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万葉集その二百三十六「斑鳩(いかるが) 散歩」

「 いかるがの さとのをとめは よもすがら
    きぬはた おれり あきちかみかも 」    会津 八一


「斑鳩」という地名は聖徳太子ゆかりの法隆寺を中心とする一帯をいい、その地に
「イカルガ」という小鳥(スズメ目アトリ科)が棲息していたことに因むといわれています。

「きぬはた」は絹ではなく、衣類を織るための機。
古き良き時代の長閑な田園風景が彷彿され、しみじみとした旅情が感じられる
一首です。

昭和20年代頃、最寄の鉄道駅から法隆寺に続く道は、春になると田畑一面に菜の花、
レンゲ、タンポポが咲き乱れ、秋にはコスモスや桔梗、女郎花、彼岸花、薄などが
田園を美しく彩っていました。
ところどころに点在する藁葺き屋根の美しい民家や崩れかかった土塀。
ゆっくりと歩いてゆくと、やがて緑も鮮やかな杉木立が迎えてくれます。

「しぐるるや 松美しき 法隆寺 」 阿久津 都子

『 はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく
胸の躍りだすような刻々と幸福の高まって行くような愉快な心持であった。

南大門の前に立つと、もう古寺の気分が全心を浸してしまう。
門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだときには、また法隆寺独特の
気分が力強く心を捕える。
そろそろ陶酔がはじまって体が浮動している気持ちになる。』(和辻哲郎 古寺巡礼)

この本を片手に寺々を巡った若き頃が懐かしく思い出される一文です。

堂々たる世界最古の木造建築、胴太のエンタシスの柱、連子格子の美しい回廊、
金堂の極楽浄土の壁画、五重塔初層の真迫の表情の塑像、アルカイック・スマイル
(古拙の微笑み)の み仏たち、夢殿に佇むモナ・リザの微笑に擬せられた
太子等身の像等々を巡ると、万葉ゆかりの池の跡(現在非公開)に出てまいります。

「 斑鳩の 因可(よるか)の池の よろしくも
       君を言はねば 思ひぞ我(あ)がする 」 巻12-3020 作者未詳


( 斑鳩の「よるかの池」は、よい池、好ましい池といわれています。
 ところが、世間ではあなたのことを、その池の名のように「よい人」と
 誰も言ってくれないのです。 一体どうしてでしょうか。
 それが今の私の物思い、悩みの種なのです。)

どうやら恋人はあちらこちらで浮名を流し、よからぬ噂が立っているようです。
親から付き合いを止められているのでしょうか?
あれやこれやと悩みながらもその男を忘れられない純情な乙女です。

「因可の池」については所在未詳とされていますが、法隆寺管長、大野玄妙師は

「 法隆寺境内にある聖徳会館の南側の湿地帯が因可の池の跡であり、
昔は地域の人々を大変潤(うるお)し、また頼りにされていた池であったと思われる」
と述べられておられます。

「 家ならば 妹が手(て)まかむ 草枕
       旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと) あはれ 」

       巻3-415 聖徳太子

             (万葉集その11:聖徳太子とマザーテレサ既出)

( 家にいたなら 妻の腕(かいな)で支えてもらって篤い看病を受けていたであろうに。
この旅先で草を枕に一人倒れ臥しておられるとは。 あぁ、なんと いたわしいことよ!)

万葉集唯一の太子の歌で、行き倒れの旅人を悼んだものです。
日本書紀によると、そのあと太子は自分の衣裳を脱いで旅人にかけてやり、
「安らかに眠れ」と言われたと伝えられています。

552年(538年説もあり)百済から仏教が伝来し、釈迦像、仏具、仏典が献上されます。
時の天皇(欽明)は仏教を受け入れるかどうか朝廷の意見を求めますが、
崇仏(すうぶつ)派の蘇我氏、排仏派の物部氏との間で政権を争う具とされ、
以来35年にわたる熾烈な内乱となりました。

用明天皇2年(587)、ついに蘇我氏が物部氏を滅ぼし我国最初の本格的な仏教寺院
飛鳥寺(法興寺)、次いで聖徳太子の手で四天王寺、さらに607年には法隆寺が
建立され本格的な仏教導入がはじまりました。

新しい国作りの理想に燃えた太子は仏教思想を基底にした中央集権統一国家の
建設を目指すために「遣隋使」を派遣して先進文化や仏教の経典を積極的に
取り入れました。

そして、「冠位十二階」の制定による氏族の世襲禁止と、有能な人材の登用、
「十七条憲法」の制定による「和と平等の政治」、「天皇の詔の遵守」(王権の確立)、
「三法(仏 法、僧)を敬うこと」などの政策を推し進めます。

然しながら、血を血で洗う同族の凄惨な戦い、皇位継承をめぐる争いとそれを操る
蘇我氏の横暴はとどまるところを知らず、ついに太子は仏教の真理を求道するために
斑鳩宮の道場(夢殿)に籠り瞑想の世界に入られました。

太子理想の政治体制の実現は雄図むなしく後代に持ち越されましたが、
日本文明黎明期に異質文明を積極的に採り入れ、それを取捨選択しながら、
有益な知識と技術を自家薬籠のものとして、新しい日本文化を創造し、
それを高度な水準にまで引き上げた功績は大きく、
後々、我国の多様な時代精神を生み出す原動力になったと言えましょう。

『 私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺にかけて巡拝するたびことに
この斑鳩里のかって太子の歩まれたことを思い、一木一草すらなつかしく、
ありし日の面影を慕いつつたたずむのを常とする。

春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を
訪れると、そのすぐ後ろには、もういちめんの畑地である。
法輪寺と法起寺の塔が眼前に見えるかげろうのたちのぼる野辺にすわって
雲雀の空高くさえずるのをきいたこともあった。

かってここに飛鳥びとがさまざまな生活を営んでいたのであろうが、
彼らの風貌や言葉や粧(よそお)いはどのようなものであったろうか。 』

( 亀井勝一郎 大和古寺風物誌 :旺文社文庫)

「 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 」   正岡子規   
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by uqrx74fd | 2009-10-12 10:21 | 万葉の旅

万葉集その二百二十九(清き浜辺ー敏馬:みぬめ)

万葉集には北海道、出羽(山形、秋田)、美作(岡山県北部)、伯耆(鳥取県西部)、
隠岐(島根)を除く全国各地の歌が集められています。

犬養孝氏の考証によるとその地名総数は約2900に達し、そのうち同一呼称のものを1つに
整理しても1200余に上るそうです。

今では失われた地名も多くあり、僅かな手がかりを頼りに場所の特定、あるいは推定が
なされていますが、「敏馬」もその一つです。

現在の神戸港の東、岩屋町あたりと推定されていますが、今は埋め立てられて昔日の
面影はなく、僅かに高台に祀られている「敏馬神社」という社名と、そこから眺望する
風景からしか往時を偲ぶよすがはありませんが、古代は難波、瀬戸内海航路の要港で
あるとともに風光明媚な景勝地であったことが詠われております。

「 八千鉾(やちほこ)の神の御代(みよ)より

    百舟(ももふね)の泊(は)つる泊まりと

   八島国(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の定めてし

   敏馬(みぬめ)の浦は 朝風に 浦波騒き
 
   夕波に 玉藻(たまも)は 来寄る

   白真砂(しらまなご) 清き浜辺(はまへ)は

   行(ゆ)き帰り 見れども 飽かず

   うべしこそ 見る人ごとに

   語り継ぎ 偲(しの)ひけらしき

   百代経て 偲はえゆかむ 清き浜辺を 」

   巻6-1065  田辺 福麻呂(さきまろ) 最後の宮廷歌人


( 国造りの神 八千鉾の御代以来 
 多くの船の停泊する港であると
 わが舟人たちが定めてきた
 この敏馬の浦は 朝風に浦波が立ち騒ぎ
 夕波に 美しい藻が寄ってくる

 白砂の清らかな浜辺は 
 行きも帰りも いくら見ても見飽きない

 さればこそ ここを通る人は誰しも
 この浦の美しさを 口々に語り伝え賛美したのであろう

 今後もまた百代の後まで讃えられてゆくだろう。この清き浜辺は。 )

八千鉾:大国主命(おおくにぬしのみこと)の異称 出雲国の主神

この歌は、行幸従駕またはこれに準ずる公式行事における敏馬賛歌とされ、由来の
古さや連綿と続いてきた殷賑(いんしん:にぎわい)のさまを詠い、また眼前の
浜辺の清らかさ、美しさを言葉を尽くして讃えています。

岬には「延喜式:神名帖(927年)」に登載されている敏馬神社があり、
祭神は身籠ったまま戦いを指揮した伝説で名高い神功(じんぐう)皇后 
(現在はスサオノミコト以下三神)とされています。
社の縁起によると

「その昔、神功皇后が新羅征討にあたり諸神に加護を祈ったところ
美奴売山(みぬめやま)の神が自分の山の杉を伐採して船を作ることを教えた。

皇后がその通りにしたところ首尾よく戦いに勝つことが出来たので、
美奴売の神をこの浦に祀り、その神船も献じた 」と伝えられています。

以来、この神社は船材を司る山の神であるとともに航海の守護神とされてきました。

難波津に近く海岸線が長いこの浦は、白砂青松の美しさでも都に知られており、
寄航する人々の旅愁を慰めていたようです。

万葉時代を代表する柿本人麻呂、山部赤人、大伴旅人などもこの地を訪れて歌を
詠んでおり、さぞかし繁栄を極めた港町であったことでしょう。

なお、この長歌に続く短歌では

「 まそ鏡 敏馬の浦は百舟の
         過ぎて行くべき浜ならなくに 」 
                  巻6-1066 同上     

                   (まそ鏡:「見る」の枕詞)

と、自分達の船が何らかの理由で寄港できず素通りするのは誠に口惜しいと嘆いています。

敏馬(みぬめ)という地名は「見ぬ女(みぬめ)」と発音が通じ、
「港にいるまだ見ぬ女(遊女)に会えないのは残念だ」という気持も
含まれているのかもしれません。

「 または名に負ふ歌枕
     波に千とせの色映る
      明石の浦のあさぼらけ
      松 万代(よろづよ)の音(ね)に響く

  舞子の浜のゆふまぐれ
  もしそれ海の雲落ちて
  淡路の島の影暗く
     狭霧(さぎり)のうちに鳴き通ふ
     千鳥の声をきくときは
  いかに浦辺にさすらひて
  遠き古(むかし)を忍ぶらむ  」
                 島崎藤村 ( 晩春の別離より)

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by uqrx74fd | 2009-08-24 07:38 | 万葉の旅