カテゴリ:自然( 94 )

万葉集その二百七十九(初秋風)

『 暦の上の立秋の後先、まだ夏が衰へ初めたとも見えない とある八月の日の、
 朝か夕の思はぬ時に、ふと、その年の初の秋風を肌が感ずる。 - -

 まだ夏のさかりに早くも一息吹いて来る その秋風。
ぬれた髪のやうな冷やかな手で、つと頬を撫で去るのみで
後はまた夏らしい微風が渡ってゐる その秋風。

しかし 私の心が 今のひと吹きは今年最初の秋風だった。- -

夏にやうやく萎へそめた青草の呼吸の感じられる そのひと吹き。
今宵より野にすだく虫の やうやくしげく、
夜露やうやう深まさるだらうと思はれる そのひと息。- - 』

                ( 堀口大学 初の秋風 作品社:「日本の名随筆所収」)

「 初秋風 涼しき夕(ゆうへ) 解かむとぞ
   紐は結びし 妹に逢はむため 」   巻20-4306 大伴家持


( 初秋風、涼しい風が吹く来年の七夕に再び逢い、着物の紐を解こうと
 誓いながらお互いに結びあったのだったなぁ。
 ようやく一年が経ちその日がやってきたよ )

難波に単身赴任中の作者が天の川を仰いで詠んだ一首です。

当時の人々は別れの際にお互いの衣服の紐をしっかり結び合っておけば
再び思う人に逢えると信じていました。
牽牛の待ちに待った喜びを詠ったものですが、作者自身、妻にまもなく逢えるという
気持も込めているのでしょう。

「初秋風」は大伴家持の造語。万葉集中この一例のみ。

「 我がやどの 萩の末(うれ)長し 秋風の
   吹きなむ時に 咲かむと思ひて 』      巻10-2109 作者未詳


( 我家の庭先の萩が枝先を伸ばしています。
 秋風が吹いたら早速咲こうと思って待っているのだろう。 )

「萩の末(うれ)」の原文は「若末」で、若く伸びた枝先。
萩が咲くのを待ちかねている思いを初秋風に託している作者です。

「 古衣 打棄(うつ)る人は 秋風の
    立ちくるときに 物思(ものも)うふものぞ 」  
                      巻11-2626 作者未詳


( 古い衣をうち捨てるように恋人を捨てた人は、秋風が吹きはじめる時に
 わびしい思いをするものですよ )

つれなくなった男を咎める女の歌のようです。
古衣は長らく連れ添った糟糠の妻をさしているのかもしれません。
とすれば男に新しい愛人が出来たのでしょうか?

秋風が立つ時期は、物思う、ひたぶるに うら悲しい季節という感覚を
万葉人が既に持っていたことを窺わせる一首です。

「 人の心の 秋の初風 
  告げ顔の
  軒端(のきば)の萩も 恨めし 」     閑吟集


( あの人はわたしに飽きたのか、姿も見せない。
 軒端の萩が「秋の初風が吹いたよ」と知らせるように
 揺れているのも恨めしいこと )

「秋風の秋」に「飽き」を、「軒端」の「軒」に(男が)「退き」を掛けた女の心。

「 明日香風、浜風、朝風、神風、港風、伊香保風、川風、浦風、春風、山風、
時つ風、佐保風、花風、港風、沖つ風、松風、比良山風、家風、朝東風(あさこち)、
泊瀬風(はつせかぜ)、あらしの風、そして秋風。」

万葉集使われている風の名前です。
万葉人は何故このように風の名前を使い分けたのでしょうか。
単なる詩的興趣からなのでしょうか。

大岡信氏は日本人の風に対する感覚について以下のように述べておられます。

『 秋の最初の使者としての風。そこにゆらいでいる時間の流れ。- -
 日本人は秋季に限らず、季節の節目節目をまず敏感に感じ取らせるものとして
 風をたえず意識してきた。
 おそらくこれは四方を海で囲まれ、気象条件によって支配されている島国に住む
 民族として、日本人が農耕、漁撈いずれにせよ、風雨によって生活を根本的に
 左右されてきたということと無縁ではあるまい。

 春風によって芽ぶいた植物も、収穫期に嵐に遭(あ)えば一年の苦労は無と化してしまう。
 一見単純なリズムを刻んでいるかのような季節の中にも、人間の生命をおびやかす
 要素はさまざまにあった。

 古来の日本の詩人たちはそれらの最も微妙なあらわれとして、風に注目した
 ものだともいえるだろう。
 「初風」という一語をとってみても、風が吹きはじめるその瞬間に対して
 心をとぎすましている人々の、心の姿勢を見ることができるのである。 』

              ( 大岡信 名句歌ごよみ:秋 より要約抜粋  角川文庫 )

「 山聳え 川流れたり 秋の風 」   蓼太(りょうた:江戸中期の俳人)
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by uqrx74fd | 2010-08-08 08:09 | 自然

万葉集その二百七十七(立つ波、騒く波)

「 海恋し 潮の遠鳴りかぞへては
    をとめとなりし 父母の家 」   与謝野晶子 恋衣


            ※ 晶子の生家は堺市甲斐町にあった菓子商「駿河屋」

「 ゴロ ゴロ.ゴー.ゴゴゴゴ 」
海辺は穏やかなのに遠くから雷のような音。
彼方の空は雲が垂れ込みはじめているようです。
沖合いでは風が吹き、波も高くなっているのでしょう。

古来から海鳴りは台風や津波が押し寄せてくる前兆とされてきました。
海辺を磯伝いに歩いていた旅人は慌てて険しい山路に進路を変更します。

「 あしひきの山道(やまじ)は行かむ 風吹けば
    波の塞(ささ)ふる 海道(うみぢ)は行かじ」 

                      巻13-3338 作者未詳


( 山道を行こう。 
  風が吹き波が前途に立ちはだかる海の道は怖いよ )

作者は海の恐ろしさを身にしみて経験してきたのでしょう。
磯伝いに歩く海辺の道は津波のほか崖崩れの危険も多くありました。

漁師達も慌てて船を引き返し、岸に向かって必死に櫂を漕ぎます。

「 風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の
   舟人騒く 波立つらしも 」 巻7-1228 作者未詳


(  風早の三穂の浦あたりを漕いでいる舟、その舟人たちが大声を上げて
  動き回っている。
  どうやら波が立ち始めたらしい。)

三穂の浦:和歌山県日高郡美浜町三尾付近。 
一見穏やかに見える海も、沖では荒々しい力をみなぎらせています。
このあたりは、一旦風が吹き出せばその激しさは凄まじいところ。
舟人のきびきびした動きが目に浮かぶような一首です。

旅人を乗せた船は近くの港に避難し、天候が回復するまで動けません。

「 粟島(あはしま)へ 漕ぎわたらむと 思へども
      明石の門波(となみ) いまだ騒(さわ)けり 」 

                     巻7-1207 作者未詳


( 粟島に漕ぎ渡ろうと思うけれど、明石の瀬戸の波は行く手を阻んで
  いまだに立ち騒いでいる。)

「粟島」は淡路島付近にあった島と思われます。
「明石の門波」は明石海峡に立つ波 「門」はここでは狭い通路の意。

難波から明石海峡まで30㎞。瀬戸内海、九州への旅の最初の関門です。
当時の船は底の浅い木造船で、人力あるいは帆走によって時速10㎞の
海峡を越えなければなりません。
穏やかな時でさえ潮流が早く危険な海峡。
荒天ではなすすべもなく、天候が回復するまで何日も滞在することになります。

 当時の港には遊女も多く、「滞在もまた楽しからずや」だったようです。

「 また湊(みなと)へ舟が入るやろう 
  空櫓(からろ)の音がころりからりと」  (閑吟集)


『 櫓を水に浅く入れて漕ぐのが空櫓。
  「ころりからり」とは涼しげな音
 港に入ってくる船には男たちが乗っている。
 その男たちがまた舟で去ってゆくだろう。
 「ころりからり」の音を残して。
 その音を聞きながら、もの思いにふける遠い昔の女』
                      (長谷川 櫂)

「 紀伊の海の 名高の浦に寄する波
     音高(おとだか)きかも 逢はぬ子ゆゑに 」 
                       巻11-2730 作者未詳


( 紀伊の「名高」(和歌山県海南市)海岸にうち寄せる波。
 その波音が高いように、俺達の噂が何と高いことか。
 相手はまだ大して逢ってもいない子なのに )

「名高の浦」はきめ細かな美しい白砂で都にも知られていたようです。
その名のように自分の浮名も高いとぼやいた歌ですが、言葉遊びをしながら
楽しんでいる余裕の作者です。

「潮騒、白波、さざれ波、沖つ波、荒波、夕波、千重波(ちえなみ)、
五百波(いおえなみ) たゆたふ波、雲の波、浦波、風波、騒く波、等々。」

万葉集に使われている波の名前です。
静かな心地よい波、美しい波、そして恐ろしい波。
その表現の豊かさ、観察の細やかさ。
古代の人にとっては文学的な表現というよりも生活に密着した言葉だったのでしょう。

「 ふるさとの 潮の遠音(とおね)のわが胸に 
    ひびくをおぼゆ 初夏(はつなつ)の雲 」  与謝野晶子 舞姫


                                 遠音:遠鳴り
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by uqrx74fd | 2010-07-24 19:58 | 自然

万葉集その二百六十八(光いろいろ)

「あらたうと青葉若葉の日の光」 芭蕉

この句は「奥の細道」への旅の途中、日光で詠まれたものです。
目のさめるような濃淡模様の青葉若葉。木々の葉に残った前日の雨の水滴が
降りそそぐ日の光にきらきらと輝いている。
自然の美しさへの感動とともに日光という土地、さらには東照権現の威光への挨拶が
籠っているともされている一首です。

746年の正月、奈良の都に大雪が降りました。
左大臣橘諸兄は諸王諸臣を率いて元正太上天皇のご在所に馳せ参じ、雪掻きの奉仕を
したところ、大いに喜ばれた上皇は酒宴を催されて労をねぎらいました。
宴もたけなわになり、上皇は「みなのもの、歌を奏上せよ」と仰せられます。

「 天(あめ)の下 すでに覆ひて 降る雪の
     光をみれば 貴(たふと)くもあるか 」 
                巻17-3923 紀朝臣清人


( 天の下をあまねく覆いつくして降り積もる雪。
 このまばゆいばかりの雪を見ると、お上の威光の何と貴くももったいないことか)

自然の美しさの中にお上への賛美を込めた一首ながら、なんと芭蕉の句と
発想が似ているのでしょう。
芭蕉も万葉集を勉強していたのでしょうか。

「 あしひきの 山さへ光り 咲く花の
   散りぬるごとき 我が大君かも 」   巻3-477 大伴家持


( われらの皇子が逝ってしまわれました。
 それは山の隅々まで照り輝かせて咲き盛っていたその花がにわかに散って
 しまったようです。)

744年聖武天皇のたった1人の皇子、安積皇子急逝。17歳の短い生涯でした。
橘諸兄をはじめ大伴家持も将来を嘱望していた優秀な人物だっただけに人々の
ショックは大きかったようです。
徳高い皇子を光り輝くばかりの花にたとえ、周囲は一挙に暗黒化したと悼んでいます。

「 ひさかたの光のどけき春の日に
     しず心なく花の散るらむ 」 紀 友則 古今和歌集


百人一首でもよく知られている歌です。
風のそよぎも全くない爛漫たる春の日。
音もなく静まり返っている中を桜の花びらが一枚また一枚と散ってゆく。
桜よ!どうしてそんなに散り急ぐのか。我が心を乱さないでおくれ!

「 山もとの 鳥の声より明けそめて
    花もむらむら 色ぞみえ行く 」 永福門院 (伏見天皇の中宮)


光という言葉を用いないで朝の光を詠った名歌。
大岡 信氏は次のように解説されています。

『 「山もとの」は山のふもとの意。 
山麓一帯にさえずり始める小鳥どもの声から夜は明けそめる。
そして射し始めた淡い日差しの中で、ある場所の花はいち早く日をあび、
別の場所の花はまだ影に沈みながら、むらのあるさまでしだいにはっきり
色を呈してくる。
ここで単に「花」といわれているのは、平安朝時代の言い方のならいで、
桜の花をさしている。
「花もむらむら」に漢字をあてれば聚々、群々でところどころに群れをつくって
あちこちまだらに、という意味の副詞である。
そんな意味よりも先に「花もむらむら」という言葉の響きが、なんというか
あちらこちらでムックリ、モッコリ身じろぎしはじめる花の感じを伝えてくる。

夜明け方、刻々光が移り変わる物の表面の生き生きした表情。
それが「花もむらむら色ぞみえ行く」にぴたりととらえられているところが
たかが三十一文字(みそひともじ)の短い詩の、長い生命の秘密である。 』
                ( 「うたのある風景」日本経済新聞社 )

「 たかんなの 光りて 竹となりにけり 」   小林康治

光はまた生命力の強さをあらわす言葉としても使われます。
「たかんな」とは漢字で「笋」と書き筍(たけのこ)のこと。
 雨後の筍という諺通り、盛んな生命力を「光りて」の4文字に託しています。

「 風光り 雲また光り 草千里 」   門松 阿里子

「風光る」はうららかな春の日にまばゆい陽光のなかを吹き渡る風が、
あたかも光っているように感じられるさまをいう感覚的な季語です。

 そして最後は誰かさんの親の七光り

「 親はこの世の油の光
          親がござらにゃ光ない 」   摂津古歌

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by uqrx74fd | 2010-05-23 08:25 | 自然

万葉集その二百五十九(時は今・春)

   『 時は春、  
   日は朝(あした)、
   朝は七時、
   片岡に露みちて、
   揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
   蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
   神、そらに知ろしめす。
   すべて世は事も無し。 』  

 
「 ロバート・ブラウニング 春の朝(あした)より: 上田敏訳」

『 私たちの中学時代の英語のリーダーには、この原詩が掲げられていて
  愛誦したものである。
  神の創りだした秩序を賛美し祝福している詩であろう。
  感情の高まりを抑えた静かな詩だが、春のよろこびはおのずから現れている。』

        ( 山本健吉 ことばの季節より : 文芸春秋社 )

 「 時は今 春になりぬと み雪降る
      遠山の辺(へ)に 霞たなびく 」 
         巻8-1439 中臣 武良自(むらじ)


( ようやく春になったのだなぁ。 
  いまだに雪が降り積もっている遠くの山のあたりにも
  霞がたなびいているよ。)
 
「春は霞と共にやって来る」と考えていた古(いにしえ)の人々。
「時は今」という言葉に待ちに待ったに春到来の喜びがあふれているようです。

   「 春なれや 名もなき山の 朝がすみ 」 芭蕉

  芭蕉大和路での詠。
  万葉の春の代表的な風物、霞は平安さらに江戸時代にまで受け継がれました。
  山の辺の道の途中に「たたなずく青垣」と詠われた山並みが一望できる
  小高い丘があります。
  早春の朝、その丘から眺める大和三山、三輪、二上山をはじめ、四方の山々は
  すべて霞にぼやけ、さながら水墨画のような世界です。芭蕉が見た大和は

   「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際少し明りて
     紫たちたる雲の細くたなびきたる 」 (枕草子 第一段) 


    のような風景だったのでしょうか 。

「 ならさか の いし の ほとけ の おとがひ に
   こさめ ながるる はる は き に けり 」  会津八一


奈良坂は奈良市の北にあり、木津、京都にいたる道。
石仏のおとがい(下あご)に春雨がしたたっており、
その細い雨足に春到来を感じとった一首です。

  「 青柳の 糸の細(くは)しさ 春風に
       乱れぬ い間(ま)に 見せむ子もがも 」 
              巻10-1851 作者未詳


( 青々と芽ぶいている柳の枝はまるで糸のよう。
  春風にゆらゆら揺れて、美しいなぁ。
  見せてあげる誰かさんがいればよいのに・・・)

万葉集唯一の「春風」という言葉です。
しだれ柳の瑞々しく、しなやかな新芽。
春風に吹かれて簾(すだれ)のようにそよぐ柳。
軽やかなウキウキとした気分を誘う歌です。

歌中の「い間」の「い」は接頭語で「風で枝の美しさが損なわれない間に」と
いった意味でしょうか。

「 春の野に 心延(の)べむと 思ふどち
    来(こ)し今日(けふ)の日は 暮れずもあらぬか 」
                   巻10-1882 作者未詳


( 親しい仲間同士で、伸び伸び一日過ごそうと春の野にやってきました。
 今日は何時までも日が暮れないで欲しいものだなぁ )

心を許したもの同士の会話は何時まで経っても尽きることがありません。
時よ止まれ!
 
「 沈丁花 春の月夜と なりにけり 」 高浜虚子
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by uqrx74fd | 2010-03-21 20:42 | 自然

万葉集その二百五十一(万葉の立山は剣岳か)

『 北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば北の俊英は剣岳であろう。
 層々たる岩に鎧(よろ)われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈、高邁の風格は
この両巨峰に相通じるものがある。

「万葉集」に載っている大伴家持の「立山(たちやま)の賦(ふ)並びに短歌」に
讃えられている立山(たちやま)は、今の立山ではなく剣岳であろうという見解を
私は持っている。
太刀(たち:剣)を立ちつらねたようなさまであるから「たちやま」と名づけられた。
家持の歌に和して大伴池主の作った歌の中の
「厳(こご)しかも巌(いわ)の神さび-」とかいう描写は剣岳以外には考えられない。』    
                 ( 深田久弥 日本百名山 剣岳2,998m)

「 朝日さし そがひに見ゆる   神(かむ)ながら み名に帯ばせる 
白雲の 千重(ちへ)に押し別け   天(あま)そそり 高き立山 
夏冬と 別(わ)くこともなく  白栲(しろたへ)に 雪は降り置きて 
いにしへゆ あり来にければ
  こごしかも 岩の神(かむ)さび   たまきはる 幾代経にけむ- - 」
                巻17-4003 (長歌の一部) 大伴池主

「 立山に 降り置ける雪の 常夏に
    消ずてわたるは 神(かむ)ながらとぞ 」 巻17-4004 同


( 朝日を受け、背をくっきりと見せて聳え、神の山という立派な御名を
もっておられる立山。
 白雲のいく重なりをも押し分けて天空に高くそそり立つこの山は、
冬夏といわず年中いつも真っ白に雪が降り積もって
長い間の年月を経てきたので
 険(けわ)しい岩石も神さびている
この神々しさはいったい幾代経てきたことであろうか- - )

( 立山に降り積もっている雪が夏でも消えないのは
 神の御心のままということなのだ  )

「そがひに見ゆる」: そがひは後ろ向きの意。
            東方の逆光の中にくっきりと浮き立つ山姿を背をみせているといった。
「み名に帯ばせる」:  立山に名に「太刀」を連想したゆえに帯ばせるとしたものか
「こごしかも」:  岩の険阻なさまを感動を込めていったもの

剣岳は日本アルプスの山々が登り尽くされる最後まで人を寄せ付けなかった霊峰で、
登ってはならない山とされていました。
明治40年当時、日本の登山は宗教による開山を目的としたもの以外はすべて
測量のためになされ、陸軍参謀本部陸地測量部の所轄でした。

ところが民間の山岳会が剣岳初登頂を試みようとしたのです。

『 「その山がなんの目的もない山岳会の人たちによって初登頂されたとなれば、
それこそ陸地測量部の恥でなくてなんであろうぞ。」
陸軍少将大久保徳明は最後の言葉を怒りをこめて言った。:(新田次郎 剣岳)』

かくして、陸地測量部に命をかけた登頂命令が下ります。
 命令を受けた測量官、柴崎芳太郎は周到な調査と用意を重ね、さらに優秀な案内人
宇治長次郎を得て、総勢4人で雪に覆われた急峻な岩ぶすまに果敢に挑みました。

「 彼は望遠鏡を出して覗いた。
それは鑢(やすり)で磨き上げられたような鋭い岩峰であった。
 立山連峰のどの山とも似ていなかった。
 剣岳だけが地質学的な成因を異にしたような山に思われた。
 浄土山も雄山も大汝(おおなんじ)山も別山もすべておだやかな表情をしていた。
 剣岳だけが一角で肩をいからし、近づく者を威嚇しているようであった。」
                                  (新田次郎  同より)

食料やテントなどの必需品のほか、100キロを越す測量機材を持ち、道なき道を
あえぎながら登るという苦闘の末、最後の難関の雪渓に取り付きます。
そして遂に1907年7月13日、測量部隊は人跡未踏と思われていた頂を極めました。

ところが、信じがたい光景に遭遇します。
頂上にはなんと! 修験者が使用していたと推定される槍の穂と錫杖(しゃくじょう)の
頭が置かれていたのです。
しかも錫杖はのちに唐時代の作と鑑定された古いものです。

いつ、誰がどのようにして登ったかは未だに不明とされていますが、兎も角大昔、
装備も何もない時代に宗教心に燃えた修験者が不退転の勇気と鋼のような意思を
もってこの山の頂上に到達していたのです。

その報告を受けた軍首脳は測量隊員に対して賞賛やねぎらいの言葉もなく、
「ご苦労であった」という一言のみ。
あとは何の沙汰もなく新聞発表も禁じたそうです。

「剣岳には登頂した。至上命令は果たしたのだ。
しかしその功績を上層部が認めて彼の測量官としての将来に光を当ててくれるか
どうかは、はなはだ疑問であった。
初登頂でなかったという理由で柴崎の業績は結果的には意味のないことであったと
考えているのかもしれない」 (新田次郎、同)

測量本来の目的よりも民間の登山家に先を越させまいと体面のみを重んじて
部下に命を懸けたさせた旧陸軍参謀本部の醜い体質を見るような思いがする一文です。

「昔は立山も剣も一様に立山と総称されていたのに違いない。
越中の平野から望むと立山は特にピラミッドにそびえた峰でもなければ左右に際立った
稜線をおろした姿でもなく、つまり一個の独立した山というより波濤(はとう)のように
連なったやまという感じである。
ことに富山あたりからではその前方に大日岳が大きく立ちはだかっていて
立山はその裏に頭を出しているだけなので、山に詳しい人でなければ立山を的確に
指摘することはできまい。」       
( 深田久弥 日本百名山 立山より )

「 六十七歳の 老のよろこびを 誰に告げむ
          剣岳の上に けふ岩を踏む 」    松村英一

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by uqrx74fd | 2010-01-24 10:21 | 自然

万葉集その二百二十八(瀧もとどろに)

古代、「瀧(たき)」という言葉は「激流」を意味していたそうです。

その由来は、「水が激しく流れるさま」すなわち「たぎつ(激つ)」が「たぎ」に短縮され、
さらに清音の「たき」になったものといわれております。
 
723年、元正天皇が吉野に行幸されました。
轟音を響かせて逆巻く流れを眼の前にしてお供の人が声高らかに詠います。

「 斧取りて 丹生(にふ)の檜山の
     木(き)伐(こ)リ来て  筏(いかだ)に作り 

     真楫(まかじ)貫き  磯漕ぎ廻(み)つつ 
     島伝ひ  見れども飽かず 

     み吉野の  瀧もとどろに   落つる白波 」   
                  巻13-3232  作者未詳
(反歌)

「 み吉野の 瀧もとどろに 落つる白波
           留まりにし 妹に見せまく 欲しき白波 」 

                     巻13-3233 同


( 斧を手に取り、丹生の檜山の木を伐ってきて、筏に作り、
左右の櫂(かい)もしっかりと取りつけました。

そして、その筏で磯を漕ぎ巡り、島伝いに眺めているのですが、
いくら見続けても飽きません。

激流をごうごうと、天にもとどろくばかりに響かせて流れ落ちる白波よ! )

(反歌)
( このような素晴らしい光景を都に残っている妻に見せてやりたかったなぁ)
 
註1. 丹生(にふ)=地名:奈良県吉野郡黒滝村一帯、檜の産地
註2. 島伝い: ここでは水辺 

吉野川を海に見立てて、白波の躍動するさま、吉野の景観の見事さを褒め称えています。
続く旋頭歌では、望郷の念を詠いながら、そこに旅の安全を祈る気持を込めたのでしょう。

簡潔ながらも筏に乗って激流を下っているような臨場感が感じられる歌です。

さて、私たちが今日言うところの「瀑布の瀧」は、「垂水(たるみ)」とよばれていました。
文字通り「空中を垂直に落下する水」という意味の言葉です。
  
「 石(いは)走る 垂水の水の愛(は)しきやし
              君に恋ふらく 我が心から 」 

                  巻12-3025 作者未詳


( 岩の上から逆巻き落ちる瀧の水のように激しくあなたに恋焦がれています。
 この苦しい胸のうち、それは誰のせいでもありません。私自身のせいなのです。)

「愛(はしき)やし」には「愛(いと)しい」という意味と、水が「疾(は)しき=早い」とが
掛けられています。
恋の激しさを一直線に流れ落ちる瀧のさまに喩えた一首です。

なお、この「ハシキ」という言葉は、のちに「敏捷」を意味する「ハシコイ」という
現代語に転じた(井上通泰:万葉集新考)といわれています。 

「垂水」という言葉を有名にしたのは、何と言っても

「 石(いは)走る 垂水の上の さわらびの
           萌え出づる 春になりにけるかも」 

      巻8の1418 志貴皇子   (万葉集その51 早蕨 既出)


の名句でありましょう。
然しながら、万葉人のこの美しい造語「垂水」は時の経過とともに消え去り、
今では地名 (神戸市垂水区など) にその名残を留めるばかりとなってしまいました。

「 瀧はこの世に数あれど 
   うれしや うれし 鳴り響く

   これはまことの 瀧の水 
   日が照ったとて絶えもせず 
   
   とうとう たらり 鳴りひびく  
       ヤレコトットウ 」 

        ( 梁塵秘抄: 榎 古朗訳 新潮日本古典集成)


瀧に対する感謝の気持が溢れるばかりの「お祭り囃し歌」で、お能の「翁」にも同じ
詞章がみえるそうです。

我国では古代から多くの人々が、瀧壷には水の神、龍神が住んでいて、
霊力あるその水で体を清める、いわゆる禊(みそぎ)をすることによって魂が甦り、
肉体も若返らせることが出来ると信じてきました。

717年、「養老の瀧」(岐阜県養老町) を訪れた元正天皇は、瀧水を浴びたところ、
肌が滑らかになり、痛むところも治ったので、大いに喜ばれ、年号を養老に改めたとも
伝えられています。(古今著聞集)

老若男女が冷たい水に打たれて修行する姿は今もなお各地で多くみられますが、
女帝も瀧に打たれたのでしょうか?

「 瀧浴びの しなびし乳房 ひしと抱き 」 

                         水守 萍浪(へいろう)

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by uqrx74fd | 2009-08-17 08:14 | 自然

万葉集その二百二十六(弓張月)

本年の立秋は八月七日で旧暦の七夕です。

牽牛、織姫年一度の逢瀬のこの日は、夕暮れから三日月が中天にかかり、
星の光は少しかすんで見えますが、夜も更け月が完全に沈むと、
爽やかな夜空に天の川が燦然(さんぜん)と輝き、満天の星たちが
二星のために最高の舞台を提供します。

「 天の原 行(ゆ)きて射てむと 白真弓(しらまゆみ)
            引きて隠(こも)れる 月人壮士(つきひとをとこ) 」 
                         巻10-2051 作者未詳


( 天の原を行ったり来たりして牽牛を射てしまおうとしているお月さんよ。
 とうとう諦めて、立派な白木の真弓を引き絞ったまま山の端に隠れてしまったわい。)

三日月が恋敵の牽牛に向かって弓を引き絞っているように見立てた歌です。

古代では月が完全に沈んでから二星の逢瀬が始まると考えられていました。
牽牛織姫の渡河を今か今かと待ち望んでいる人にとって月がいつまでも空に
居座っているのは迷惑。
「どうせ片恋なのだから弓を射ても届かないよ」と冷やかしているようです。

「星の恋 いざとて月や入りたまふ 」 長斎

そして山の端に消えてゆく月を見ながら「振られたのに威張りながらの退場だわい」と
笑い、やがて始まる天体ショーへの期待に胸を膨らませています。


「 天の原 振り放(さ)け見れば 白真弓
            張りて懸けたり 夜道はよけむ 」 

       巻3-289 間人宿大浦(はしひとのすくね おほうら)


( 天つ空を遠く振り仰いで見ると、引き絞った白真弓のような月がかかっている。
 この分だと夜道はさぞ歩きやすいであろう )

古代人は満ちては欠け、欠けては満ちる月を命の再生の象徴とみなし、月の光には
夜の世界を跋扈する悪魔や悪霊を追い払う呪力があると信じていました。

天空から明るい光を照らしてくれる三日月は危険な夜道を急ぐ人にとって、弓で魔物を
射てくれる頼もしい守護神であったことでしょう。

なお、白真弓は木の皮を削って白くした立派な(真)弓という意味ですが、
真弓=檀(まゆみ)、梓弓、槻(つき=けやき)弓など材料の木を表すこともあります。

さて、舞台は時空を越え中世へ。
シェイクスピア劇「夏の夜の夢」の冒頭の場面です。

「シーシアス」: さて、美しいヒポリタ、吾(われ)らの婚儀も間近に迫った。
          待つ身の楽しさもあと4日、そうすれば新月の宵が来る。
          それにしても虧(か)けてゆく月の歩みのいかに遅いことか!
          - -。

「ヒポリタ」:   でも4度の日はたちまち夜の闇に融け入り、4度の夜もたちまち
          夢と消え去りましょう。
          やがて新月が、み空に引きしぼられた銀の弓さながら、
           式の夜を見守ってくれましょう。
                     

                                ( 福田 恒存 訳 新潮文庫 )            
どこかで聞いた台詞だなぁ。 
シェイクスピアも万葉集を読んでいたのかしらん。


  「三日月をゆみはり月とみるばかり
             中(なか)空にして そふ光かな 」   正徹

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by uqrx74fd | 2009-08-03 19:32 | 自然

万葉集その二百二十四(海山は死にますか)

「昔から日本人は、海も山も生きものであり、生きているからには、
   死ぬものだと思い、大事にしなければならないと考えていた。

  海や山が死んだら、草も木も、魚も鳥も、虫も、人間も
  死んでしまうものだと知っていた。
  その深い「縁」を忘れて、人間はいま、まっしぐらに死に急いで
  いるのであろうか。」
 

                      ( 山本健吉 ことばの四季 文芸春秋社 )

「 鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする
   死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)て 山は枯れすれ 」

                  巻16-3852 作者未詳 


( あぁ、海が死ぬということなどあるの? 山も死ぬの? そんなはずがないのに。
 でもやっぱり死ぬからこそ、海は潮が干し上がるのだし、山も草木が枯れるのだなぁ)

「鯨魚取り」は海、浜、灘などに掛かる枕詞で昔は近海で鯨が多く捕れたそうです。

『 万葉も後期になると古伝承や神性にふと疑問を投げかける目がみられる。
海の潮干と山の冬枯れを示すことで海や山にさえ「死」ということは
あるのだということを示した。

本来不変と言い得る自然、当時の言い方によると永遠の生命を持つ
海神(わたつみ)山神(やまつみ)においてすら「死」から免れることはないのだと
新しい目を向けさせることに重点がある歌だということになりましょう。


この旋頭歌 (筆者注:577 577を基調とする歌体) の前に三首の
 釈教歌(仏教詠)が並んでいるのでこの歌も僧による説教の歌なのでしょう。
 外来の宗教観が古来のものの見方を揺さぶったということになります。』

                 ( 廣岡義隆 万葉のこみち はなわ新書 )


この歌を現在の私達が読むと自然破壊に対する警鐘と思えてなりません。

山を切り崩し、その土で海を埋め立て、白浜の海岸をコンクリートブロックに変える。
至るところに見られる伐採され尽くされた禿山。
草木は枯れ、獣や鳥や魚や貝すらも行き場を失い死滅する。
地盤は緩んで地崩れを起し、台風や地震のたびに起きる大災害。

万葉人は海は再び満ち、山も春来たりなば萌えると自然の再生を信じていましたが、
私たちはそれを自分達の手でしか成しえません。

人口が減少していく中でこれ以上のビルや道路が本当に必要なのでしょうか?
この狭い日本を移動するのにさらに多くの空港や鉄道が本当に必要なのでしょうか?

 「 もうこれ以上地球を壊すな!」

万葉人のメッセージに私達は真剣に耳を傾けたいものです。

「 おしえてください
   この世に生きとし生けるものの
   すべての生命に限りがあるのならば
   海は死にますか 山は死にますか
   風はどうですか 空もそうですか
   おしえてください 」
         
( さだまさし 作詞 : 防人の詩 映画「二百三高地主題歌」 
  原表現は万葉集から )

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by uqrx74fd | 2009-07-19 10:51 | 自然

万葉集その二百二十三(山川)


「 幾山河 越えさり行かば寂しさの

        はてなむ国ぞ今日も旅ゆく 」 

            若山牧水 (岡山県哲西町 二本松峠にて)


(旅を歌っていると同時にまた人生そのものを深々と歌っていると思えるところが
魅力的である。 寂しさの終(は)てる国などなくてもよいというほどの誇らかな
若さが結句に感じられる。 <名歌、名句辞典 : 三省堂> )

「山川(河)」という字は古代から発音によって意味が区別されており「ヤマカワ」は
「山と川」、濁音の「ヤマガワ」は「山の間を流れる川」の意とされています。

「 皆人(みなひと)の恋ふるみ吉野 今日(けふ)見れば

        うべも恋ひけり 山川(やまかわ)清み 」 

                   巻7-1131 作者未詳


( 多くの人々が憧れ、一度は訪ねてみたいという吉野。
今日訪ねてみると、なるほど、なるほどそのように言われるのは尤もなことです。
山も川も実に美しく清らかですね )  註:「うべも」は「なるほど尤も」

この歌は朝廷に仕える官人が吉野を訪れた時に宴席で詠ったものとされています。
恐らく持統天皇が何度も行幸された宮瀧とよばれていたところでしょう。
鬱蒼と杉が生い茂り、渓谷をぬって瀧から清冽な水が流れ落ちている仙境。
初めて訪れた大宮人の嘆声が聞こえてくるようです。

『 「まだ見ぬ方(かた)の花をたずねむ」と西行は歌ったが奥へ奥へと
     誘(いざな)っていくところがある。
    幾山河という古風な言葉をきみは大事にするが吉野の奥というのは
    地理的な奥というより人間のくらしや感情の奥処(おくか)であるようにおもえる。
    つきつめれば吉野は連なる山々とそれらの青山から流れる水があるばかりだ 』

             ( 前 登志男著 吉野紀行より 角川選書 )


「 今造る 久邇(くに)の都は山川(やまかわ)の

          さやけき見れば うべ知らすらし 」 

                       巻6-1037 大伴家持


( 槌音も高く、今、造っている久邇の都は美しくも清らかな山や川に囲まれています。
  なるほど、なるほど、この地を新たな都と定められたのも尤もなことです。)

740年、聖武天皇は突如、都を平城から久邇へ移しました。
久邇は京都府相楽郡加茂町を中心とした木津、山城にまたがる地域で
恭仁京(くにきょう)とよばれます。
淀川に合流する木津川が都の中を蛇行し、さながら水郷都市の観があったことでしょう。

当時、紫香楽(しがらき:滋賀県甲賀)で大仏建立の工事が進められていましたが、
木津川を利用した資材物流基地の建設を目指したともいわれています。

然しながら、744年には未完成のまま廃都とされ、再び平城京に戻る事になりました。
紫香楽で地震や火災が多発して人々が動揺したことに加え、財政不足が深刻な状態となり
すべての資源を平城京に移して大仏建立に集中せざるをえなくなったものと思われます。

「 山川(やまがわ)の 清き川瀬に遊べども

        奈良の都は忘れかねつも 」 

                      巻15-3618 遣新羅使人


( 山間の清らかな川瀬で遊んでいても、心に浮かぶのはあの奈良の都。
  忘れようとしても忘れられないことです。)

 遣新羅使人が長門の島(広島県呉市倉橋島)で船泊した時の歌です。

 風光明媚な景勝の地での遊宴の一時とはいえ、重要な使命を帯びた使人たち。
 しかも、生還を期しがたい危険な船旅の途中です。
 都から遠ざかるにつれ、酒宴を楽しむよりも望郷の思いのほうが益々募って
 いったことでしょう。


 「 山川(やまがわ)の 激(たぎ)ちのどよみ 耳底(みみぞこ)に

        かそけくなりて峰を越えつも 」 

                    斉藤茂吉 (赤光)


「激のどよみ」は「激の響み」で流れが逆巻いて響く音。
 清流で喉を癒したのち、心地よい川音の響きを背にしながら一歩一歩山を登る。
歩みとともに次第に遠ざかる音。いまもなお耳底に余韻を残して。
明治41年作者塩原旅行での詠。

 「 高根に登りまなじりを
     きはめて望み眺むれば
     わがゆくさきの山河(やまかは)は
     目にもほがらに見ゆるかな
     みそらを凌(しの)ぐ雲の峯
     砕けて遠く青(あを)に入る 」  

              ( 島崎藤村 高山に登りて遠く望むの歌 )

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by uqrx74fd | 2009-07-13 08:38 | 自然

万葉集その二百十七(泉、清水)


「 湧きいずる泉の水の盛り上がり

     くずるとすれや なほ盛り上がる 」     窪田空穂


 「泉」という字は
     「丸い穴から水が湧き出るさまを描いた象形文字」とされ、
     訓の「いづみ」は「出水(いづみ)」に由来するそうです。
 

万葉集で「泉」という文字は数多く見られますが、いずれも「水が豊かな場所」
または「地名」として用いられ、湧き水の清冽なさまは「ま清水」「山清水」「井」
「走り井」などと表現されています。

 「 - 水こそば とこしへにあらめ 御井(みゐ)のま清水」

                   巻1-52 長歌の一部 作者未詳


この歌は我国最初の本格的な都城とされる 「藤原京」(694~710) を
讃えたものです。

都を造営するにあたって尽きることがない湧き水がある場所を探し求め、
掘られた井戸は都の繁栄と永続のシンボルとされました。

  「 家人に恋ひ過ぎめやも かはず鳴く

         泉の里に 年の経(へ)ぬれば 」 

                        巻4-696 石川広成
 

( ここ、河鹿(かじか:蛙)が鳴く美しい泉の里に 仕事で赴いてきました。
  ところが、予想外の長逗留になってしまい、何時帰ることが出来るか
  わかりません。
  家に残した家族への恋しさが募るばかりの日々。早く帰りたいなぁ。)

740年前後、泉の里は新しい都、久邇京(くにきょう:京都木津近辺) 造営で
大童でした。
作者はこの遷都に携わる官人だったのでしょう。

自然の素晴らしい環境も望郷の念には勝てなかったようです。

「恋ひ過ぎる」は「恋しくなくなる」という意ですが、否定の「めやも」が続いて
いるので「恋しくなくなるなんてあり得ない」という意味になります。

 「 落ちたぎつ 走井水(はしりゐみず)の 清くあれば

              置きては我は 行(ゆ)きかてぬかも 」 

                        巻7-1127  作者未詳


( 激しく流れ落ちる水が余りにも清らかなので旅の途中で先を急ぐのに
  立ち去りにくいことです。)

古代では水が勢いよく流れ出ることを「走る」と表現しました。

喉の渇きを覚えつつ、一歩一歩山を登ってゆく。
やがて岩間から流れ出る湧き水を発見し思わず駆け寄ります。

胃が痛くなるほどの冷たい水で喉を潤し、心身ともに生き返った心地の作者。
澄み切った美しい水に命の根源を見出し、感謝の気持を込めて
旅の安全を祈ります。

「 馬酔木なす 栄えし君が掘りし井の

        石井の水は 飲めど飽かぬかも 」   

                  巻7-1128 作者未詳


( 馬酔木の花のように栄えたあなたさまが掘られた石で囲った井戸。
 その水は飲んでも飲んでも飽きることなく美味しいものです 。)

石で囲った井戸は裕福な人でなければ造ることが出来ませんでした。
その井戸を惜しげもなく開放し、後々まで多くの人々に慕われ、
感謝されている亡き先人。

 「 道のべに清水ながるる柳かげ

       しばしとてこそ立ちとまりつれ 」  西行 ( 新古今和歌集)


( 道のほとりに清水が湧き流れていて、そこに柳が涼しそうに木蔭をつくっています。
 しばらく休ませてもらおうと立ちよったのですが、あまりにも気持がよいので
 ついつい長居してしまったことです)

西行63~73歳のころ、旅の途中あるいは屏風に書いたものともいわれている歌です。
夏の暑い日に清水と木蔭を見つけた喜びと清涼感、作者の淡々として
澄み切った心境が感じられます。

後年、芭蕉は奥の細道の旅の途中、西行が立ち寄ったと伝えられる
この歌ゆかりの那須野で

「 田一枚うゑてたちさる柳かな 」     の名句を詠みました。

西行を深く尊敬し思慕していた芭蕉。
遠い昔を偲んで長い間瞑想に耽っていたようです。

句の解釈については諸説ありますが、山本健吉氏は

『 西行の歌の「しばしとてこそ」の具象化が「田一枚」なのであり
暫しと立ちどまったところ思わずときをすごしてしまってその間に田一枚
植えられたのである 』
   と適切な解説をなされています。

「 西行の 詠みたる清水 掬(く)めど澄む 」 森田 峠
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by uqrx74fd | 2009-06-01 19:46 | 自然