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万葉集その二百二十九(清き浜辺ー敏馬:みぬめ)

万葉集には北海道、出羽(山形、秋田)、美作(岡山県北部)、伯耆(鳥取県西部)、
隠岐(島根)を除く全国各地の歌が集められています。

犬養孝氏の考証によるとその地名総数は約2900に達し、そのうち同一呼称のものを1つに
整理しても1200余に上るそうです。

今では失われた地名も多くあり、僅かな手がかりを頼りに場所の特定、あるいは推定が
なされていますが、「敏馬」もその一つです。

現在の神戸港の東、岩屋町あたりと推定されていますが、今は埋め立てられて昔日の
面影はなく、僅かに高台に祀られている「敏馬神社」という社名と、そこから眺望する
風景からしか往時を偲ぶよすがはありませんが、古代は難波、瀬戸内海航路の要港で
あるとともに風光明媚な景勝地であったことが詠われております。

「 八千鉾(やちほこ)の神の御代(みよ)より

    百舟(ももふね)の泊(は)つる泊まりと

   八島国(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の定めてし

   敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に 浦波騒き
 
   夕波に 玉藻(たまも)は 来寄る

   白真砂(しらまなご) 清き浜辺(はまへ)は

   行(ゆ)き帰り 見れども 飽かず

   うべしこそ 見る人ごとに

   語り継ぎ 偲(しの)ひけらしき

   百代経て 偲はえゆかむ 清き浜辺を 」

   巻6-1065  田辺 福麻呂(さきまろ) 最後の宮廷歌人


( 国造りの神 八千鉾の御代以来 
 多くの船の停泊する港であると
 わが舟人たちが定めてきた
 この敏馬の浦は 朝風に浦波が立ち騒ぎ
 夕波に 美しい藻が寄ってくる

 白砂の清らかな浜辺は 
 行きも帰りも いくら見ても見飽きない

 さればこそ ここを通る人は誰しも
 この浦の美しさを 口々に語り伝え賛美したのであろう

 今後もまた百代の後まで讃えられてゆくだろう。この清き浜辺は。 )

八千鉾:大国主命(おおくにぬしのみこと)の異称 出雲国の主神

この歌は、行幸従駕またはこれに準ずる公式行事における敏馬賛歌とされ、由来の
古さや連綿と続いてきた殷賑(いんしん:にぎわい)のさまを詠い、また眼前の
浜辺の清らかさ、美しさを言葉を尽くして讃えています。

岬には「延喜式:神名帖(927年)」に登載されている敏馬神社があり、
祭神は身籠ったまま戦いを指揮した伝説で名高い神功(じんぐう)皇后 
(現在はスサオノミコト以下三神)とされています。
社の縁起によると

「その昔、神功皇后が新羅征討にあたり諸神に加護を祈ったところ
美奴売山(みぬめやま)の神が自分の山の杉を伐採して船を作ることを教えた。

皇后がその通りにしたところ首尾よく戦いに勝つことが出来たので、
美奴売の神をこの浦に祀り、その神船も献じた 」と伝えられています。

以来、この神社は船材を司る山の神であるとともに航海の守護神とされてきました。

難波津に近く海岸線が長いこの浦は、白砂青松の美しさでも都に知られており、
寄航する人々の旅愁を慰めていたようです。

万葉時代を代表する柿本人麻呂、山部赤人、大伴旅人などもこの地を訪れて歌を
詠んでおり、さぞかし繁栄を極めた港町であったことでしょう。

なお、この長歌に続く短歌では

「 まそ鏡 敏馬の浦は百舟の
         過ぎて行くべき浜ならなくに 」 
                  巻6-1066 同上     

                   (まそ鏡:「見る」の枕詞)

と、自分達の船が何らかの理由で寄港できず素通りするのは誠に口惜しいと嘆いています。

敏馬(みぬめ)という地名は「見ぬ女(みぬめ)」と発音が通じ、
「港にいるまだ見ぬ女(遊女)に会えないのは残念だ」という気持も
含まれているのかもしれません。

「 または名に負ふ歌枕
     波に千とせの色映る
      明石の浦のあさぼらけ
      松 万代(よろづよ)の音(ね)に響く

  舞子の浜のゆふまぐれ
  もしそれ海の雲落ちて
  淡路の島の影暗く
     狭霧(さぎり)のうちに鳴き通ふ
     千鳥の声をきくときは
  いかに浦辺にさすらひて
  遠き古(むかし)を忍ぶらむ  」
                 島崎藤村 ( 晩春の別離より)

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by uqrx74fd | 2009-08-24 07:38 | 万葉の旅