んでいた男女の間で交わされていた恋歌で、
一種の民謡であったと推定されていますが、古今和歌集の仮名序で高く称賛され、

「 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
                   今や春べと さくやこの花 」

の歌と共に、貴族の子女の手習いの材料とされて一躍有名になったものです。

この歌が評価されたのは、
自然の風景をとりいれ人を和ませる機知と風流、適度の色気、
調べよく覚えやすい、ことなどでしょうか。
賢明な葛城王も酒席での野暮を即座に悟ったようです。

「 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
                           巻14-3428 作者未詳

( 安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。
 私もお前のところへ通い続けるから、
 いつでも共寝できるように待っていてくれよね。 )

この歌の解釈には色々な説がありますが、
佐々木幸綱氏は「二人の間に何かトラブルでもあって、
女が“もう通ってこないで!”などとすねてしまった。
そんな場面を思い浮かべればこの歌の意味が理解しやすい」
と解説されています。(万葉集東歌)

もともとは山野で働く人達の作業歌だったのでしょうか。

「 格子戸に 山百合かをる  智恵子の間 」 金子智代 

         ( 智恵子の生家、長沼家は二本松市の旧奥州街道に面した酒造家)

安達太良山が不朽の名になったのは、高村光太郎の「知恵子抄」。

「 あれが 阿多多羅山 (あたたらやま)
  あの光るのが 阿武隈川 (あぶくまがわ)
  かうやって 言葉すくなに座ってゐると
  うっとり ねむるやうな頭の中に
  ただ遠い世の  松風ばかりが 
  薄みどりに吹き渡ります 」

                   高村光太郎 智恵子抄 (樹下の二人より)

「 智恵子は東京に空が無いといふ。
 阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 
 智恵子の ほんとの空だといふ」 
                     ( 智恵子抄 あどけない話より)

人々は「智恵子のほんとの空」を見たくて車窓から安達太良山を眺め、
    山に登ります。
    安達太良山の頂上は、つんと突起しており「乳首山」ともよばれていますが、
    二本松方面からみた山容はいくつもの山が連なった連峰で、
    どの頂が安達太良山の頂上か分りにくく、万葉人が見た安達太良山は
    恐らく連峰全体をさしているのでしょう。

   「 安達太良は 北の雄嶺ぞ 帰る雁 」   篠田 悌二郎




         万葉集630 「 美(うま)し 東北 」 完


         次回の更新は 5月9日(火)の予定。
          ( 通常より早くなります )
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by uqrx74fd | 2017-05-02 19:33 | 万葉の旅

万葉集その六百二十五 (早春の奈良)

( 八房梅: ピンクが美しい  奈良万葉植物園 )
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( 杏子:アンズ  同上 )
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( 夜の梅  奈良公園 )
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( 名残の梅  飛鳥 )
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( ミツマタ   奈良万葉植物園 )
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(  お水取の大松明  東大寺二月堂 )
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(  同上 )
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(  同上 )
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(  豪快に飛び散る火花  同上 )
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(  同上 )
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今日は3月14日。
桜には早く、梅はそろそろ散り始めという時期です。
それでも、「せめて早春の空気なりとも」と思いながら古都奈良へやって参りました。

まずは、万葉植物園へ直行。
どんな花が咲いているかなぁと様子見です。
ミツマタの蕾が大きく膨らみ花が四つ五つ。
嬉しいことに梅、杏子が私の訪れを待ちうけてくれていたように今が盛りと満開。
赤白桃色のコラボレーションが美しく、この一角だけ春爛漫です。

「 御園生(みそのふ)の 百木(ももき)の梅の 散る花し
     天(あめ)に飛びあがり 雪と降りけむ 」 
                        巻17-3906 大伴書持(ふみもち) :家持弟

( 「天から流れくる雪」とはきっとお庭の百木(ももき)の梅の散る花
  その花びらが天空に舞い上がって雪となって降ったものなので
  ございましょう 。)

この歌は父、大伴旅人の

「 我が園に 梅の花散る ひさかたの
          天(あめ)より雪の 流れ来るかも」 
                         巻5-822  大伴旅人
に唱和したもの。
    風に吹かれて梅の花びらが舞い散り、雪かと見まごう。
    この世のものとは思えない幻想的な世界です。

   百木(ももき):沢山の梅の木

日が落ち気温は5℃位か、風が強く真冬のように寒い。
夕闇の中、御蓋山麓の宿に向かって急ぎ足。
途中に梅林があり、スポットライトを受けて美しく、夜になったらまた
撮影に来ようと場所を記憶する。

「 ぬばたまの その夜の梅を た忘れて
       折らず来(き)にけり 思ひしものを 」 
                      巻3-392   大伴百代(ももよ)

( あの夜見た時 これはと当りを付けておいた梅だったのに
 ついついうっかりして手折らずにきてしまった。
 心の中では折ろうと思ったのになぁ。 )

作者は梅を女性に譬えているようです。
いつか口説き落そうとして目をつけていたのに、
ついついそのままにしてしまった。
素晴らしい女性だったのに残念なことをしたわいと悔やむ作者。
宴席での戯れだったかもしれません。

「 如月(きさらぎ)を  奈良いにしへの 御ほとけに
         浄(きよ)き閼伽井(あかゐ)を 汲む夜にぞあふ 」     中村憲吉

宿に入るとご主人が
「今夜 お水取り行かれますか。
もしご希望なら食事早めにお出ししますが」と
尋ねて下さり、
「あぁ、そうだ、今日は御松明の最終日」と思い出し、喜び勇んで出向く。

午後6時半から約1時間。
10本の大松明が天にも届けと炎を上げ、火の粉が豪快に飛び散る。
燃え盛る巨大な炎がお堂の庇(ひさし)に届きそうになり周囲のどよめきが夜空に響く。
圧巻の火祭りです。
  
「 お松明 燃えて星空 なかりけり 」   開田 華羽

今日でお坊様がたの14日にわたる厳しい修行が終わります。
752年の大仏開眼以来1266回絶えることなく続けられている伝統行事。
これからも絶ゆることなく、続けられることでありましょう。

最後の松明が消えると、辺りは暗闇と静寂に包まれ、大観客が警官の誘導で
整然と坂を下る。
余韻冷めやらぬ中、奈良公園を通って夜の梅を撮影し宿へ。
早春の古都の清々しい一日でした。

   「 水取や  提灯借りる 東大寺 」  塚本虚明


ご参考:

「 お水取とは 」


「 お水取は東大寺二月堂で行われる仏教行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、
  目的は、仏の前で罪過を懺悔すること(悔過(けか))。
  心身を清めた僧(練行衆:れんぎょうしゅう)が十一面観音の前で宝号を唱え、
  荒行によって懺悔し、あわせて天下安穏などを祈願する。

  現在3月1日から14日間にわたっておこなわれ、
  3月13日の午前2時を期して、二月堂のほとりの良弁杉の下にある
  閼伽井屋(あかいや)のお香水を汲み取り、本堂に運ぶ儀式が行われる。

  この夜、井戸の中には遠く若狭の国から地下水道を抜けて送られた聖水が
  湛えられていると信じられており、この水を1年間の仏事に供するため
  壺に汲み取っておくのである。

  籠りの僧が大松明を振りかざしつつ石段を駆けのぼり、二月堂の回廊に
  これを打ち据える行は壮観で、庇をこがすばかりの炎から堂下の
  群衆に火の粉が舞い散る。
  お水取りが済むと、奈良に春が本格的に到来すると云われている。

  なお、若狭国から聖水が送られる由来は、昔、遠敷(おこう)という若狭の神様が
  魚を採っていて、二月堂の参集に遅れたお詫びとして、二月堂のほとりに
  清水を湧き出させ、観音様に奉ったとの言い伝えによる。
 
以下は白洲正子さんの一文からです。

『 奈良のお水取は、毎年3月12日の夜半に行われるが、2月堂の修二会(しゅにえ)は
  15日の未明までつづいており、二週間にわたる烈しい行法を終えた練行衆は、
  沓(くつ)の音も軽々と、高い石段を駆けおりてくる。

  ほっとした気分が、お堂の内外(うちそと)にみなぎり、
  東の空には曙光(しょこう)のきざしが現れる。 
  まだ夢を見ているような大和の野べには、薄紫の霞がただよい、
  常夜灯は眠たげにまたたきつつ、次第に光を失って行く。、、、、

  華やかなお水取の行事もさることながら、なにもかも終わった後の、
  このひとときほど美しく、静かに感じる瞬間はない。

  「お水取が済むと春が来る」というのはほんとうのことなのだ。
  さすがに外は寒いけれども、夜明けとともに山にも野にも春の気配が
  しのびよって来る。』 

                  ( 「古都奈良の春色」 新潮文庫 「金平糖の味」に収録)

     
       万葉集625 ( 早春の奈良 ) 完




     次回の更新は3月31日の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-03-23 16:25 | 万葉の旅

万葉集その五百八十五 (東御苑花散歩)

( 紫陽花  皇居東御苑   )
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( 同上 )
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(  アサザ   同上 )
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(  同上 )
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( コウホネ  同上 )
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( ハナショウブ  同上 )
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( カワラナデシコ  同上 )
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( 萩   同上 )
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( 桔梗  同上 )
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(  萱草  同上 )
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(  山百合  大手町ビルの谷間で  )
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東京駅から徒歩10分足らずの皇居東御苑。
海外からの訪問客も多く、いつも賑わっていますが、何しろ広いので
解放感はたっぷり。
大手門から入場し巨大な石垣の間を通り抜けると、まず目に入るのは
緑濃い木々の下で色とりどりに咲く紫陽花です。
 
我国原産の紫陽花は古代から
「幾重にも重なって咲く花」(橘諸兄)
「色変わる花」(大伴家持) と
観察眼も的確に詠われていますが、残念ながら万葉集には2首しか見えません。

 「 あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを
     いませ我が背子 見つつ偲(しの)はむ 」
                巻20-4448  橘諸兄(既出)

( 紫陽花が次々と色どりを変えて新しく咲くように、あなたさまも
 幾年月のちまでお元気でありますよう。
 この紫陽花を見るたびにあなたを思い出し、ご健勝をお祈りしています )

755年旧暦の5月(現在の6月中旬)、官人、丹比真人(たぢひの まひと)宅での
宴の席上、客人として招かれた左大臣橘諸兄が主人を祝福したもの。
真人は諸兄のお気に入りの直属の部下。
親愛の情がこもります。

   「 笠を着て 邸(やしき) のうちの 茶を摘めり 」 野村泊月

紫陽花を愛でつつ散策する中、左手の段々茶畑が点描を添え、
梅の木の下には熟れた実がいたるところに落ちていています。
小鳥が美味しそうに啄んでいますが、酸っぱくないのかしら。
そうだ、そろそろ、梅干し、梅酒を仕込まなければ。

やがて日本庭園。
今が盛りと咲く花菖蒲、そして池面に「あさざ」や「こうほね」が。

「あさざ」はミツガシワ科の多年草で、地下茎が長く横に這い、
睡蓮に似た葉を水に浮かべます。

6月から8月にかけて鮮やかな黄色の花を咲かせますが、天気が良い日の
朝にしか開いてくれません。
花の形が蓴菜(じゅんさい)に似ているが食べられないので花蓴菜ともよばれるそうな。

万葉集では「あざさ」と云う名で長歌に1首登場。
恋人を自慢する息子と両親との楽しい会話の中で女性の髪飾りとして詠われています。

「 - 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に  
真木綿(まゆふ)もち  あざさ結ひ垂れ 
大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を
    押へ刺す うらぐはし子 それぞ我が妻 」 
                       巻13-3295 作者未詳(既出)
訳文
( - あの子の緑の黒髪に
 木綿(ゆふ)で「あざさ」を結わえて垂らし 
 大和の黄楊で作った小櫛を 
 髪の押さえに挿している 輝くような美しい娘
 それが私の妻なのですよ )

 蜷(みな)の腸とは食用にしていた田螺(たにし)と思われますが、
緑の黒髪の枕言葉に貝の腸とは面白い表現。
栄養たっぷりなので茹でたり黒焼きにして食べていたようです。

 「真木綿(まゆふ)」の「ま」は褒め言葉、
「木綿」は現在の「モメン」ではなく楮の繊維で結った紐。

髪飾りとして「あざさ」を結いつけて髪に垂らしているのです。

「うらぐはし」の「うら」は心、「くはし」は妙なるほどに。
心にしみるほど輝くばかりに美しいの意。

夜中に頻繁に家を抜け出す息子。
「どうやら恋をしたらしい」と親も薄々気づいていたのでしょう。
とんでもない相手ではあるまいかと心配する両親がある日、事情を聞いてくれた。
これは幸いとばかりに惚気まくる息子です。

「 紫に 裏表ある 桔梗かな 」  島田 左久夫

やがて秋の七草コーナへ。
葛の葉と薄の茎だけかなと思っていたら、何と! 
撫子、桔梗、女郎花(おみなえし)、そして、萩が数株咲いているではありませんか。
年々開花が早くなり、季節感が乏しくなってまいりますが、
目の前の花は初々しく美しい。

「 ひさかたの 雨は降りしく なでしこが
       いや初花に 恋しき我が背 」 
                      巻20-4443 大伴家


( ひさかたの雨は しとしとと降り続いています。
 しかし撫子は今咲いたように初々しく、その花さながらに
 心惹かれるあなたさまです。)

755年大伴家持宅で酒宴が催された折の歌。
主賓大原今城が挨拶で
「 あなたさまのお庭の撫子は毎日雨に降られておりますが
  色一つ変わりませんね 」
と主人、家持の健勝を祝したのに対する返歌。

6月下旬、梅雨の頃に詠われたものですが、当時の撫子も早咲きだった?
ご機嫌伺いのやり取りに美しい花を介する優雅な万葉人です。

東御苑花散策もこれにて終わり。
色々な花を少しづつ愛で、さながら幕の内弁当を食べたよう。
さらに帰り道の大手町ビルの一角の木陰で山百合が一輪。
デザートのおまけです。
何という幸運!
梅雨の晴れ間の清々しい一時(ひととき)でした。

 「 起(た)ち上がる 風の百合あり 草の中 」 松本たかし





     万葉集585 (東御苑花散歩)  完


    次回の更新は6月24日の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-06-17 07:09 | 万葉の旅

万葉集その五百八十二 (風薫る道)

( 薬の神様 大神神社  親友T.Sさんの当病平癒を祈る )
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(  巫女さんの立居姿が美しい  大神神社 奈良 )
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( 山辺の道  奈良 )
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(  橘薫る 朝風に )
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( 蜜柑の花と蝶 )
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( 葉先の紅葉 )
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(  同上 )
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(  同上 )
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( カキツバタ  長岳寺 )
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( サヤエンドウの花 )
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(  矢車草 )
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(  アザミ )
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(  柿の花 )
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大型連休が終わった5月中旬。
今年は花の盛りが早く、藤、躑躅、牡丹,芍薬、菖蒲は既に散り、今は新緑が
美しい時期です。
「風薫る」は「初夏の爽やかな心地よい風」をいいますが、こちらは
文字通り花の香りを運んでくれる風吹く「山辺の道」(奈良)を訪れました。

先づは薬と酒の神様、大神神社と三輪山参拝。
人まばらな早朝の境内は清々しく、巫女の赤白の装束が目にも鮮やかです。
柏手の音が大きく響く。
一礼をした後、薬の道へ向かいます。

「 三輪山の 山下響(とよ)み 行く水の
   水脈(みを)し絶えずは 後も我が妻 」 
                           巻12-3014 作者未詳

( 三輪山の麓を鳴り響かせて流れゆく水、この水の流れが絶えないかぎり
  のちのちまであなたは私の妻なのだよ )

行く水を見つめながら相手に詠いかけている作者は初恋なのか。
瑞々しさを感じる一首。
場所は下り坂にある狭井川あたりでしょうか。

檜山神社に向かう道は、野の花が一杯。
アザミ、矢車草、レンゲ、野イチゴそして山ボウシの木の白い花。
卑弥呼の墓と推定されている箸墓や大和三山が展望できる井寺池あたりの
高台は桃の実やざくろの花。
ここを通り過ぎると新緑の山並みが美しく、たたなずく青垣が続きます。

「 玉かぎる 夕さり来れば 猟人(さつひと)の
       弓月が嶽に 霞たなびく 」
                       巻10-1816 作者未詳


(玉がほのかに輝くような薄明りの夕暮れになると
 猟人(さつひと)の弓 その弓の名を持つ弓月が嶽に
 霞がいっぱいたなびいている )

突然一陣の風が吹き、甘い香りが漂ってきました。
山の麓は蜜柑や橘の木々で埋め尽くされ、白い花が咲き乱れ、
蝶々が飛び廻っています。
まるで夢の世界にきたような心地。
むせるような柑橘類の香りがどこまでも続きます。

「 橘は常花(とこはな)にもが 時鳥(ほととぎす)
     棲むと来鳴かば 聞かぬ日なけむ 」 
                        巻17-3909 大伴書持(ふみもち


( 橘が一年中咲き誇る花だったらなぁ。
  きっと時鳥が棲みつくはず。
  そうなったら その美しい声を聞くことができるのに )

三輪山を右手に眺めながら巻向、景行天皇、崇神天皇陵に向かいます。
撫子、豆、茄子の花。
そして、エゴ、ざくろ、柿の花。

やがて、秋になると紅葉が美しい場所に出ると、
何と!葉の先がすべて紅葉していました。
葉先に種があり、風に吹かれて繁殖するのだそうな。

日に当たって光り輝く美しさは、言葉に表せません。
まさに天の摂理。

「 我が衣 にほひぬべくも 味酒(うまさけ)の
    三室(みむろ)の山は 黄葉(もみち)しにけり 」
                   巻7-1094 柿本人麻呂歌集(既出)

( 私の衣が美しく染まってしまうほどに 三輪の山は見事にもみじしている)

味酒(午酒)は三室の枕詞 神酒を供えるの意
三室は神の籠る土が盛り上がったの意、ここでは三輪山

風花紀行もいよいよ終わり。
ツツジとカキツバタで有名な長岳寺に着きました。
ツツジはとっくに終わり本堂の前の池のカキツバタも残り僅か。
住職の奥様によると今年の花は例年より大分早かった由。

「 かきつはた 佐紀沢(さきさは)に生ふる 菅の根の
   絶ゆとや君が 見えぬこのころ 」
                      巻12-3052 作者未詳

( かきつばたが咲く佐紀沢。
  そこに生い茂っている菅の根でも絶えるといいますが、
  これっきりでお互いの仲が絶えてしまうのでしょうか。
  あの方が一向にお見えにならない今日この頃。)

かきつはた:杜若 ここでは佐紀沢の枕詞
佐紀沢: 平城京北の水上池周辺の湿地帯

ともあれ僅かでも美しいカキツバタに出会えたのはラッキー。
心地よい花薫る風に吹かれながら歩いた10㎞でした。

打ち上げは例によって、近くの「千古」という蕎麦屋さん。
渇いた喉にビールをグイと流し込む。
あぁ!美味い! 
極楽、極楽。

「 都辺は埃(ちり)立ちさわぐ 橘の
         花散る里に いざ行きて寝む 」  正岡子規



   万葉集582 (風薫る道) 完

  次回の更新は6月3日の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-05-27 06:47 | 万葉の旅

万葉集その五百五十六 (我が心の佐保)

( 佐保路散策マップ  画面をクリックすると拡大できます)
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( 佐保山〈後方〉 中間の家並みあたりに古代貴族の邸宅があった 二月堂で撮影)
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( 東大寺転害門 〈国宝〉 ここから正倉院、東大寺まで5分)
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( 転害門内側から佐保路を見る 今は狭く住宅がびっしり )
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( 般若寺  石仏とコスモスが美しい )
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( 興福院:こんぶいん 閑静な尼寺)
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( 不退寺 在原業平ゆかりの寺院 )
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( 佐保川  近鉄新大宮駅から5分 )
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( 聖武天皇陵  後方 佐保山 )
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( 法華寺  光明皇后ゆかりの寺院 )
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(  奈良女子大 クラシックなたたずまいは絵になる )
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奈良県庁の屋上展望台から四方を見渡すと、東に春日山、西に平城京跡、
南、三輪山、北に京都方面が臨まれます。
佐保山は春日山、若草山から少し離れた東北に位置する標高わずか120m余の
丘陵といってもよい山で、細く長く続く麓に沿って佐保川が流れています。

この辺りは昔、「佐保の内」とよばれ、長屋王、大伴、藤原家など
貴族の大邸宅が立ち並ぶ高級住宅街。
中でも壬申の乱の功労者 大伴安麻呂は佐保大納言と称され、旅人、家持、
大伴坂上郎女等、大伴一族が活躍した場としても知られています。

美しい川のせせらぎ。
千鳥、河鹿が鳴き、川沿いは柳の並木道。
四季折々に船を浮かべての酒盛り。
この地を愛した万葉人は34首もの佐保を詠っており、一地名としては
住吉、吉野にならぶ歌枕です。
                ( 注:歌枕とは古歌に詠みこまれた諸国の名所)

「 わが門(かど)に 守(も)る田をみれば 佐保の内の
     秋萩すすき 思ほゆるかも 」  
                          巻10-2221 作者未詳


( 我が家の門の前で 番をしている田を見ていると
  佐保の里の内の秋萩や薄のさまが思い出される )

作者はこの地在住なのか都人なのかはっきりしませんが
平城京郊外の家の前の田で収穫に従事しながら、佐保の萩や薄が一面に咲いている
情景を思い出しているようです。
佐保の内に恋人がいるのかもしれません。

朝廷から田地を賜っていた官人の中には都から遠く離れた地を
割り当てられた人もいました。
田植えや収穫時なると休暇をとり、仮屋を建てて農作業。
朝廷の役人といえども家族共々畑仕事に従事していたのです。

「 佐保川に 騒ける千鳥 さ夜更けて
      汝(な)が声聞けば 寐寝(いね)かてなくに 」
                             巻7-1124 作者未詳


( 佐保川で鳴き騒いでいる千鳥よ。
  夜が更けてからお前の声を聞くと,寝ようにも寝られないよ )

佐保川のせせらぎの音、千鳥の鳴く声。
瞼に浮かぶは恋人の姿
長い長い秋の夜です。

「 佐保山を おほに見しかど 今見れば
      山なつかしも 風吹くなゆめ 」  
                      巻7-1333 作者未詳


( 佐保山よ、今までたいして気にもとめずに見ていたが 
  今改めてみると心惹かれる。
  風よ、吹かないでくれ、決して。)

「佐保山」を女性に譬えたもの。
今まで大して気にもとめなかったが、久しぶりに見ると驚くほど
美しくなっている。
「こんなに魅力ある女性だったのか ようーし、俺のものにするぞ。
 誰も邪魔するなよ 」
と意気込む男。

「おほに」  いい加減に
「 風吹くなゆめ 」「ゆめ」決して  風は邪魔立てする人の譬え。

尚、佐保山は後に「佐保姫」とよばれ春の訪れを知らせる女神とされました。
やさしいなで肩のような山容が女性を連想させるのでしょうか。

「 あおによし 奈良の 春日山ま近く 
    佐保路に沿いて 佳き環境に 恵まれつつ - -」 (奈良高校校歌)


と歌われている佐保路も今は両側に家がびっしり建ち並び、川は暗渠となって
見る影もありません。
僅かに聖武天皇陵脇と近鉄新大宮駅近くに流れている佐保川が昔の面影を
留めているのみですが川幅は狭く、柳並木は桜並木に変わっています。

以下は筆者のひとり言です。

『 佐保路は高校時代の通学路だったので思い出深いところです。
  当時、転害門は悪童の遊び場になっており、壁にボールを投げたり、
  柱の間をバトミントン、羽子板で遊んだりして荒れ放題になっていました。
  鳥や野良猫が棲みつき、信じられないことに国宝という看板も保護囲いもなく、
  大切な建物だという事を大人が教えなかったので子供達は知らなかったのです。

  旧宅から東大寺、正倉院まで5分。
  家の二階から東の方向を眺めると春日、御蓋、若草山がパノラマ状に展開し、
  恒例の若草山焼きは大人たちが酒盛りしながら見学していました。
  近くの竹藪でオニヤンマ、東大寺の横の小池では蛍がたくさん飛びかい、
  車で30分位の山で松茸がふんだんに採れるという夢のような環境でした。』 

現在の転害門は立派に修復されていますが、周囲は民家がびっしり立ち並び
 昔の面影は全くありません。

 もし、古を偲ぶとしたら、佐保路の出発点、転害門から京都方面に向かう
 なだらかな坂道(奈良坂)を上がり、コスモスと美しい石仏で知られる般若寺へ。
 この辺りが佐保丘陵の頂上で、ここから、すぐ先の林に囲まれた小道を下ってゆくと、
 平城京に向かうことができます。

 大伴旅人の邸宅が近かったとされる瀟洒な尼寺「興福院(こんぶいん)」、
 在原業平ゆかりの「不退寺」、仁徳天皇との愛の歌で有名な磐姫(いはのひめ)皇后の
 御陵、十一面観音像で有名な光明皇后の居宅「法華寺」など、往時の歴史の舞台を
 巡るのも楽しいことです。

   「佐保川の 白鷺けぶる 花の雨 」  犬童 冴子



ご参考:

「佐保路」:   東大寺の転害門から西の法華寺に至る大路 
         佐保山の麓 佐保川の北岸に沿う。
         平城京の南一条門の大路で聖武天皇、光明皇后稜や多くの寺がある。

「佐保川」:   春日山東方の石切峠に発し、奈良市北部を西南に流れ、大和郡山市
          額田部の南で初瀬川と合流して大和川となる。
          全長19km 古くからの歌枕

「佐保陵(さほのみささぎ)」:
              法蓮の西一条南大路と佐保川とが交叉するところから
              すぐ北に、うしろに佐保の丘陵を負って聖武天皇と
              光明皇后との御陵(墓)がある。
              天平文化の最盛期をつくりだした信心あつい天皇と皇后、
              東の方角にその象徴である大仏殿の甍が聳え立つ。

「海龍王寺」:     光明皇后の本願で創建、唐から帰った玄昉(げんぼう)が住したという

「法華寺」:    光明皇后が父不比等の旧宅を寺としたもので大和国の総国分尼寺となり
           尼僧の修法道場として栄えた

「興福院(こんぶいん)」 : 閑静そのものの瀟洒な尼寺 

「不退寺」:   在原業平が平城天皇の萱(かや)の御所に自作の観音象を安置し
          精舎としたのが始まりで業平寺ともいわれる
                                             以上
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by uqrx74fd | 2015-11-27 06:34 | 万葉の旅

万葉集その五百三十八 (鎌倉花散歩)

( イワタバコ  北鎌倉 東慶寺 6月中旬 )
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(  イワガラミ   同上   )
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(  明月院ブルー 北鎌倉 )
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(  花地蔵  同上 )
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( 赤い紫陽花がいっぱい   亀ヶ谷切通し )
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( 萱草  源氏山公園の下で )
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( 山ユリ  同上崖下で )
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(  同上 )
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(  鶴岡八幡宮   鎌倉 )
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「 ま愛(かな)しみ さ寝に我(わ)は行く 鎌倉の
     水無瀬川(みなのせがわ)に 潮満つなむか 」 
                             巻14-3366 作者未詳


( あぁ、あの子が可愛くて可愛くてどうしょうもない。
 よぉ-し、俺は愛しい彼女を抱きに鎌倉へ行くぞ!
 それにしても、あの水無瀬川、今ごろ水が溢(あふ)れているかもしれないな。
 渡れるだろうか。)

川向うの隣村の乙女に惚れた男。
「潮満つ」は女の村の男たちのよそ者に対する妨害、嫌がらせを暗示しています。
当時、縄張り意識が強く、他村の女性に手を出すことはタブーだったのです。
下手すると、袋叩きにあうかもしれません。
それでも、「どんな困難があっても行くぞ」思わせるほど魅力ある女性だったのでしょう。

水無瀬川は鎌倉神輿ヶ岳に発し、由比ガ浜で相模湾にそそぐ稲瀬川(伊藤博)。

そんな歌を思い出しながら梅雨の晴れ間に北鎌倉へ向かいます。
まずは、イワタバコとイワガラミが咲く東慶寺。
イワタバコは古くは「山ぢさ」とよばれていました。

「 山ぢさの 白露重み うらぶれて
       心も深く 我(あ)が恋やまず 」
                      巻11-2469 柿本人麻呂歌集(既出)


( 山ぢさが白露の重みでうなだれているように、私もすっかりしょげてしまって。
 でも、あの人を心から愛する気持ちは一時も止むことがありません。)

日蔭で育つ「山ぢさ」はただでさえ茎が細いのに、露が加わり下向き加減にみえます。
その姿は恋の悩みに堪えかねて、うなだれているよう。
可憐な花のさまを自身の気持ちに重ねた一首です。

イワタバコは本州以南の日が当たらない湿った岩壁に自生する我国固有の多年草で、
15~50㎝もある大きな葉が根生し垂れ下がって生えます。
煙草の葉に似ているのでその名があり、淡い紅紫色の五弁の花を咲かせます。
暗がりに群生している姿は、まるで星が輝いているよう。
古代の人たちは、その若葉を山菜として食べ、古葉は煎じて胃腸薬に用いて
いたそうです。

「 裏崖に 花を映して 岩がらみ 」 筆者

「岩がらみ」は一見ガクアジサイに見えますが別種のユキノシタ科の植物。
本堂裏の崖から垂れ下がり、暗闇の中で白い花びらが浮かんで見えます。
まさに幽玄の世界。
ごく僅かな期間だけしか見ることが出来ない貴重な花です。

 東慶寺を出て紫陽花の明月院に向かいます。
 こちらは大変な人混み、入口で列を作り次から次へと並んでいます。

 「明月院ブル-」とよばれる明るい青の紫陽花。
 群生して連なる光景は壮観ですが、道が狭く混みあうので
 ゆっくり鑑賞することが出来ません。
 早々に退散して亀ヶ谷切り通しから源氏山へ。

「 鎌倉の見越(みごし)の崎の 岩崩(いはく)えの
      君が悔ゆべき  心は持たじ」   
                             巻14-3365 作者未詳(既出)

( 鎌倉見越ガ崎の崖はよく崩れる危険なところですが、私のあなたさまに対する想いは
  崖のように決して崩れるようなことはありません。
  「あの女め!心変わりしよって」と
  あなたさまが後々後悔なさるようなそんな不確かな心を私がもつものですか! )

鎌倉乙女が堅い恋心を誓っている歌です。
四つの「の」という「音」を重ねながら大地名、小地名、特定の場所へと運んでゆき、
さらに「崩(く)え」「悔(く)ゆ」の同音の調子が快く響きます。
見越の崎は現在の稲村ガ崎または腰越の崎といわれていますが、
崖崩れで知られていた山沿いの海岸でした。

扇ヶ谷の裏道からは巨岩もあり険しい登り。
おまけに前日の雨でぬかるんでいて滑りやすい。

大勢の小学生が社会科の勉強でしょうか。
「こんにちは」と挨拶しながら先へと進んでゆきました。

切り通しの崖の下や人家に色とりどりの紫陽花の花。
赤色が多く、美しく映えています。

ようやく頂上近くに辿りつきました。
さらに上ると源氏山公園、脇道を下ると銭洗弁財天。

ふと草むらを見ると美しい萱草(かんぞう)が。
濃い緑の中でひっそりと咲く花のオレンジ色がひときわ鮮やかです。
ユリ科の多年草で一重咲をノカンゾウ、八重咲をヤブカンゾウといい、
朝開き午後に閉じる1日花。
若葉は食用、根は薬用なるそうです。

万葉集では「忘れ草」という名で5首詠われています。

「 忘れ草 吾(わ)が紐(ひも)に付く 時となく
      思ひわたれば 生けりともなし 」
                              巻12-3060 作者未詳


( 忘れ草、憂さを払うというその草を着物の下紐につけました。
 年から年中あの人のことを想っていたのでは、生きた心地がしないほど
 苦しいのでね。)

「萱」という漢字に忘れるという意味があり、中国では「憂いを忘れる草」と
信じられていたそうです。
万葉人は着物の下紐に付けると効果があると思っていたのでしょう。
一種のおまじないです。

銭洗弁財天に向かう途中、崖の上に美しい山百合が。
まだ咲きはじめたばかりでしょうか、見目麗しく清楚な姿です。
風に吹かれ馥郁とした香りが漂ってきました。

「 道の辺(へ)の 草深百合の 花笑(え)みに
     笑みしがからに  妻と言うべしや 」 
                           巻7-1257 作者未詳 (既出)

( 道端の茂みに咲く美しい山百合の花。
  その百合が微笑みかけているように、私は行きずりのあなたに
  ちよっと微笑かけただけなのです。
  たったそれだけのことなのに、もうあなたの妻と決まったような事を
  おっしゃらないで下さいな )

相手が微笑みかけてきたのにつられて、つい微笑み返したことに対する
恥じらいと狼狽も感じられる一首。

「草深百合」という美しい造語が乙女の慎ましやかさを引き立てています。

 「 汗ひいて 洞然と 銭洗ふなり 」 石川桂郎

    「洞然と」(とうぜんと)
           「奥深いところから水の音がきこえてくる中で慎み深く」の意か。

銭洗弁財天に着くと、こちらも大勢の人。
高額紙幣を水で洗っている方もいました。
あとで乾かすのが大変でしょうに。

小休止したのち佐助通りを下り、そのまま鎌倉駅の方へ進みます。
市役所の近くのお蕎麦屋さんで昼食。
鎌倉ビールを注文し、肴は蒲鉾と卵焼き。
美味い鴨蕎麦を戴いて鶴岡八幡宮へ。
色鮮やかな七夕飾りが風に揺れていました。

本日歩いた距離は13㎞。
心地よい一日でした。

  「 鎌倉や 音かろやかな 土鈴雛 」  三沢たき

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by uqrx74fd | 2015-07-25 16:58 | 万葉の旅

万葉集その五百二十七 (長谷路 )

( 日本一美しいといわれる登廊  開門一番乗り   長谷寺)
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( 牡丹満開  後方 長谷寺本堂 )
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(  豪華絢爛の桜景色  同上 )
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( 紅葉の五重塔  本堂から )
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(  こもりくの泊瀬秋景色 )
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( 本坊玄関のおもてなし )
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( 朝の修業を終えた僧の後片づけ )
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( 桜、木蓮、サンシュ   登廊から )
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( 長谷路の民家 )
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( 昔ながらの酒屋に地酒が並ぶ )
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( つきたてのヨモギ餅 )
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何時の頃からでしょうか。
昔「隠国(こもりく))の泊瀬」とよばれた この地にかくまで魅せられたのは。
今では年に6回も訪れるほどの惚れ込みようです。
55年前、亡き母と共に歩いた思い出の道。
今年も辿りにやって参りました。

近鉄大阪線長谷寺駅を下車。
長い石段を下り、初瀬川を渡って右折すると往古の名残を残す参道。
昔の花街の賑わいは見るべくもありませんが、道の両側に並ぶ割烹旅館、
薬草、野菜、葛、お茶、三輪素麺、蓬餅などを商う店。
そして、清流の涼しげな音や家の前に飾られた季節の花々が私たちを
温かく迎えてくれます。

1㎞ばかり歩くとやがて長谷寺の入り口。
上を見上げると周囲を木々で埋め尽くされた初瀬山の中腹に堂々たる伽藍が聳え立つ。
春の桜、木蓮、新緑の頃の牡丹、躑躅、秋紅葉。
冬の枯木もまた趣があり、雪でも降れば言う事なし。

遠い昔、岩の上に建立された観音様に憧れた人々は、都から三日、四日の徒歩の旅を
ものともせず、あえぎあえぎながら上った険しい坂道は今や399段の登廊(のぼりろう)。
それでも上まで辿りつくのは一苦労ですから、古の人たちの難儀さは想像を絶する
ものがあります。

「 つのさはふ 磐余(いはれ)も過ぎず 泊瀬山(はつせやま)
    いつかも越えむ 夜は更けにつつ 」   
                                 巻3-282 春日老(おゆ)

( 磐余もまだ通り過ぎていない。
 この分では泊瀬山、あの山はいつ越えることが出来ようか。
 もう夜も更けてしまったのに )

磐余は現在のJR桜井駅近く、東方の泊瀬まで約7㎞。
「つのさはふ」「蔦(つの)さ這ふ」で蔦が岩を這うことから磐余(いわれ)に掛かる
枕詞とされています。
当時、近くに海石榴市(つばいち)という賑やかなところがあり、多くの人は
そこで宿をとっていたようですが、この作者は野宿するつもりなのでしょうか。

それでも恋人がいれば話は別。
険しい山道や岩がごつごつした悪路も何のその。

「 こもりくの 泊瀬小国(はつせをぐに) 妻しあれば
    石は踏めども なほし来にけり 」
                             巻13-3311  作者未詳

( 隠れ処の泊瀬小国には妻がいるので 石踏む険しい道であるけれど
 私は何とかやってきましたよ )

山深い泊瀬は独立した小国とみなされていたのでしょうか。
この近くの朝倉に雄略天皇の宮があったとも伝えられています。

そして、ようやく愛する人が住む家の門前に到着。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                          巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、ようやく愛しい人の家に近づいてきた )

「かな門」は「金門」で鉄や金具を打ちつけた「堅牢な門」 

心を弾ませて門をたたく。
あなたぁ!と抱き合う二人。
あとは想像にお任せいたしましょう。

この歌の恋人を長谷寺に置き換えると今の私の心境にぴったり。
新幹線を乗り継ぎようやく目的の地に着いたのです。
        
 「 恋猫の つきくる初瀬詣かな 」 堀文子

登廊中腹辺りの月輪院で一休み。
裏山を借景にした庭園で戴く抹茶が疲れを癒してくれます。
桜、牡丹、紅葉をかたどった落雁、牡丹絵柄茶碗の心憎いおもてなし。

再び石段を登りはじめます。
左右にその数7千株といわれる色とりどりの牡丹が満開。
この豪華絢爛にして雄大な牡丹園はもと薬草園だったらしく、移植されたのは
元禄時代からだそうです。

「 香に酔へり 牡丹三千の花の中 」  水原秋櫻子

やがて、木造としては我国最大、高さ10mもある十一面観音が鎮座まします本堂に到着。
右手に錫杖、左手に華瓶(けびょう)を持ち、現生利益(りやく)と極楽浄土の先導を
されるといわれる有難い御本尊です。

本堂前の懸崖の大舞台から眺める景色は雄大そのもの。
たたなづく青垣が連なる山々。
点在する堂塔伽藍。
自然と一体となった美しい調和が素晴らしい。

本堂から坂道を上り五重の塔へ向かいます。
この辺りは楓が多く、秋の紅葉が特に映える場所です。
塔から奥の道は墓地、観光客はここで一服してから帰り道へ。
下りの石段の両側にも躑躅や卯の花が咲き乱れ、牡丹園も続いています。

やがて本坊。
前庭にも牡丹が一杯。
振り返ると、あっと驚く雄大なパノラマ。
山を背景にして五重の塔、本堂が左右に立ち並ぶ。
特に桜、紅葉の頃は絶景です。

この風景を心置きなく楽しむために朝の開門と同時に入場。
人一人いない広大な花の寺を独り占めしたような気分になれます。
有難い観音様、心安らかにしてくれる堂塔伽藍、そして美しい花々。
初夏の長谷路を満喫したあと、門前で搗きたての「ヨモギ餅」を頬張りながら
飛鳥へ向かいました。

「草餅の 色の濃ゆきは 鄙(ひな)めきて 」 高濱年尾
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by uqrx74fd | 2015-05-07 21:35 | 万葉の旅