カテゴリ:植物( 213 )

万葉集その六十八(紅:くれない)

紅花の原産地はエジプト周辺の中近東で、紀元1世紀前後に
シルクロードを経て中国に伝わり、わが国へは5世紀頃に渡来しました。

その名の「紅(くれない)」は「呉(くれ)の藍(あい:古くは染料の総称)」の
略といわれ「古代中国、呉(ご)の国から伝来した藍」というわけです。

染料、薬用、口紅さらに種子から紅花油が採られ今日なお有用の植物です。

万葉時代の王朝人にとっても紅染めは紫と共に憧れの色彩で
最高の色としてもてはやされていました。

 「 紅の 深染(こそめ)の衣(きぬ)を 下に着ば
    人の見らくに にほひ出(い)でむかも 」 
              巻11の2828 作者未詳


( 紅の花で濃く染め上げた衣、なんと見事な色だろう。 
 そんな派手な着物を内側に重ね着したら、人が見たときに
 中から透けて見えるだろうなぁ)

「 紅の深染の衣 」とは「馴染を重ねた美しい女」
「下に着る」は「その女と人目を忍んで契りを結ぶ」ことの比喩で
 忍ぶ仲が露見することを恐れる気持ちを詠ったものです。

それに対して相手の女性は

「 衣(ころも)しは さはに あらなむ 取り替えて
   着ればや 君が面忘れてある 」 
            巻11の2829 作者未詳
 

 ( よくも白々しくおっしゃること。
  着物ならいくらでもたくさん持ちたいものですが
  新しい衣を取っ替え、引っ替えするように次から次へと女を乗り換えて
  私の顔をすっかりお忘れでは‐‐) と大いに皮肉った歌を返します。

「 外(よそ)のみに 見つつ恋ひなむ 紅の
   末摘花(すえつむはな)の 色に出でずとも 」 
                巻10の1993 作者未詳


( たとえあの方が 色鮮やかな末摘花のようにはっきりと
  私のことを好きだと素振りに見せて下さらなくともいいのです。
  私は遠くからそっとお慕いしているだけで )

紅花は茎の先端に咲く花を摘み取ることから「末摘花」ともよばれます。

摘み取った花は大変な手間ひまをかけて染料や口紅の原料となる
「紅花餅」に加工されます。
当時、同量の米の十倍もしたといわれる超高級品でした。

古くから山形県東部地方が一大産地として知られ「最上紅花」の名で
京都へ送られて上流階級の人々の生活を彩ったのです。

「 行くすえは 誰(た)が肌ふれむ 紅の花 」 芭蕉 
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:47 | 植物

万葉集その六十五「合歓(ねむ)の花」

「ねむ」(ねぶ)は夕方にその葉と葉が合掌して眠るように
閉じるのでこの名があります。

細い絹糸を集めたような淡紅色の雄しべの花がつき、
日没に葉が閉じると入れ替わるように開花します。

紅をぼかしたようなその姿は清楚というよりも妖艶な女性を
思わせるようです。

中国では「ねむの木」を「合歓の木」と書き
「男女が共寝して相歓び合う」という意味を付しました。

「 昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓(ねぶ)の花
       君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ 」 
                巻8の1461 紀 郎女


( 昼間は綺麗な花を咲かせて、夜になればぴったりと葉を合わせ、
 好きな人に抱かれるように眠る合歓の木ですよ。羨ましいなぁ。
 そんな花を主人の私だけが見てもよいものでしょうか。
 お前さんも御覧なさいな。あなたと一緒に見たいのよ。)

 君のみ見めや: 君はここでは主人の意で作者自身をさす
 戯奴: 年少の召使などを呼ぶ言葉 ここでは大伴家持をさす

この歌は紀郎女が大伴家持に合歓の木を切り添えて贈ったものです。

年上で人妻(天智天皇の曾孫安貴王の妻)でもある作者は戯れながら
花によせて共寝を誘っています。

若き日の家持はどぎまぎしながらも歌を返します。


「 我妹子(わぎもこ)が 形見の合歓は花のみに
      咲きて けだしく実にならじかも 」 
               巻8の1463 大伴家持


( あなたが下さった合歓は花だけ咲いて多分
  実を結ばないのではありますまいか。
 あなたのお気持ちは口先だけで本気ではないのでしょう )

家持の歌に反し合歓は秋にエンドウ豆風の果実を房状につけます。
このことを知っていたならば家持もまた違った歌を返していた事でしょう。

江戸時代、芭蕉は「奥の細道」の旅で象潟に立ち寄ります。

「入江の広さは縦横一里(4km)ばかり。
 景観は松島に似ているようでまた違っている。
 松島は美人の笑顔のような華やかさだが
 象潟は美人が物思いに耽っているようだ。
 寂しさと悲しさを重ね合わせた感じで
 男をふるえさせる女性に似ている」
           ( 佐々木幸綱 芭蕉の言葉より)

芭蕉は合歓の花に中国周時代の傾城の美女西施への
想いを重ねました。

 「 象潟や 雨に西施が ねぶの花 」 芭蕉 
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:44 | 植物

万葉集その六十三(あじさい:オタクサ)

「 紫陽花の 藍極まると 見る日かな 」 中村汀女

「あじさい」という名は「集まる」ことを意味する「集(あ)づ」と
花の色の「真(さ)藍(あい)」から生れたといわれています。

「紫陽花」という漢字を当てていますが、これは誤用で、
平安時代の歌人、源順 (みなもとのしたごう) が
中国産の別種の「紫陽花」という花を「アジサイ」と
思い込んで表記した誤りが現在に至るまで千年以上も
続いており、もはや正すのは不可能でしょう。

「 あぢさいの 八重咲くごとく 八つ代(よ)にを
   いませ 我が背子(せこ) 見つつ偲(しの)はむ 」 
                  巻20の4448 橘諸兄


( あじさいがこの上もなく見事に美しく咲いているこの佳き日。
 あなた様にはこれからも末永くお元気でご繁栄されますように
 お祈りしています。
 これからもあじさいを見る度にあなた様を想っておりますよ)

この歌は丹比国人真人 (たじひのくにひとのまひと) という官人の
慶事を記念する宴席で作者がおどけて女性の立場で詠ったもので
「八重咲く」とは花が密集している様子をいいます。

一方、目出度い象徴の「あじさい」は花の色が良く変わる事から
「七色の花」「七変草(しちへんぐさ)」と呼ばれ
「ころころと変わる信用できない人」の例えにも詠われました。

「 言(こと)とはぬ 木すらあぢさい 諸弟(もろと)らが
      練(ね)りのむらとに あざむかえけり 」 
                    巻4の773 大伴家持


( 言葉を話さない木ですら あじさいのように色の変わる花があるのに、
  ましてや使者の諸弟めの練達の言葉にうまうま乗せられてしまったわい )

 「諸弟」: 使者を勤めた人の人名 
 「練りのむらと(群詞)」: 「練りに練った言葉の数々」

この歌は大伴家持が婚約者の坂上大嬢におどけて贈ったもので
今で言えば
「うまうまと仲人口に乗せられてしまったよ」といったところでしょうか。

幕末に来日したシーボルトは「アジサイ」に自らが愛した日本人妻 
楠本滝(タキ)の名を採って「オタクサ」(お滝さんの意)と命名しました。

シーボルトは日本原産である各種のアジサイを欧州に送り、
これらが盛んに改良されて豪華な西洋アジサイになり、
やがて我国に里帰りします。

かくして和洋様々な「アジサイ」は日本列島津々浦々に咲き誇り、
私たちを楽しませてくれているのです。

「シーボルト 愛でしあじさい 今も尚
      この鳴滝に 多きあじさい  」 太田みね

[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:42 | 植物

万葉集その六十二(藤の木はお酒がお好き)

初夏を彩る藤の木は大の酒好きです。

年に何回かの栄養の補給に培養土と共に酒や酒糟を加えると
元気になり、また生け花では切った藤の木を酒にしばらく漬けておくと
水揚げに良いとされています。

藤は古事記の時代からその美しい花木を愛でられてきましたが、
その繊維から衣料を作り、家具、曳き綱、吊り橋、笊、籠の材料、
さらに染料など多岐にわたり利用された有用の植物です。

750年初夏、大伴家持は配下の官人たちと共に
布勢の海で舟遊びをしました。

岸に舟を寄せると新緑の森の中を薫風が吹き渡り、
藤の花房が波のようにゆらりゆらりと靡いています。

「 藤波の影なす海の 底清み 
    沈(しづ)く石をも 玉とぞ 我(あ)が見る 」
               巻19の4199 大伴家持


( 花房を風に靡かせている藤の花の美しいこと。
それが鏡のような水面に映っているのもまた素晴らしい。
澄み切った水底に沈んでいる石までも藤色の宝石のように
輝いているよ )

布勢の海:高岡市と氷見市にかけて存在した入江で
      現在は殆ど干拓されている

万葉人は郊外の山藤を愛でていましたが、やがて身近な庭に移植して
楽しむようになります。

「 恋しけば 形見にせむと わが宿に
    植えし藤波 いま咲きにけり 」 
            巻8の1471 山部赤人


( あの人が恋しくなったらよすがにして偲ぼうと私の家の
  庭先に植えておいた藤の花が波打って咲いたところです 
  あの人は今頃どうしているでしょうか )

形見という言葉は現代と異なり
「その人の姿、形の代りとして見る拠りどころ」 という意味です。

その女性との関係はまだ続いているのかどうかは分りませんが、
華やかな藤波の背景にしみじみとした哀感がただよってくる歌です。

藤棚が作られたのはずっと後の時代で、当時は主に松の木に
絡ませていました。

そのようなことから聳え立つ松を男性、寄りかかる藤を美しい女性
とみなした歌が多く詠まれるようになります。

 「 馬鹿になさるな 枯れ木じゃとても 
         藤に巻かれて 花が咲く 」 
               ( 広島の古民謡 )

[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:41 | 植物

万葉集その六十「空木(ウツギ):卯の花」

「卯の花の匂う垣根に   
   ほととぎす 早も来鳴きて
   忍音もらす  夏は来ぬ」      
     (夏は来ぬ 一番より) 佐々木信綱作詞


この懐かしい歌は、江戸時代の歌人、加納諸平(かのう もろひら)の
「 山里は 卯の花垣のひまをあらみ 忍び音洩らす ほととぎすかな 」の歌を
下敷きとして作られたといわれています。

ウツギは木の幹が中空であることからその名があり「ウツギノハナ」の
「ツギ」が略されて「ウノハナ」になりました。

青葉が目に沁みる頃、山野のあちらこちらで白い花が咲き、
夏の先駆けとして季節の到来を告げてくれます。

「 五月山(さつきやま) 卯の花月夜 ほととぎす
   聞けども飽かず また鳴かぬかも 」  
            作者未詳 巻10の1953  


(五月の山を月が皓々と照らしています。
月光が卯の花をぼうっと白く浮き立たせて実に美しい。
このような素晴らしい夜に何とまぁ、ホトトギスの声が聞こえてきましたよ。
この澄み切った声はいくら聞いても飽きませんねぇ。
もう一度鳴いてくれないかなぁ。)

五月の青葉の山を「五月山」、「月夜の卯の花」を「卯の花月夜(うのはなづくよ)」
なんと美しい万葉人の詩的造語。

「 佐伯山 卯の花持ちし 愛(かな)しきが
    手をし取りてば 花は散るとも 」 作者未詳 巻7の1259


( 佐伯の山で卯の花を持っていた可愛い子、
 あの子の手を握る事ができたらなぁ。
  美しい花は散るかもしれないけど それでも本望だよ )

佐伯山:広島県佐伯郡の山といわれるが所在不明

折口信夫氏によると卯の花はその年の豊凶を占う花で
山野に長く咲く時は豊作、
長雨続きで花が少ない時は凶作と信じられていたそうです。

卯の花の白い蕾が米粒を連想させたのでしょう。
このような事から人々はこの時期の長雨を「卯の花腐(くた)し」
と呼んでいました。
大切な卯の花を長雨が腐らせてしまうという意味です。

「 卯の花を腐す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
    寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
          19の4217 大伴家持


( 卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、
  その流れの先に木の屑がいっぱい集まっていますよ。
  このような木屑のように私のところに美しい女性が
  集まってくれたらいいのになぁ)

水始(みずはな):「はなみず」とも読み水量の増した流れの先端のこと

「卯の花腐し」は後に「五月雨(さみだれ)」の異名となります。

 「 谷川に 卯の花腐し ほとばしる 」 高濱虚子
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:39 | 植物

万葉集その五十六(馬酔木:あせび、あしび)

「 まぁ これがあなたの大好きな馬酔木(あせび)の花 - -
どこか犯しがたい気品がある。それでいて、どうにでもして手折ってちよっと
人に見せたいような、いじらしい風情の花だ。 

云わば この花のそんなところが 花というものが今よりずっと意味ぶかかった
万葉人たちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、
それらのどの花にも増して いたく愛せられていたのだ 」

               堀 辰雄 大和路 (浄瑠璃寺の春) より

馬酔木はツツジ科の常緑低木で鈴蘭に似た白い壷形の花を鈴なりに咲かせます。
その可憐な姿に惹かれて馬がその葉を食べると酔うことからその名前が付きました。
「あしび」とは「足の痺れ」が縮まったとも言われています。

また古代の人達はその有毒性を活用して煎汁を菜類の害虫駆除等に利用したので
ハモリ(葉守り)とも呼ばれました。

 「我(わ)が背子に 我(あ)が恋ふらくは 奥山の
  馬酔木(あしび)の花の 今盛りなり 」 
             巻10の1903 作者未詳


( 馬酔木の花が今真っ盛りです。いとしいあの人に思い焦がれている私、
  花ガ美しく咲き栄えているように私のあなたに対する想いは
  溢れるばかりでどうしようもありません。
  あぁ人知れず思い悩んでいる私--)

馬酔木はその房々とした花が稲の穂に似ているところから豊穣、繁栄の印とも
され祝歌としても詠われます。

「 鴛鴦(おし)の棲む 君がこの山斎(しま) 今日見れば
    馬酔木の花も 咲きにけるかも 」
       
    巻20の4511 三形王(みかたのおう;役所の長官)


この歌は式部大輔清麻呂という人の誕生日の宴席で三形王が詠ったもので
山斎とは清麻呂邸の庭園とその屋敷をいいます。

( おしどりが仲良く棲む貴方様の素晴らしいお庭。
 今日このお目出度い日にそのお庭を眺めていますと
 何とまぁ馬酔木の花も今を盛りと咲き誇って
 あなた様のご繁栄を共にお祝いしていることです)

この繁栄の象徴である「馬酔木」は日本各地で面白い風習を生み出しました。
以下は 元京都府立植物園館長 麓 次郎氏のお話です。
 
「 鳥取県米子市あたりでは「アセビ」を「ゼニカネシバ(銭金柴)」と言う。
  正月事始に自在鉤の煤をアセビの枝葉で払い、
  これを燃やして団子を煮る。
  「アセビ」の燃える「バリバリ」という音が「ゼニカネ、ゼニカネ」と
  聞こえるとしてその名を付けられ、この音に調和して「
  ゼニカネ ゼニカネ」と叫べば決して貧乏はしないという習俗が
  あったといわれる 」   
                    (四季の花事典より一部抜粋)
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:35 | 植物

万葉集その五十五(すみれ摘み)

「ビオラ・マンジェリカ」この響きの良い言葉は菫(すみれ)に与えられた学名です。
旧満州産のものについて命名されたので頭に「マン」と付いています。

すみれはアジアの温帯から暖帯までかなりの広範囲に分布していますが
とりわけ日本では50種類近くの品種がありスミレ王国といわれています。

スミレの語源はその花の蕾の形が大工が使う墨入れ(墨壷)に似ているため
とされていますが他に「摘まれる」からの転訛、あるいは染料に用いられる
ところから「染みれ」が「すみれ」になった等、諸説あり定まっておりません。

古代、スミレは染料に用いられたほか葉や根は食用、薬用にも供され
春になると人々はこぞって菫摘みにいそしみました。

「 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ
     野をなつかしみ 一夜寝にける 」 
                  巻8の1424 山部赤人


( すみれ摘みにやってきたけれどなんと春の景色の美しいこと
  つい見とれているうちにとうとう一夜をあかしてしまいましたよ)

「野をなつかしみ」というのは「親愛のあまりそこから離れたくない」
という気持ちで
「春の野にすみれを摘みにやってきた。
摘んでいるうちにすみれが綺麗なぁ、可愛いいなぁと夢中になり
ふと気が付いてみたら日が暮れてしまっていたが、
なお立ち去りがたくとうとう一晩すみれのもとで過ごしてしまった」
という意を詠んだものです。

この歌のすみれはただの花ではなく若い乙女という説もあります。
齊藤茂吉は「可憐な菫の花の咲きつづく野を連想すべきであり、
またここに恋人などの関係があるにしても奥に潜(ひそ)める方が
鑑賞の常道のようである」
とされています。

この歌は後世、殊の外愛され、古今和歌集の序、
源氏物語(真木柱、椎木)にも引用され良寛も本歌取りをして
次のような歌を詠んでいます


「 飯(いひ)乞ふと わが来(こ)しかども 春の野に
      菫摘みつつ 時を経にけり 」  良寛(遺墨)


すみれの「すみ」に「住む」と「菫」を掛けています。

( 食べ物を頂戴しようと托鉢に出てきたけれども、
  春の野原で菫を摘んでいるうちについつい
 時間がたってしまったことだ )

その昔、江戸時代に「スミレ」とは「レンゲ(ゲンゲ)」のことであると
強く主張した人がいます。

香川景樹(かげき)という歌人ですが、レンゲはもともと中国産で
日本に渡来したのは室町時代といわれ(柳宗民説) 
万葉時代のレンゲの存在はありえない話でした。

これについて 久保田 淳さんは大変面白い話をしておられます。

「 正岡子規がこの景樹を<再び歌よみに与ふる書>で
<見識の低きこと今更申すまでもなくこれ候> とコテンパにやっつけたのに 
この子規がこともあろうに

 ( 赤人が 野をなつかしみ ねしといふ 菫の花はげんげなるべし ) 
  という歌を詠んでいるのにはこれは驚きました」 
          (花のものいう 新潮選書より)

余談ではありますが園芸品種のパンジー(三色菫)はフランス語の
パンセ(思考)に由来します。
うつむき加減に咲く花の姿が「考える人」を連想させるからなのでしょうか?

「 山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ) 」 

    芭蕉 (野ざらし紀行:大津に出づる道 山路を越えてより)

[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:34 | 植物

万葉集その五十二(花は櫻木)

「櫻」という文字は「木」と「嬰」から成り「嬰」の貝2つは
女性の首飾りを指し「とりまく」という意味があります。

よって櫻は花が木を取りまいて咲く木の事とされています。

「櫻」という文字が初めて使われたのは「日本書紀」においてで
西暦400年、時の天皇「履中帝(りちゅうてい)」が后妃を伴い
秋の船上での酒宴のさなかに時ならぬ櫻の花びらが風に吹かれ来て
酒盃に浮かんだという風雅な光景を伝えています。

櫻の語源は諸説あります。

① 古事記に登場する伝説の女神「このはなさくやひめ(木花開耶姫)」の
  「さくや」が転じて「さくら」となった。
  また「さくや」は開映え(さきはえ)で栄えることを意味する。

② 古代稲作農民生活において山から田の神を迎える季節に
   山に咲く花は田の神の顕現とみられた。
   その花の木が「サクラ」とよばれ「サ」は田の神、稲の神の古名で
   「クラ」は神座を表わす (折口信夫、桜井 満)

③麗(うら)らかに咲くという意味の「咲麗(さきうら)」が転じた 等々

万葉人は満開の桜を見ながらその美しさを愛でます。

 「見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 
     咲きにほへるは 桜花かも 」 
                 巻10の1872 作者未詳


( 春日野に霞が一面に立つ中、輝くばかりに色美しく咲く桜は
  今真っ盛りです)

  さらに「生命の絶頂に散るゆえ殊に愛惜される」という桜観が
  既に出てまいります。

 「 桜花 時に過ぎねど見る人の
      恋の盛りと 今は散るらむ 」 
                巻10の1855 作者未詳


( 桜の花は花の時節が過ぎ去ったわけでもないのに
  見る人が惜しんでくれる盛りだと思って今こそ散るのであろう。)

桜の自生種を「山桜」、園芸種を「里桜」といい現在二百数十種の
桜品があります。

江戸時代、豊島郡(としまこおり)染井村で発見された
大島桜と江戸彼岸桜との自然交配種である「染井吉野(ソメイヨシノ)」は
花の色が艶やかな上、花つきが多く爆発的な人気を呼び
日本全国に流行しました。
この花期が短く、夥しい落花を伴う桜はやがて歌舞伎にも取り上げられます。

小川和佑氏はその著書「桜と日本人」で
<竹田出雲などの仮名手本忠臣蔵(1748年)判官切腹の場の演出に
  「散る桜」を用い 「花は桜木 男は武士」の台詞は
  日本人の桜観を大きく変えた>と述べられています。

その桜観から「主君のために惜しむことなく潔く命を散らす」という
武士の人生観が形成されていきます。

更に近代では戦意高揚に用いられ、「同期の桜」の歌の中で
「見事に散りましょ 国のため」と歌われていきました。

しかしながら古代より王朝の瑞祥、聖樹、女身のきわみとして歌われた桜は
日本人の心の中に落花の美学があったとしても「花よ長く咲け」と祈るのが
農耕民族であった元々の願いでありました。

何故ならば桜は稲の豊作を予兆する神の花であり、花が予定よりも早く散ると
その年の収穫は悪いと信じられていたからです。

桜は日本列島を美しく彩る花であると共にわが民族の生活の中に深く根ざし
我々と共に生きて参りました。

建国以来、数知れぬ多くの人たちによって守り育てられてきた桜木は
これからも益々多くの人達に愛され続けてゆくことでありましょう 

  「さまざまの こと思ひ出す 桜かな」  芭蕉
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:31 | 植物

万葉集その五十一(早蕨:さわらび)

「早蕨の にぎりこぶしを振り上げて
       山の横つら春風ぞ吹く」   
         (四方赤良:江戸時代の狂歌師)


ワラビはウラボシ科の多年草で平地の原野から海抜2,000m前後の
高山まで広く分布し北は北海道から南は九州まで及んでいます。

早春に拳(こぶし)状に巻いた新芽を出します。

上の狂歌は萌え出たばかりの蕨が春風に吹かれていて
その様子が握り拳を振り上げて山の横っ面を引っぱたいて
いるようだと見立てています。(横つら張ると春を掛けている)

ワラビは栄養価が極めて高く煮物や漬物にしたり又その根茎から取った
澱粉は糊やわらび餅の原料として古代から重用されてきました。

天智天皇の第七皇子である志貴(しきの)皇子は
春到来の歓びを生き生きと詠います。

「 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの
     萌え出づる 春になりにけるかも」 
                   巻8の1418


( しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。
  水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。
  あぁもう春だ。待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ)

「歌は心の音楽」これは犬養孝さんの言葉です。
以下、犬養節名解説の一部です。

「 今日、一般に和歌を黙読することに馴れているようだが
  歌は声をあげてうたわれるべきもの。
  この歌も声を出してうたってみれば何と豊かな律動感に
  あふれている事であろうか。
 <垂水の上のさわらびの>と<の>の音を重ねてゆく呼吸は
  ぎくしゃくとしないでとけて流れてよどみない流動感にあふれている。

 その上<萌え出づる・春に・なりに・けるかも>は意味の内容から言えば
 単純なことを律動感あふれて四節にひきのばし、
 あたかも駘蕩の陶酔を思わせるようである。

  作者の志貴皇子は1260余年前に世を去ってしまっているが、
  彼が残した心の音楽はよどみない心のうねりに乗って
  千年の響きにかえって止まないようである」
                ( 犬養孝著 万葉十二ヶ月 新潮文庫より)

「早蕨」で思い出される歌といえばやはり「源氏物語」の早蕨の巻

源氏の君はすでに世を去り息子薫は二十五歳。
薫と共に仏道を学んだ「八の宮」とその娘「姉の大君」の二人に先立たれ、
ひとり淋しく宇治の山荘に残された「中の君」は気持ちが晴れず、
沈みこんで鬱々としています。
そこへ山の阿闍梨(あじゃり:父の友人で有徳の高僧)が
蕨や土筆を風流な籠に入れて贈ってくれたので中姫君は歌を返します。

 「 この春は たれにか見せむ 亡き人の
    かたみに摘める 峰の早蕨 」


「かたみ」は形見と筐(かたみ:竹篭)を掛ける

(亡き父君の形見と思って摘んで下すった山の蕨も
 姉君までお亡くなりなされた今年の春は誰に見て戴いたら
 よいのでせうか。 谷崎潤一郎訳)

この歌によりこの巻は「早蕨」と名付けられました。
また源氏絵の一つとしてよく描かれる場面です。

源氏物語五十四帳の表題の中に万葉集に出てくる言葉が多く使われています。

(早蕨、空蝉、朝顔 花散里、乙女、玉蔓、行幸、藤袴、若菜、雲隠、等)
また物語の中で万葉集の伝説を下敷きとした場面(浮舟)もあり、紫式部も万葉集から
色々な着想を得ていたようです。

また同時代の「枕草子」の作者、清少納言の父、清原元輔は高名な歌学者で
村上天皇の勅命により万葉集の訓読を手掛けた五人のメンバーの一人です。
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:30 | 植物

万葉集その五十(桃李)

 「 桃李云わざれども 
      下(した)自(おの)ずから 蹊(みち)を成す」(史記)


この言葉は
「桃や李(スモモ)は何も言わなくても、その美しい花や美味しい実にひかれて
多くの人が集まり、木の下には自然に小道が出来る。
立派な人格者の周りには自分は招かなくても自然と人が慕い寄ってくることの例え」
とされています。

中国では早くから「桃李」は熟字として使われ美人の形容に「容華桃李の如し」
(芸文類聚)とも用いられました。

日本では日本書紀に616年「春正月に桃李実(みな)れり」
626年「春正月に桃李咲けり」と出てまいります。

万葉時代、宮廷貴族にとって漢詩は必須の教養で唐詩選なども
競って読まれ751年には我が国最初の漢詩集「懐風藻」が編まれます。

越中にあった大伴家持も父旅人の薫陶よろしきを得、深く漢詩を学び
750年着想をえて「桃李」二首の歌を詠いました。

所謂越中名吟の始まりです。

「 春の苑(その) 紅にほふ 桃の花
     下照る道に 出(い)で立つ 少女(おとめ) 」 
                巻19の4139

「 わが園の 李(すもも)の花が 庭に降る
     はだれのいまだ 残りたるかも」 
              巻19の4140


  はだれ:斑雪(まだらゆき)

( 春の盛りの今、庭園には桃の花が咲き誇っています。
  花もまわりも光に映えて紅色に染まるばかり。
  木の下へ つと出てきた娘子もまた全身を紅色に染め
 輝くばかりの美しさです。あぁ何と素晴らしい景色だろう ) 

( あれっこちらの庭園の上に白いものが見えるよ。
 あれは李の花が散っているのだろうか 
 それとも消え残った雪だろうか。
 空を見上げると李が満開でまるで雪のようだね)

この歌は華麗なる桃の花の「紅」 純白な李の「白」の「紅白」を
取り合わせ、さらに父、大伴旅人の名歌

「わが園に 梅の花散るひさかたの 天より雪の流れくるかも」
を踏まえた構成となっており
「まさに美の最高の一つのピークに登りえたと思う (犬養孝)」とまで
賞賛されています。

特に紅の桃と美少女の取合せは正倉院の「樹下美人図」を連想させ
正に幻想の世界です。

さらにこの二首は唐詩選にある劉庭芝(りゅうていし)の「代悲白頭翁」という詩との
関連をも指摘されております。(北陸学院短大 梶井名誉教授) 

「 洛陽城東 桃李の花 飛びきたり飛び去って誰が家に落つ  
  洛陽の女児顔色好し 行く落花に逢(お)うて 長嘆息す 」


この詩はさらにかの有名な

「年々歳々 花相似たり 歳々年々人同じからず」
という成句に続いていき 多くの万葉人に愛唱されたものと思われます。

さて、このような夢のような光景は果たして実在したのでしょうか?

伊藤博、大岡信の両氏は
家持のこの二首は上記のような中国漢詩の詩的感興に裏打ちされていること
及びそのあまりにも美しい情景ではあるが北の国、越中では桃と李が同時に
咲くことはまずありえないなどのことから、この桃李は家持の幻想の世界に
咲いた花で桃の下に立ち出でた美少女も想像上の佳人ではないかと
されています。

多くの万葉人は心の思いのたけを素直に詠いました。
家持は別の次元、つまり創作、文学への道を開拓しつつあったと言えるのです。

この二首を出発点とした越中名吟は爾後、家持の創作意欲をさらにかきたて、
遂に生涯の最高峰とも言うべき作品群の高みへ登り古今和歌集へと
バトンタッチされていきます。
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:29 | 植物