カテゴリ:万葉の旅( 61 )

万葉集その四百九(巨椋池)

( 宇治川 )
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( 宇治橋 )
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( 桂川 )
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( 木津川 )  yahoo画像検索より
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( 淀川 )   yahoo画像検索より
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( ありし日の巨椋池 ) yahoo画像検索より
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( 蓮 飛鳥にて )
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( 同上 )
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 巨椋池(おぐらいけ)は京都府南部、現在の伏見、宇治地域にまたがる場所に
存在していた湖とも言うべき巨大な池で、宇治川、桂川、木津川がこの入江に流れ込み、
西方の淀川に溢れ出る、いわば遊水池の機能をはたしていました。

古くから湖岸周辺には船着き場(津)が設けられ、淀川から瀬戸内海さらには中国大陸に
通じる水上交通の要衝であり、飛鳥、平城京への木材運搬の中継地点としての役割にも
大なるものがあったようです。
近江など、近郷各地から伐り出された木材を川に落として運び、一旦ここに集荷してから、
順次、木津川へ流し途中から陸路で都へ運搬したのです。
都づくりの最中は水路、陸路ともに殷賑を極めたことでしょう。

然しながら、1594年、豊臣秀吉の伏見城築城に伴い、築堤工事を受け持った
前田利家が宇治川を伏見に迂回させたことにより巨椋池は一変しました。
池への流水が絶え、周囲16㎞水域面積8平方km(約(800ha)の孤立した
淡水の湖沼になったのです。

『 京都の南方、わずか二里のところにある伏見の指月(しげつ)は、
  伏見山の最南端が巨椋池にのぞむ丘陵である。
  このあたりには、平安のむかしに藤原俊綱の山荘がいとなまれたりしたほどで、
  景観もすばらしい。
  眼下にひろがる巨椋池は,池というよりも湖といったほうがよい。
  その大きさは、信州の諏訪湖ほどもあった。
  かの万葉集にも
  「巨椋の入江とよむなり 射目人(いめひと)の伏見が田居に雁わたるらし」 とある。』
                  ( 池波正太郎 真田太平記巻5 新潮文庫より) 

「 巨椋(おほくら)の 入江響(とよ)むなり 射目人(いめひと)の
    伏見が田居に 雁わたるらし 」  
                          巻9-1699 柿本人麻呂歌集


( 巨椋の入江が ざわざわと鳴り響いている。
  射目人(狩人)が身を伏せているいう伏見。
  その田んぼの方へ雁が移動してゆくらしいなぁ )

射目(いめ)とは猟師が鳥獣を射るために柴などを折って身を隠す道具をいいます。
言葉遊びも取り入れた歌で、
「 弓を射る猟師が身を伏せて待ち構えている伏見の田んぼ。
その田んぼに向かって、狙われているのも知らない雁の群れが
わざわざ飛んで行くわい」 と「伏す」「伏見」と音を掛け
「 そんな危ない所へ飛んで行くこともあるまいのに 」と興じています。

歌の題詞に「宇治川にして」とあるので、作者は宇治川の岸辺、巨椋池の注ぎ口の
近くにいて、水面に響く雁の羽音を耳にし、群れが飛び立つさまを推測した
一首ですが巨椋池、伏見2つの地名を配して自然の大きな景色を詠みこんだ秀歌です。

「 秋風に 山吹の瀬に 鳴るなへに
     天雲(あまくも)翔(かけ)る 雁に逢へるかも 」 
                           巻9-1700 柿本人麻呂歌集


( 秋風が強く吹くとともに、山吹の瀬の川音が高くなった。
  折しも はるか天雲の彼方を飛び翔ける雁の群れに出会ったよ )

作者は巨椋池から移動して、宇治橋のやや下流あたり(?)「山吹の瀬」とよばれる
ところで先ほど羽音を聞いた雁に出会ったのです。

「 他界のざわめきの果てに天空はるかに消え去ろうとする雁の姿をとらえ
  雄大かつ繊細な印象を与える歌」(伊藤博)です。

雁が飛び去ってゆく彼方に作者の故郷があるのでしょうか。
しみじみとした旅愁も感じられます。

なお、この歌を「秋風の 山吹きて 瀬の 鳴るなへに」と訓む説もあります。
この場合は「秋風が 山から吹いてきて 川の瀬が鳴ると」という意味になりますが
地名と見る説が多いようです。

巨椋池は蓮の名所であったらしく、大正15年、和辻哲郎は谷川徹三に誘われて
早朝、淀川から蓮船を仕立てて見学に出掛け、想像以上の雄大さに大いなる感銘を受け
「そこに仏教が説く極楽浄土の世界を見た」という趣旨の短い随筆を書いています。

以下は一部抜粋です。

『 巨椋池のまん中で咲きそろっている蓮の花をながめたときには、
 私は心の底から驚いた。
 蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、
 実際予期していなかったのである。 - -

 舟の周囲、船頭の棹(さお)の届く範囲だけでも何百あるかわからない。
 しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。
 その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。
 どの方角を向いてもそうであった。
 地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。
 これは全く予想外の光景であった。

 私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、
 遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。
 しかも蓮の花以外の形象をことごとく取り除いて、純粋にただ蓮の花のみの世界として
 見せられたのである。
 これは、それまでの経験からだけではとうてい想像のできない光景であった。
 私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。』 
                             (和辻哲郎随筆集 岩波文庫より)

「 蓮の葉押しわけて 出て咲いた 花の朝だ 」   尾崎放哉

その美しい極楽浄土、歴史ある巨大な池は、昭和8年(1933)、国民への
食糧供給充実という目的で干拓事業が開始され、8年後の昭和16年(1941)に
農地化されて完全に消滅しました。

現在は渡り鳥の飛来地となり、近くの葦の群生地をねぐらとする燕が
毎年数万匹もみられるそうです。

 「 初燕 はや水を恋ひ 水を打ち 」 大久保橙青
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by uqrx74fd | 2013-02-02 17:44 | 万葉の旅

万葉集その四百一(馬来田:まくた)

( JR久留里線 後方の山 万葉で詠われた馬来田の嶺(ね)ろ )
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( 馬来田駅 右側に万葉歌碑がある )
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( コスモス街道 )
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(  ツリブネソウの群生 )
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( ハンの木湿原地 )
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( ミニチュア水車 馬来田小学生作 )
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( 道の駅 )
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( 野点 )
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馬来田(まくた)は昔、「うまくた」「うまぐた」とよばれ、現在は千葉県木更津市に
編入されている万葉の故地です。

古代豪族、国造(くにのみやっこ)馬来田氏がこの辺り一帯を支配していたので
その名があるといわれていますが、大伴旅人の先祖に大伴連(むらじ)馬来田という
人物がいて、関連性は不明ながら「ひよっとしたら この地は大伴氏の所領だった?」と
想像するのも楽しいことです。

JR木更津から久留里線で6駅の30分。
ローカル線らしい素朴な駅舎の改札口を出ると、付近案内板にならんで
この地ゆかりの万葉歌碑が置かれています。
町おこしの一環でしょうが、「駅前に」とは全国的にも珍しい。

「 馬来田(うまぐた)の 嶺(ね)ろに隠り居(い) かくだにも
    国の遠かば 汝(な)が目欲(めほ)りせむ 」
                    巻14-3383 作者未詳(東歌)


( 私は今、馬来田の山々に隠された遠い国にいるが、さらに旅を続けて故郷から
  隔たってしまったら、益々お前を見たくなって仕方がなくなるだろうなぁ )

昔、この地は上質の麻の産地として知られ、朝廷にも貢納していました。
作者は都へ品物を納めに出向いたのか、あるいは使役、防人としてこの地を
離れたのか定かではありませんが、もし防人だとすれば大宰府まで1000㎞。
生還を期すことが確実とは言えない長い長い旅です。
懐かしい故郷を何度も振り返りながら妻子の面影を目に浮かべ、万感の思いで
詠ったことでしょう。

近年、馬来田はハイキングコースとして整備され、春は桜や菜の花、
秋はコスモスが美しく、さらに広大な湿原地帯に多くの野花が群生しています。

駅から住宅街を15分位歩いて右折すると田園地帯にさしかかり「馬来田の嶺(ね)ろ」と
詠われた山並みが見えてきました。
高い山ではありませんが峰々が切れ目なく続き他国との境界をなしているようです。
このあたりは、里芋、枝豆などが植えられ、栗の木や竹林も多く、
春には筍が多く採れることでしょう。

「 馬来田(うまぐた)の 嶺(ね)の笹葉の霜露の
    濡れて我(わ)来なば 汝(な)は恋ふばぞも 」 
                  巻14-3382 作者未詳(東歌)


( 馬来田のお山の笹葉に置く冷たい露に濡れそぼちながら私が行ってしまったなら
 お前さんは一人せつなく恋い焦がれることだろうな )

「来(き)なば」は「来れば」とする説もありますが「行ってしまったら」の意と
解釈する学者が多くなっています。
分かりにくい表現ですが「行く先を起点にして言った方言(伊藤博)」だそうです。

前の歌同様、都へ向かう旅人が詠ったものか、あるいは民謡だったかもしれません。

心地よい秋風に吹かれて細い野道を行くと、彼岸花、ススキが咲き乱れ、
セイタカアワダチ草の群生が周りを黄色に彩っています。
やがて「ハンの木」の湿原地へ。
この地の奥に「いっせんぼく」とよばれる湧水があり、昔、千か所で水が
「ぼくぼく」と音を立てて湧き出していたのでその名があるそうですが、
今はわずか1か所にその面影をとどめているのみです。

尾瀬のような板敷の道が約500m近く続き、ツリフネソウの群生が圧巻。
春には水芭蕉や芹も生育しており、脇を流れる小さな清流は美しく、水底の
水藻がゆらゆらと揺れて緑の髪のようです。
馬来田小学校生徒作と書かれたミニチュアの水車が心地よい音を立てながら
クルクルと廻っていました。

「 旅衣 八重着重ねて 寐寝(いの)れども
     なほ肌寒し 妹にしあらねば 」巻20-4351 

       望陀(まぐた)の郡(こほり)の上丁 玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)


( 旅衣、そいつを幾重にも重ね着て寝るのだけれども、やはり肌寒くて仕方がない。
  お前の肌ではないのでなぁ )

望陀(まぐた)は今の馬来田 上丁は一般兵士
防人に徴集された村人の歌です。
当時は野宿が原則、大阪の難波まで食糧持参の自給自足生活です。
途中で熊や狼などに襲われたり、食糧が尽きて行き倒れになった人もあり、
命懸けの旅でした。
寒さに凍えながら布にくるまって休む兵士。
思い出すのは故郷に残してきた妻の肌の暖かさ。

「 透きとほる 日ざしの中の 秋ざくら 」 木村享史
                              秋櫻=コスモス


湿原地を一回りしたのち、少し引き返すと武田川沿いに約500mのコスモス街道。
道の両脇に色とりどりの花々が咲き乱れ、風にゆらゆらと揺れています。

今日は町を挙げてのお祭りです。
屋台もたくさん出ており、老若男女が子供連れで大勢集まっていました。
コスモスを背景にした優雅な野点もみられ、のどかな風景です。

地元の人が作った枝豆を買い、コスモスの種をお土産に沢山戴いて、
楽しいハイキングもあと1㎞で終わりとなります。
歩くこと約15㎞。
平坦な道が多く左程の疲れはありませんでしたが、雨上がりの湿原地で
ぬかるみに足をとられて難儀しました。

大和から遠く離れ、奈良とは無縁と思われたのどかな片田舎。
都へ向かう旅人が詠い、編者がその歌を採用したお蔭で、万葉集との深い縁を
認識させられた1日でありました。

「 万葉の 馬来田の里の 秋桜(あきざくら)
               しなひて立てり 風に吹かれて  」 筆者

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by uqrx74fd | 2012-12-08 14:54 | 万葉の旅

万葉集その三百九十九(聖林寺から多武峰へ)

( 桜井から聖林寺への道の途中で )
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( 聖林寺山門 )
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( 国宝 十一面観音立像 奈良県カレンダーより)
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( 聖林寺下から多武峰を臨む)
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( 多武峰の紅葉 )
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( 多武峰 明日香石舞台への道  画面をクリックすると拡大できます)
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( 明日香への山道 かって藤原鎌足が通った?道)
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( 冬野川 )
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近鉄桜井駅から談山神社へ向かって歩くこと約2,7㎞。
賑やかな町を通り抜け、緩やかな坂道を上ってゆくと、やがて山里に囲まれた
小さなお寺、真言宗聖林寺が静かな佇まいを見せてくれます。

天平仏の傑作「十一面観音立像」(国宝) がおわします御寺で、白洲正子に
「この世にこんな美しいものがあるのかと 私はただ茫然とみとれていた」と言わしめ
(十一面観音巡礼:新潮社) 、和辻哲郎も
「そこには神々しい威厳と人間のものならぬ美しさを感ずる」 (古寺巡礼:岩波文庫)と
絶賛され、ミロのヴィ-ナスにも比肩される御仏です。

もと大神神社 (おおみわじんじゃ:桜井市三輪) に付属する大御輪寺(だいごりんじ)の
本尊であったものが明治の廃仏毀釈の時、フエノロサ、岡倉天心が、先代の住職と
相談の上、聖林寺に移されたそうですが、このような立派な仏像が危うく失われる
恐れがあったとは何とも信じがたいことです。

「 芋植ゑし 十坪ばかりや 聖林寺 」 荏原京子

高台から見下ろす眺望も素晴らしい。
大和平野が緑の絨毯のように広がり、はるかかなたに生駒山が臨まれます。

美しい御仏と景色を思う存分堪能している折から、観光バスで修学旅行の高校生が
大挙して押し寄せてきました。
静寂そのものだった境内はたちまち賑やかなな話し声。
早々に退散し、バスで多武峰へ向かいます。
道沿いの川に沿ってゆっくりと坂道を上ること約20分。

「 多武峰は まず朱塔より 霧の晴 」 上田裕計

多武峰は御破裂山(ごはれつざん618m) の中ほど南斜面一帯の地を言い、
山腹に藤原鎌足を祀る談山神社があり、紅葉の名所としても知られています。
御破裂山という奇妙な名前は天災地変がありそうな時、山が轟音を響き渡らせて
激しく揺れ動き、神社に祀られている鎌足の木像が破裂したという言い伝えに
よるものだそうです。

多武峰が初めて文献に出るのは「日本書紀」の斉明天皇2年(656)で、
「田身嶺(多武峰)の頂上に、周りを取り巻く垣を築き、二本の槻(つき)の木のほとりに
観(たかどの=高殿)を立てて、名づけて両槻宮(ふたつきのみや)、また天つ宮とも言った」とあります。
槻(つき)は神木とされ、山上に建てられた楼閣形式の離宮「観」(たかどの)は
道教の寺院ですが、どのような目的で建てられたか定かではありません。
「取り巻く垣」という記述から「山城」であったとも。

「 ふさ手折り 多武(たむ)の山霧 繁みかも
    細川の瀬に 波の騒(さわ)ける 」 
            巻9-1704 柿本人麻呂歌集


( 多武の山の霧が深くなったようだ。
 ここ細川の瀬に波が激しく立ち騒いでいるよ )

弓削皇子(天武天皇の子)宅の宴席で詠まれたものと推定され、
細川は現在の冬野川、山裾で飛鳥川と合流しています。

「ふさ手折り」は、幾重にも折り重なった山が湾曲して枝が撓んだように
見える様をいいますが、ここでは「多武の山」の枕詞です。

急な傾斜を一気に流れてくる細川の幅は狭く、流れも速い。
あたりを響かせる轟音。
聴覚から立ちこめる山霧を目に浮かべ、多武峰の秋の深まりを感じた一首です。

「 ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手を
     高屋(たかや)の上に たなびくまでに 」 
                 巻9-1706 舎人皇子(弓削皇子)


( 夜の霧が一面に立ちこめている。
 衣の袖をたくし上げるというではないが、屋敷の高殿の上まですっぽりと
 覆い尽くしてたなびくほどに )

前歌と同様宴席での歌で作者の邸宅は多武峰の細川べりにあったようです。
当時、人の嘆きは霧となって現れると信じられていました。
伊藤博氏は
『 夜はとりわけ共寝に焦がれる時。
衣は共寝を連想させる工夫に違いない。
その嘆きの霧が高殿全体を包みこむほどに立ちこめている。』(万葉集釋注)とされ、

霧が立ちこめる秋の深まりと女性と共寝できない嘆きを結びつけた
余興の歌のようです。

  「 山霧は 民の嘆きか 多武峰 」 筆者

多武峰の裏側から飛鳥、石舞台に通じる山道があります。
約6㎞位でしょうか、かっては藤原鎌足が南淵請安のもとに通った道です。
冬野川が流れ、ところどころに咲いている野草が美しい。
ゆっくり歩くこと1時間半、石舞台に到着すると、芒と盛りを過ぎた萩が
迎えてくれました。

   「穴惑ひ 日のぬくもりの 石舞台 」   三代川 次郎 

「穴惑い」:秋の季語 蛇は秋の彼岸に穴に入り、長い冬眠を始めるといわれるが
          彼岸を過ぎても穴に入らない蛇を穴まどいという
ご参考 :
 
司馬遼太郎著 「街道をゆく:奈良近江散歩 朝日文庫より(要約)」


『 ― 多武峰は観か神社か、寺か。 
というあいまいさは千数百年つづく。
多武峰の祭神が、「談峰権現(だんぶごんげん)」という名になるのは、
ようやく平安期になってからで、926年である。
権現とは「仏が権(かり:仮)」に日本の神として現れるという意味で、
十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。

このため多武峰は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。
多武峰の僧のことをとくに「社僧」とよぶことが多い。
ただしいまは存在しない。
明治の太政官政権の勇み足の最大のものは廃仏毀釈であった。
慶応4年(1868) 旧暦3月17日、全国の社僧に対し、復飾(還俗にもどること)を
命じた。
多武峰の社僧も明治2年還俗させられ、「神仏判然令」によって仏教色を除かれ
談山神社(だんさんじんじゃ)という殺風景な名になった。

俗人になった僧たちは、半ば官命によって妻帯させられ、苗字を称し、
その寺院を屋敷にして住んだ。
そのうち代表的な「家」の一つだった六条氏などは三等郵便局を営んだ。
( その六条氏の孫、篤氏が画家でありながら三等郵便局長を守らなければ
 ならなかった。)

太政官政権がやったあざやかのことの1つは、あっというまに全国組織の
郵便(逓信)制度をつくったことである。
旧幕時代の庄屋や在郷の名家の当主に准官吏の礼遇をあたえ、屋敷にいたまま
業務をさせるというただそれだけのこと、一夜にして全国の通信網ができた。』

                                      以上
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by uqrx74fd | 2012-11-24 11:12 | 万葉の旅

万葉集その三百八十八(吉野紀行2)

( 花矢倉展望台より 一目千本 )
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( 吉野水分(みくまり)神社 )
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( 金峯山寺 蔵王堂 )
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( 同上 蔵王権現  同寺パンフレットより )
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( 吉水神社 )
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( 吉野葛 )
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( 吉野周辺案内図 西行庵は金峰神社の下にある )
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私たちは苔清水の歯にしみるような冷たい水を飲んで疲れを癒した後、
杉が刈り倒されている小径を登りはじめました。
ゆるやかな勾配の山道の両側から木の香りが漂ってきます。
郭公でしょうか、鳥の鳴き声も聞こえてきました。
登ること15分。頂上に到達です。
眼下は雄大なパノラマ風景。
杉が形よく林立する吉野の山々、
はるか遠くに金剛、葛城、二上山がかすんで見えます。

「 み吉野の 高城(たかき)の山に 白雲は
   行(ゆ)きはばかりて たなびけり見ゆ 」
                   巻3-353 釋 通観(伝未詳)


( み吉野の 高城山を見ると、白雲が進みかねてずっと棚引いている。
 まるで、雲が山の気高さに感動して、見惚れているようだ )

高城山は金峰山(きんぷせん)近くの高城山(720m)ともいわれています。
万葉人も同じ景色を眺めながらうっとりとしていたことでしょう。
しばしの休息を終え、昼なお暗き森の中に入ります。

「 み吉野の 青根が峰の蘿席(こけむしろ)
    誰(た)れか織りけむ 経緯(たてぬき)なしに 」 
                         巻7-1120 作者未詳(既出)


( 吉野の青根が岳。あの苔のむしろは一体だれが織り上げたのでしょう。
  なんと素晴らしい!まるで絨毯みたいですね。
  縦糸も横糸も区別がつきません )

鬱蒼とした木立が続く中、根元に色鮮やかな緑の苔の絨毯。
その間から羊歯が大きな葉を広げています。
太古の世界に迷い込んだような雰囲気です。
奥吉野が古の姿のまま保たれているのも、神の宿る山として大切にされてきたから
なのでしょう。

約1時間のハイキングを終え、吉野水分(みくまり)神社に向かいます。
古代の人たちは山の水源地や分水嶺に神が宿り、麓を潤す水を配っていると
信じていました。
即ち水配り=水分(みくまり)です。

「 神さぶる 岩根こごしき み吉野の
    水分山( みくまりやま)を 見れば悲しも 」
                           7-1130 作者未詳


( 神々しい大岩の根がごつごつ切り立つ、ここ吉野の水分山、
 この山を見ると切ないほどに身が引き締まってくる。)

吉野を訪れた宮廷人の宴席での歌で、「悲し」は「あまりの素晴らしさに泣きたくなる
くらいに感動した」の意です。
「水分山」は吉野上千本の上方、青根が峰(858m)とされ、もともと「天の水分神」は
その山頂に祀られていましたが、後年(延喜式内社制定以前)、現在の「吉野水分神社」に
遷されたそうです。

丹塗りの楼門をくぐり、境内に入ると右に三殿を一棟とした本殿、左に拝殿、
周囲は吉野の山に囲まれ荘厳な雰囲気を漂わせています。
また、本殿に安置されている玉依姫命像( たまよりひめのみことぞう) は
鎌倉時代の代表作として高く評価され国宝に指定されています。

このお社は水の神様を祀るとともに、子宝の神様とされ、拝殿には赤子の襦袢が
たくさん積まれており、安産の祈願に1枚戴いて帰り、出産したらお礼参りをして
2枚を供えるのだそうです。
枕草子(239段)に「み子もりの神 いとをかし」 と書かれているのでかなり
古い時代から授産、安産の神とされていたようですが、その由来は
「水を配分する神」の「みずくばり」が次第に「みくばり」→「みくまり」
→「みこもり」に転訛しついに「こもり(子守)になった」というのですから面白い。

本居宣長は「菅笠日記」で「子供に恵まれなかった父親が遥々江戸からこの神社に
参って授産を祈願したところ、母が懐妊した。
さらに男でありますようにと祈り自分が生まれでた」と深く信じ

「 水分の 神の誓のなかりせば 
   これのわが身は 生れ来めやも 」


と終生感謝の気持ちを持ち続け、生前に設計し山桜を傍らに植えるように指示した
自らの墓は吉野の方角に向かって建てられたそうです。

「 水分の 神みそなはせ 遅桜 」   石井桐蔭  
                           みそなはせ:ご覧くださいませ

拝殿で大勢の人を前にして女神主さんが静かにお話をされています。
穏やかな顔つきと少し太った体は子守の母にふさわしく「玉依姫命像」の表情と
重なりそうです。

「 奥千本 峰を離るる盆の月 」 新保ふじ子

私たちは吉野随一の眺望を誇る花矢倉展望台へやってきました。
眼下に上千本、中千本、蔵王堂を見下ろせ、遠くに金剛、葛城、二上山が望めます。
花の季節には「 さくら さくら 野山も里も 
見わたすかぎり 霞か雲か朝日に匂ふ 」(古謡) 
がごとく豪華絢爛たる舞台が出現することでしょうが、青葉の季節もまたよしです。

「後ろの茶店の葛切りが美味そう」と思いつつ秘仏御開帳の金峯山寺蔵王堂へ。

「 桜東風 香煙燻る蔵王堂 」 鳥居忠一

蔵王堂の創建は白鳳時代と推定されていますが、1348年の南北朝の戦いで高師直
(こうのもろなお)の兵火で焼かれたほか3度も罹災し、その都度財力を傾けて再興された
野趣あふれる雄渾な大伽藍です。

運よく秘仏、金剛蔵王権現3体が御開帳されており堂内に。
うす暗い内陣には青の忿怒の形相の本尊、金剛蔵王。
右手に三鈷杵(さんこしょ)を持って頭上に振りかざして天界の魔王に挑み、
左手の指の刀印はすべての情欲や迷いを切り払う構えです。
左足は、盤石を踏まえて地下の悪霊を払い、右足を大きく上げて、虚空に充満する
悪魔を調伏せしめんとしているようで、怒髪天の形相は人間の心の中の悪魔を
追い払うのが修験道の理念とのことです。
権現とは、○○の姿をかりて現れる相のことで、中尊は釈迦如来、左、観音菩薩 
右は弥勒菩薩とされていますが、恐ろしい表情にもかかわらず怖いと言う感じは
致しません。
むしろ「お前たちしっかりしろよ」と励まされているようです

 「 蛙飛びの呪文響くや吉野山 」藤田子角

毎年7月7日に蛙飛び行事という奇祭が蔵王堂で行われます。
その昔、一人の男が金峯山寺の本尊の悪口を言った途端に大鷲にさらわれ
断崖絶壁の上に置き去りにされた。
今にも谷底に落ちそうな恐怖に冷や汗を流した男は大いに反省し、通りがかりの
山伏に泣きついてカエルの姿に変えてもらい何とか山から下りてこられた。
ところが人間に戻ることが出来ない。そこで吉野山の高僧が蔵王権現の前に
座らせて経文を唱え、人間にもどしてあげたという伝説に基づく行事です。

 「 葛切りや谷に迫り出す吉野建 」   中御門あや

吉野山の町並みは、いわゆる吉野建といわれる崖造りです。
馬の背のような一筋の町並みは短く、然も左側は深い谷。
そこで、人々は1,2階を道より下にかけ出し、3階が普通の平屋と同じ形にしたのです。
つまり、清水寺や長谷寺の舞台のような造りなのです。
歩いていると気が付きませんが、中に入ってトイレに行くときは、狭くて急勾配の
階段を下りて2階またはその下に行き、崖の上で憩うのです。

「 亀鳴いて 吉水院の奥の庭 」    森田公司

後醍醐天皇が祀られている吉水神社は白鳳年間に建立されたと伝えられ
元は金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)でしたが、明治維新の廃仏毀釈により
神社になったそうです。
南北朝時代、南朝の宮とされ、また義経と静が潜居したり、豊臣秀吉が徳川家康、
前田利家以下5千人もの家来を引き連れて花見をしたことでも知られています。
その折、秀吉は「絶景じゃ。絶景じゃ。」とはしゃぎ

「 年月を 心にかけし吉野山
    花の盛りを今日見つるかな 」
と詠ったそうですが

この狭い場所に5千人の花見とは!
吉野の山は人、人、人であふれかえったことでしょう。

私たちの奈良万葉旅行も吉野神宮を訪ねて終わりとなります。
大学を卒業してから50年目にして初めての5人旅。

あっという間の5日間でしたが、至福のひとときでありました。
水も滴る新緑の中、奈良公園の藤、長谷寺の牡丹、室生寺の石楠花、
長岳寺の躑躅や杜若、そして可憐な野の花々、
み仏の慈悲深いお顔。
古代のロマンに出会った飛鳥路や山の辺の道。
これらは仲間との楽しい会話と相まって終生の良き思い出となることでしょう。

各々の健康と変わらぬ友情を願いつつ次の歌を口ずさみながら吉野をあとに
したことでした。

「 皆人(みなひと)の 命も我がも み吉野の
      滝の常盤の 常ならぬかも 」 6-922 笠 金村


( 皆々方の命も 我らの命も ここ み吉野の滝が常盤であるように
 永遠不変であってくれないものかなぁ。 )
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by uqrx74fd | 2012-09-08 20:08 | 万葉の旅

万葉集その三百八十七(吉野紀行1.:吉野山奥千本へ)

( 宮滝付近 )
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( 如意輪寺 )
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( 金峰神社 )
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( 義経隠れ塔 )
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( 奥千本への道 )
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( 同上 )
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( 西行庵 )
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( 苔清水 )
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私たちの奈良万葉旅行は新緑の吉野で最終日。
近鉄奈良駅から特急を乗り継ぎ9:30に吉野駅に到着、予て案内をお願いしてた
近鉄タクシー運転手、Tさんが約束通り出迎えてくれました。
地元出身の彼は会社唯一の吉野検定合格者です。

早速、九十九折の山道をゆっくりと如意輪寺へ。
鬱蒼と茂る杉木立の中、瑞々しい若葉がキラキラと光っています。

万葉集で「吉野」を詠ったものは70余首の多きに達しますが、
桜を詠ったものは1首もなく、山川の自然の美しさを賛美し朝廷の繁栄を
予祝したものがほとんどです。
当時、吉野川のほとりの宮滝で離宮が営まれ、天皇の行幸が頻繁に
行われていたことにもよるのでしょう。
記録に残るだけでも42回。
中でも持統女帝に至っては32回(妃時代も含めると34回)も訪れています。

何故これほど足しげく吉野を訪れたのか?

国を司る立場から五穀豊穣を祈り、水の神に潤沢な雨を祈願する雨乞い説、
付近に水銀や金銀を産する鉱山がありその発掘作業の督励、
あるいは天武天皇と共に壬申の乱の際に過ごした思い出の地の追慕の情など、
様々な思いが入り混じり吉野へ向かわせたのではないかと推察されていますが、
確たる定説はありません。

ともあれ多くの官人を従えた天皇は吉野の美しい山や清々しい川を
神仙境とみなして詠い、賑やかな酒宴を催したことでしょう。

「 - -吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく
   川早み 瀬の音ぞ清き 
   神さびて 見れば貴(たふと)く
   よろしなへ 見ればさやけし ――」   巻6-1005(長歌の一部) 山部赤人


(- - 吉野の宮は 山が高くて雲がたなびいている
 川の流れが早くて 瀬の音が清らかである
 山の姿は神々しく 川の姿も宮処にふさわしく
 見れば見るほど清々しい- -  )

736年 聖武天皇行幸の時に詠われたものです。
「よろしなへ」の「よろし」は条件が備わっていて快いという気持ちを
表し、ここでは「ふさわしいの」意。

「 花朧 杉も朧や 如意輪寺 」   堀 吉蝶

高い杉木立に囲まれ如意輪寺に到着です。
中千本の桜の山々を見はるかす山の中腹にある静かな佇まいのお寺で、
延喜年間(901~923年)に建立された後醍醐天皇の勅願寺とされています。

南北朝時代、楠木正成の長男、正行が足利尊氏との戦いの前に

「 かえらじと かねて思へば梓弓
    なき数に入る 名をぞとどむる 」


との辞世の句を本堂の扉に残して出陣し、華々しく散ったと伝えられている
夢の跡でもあります。

再び車に乗り込み、吉野山奥千本の入口あたりに立つ金峰神社(きんぷじんじゃ)へ。
吉野山の地主神、金山昆古命(かなやまひこのみこと)を祀る古い社です。

金鉱を守護し、黄金を司る神としても崇められ、このあたり一連の山並みは古くから
「金御岳」「御かねの岳」「こがねの峰」とよばれていました。
背後はこの地方の最高峰標高858mの青根ヶ峰の西北山腹に道が通じており、
初期吉野修験の発生地ともされています。

「 み吉野の 御金が岳(みかねがたけ)に 
  間なくぞ 雨は降るといふ  時じくぞ 雪は降るといふ 
  その雨の 間なきがごと  その雪の 時じきがごと
  間もおちず 我(あ)れはぞ 恋ふる  妹が直香(ただか)に 」  巻13-3293 作者未詳

「 み雪降る 吉野の岳に 居る雲の
    外(よそ)に見し子に 恋ひわたるかも 」 巻13-3294 作者未詳


( み吉野の み金が岳に 
絶え間なく雨は降るという  休みなく 雪は降るという
その雨の絶え間がないように その雪の休みがないように
間もおかずに私は 恋い焦がれている いとしいあの子に ) 13-3293

( み雪降りしきる吉野の岳 その岳にかかっている雲を見るように
 よそながら見たあの子を 私はひたすら焦がれ続けている ) 13-3294

時じ:定まった時がない
妹が直香に :直接に感じ取ることが出来る雰囲気、その人固有の香り
       女性の美しさや魅力をいう「香」から生まれた言葉か。

この社の創建の経緯は不明ですが、栄花物語に藤原道長が詣でたことが記され、
その際に奉納した経筒が国宝に指定されています。(京都博物館に寄託)

脇の小径を下ったところに義経が頼朝の追っ手に追われ隠れ潜んでいたという
簡素な檜皮葺の塔があり、このあたりから大峰山への奥駈道が始まります。

以下は「前登志夫著 吉野紀行 」からです。

『 金峰神社から山道を奥に入ると、急に山気が濃くなるのを感じる
 すぐ急坂に突き当り、道が2つに分かれている。
 「左大峰」という石標が立っているが、そこから山上参りの山伏道が左手に折れている。

  右の方をほぼ真っ直ぐに、山の中腹のゆるやかな小径を行くのが
  西行庵への道である。- 
  杉、檜の小径を数分歩くと、左へ下りるかなり険しい岨道(そばみち)がある。
 「西行庵」の道しるべがある。
  一歩一歩、岩角を踏みしめるようにして、苔清水の上手(かみて)を通り、
 西行庵のある山ふところの平地に辿りつく。
 道しるべから200mほどの距離だが、岨道に馴れない人には骨が折れる。

 背後に雑木林の急な斜面が迫っているが、前方と横手は杉山、檜山の谷間がひらけている。
 谷間をへだてて前方に広がる杉、檜の山の斜面に、陽ざしがさまざまに照り翳(かけ)る。- -。

 下りてきた岨道(そまみち)の下を、横手に二百歩足らず戻ると、名高い苔清水。
 むろん今もとくとくと真清水は湧き出ている。』     (角川選書より)

西行を敬慕する芭蕉は2度この庵を訪れ、故人を偲んで一句献じました。

「 露とくとく 心みに浮世 すすがばや 」 芭蕉

( 庵跡の苔清水は、西行が詠った通り今もトクトクと滴り落ちている。
 試みに私も俗世の塵をすすいでみましょうかね。)

この句は西行の次の歌を本歌取りしたものです。

「 とくとくと 落つる岩間の苔清水
    汲みほすほどもなき住居(すまひ)かな 」 西行


( 我が庵のそばの岩間からとことくと清水が湧き出ているのだが、
 一人住いのわが身のこと、水汲みするほどのこともなかろうよ )

今に残る西行庵跡とされている建物は何度も朽ち果て、その都度地元の人が
立て直したものだそうです。
それにしても、熊が出そうなこの山奥で小屋のような住処。
よく3年間も過ごせたものです。
如何に桜に魅入られたとはいえ、冬は雪に囲まれ凍えるような寒さだったことでしょう。

「 西行庵 これが栖(すみか)か 苔清水 」氏家頼一
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by uqrx74fd | 2012-09-01 20:51 | 万葉の旅

万葉集遊楽その三百八十五〈明日香:剣池〉

 (甘橿の丘から: 畝傍山、和田池 左後方に少し見えるのが剣池)
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 ( 剣池,孝元天皇御陵  後方多武峰:その手前 甘橿の丘)
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( 蓮の露 明日香にて )
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( 古代蓮 明日香藤原宮跡にて )
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( 和田池 建物の後方甘橿の丘)
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( 明日香にて )
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( 古代蓮 明日香藤原宮跡)
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( 明日香にて )
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近鉄橿原神宮駅東口から甘橿の丘方面に向かって歩くこと10分足らず。
この辺りは昔「軽(かる)」とよばれ、応神天皇(270~310年)の宮、軽島豊明宮
(かるしま とよあきらみや:橿原市大軽町) があり、蘇我氏の本拠地であったとも
伝えられています。
蘇我氏は大陸からの渡来人を積極的に受け入れて文物や高度な技術を導入し
農地の生産性を飛躍的に増大させ、政治の実権を握っていったようです。
さらに、市なども立ちさぞ賑やかな街であったことでしょう。

日本書記によると、「応神記11年に剣池、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさかの)池が作られた」
とあり、これらの池も最新技術を駆使して灌漑用に掘られたものと思われ、
中でも剣の池は、川底に剣が埋まっていると信じられていたのでその名が
ありますが、万葉集に名をとどめている池の中で唯一現存している千数百年前の
貴重な遺跡です。
池に影を映している孝元天皇の御陵の壕としての役割もあったゆえ長く残されたのでしょうか。

635年さらに644年の2度にわたって1つの茎に2つの蓮の花が現れるという
瑞兆があり(日本書紀)、当時は蓮の花が咲く華やかな池であったようです。

「 み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の
  ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を
  な寐寝(いね)そと 母聞こせども 我(あ)が心 清隅(きよすみ)の池の
  池の底 我は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに 」
                      巻13-3289  作者未詳

「 いにしへの 神の時より 逢ひけらし
     今の心は 常忘らえず 」 巻13-3290 作者未詳


(訳文:13-3289)

( 剣の池の蓮の葉にたまっている玉水が、どちらに動くか分からない様に
 私もどうしてよいのか途方に暮れていたときに、逢うべき定めなのだと、
 占いのお告げによってお逢いしたあなた。
 それなのに、おっかさんは、あの人に身を任せて一緒に寝てはいけないと言うのです。
 私の心は清隅の池のように澄んでおり一点の迷いもなく、また、池の底が深いように、
 あなたのことを深く深く、お慕いしておりますのに。
 もう一度じかにお逢いできるまで、貴方のことを決して忘れは致しません。) 

(訳文:13-3290)

( はるか古の神の御代から二人は逢っていたのでしょうか。
  私は今の今も貴方のことが気にかかり、片時も忘れることができないのです。) 

一途に男を慕う乙女は何らかの理由で母親から交際を止められていたようです。
離れて行く男に対して燃え盛るような想いを募らせている心情に諦めの気持ちが籠ります。

ここ「軽」を舞台にしてで詠われたものは紀皇女(きのひめみこ)の孤独な恋(3-390)、
柿本人麻呂の亡き妻を偲んで慟哭しながら市をさまよう歌(2-207)など悲しみとロマンに
満ちた秀歌が残されており、恋に生きる雅やかな人々の生活が偲ばれます。

「 ふるさとの 野寺の池は田となりて
        そのひとかたに 蓮咲きにけり」 落合直文


まことに奇妙なことですがこの池の底に「剣の池」「石川池」という標柱があり、
二つの池が併存しているのです。
というのは明治時代、地元の水利組合が灌漑用水を確保するため飛鳥川の水を引いて
剣の池を拡張したので、古来の池と新たに広げた池との間に境界を設けて
区分したそうですが満杯の時は全く分からないので、この池の名も「剣の池」と云ったり
「石川池」と云われたり、ややこしい。
冬になると水をすべて落として空池にするので標識が現れますが、恐らく誰も境界には
気が付かないことでしょう。

「 田植機の 泥ぽたぽたと 飛鳥みち」 横井博行

美しい蓮の花は何時の頃から消え失せてしまったのでしょうか。
周りも民家で埋め尽くされ、昔を偲ぶ縁(よすが)は池淵に立つ石碑のみです。

昭和25年5月に当地を訪れた亀井勝一郎氏は次のように書いておられます。
『さざ波ひとつない鏡のような水面を、時々かいつぶりが一條のすじをひいて走って行く。
 あとは物音ひとつ聞こえない静けさだ。
 かすかな春風に吹かれながら立っていると、歴史の匂ひがしてくるやうだ。
 日本書紀や万葉の思い出が風景に匂ひをもたらすのかもしれない。』
                                 ( 飛鳥路:人文書院より)

「 母の顔 道辺の蓮の花に見き 」  山口青邨
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by uqrx74fd | 2012-08-18 20:47 | 万葉の旅

万葉集その三百八十四(明日香:甘橿の丘から)

(甘橿の丘遠望)
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( 甘橿頂上への道)
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( 山道の途中から 真中に飛鳥寺が見える)
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( 耳成山、右香久山)
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( 畝傍山 後方は二上山)
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( 明日香俯瞰図 左上大和三山と藤原京)
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( 本薬師寺跡〈右側の森〉近くから畝傍山を望む 蓮の後方にホテイアオイが見える)
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( ホテイアオイの群生 畝傍北小学生が植えたもの 2012、8、10 撮影)
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( 同上 )
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甘橿の丘は明日香のほぼ中央部に位置し、南北に細長く伸びている高さ148mの小山です。
古代、栄華を誇った豪族、蘇我氏が大邸宅を構え、山上から天皇家をも睥睨(へいげい)していたものの
奢れるもの久しからず、中大兄皇子と藤原鎌足に攻め滅ぼされ終焉を迎えた地でもあります。
現在は国営飛鳥歴史公園として整備され、明日香全体を俯瞰(ふかん)することが出来る
絶好のビユーポイントです。

私たちは、民家の脇の登り口からゆっくり頂上へ向かいました。
丸太を横に渡して砂止めにした幅の広い階段は登りやすく、傾斜は多少きつくても
年寄りや子供に優しい坂道です。
丘の中腹あたりから後方を振り返ると、先ほど立ち寄った飛鳥寺や水落遺跡が見え、
飛鳥川が心地よげに流れています。
頂上の豊浦展望台まで約10分。

雄大な景色が目の前に広がりました。
遥かに多武峰の連山、生駒山、二上山、葛城、金剛の山々。
平野の中で瑞々しい姿を見せる香具山、畝傍、耳成山は海の中に浮かぶ島のようです。
神様はなんという不思議な摂理をされたのでしょう。
大和三山は、ほぼ正三角形に点在しており、お互いに惹かれあっている様子から
妻争いの伝説を生み、その位置は都づくりにも大きな影響を及ぼしました。

「 畝傍山 香具山つなぎ 稲穂波」 藤田佑美子

694年、中国の長安を参考にした本格的な都「藤原宮」が造営されました。
大和三山に囲まれ、泉がこんこんと湧き出ている宮殿です。
遷都にあたり持統女帝のお出ましの中、新都を寿ぐ歌が奉られます。
恐らく祝詞のような調べで詠われたことでしょう。

「- - 大和の青香具山は 日の経(たて)の 大き御門 (みかど) に
    春山と 茂(し)みさび立てり 
    畝傍の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に
    瑞山と 山さびいます
    耳成の 青菅山(あおすがやま) は  背面(そとも)の 大き御門に
    よろしなへ  神さび立てり
    名ぐはし  吉野の山は  影面(かげとも)の 大き御門ゆ
    雲居にぞ 遠くありける 
    高(たか)知るや  天の御蔭(みかげ)  天知るや 日の御蔭の
    水こそは とこしへにあらめ  御井(みい)の ま清水 」 
                  巻1-52(長歌の一部: 最後の一行のみ既出) 作者未詳

(訳文)
「- - ここ大和の青々とした香具山は 東の偉大なる御門に面して
 いかにも春山らしく 茂り立っている。
 畝傍、この瑞々しい山は 西の大御門に 瑞山と 山らしく鎮まる
 耳成、この青菅茂る清々しい山は、北の大御門にふさわしく
 神々しくもそそり立つ
 その名も高き吉野の山は 南の大御門より はるか向こう
 雲の彼方に遠く連なっている
 かくのごとき 素晴らしい山々に守られた御殿は
 高く空に聳え立つ御殿
 天いっぱいに 広がり立つ御殿
 この大宮の水こそ とこしえに尽きることがない
 この御井のま清水は  」      巻1-52 作者未詳



この歌から香具山は東 畝傍は西 耳成は北 吉野山は南の守り神とするべく
場所に宮殿が建てられたことがわかります。
香具山を「青香具山」と言っているのは「青」は陰陽五行説の東にあたり、
日の経(たて)も東を意味し、東大御門を守る鎮めの山が香具山。

畝傍山の「瑞山」は「清らかでみずみずしくも聖なる」の意で「日の緯(よこ)」は
西を表す言葉。西の大きな御門には畝傍山が控えている。
「山さびいます」は「山らしく いかつい」の意

耳成の「青菅山」は青々とした菅が生えている山。 菅は神聖な植物で禊の時に
用いられたことによります。
「背面(そとも)」は北を差す言葉で、藤原宮の北、背面。
「宜(よろし)なへ」は「それらしく、ふさわしく」

「吉野」の「名ぐわし」は「有名な」という意と「良し」に通じているので
「良き名の吉野」を掛けている。
「影面(かげとも)」は南をさす言葉です。
そして、天皇の威光はあまねく天下に行き渡り、永遠に渇くことを知らない
湧き上がる真清水のごとく、永久(とわ)に栄えるであろうと詠いおさめています。

「 青梅雨に 大和三山 みなけぶる 」 鷹羽刈行

パノラマの景色を堪能した私たちは川原展望台に向かいました。
馬の背のような丘の頂の両側には万葉ゆかりの木々が植えられ、それぞれに
名札が付けられています。
桜の木も多く、春には絢爛たる景色を演出してくれることでしょう。

小鳥のさえずりも聞こえてきました。
山鳩が餌を探しながら道の前をチョコチョコと歩いています。
歩くこと約10分。 
耳成山が近くに見え、後方に聳え立つ二上山。
手前に和田池、剣池、孝元天皇の御陵。
この辺りは亡き両親が晩年を過ごした懐かしいところで、
二人が今にも家から出てきそうな様子が目に浮かび瞼が熱くなりました。

夕日が次第に二上山に落ちてゆきます。
駱駝(らくだ)のこぶのような特徴のある山姿です。
大和三山は見る角度で形が変わり、特に畝傍、耳成は間違えやすいのですが、
「背後に二上山が見えるのが畝傍山」と覚えておけば何とか判別できそうです。

明日香散策も甘樫の丘で終点。
私は

「 采女の袖吹きかへす 明日香風
    都を遠み いたづらに吹く 」   巻1-51 志貴皇子(既出)


と口ずさみながら、来た時とは反対側の坂道を下りて行きました。

   「 野を焼いて 甘樫の丘 けぶらせり 」 若山智子
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by uqrx74fd | 2012-08-11 17:20 | 万葉の旅

万葉集その三百八十三(明日香:川原寺、飛鳥寺)

( 川原寺跡:現・弘福寺)
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( 川原寺復元模型 飛鳥展図録より )
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( 飛鳥寺 )
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( 同 裏側 )
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( 同 手前の石塔は蘇我入鹿の首塚 )
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( 飛鳥寺遠景 )
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( 梅花うつぎ:飛鳥寺境内にて )
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( 水落遺跡説明板 :写真の真中をクリックすると拡大出来ます。)
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橘寺の山門を出ると、県道を挟んだ向かい側に真言宗 弘福寺(ぐふくじ)とよばれている
お寺があります。
こじんまりとしたお寺ですが、かっては斉明天皇の川原宮が営まれたところで、
亡き天皇を弔うために天智天皇(天武とも)が勅願する川原寺として創建(670年頃)され、
盛時には約4万7000坪の敷地に300人近い僧が住み、中金堂(現本堂)を中心として、
塔、西金堂、講堂などが整然と立ち並び、飛鳥寺、大官大寺、薬師寺と共に
飛鳥四大寺の一つとされていました。

都が平城京に遷され、他の大寺は都へ移転しましたが川原寺のみ飛鳥に残ったため、
以降、寺勢が衰え、さらに度重なる罹災で往事の伽藍はすべて焼失してしまい、
今は広々とした跡地に復元された礎石の模型と本堂前にある瑪瑙(めのう=大理石)の
礎石が残されているのみです。

「 花冷えや 塔の礎石の白瑪瑙 」 神田美穂子

日本書記に686年、新羅の客をもてなすために川原寺の伎楽を筑紫に送ったとあります。
古の時代、この寺に大きな伎楽団があり楽器も多く保持されていて、雅楽などの
演奏も盛んに行われていたことを窺わせる記述ですが、川原寺の僧も「倭琴」(わごと) を奏でる練習をしていたのでしょうか。
万葉集に琴の面(おもて)に落書きされた
「世間(よななか)が常なく 儚(はかな)いことを厭(いと)う歌二首」残されています。
                     註:倭琴=(膝にのせて奏する6弦の小さな琴) 

「 生き死にの 二つの海を 厭(いと)はしみ
    潮干(しほひ)の山を 偲(しの)ひつるかも 」
                      巻16-3849 作者未詳 


( この世は、生きて行く苦しみと死に対する恐怖がたゆとう海のようです。
 あまりにも煩わしいので、苦海が干し上がったところにあるという山に
 至りつきたいと心から思い続けております。)

万葉集には珍しい欣求浄土の仏教思想が詠まれた歌です。
『 潮干の山は生死海の海水をことごとく干し上げてそこに燦然と現れる山、
具体的には須弥山(しゅみせん)などと思われ、極楽浄土の世界をさす』とされています。
                        (井村哲夫 国文学52号)
 
「 世間(よのなか)の 繁き仮蘆(かりほ)に 住み住みて
    至らむ国の たづき知らずも 」 巻16-3850 作者未詳


(  煩わしいことばかりが多い人の世の仮の宿りに住み続ける我が身。
   願い求める国へ到りつく手立ては、今もって分からないままです 。)

橘寺の僧が少女を犯すという俗な思いを詠ったのに対し、川原寺の僧のものは
落書きとはいえ悟りの境地に達したいと願う真剣な思いが込められており
内容も極めて高度なもので、自由闊達な橘寺、厳しい規律の川原寺の生活を
窺わせる歌です。

「 とんぼ湧く 礎石ばかりの 川原寺 」 都合ナルミ

白い壁が美しい川原寺の前に立ち後方を眺めると青田が続く彼方に甘樫の丘や
香具山が望まれ、すぐ横に飛鳥川が流れています。
秋になると周りは彼岸花で埋め尽くされることでしょう。
万葉時代この辺りは真神原(まかみのはら)とよばれ、狼(真神)が出没する寂寥たる
荒野であったとは想像もつかないことでした。

朝風峠から稲渕、栢森、石舞台、岡寺、橘寺、川原寺と巡ったところで、
丁度お昼になり、万葉文化館で一休みすることにします。

奈良県立万葉文化館は2001年9月に開館された万葉集をテーマとする美術博物館で、
平山郁夫画伯を初め154名の画家が万葉歌をモチーフにして描いた日本画が常時
展示されているほか、富本銭の発掘跡や古代の生活の復元展示、関係図書など
多岐にわたり整備されている万葉集総合古代学の殿堂です。

緑なす山々を借景にした広い前庭を眺めながら、懐石弁当を戴いた後、
館内をゆっくり見学し裏庭から飛鳥寺に向かいます。
ここからは徒歩の散策です。

「 飛鳥寺の 鐘なりわたる 刈田かな 」 古川京子

587年、仏教伝来をめぐり廃仏派の物部氏に完勝した蘇我馬子は、全力をあげて
本格的な寺の造営に取り組み、百済からの渡来人による新技術と蘇我氏の莫大な財力、
民を総動員した労力を結集し596年に塔を完成させました。

さらに、605年に鞍作止利(くらつくりのとり)が中心となって我国最古の金銅仏(4、85m)
釈迦如来(飛鳥大仏)の造立を開始し609年ついに最初の本格的な寺院、即ち
東西の塔を囲んで三つの金堂をもつ堂々たる伽藍配置の法興寺(当時)が落成したのです。

この寺は後に、中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会い、大化改新のきっかけになった
所としても知られています。
皇子らの蘇我入鹿誅殺という「乙巳(いっし)の変」で天皇家に摂取され、平城京遷都と共に
元興寺として都へ移されましたが、大仏は当地に残され飛鳥寺として存続しました。
その後、罹災で堂宇伽藍はすべて焼失し、本尊釈迦如来(大仏)は残ったものの
焼けただれ、長年雨ざらしのまま放置されて無残なお姿になっていたそうです。

現在、飛鳥寺とよばれている安居院は1826(江戸時代)に建立され、ようやく本尊が
堂内に安置されました。
火災に遭ったお顔は継ぎ接ぎが目立ち痛々しい感じがいたしますが、
その大陸的な風貌は白鳳初期の特徴をよく残しています。

「 故郷(ふるさと)の 明日香はあれど あをによし
    奈良の明日香を 見らくしよしも 」
                巻6-992 大伴坂上郎女 元興寺の里を詠む歌一首


( 飛鳥寺が立つ故郷の明日香は思い出深くよいところであるが
 奈良の新しい都の飛鳥寺(元興寺)を見るのもよいものだ。)

作者は飛鳥から平城京に移され、今は元興寺とよばれる寺を見るにつけて
故郷の飛鳥寺を懐かしく思い出しているようです。
寺院の移設に当たって、瓦や木材が再利用されたらしく、甍を見上げるたびに
故郷の野山や川が脳裏に蘇ってきたことでしょう。

「 首塚をかすめて平家蛍とぶ」 江口ヒロシ

飛鳥寺の裏手にまわると蘇我入鹿の首塚。 
真偽は別として中大兄皇子に討たれた首がここに落下したと伝えられていますが、
蘇我氏の守護神であったはずの飛鳥寺の裏に建てられているとは何という
歴史の皮肉なのでしょうか。

周りを見渡すと一面のレンゲ畑。
私たちは後方に見える甘樫の丘に向かって田畑を横切りながら歩き出しました。

ほどなく660年中大兄皇子が作った我国最初の水時計(漏刻)があったと
いわれている広々としたところに出てきました。
1981年に発掘され「飛鳥水落遺跡」と命名されていますが、かなり大掛かりな
建物と装置があったことが想像されます。
このあたりは明日香のほぼ中央に位置することから、水時計で時刻を計り、
鐘と太鼓で人々に時を知らせていたのです。
                  (詳しくは万葉集遊楽61 時の記念日をご参照下さい)

遺跡の左側に飛鳥川が流れ、橋を渡ると間もなく甘樫の丘です。

「 飛鳥路の 雨細やかや 夏薊(なつあざみ) 」 藤武由美子
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by uqrx74fd | 2012-08-04 18:06 | 万葉の旅

万葉集その三百八十二(室生の里)

(  室生 太鼓橋 )
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( 室生寺の石楠花 )
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( 鎧坂 金堂へ )
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( 室生寺 十一面観音菩薩  絵葉書より)
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( 室生寺五重塔 )
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( 石楠花 )
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近鉄大阪線、長谷寺から室生へ向かう路線の両側は広々とした田園の先に幾重にも
重なる青垣と美しい杉の林が続きます。
人麻呂の「東(ひむがしの)の野にかぎろひの立つみへて-」の名歌の舞台、阿騎野の
榛原駅を通り過ぎ、ほどなく室生口大野駅に到着。
長谷寺から2駅です。

ここから室生寺まで約8㎞の道のりをバスで移動。
枝垂桜で有名な大野寺の前を通ると宇陀川と室生川が合流する地点の向う岸に
巨大な磨崖仏(まがいぶつ)が聳えているのが見えてきました。
鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅願により興福寺の別当雅縁(がえん)が、宗慶や宋の石工集団を
指揮して彫ったと伝えられている高さ11,5mの弥勒菩薩線刻仏です。
あっという間に通り過ぎたので車窓からよく見えませんでしたが、
以前、真近に仰ぎ見たときの柔和なお顔と美しい立ち姿が瞼に浮かんできました。

「 磨崖仏(まがひぶつ) 宇陀の菫(すみれ)に 立ち給ふ 」  皿川旭川

バスは山道に掛かり右へ左へ曲がりながら室生川に沿って進んで行きます。
水の神、龍神が籠ると信じられている室生の山々を源流とする室生川の
豊かな水は勢いよく巨岩にうち当たり、白いしぶきを上げながら掛け下ってゆき、
やがて宇陀川、名張川、木津川へと流れつがれて淀川と合流して大阪湾に出るのです。

「 鶯に朝なの冷えや室生村 」 波多野爽波

新緑と清流を楽しみながら約25分。室生の里に到着です
深い山の中に囲まれたささやかな集落で、万葉人が住んでいたころは、
桃の産地であったのか、恋の歌として詠われています。

「 大和の室生の毛桃 本(もと)繁く
    言ひてしものを成らずはやまじ 」 
                 巻11-2834 (既出:175桃 ) 作者未詳


( 大和室生の桃は木の幹からは多くの枝が茂り、きっと美味しい実をならせるだろう。
俺様も心を込めてあの娘に繁々と話しかけ、一生懸命に口説いたのだから
必ずこの恋を実らせてみせるぞ。)

「繁く」は「桃の木が盛んに育っていること」と「繁く口説く」を掛けています。
古代日本で「モモ」とよばれていたものは、中に硬い核(種)がある果物の総称で、
主として今の「ヤマモモ」をさしていた(牧野富太郎博士)ので、産毛がある桃は
中國からもたらされたものと思われます。
桃の原産地とされる黄河地域では今から3千年前に既に栽培されていたと
言われていますが、我国へはかなり早い時期に伝来していたのでしょうか。
万葉集で詠われている室生の歌はこの1首のみです。

 「 室生寺に手斧の音や日の永き」 谷田部 栄 

 参道の両側に建ち並ぶ土産物屋や飲食店を覗きこみながらぶらぶら歩いていると
 ほどなく明治4年(1871)創業の老舗旅館「橋本屋」。
かの土門拳氏が40日も泊まり込んで雪の室生を撮影したという伝説の宿です。
宿の前を左折すると、室生川の上に朱も鮮やかな太鼓橋。
その先には「女人高野室生寺」と刻まれた石柱が深い杉木立の前に立っています。

「 蝶くぐる 女人高野の 仁王門 」 窪田映子

「高野」とは女人禁制の高野山のことで、室生寺は女性を受け入れる寺とされたので
その名称があります。
寺伝によれば、室生寺は681年天武天皇の願いで役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おずぬ)が
創建し、のちに弘法大師によって、真言宗の道場の1つになったとされていますが、
元々は水の神様である室生龍穴神社という社が草創の起源だともいわれています。

「 石楠花(しゃくなげ)の 風に抜けゆく室生寺 」 渡辺政子

仁王門をくぐり抜けると小高い丘の上に金堂が立ち、「鎧坂」とよばれている
なだらかな石段が上の方まで続いています。
下から見上げると段差が如何にも鎧の「さね」が重なってように見え、一段上がるごとに
金堂がせりあがるように姿をあらわし、さながら舞台のせりの装置です。
さねとは「扎」と書き、鉄または練り皮で作った鎧の材料の小板で、これを重ねて
革緒で絡めたものです。
石段の両側は石楠花が今を盛りと咲き誇っており、金堂が花の台(うてな)に乗って
いるように感じられ、山岳地における心憎い堂塔の配置には感嘆させられます。


「 みほとけの ひじまろらなる やわはだの
     あせむすまでに しげるやまかな 」    会津八一


「み仏の 肘まろらなる 柔肌の 汗むすまでに 茂る山かな」
 
( 御仏の肘のまるくふっくらした柔肌が 汗ばむかと思われるほど、
 この山の茂りは濃いことだ。 )

まろらなる ; まるくふっくらした
柔肌 :柔らかな感触、女性の肌
汗むす: 汗ばむ 

金堂の内陣には釈迦如来を中心に十一面観音など魅力ある仏様が所狭しと立ち並び、
私たちに微笑みかけて下さっているようです。
作者が官能的と感じたのはどの御仏だったのでしょうか?
十一面観音、如意輪観音? 仏様には性別がないはずなのに?
観音像はいつも世の男たちを魅了させてくれます。

金堂の左の弥勒堂を拝観した後、裏手の石段を上ると灌頂堂(かんじょうどう:本堂)。
日本三如意輪の1つとされる如意輪観音が迎えてくれます。
立ち膝の蠱惑的な姿で、ヒンドゥー教の影響が感じられる仏さまです。

「 ささやかに にぬりの たふの たちすます
    このまに あそぶ やまざとの こら 」会津八一


「ささやかに 丹塗りの塔の 立ちすます 木の間に遊ぶ 山里の子ら 」

( こじんまりと清らかに赤く塗られた塔がすっきりと立っている。
 そのあたりの木間に遊ぶ山里の子供たちよ )

灌頂堂の西側に出ると、五重の塔に続く石段が現れます。
三方、巨大な杉木立に囲まれ、石段の前の石楠花(しゃくなげ)が所狭しと満開です。
波打つような階(きざはし)の果てに仰ぐ優美な塔は屋外にある五重塔としては
国内最小の16m余。
巨木に囲まれているさまは如何にもこじんまりとしていて可愛らしく、
木々の緑、塔の濃茶、白、朱色の取り合わせも絶妙のバランスを保っています。
まさに「自然と人工の見事に調和した地上の楽園(白洲正子:私の古寺巡礼、法蔵館)」
と讃えられるに相応しい美しい塔です。

「 山デ生マレタ山雀(ヤマガラ)ハ
  塔ノ雫(シズク)デ身ヲ濯(スス)ギ
  羊歯(シダ)ノ林ノ
  恋ニ酔ウ  」     榊 莫山


いよいよこれから奥の院へ向かいます。
「無明橋」を渡り、「賽の河原」とよばれる場所を越えて杉木立の中、
昼なお暗い石段を上ってゆきます。頂上まで390段。
既に入口の仁王門から五重の塔まで310段を登って来たので合計700段、
往復1400段の長丁場です。
天然記念物に指定されている羊歯が一面に生えている中、石楠花も健気に
枝を伸ばし、疲れた身を癒してくれています。
所々の苔むした石仏も「頑張れよ!」と励ましてくれているようです。
少し膝ががくがくしてきました。
雨上がりの滑りやすい石段。
足下を踏みしめながらゆっくりと登って行きます。
古の人たちは都から歩いてきたうえ、階段もない山道を登ったのですから
如何に大変だったことか。
苦しければ苦しいほど、ご利益も大きいと信じながら自らを励ましたことでしょう。

 ようやく登りきったところが奥の院。
御影堂で弘法大師の像を拝し、堂宇を一巡りして一休み。
清々しい風が吹きわたり、汗を乾かしてくれます。
眼下には緑の山々に囲まれた室生の里。

「女人高野」と聞くと、なんとなく女性的なお寺を想像しますが、峻烈な石段、
杉の巨木、むき出しの巨岩、苔むした山肌、原始的な羊歯。
「 堂塔以外は女性どころか極めて男性的もしくは猛女的なお寺であったわい」
と呟きながらお山を下りたことでした。

   「 石楠花の 紅ほのかなる 微雨の中 」 飯田蛇笏
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by uqrx74fd | 2012-07-28 22:16 | 万葉の旅

万葉集その三百八十(山辺の道:巻向、穴師)

(たたなづく青垣:檜原から車谷へ)
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( 同上:早春のころ )
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( 車谷から檜原へ 逆方向)
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( 車谷の里 後方:三輪山)
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( 穴師 後方:巻向山)
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( 竹の秋 )
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( 長岳寺 )
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( 同上:カキツバタ)
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( 今回歩いた山の辺の地図 犬養孝 万葉の旅上 平凡社より )
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檜原神社の横の緩やかな坂道を上ると路幅が少し広くなり歩きやすくなります。
美しいカーブを描いた山裾の道の右側は杉、赤松、檜などの林。
左の谷は桃、柿、みかん畑が大きく広がり、正面を仰ぐと、かのヤマトタケルが
今わの際に故郷を瞼に思い浮かべ

「 大和は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく青垣 
    山籠れる 大和しうるはし」  (古事記)


と詠った瑞々しい山々が目に飛び込んできました。
400~500m位でしょうか、さして高くもない山並みですが、その穏やかな姿は
如何にも故郷が優しく私たちを迎えてくれているようです。
新緑の季節もよし、春には桜や桃の花、秋の紅葉も美しく、四季折々いつ訪れても
心の安らぎを感じさせてくれるところです。

「 みもろの その山なみに 子らが手を
   巻向山は 継ぎのよろしも 」
                   巻7-1093 柿本人麻呂歌集


( 三輪のその山並みにあって、いとしい子の手を枕にするという名の巻向山が
つづいている様子がまことによいことよ。)

神の三輪山に対して、人間のやわらかい気息を感じさせる巻向山がしっくり
連なっていることに感銘した歌(伊藤博)です。

「みもろ」は御室、三諸とも書き、神が降臨するところ、ここでは三輪山をさします。
子らが手を「巻く」と巻向山の「巻」を掛けた一首ですが、いとしい女性が
「手を枕に」とさしのべるような恰好がこの山の形だというのです。
「手枕とは自分の手で寝るのではないのだ」と妙な感心しながら歩いていると、
やがて降り口となり、お山とはお別れです。

左折すると、舗装された広くてなだらかな下り道の両側に美しい民家が立ち並び
左手の畑の向こう側に三輪山が姿が。
家の前の水路の水が勢いよく流れ、巻向川とともに水の協奏曲を奏でています。
この辺りは車谷とも云われる里で、昔は30件を超える水車がこの河筋にあって
三輪素麺の粉ひきをしていたそうです。
三輪山と巻向山に挟まれたこの深い谷間に歌聖、人麻呂が愛人のもとに通いつめたと
いわれ、多くの秀歌が詠まれております。

「 穴師川 川波立ちぬ 巻向の
   弓月が嶽に 雲居立てるらし 」  巻7-1087 柿本人麻呂歌集


( 穴師の川に波が立っている。巻向の弓月が嶽に雲が湧き起っているらしい。)

川を眺めている作者。
「 一陣の風と共に波が高くなってきた、
弓月が岳に雨雲が立ってきたらしい。
どうやら一雨が来そうな気配だ。」と
「山と川が呼応して動き出す一瞬の緊張を荘重な響きの中に託した見事な歌」(伊藤博)で

「 あしひきの 山川(やまがわ)の瀬の 鳴るなへに
   弓月が嶽に 雲立ちわたる 」   巻7-1088 同上(既出)


とともに人麻呂の傑作とされている名歌です。
「弓月が嶽」の「弓月」は「斎槻(ゆづき)」、即ち聖なる槻(ツキ:ケヤキの古名)が
聳える山の意で標高567m。
瀬音の高まりと共に山頂から白雲がむくむくと湧き上がるという躍動的な叙景歌です。

人麻呂以外の歌では次のような微笑ましい男と女のやり取りもあります。

「 ひさかたの 雨の降る日を 我が門(かど)に
    蓑笠(みのかさ)着ずて 来(け)る人や誰れ 」 
                            巻12-3125 作者未詳


( 雨のざぁざぁ降る日、こんな日に蓑も笠もつけないで私の家に来て
 声を掛ける方は、どこのどなたですかぁ。) 

「 巻向の 穴師の山に 雲居つつ
    雨は降れども 濡れつつぞ来(こ)し 」 
                        巻12-3126 作者未詳


( 巻向の穴師の山に雲が一面にかかって、雨が降りだしたが、
  お前さんに逢いたい一心で ずぶ濡れになってきたんだ。 
  どなたですかとは それはないだろう。)

男が訪ねてきたと声で分かっているのに、喜びを押し殺してわざと「どなた」と聞く女。
「冗談じゃない」とぼやく男。
そこで皆が大笑いする。 
そんな感じの、宴席で詠われた民謡のようです。

山や川の名に残る巻向は昔、広大な地域であったらしく、
纏向(まきむく)遺跡がある太田や東田、車谷の北方の丘の穴師が含まれており、
穴師には垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)と景行天皇の
纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)があったと推定されているので、さぞかし
賑やかな街であったことでしょう。
穴師という地名は金属鉱を採掘する渡来人の集団がこの辺りに住んで
祭祀用の矛や剣、農耕用の器具生産に従事していたことに由来するそうです。

「 巻向の 穴師の川ゆ 行く水の
    絶ゆることなく またかへり見む 」 
             巻7-1100 柿本人麻呂歌集


( 巻向の穴師の川。 流れゆく水が絶えないように、私も繰り返し
 繰り返しこの地にやってこよう )

「丹念に蜜柑磨けり穴師人 」 国枝隆生

広い道に建ち並ぶ農家の前に小さな屋根つきの棚があり、朝採りの野菜や果物が
小分けして置かれています。
1つ100円という値札の前の小さな箱。
さながら古代の自動販売機です。
暑い日差しの中、蜜柑や胡瓜を頬張り疲れを癒しながら歩く人びとも。

「干瓢(かんぴょう)のひらひら吹かる穴師村 」浜崎晃子

道の向こうに広い田畑、その先に町並みが見えてきました。
JR巻向駅が近いようですが、私たちは「右山の辺の道」の標示に従って
細い野道に入ります。
この辺りが穴師の里で、額田王が振り返り振り返り眺めた三輪山の美しい姿が
再び背後に姿を見せます。
道の両側は桃、柿、蜜柑、イチジク畑。
野の花々が咲き乱れる先は広々とした青田が遠くまで続いています。

「 二三町柿の花散る小道かな 」正岡子規

歩くごとに三輪山が少しづつ遠ざかり、巻向、竜王山が視界に入り、
左手には大和三山と遥か向うに葛城、金剛、二上山の峰々。
思わずブラボーと叫びたくなるような雄大な景色です。

やがてこんもりとした森が見えてきました。景行天皇の御陵です。
御陵の前の壕は農家の灌漑用水に用いられていたといわれ、山々から
流れる水がお壕に貯められ、民を潤していたのです。

御陵を拝しつつ、右へ進むと古墳群。
その一角の林の中に大きな池があります。
山と木々に囲まれた静かな佇まいで、躑躅や竹の秋の映り込みが美しく、
大和の上高地といった風情。春の桜も見事なところです。

様々な景色を楽しみながら歩いて行く先には巨大な前方後円墳。
大和王権を初めて確立したと言われる崇神天皇の御陵です。
大きな壕に沿った細い道を歩きながら、先ほどの景行天皇と言い古代の王は
一体どれだけの民の労力を搾取したのだろう、と思い浮かべます。

ふと気が付くと、お昼もとっくに過ぎていました。
空腹を抱えながらようやく一軒しかない蕎麦屋さんに入り、
まずはビールで喉を潤します。
「あぁ! 美味い!」
ひとしきり周りの人との会話を楽しみ、近くの長岳寺へ。

「紅つつじ 花満ちて葉はかくれけり」 日野草城

堂々たる山門を潜り抜けると大きなつつじ垣がお寺の入口まで続いています。
両側の花の垣根に導かれて左へ右へ歩くこと約50m、ようやく長岳寺の入口です。
このお寺は824年に弘法大師が創建したといわれる高野山真言宗。
花の寺としても知られており、春の桜、初夏のつつじ、かきつばた、
秋の紅葉も見事です。

重要文化財の鐘楼門をくぐり、本堂に。
本尊阿弥陀如来三尊像は玉眼を用いた仏像としては我国最古のもので、1151年の作。
その堂々たる量感と美しい表現は後の運慶、快慶に大きな影響を与えたと
言われている傑作です。

 池の手前から眺める本堂は実に美しい。
カキツバタ、つつじが今は盛りと咲き競い、本堂の写り込みも相まって
幽玄の世界を感じさせてくれました。

今回の山辺の道散策は海石榴市から大神神社、檜山神社、巻向、長岳寺にいたる
約7㎞、5時間。
ゆったりとした時の流れのなんと充実していたことか。

私たちはそれぞれの感慨を胸にしながら終着点JR柳本駅へと歩き出しました。
残すところ約1,7㎞の道のりです。

「杜若(かきつばた) 語るも旅のひとつ哉」  芭蕉
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by uqrx74fd | 2012-07-14 18:15 | 万葉の旅