カテゴリ:万葉の旅( 61 )

万葉集その三百七十九(山の辺の道:檜原へ)

( 狭井神社 )
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( ゆり祭り 卒川神社 奈良市 ) yahoo画像検索より
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( 山の辺の道の花 )
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( 玄賓庵 )
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( 山の辺の道の花々 )
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( 檜原神社 )
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( 檜原神社から二上山を望む )
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大神神社祈祷殿横の坂道を山裾に沿って北へ辿ると鄙びた茶店があり、その右側に
狭井神社(さいじんじゃ)への参道が奥の方に続いています。
この社は大神神社大物主神の御魂を奉斎しており、三輪山登拝を希望する人は、
ここで所定の手続きをして木綿襷(ゆふたすき)を受け、御祓いをすませてから
お山に入ることが許されます。
裏手にはこんこんと湧き出る薬井戸があり、霊水を容器に入れて持ち帰る人々も。

薬と酒の神様としても崇められているこの社では崇神天皇の時代に大物主神が
疫病を鎮めた故事に由来する「鎮花祭(はなしずめさい)」が毎年4月18日に
行われ(大神神社と共催)、薬草の忍冬(すいかずら)と百合根さらに県内外の製薬業者から
献じられる2万点にもおよぶ医薬品が神前に供えられ、万民の健康を祈願するのです。

また、6月17日には三枝祭(さいぐささい:ゆりまつり)が奈良市内の摂社
「卒川神社:いざがわじんじゃ」で行われ、大神神社から運ばれたササユリが
奉納されます。

「 三輪山の 笹百合かざし 巫女舞へり」  志賀松声

狭井神社を出て左側の下り坂を降り切ったところに川ともいえないような小さな
せせらぎがあり、わざわざ「狭井川」の標識が立っています。
古事記に

「 この河を佐韋河(さいがわ)という由は、その河の辺に山由理草(やまゆりぐさ)
 多かりき。 -山由理(やまゆり)の本(もと)の名、佐韋(さい)と言いき 」


とあり、昔この辺りで山百合が群生していたらしく、狭井神社(さいじんじゃ)の名前も
この記述に因んでいるのです。

その昔、神武天皇が狭井川のほとりで百合の香りに包まれながら伊須気余理比売
(イスケヨリヒメ)と一夜を共にして、

「 葦原の 醜(しけ)き小屋(をや)に 菅畳(すがたたみ)
    いや清(さや)敷きて わが二人寝し 」  古事記


( 葦茂る原の 粗末な小屋で 菅の畳を清らかに敷き重ね
  共に寝たことだ。 楽しかったぞぉ。)

と詠われ、その姫を皇后に選ばれた(日本書紀)と伝えられています。
ロマンティックな天皇ですねぇ。

ここから先は起伏のある曲がりくねった道。
上ったり、下ったりしながら進むと、両側に杉、檜、松などが茂り、
かの人麻呂が詠った情景を思い起こさせます。

「 いにしへに ありけむ人も 我がごとか
    三輪の檜原に かざし折りけむ 」 
                巻7-1118 柿本人麻呂歌集


( 遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように三輪の檜原で
  檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にしたことであろうか。)

右手に三輪山を仰ぎつつ九十九折(つづらおり)の道を進んでゆくと、
桃や柿、みかん畑が広がってきました。
薫風が吹き渡り、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら土道を歩く心地よさ。
やがて森蔭に入る緩やかな坂道の向こうに、謡曲「三輪」で知られている
玄賓庵(げんぴんあん)の白い築地塀が近づいてきました。

「三輪川の 清き流れにすすぎてし、
  衣の袖を または けがさじ」 玄賓僧都(げんぴんそうず)


(このあたりに隠棲して、俗世間や俗僧と交わることなく、
三輪川の清き流れでせっかく綺麗に洗い清めた僧侶としての本来の生き方を、
いかに天皇の思(おぼ)し召しとはいえ、名利のためにけがすことはできませぬ。)

と桓武、嵯峨天皇の厚い信任を得ながらも俗事を嫌いこの地に隠棲した
高僧ゆかりの庵です。

結界が結ばれ、山岳仏教の雰囲気が感じられる堂宇で一休みさせて戴きながら、
日本庭園などでみかける「添水:猪おどしともいわれる」は、勤行を
邪魔する獣を追い払うために玄賓僧都が考案したと物の本にあったことを
思い出しました。
添水(そうず)と僧都(そうず)と掛けていたのですね。

榊 莫山氏は玄賓庵を訪れた時、先代の住職の奥さんから

「 玄賓和尚というのはなぁ、そうら、えらい坊さんやった。
  毎日毎日、勤行ばっかりや。
  腹へったら、ソバ粉をねってダンゴにして食うてはったんや。
  ソバちゅうのは元気をつけるけどなぁ、性欲は でんのや。
  えらい坊さんにとっては、けっこうな話や。
  だから嫁はんはいらん。子供はできへんわなあ。」
「 婆さんの話は、真実をうかがって愉快。
山寺にふさわしい情緒にも富んで凡俗の耳をそばだたせる。」
と述べておられます。 (大和千年の道 要約:文春新書 )

しばしの休息を終え、庵を右へ曲がると正面に小さな滝があり、左手に苔むした
小さな石仏が道しるべのように鎮座しておられます。
左へ迂回して、なだらかな坂道をゆっくり上りきると、急に視界が広がり
檜原神社の横の入口へと導かれてゆきました。

天照大神が伊勢に遷るまで奉斎されていたので元伊勢ともいわれている大神神社の
摂社の一つで、本殿も拝殿もなく、赤松に囲まれた玉垣と三つ鳥居の簡素な佇まい。
奥に「磐座:いわくら」がまします清々しいお社です。
                     註:(「摂社」:本社ゆかりの神を祀る社)

「檜山伐り運ぶ道の躑躅かな」 河東碧梧桐

お社にお供えするかのように一株の大きな紅つつじが満開です。
犬養孝氏が「万葉の旅」を書かれた昭和39年当時、今の鳥居はなく、
赤松が茂る中に大きな燈籠がぽつんと立っているだけの寂しい風景でした。
新しく建てられたお社にもかかわらず御神体山が後ろに控えているからでしょうか、
その古風な造りに太古の昔からの威厳すら感じさせます。

「 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の
    檜原の山を 今日(けふ)見つるかも 」
                   巻7-1092 柿本人麻呂歌集


( 噂に轟く巻向の檜原。今日やっとこの目で確かめることができましたよ。)

万葉集での檜は9首、そのうち6首までが三輪、巻向、初瀬の檜原が詠われ
大半が人麻呂の歌です。(5首)
常緑の檜と三輪山の聖なる印象が重なり、心が動かされたのでしょうか。
当時は、野も山も檜で埋め尽くされていたことでしょう。

「 桃咲くと 檜原の鳥居 幣白き」 堀 文子

私たちは社殿の前に立ててある幣を手に取り、互いに御祓いをして、
拝殿に向かって拍礼を捧げました。
何をお祈りしたのでしょうか、それぞれが楽しげに語らい、笑い合っています。

「行(ゆ)く川の 過ぎにし人の 手折らねば
     うらぶれ立てり 三輪の檜原は 」 
                 巻7-1119 柿本人麻呂歌集


( ゆく川の流れのように人々がこの世からいなくなり、
 檜の葉を手折って挿頭(かざし)にする人もいないので、
 三輪の檜原もさびしそうにしょんぼりとしていることよ。)

年々歳々人は変われど自然の情景は昔のまま。
作者は眼下を流れる巻向川を眺めながら様々な思いに耽っているようです。
この地に遊び、共に枝葉を手折って頭に挿していた人も今はもういない。
愛する人にも先立たれ、自らの心を檜に投影した寂寥感漂う一首です。

11月になると恒例の祭儀。
大神神社からやってきた巫女が鈴を手に持ち、リイーン、リイーンと鳴らしながら
神楽にあわせて舞い踊ります。
白い砂の上。緋の衣が秋空に映え、鈴の音に導かれて神の世界へと誘われる儀式です。

 「 いく世経ぬ かざしをりけむ いにしへに
     三輪の檜原の 苔のかよひ路 」  藤原定家  拾遺愚草 


古へに思いを馳せながら丘の上から眺める景色は雄大そのものです。
手前に柿畑や桃畑が広がり、その向こうに大和三山。
はるかに二上山と葛城、金剛の山々。
夕日が二上山に沈むさまは、さぞ別世界のように神々しいことでしょう。

「 五月雨の 雲のかかれる まきもくの
   檜原が峰に 鳴くほととぎす 」 源実朝 金槐和歌集
               

                          ※「五月雨:さみだれに同じ 」
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by uqrx74fd | 2012-07-07 20:09 | 万葉の旅

万葉集その三百七十八(山の辺の道:三輪山)

(大神神社の大鳥居:後方は三輪山)
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( 大神神社春の大祭 三つの茅:ちがやの輪をくぐって参拝する)
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( 同上:拝殿の神官と巫女)
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( 三輪山 ) 
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( 三輪山 ))
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( 山辺の道の花々)
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( 同上 )
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( 同上 )
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私たちは「磯城瑞籬宮跡」(しきみずがきのみやあと)の参拝をすませ、木漏れ日の
坂道を歩きだしました。
鬱蒼と茂る木々を渡る風がひんやりと頬を撫でてゆきます。
恐らく山の中腹あたりなのでしょう。
ほどなく細い道に掛かる石橋を渡ると平等寺です。
このお寺は581年の創建で、十一面観音信仰発祥の地とされ、かっては
本堂ほか12房舎の大伽藍を有し三輪社奥の院とされた古刹ですが、
明治時代の廃仏毀釈のあおりでことごとく打ち壊され、昭和52年に復興されたそうです。

建てられたばかりのような新しいお堂を巡り一礼を捧げてさらに進むと、
急に視界が大きく広がり、耳成、畝傍の山々が浮かび上がってきました。

参詣の方々なのでしょうか、人の行き来が多くなり大神神社が近づいてきたようです。
山の辺の道がそのまま境内に導かれるような脇の入口から入ると、
まず目に付くのは玉垣に囲まれた二股の巨大な杉の老木とその洞に棲むと
いわれる蛇に供えられているお酒や卵の山。
蛇は祭神の化身とされ地元では「巳(みい)さん」と親しまれている由ですが残念ながら
お目にかかったことがありません。
一説によると2mをこえる青大将が4,5匹とか。

「 啓蟄の 地卵供ふ 三輪の神 」 棚山波朗

はるか1300年前には神さびた杉や神酒が恋の歌として詠われています。

「 味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 斎(いは)ふ杉
           手触れし罪か 君に逢ひかたき 」

       巻4-712(既出)  丹羽大女娘子( たにはのおほめをとめ:伝未詳)


( 三輪の神官があがめる杉、その神木の杉に手を触れた祟りでしょうか。
  あなたさまにお逢いできないのは。)

「味酒(うまさけ)」は美味しい酒の意、「三輪」に掛かる枕詞で、
古くは神酒を「ミワ」といったことによります。
祝(はふり)は神官のことで、老杉が神木と詠われているのは神の拠りどころと
されているからです。

円錐形の秀麗な姿の三輪山(467m)は古来神の中の神として崇められてきました。
拝殿は老杉の奥にありますが、三輪山そのものがご神体とされているので
神殿はありません。
古代は拝殿すらなく三輪山を直接礼拝していたことでしょう。

山は遠くから拝すると鬱蒼とした緑に包まれていますが、その下には
神の依り代である巨大な磐座(いわくら)があり
 大物主命(おおものぬしのみこと) の奥津磐座(おきつ いわくら)
 大己貴命(おほなむちのみこと)  の中津磐座
 少彦名命(すくなひこなのみこと) の辺津磐座(へつ いわくら)
即ち三座の巨岩が重なりあい、結界が張られています。

不思議なことに、周りの山々は花崗岩から成っているのに三輪山だけが異質の
斑糲岩塊(はんれいがんかい)という硬質の岩であるため長年の侵食から免れ、
それが太古から変わることなき円錐形の美しい姿を維持している要因とされているのです。
まさに神の山たる所以なのでしょう。

「三輪山へ 今日の柏手の 涼しさよ」 白茅

667年、飛鳥から近江の大津に都が遷されました。
称制、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇) は白村江
(はくすきのえ)の戦いで唐、新羅軍に大敗(663年)した後、朝鮮半島からの
来襲に備えて国内の防備を固めるとともに、飛鳥の旧勢力と一線を画し
民心一新を図ったようです。

称制とは新帝が即位の式を挙げないままに政務をとることで事実上の天皇です。
近江という地を選んだのは、新羅、唐の使者は何度も来日しており、
難波から都への道を熟知していたので侵攻が容易であると思われたことと、
近江は琵琶湖を通じて東北、北陸との交通の便に恵まれ、大和とも淀川の支流、
宇治川(瀬田川)と木津川によって結ばれていること、さらに味方である
高句麗は日本海を渡って近江を通行していたなどによるようです。

ところが、皇子の意図に反して多くの官人が抵抗し、百姓は動揺、放火や
非難の童謡(わざうた)が絶えなかったといわれています。(日本書紀)
( 註:童謡: 時事を風刺し異変の前兆をうたう民間の流行歌)
古来から大和一帯に定着していた都。
民百姓の生活もここに深く根付いていたのですから無理もありません。
それでも皇子は遷都を強行しました。

いざ近江へと長い列が山の辺の道を進んでゆきます。
国つ神と都を見棄てて行くのですから尋常なことではありません。
あまりのことに三輪の神様のお怒りもさぞや激しいものであったことでしょう。
聖なる山はたちまち雲に隠れてしまいました。

やがて一行は国境の奈良山の峠に掛かりました。
峠を越えるとそこは異境、道の神に幣帛を奉って旅の安全を祈るとともに
故郷に別れを告げ、大和の神、三輪山を慰撫しなければなりません。
額田王は皇子から歌を捧げることを仰せつかり詠いだしました。

「 味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の
  山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに
  つばらにも 見つつ行(ゆ)かむを  しばしばも 見放(さ)けむ山を
  心なく 雲の 隠さふべしや 」 
                             巻1-17 額田王

「 三輪山を しかも隠すか 雲だにも
   心あらなも 隠さふべしや 」 
                    巻1-18 同上


長歌訳文(1-17)
( 三輪の山が 奈良山の間に隠れてしまうまで、
  道の曲がり角の 幾重にも重なるまで よくよく見ながら行こうと思っている山
  何度も何度も眺めたい山であるのに 薄情にも雲が隠してよいものか。
  雲よ隠さないでくれ ) 

短歌訳文(1-18)

( あぁ、三輪の山 この山をなぜそのようにして隠すのでしょうか。
 せめて雲だけでも思いやりがあってほしいのに、
 隠したりしてよいものでしょうか。
 どうか姿を見せて下さい )  

語句解釈
 「あをによし」: 奈良の枕詞 「青丹」は染料、顔料に用いられた
           岩緑青の古名で奈良に多く産した
 「奈良の山」:  山城と奈良の国境の山 歌姫越えの奈良山と般若寺越えの
           奈良坂説があり、奈良坂の方が高く見晴らしが良い。
 「山の際(ま)」: 山と山の間 
 「道の隅(くま)」: 道の曲がり角
 「つばらにも」:  つまびらかに 十分しっかりと
 「しかも隠すか」(1-18) : なんでそんなにも隠すのか 

前途への恐れと不安。
何とか神の怒りを解かなければ新天地での政ごとや民の生活は祝福されません。
長歌の結句五、三、七「 心なく 雲の 隠さふべしや」に強い気持ちが籠り
さらに短歌でも「隠さふべしや」と繰り返されます。

大和は作者にとって幼い頃に育った故郷であり、大海人皇子と契り十市皇女をなした
思い出の地です。
もう再び見ることが出来ないのか、一目だけでも姿を見せて欲しい。
愛惜の情、万感せまるものであったことでしょう。

遷都を終えた天智天皇の近江朝。
やはり大和の神を慰撫できなかったのでしょうか
壬申の乱によってわずか5年で滅び、都は再び奈良に遷りました。

「月の山 大国主命(おおくにぬしのみこと)かな」 阿波野青畝

私たちはさまざまな感慨を込めながら参拝を終え、境内の休息所で
暖かいお茶を戴きながらしばし疲れを癒した後、狭井神社に通じる坂道を歩きだしました。
行く先々で三輪山の姿を振り返り、振り返り、古代のきらびやかな行列に
思いを馳せながら額田王が辿った道を進んでゆくことになりましょう。

「 めでたさの 三輪のうま酒 温めつ」 高野素十
               

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by uqrx74fd | 2012-07-01 00:00 | 万葉の旅

万葉集その三百七十七(山の辺の道:敷島の大和)

(山の辺の道の花々)
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( 金屋の石仏 yahoo画像検索より)
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( 山の辺の道の花々 )
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( 平等寺 )
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( 志貴御県座神社:しきの み あがたいます じんじゃ)
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( 同上説明板)
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( 神社後方の山々 奥の高い山は音羽山)
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( 山の辺の道 )
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海柘榴市観音をあとにして広い通りに出ると古風な家のたたずまいが続いています。
家々の玄関先には美しい鉢植えが置かれ、庭先のツツジも美しい。
道脇の小さな水路には澄み切った水が勢いよく流れ込み、その涼やかな音に
心も洗われるようです。

「右 山の辺の道」の指標に従って細い道に入ると畑と民家の先に「金屋の石仏」と
よばれる御仏二体を奉ったお堂が右手に。
格子窓を通して拝観すると花崗岩に刻まれた2,2mの等身大の釈迦、弥勒像が
安置されています。(重要文化財に指定)
石棺の上に刻まれた平安後期の作と推定されていますが、その穏やかで凛としたお顔と
波形の法衣をまとう立ち姿は棟方志功氏が「大和中の仏像を含めて日本の最高品の一つ」と
絶賛されている逸品です。

一礼を済ませてさらに野道を進むと坂道の手前に「山の辺の道 右大神神社」の標識。
左へ少し下ったところには樫や杉が茂った森の中に南面する社、志貴御県座神社
(しきのみあがたいますじんじゃ)がひっそりとたたずんでいます。
創建730年、祀られているのはアマツニギハヤノミコト(天津饒早日命)だそうですが
詳しい由来はよく分かっていません。
重要なのはその拝殿の西側に史跡「磯城瑞籬宮跡」(しきみずがきのみやあと)、即ち
10代崇神天皇の宮跡の碑があることです。
( 実際の跡は少し離れたところにある天理教の大きな建物と小学校あたりらしい)

うっかり見逃してしまいそうな地味な存在ですが、この地こそ我が国古代王権が
確立され、日本を別称する言葉として使われた「磯城島(敷島)のやまと」の
発祥の地なのです。
保田興重郎氏は次のように述べておられます。

『 三輪川をさしはさんで瑞籬宮(みずがきのみや)や金刺宮のある景色は、
かなたに雄略天皇の朝倉宮の泊瀬の谷がのぞまれ、谷あひの北は多武峰、
また南は忍坂(おさか)の山、倉橋の山がこの都の東側に聳え、南には鳥見山、
多武峰の山、そして三輪山の日おもての山麓が都の地である。
その三輪山のふもとを廻って、山裾の西側をのびてゆくのが、山の辺の道であった。
瑞籬宮は国の初めの土地である。

その風景の美しさは、国と民のふるさとという情緒に彩られる。
ここから拝する泊瀬川の谷あひを昇る日の出の姿が「日出づる国」の
となへのもとである。
国といふことばと土地といふことばとは、遠い太古には同じ意味だったのである。』
               (  長谷寺、山の辺の道 新学社より)

「 敷島や やまと島根も 神代より
     君がためとや かためておきけむ 」 
                      よみ人しらず 新古今和歌集


( この日本の国も神代の古から わが君の御為に神々が作り固めて
 おかれたのでしょうか。)

神話時代からの歴史の悠久性を詠うことによって祝歌としたもので
本歌は次の万葉歌です。

「 いざ子ども たはわざなせそ 天地(あめつち)の
    堅(かた)めし国ぞ 大和島根は 」   巻20-4487 藤原仲麻呂


( 皆々の方々、たわけた振る舞いなどは決してなさって下さるな。
 この島国大和は天地の神々が造り固めた国ですぞ )

757年宮中の豊明節会宴席での歌、当時朝廷は、橘奈良麻呂の反逆事件を
鎮圧したばかりで、「たはわざ」とは正気でない行い即ち帝に背くことをさし、 
孝謙女帝の気持ちを代弁して詠ったものと思われます。

万葉集で「敷島の」と詠ったものは純情な乙女の愛の歌です。

「 磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども
  藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし
  君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を 」 
                          巻13-3248 作者未詳

  「磯城島の大和の国に 人ふたり 
             ありとし思はば 何か嘆かむ 」
                        巻13-3249 同上
 作者未詳

長歌訳文
( この磯城島の大和の国に 人はたくさん満ちあふれていますが、
  藤の蔦が絡みつくように思いがからみつき、若草のように瑞々しいあなたに
  心が寄り付き、貴方ただお一人にお逢いしたいと、そればかり思い焦がれて
  まんじりともせず、この長い夜を明かすことになるのでしょうか ) 13-3248 
    
語句解釈

「もとほる」: めぐる、まつわる 
「思ひつきにし」: 自分の思いが相手の上にばかりとりつく
「目に恋ふ」: 相手に逢いたいと想い焦がれる

短歌訳文
 ( この敷島の大和の国にあなたと同じ人が二人いると思うことができるなら
  なにをこんなに嘆くことがありましょうか。
  ほかに誰もいないからこそ こんなにも嘆くのです。 ) 13-3249

「人ふたり」 自分にとり他に二人といないかけがえのない人の意で、
作者は男につれなくされ、一晩中ため息をついて悩んでいるのでしょうか。
あるいは、何らかの事情で通えぬ男を案じているのかもしれません。
ただ一筋の恋という思いが強く感じられる名歌です。

「人ふたり」という言葉の解釈に誤解が多く、犬養孝氏が大学の試験問題に
この歌を出したところ、
「この大和の国は天皇、皇后両陛下さえいらっしゃれば何で嘆くことがあろうか。
戦争で負けたけれど何の心配もない」 真面目に書いたり
「この広い日本の国に、私とあなたの愛し合う二人さえいると思うなら何で嘆こうか 」とあったが、
私が愛するのは、ただあの人だけという愛情一すじの歌であると
強調されておられます。 (万葉のいぶき PHP)

「 万代(よろづよ)の 春のはじめと 歌ふなり
     こは敷島のやまと人かも 」 太田垣漣月


古事記によると、崇神天皇が瑞籬宮にあった当時、疫病が蔓延し民の半分が
犠牲者になったと言われています。
また、諸国で豪族が争乱して治安も乱れ、国は崩壊寸前でした。
色々手を尽くしましたが、よい解決策がありません。

悩みに悩みぬいた天皇は遂に神様に縋るほかないと決意し、精進潔斎して
神意を問うたところ、夢の中に大物主神が現れ

「このたびの疫病の流行は私の意思によるものである。汝がこの病を止めたいと
思うなら意富多々泥古(おおたたねこ)をもちいて我が前を祭れ。
そうすれば国も安らかになるであろう」 と告げました。

目を覚ました天皇は早馬を四方に放ち、意富多々泥古(おおたたねこ)を
探したところ、河内の美努村(みののむら)で見つかりました。
素性を聞くと大物主神がイクタマヒメに生ませた子の子孫だったのです。
天皇は大いに喜び三輪山に大物主神を祀りオオタタネコを神主としたところ、
お告げ通り疫病はぴたりとおさまりました。

しかるのち、軍隊を北陸、東海、丹波に派遣して反乱を平定し人々の生活を
安定させ、さらに国の礎を築くために民から色々な品を貢納させます。
徴税の始まりです。
これに拠って崇神天皇は三輪山の祭主となり、各地の神と豪族を従えて
絶対王権を確立したのです。
服従した豪族や民から武器をすべて供出させ天理の石上に兵器庫を建てて
保管しましたが、司馬遼太郎氏によると「はるかな後世、桓武帝のときこれらを
京都に移したが人夫14万7千人を要した」(街道をゆく1甲州街道、長州路ほか)
そうで、如何に強大な権力を握ったかが窺われます。
豊臣秀吉の刀狩はこの故事に倣ったのでしょうか。

「 大和座(います) 大国魂(みたま) 霞立つ 」 川崎展宏

保田興重郎氏が語られた美しい山並みとその裾野に広がる平野の雄大な景観は、
今や前に建ち並ぶ家々に遮られ、往時の眺めを望むべくもありませんが、
このあたりは北緯34度32分線の近く、即ち太陽の道にあたる(水谷慶一氏)とされ、
古代祭祀遺跡の立地条件を無言のうちに教えてくれています。

空を見上げると三輪山から上った太陽は西の二上山の方角に向かっています。
私たちは次なる訪問地、大神神社へと木立が鬱蒼と茂る坂道を登ってゆきました。
あとわずか500mで神の山に到着です。

「 山の辺の 道のはじめの 草雲雀(くさひばり) 」 深川知子
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by uqrx74fd | 2012-06-24 07:52 | 万葉の旅

万葉集その三百七十六(山辺の道:海石榴市:つばいち)

( 海石榴市 馬井手橋から 正面は忍坂山(おさかやま)
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( 古代の市 奈良万葉文化館より )
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( 同上 )
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( 歌垣 奈良万葉文化館より)
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( 海石榴市観音への道 )
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( 海石榴市観音 )
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( 金屋への道 4月上旬)
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( 野辺の花  同上 )
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( 海石榴市で、木瓜(ぼけ)の花 同上)
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山の辺の道は古代大和朝廷の時代に開かれたもっとも古い道で、
三輪山の南麓、海柘榴市(現桜井市金屋)を起点として北へ進み、
青垣の山裾を縫いながら天理の石上神宮までの約16㎞、さらに奈良へと
全長およそ30㎞の道のりです。

周辺の山や川、野や里の風景が美しく、梅、桜、桃、椿、菜の花、
レンゲ、ツツジ、山吹、銀杏 柿の木、コスモス、曼珠沙華、そして
秋の七草など、四季折々の木々花々が私たちを迎えてくれ、また、
古代遺跡や名所旧跡も多く点在し、神話や古代ロマンの世界へ
誘(いざな)ってくれます。

海柘榴市(つばいち)はJR、近鉄桜井駅から北東2㎞のところにあり、
このあたりは古代、崇神天皇の「磯城瑞蘺宮」(しきみずがきのみや)や
7世紀頃の欽明天皇「磯城島金刺宮」(しきしまかなさしのみや)が営まれた
跡だそうです。

私たちは今、この海柘榴市で三輪山を見上げながら大和川(初瀬川)の
ほとりにいます。
馬井手橋(うまいでばし)の中央に立ち、南に向かうと、左手に三輪山の裾野、
中央に忍坂山(おさかやま:現、外鎌山) 、右手にはひときわ高い音羽山。
かえりみると、遥か彼方に二上山と葛城山。
その山に向かって流れる一筋の川は古代難波の淀川にまで続いていたのでしょうか。

目の前の何の変哲もない情景からは想像も出来ないことですが、かって
この地は、百済の使節が難波から大和川を船で遡行して上陸し、我国に
初めて釈迦仏と経典をもたらした(538年)仏教伝来の地であり、608年には
遣隋使小野妹子が隋の使者を伴って帰国した時、朝廷は錺馬(かざりうま)
75匹を仕立てて盛大に出迎えた国際色豊かな舞台でもありました。

当時の川幅は恐らく今の倍以上あり、大船が航行できるほどの満々たる水を
たたえ、多くの船が行き来していたことでしょう。
今はただ当時の栄華の跡を偲ばせるよすがとして河川敷に馬の置物が
あちらこちらに置かれているのみです。

「 みもろの 神の帯(お)ばせる 泊瀬川(はつせがは)
    水脈(みを)し絶えずは 我れ忘れめや 」 
                           巻9-1770 古歌集


( 私はこれから遠方へ参りますが、三輪のみもろの山の神が
 帯にしておられる泊瀬川、この川の流れが絶えない限り
 ここを忘れることがありましょうか。決して忘れはいたしません。)

詞書によると702年大神神社の宮司、大神大夫が長門守に任ぜられたとき
三輪山の麓を流れる初瀬川のほとりで宴をした時の歌とあります。

作者は持統天皇が吉野行幸を計画された時、「今は秋の収穫期、民に迷惑が
掛かるので中止せよ」と職を賭して諫言した硬骨漢。
天皇の怒りに触れて左遷されたのかもしれまません。
送別の席で「この美しい故郷を忘れまい。必ず戻ってくるぞ」との
強い気持ちが籠る一首です。

「みもろ」は神の来臨する場所をさす言葉で「み+むろ(室)」ないし
「み+森」と理解されており、ここでは三輪山をさします。
また、大和川は流れる場所によって初瀬川、三輪川ともよばれていました。

聖なる三輪山が帯にして佩いていると讃えられた川は大和平野を潤し、
多くの人々の生活の糧を与え続けてきたことでしょう。

「椿市(つばいち)は、大和にあまたある中に、長谷寺に詣づる人の
 必ずそこに止(とど)まりければ、観音のご縁あるにやと、
心ことなるなり。」 ( 清少納言 枕草子14段) 
  :心ことなる:格別

海柘榴市は東の道が伊勢、南は飛鳥、西は難波、北は奈良、京洛に通じる
古道が交わり四通八達した要衝(ようしょう)の地であり、さらに外港まで
整備されていたので様々な物産が集まり、物々交換を行う大規模な市が
立ちました。
海石榴市(つばいち:椿)という名は当時の市は露天であったため、
木陰を確保するために椿の街路樹が植えられていたことに由来します。

市が開かれれば人も大勢集まります。
ましてや聖なる三輪山の麓、春秋の季節には歌垣が盛大におこなわれました。
多くの男女がこれという相手を求めて歌を掛け合い、互いに結ばれる機会を
作っていたのです。
「 海石榴市(つばいち)の  八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し
     結びし紐を 解かまく惜しも 」 
                              巻12-2951 作者未詳

( 海柘榴市のいくつにも分かれる辻に立って、広場を踏みつけ踏みつけして
 踊ったときにお互いに結び合った紐 。
 その紐を解くのは惜しくてならないわ。 )

八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

踊りながら歌を交換していたものでしょうか。
歌垣はフリーセックスの場といえども互いの愛を誓って結びあった紐を
解くのはためらわれる。
腹に巻きつけた一本の紐とはいえ貞操の証を解くのは神を恐れぬ行為。
やはりきちんと結婚を決めてから解きたいと願う純情な乙女です。

なお、この歌の大地を踏みならす動作は

「 乙女らに 男立ち添い 踏み平(な)らす 
    西の都は 万代(よろずよ)の宮 」 (続日本記 称徳天皇770年)


と詠われているように、のちには国の平安を祈る呪術的動作として、
儀式化されたようです。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢える子や誰(た)れ 」
                          巻12-3101 作者未詳(既出)

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
 海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
 あなたは何処のどなたですか?
 お名前を教えてくれませんか? )

紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて“混わる”すなわち結婚の
誘いかけをしています。
当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を
男に告げることは求婚の承諾につながりました。
さて女性はどのように返事をしたでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                   巻12-3102 作者未詳(既出)


( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか
  分らない行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るもので
  しょうか?)

ラブハントは当然の事と声をかけた男に対して、
「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断った女性。
どちらも機知ある魅力的な問答で、多くの人たちに愛唱されたことでしょう。

「 海柘榴市の乙女のさげし若菜籠 」 有馬朗人

私たちは、楽しそうに歌う乙女の様子を思い浮かべながら
人家と田畑に挟まれた細い道に向かって歩き出しました。
いよいよ山辺の道へ出発です。

ほどなく村の路傍に「海柘榴市観音道」の石標が見えてきました。
民家の間をぬって進むと奥に小さな観音堂がひっそりとたたずんでいます。
格子窓を通して拝するお堂の中には1500年代のものと伝えられる二体の
小さな石仏が安置されていますが、み顔は黒ずんでいてよく見えません。
毎月27日の観音講には地元の人たちが集まって線香や花を供えて御詠歌を
唱え、小豆粥を戴きながらお堂の中で夜を過ごすそうです。
前の衝立には
「 ありがたや われらのねがひ かなやなる
        名もつば市の ここのみほとけ 」

と書かれています。
そうです。
「海柘榴市」という名を唯一残したみ仏。
それは、古代と現在を繫いでくれている細い細い一筋の糸なのです。

私たちは繁栄の極みであった古の街の面影を頭に描きながら、
お堂に一礼をして次なる目的地へと歩んで行きました。

「 海柘榴市の 野路に飛び交ふ 虫や何 」 佐藤春夫
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by uqrx74fd | 2012-06-17 07:56 | 万葉の旅

万葉集その三百七十五(明日香:橘の寺)

( 明日香朝風峠より 耳成山 左後方二上山)
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( 明日香朝風峠より 稲渕の棚田 )
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( 秋の棚田:稲渕 )
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( 橘寺全景 )
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( 秋の橘寺 )
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( 橘寺二面石 悪面)
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( 橘寺二面石 善面)
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( 橘寺で)
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近鉄飛鳥駅を下車すると、そこは幻の古都の跡。
のどかな田園風景がひろがり、なんとなく1300年前の世界に舞い降りたような気分です。
普段は、てくてく歩きの明日香ですが今日は車でちょっと遠出。
まずは稲渕を目指します。

高松塚古墳を左に見ながら緩やかな登り坂にかかると、耳成山が目に飛び込んできました。
ぽっかりと浮かびあがった青いシルエットはまるで海に浮かんだ島のようです。
いつもは1時間も掛かって登る朝風峠にわずか10分で到着。
峠の切り通しに降り立つと程よい日差しの中、爽やかな薫風が通り過ぎてゆきました。
はるかに棚田が広がり青々とした早苗がさざ波のように揺れています。

「 朝風に靡くみどり、若き早稲田の稲穂
  日輪の光に映ゆる 姿たのもし 」  
         (永遠なるみどり 田中千恵子作詞 西条八十補 古関裕而作曲)


思わず口ずさんだこの歌は、50年前に神宮球場で声を大にして歌った応援歌。
今日は年来の学友たちとの万葉の旅なのです。

車はゆっくりと田園の中を走り、稲渕の入口で小休止。
飛鳥川の上に張られた男綱の中央に巨大な男根の形をしたものが揺れています。
上流の女綱と対になっており、子孫繁栄と五穀豊穣を祈り悪疫を防止する村の守り神です。

近くの南淵請安の墓へと進みます。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。
608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間滞在して
儒教などを学び、帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、
のちの天智天皇)や藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられている人物です。
小高い丘の上の桜の木の下で眠る先生にしばし黙祷を捧げて再び車中に。

吉野に通じているこの道は、かって天武天皇、持統女帝が若かりし頃、また近世では
芭蕉や本居宣長が歩いたと伝えられていますが当時はまだ険しい山道。
さぞ難儀なことだったでしょう。
やがて、栢(かや)の森に到着。
女綱が奇形を見せながら飛鳥川の上でゆらゆらと揺れていて、なんとなく
蠱惑的(こわくてき)な風景です。

「 勧請縄張る村境 蛍とぶ 」 田辺洋子

このあたり一帯は人家も少なく、飛鳥古京の面影を強く残したところで、
万葉人は次のように詠っています。

「- 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし
   春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし
   朝雲に 鶴(たづ)は乱れ  夕霧に かはづ騒(さは)く -」
                      巻3-324(長歌の一部 山部赤人


( 明日香の古い都は山が高く 川は広くて大きい
 春の日はずっとその山を眺めていたいし 秋の夜は清かな川の音に聴き入る
  朝雲の中、鶴が乱れ飛び、 夕霧の中で河鹿が鳴き騒いでいる )

(語句解釈) : 「明日香の古き都」:飛鳥清御原宮 「とほしろし」: 大きい
          「見が欲し」:  見たい  「かはづ」: 河鹿(かじか)

田園風景を満喫し、石舞台を経て飛鳥の中心で静かな佇まいを見せる橘寺へ。
聖徳太子創建7ヶ寺の1つであるとともに太子誕生の地とも伝えられているみ寺です。
別名「仏頭山上宮院菩提寺」ともいい、太子が推古女帝に勝鬘経(しょうまんぎょう)を
講じたとき、寺の南側に仏頭の形をした山が出現し、三尺の蓮の花が空から降ったと
いう奇瑞(きずい)に由来する山号だそうです。
建立当時は寺運の隆昌をみせ、東西8丁(872m)、南北6丁(654m)の境域を有し、
60余の殿堂を備えていたそうですが、680年「橘寺の尼の房(いえ)に 失火(ひつき)て
十房(いへとを) 焚(や)きき」(日本書紀)とあり、火災で多くの堂塔が失われました。
またこの記述から当時は尼寺だったことが窺えます。

今は白い壁に囲まれたこじんまりとした佇まいの中、創建当時の名残として
礎石と二面石、そして万葉歌1首が残るのみですが、驚いたことに、なんと! 
その歌は寺で少女を犯したという歌なのです。

「 橘の 寺の長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)は 髪上げつらむか 」
                             巻16-3822 古歌


( 橘のあの寺の坊さんたちの寝る長屋で、おれが一緒に寝たおぼこ娘は
 あの垂れていた髪を上げてしまっている娘になっただろうか )

童女放髪(うないはなり)は8歳位から15~16歳ごろの少女の振り分け髪をいいます。
どうやら寺僧が詠んだものと思われますが、僧が尼寺に忍び込みで見習いをしていた
少女を無理やり犯したものなのでしょうか?
それとも当時は尼寺ではなく、寺男が少女を宿坊に連れ込んだものなのでしょうか?
いずれとも判じかねますが、永井路子氏は想像逞しく以下のように詳細に解説して
おられます。

『 橘寺の長屋に引っ張り込んでなかば暴力的に犯したあの子、まだ十になるやならずの
 おかっぱのあの子は、胸もふくらんでいず、むきだしにされた股(もも)のあたりにも、
 性の萌(きざ)しもないくらいだった。
 が、あれから数年、いまごろあの子も、もうおとなになって、髪を上げたかなぁ。
 何も知らない少女を連れ込んでいたずらしたのはだれなのか。
 そのあたりの農民かそれとも寺の奴隷か。
- だれにも内証、ほんとに内証、、、

 こんなふうに肩をすくめていう男は、おそらく少女と同じ年頃の若者ではなくて
 すこし年上の男のような気がする。

 さすがにこれをひどい歌だと思ったのだろう。
 こんなただし書きがあり、歌を書き直している。

[  寺の中は俗人の寝所ではないから、こんなことをするはずがない。
  また若い女ですでに髪を上げたものを「放:はなり」というから、
  この下に「また髪上げつらむか」という言葉がくるのはおかしい。
  だから次のように改める。 〕

「 橘の 照れる長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)に 髪上げつらむか 」
                  巻16-3823 椎野長年


こうなれば橘の実の輝いていた長屋で、私がいっしょに寝たあの童女は
もうはなり髪に髪をあげたろうか、という意味になる。

がわたしは古歌のほうが面白いと思う。- -
いささか淫猥(いんわい)でどぎつい歌だが、しかし今のポルノと違ったたくましい
野放図さと言葉の豊かさがある。
これに比べると千語、万語を費やしたポルノ小説がいかに言葉貧しく、内容も
おそまつだということがわかると思う。
こうしたたくましさ、おおらかさに、いまさら戻ることは、現代人には不可能かも
しれない。
が、それだけに「万葉」のこの世界は日本人にとって、ひとしお貴重なのである。』
                               (  万葉恋歌 光文社より ) 

「 二面石 悪面撫でる 善(よ)き児かな 」   筆者

本堂の礼拝が終わり奇石二面石へ。
左悪面 右善面とあり、人間の心の善悪両面を伝えるものだそうです。
明日香には猿石、亀石、鬼の俎板など不思議な石が点在しますが、一体誰が
どういう目的で造ったのかよく分かっていません。

折柄、小学生の集団に出会いました。
「こんにちは」「こんにちは」とそれぞれ礼儀正しく挨拶をしてくれます。
こちらも挨拶を返しながら
「君たちこの石は何か知っている?」
「知りません」
「これはねぇ、人間には良いことをしようという気持ちと
 悪いことをしようと言う気持ちがあり、いつも心の中で戦っているの。
 だから、良いことをしなさいと教えてくれているんだよ。」
「わかりました。有難うございます」

と礼儀正しくお辞儀をして去る子供たち。

「 あぁ、この学校は礼儀や言葉遣いをしっかりと教えているのだな。
わが国もまだまだ捨てたものではないのだ。」 
と清々しい気持ちになってこの寺を後にしたことでありました。

「 丘飛ぶは 橘寺の燕かも 」 水原秋桜子
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by uqrx74fd | 2012-06-10 05:20 | 万葉の旅

万葉集その三百七十四(こもりくの泊瀬)

(長谷寺登廊)
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(長谷寺本堂)
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( 牡丹が満開)
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( 同上)
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( 法螺貝を吹く僧)
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( 春の長谷寺 )
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( 秋の長谷寺)
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近鉄大阪線の朝倉、長谷寺あたりはその昔「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」即ち
「山々に囲まれた地」とよばれていました。
万葉集巻頭を飾る雄略天皇の宮が営なまれたと伝えられる「朝倉」から「長谷寺」に
向かう電車は「たたなづく青垣」とよばれるに相応しい山々の裾野を進んで行きます。
長谷寺駅で下車し、み寺に向かって歩くこと15分。
この道は伊勢街道に通じており、かっては殷賑を極めた門前町だったそうです。

家々の前には細い水路がひかれ涼しげな音を立てています。
古びた旅館は花街の名残を偲ばせ、軒下に杉玉を飾った酒屋に並ぶ地酒
「八咫烏(やたがらす)」もなんとなく由緒ありげです。
店々の棚には、三輪そうめん、吉野葛、湯葉が並び、食欲をそそる「よもぎ餅」の
美味しそうな香りも漂ってきました。
民家の玄関前には牡丹の鉢植えが所狭しと並んで彩りを添え、竹の秋の風情も美しい。

日本書紀は雄略天皇がこの地を訪れ次のように詠われたと伝えています。

「 隠国(こもりく)の泊瀬の山は 出で立ちのよろしき山 
  走り出の よろしき山の 隠国の泊瀬の山は 
  あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し。」
 
     
( 泊瀬の山は 体勢(なり)の見事な山 山裾の形もよい山。
  何とも言えないくらい美しい。 実に美しい。 )

万葉人も負けじと詠います。

「 泊瀬川 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ 
     瀬をさやけみと 見に来(こ)し我れを 」 
                          7-1107 作者未詳


( 泊瀬川が流れ落ちて砕けるさまはまるで白い木綿花のようだ。
 その清々しい瀬を見たくなってまた訪れたよ。)

古代、泊瀬川は川幅広く水量も豊富でした。
山の上から滝のように流れ落ち、激流逆巻く水泡。
木綿花は木綿(もめん)ではなく楮の皮の繊維で作った布を榊の枝に結んで
花に見立てたもので、神祭りのときに用いられていました。
「さやか」という言葉にも神に対する敬虔な気持ちがこもります。

「 こもりくの 豊泊瀬道(とよはつせじ)は 常滑(とこなめ)の
   かしこき道ぞ 汝(な)が心ゆめ 」 
                   巻11-2511 柿本人麻呂歌集


( こんもりとした谷あいの泊瀬の道は、いつもつるつるとした滑りやすい道です。
 そんなに急いでは危険です。 気を付けて下さいね。)

この歌は男が久しぶりに恋人に「今夜訪ねるぞ」と使いを遣り

「 赤駒が 足掻(あがき)き早けば 雲居にも 
    隠(かく)り行かむぞ 袖まけ我妹(わぎも)」 
                         巻11-2510 同上


( 俺様の赤栗毛の馬はあっという間に雲に隠れてしまうほどに速いんだ。
  今夜、すっ飛んで行くから寝床の支度して待っていろよ。)

と言ったのに対して 
「早く来てくれるの嬉しいけれど気を付けてね」と思いやったものです。

 明かりもない山道、危険を承知の上での馬の早駆け。
 勇み立ち、心はやる男の様子が目に浮かぶようです。

「 こもりくの泊瀬の山に 照る月は
   満ち欠けしけり 人の常なき 」
                    巻7-1270 古歌集


( あの泊瀬の山に照っている月は 満ち欠けを繰り返している。
 人も同じだなのだなぁ。 
 いつまでも変わらないという事はありえないのだ。)

ハセは初瀬、泊瀬、長谷とも書きますがいずれも正しいとされています。
初(ハツ)は「初め」、泊は「終わり」、「長谷」は「狭くて長い谷」の意があり
その地形にかなっているからです。
従って「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」、霊験あらたかなる観音様を
拝して心機一転の「新しい人生の初まり」、そして「人生の泊(とま)りどころ」すなわち
「生涯の果て」である墓所が営まれた「霊異のこもる地」でもあります。

この歌の作者が人生無常を感じていたのもそのような背景があったからでしょう。

「 香に酔へり牡丹3千の花の中 」 水原秋櫻子

長谷寺の山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右にはその数7千株を越す赤、黄、ピンク、紫、白、など
色とりどりの牡丹が真っ盛りです。
この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は元薬草園だったらしく、移植されたのは
元禄時代からと伝えられています。

「 白牡丹 咢(がく)をあらはに くづれけり 」 飯田蛇笏

上の方から勇壮な法螺貝が聞こえてきました。
西国巡礼を引率してきた僧が一心不乱に吹き鳴らしているのです。
まだ慣れないせいか時々音づまりさせ、首をかしげているのも微笑ましい。

やがて、木造としては我国最大、10mもある巨像、十一面観音が鎮座まします本堂に到着。
岩盤の上に立つ男性的な御姿は観音菩薩と地蔵菩薩が合体した他に類のない仏像で、
右手に錫杖、左手に華瓶(けびょう)を持ち、現生利益(りやく)と極楽浄土の先導をされるといわれる
有難い御本尊です。
観音信仰は奈良時代後期から盛んになり、平安時代に大流行しました。
特に人気第一の長谷寺へは女性が競って参詣し、源氏物語、枕草子、更級日記、蜻蛉日記
などの舞台にもなっています。

礼拝を終わって崖につきだした露天の舞台へ。
そこに立って見はるかすパノラマの眺望は雄大で素晴らしい。
初瀬、巻向、天神の山々。
初瀬川が流れる谷間から山腹にかけて点在する堂塔伽藍。

春は桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪、四季を通じて美しい山河に囲まれた母なる故郷
「こもりくの泊瀬」は昔も今も変わることなく私たちを迎え入れてくれているのです。

  「 此の寺のぼたんや旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)
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by uqrx74fd | 2012-06-03 07:37 | 万葉の旅

万葉集その三百四十二 (明日香:南淵山)

( 明日香:棚田1)
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( 明日香:棚田2)
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( 明日香: 案山子)
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( 明日香:南淵山)
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( 男綱 )
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明日香の石舞台から南へ1㎞ばかり歩くと、そこは一面に広がる棚田。
春は刈田のレンゲやタンポポ、秋には稲穂が風にそよぐ中、
彼岸花やコスモスが咲き乱れています。
そして、子供たちが丹精を込めて作った数々の案山子がお伽の世界を演出して
くれるのです。

昔、このあたり一帯を南淵とよんでいたそうですが今は稲渕といいます。
飛鳥川に添う道は吉野に通じており、かって持統女帝や大海人皇子が通ったかも
しれないと遥か遠い時代に思いを馳せるのも楽しいものです。

やがて、集落の入口。
飛鳥川をわたす橋を挟んで道が二手に分かれ1㎞位先で再び合流します。
村の手前の川とその上流には子孫繁栄、五穀豊穣、悪疫侵入防止を願って
神の降臨を勧請する縄、すなわち雄綱と女綱が張り渡されており、古の時代から
神と共存する人々の心が今なお息づいている村のたたずまいです。

飛鳥川の両岸には屏風のような山々が連なり、進行方向に向かって左側の山塊を
南淵山といいます。
地元の農家の人に「南淵山はどの山ですか?」と聞くと
「この辺から見える山全部を昔から南淵山と言うてんねん」と答えてくれました。

「 まそ鏡 南淵山は今日(けふ)もかも
   白露置きて 黄葉(もみち)散るらむ 」
                     巻10-2206 作者未詳


( 南淵山では今日あたりも白露が置いて、紅葉が散っていることであろうか)

まそ鏡の「ま」は立派な「そ」は充分の意で「よく映る立派な白銅製の鏡を見る」
すなわち「見る」と同音の南淵の「ミ」に懸けた枕詞です。

作者はかって見たことがある南淵山の黄葉が今どうであろうか、
白露が置いてもう散っているであろうかと想像しています。
まそ鏡という美しい枕詞が白露がキラキラ光る様子を連想させている一首です。


「 御食(みけ)向ふ 南淵山の巌には
   降りしはだれか 消え残りたる 」
                    巻9-1709 柿本人麻呂歌集


( 南淵山の山肌の巌には、いつぞや降った薄ら雪が消え残っているのであろうか )

天武天皇の子、弓削皇子に献じた歌とあり、「残雪」を見ながら自然の美しさを
雄大に詠った一首です。

「はだれ」とは雪や霜などがうっすらと降り積もっている状態をいいます。
明日香はめったに雪が降らないところで、たまに降り積もっても
すぐに溶けてしまいます。
それだけに、巌のところに消え残ったまだら模様の雪、白黒の対比の美しさに
人々は心惹かれたのでしょう。

「御食向ふ」は神または天皇に捧げる食事のことで、
粟(あわ)、味鴨(あじかも)、酒(き)、蜷(みな:田螺などの巻貝) などを奉るので、
それぞれ同音の地名、淡路、味経(あじか)、城上(きのへ)、南淵に掛かる枕詞と
されています。

「 野菊挿す 南淵請安先生に 」 高繁 泰治郎

さらに歩いて行くと集落のはずれの丘に「南淵請安先生の墓」と彫られた
石碑が立っています。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。

彼は、608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間
当地に滞在して儒教などを学びました。
帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、のちの天智天皇)や
藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられています。

当時(642年)は皇極女帝の時代で、執政、蘇我入鹿が聖徳太子の子、
山背大兄(やましろのおおえ)を殺害するなど横暴を極めていました。
皇子と鎌足は請安宅に足しげく通い、ひそかに打倒蘇我氏と後の政権構想の
秘策を練り、645年、クーデータを敢行して蘇我氏を滅亡させました。

そして、孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、藤原鎌足は内大臣となり
新しい時代、大化の改新の幕開けとなります。

請安先生が打倒蘇我氏の計画に関与したかどうかは定かではありませんが、
二人の政権構想に指導的役割を果たしたことは充分に考えられ、古代日本史の
影の立役者だったといえましょう。

澄み切った川のせせらぎ、蛍が飛びかう山里。
緑深い山塊、その間を吹き抜ける爽やかな風。
明日香は古代の雰囲気をいまなお濃厚に伝えてくれている美しい村です。

    「 勧請縄張る村境 蛍飛ぶ 」 田辺洋子 


( 女綱 上山好庸 明日香路 光村推古書院より)
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( 南淵請安の墓 )
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( 明日香の春   上山好庸  明日香路 光村推古書院より)
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by uqrx74fd | 2011-10-23 09:14 | 万葉の旅

万葉集その三百四十一(歌姫街道)

( 歌姫町の農家 )
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( 付近案内図 )
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( 添御県座神社:そうのみあがたにいますじんじゃ)
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『 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。
  歌姫という美しい字名(あざな)だ。
 こんな村の名にしては、どうもすこし とおもうような村にもみえたが、
 ちよっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。
 大きな門構えのなかに中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も
 家畜小屋も果樹もならんでいる。
 そしてその日あたりのいい明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながら
 のんびりと働いている光景が、ちよっとピサロの絵にもありそうな構図で、
 なんとなく仏蘭西(フランス)あたりの農家のような感じだ。 』
                            ( 堀辰雄: 大和路・信濃路 新潮文庫より)

平城京大極殿から北へ1㎞ばかりのところに歌姫という町があります。
このあたりに昔、「歌姫越え」とよばれた大和と山城国を結ぶ幹線街道がありました。
比較的平坦な道なので平城京造営の折、木津川に集められた木材や建設資材を
都に運ぶために重用されたそうです。

歌姫という名前はかってこの地に松林や池に囲まれた宮殿があり、そこに
雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官たちが住んでいた、あるいは美しい恋歌を詠んだ
仁徳天皇の皇后、磐姫に因むともいわれていますが確かなことはわかりません。
(磐姫陵はすぐ近くにある)

歌姫町をさらに500mばかり行くと緩やかな上り坂になり、登りきったところが
大和と山城の国境です。
そこには旅の安全を守護する「添御縣座神社」(そうのみあがたにいますじんじゃ)があり、
天照大神の弟、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)と
その妻、「櫛稲田姫命」(クシイナダヒメノミコト)、
そして土地の神様である武乳速命(タケチハヤノミコト)の三神が祀られています。

『  佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は
     妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ 」
                       巻3-300 長屋王


( 佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に幣を奉ります。
 どうか、道中安全、無事に帰ることができ、いとしい妻をいつも
 見ることができますよう。 )

作者は公用で山城を訪れた時、この神社で旅の安全と、妃、吉備内親王との
一日も早い再会を祈り幣(ぬさ)を奉りました。
長屋王は高市皇子(天武天皇皇子)の第一子で、聖武天皇のもとで左大臣の
要職にあった人物です。
また、佐保楼という豪華な別邸を持ち、新羅の使者など多くの人びとを招いて
詩宴を催すこともたびたびあり、風流文雅の貴公子ともよばれていました。
政治の面でも能力、気骨があったようですが、それ故か藤原氏と衝突し、
その讒言により自死に追い込まれた悲運の人でした。
藤原不比等は政敵を葬ることにより娘を聖武天皇の皇后として送り込むことに
成功し首尾よく光明皇后を誕生させたのです。

『 このたびは ぬさもとりあへず たむけ山
    紅葉の錦 神のまにまに 」 
                              菅原道真 古今和歌集


( このたびの行幸には幣の用意も出来ませんでした。
 この手向山ではさまざまな色の紅葉が散っております。
 どうかその紅葉を神の御意のままに幣としてご受領下さい )

宇多法皇奈良吉野行幸の折の詠。
実際に幣の用意が出来ていなかったわけではなく、紅葉の散るさまが
あまりにも見事なので幣をまき散らす必要がないと詠ったようです。
ここでの幣は紙を小さく切ったものを意味しています。

この歌は「「添御縣座神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」で詠まれたものとして
境内に長屋王の歌と共に歌碑が置かれていますが、この辺りは紅葉が少ないので、
東大寺法華堂(三月堂)近くの手向山神社で詠われたのではないかとする説もあります。

舞台は大きく変わりご存じ池波正太郎の鬼平の世界です。
鬼平こと長谷川平蔵が休暇で京都に行った折、旧知の浦部与力が
奈良を案内することになりました。

 (浦部) 「 宇治をあとまわしになさいますなら石清水から山沿いの古道をたどり、
        奈良へ入りますのが、おもむきが深いかと思われます。」
 (平蔵) 「 ほほう。これはおもしろい」
 (浦部) 「 は。この道を歌姫越えと申しまして、むかしむかし、奈良に
        皇都(みやこ)がありましたときは、この道こそが奈良と山城の国を -
        京をむすぶ大道でございましたそうで 」

   と浦部はなかなかにくわしい。
   ( これはおもしろい旅になりそうだ。 浦部をつれてきてよかった )
     平蔵も、こころたのしくなってきている。
 - - 
 (浦部) 「このあたりは、むかしむかし、棚倉野とよばれ、ひろびろとした原野に
      穀物をしまった倉がいくつも建っていたそうでございます。
      かの万葉集にも- -

「 手束弓(たつかゆみ) 手に取り持ちて 朝猟(あさがり)に
          君は立たしぬ  棚倉の野に 」 
                     (巻19-4257 古歌 船王伝誦す)


とございますな 」

(平蔵)  「これは、おどろいた、おぬしがのう・・・」

                    ( 池波正太郎  鬼平犯科帳3 凶剣 文芸春秋より ) 

さて、この歌は
( わが君が手束弓をしっかり手に取り持って、朝の狩場にお立ちになっている。
この棚倉の野に。) 
の意で、「手束弓」は手に束ねやすい弓、「棚倉の野」は京都府山城町付近の野です。

紀飯麻呂(きのいひまろ)という官人の屋敷で催された宴席で披露された
古くから伝わる歌で、「君」は聖武天皇とされています。
かって山城近くに久爾(くに)という都があったとき天皇は盛んに猟をされたらしく、
往時を懐かしむとともに、宴の時期が丁度10月下旬の狩猟の季節にあたっていたので、
それにふさわしいものとして紹介されようです。

それにしても、鬼平でいきなり万葉集が出てくるのには驚きました。
あまり知られていない歌だけに池波先生が万葉集にも深い造詣をお持ちだったことが
窺われる一文です。

「 歌姫を 鬼の平蔵 過ぎゆけり 」  筆者

( 神社内の長屋王歌碑 )
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( 手向山八幡宮の壁付近)
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by uqrx74fd | 2011-10-16 07:41 | 万葉の旅

万葉集その三百三十六 ( 高円山 )

( 高円山 後方右上 奈良公園浮見堂より )
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( すすき 奈良大仏池より )
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(おみなえし 山辺の道で )
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( 萩 同上 )
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高円山(たかまどやま)は奈良市東南にある標高432mの山で、昔は「たかまとやま」と
清音でよばれていました。
平城京に近く、奈良時代には貴族たちの遊宴の地として親しまれ、その頂上近くに
聖武天皇の離宮、尾上(おのうえ)の宮があったと伝えられています。
大宮人たちは時には狩を行い、酒壺をさげて逍遥し、四季それぞれの風物を楽しみ、
鶯、雁、鹿、桜、なでしこ、おみなえし、葛、萩、尾花、昼顔、紅葉など27首もの
歌を詠んでいます。

「 高円(たかまと)の 尾花吹き越す 秋風に
   紐解き開(あ)けな 直(ただ)ならずとも 」
                    巻20-4295 大伴池主


( 高円の野のすすきの穂を靡かせて吹き渡る秋風。
 その秋風に、さぁ着物の紐を解きはなってくつろごうではありませんか。
 いい女に逢うのはあとにして。 )

753年、数人の官人たちがそれぞれ壺酒を提げて高円の野山に登りました。
時期は現在の9月中旬。秋とはいえまだ暑さが残る時期です。
汗をかきかき小高い丘を登った大宮人たちは、山頂近くの秋風に心地良い
爽やかさを感じたことでしょう。

「さぁ、さぁ酒宴だ。衣の紐を解いて寛ごう。」と作者は皆に声を掛けます。
「紐解き開く」はくつろいで遊ぶさまを表し、「直ならずとも」には
「直ちに女性に交(あふ)にはあらずとも、」の意を含んでいるとされています。
「女性との交渉は後として取りあえずは衣服の紐を緩めて飲みましょうや」と
茶目っ気たっぷりの一首です。

万葉人はススキの花穂(かすい)を尾花とよびました。
そのさまが動物の尾に似ているからといわれていますが、米粒ほどの白い小花を
さしたのかもしれません。

「 女郎花(をみなへし) 秋萩しのぎ さお鹿の
    露別け鳴かむ 高円(たかまと)の野ぞ 」
                       巻20-4297 大伴家持


( ここ高円の野は女郎花や秋萩がまっ盛り。
 おぅ、あそこに見えるのは牡鹿かな。
 萩の花の上にしとどに置く露を押し分け、踏みしだき、やがて、
 妻を求めて鳴きたてることであろうよ。 )

鹿、萩に露、さらに女郎花をそえ、深まりゆく高円の秋の景観を
美しく詠った一首です。
萩は鹿が好むので「鹿の妻」ともよばれました。

「 高円の 秋野の上の 撫子(なでしこ)が花
   うら若み 人のかざしし 撫子が花 」
            巻8-1610 旋頭歌     丹生女王(にふのおほきみ) 


( 高円の秋野のあちらこちらに咲く撫子の花よ
 その初々しさゆえに、あなたが 挿頭(かざし)に愛でたこの撫子の花よ)

都に住む作者が大宰府長官大伴旅人に贈った歌です。
二人の関係は詳細不明ながら若い頃から親しく交際を続けていたらしく、
伊藤博氏は

『 長年の信頼と愛情を上品にやさしく託しており、女王の人柄が偲ばれる。
「なでしこの花」には若き日に旅人に愛された自分の姿を暗示しているらしく、
ほのぼのとした追懐の情が美しい。
恐らく押し花にした撫子にそえた歌で、ふるさとを思わせ、古く長い人の心を
思わせ、一首を受け取った旅人の心底からの安らぎを偲ぶことが出来る。』
(万葉集釋注) と評されています。

高円周辺は今なお古の面影を残しているところで、白毫寺、新薬師寺、志賀直哉旧居、
入江泰吉記念奈良市写真美術館もその山麓にあります。
堀内民一著「大和万葉旅行」は、その付近の様子を次のように伝えています。(要約抜粋)
 
『 高円山は原始林の春日山とは対照的な山で白毫寺の東の山だから
土地では白毫寺山ともよんでいる。
この白毫寺は天智天皇の第七子志貴親王の山荘を移して寺にしたと伝えられ、
著名な「五色椿」があり、奈良市小川町の伝香寺境内の「散り椿」、
東大寺開山堂境内にある「のりこぼし椿」とともに奈良の三椿(さんちん)と
よばれている。- -
新薬師寺の十二神将を見て、そこの山門をでたところに小さく祀られている鏡神社の境内から
高円山を眺めると西側斜面の大地をふくめて山がのどかで美しい。
十二神将を見た目にはこの山が親しみを覚えるのは、奈良末期の彫刻と歌との
関係からくるものであろうか。- - 

高円山の頂上に立つと、山上にかけての高円野の形相がよくわかる。
「高円山」の「高」は美称で、「円」は山の形をいったのであろう。
東の方は芳山の高峰が渓谷をへだてて見え、遠く伊賀、伊勢の山々が、
新秋の陽ざしを受けて蒼波のうねりをみせ、西の方は平城の古京へ、
稲葉の田園が豊かで、そのはては摂河泉を接する葛城山系が生駒山につらなり、
青空と山のあいだの一線が白けて、はるかに美しい。 』 
                                     (講談社学術文庫より)

    「萩芽吹く 石段粗き 白毫寺」 佐藤忠

        白毫寺は萩の寺としても知られています。
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by uqrx74fd | 2011-09-10 20:02 | 万葉の旅

万葉集その三百二十九(伊香保)

(榛名富士)
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『 「今日は榛名から相馬が嶽に上って、それから二ツ嶽に上って屏風岩の下まで来ると
   迎えの者に会ったんだ。」
  「 そんなにお歩き遊ばしたの?」
  「 しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。
    一方は茫々たる平原さ、利根がはるかに流れてね。
    一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいているなんぞは
    すこぶる妙だ。
    歌でも詠めたら、ひとつ人麻呂と腕っ比べしてやるところだった。
    あはははは。 」 』
                         ( 徳富蘆花:不如帰:ホトトギス 岩波文庫 より )

 「夏の夕やみに ほのかに匂ふ月見草」のような楚々たる美女、浪と
 その夫、川島武雄との会話です。
 明治末、この悲恋小説で伊香保は一躍全国に知られるようになり、
 新婚旅行のメッカになったといわれています。

伊香保は「巖穂(いかほ)」で大きな山が国の中央に聳え立ち、いかつく、大きく
秀でているの意で、古くから神が鎮座する秀峰として崇められてきました。

「 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありと云へど
    我が恋のみし 時なかりけり 」
              巻14-3422 作者未詳(東歌)


( 伊香保の峰から吹き降ろす風、この風は吹いたり、吹かなかったりする日が
 あるが、私の恋の風は、休みなく毎日吹き続け、やむ時がありません。)

東歌にしては方言もなく非常にわかり易い歌。
上州名物の空っ風は、今も昔も健在です。

「伊香保嶺(ね)に 雷(かみ)な鳴りそね 我が上(へ)には
  故(ゆゑ)はなけども 子らによりてぞ 」
           巻14-3421 作者未詳(東歌)


( 伊香保の嶺 雷なんぞ鳴らないでくれよ。
 俺は何ともないが、あの子は恐がるだろうからな。
 こうも雷が鳴ってばかりでは、デートもおちおち出来やしないよ。)

伊香保嶺は現在榛名山とよばれている山々です。
作者は女に逢いに出かけているのでしょうか。
その昔、雷は「鳴神」と呼ばれ農耕の水をもたらすものとして崇められていました。
その神様を「恋の邪魔になるから鳴るな」と注文を付けているのです。
自然崇拝から脱皮しつつある民衆の感情が窺われる一首です。

この歌の解釈に奇説があります。
真夏の太陽が照りつける中、二人の男女が母親の監視の目を盗んで交会に
及ぼうとする場面だというのです。

以下は根岸謙之助氏(上武大学教授)による生々しい描写です。

『 男は手をさしのべて、女を寝床にさそう。
女は男のなすがままに身を委ねて、草の上に仰臥する。
そして男の愛を受け入れるべく、思いきり四股を伸ばし、眼をつぶる。
すでに半裸体になった男は、身をかがめて、もどかしげな手つきで、
女の下裳の紐を解きにかかる。
その時である。
突如として大地をゆさぶるような大音響がおこった。
続いて二度三度。
それはたたなずく伊香保の山々にこだまして、ゴロン、ゴロンという
連鎖音が二人の耳朶を撃つ。
びっくりした女は、むき出しになっていた下半身を反射的に両手でおさえ、
ついでに下裳の裾を合わせようと身もだえた。
女へのつもる思いを、この一刻(ひととき)に遂げようと満身の血をわきたてて
いた男は、いっぺんに気勢を殺がれ激怒して思わず叫ぶ。
「 雷公 鳴るな!!」 』  
                       ( 上州万葉の世界:煥乎堂より)

さらに「雷は女の臍(へそ)を取るのでこれはまさに絶好の餌食」とも。
想像力豊かな方ですねぇ。


「 伊香保ろの 沿ひの榛原(はりはら) 我が衣(きぬ)に
   着(つ)きよらしも ひたへと思へば 」 
                     巻14-3434 作者未詳(東歌)


       ひたへ: 一重の方言:裏がない着物

( 伊香保の山の麓の榛原。
  この原のハンの木の実で染めた俺の着物はぴったりしてよい具合だ。
  一重で裏地もなく、涼しいし。)

「この榛原の女はおれにぴったりだなぁ。裏心もなく純粋一途で。」と
一人悦に入っている男です。

伊香保は火山灰地が多く、土地は痩せて崩れやすいため、丈夫なハンノキが
多く植えられ、治山工事の植栽木とされていたそうです。
ハンで染めた衣は触媒によって栗色や鼠かかった黒色になります。


「 高山の頂(いただき)に立つ 幾岩山(いくいわやま)
    烏帽子(えぼし)鬢櫛(びんぐし) 名のあはれなり 」 窪田空穂


 「榛名山」は単一の山の名称ではなく、掃部(かもん)ヶ岳(1449m:最高峰)、
  臥牛(がぎゅう)山、鬢櫛(びんぐし)山、烏帽子岳、榛名富士、相馬山、水沢岳、
  二つ岳など榛名湖を囲む一帯の山々の総称とされています。
    
    

      「 初蝉や 榛名修験の 水行場 」 水谷爽風
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by uqrx74fd | 2011-07-24 08:30 | 万葉の旅