カテゴリ:植物( 200 )

万葉集その四十四(翁草・茂吉・接吻)

立春の歌枕の一つである翁草(おきな草)

その花は紫掛かった深紅色で釣鐘形をしています。
うつむき加減に咲くその姿は可憐な女性を連想させ、古代から多くの人々に
愛されてきました。

花がすむと花柱が白い羽毛状に変わり、それを白頭の老人にみたてて翁草と
言います。
大名行列で奴が持つ毛槍の穂先や禅僧が持つ払子(ほっす)に例えられる事も
あります。

また東国地方では花茎よりも根のほうが長いところから「ねっこ草」と名付けられ
女性の姿態を思わせる花姿から「寝っ娘(こ)」即ち共寝した娘と掛けて詠われます。

 「 芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)なる ねつこ草
     相見(あいみ)ずあれば 我(あ)れ恋ひめやも 」 
                巻14の3508 作者未詳
 

 芝付の御宇良崎は神奈川県の三浦半島とされています。

 ( 三浦崎に咲くねっこ草のような可憐なあの娘ととうとう共寝してしまった。

 ますます想いが募って仕方がないよ。あの娘と会うことがなかったら

 こんなに思い焦がれることもないのに一目惚れだよ。これは )

 近代の歌人齊藤茂吉も万葉人と同じように翁草をこよなく愛し多くの歌を残しました。

 「 おきなぐさ 唇ふれて 帰りしが
      あはれ あはれ いま思い出(いで)つも 」 (赤光)より
 

 若き日の回想を詠ったものです。

 茂吉がいとおしく思い、唇を触れたのは「深紅の花」にですが
 「下句の表現から恋愛的抒情表現として受け止められてもそれはそれでも
 かまわない」と意味深長なことを述べています。

 1922年 茂吉はウイーンに外遊中、生まれて初めてでしょうか、
 「接吻」の場面に出くわし強烈な印象を受けました。

 帰国後その体験を「接吻」と題する随筆に書いています。
 (齊藤茂吉随筆集 岩波文庫)

 茂吉は公園を散歩しているうちに二人の男女が抱き合っている場面に遭遇し
 木陰に身をよせて立ち、じっと観察します。

 < その接吻は実にいつまでもつづいた。一時間あまり経った頃、
    僕は木かげから身を離して急ぎ足でそこを去った。
    「ながいなぁ、実にながいなぁ」こう僕は独語した。
    そして、とある居酒屋に入って麦酒の大杯を三息(みいき)ぐらいで飲みほした。
    そして両手で頭を抱えて「どうも長かったなぁ、実にながいなぁ」こう独語した。
    そこでなお1杯の麦酒を傾けた> とあります。

 さらに接吻という言葉の由来は旧約聖書で英語からの漢訳に「この子に吻接せよ」
 「我に吻接せよ」などあり、この漢訳から思い付いて邦訳で「接吻」としたかも
 しれぬとしています。

 最後に <僕はいつぞや「おきな草 くちびるふれて かへりしが」などという歌を
 こしらえたことがあり、ある詩人は既に「くちふれよ」「くちふれあいし」とも
 用いている > と結んでいるのです。

 一時間にわたる接吻とは茂吉も驚嘆したことでしょうが、
 それにしても、よく動かずにじっと観察していたものだと感心いたします。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:23 | 植物

万葉集その四十(芹:春の七草)

万葉時代「春の七草」はまだ定まっていませんでした。
南北朝時代に四辻善成が「河海抄」で七種の草を選んだのが最初で、
その後歌道師範家として名高い冷泉家に次のような歌が伝えられました。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ 
すずな すずしろ 春の七草 」


日本人は大の野菜好きでありますが日本原産の野菜は極めて少なく、
芹、水菜、蔓菜(つるな) 蕗(ふき) 韮 茗荷 独活(うど) 三つ葉 
山芋 位しかなく、それもほとんど葉菜です。

菜とは「草の茎 葉根の食べられるものの総称」とされています。
数ある若菜の中でもとりわけ芹は我国栽培史上最も古く、
栄養価の高い野菜の一つで今日なお、ほとんど改良の手が
加えられていない昔のままの姿を持つ数少ない貴重な植物です。

万葉人は冬枯れの野菜不足の時期に雪間を分けて
萌えだしたばかりの野草を摘み集め栄養補給に励みました。

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。

班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を
徴収する超多忙の仕事です。

彼は忙しいながらも暇をみて心憎からず想っていた女官に
芹を摘んで歌と共に贈ります。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
夜のいとまに 摘める芹 これ 」  
                   巻20の4455 葛城王


( 昼間は役所の仕事で大変忙しかったのだよ。
  それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

  「あかねさす」「ぬばたま」 :枕詞
  「昼は田賜びて」:賜ぶは賜るの約で天皇に代わって田を支給するので
             こう言ったもの
  「夜のいとま」:勤務時間後の余暇

芹を贈られた女官は次のような歌を返します 

「 ますらをと 思えるものを 太刀佩(は)きて
可爾波(かには)の 田居(たい)に 芹ぞ摘みける 」
巻20の4456    薩妙観命婦(さつのめうかんみょうぶ) 


「可爾波」京都山城町蟹幡の地で地名と蟹とを掛けている

( 貴方様は大変偉いお方だと思っておりましたのになんとまぁ、
  立派な刀を腰に差したまま蟹のように地面を這って
  芹を摘んで下さったのですか。
  それはそれはどうもありがとう)

お互い親しいもの同士が掛け合って戯れたもので、
「苦労して摘んだ芹だから大事に食べて下さいよ」と
些かもったいぶった歌に対しておどけながらも感謝の意を述べています。
当時、芹には強精作用があると信じられていました。
この事を念頭に入れてこの歌を読むとさらに面白味が増しましょう。

春の七草といえば七草粥。

平安時代の七種(ななくさ)粥は七種の穀類など 

米 粟(あわ) 黍(きび) 稗(ひえ) 
篁子(みの=水田に生える野草の実) 小豆 胡麻)で炊かれ、
正月15日(小正月)に食べました。

これはのちに小豆粥として継承されます。

現代の正月7日の朝に食べる七草粥の姿になるのは
鎌倉時代になってからのことです。

春の七草の名前の由来は次の通りです。

芹(せり) 一つのところで競り合って生えるので「せり」
薺(なずな) ぺんぺん草ともいう 
     果実の形が三角形で三味線の撥に似ており
     又、茎を口にくわえて引張って弾くとペンペンと音がする

繁縷(はこべら) 茎が長く連なって箆(へら)のように繁殖する

御形(ごぎょう) 母子草ともいう。茎の端に小さな頭花が球状に集まって

        咲くので子が母にまつわりつく様子を例えた。 

        御形は人形のこと。餅に入れ母子餅と称し
        後に蓬(よもぎ)に変わり現在の草餅となる
仏の座(ほとけのざ) 田平子(たびらこ)ともいい仏の座布団(蓮華)のような
          形をしている

菘(すずな) 蕪 根が球の形をしているので「かぶ」という かぶは頭のこと
清白(すずしろ) 大根 菘の代わり(菘代)ともいう 

なお、農業気象研究等で著名な大後美保氏は栄養補給の点から

「 三つ葉 春菊 レタス キャベツ セロリ ほうれん草 葱 」を

近代七草にと提唱しておられます。
栄養面では良いとしてもこれではとても七草の歌にはなりません。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:19 | 植物

万葉集その三十八(弓絃葉:ゆづるは=ゆずりは)

明治末期、口語自由詩を提唱した河井酔茗(かわいすいめい)は

「ゆずりは」と題する美しい詩をつくりました。

  こどもたちよ、これはゆずりはの木です。
  このゆずりはは 新しい葉ができると
  入れ代わって 古い葉が落ちてしまうのです。

  こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも
  新しい葉ができると無造作に落ちる、
  新しい葉に 命を譲って― 。

  こどもたちよ、
  おまえたちは何を欲しがらないでも
  すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
  太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません。

  世のおとうさん おかあさんたちは
  何一つ持っていかない。
  みんなおまえたちに譲っていくために、
  いのちあるもの よいもの 美しいものを
  一生懸命造っています。 

              (花鎮抄より部分抜粋)


「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれトウダイグサ科の常緑高木です。

春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名が付きました。

その名の由来から子孫永続の願いを込めて大晦日には生け花に用いられ、
またお正月のしめ飾りや鏡餅に添え、縁起物として使われています。

「いにしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
             御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                       弓削皇子(ゆげのみこ) 巻2の111


「御井」は 聖なる泉

この歌は678年持統天皇が吉野に行幸された時、お伴した弓削皇子
(天武天皇第6皇子当時24歳)が都にいる額田王(当時63~64歳)に贈った歌です。

調べ美しく、格調が高い名歌とされています。

額田王は若くして天武天皇と結ばれ、十市皇女をもうけた後、
兄の天智天皇の寵愛をも受けた華々しいラブ・ロマンスの持ち主でありました。

一方、弓削皇子は持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、
他の諸皇子には厳しくあたる治世下にあって人一倍不安と哀愁を感じて
生きなければならない運命でした。

吉野にお伴した彼は天武天皇が在世中額田王と共に訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより
時代の移り変わり、新旧交代する自然のあり方に感慨を示したものと思われます。

従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

( 昔を恋うる鳥でしょうか。
  弓絃葉が茂る泉の上を今、よい声で鳴き渡っていきましたよ)

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
             けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                            額田王 巻2の112


ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があります。

( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
  丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう)

「 年ごとに ゆづりゆづりて 譲り葉の
            ゆづりしあとに また新しく 」   河井酔茗


皆様、良き新年をお迎え下さい。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:17 | 植物

万葉集その三十一(紅葉・黄葉=もみじ)

古代では秋が深まり草木の葉が「もみだされるように」赤や黄色に変わる
ことを「もみつ」と云いました。

「もみつ」が名詞になって「もみち」さらに「もみぢ」と変わり、
今日の「もみじ」は草木の変色をさすと共にイロハカエデを中心とした
カエデ類の樹木名としても使われています。

カエデを漢字で書くときによく「楓」という字を用いますがこれは誤り。

中国から輸入された楓はカエデ科ではなくマンサク科の樹木で「フウ」のことです。
万葉集で「もみち」という言葉を漢字に当てはめる場合は
「毛美知」「母美知」「黄葉」「黄変」「黄反」などの字をあて、紅葉の紅をあてることは
極めて少なく一例しかありません。

大和地方ではコナラやクヌギなど黄色に色づく樹木が多く、
赤くなるイロハカエデなどのカエデ類は少なかったものと思われますが、
黄色のほか赤、褐色に変化する全ての色を「もみち」とよんだようです。

「もみち」が「もみぢ」とよまれ「紅葉」という漢字を常用するようになったのは
平安時代から後のことです。

「 春日野にしぐれ降る見ゆ 明日よりは
      黄葉(もみち)かざさむ 高円(たかまと)の山 」

 巻8の1571 藤原八束 (太政大臣(追贈) 藤原房前の第三子)


春日野、高円山はともに奈良市内。「黄葉かざす」は頭に挿して飾る意を擬人化したもの



( 寒いと思ったら春日野の方に時雨が降っているようですね。
 明日あたりから高円の山も色づいて緑の中に黄色や赤色を
 ちりばめたように美しくなることでしょう。
 まるで山が頭に挿頭(かざし)を挿しているように見えることでしょうね)

万葉人は秋の山々が黄色や赤一色になることよりも緑も混じった
「まだら」になる景色を好んだようで次のようにも詠います。

「 経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず少女(おとめ)らが
   織る黄葉(もみちば)に 霜なふりそね 」     
   巻8の1512 大津皇子(天武天皇第三皇子)


機を織る時は通常縦糸と横糸をきちんと決めて織ります。
この歌はもみじを織物に見立て縦糸も横糸もこれといって決めずに
さまざまな色で織りなした布がもみじだといっているのです。

(紅葉錦のなんとまぁ鮮やかなこと。まるで乙女達が
縦糸も横糸も決めないで気の向くままに織った錦みたいだ。
こんな綺麗な錦の上に霜よ降らないでおくれ)

現在「紅葉」という言葉は色々な意味に使われています。
鹿肉のことを紅葉(もみじ)ということは広く知られていますが
珍しい例では「お茶を濃く味良くたてる」ことを
「紅葉」(こうよう)といい、「濃う好(よ)う」と洒落たもので
広辞苑にも記載されています。

さて、今年も 「林間に酒を暖めて 紅葉を焚く」
紅葉狩に参るといたしましょうか。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:10 | 植物

万葉集その三十(薔薇:そうび=うまら)

世界最古の薔薇はアメリカ大陸で出土された7000万年前の
化石のものとされています。

日本では兵庫県明石の遺跡で「アカサンショウバラ」の
化石が発見されており、100万年以上前のものと推定されています。

紀元前3世紀、エジプトの女王クレオパトラは、こよなく薔薇を愛し、
薔薇の花を浮かべた風呂に入ったり、シーザやアントニウスを迎えるために
部屋中に膝の高さまで薔薇を敷きつめました。

薔薇の野生種すなわちワイルド・ローズは世界でおよそ200種類確認されて
いますが現代の薔薇を作出するのに必要だった基本的な祖先は10種で
すべてアジア産でした。

その10種のうち3種が日本の古来の薔薇もしくはその仲間
(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナス) 2種が中国、残りが小アジアで
ヨーロッパ産は一種もありません。

この10種の薔薇を人工的に組み合わせることで2万種にもおよぶ現在の薔薇を
作り出していったのです。

特に皇帝ナポレオン1世の后妃ジョセフイーヌはマルメゾン宮殿に植物園を作り
研究者が交配を重ね品種改良に多大な貢献をしました。
今日、薔薇が世界中で隆盛を極めているのは彼女の御蔭とまで言われています。

 日本では「薔薇」に棘 茨 荊 薔薇の字を当てますが「薔薇」の字は918年
深根輔仁(ふかねすけひと)が著した「本草和名」が初出で薔薇すなわち「うまら」
であるとしています。


「 道の辺(へ)の うまらの末(うれ)に 延(は)ほ豆の

     からまる君を 別(はか)れか行かむ 」 

    巻20の4352 丈部 鳥(はせつかべのとり)


当時九州筑紫の海岸線や対馬などに唐や新羅の侵入に備えて
防人(さきもり)が配置されていました。
この歌は上総の国(千葉南部一帯)の防人の歌です。

( 道端のうまらの枝先まで這う豆かずらのようにからまりつく

 主君のいたいけない若君。そんな君を残して別れていかなければならないのか)

この防人は主君の若君の近習だったのでしょう。

この歌の解釈を「君」を恋人として

「行かないでとすがりつくあの女を残して、どうしても行かなければならないのか」

としたほうが情緒もありよろしいのですが「君」は男性や主君をさすのが
万葉の習いとされているので、いささか無理がありそうです。

この「うまら」が「そうび」と詠われるのは平安時代になってからで

「 我はけさ うひにぞ見つる花の色を

     あだなるものと いふべかりけり 」 
         
         古今和歌集436 紀貫之


( 私が今朝初めて見たその花の色は、なまめかしいと言うべきでありました。)


 その花とは何の花?
 さうひ(薔薇)と上句に詠み込んだ遊び心。貫之らしい洒落た歌です。

その優雅なる「そうび」の呼び名は現在にまで受け継がれ、北原白秋も
次の歌を残しました。

「 かくまでも 心のこるは なにならむ 
    紅き薔薇(そうび)か 酒か そなたか 」

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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:09 | 植物

万葉集その二十六(壱師:いちし=彼岸花)

「いちし」の花が今日の何であるかは色々意見が分かれております。
「エゴノキ」や「イタドリ」又は「草苺」説など諸説紛々でした。

現在では「彼岸花」とする牧野富太郎博士説が支持されています。
今なお「ヒガンバナ」を「イチヂバナ」と呼ぶ地方があるそうです。

 「 道の辺(へ)の 壱師の花の いちしろく

    人皆(ひとみな)知りぬ 我(あ)が 恋妻は 」

       巻11の2480 柿本人麻呂歌集


 「いちしろく」とは「著しくはっきり」という意味で

 ( 道のほとりの彼岸花はすぐ目に付きますが、私の恋しい妻のことも、

 とうとう世間の人々に知られてしまいました。

 恥ずかしいけれど嬉しい!しかし困ったなぁ)

 真紅に燃えるように咲き、その上、火花を散らしたように
 花びらを広げる彼岸花。
 その花に自分の燃えるような恋心を重ね、激しく想い続けてきたので
 とうとう世間の人に、ばれてしまったと嘆きながらも喜んでいる様子を
 詠ったものです。

 何故嘆くのか?「恋は人知れずに密やかに」というのが当時の人の
 心構えでありました。

 何故ならば、人の口に自分達の名前が乗るとその言葉に霊力が付き
 自分達の魂が他人に移ってしまい、やがてお互いの恋は破綻すると信
 じられていたのです。

 純真な若人の姿を彷彿させる初々しい歌です。


 時代は変わって昭和の初期。

 中村草田男は雄大な彼岸花、別名曼珠沙華の句を残しました。

 「 曼珠沙華 落暉(らっき)も蘂(しべ)を ひろげけり 」

 仏典に記される曼珠沙華は一目みれば悪業を離れられる霊験あらたかな天の花。
 その名をもらった彼岸花は、つんつん伸びる真っ赤な蘂が美しい花の冠を形つくる。

 草田男の落暉とは夕日のこと。夕空に巨大な曼珠沙華が蘂を広げている。
 長谷川 櫂 ( 四季のうた より)


 つまり夕焼けを巨大な曼珠沙華に見立てたのです。すなわち「天の花」


 注: 中村 草田男 (1901~1983) 俳人 高浜虚子に師事。

 「 降る雪や 明治は遠くなりにけり 」の句は有名
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:05 | 植物

万葉集その二十五(秋の七草)

日本の野山は今まさに百花繚乱の美しさです。

1270年前、山上憶良は数ある花の中から秋を代表する
七種の草花を歌に残しました。

「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)

  かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 巻8の1537


 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花

   おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                  巻8の1538


 二首で一組になっており、朝顔は現在の桔梗とされています。

 従来、この歌は「内容そのものは全くの記載文であって別に
 取り上げる程の特色のないもの-土屋文明」という評価を受けていました。

 ところが万葉研究の第一人者である伊藤博は一首目の「指折り」と
 二首目の「また」に注目し、

 この言葉は「あだやおろそかに用いられたはずがない」と
 指摘され画期的な解釈を発表されました。

 即ち「指折り(およびをり)」という言葉は子供に呼びかける俗称で
 「指を折り数えている動作の投影」 「また」とは指を折り数えていて
 5本の指になったところで別の手に変えて数える動作であるとされたのです。

 以下は 伊藤博 解説の大意です。


 時は730年秋。憶良は筑前の国守で71歳。

 当時国守にはその属郡を巡行して百姓の生活、風俗を観るという任務があった。
 この二首も配下の某郡を巡行中、野に遊ぶ子供を目にして呼びかけた言葉、
 その言葉を忠実に投影する歌であったのではなかろうか。

 憶良は花をちぎっては駆け巡る筑紫の子供達に、世に言う秋の七草の花の名
 をつい教えたくなったのであろう。

 とすればこの二首からは秋の光の爽やかに注ぐ野原で大勢の子供達の前に
 相好を崩しながら秋の七草を数え挙げている好々爺憶良の微笑ましい姿を
 思い浮かべることができよう。


 ( 秋の野に咲いている花 その花をいいか、こうやって指を折って数えてみると

 七種の花 そら七種の花があるんだぞ ) 巻8の1537



 ( 一つ萩の花 二つ尾花 三つに葛の花 四つなでしこの花 うんさよう

 五つにおみなえし。ほら それにまだあるぞ 六つ藤袴 七つ朝顔の花

 うんさよう、これが秋の7種の花なのさ) 巻8の1538


伊藤博はこのようにして1270年前の憶良の歌に新たなる生命を
吹き込まれたのです。

時代は変わって昭和10年。時の文人達が
「秋にはもっと美しい花があるではないか、新しい七草の花を選ぼう 」
と新・秋の七草を発表しました。

 「 秋桜(コスモス) 菊 葉鶏頭 彼岸花 白粉花(おしろいばな) 
 秋海棠(しゅうかいどう) 赤飯(あかまんま=イヌタデ) 」 です。

 そうした試みにも拘らず今では「新秋の七草」を知る人も少なくなり、
 万葉時代から受け継がれてきた憶良の秋の七草は今もなお微動だに
 しない地位を占め続けています。

注1、 山上憶良(660~733): 701年42歳の時遣唐使として中国に渡る。
 721年その学識を認められ東宮待講として首皇子(おびとのみこ=のちの
 聖武天皇)の教育係を務めた。万葉初期、大伴旅人と並ぶトップ知識人。
 出自を百済系渡来人とみる説もある。

注2、 短歌は 五七五 七七 を基本形とするが、旋頭歌は
    五七七 五七七を基本形とする。
    万葉集に初めて見える歌体で上三句と下三句を二人で
    掛け合い唱和していたが、やがて一人で詠うようになった。
    本稿の巻8の1538は旋頭歌。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:04 | 植物

万葉集その二十二(秋の香)

秋の香りと言えば松茸。
今や国産ものは匂いだけで辛抱しなければならない程高価で
縁遠くなってしまいました。

茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡ります。

古代人はキノコの毒の有無を判別する知識を苦い経験によって蓄え、
万葉時代に松茸は既に大いに食され又好まれてました。

焼いて醤(ひしお―醤油の原型)を付けたり、塩をふったり、また現在で云う
松茸飯や吸い物にしてその香りと歯ごたえを味わったものと思われます。

 「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて

      満ち盛(さか)りたる 秋の香のよさ 」 

           巻10の2233 作者不詳


高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸。
その松茸が今を盛りとかぐわしい芳香を放っている様子を
詠ったもので、今日では想像も出来ない光景です。

(高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
 眺めもさることながらこの香りの良さ。早く食べたいものだなぁ)

江戸時代でもまだ松茸は健在で

「 松茸の 山かきわくる 匂ひかな」 支考 

などと詠まれています。

昭和初期でも松茸飯は大衆食でした。

「 取り敢えず 松茸飯を焚くとせん 」 虚子

草間時彦の「食べ物俳句館」によると

「この句が作られたのは昭和9年。
その頃松茸飯は一膳飯屋の食べ物だったのである。

だから虚子の句も不意の来客で何もないし、銭も乏しい。
八百屋で松茸を買ってきて松茸飯。
それに豆腐の味噌汁、大根の漬物。
そんなところで.....。というのがこの句の取り敢えずなのである」

と解説されています。

 古き良き時代のお話です。

その後 松茸は昭和28年頃を境に急速に日本の山々から
姿を消してしまったようであります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:01 | 植物

万葉集その十四(さ百合にかける恋)

古代では百合の花は神聖なものと見なされていました。
「さ百合」の「さ」は神聖なものの頭につける言葉で恐らく
あの強烈な芳香を尊んだものと思われます。

古事記には山百合の傍らで初夜を過ごす歌があり、
百合は初夜を飾るべき聖花だったのです。

 「 筑波嶺の さ百合(さゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも

      愛しけ(かなしけ) 妹そ 昼も愛しけ 」 

     巻20の4369 大舎人部千人(おおとねりべのちふみ)


 防人として出発した男が後に残した妻を思慕する歌です。

 夜の床のいとしい妻を思い出し、昼は昼でいとしいと感情を
 高ぶらせているのです。
 大らかな愛に溢れた歌で、その夜床を筑波山に咲く百合の花のようだと
 回想し妻のいとしい姿を重ねています。

 関東常陸筑波の地方では万葉の頃、百合を訛って(ユル)と発音しました。

 「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の

   知らえぬ恋は 苦しきものぞ 」 

     巻8の1500 (大伴坂上郎女)
 

 濃緑の夏の草むらに咲く一点朱色の可憐な姫百合は
 片思いに沈む女を表象しています。

 (草むらにひっそりと美しく咲いている姫百合。
  それはそのまま私の心です。
  あの人に知ってもらえない苦しい片思い。でもじっと耐えましょう。)

 作者は恋多き万葉女流歌人のトップランナー。
 恋の歌ならおまかせの大伴坂上郎女(大伴家持の叔母)。

 穂積皇子、藤原 麿(不比等の息子)等と華々しい恋の遍歴を続け
 84首の歌を残しました。

 一体どなたがこの魅力的な女性を可憐な気持ちにさせたのか大いに
 興味があるところですが、残念ながら恋のお相手は不明です。

「 道も辺(へ)の 草深百合(くさふかゆり) の 後(ゆり)もと言う

  妹が命を 我知らめやも」 
                  巻11の2467 作者未詳


 後(ゆり)という言葉は「後でね」 「今度ね」と婉曲な拒絶を表します。

 女に恋を打ち明けたところ、彼女は羞恥心からか他の理由からか
 「後でまた」 と断ったところ、 男は腹を立てて

 「どうして今ではだけなんだ。
 これから後のあの女の寿命の事なんか俺は知らないぞ」 
 と呟いているのです。

 深草の中に咲く山百合は女性の姿をも表象していますが
 これを「草深百合」という美しい言葉に表現する万葉人のセンスの良さ。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:53 | 植物

万葉集その三(花のメドレー)

春から初夏にかけてのこの頃、自然は昔と変わらぬ花々を咲かせ楽しませてくれます。
万葉人も心を躍らせながら花を愛で、多くの歌を詠い、春を謳歌したことでしょう。
今回は桜、藤、杜若、躑躅のメドレーです。

 「 あをによし 奈良の都は 咲く花の

      にほふが如く 今盛りなり 」     

   巻3-328 小野老(おゆ)


この著名な歌は作者が叙勲のために赴いた奈良から大宰府に帰り、その豪華絢爛たる
都の様子を満開の花々に例えて宴席で詠ったもので、天平文化の最高潮を讃えるに
ふさわしい一首です。

宴席に連なる人たちも都への郷愁がさらに募ったことでしょう。

「あをに」 :青土で顔料、奈良は青土の産地として知られ、奈良の枕詞となる。
「にほふ」: 色が照り映えること、原文が「薫」なので芳香の意も含む。
    
  「 藤波の花は 盛りになりにけり

           奈良の都を 思ほすや君 」  

          巻3-330 大伴四綱
 

 ( 藤の花が真っ盛りですねぇ。あなたさまも藤の花が咲いている奈良の都を
  私同様さぞ懐かしく思っておられることでしょう )
 
 作者が満開の藤を眺めながら大伴旅人(君)に話しかけた歌です。
 紫や白色の花房が連なるさまを波に見立て「藤波」とした万葉人のセンスのよさ。
          
 「 かきつはた 衣(きぬ)に摺(す)り付け ますらをの

     着襲ひ(きそひ) 猟(かり)する 月は来にけり 」 

            巻17-3921 大伴家持


( 今年も杜若の花が咲き始めましたが。相変わらず綺麗な色ですねぇ。
  この花を着物に摺り付けて染め、ますらを達が薬狩りする時がきましたよ。
 それぞれどのような衣装でやってくるのかを待ちどうしいことです )

(かきつはた) =杜若 その花を衣服や紙を染めるのに用いた
(摺りつけ): 花を布に摺り付けて染色したり、カキツバタペインティングをした
(着襲う) :衣服の上に重ねて着る(重ね着) 猟のときの伊達で粋な出で立ち

(猟): 5月5日に薬玉に入れる薬草を取るための薬猟
(薬玉):薬を入れる丸い入れ物

(月) :  お月様の月ではなく今月、来月の月 または時
              
  「 山越えて 遠津(とほつ)の 浜の 岩つつじ

     我が来るまでに 含(ふふ)みてあり待て 」   

            巻7-1188 作者未詳


( 山を越えて遠くまで行くというわけではないが、遠津の浜の岩躑躅よ
  私が帰ってくるまで、蕾のままでずっと 待っていておくれ )

岩躑躅を土地の若い娘と見立て、娘が他人のものにならず初心(うぶ)なままで
嫁がないで待っていて欲しいという男の気持ちを詠んだものです。

(あり待て) : そのまま今の状態で待て
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:42 | 植物