カテゴリ:万葉の旅( 61 )

万葉集その五百十二 (有馬)

( 有馬温泉中心部 )
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( 岩風呂遺構 )
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( 日本第一神霊泉の石碑 )
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( 幕湯 貸切の湯 )
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( 長く逗留する人は温泉の2階を借りて自炊、時々湯女を呼んで宴会 )
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( 有馬筆 )
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( 有馬温泉を訪れた著名人 )
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( 菅  笠の材料 )
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( 菅笠 通販カタログより )
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日本書記、「摂津国風土記」(逸文)によると有馬温泉は蘇我馬子の時代に発見され、
舒明天皇が2回、(631年、638年)、孝徳天皇が1回(647年) 行幸されたと
伝えられています。  
滞在期間は3~4ヵ月に及び、山奥の小さな村に仮宮を造営するなど大掛かりなもので、
現地の人々は突然現れた大勢の高位高官、女官のきらびやかな姿にさぞ仰天したこと
でしょう。     ( 注:逸文とは一部のみ残存する記録)

また、万葉集の左注にも大伴坂上郎女の実母、石川命婦(いしかわのみょうぶ)が
「餌薬(じやく)の事によりて有馬の湯に往(ゆ)き」と記されており(巻3-461)、
古くから格好の癒しの場として多くの都人に親しまれていたことが窺われます。

ただ、温泉を詠ったものは一首もなく有馬山の情景と有馬菅に掛けた恋歌しか
登場しないのは不思議なことです。
「いで湯」は歌の題材として馴染まなかったのでしょうか。

「 しなが鳥 猪名野(いなの)を来れば 有馬山
       夕霧立ちぬ 宿りはなくて 」
                         巻7-1140 作者未詳

( 猪名の野を はるばるやって来ると 有馬山に夕霧がたちこめてきた。
      宿をとるところもないのに )

しなが鳥は「かいつぶり(にほ鳥とも)」といわれ、雄雌相伴うので
「率(い)る」と同音の猪(い)に掛かる枕詞とされています。

猪名野(いなの)は伊丹市 猪名野川流域一帯の野で
有馬山は現在の六甲山か(伊藤博)

古代、この地で狩猟や牛馬の放牧などが行われていたようです。
広々とした原野を心地よく歩いているうちに次第に夕暮れになり、
しかも霧が立ってきた。
周りに民家も見当たらず、やれやれ野宿かと心細くなる作者。
六甲山の吹きおろしは凍えるような寒さであったことでしょう。


「 大君の 御笠(みかさ)に 縫へる有馬菅(ありますげ)
   ありつつ見れど 事なき我妹(わぎも) 」  
                            巻11-2757 作者未詳

( 「大君の御笠に」と縫っている有馬の菅。
  その名ではないが、ありつつ - ずっと見続けているあの子は
  わが伴侶として申し分ないなぁ。)


有馬菅は笠の原料で摂津(兵庫県東南部と大阪府北部)の名産。
この歌では素晴らしい女性に譬えられています。

「大君」は天皇、いささか大げさな表現ですが、帝に献上するほど立派な品と同様、
自分が選んだ女性は素晴らしいと言いたかったお惚気です。

「 人皆(ひとみな)の 笠に縫ふといふ 有馬菅
      ありて後にも 逢はむとぞ思ふ 」
                         巻12-3064 作者未詳

( 世間の人が皆、笠に作るという有馬菅
  その名のようにずっと在(あり)長らえて のちのちでもよいから
  きっと逢おうと思っているよ )

「ありま」「ありて」と「あ」を重ねた軽快なリズム。
貴賤を問わず、雨除け、日よけに利用される笠は必需品。
初句から有馬菅までは「在(あり)て」を引き出すための序詞です。

それにしても「後々でもよいから逢おうと思う」とはどういう気持ちか?
遠くへ旅立つ男が、
「お前は人が皆欲しがる有馬菅の笠のような魅力的な女。
 俺は何とか無事に生き長らえて戻るから待っていろよ。
 きっと再び逢おうな 」

と口説いているのでしょうか。

「 湯の匂ひ まとふ有馬の 門飾り 」  川野喜代子

今日の有馬温泉は外人客も多く大変な賑わいです。
門構えが立派な宿は敷居が高いような気もしますが、日帰り入浴歓迎のところも多く
観光客が次から次へと中に入っていきました。

古代からから多くの人々に愛された名湯。
来場者名を記した看板に天皇をはじめ和泉式部、藤原道長、在原業平、西行、
藤原定家、太閤秀吉、北政所、千利休、近松門左衛門、福沢諭吉、伊藤博文、竹久夢二、
谷崎潤一郎、吉川英治、孫文、グレースケリーモナコ王妃など著名人がずらりと並びます。

特産品の竹細工や有馬筆も興趣をそそり、坂の上の小奇麗なレストランの
三田肉ビーフシチューも美味しそうです。

古い伝統と近代的なものが混然と一体となった有馬温泉。
これからも関西の奥座敷として繁栄してゆくことでしょう。

「 山眠り 六甲颪(ろっこうおろし) ほしいまま 」 中野智子
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by uqrx74fd | 2015-01-23 06:43 | 万葉の旅

万葉集その五百四(巨勢路)

( 万葉時代に詠われた「やぶ椿」  学友 N.F さん提供 )
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( 巨勢寺跡 奈良県御所市 )
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(  同上 説明文  画面をクリックすると拡大できます )
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( 阿吽寺:あうんじ )
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( 同境内の歌碑 
  巨勢山のつらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を )
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( つらつら椿  森野薬草園 奈良県桜井市 )
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(  同上 )
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( 巨勢路の街並み )
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( このあたり一帯の山々を巨勢山というらしい   近鉄吉野口駅から )
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( 万葉列車も走る巨勢路 )
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巨勢は古代、葛城氏の支族である巨勢氏が支配していた地域だったのでその名があり、
現在は近鉄吉野口駅付近の御所市古瀬あたりとされています。
飛鳥の都から吉野、紀伊に向かう人々は必ずこの地に至り、東南に進めば吉野、
西南に向かえば紀伊さらに瀬戸内海や朝鮮への海路にも通じる要衝の地でした。

緑の山間を清流がさらさらと音を立てて流れ、椿の名所でもある美しい巨勢は
旅行く人にとって格好の休息地であり、吉野離宮や紀伊の牟婁(むろ)温泉に度々御幸された
持統天皇もここで足を止めて遊宴を催しておられたようです。

「 巨勢山の つらつら椿 つらつらに
       見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を 」 
                    巻1-54 坂門人足(さかとの ひとたり ) (既出)

 ( 巨勢山のつらつら椿 この椿をつらつらと偲ぼうではありませんか。
   椿の花満開の春野のありさまを。)

701年、文武天皇と持統太上天皇が揃って紀伊国に行幸された折の
宴席での歌と思われます。
時期は椿にはまだ早い10月の終わり頃、作者はおどけたような口ぶりで
一同に声をかけます。

「  皆さん、目を閉じて!
   そうすれば丘一面に咲き誇っている椿の花が目の前に浮かぶことでしょう。
  さぁ、さぁ  」 

「つらつら椿」の「つらつら」は色々な解釈があり、椿の並木、花や葉が連なっている様、
 あるいは葉がてらてらと光る様子ともいわれていますが、
「ツラツラツバキ、ツラツラニ」と「つ」が続く軽快なリズムは旅行く人の浮き浮きした気持ちを
良く表しています。
後に続く「つらつらに」は「つくづくと」というほどの意です。

「 直(ただ)に行(ゆ)かず こゆ巨勢道(こぜぢ)から 岩瀬踏み
   求めぞ我が来し 恋ひてすべなみ 」 
                               巻13-3320 作者未詳

( 「平らな近道をまっすぐに行かずに こちらからお越し」という巨勢道を通って
  岩のごつごつした川瀬を踏みながら、あなたを探し求めて私はやってきました。
  恋しくて恋しくて どうしょうもなくて。)

この歌は前に長歌があり
 『 紀伊の国の浜へ鮑玉(あわびだま:真珠) を採りに行った男を、
  いつ帰るかと待ちわびている女が夕占(ゆうけ)に問い、
 「 あと7日、早ければ2日ほどで帰って来ると」いうお告げを得たので
  待ちきれなくなった女が途中まで迎えに来た 』
とあります。

夕占(ゆふけ)とは、言霊の活躍する夕方、辻に立って行き交う人々の
言葉の端々から吉凶を占うことです。

「こゆ巨勢道」は「巨勢道」(こせぢ)に「来(こ)せじ」の意を含めた言葉遊びです。
近道があるのに 「こちらへ来い(来ゆ)、そしたら愛しい人に逢える」
という言葉に魅かれて、わざわざ険しい岩根を踏みながら迎えに来たというのです。


「 わが背子を こち巨勢山と 人は言へど
    君も来まさず 山の名にあらし 」
                           巻7-1097 作者未詳

( 「 わが背の君を こちらに来させると云う名の巨勢山 」
  人はそう言うけれど、私の想う人は一向にお出でにならない。
  この山の名は単なる山の名前だけ。
  おまじないなど利くものですか。)

巨勢の地名に興味を覚えて作った歌 
「こち巨勢山」は「こちらに来させる」の意の「来せ」(こせ)と同音の巨勢を
起こしています。
「あらし」は「あるらし」の意で名ばかりで実を伴わないことを嘆く女。

右吉野、左紀伊の標識が立つ分かれ道。
巨勢路はその地理的位置と相まって男女の逢い別れの歌に使われたのでしょう。

「 花御堂 巨勢野の花を 摘み集め」  右城暮石

近鉄吉野口から西へ1㎞ばかりのところに巨勢氏の菩提寺と伝えられる巨勢寺跡が
ありますが、今は小さなお堂と礎石だけが残るのみです。
また、近くに「阿吽寺(あうんじ) 山号 玉椿山(ぎょくちんざん)」という
巨勢寺の子院の境内に犬養孝氏揮毫の歌碑

「 巨勢山の つらつら椿 つらつらに
       見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を 」 
             巻1-54 坂門人足(さかとの ひとたり ) 

があり、賑やかだった古を偲ぶ縁(よすが)となっています。

    「巨勢山の つらつら椿 実となれる」  石井桐蔭
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by uqrx74fd | 2014-11-28 06:38 | 万葉の旅

万葉集その四百九十六 (秋の明日香路)

( 国営飛鳥歴史公園 萩の群生 )
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( 同上 すすきの穂も美しく靡く )
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( 明日香川 )
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( 明日香 稲渕の棚田 )
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( 同上 彼岸花 )
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( 同上 案山子 鯉のぼり)
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( 同上  月が出た 出た )
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( 同上  村の子供たち )
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( 同上 巨大な金太郎)
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( 同上  村の鍛冶屋 )
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(  同上  竹トンボ )
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今日は9月23日、秋分の日。
近鉄吉野線飛鳥駅に降り立つと何処からともなく金木犀の香りが漂ってきました。
秋晴れのもと、心地よいハイキング。
まずは国営飛鳥歴史公園をめざします。
多武峰の山々を背景にした石舞台。
周囲に群生する萩と薄が見頃なのです。
明日香川の流れの音も耳に心地よく響いて参ります。

「 明日香川 行(ゆ)き廻(み)る岡の 秋萩は
    今日(けふ)降る雨に 散りか過ぎなむ 」
               巻8-1557 丹比真人国人(たぢひの まひと くにひと)

( 明日香川が巡り流れている丘の秋萩は、今日降るこの雨で
  散り果ててしまうのではなかろうか。
  まだまだ楽しみたいのに惜しいことです )

この歌には註があり「(甘樫の丘の麓) 豊浦寺を訪れ、尼僧の私房で宴した時の歌」
とあります。
明日香から平城京に遷都してから幾年月。
作者は、かって住み慣れていた地を久しぶりに訪れ、昔馴染みの尼達の歓待を
受けたようです。
この辺りは広々とした野原。
萩の群生が見事だったことでしょう。
花見を満喫しながら、やがて散る萩を惜しんだものですが、尼達との楽しい宴が
終わりに近づき、別れの時が来るのが寂しいという気持ちが籠ります。

「 めづらしき 君が家なる 花すすき
    穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも 」
                       巻8-1601 石川広成

( 懐かしいあなたのお家の花すすきが一斉に穂を出している秋
 この秋が過ぎて行くのが何とも惜しまれてなりません )

「花すすき」は薄の穂を花に譬えたもので万葉集唯一の表現です。
作者は大伴家持の同僚。
「めづらしき」は「めったにお目にかかることがない」の意です。

月光のもと薄が一面に靡く。
行く秋を惜しみながら一献、また一献。

「 秋の田の 穂向きに寄れる 片寄りに
   我れは物思ふ つれなきものを 」 
                       巻10-2247 作者未詳

( 秋の田の稲穂が一方に靡き垂れているその片寄りさながらに
 私はただひたむきに物思いに耽っております。
 あなたはまるでつれないのに )

間もなく収穫を迎える稲の穂はいかにも重たげに垂れています。
恋に悩み、うなだれている乙女。
片想い? あるいは訪れがない恋人に可愛くすねているのか。

「 曼珠沙華 落暉(らっき)も蘂(しべ)を ひろげけり 」 中村草田男

「曼珠沙華」は梵語でマンジュサカといい天上の花を意味しています。
 落暉すなわち夕日を花に見立てた雄大な一句

つぎは明日香の奥、稲渕の棚田を目指します。
石舞台からゆっくり歩いて約20分。
お目当ては彼岸花とたわわに実った稲穂。
赤、黄、緑が彩る夢の世界で様々な案山子が迎えてくれるのです。

「 道の辺(へ)の 壱師(いちし)の花の いちしろく
      人皆(ひとみな)知りぬ 我(あ)が 恋妻は 」
             巻11-2480 柿本人麻呂歌集(既出)

( 道のほとりに咲く彼岸花
その花が目立つように我が恋妻のことを とうとう世間様に知られてしまった。
ずっと心のうちにしまっておいたのに )

「いちしろく」の原文は「灼然」で「著しくはっきり」 。

作者は燃えるような恋心を抑えかねて女性のもとに度々通ったのか、あるいは
人前で手を振るようなしぐさをしたのでしょうか。
当時の恋のルールは「夜、女性のもとに通い、明け方、人がまだ寝ている間に帰る」、
そして「人に知られないよう密やかに」というのが習いでした。
何故ならば、人の口に自分達の名前が上ると、その言葉に霊力が付いて
魂が他人に移ってしまい、お互いの恋は破綻すると信じられていたのです。

そのような歌を口ずさみながら、やがて棚田の下へ。
今年の案山子祭りのテーマは「童謡、唱歌、わらべ歌、ものがたり」。
子供達やお年寄りのグループが丹精を込めて作った傑作が心打ち、幼い頃の
楽しかった思い出が蘇ります。

明日香川が流れる脇道から朝風峠の頂上まで延々と続く彼岸花の赤。
今年も豊作ですよと語りかける稲穂。
様々な表情をした魅力的な案山子たち。
明日香の秋を十二分に堪能した一日でした。

「 明日香村 大字飛鳥 稲架日和 」 堀井より子 

       注: 「明日香」は地名、自治体名に用いられ
          「飛鳥」は時代、地域他に使われている
        この句の「明日香村大字飛鳥」は現存する地名















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by uqrx74fd | 2014-10-03 07:54 | 万葉の旅

万葉集その四百九十二 (秋津)

( アキアカネ  学友 M.I さん提供 )
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(  同上 )
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( 吉野離宮跡  後方 象山:きさやま  奈良県 )
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( 宮滝遺跡関連図    画面をクリックすると拡大できます ) )
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( 宮滝  奈良県 吉野 )
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( 吉野川  後方 象山 )
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( 蜻蛉:せいれい の滝  奈良県 吉野   学友 Nさん提供 )
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(  同上   学友Nさん提供  )
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(  同上     筆者撮影  )
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「秋津」はもともと蜻蛉(トンボ)を意味し、その語源は「秋に多くいづる」が縮まったものとされています。
古代、田の収穫前に多く群れ飛ぶのは豊作のしるし。
聖霊として大切にされた蜻蛉はやがて豊かな実りを表す大地「蜻蛉島(あきづしま)大和の国」と詠われ、
のちに日本国全体を象徴する「秋津島」へと変化してゆきます。

日本書紀によると神武天皇が国見をしながら
「蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」と言われたそうです。
「臀呫」とは「とんぼ」の雄雌が尾をくわえ合い、輪を作って交尾をする様子を
いいますが、蜻蛉の大群を見ながら国土の豊穣を予祝されたのでしょう。

万葉集では「秋津島」「秋津野」「あきづの宮」などと詠われ、動物そのものを
詠ったものは1首もありませんが、蜻蛉の羽を女性の薄い衣類に見立てたものがあります。 

「  あきづ羽(は)の 袖振る 妹を  玉櫛笥(たまくしげ) 
    奥に思ふを 見たまへ 我(あ)が君 」    
                               巻3-376 湯原王(既出)

( 我が君よ、 向こうに蜻蛉の翅のような薄い衣の袖を翻しながら
  舞っている美女がおりますでしょう。
  実はあの舞姫は私のとっておきの想い者なのですよ。
  ゆっくり ご覧になって舞を楽しんで下さい )

この歌は宴席での即興歌で、深窓の美女を主賓のために特別に舞わせて
歓待の意を表わしたものです。
「君」とよばれた人物は越前国守、石上乙麻呂 (いそのかみ おとまろ) とも。
玉櫛笥(たまくしげ)は美しい化粧箱のことですが、ここでは奥に掛かる枕詞に使われています。
大切に奥にしまっている箱と心の奥深くで女性を想う意を掛けたものです。

「 み吉野の 秋津の小野に 刈る草(かや)の
     思ひ乱れて 寝(ぬ)る夜しぞ多き 」 
                      巻 12-3065  作者未詳

(  み吉野の秋津の小野で刈った萱が乱れるように、私の心も思い乱れて
  独り寝る夜が幾晩も続いていることよ )
  「秋津の小野」は吉野の宮滝付近で萱の産地だったようです。

その昔、雄略天皇がこの地で狩猟されたときのことです。
自ら獲物を射ようとしたところ、突然大きなアブ(虻)が飛んできて天皇の肘を噛みました。
すると、何処からともなく蜻蛉が現れてその虻を噛み殺したので、
天皇が大いに褒めたたえ、これよりこの地を蜻蛉野(あきつの)とよぶ様に仰せられたといいます。

この故事の名に因んだ「蜻蛉(せいれい)の滝」という名所があり、
現在の奈良県吉野郡川上村、この辺り一帯が万葉集で詠われた「秋津の小野」とされています。

滝は高さ50m、岸壁の黒さと水しぶきの対比が美しく、飛沫は太陽に映じて虹を
つくることから虹光(にじっこう)ともよばれ、写真家が狙う穴場だそうです。

「 ほろほろと 山吹散るか 滝の音 」  芭蕉

吉野紀行でこの地を訪れた折の句。 
轟轟と響く滝の音、盛りを過ぎた山吹が風を待たずにほろほろと散っている。

山本健吉氏は次のように解説されています。

『 滝の音の強さ、大きさに対して、山吹の花を、その弱さ、細みにおいて捉え
それが「ほろほろと」であった。
芭蕉は音だけを描き、散る山吹の細みを書き添えることで滝の存在感を浮かび出させた』
                                      ( 花鳥一歳 文芸春秋社)

私たちが訪れた時は,残念ながら虹を見ることが出来ませんでしたが、
轟轟と鳴り響きながら落下する滝の音に身も心も洗わるような清々しさを感じたことでした。

  「 とどまれば あたりにふゆる 蜻蛉かな 」  中村汀女

「ふゆる」は「増える」
赤蜻蛉でしょうか。
歩を止めて、ふと上を見ると青空の下に群れ集まっている。
このような風景も少なくなってきた日本の秋。
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by uqrx74fd | 2014-09-05 06:31 | 万葉の旅

万葉集その四百九十一 (夢のわだ)

( 吉野 宮滝 川が流れこんでいるあたりが 「夢のわだ」とよばれるところ 奈良県)
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( 吉野山から宮滝への道で  苔むした巨岩がゴロゴロ転がっている )
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( 同上  この流れが象「きさ」の小川の源流か )
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( 天武天皇ゆかりの桜木神社 )
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( 桜木神社の脇を流れる 象「きさ」の小川 )
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( 宮滝の巨岩 )
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( 吉野川で泳ぐ子供達  後方左は三船山 )
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( 激流の中で泳ぎよく溺れないものだ )
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「わだ」とは湾曲している水辺が淀んでいるところをいう地形語とされています。
何処でも見受けられる情景ですが、万葉集で夢にまで見るほど美しいと詠われた
「わだ」は奈良県吉野、宮滝の吉野川本流に「象(きさ)の小川」が流れ込む深淵近辺を
いうそうです。
現在は水量が少なくなっていますが、昔は神仙境を思わせるような景観であったらしく、
我国最古の漢詩集「懐風藻」で次のような一節があります。

「 吉野の宮殿は 山深く静かなところである
  すぐれた風景にかこまれ ひっそりと奥深い
  雲は三船の山を取りまき
  霞は八石(やさか)の洲を離れて行く
  葉は黄葉して夏を送り去り
  桂花は白く咲いて秋を迎え入れる
  今、夢のわだのほとりに立つと
  流れは千年の昔の響きをつたえてくる 」  懐風藻 吉田宜(よろし)     
                               (現代語訳 江口孝夫 講談社学術文庫)

「八石の洲」  吉野川の川原の石が多いさまを表現したもの
「桂花(けいか)」 銀木犀か

この辺りは吉野離宮が営まれていたところで、持統天皇は殊の外この地を好み
称制も含めると10年の在位期間中に31回も行幸され、退位してから更に1回という
入れ込みようです。 (称制とは全権をもつが帝位にはつかないこと)
若き頃、天武天皇と共に過ごした思い出の地であり、壬申の乱を勝利に導く拠点とも
なっただけに特別な聖地とされていたのでしょうか。

大宰府の帥、大伴旅人もこの地を熱愛した一人で、都から遠く離れた鄙の地にあって、
望郷の念やみがたく次のように詠っています。

「 わが命も 常にあらぬか 昔見し
    象(きさ)の小川を 行きて見むため 」  巻3-332 大伴旅人

( あぁ、いついつまでも命を長らえたいものだ。
 昔見た象の小川へもう一度行って、あの清らかな流れを見るために )

人生50年の時代にあって旅人は当時65歳。
既に高齢の身、何としても生まれ育った明日香や、吉野を再び見たいと
執念を燃やしています。

象の小川は吉野山系の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち、喜佐谷の
杉木立の中を流れる渓流。
宮滝で吉野川に流れこみます。

「 我が行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ
      瀬にはならずて 淵にしありこそ 」  
                           巻3-335 大伴旅人


 ( 私の筑紫在住はそんなに長くなかろう。
   あの吉野の夢のわだよ、浅瀬にならないで深い淵のままであっていてくれよ )

深いエメラルド色の水は人を引き込むような魅力があります。
激流ほとばしる吉野川を詠った例が多い中で淵に静の美を見出した旅人。

「我が行きは」とは「私が都から大宰府に行くのは」の意で意識はあくまでも
都人なのです。
「久にはあらじ」は「そう長くないだろう」
その言葉通り大宰府に赴任してから3年後の730年、念願の都への栄転が叶いました。

にもかかわらず長旅と心労が重なったのか、帰京後病に臥し翌年67歳で逝去。
再び故郷の飛鳥や吉野を訪れることが出来ませんでした。

「夢のわだ」はまさしく夢に終わったのです。

「 夢(いめ)のわだ 言(こと)にしありけり うつつにも
   見て来(け)るものを 思ひし思へば )   
                         巻7-1132 作者未詳

( 長い間、見たい見たいと思っていた夢のわだ。
  とうとう夢ではなく現実のものとなった。
  今、確かに見てきたのだから 思いがかなったのだ)

「言にしありけり」 (夢のわだは今や) 夢という言葉だけのものになった
「うつつにも」 現実に
「見て来るものを」 見てここにいるのだから
「思ひし思へば 」 「思う」を強調したもの。思ったあげくに

「遂に来たぞ! もはや夢でなくなったのだ」と喜ぶ吉野を訪れた官人。
川のほとりで酒盛りをしているのでしょうか。
憧れの景色を堪能した満足感が漂う1首です。

象の小川の上流を見たくなり、吉野山を訪れました。
金峯山寺から西行庵へと向かう途中に宮滝に通じる道があります。
一般のハイキングコースとは違い、あまり人が通らないようですが、
地元の人に聞くと下りの一本道なので迷うことはないとのこと。

「思い切って挑戦するかと」、細い脇道に入ります。
やがて杉木立が続く奥に鬱蒼とした森。
たちまち原始林に迷い込んだような雰囲気です。
周りは人影もなく、いささか心細い。

苔むした巨岩が至るところ転がり、せせらぎが涼しげに流れ下っています。
どこまでも続く下り道ですが急坂は少なく、川音が心地よく響きます。
森林浴に浸りながら鳥の声に耳をすますと爽やかな風が谷を渡ってゆきました。

「この流れが象の小川に通じているのかもしれない」と思いながら歩くこと約2時間。
ようやく広い街道に出る道に辿りつきました。
どうやら喜佐谷を下ってきたようです。

そのまま真っすぐ歩き続けるとやがて桜木神社。
天智天皇の時代、身の危険を感じて近江京から吉野に隠棲した大海人皇子(後の天武)が
近江側が放った刺客に襲われ、この神社の桜の木に隠れて難を逃れたと
伝えられている社です。
脇を流れる川はまさしく「象の小川」。
そのまま流れ下って吉野川と合流するところが「夢のわだ」でありました。

   「 喜佐谷の 日暮れを急ぐ 花筏 」  倉持嘉博
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by uqrx74fd | 2014-08-28 14:10 | 万葉の旅

万葉集その四百八十七 (雷丘:いかずちのおか)

( 雷丘 巨大な鳥が両翼を拡げているよう  奈良飛鳥)
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( ここは雷という地名です  同上 )
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( 雷の丘の裏側は農家 )
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( 民家がびっしりの橫裏側  後方左上が雷丘 )
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( 左から 雷丘、畝傍山、後方は二上山 )
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( 甘樫の丘 )
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( 雷丘東方遺跡復元模型 左の杜は雷丘 飛鳥資料館 )
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(  風神雷神図  俵谷宗達  国立博物館蔵 )
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飛鳥、甘樫の丘から北に向かって約1㎞ばかり歩くと、巨大な鳥が両翼を広げている
ような形をした緑の塊が見えてきます。
標高わずか10m余、丘ともいえないほどに小さいのにその名はいかめしくも「雷丘」。

大昔、天皇の命令で落ちてきた雷を捕えた、あるいは雷のような目をした大蛇が
棲んでいたことなどによる命名と伝えられていますが、実はこの丘、小粒ながら、
なかなか由緒ある存在なのです。

古代、天皇の重要な仕事の一つに国見という儀式がありました。
国見とは天皇が聖なる高い場所に登り立ち、周りを俯瞰しながら国の繁栄と豊作を
予祝する重要な行事です。
当時、雷丘は頂上から飛鳥全体を見渡すことが出来たらしく、持統天皇の時代
ここで国見が行われていたことが万葉集で詠われています。
雷神は雨を司る神、その名をもつこの丘は五穀豊穣を祈る特別な場所だったのです。

「 天皇(すめらみこと)、雷の岳(をか)に 幸(いでま)す時に
      柿本人麻呂が作る歌1首 」( 天皇は持統の他、天武または文武説もあり)

「 大君は 神にしませば 天雲の
    雷の上に 廬(いほ)らせるかも 」 
                          巻3-235 柿本人麻呂

( 天皇は神様でいらっしゃるから、天雲を支配する雷の上に仮宮を
 お作りになっておられることよ )

廬(いおり)は身を清めたり休息するための仮屋のことです。
雷の丘に立たれる天皇を誇張し
「 雷神をも支配する偉大な大君は絶対的な存在である」と讃えています。

伊藤博氏は
『「天雲の」の枕詞がよく効いている。
天界の雲の上に鳴り響く雷、その雷の丘というつながりは、ただちに雷神信仰に
裏打ちされた雷の丘の気高さ、神々しさ、重々しさを力強く表し、したがって
山を支配して立つ天皇の絶対性が深まる 』と解説されています。(万葉集釋注)

人麻呂のお蔭で一見何の変哲もない丘は一躍不滅のものになりました。
もし、この歌が残されていなかったら周囲がすべて宅地や田畑に転用されている
状況からみて消滅する運命を辿ったことでしょう。

なお、雷丘は余りにも小さいので、所在について「甘樫の丘」ほか諸説ありますが
この稿では通説に従っています。

そもそも天皇が神であると詠われるのは壬申の乱以降です。
兄、天智天皇の子 大友皇子を倒して天武天皇に即位した大海人皇子は
見方によっては反逆、その正統性を疑問視されてもおかしくありません。

そこで、天武天皇は「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
「 我が子孫が日本の国の王となるべきものである」という天照大神のお告げ、
いわゆる「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとします。
「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」とは「永遠に変わらぬ」の意です。

そして、天皇を神と最初に詠った

「 大君は 神にしませば 赤駒の
     腹ばう田居を 都と成しつ 」 
                  巻19-4260(既出) 大伴御行(家持の祖先)

( わが大君は神であり、超人的なお方であるぞ! 
  強靭とされている赤馬でさえも動くのに難儀していた泥沼の湿原地を
  都に造り変えられた。)

など、
「 今上天皇は皇祖天照大神から直接国の支配を任され、さらに地方の国神をも
  従える存在であると」
と、行事や儀式の中で繰り返し詠わせ、天皇に絶対の服従を誓わせたのです。

かくして親政による中央集権を確立させた天武天皇は不安定な政情を
確固たるものに築きあげてゆきました。
現人神はいわば乱世古代国家統一の手段として創造された産物だったのです。

「 村の名を 雷といひ 耕せる 」   吉田千恵子

今日の雷周辺は田畑広がる中、農家や民家が立ち並び、傍らを飛鳥川が流れる
長閑な村です。
丘に登る階段や手すりがありますが、誰も利用しないのか草茫々。
折角だからと一応頂上までへと道なき道を上りましたが、長い蔓や雑草、木々に遮られて
周囲全体を俯瞰することが出来ません。
ただ、木の間から飛鳥の向こうまで見通すことができ、国見に適した高台であることは
実感できました。

突然大きな熊蜂がブウーンと羽音を響かせながら飛来。
足下からマムシが出てくるのではないかと心細くなり早々に退散することに。
雑草に覆われた道を下りながら
「1300年前、持統女帝もこの場所にお立ちになったのだ」と、
遥か古代に思いを馳せたことでした。

  「 鳴神や 雷(いかずち)丘を ゆるがせり 」  筆者


   ご参考 
       万葉集遊楽その150  「現人神の登場」
           同     212   「住吉の神様は現人神」
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by uqrx74fd | 2014-08-01 06:41 | 万葉の旅

万葉集その四百八十六(真土山:まつちやま)

( 真土山  和歌山県橋本市 )
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(  神代の渡り   同上 ) 
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( あさもよし 紀伊人(きひと)羨(とも)しも 真土山 行き来(く)と見らむ 紀伊人羨しも )
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( 橡(つるばみ)の衣(きぬ)解き洗ひ真土山 本(もと)つ人には なほ及(し)かずけり )
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( 案内板 )
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( 大賀蓮 )
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( 同上 )
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( 白栲(しろたへ)の にほふ真土の山川に 我が馬なずむ 家恋ふらしも ) 画面クリック拡大出来ます
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真土山は大和と紀伊の県境にある標高わずか122mの小山です。
何の変哲もない何処にでもある丘といってもよい存在ですが、何と!万葉集で
八首も詠われているのです。
一体この山の何が古代人の気持ちを引きつけたのでしょうか?

当時、都から紀伊に向かう人々は巨勢路(現在の吉野口)から五条へ向かった後
この山を目印にして進みました。
昔は見晴らしがよく、かなり遠くからでも見通せたようです。

四方を山々に囲まれて暮らす大和の人々にとって黒潮の紀伊は憧れの世界。
コバルトブル-の海、南国の花々、新鮮な魚介、疲れを癒してくれる温泉。
そうです。
この山は夢の世界への入口だったのです。
長い徒歩の旅を重ねて、ようやくここまで辿り着いた人たちは、
「あぁ、ここからが紀伊の国なのだ」と胸を弾ませたことでしょう。

「 あさもよし 紀伊人(きひと) 羨(とも)しも 真土山
    行(ゆ)き来(く)と見らむ 紀伊人(きひと) 羨(とも)しも」
              巻1-55  調首 淡海 (つきのおびと あふみ) 


( 麻裳(あさも)の国 紀伊の人々は羨ましいなぁ。
 この真土山を 行き来するたびにいつも見ることができる
 紀伊の人が羨ましいなぁ )

この歌は、701年持統太政天皇と孫の文武天皇が紀伊国、牟婁(むろ)の湯(白浜湯崎温泉)
に行幸された折に詠われたもので、作者は天武天皇若き頃からの従者、壬申の乱の
功臣です。
「あさも(麻裳)よし」は紀伊が麻の産地として知られていたことによる枕詞。
二度繰り返される「羨しも」が心地よいリズムを奏で、喜びが溢れているようです。
国境の峠で地霊を讃え旅の安全を祈るのが当時の習いでもあったので、
土地褒めの心も含まれているのでしょう。

「 白栲(しろたへ)に にほふ真土の 山川(やまがわ)に
       我(あ)が馬なづむ 家恋ふらしも 」        巻7-1192 作者未詳

( 白栲の布のように照り映える真土山。
  その山脇を流れる川の前で馬が行き悩んでいる。
  家に残してきた妻子たちが私を案じているらしいなぁ )

当時、旅の途中で馬が行きなずむと、
「家人らがこちらを心配している」しるしと信じられていました。
紀伊に行くには目の前の川を渡らなければならず、流れが急だったのかも知れませんが、
家族の思いが馬の足を止めさせるとは面白い発想です。
作者も望郷の想いにかられたことでしょう。

なお、「山」は「真土山」と「山川」を掛けています。

「 あさもよし 紀伊(き)へ行く君が 真土山
   越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね 」
                       巻9-1680 柿本人麻呂歌集
 

( 紀伊の国に向けて旅立たれたあの方が真土山を越えるのは今日あたり
 なのでしょうか。
 どうか、雨など降りませんように )

こちらは留守を預かる妻が夫を想い、旅の安全を祈ったもの。
毎日毎日、夫の旅先の方角に向かって祈りを奉げている様子が目に浮かび
細やかな愛情が感じられる一首です。

「真土山 夕越え行(ゆ)きて 廬前(いほさき)の
    角太川原(すみだかわら)に ひとりかも寝む 」 
                               巻3-298 弁基


( 真土山を夕方に越えて行って 廬前(いほさき)の角太川原(すみだかわら)で
 たった一人で野宿することになるのだろうか )

「 廬前(いほさき)の角太川原(すみだがわら) 」はJR和歌山線隅田(すだ)付近を
流れる紀の川原あたりとされています。
夕暮れ迫る頃、真土山近くを歩いている作者。
荒涼と広がる川原、寂寥とした雰囲気が漂い、狼や猿などが出没しそうな野宿は
さぞ心細かったことでしょう。
なお、弁基という人物は後年還俗して、春日老(かすがのおゆ)を名のっています。

「 橡(つるばみ)の 衣(きぬ) 解き洗ひ 真土山
    本(もと)つ人には なほ及(し)かずけり 」
                         巻12-3009 作者未詳


( 橡染めの地味な着物を解いて洗い、また打つという名の亦打山(まつちやま)
 その打ち直した古着のような馴染みの女房(もとつ人)に、どの女も及ばなかったわい)

橡(つるばみ)は団栗の古名。
主として檪(クヌギ)の実をいい、これで染めた薄黒色の衣は庶民の普段着とされていました。

この歌の真土山は原文に「亦打山」とあり、固い繊維の着物や、汚れた衣を
解きほぐして洗い、砧(きぬた)で何度も打つ作業をしていたので「亦(また)打つ」と
いう文字を使ったもので、「橡の衣解き洗い」までが「真土山」を起こす序となっています。

「またうつ」の「ま」と「つ」の音感を真土山(まつちやま)に響かせ、
古衣→古女房を連想させている機知ある歌。

浮気を重ねて女性遍歴をした男。
「やっぱり本妻がよろしい」とは何とも勝手な惚気です。

  「 紀州路は 雨に色冴え 蓮にほふ 」 筆者

JR和歌山線五条駅から車で約15分。
広い国道脇に「万葉の里 まつち(真土)」と表示された大きな案内板が立っています。
ここから曲がりくねった急坂を20分ばかり登ると丘の頂上。
突然眼下に、こじんまりとした真土山と蓮池が現れました。
さながら古代にタイムスリップしたようです。

脇道の石段を150mばかり下ると昔の国境、落合川。
川幅が狭くなったところに「神代の渡り」とよばれている岩場があります。
畳半分位の巨石を跨いで対岸に着くと、ここからは紀伊の国。
真土山頂上への細い道が続いています。

「神代の渡り」は石と石との間に少し大きい隙間があり雨で増水すると渡るのは怖そうです。
持統女帝は輿に乗ったままでしょうが、担ぐ人は大変だったことでしょう。
 馬が行きなずむのも分かるような気がします。

この辺りは犬養孝氏が故地保全に尽力され、立派な万葉歌碑がいくつも建てられています。
人影は全く見えず、古き時代のままの佇まい。

折からの風が大賀蓮のほのかな香りを漂わせていました。

「 匂ひきて 葉揺れに割るる 花蓮(はなはちす) 」  石原八束












 
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by uqrx74fd | 2014-07-25 06:30 | 万葉の旅

万葉集その四百七十三 (雲梯の杜:うなてのもり)

( 河俣神社=雲梯の杜 奈良県橿原市 )
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( 同上 )
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( 河俣神社から畝傍山をのぞむ)
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( 曽我川沿いの桜並木 )
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( 川に映える桜 )
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( 川に棲む鯉 )
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( 春爛漫 後方河俣神社 )
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( 金剛葛城山脈 )
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近鉄南大阪線、橿原神宮駅から2つ目の坊城駅。
ここから曽我川沿いに北に向かって2㎞ばかり歩くと、こんもりと茂った森の中に
河俣神社という小さな社(やしろ)があります。
入口に立つ石標は新しいものですが、社歴は古代に遡(さかのぼ)る雲梯の杜(うなてのもり)とされ、
祭神は事代主神(ことしろ ぬしのかみ)。
明日香に皇居があった時代、西方の守護神として出雲から移られたそうです。

この辺り一帯は奈良県橿原市雲梯町という地名で雲梯は元、宇奈堤(うなて)と書かれ、
川堤や水路を築いたことによるものとされていますが、古代、鷲が棲むような鬱蒼とした森の中に
巨木があったので、それが雲に掛かる梯子(はしご)のように見えたのかもしれません。

「 真鳥(まとり)棲(す)む 雲梯(うなて)の杜の 菅(すが)の根を
    衣(きぬ)にかき付け 着せむ子もがも 」
                            巻7-1344 作者未詳

( 鷲の棲む雲梯の杜の長い菅(すげ)の根、
 その根を衣に摺りつけて着せてくれる可愛い子がいたらいいのになぁ。)

神域の菅の根を採ることは禁忌、神罰が下る行為です。
作者はそんな危険を冒してでも自分のために衣を染めてくれる女性、
すなわち、親や世間の反対に屈せず自分と一緒になってくれる子が
いたらなぁと願っています。
心に想う女性がいて、何かの理由で結婚に反対されているのでしょうか。

真鳥(まとり)とは鷲のことで「真」と云う言葉に「神聖な」という意味が含まれ、
いかにも恐ろしい神様がおわしますという感じを漂わせています。

「 思はぬを 思ふと言はば 真鳥棲む 
       雲梯の杜の 神し知らさむ 」 
                    巻12-3100 作者未詳


( 貴方を本心からお慕いしていないのに「好きだ」などと言おうものなら、
 恐ろしい鷲の棲む雲梯の杜の神様が見通して厳罰を下されることでしょう )

「 嘘をついたら神罰を受けるでしょうから、決してそのようなことはいたしません。
私は本心からあなたが好きなのです。」

と男が神前で女性に誓ったものと思われますが、歌垣などで詠われた民謡だったかも。

「 ま菅(すが)よし 曽我の川原(かはら)に 鳴く千鳥
      間なしわが背子 我(あ)が恋ふらくは 」 
                               巻12-3087 作者未詳


( 菅(すが)が多く生えている曽我(そが)の川原、
 その川原で絶え間なく鳴いている千鳥のように、
 私の貴方に対する恋心はやむこともなく燃え上がっています。 )

菅(すが)は「すげ」ともよばれるカヤツリ草科の多年草で蓑や笠などの材料になる
生活に欠かせない植物です。
マスガ、「間なし(マナシ」)と「マ」を重ね、さらにスガ、ソガ、アガと「ガ」を
繰り返して軽快なリズムを奏でています。

河俣神社は「装束の宮」ともよばれています。
というのは、その昔、近くの畝傍山で祭祀の土器をつくるのに適した良質の
埴土(はに)を産しており、その土を求めて住吉神社から畝傍山に埴使(はにつかい)が
派遣されていましたが、途中、雲梯の社に立ち寄り、曽我川で水垢離(みずごり)するなど
精進潔斎し装束を改めてから山に向かったという故事によるものです。

現在の曽我川両岸は数キロにわたる美しい桜並木。
川には無数の鯉が悠々と泳ぎ、亀たちが舞い落ちた花びらを啄(ついば)んでいます。
見わたす限り桜、桜、桜 。
にもかかわらず、釣人二人のほか人影が全く見当りません。
世間に知られていない場所のせいなのでしょうが、花見客皆無というのも
不思議なことです。
雑踏を予想していただけに、何千本という桜を独り占めできるなど、まるで
夢の世界に迷い込んだよう。

川堤周辺は住宅が立ち並んでいますが、5分も歩くと広々とした田園。
真中に畝傍山がぽつんと聳え立ち、遠くに金剛葛城連山が臨まれます。
青空に浮かぶ雲も美しい。
畑でただ一人草むしりをしている農夫。
春爛漫、長閑なひとときを過ごした後、大和三山に向かって歩き出しました。

  「 畝傍山 香久山つなぐ 桜かな 」  筆者
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by uqrx74fd | 2014-04-25 06:53 | 万葉の旅

万葉集その四百六十六(梅紀行:山の辺の道)

( 海柘榴市:つばいち観音 奈良県桜井市 )
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( 玄賓庵 ;:げんぴんあん )
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( 梅林に人影もなし )
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( たたなづく青垣の下を行く )
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( 蜜柑畑の中の一本の梅 )
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( 山茱萸 椿、梅、蜜柑 )
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( 川の上の白梅紅梅 )
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( 梅畑が少ない山辺の道 )
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( 間もなく石上神宮 農家の板壁が美しい )
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ひな祭りも過ぎ水が温む頃になると各地から梅便りが続々と届きはじめます。
梅の名所は数多(あまた)あり、それぞれに心惹かれるものがありますが、
見頃ともなれば観光バスを連ねて大勢の方が押し寄せるので、なかなか落ち着いて
愛でることができません。

人里離れたところでひっそりと咲く梅もよし。
野山や道端に立つ老木の風情も捨てがたい。
というわけで山の辺の道(奈良)を辿ることにしました。

JR桜井駅で下車し徒歩20分。
その昔、海外の使節が訪れたり、歌垣が行われて賑わったと伝えられる海柘榴市(つばいち)。
ここから天理に向かって約16㎞の観梅散策を始めます。

まだ肌寒いせいか人影がほとんど見当たりません。
路傍に「海柘榴市観音道」の石標があり、民家の間をぬって進むと奥に小さなお堂が
ひっそりと佇んでいました。
格子窓を通して拝するお堂の中には1500年代のものと伝えられる二体の小さな石仏が
安置されています。
「お客さん どちらからお見えですか」 と突然の呼びかけ。
後ろを振り向くと庭を掃除していた地元の管理人の方です。
親切にも「もしよろしければ鍵を開けますから中にお入りになりますか」
と聞いて下さいました。
何という幸運! 
何十年もこの地を訪れているのにお堂の中に入るのは初めてなのです。
喜び勇んで入堂させて戴くと、外からは暗くてよく見えなかった二体の仏様が
柔和なお顔で迎えて下さいました。
前の衝立には

「 ありがたや われらのねがひ かなやなる
        名も つば市の ここのみほとけ 」
と書かれています。

今は失われた「海柘榴市」という名を唯一残したみ仏なのです。
「かなやなる」はこの辺りの地名が金屋であることに由来します。
撮影の許可も戴き、管理人の方に幾重もお礼を申し上げ、
いよいよ梅探しの道を歩みます。

平等寺、大神神社へと進んでゆきますがなかなか梅に出合えません。
歩くこと20分、ようやく玄賓庵(げんぴんあん)の前の山林に数本、満開の花。
桜井駅から歩くこと約5㎞の地点でした。

「 馬並(な)めて 多賀の山辺を 白袴(しろたへ)に
     にほはしたるは 梅の花かも 」
                     巻10-1859 作者未詳

( 馬を勢揃いして手綱を手繰りながら、やってきた多賀の山辺を
      真っ白に染めているのは梅の花なのだろうか )

こちらは馬ならぬテクテク歩き。
多賀は京都府綴喜郡と推定されていますが多賀を「奈良の山辺」に置き換えると
今の雰囲気にピッタリの歌です。

脇道から急坂を上ると、5分ばかりで檜原神社。
目の前に桃と梅畑が広がっています。
桃にはまだ早いけれど梅は満開。
風が吹くと花びらが舞い上がり、まるで雪のようです。

「 春の野に 霧立ちわたり 降る雪と
     人の見るまで 梅の花散る 」 
              巻5-839  田氏真上(でんじのまかみ) (既出)

( 「 あれは春の野に霧が立ちこめて、真っ白に降る雪なのか」
    と皆が見まごうほどに、この野原に梅の花が散っていますよ。 )

紅梅の渡来は平安時代からとされているので万葉人の梅は白一色。
そのためか雪との取り合わせも多く詠われています。

檜原神社を過ぎると、遠くに山々が重なり「たたなづく青垣」。
細い山道を下ると農家の大きな家並みが続きます。

道脇の清流がさやさやと遠くの田畑に向かって流れ下り、庭先から散った梅の花びらを
運んでゆきました。

約1㎞ばかり歩き、標識に従って右に曲がると三輪山を背景にした野道へと導かれ、
周りの景色が一変します。
長閑な田園風景。
景行天皇陵、長岳寺へと向かう道の左側には金剛葛城山脈が霞んで見えます。

畑や山麓に梅が多くなり、何処からか鶯の鳴き声が聞こえてきました。
「ホーホケキョ」
声の方向に目を向けますが姿が見えません。
鶯は意外にも人にあまり近づかないようです。

「 春されば 木末(こぬれ)隠(がく)りて うぐひすぞ
    鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に 」

        巻5-827 山氏若麻呂(さんじのわかまろ)

( 春がやってくると鶯が梢に隠れながら鳴きわたってゆく。
  梅の下枝あたりにでも飛び去ったのだろうか )

程なく長岳寺に到着。
躑躅と杜若(かきつばた)が有名な花の寺ですが、山門の前で梅が迎えてくれました。
早春の梅散策を十分に堪能した半日。
近くの蕎麦屋さんで一服した後、天理へと向かいます。

「 この道を われらが往くや 探梅行 」  高濱虚子
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by uqrx74fd | 2014-03-06 16:36 | 万葉の旅

万葉集その四百四十六(葛城山春秋)

(つつじ咲く葛城山)
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( 秋の葛城山)
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( 葛城山ロープウエイから)
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( 葛城山頂から大和三山を臨む )
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( 葛城金剛連山  明日香冬野から )
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( 金剛山 葛城山頂から )
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(  綏靖天皇(すいぜいてんのう)葛城高宮跡  葛城古道で) 
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( 葛城金剛連山遠望  山の辺の道から )
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奈良県と大阪府の境に屏風を立てたように連なる金剛、葛城、二上連山は古くは
葛城山と総称されていました。
この辺りは古代豪族葛城、鴨氏の本拠地で、ゆかりの古社、古墳も多く、
また、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)が修行のために山に籠ったともいわれ、
太古の世界の雰囲気を漂わせているところです。

主峰金剛山(1125m)には記紀にみえる雄略天皇ゆかりの一言主神を祀る葛城神社があり
葛城山(959m)の南麓には葛城水分神社が鎮座まします。
水分(みくまり)とは水配りのことで、人々は豊かな水をもたらす山々を聖なる山と崇め、
朝に夕に祈りを奉げていたのです。

また、「日本書紀」神武天皇即位前紀によると、この地域に土蜘蛛とよばれた部族が
住んでいましたが、天皇の兵が葛(かずら)の蔓(つる)で編んだ網で一網打尽にしたのち、
その地を葛城という名に改めたという地名縁起も伝えられています。

万葉集で葛城山を詠ったものは2首。
他の関連地域を含めても6首しかありません。
栄華を誇った葛城一族の本拠地にしては意外に少ないと感じますが、
5世紀の末、葛城氏が雄略天皇に反抗して手痛い制裁を受けて没落し、
蘇我氏に実権を奪われたことや、政治の中心が飛鳥、藤原京に遷ったという事情が
あったのかもしれません。

「 明日香川 黄葉(もみちば)流る 葛城の
      山の木(こ)の葉は 今し散るらし 」 
                        巻10-2210 作者未詳

( 明日香川に黄葉が流れている。
 どうやら葛城の山の木の葉がしきりに散っているようだ。)

明日香川に流れている木の葉を眺めながら、葛城山の秋の深まりに感慨を
抱いている一首ですか、平安時代にこの歌を本歌取りしたものが多く詠まれ
次のような人麻呂作とされたものもあります。

「 飛鳥川 もみじ葉流る 葛城の
      山の秋風 吹きぞしくらし 」  柿本人麻呂 新古今和歌集


「吹きぞしくらし」は「しきりに吹いているようだ」の意。 
なお、飛鳥川は河内にも同名の川が存在し諸説ありますが大和説が有力です。

 「 春柳 葛城山に立つ雲の
      立ちても居ても 妹をしぞ思ふ 」 
                     巻11-2453 柿本人麻呂歌集


( 春柳を鬘(かず)くと云うではないが、 その葛城山に立つ雲のように
 立っても座っても ひっきりなしにあの子のことばかり思っている )

春柳はそれを髪飾り(鬘:かずら)にすることから葛城山に掛かる枕詞とされ、
春に芽吹く柳を頭にかざすことで新しい生命力を取り入れようという
願いが込められています。
そのかづらの葛城山と「か」が続く軽快なリズム、立つ雲のように居ても立っても
いられないという言葉遊び。
若い男女の間で詠われた民謡だったかもしれません。

「 葛城や あやめもわかぬ 五月雨」  松瀬青々

「あやめ」は布の模様などの文目(あやめ)で、
「わかぬ」は「分かぬ」で区別がつかないこと。

「折角葛城を訪れたのに生憎の五月雨。
薄暗くて、周りの景色がはっきり見えないことよ」 と嘆いています。
秋ならば「葛城や あやめもわかぬ 時雨かな」とでも詠んだのでしょうか。

葛城は仁徳天皇の皇后、磐姫の故郷としても知られています。
次の歌は皇后の留守中、天皇が八田皇女という女性を後宮に入れたことに抗議して
再び宮に戻るまいと山城の国の知り合いのもとに去った時、奈良坂あたりから
葛城を臨んで詠った望郷の歌です。

「 つぎねふや 山城河を 
  宮のぼり 吾(わ)が のぼれば
  青丹よし 奈良を過ぎ 
  小盾(をだて)  倭(やまと)を過ぎ
  吾が見が欲し国は 葛城高宮  
  吾家(わぎへ)のあたり 」    (古事記)


(  山々が重なる中を流れる山城川
  我が宮を過ぎ、さらに上ってゆくと
  美しい 奈良を過ぎ
  小さな盾なす山々に囲まれた 大和も過ぎてしまった
  あぁ、私が見たいと思う国は  葛城の高宮
  なつかしき 我が家の辺り )

「葛城の高宮」の所在地は一言主神社から九品寺に向かう道の杉木立の一角に
「綏靖天皇(すいぜいてんのう)葛城高宮跡地」の石碑があるあたりと推定されています。

( 仁徳天皇の浮気については「万葉集遊楽320 磐姫皇后の謎」をご参照下さい)

「 うつりゆく 雲にあらしの 声すなり
    散るか正木(まさき)の 葛城(かづらき)の山 」 
                              藤原雅経 新古今和歌集

( 空を移ってゆく雲間から 烈しい山風の音が聞こえる葛城山
 正木のかずらは この山嵐で散っているのだろうか )

謡曲「紅葉狩」にも引用されている名歌で、正木は紅葉の樹のことです。

葛城山の秋は紅葉の他ススキが美しく、冬は樹氷、初夏は一目百万本といわれる
ツツジの群生で山が赤く燃え立つなど、四季折々素晴らしい表情を見せてくれます。
山頂からの視界もきわめてよく、国民宿舎や自然研究路が整備されているので
ロープウエイで訪れる人も多いようです。

お隣の金剛山は富士山に次いで全国第2位の登山客で賑わい、特に全長45㎞の
長距離歩道はダイヤモンドコースの愛称で親しまれています。

「 金剛の 露ひとつぶや  石の上 」 川端茅舎

もろくも儚いものの代表の露の中に金剛(ダイヤモンド)の強さを見出した
作者の内面世界の啓示。
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by uqrx74fd | 2013-10-18 07:17 | 万葉の旅