カテゴリ:植物( 206 )

万葉集その五十二(花は櫻木)

「櫻」という文字は「木」と「嬰」から成り「嬰」の貝2つは
女性の首飾りを指し「とりまく」という意味があります。

よって櫻は花が木を取りまいて咲く木の事とされています。

「櫻」という文字が初めて使われたのは「日本書紀」においてで
西暦400年、時の天皇「履中帝(りちゅうてい)」が后妃を伴い
秋の船上での酒宴のさなかに時ならぬ櫻の花びらが風に吹かれ来て
酒盃に浮かんだという風雅な光景を伝えています。

櫻の語源は諸説あります。

① 古事記に登場する伝説の女神「このはなさくやひめ(木花開耶姫)」の
  「さくや」が転じて「さくら」となった。
  また「さくや」は開映え(さきはえ)で栄えることを意味する。

② 古代稲作農民生活において山から田の神を迎える季節に
   山に咲く花は田の神の顕現とみられた。
   その花の木が「サクラ」とよばれ「サ」は田の神、稲の神の古名で
   「クラ」は神座を表わす (折口信夫、桜井 満)

③麗(うら)らかに咲くという意味の「咲麗(さきうら)」が転じた 等々

万葉人は満開の桜を見ながらその美しさを愛でます。

 「見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 
     咲きにほへるは 桜花かも 」 
                 巻10の1872 作者未詳


( 春日野に霞が一面に立つ中、輝くばかりに色美しく咲く桜は
  今真っ盛りです)

  さらに「生命の絶頂に散るゆえ殊に愛惜される」という桜観が
  既に出てまいります。

 「 桜花 時に過ぎねど見る人の
      恋の盛りと 今は散るらむ 」 
                巻10の1855 作者未詳


( 桜の花は花の時節が過ぎ去ったわけでもないのに
  見る人が惜しんでくれる盛りだと思って今こそ散るのであろう。)

桜の自生種を「山桜」、園芸種を「里桜」といい現在二百数十種の
桜品があります。

江戸時代、豊島郡(としまこおり)染井村で発見された
大島桜と江戸彼岸桜との自然交配種である「染井吉野(ソメイヨシノ)」は
花の色が艶やかな上、花つきが多く爆発的な人気を呼び
日本全国に流行しました。
この花期が短く、夥しい落花を伴う桜はやがて歌舞伎にも取り上げられます。

小川和佑氏はその著書「桜と日本人」で
<竹田出雲などの仮名手本忠臣蔵(1748年)判官切腹の場の演出に
  「散る桜」を用い 「花は桜木 男は武士」の台詞は
  日本人の桜観を大きく変えた>と述べられています。

その桜観から「主君のために惜しむことなく潔く命を散らす」という
武士の人生観が形成されていきます。

更に近代では戦意高揚に用いられ、「同期の桜」の歌の中で
「見事に散りましょ 国のため」と歌われていきました。

しかしながら古代より王朝の瑞祥、聖樹、女身のきわみとして歌われた桜は
日本人の心の中に落花の美学があったとしても「花よ長く咲け」と祈るのが
農耕民族であった元々の願いでありました。

何故ならば桜は稲の豊作を予兆する神の花であり、花が予定よりも早く散ると
その年の収穫は悪いと信じられていたからです。

桜は日本列島を美しく彩る花であると共にわが民族の生活の中に深く根ざし
我々と共に生きて参りました。

建国以来、数知れぬ多くの人たちによって守り育てられてきた桜木は
これからも益々多くの人達に愛され続けてゆくことでありましょう 

  「さまざまの こと思ひ出す 桜かな」  芭蕉
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:31 | 植物

万葉集その五十一(早蕨:さわらび)

「早蕨の にぎりこぶしを振り上げて
       山の横つら春風ぞ吹く」   
         (四方赤良:江戸時代の狂歌師)


ワラビはウラボシ科の多年草で平地の原野から海抜2,000m前後の
高山まで広く分布し北は北海道から南は九州まで及んでいます。

早春に拳(こぶし)状に巻いた新芽を出します。

上の狂歌は萌え出たばかりの蕨が春風に吹かれていて
その様子が握り拳を振り上げて山の横っ面を引っぱたいて
いるようだと見立てています。(横つら張ると春を掛けている)

ワラビは栄養価が極めて高く煮物や漬物にしたり又その根茎から取った
澱粉は糊やわらび餅の原料として古代から重用されてきました。

天智天皇の第七皇子である志貴(しきの)皇子は
春到来の歓びを生き生きと詠います。

「 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの
     萌え出づる 春になりにけるかも」 
                   巻8の1418


( しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。
  水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。
  あぁもう春だ。待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ)

「歌は心の音楽」これは犬養孝さんの言葉です。
以下、犬養節名解説の一部です。

「 今日、一般に和歌を黙読することに馴れているようだが
  歌は声をあげてうたわれるべきもの。
  この歌も声を出してうたってみれば何と豊かな律動感に
  あふれている事であろうか。
 <垂水の上のさわらびの>と<の>の音を重ねてゆく呼吸は
  ぎくしゃくとしないでとけて流れてよどみない流動感にあふれている。

 その上<萌え出づる・春に・なりに・けるかも>は意味の内容から言えば
 単純なことを律動感あふれて四節にひきのばし、
 あたかも駘蕩の陶酔を思わせるようである。

  作者の志貴皇子は1260余年前に世を去ってしまっているが、
  彼が残した心の音楽はよどみない心のうねりに乗って
  千年の響きにかえって止まないようである」
                ( 犬養孝著 万葉十二ヶ月 新潮文庫より)

「早蕨」で思い出される歌といえばやはり「源氏物語」の早蕨の巻

源氏の君はすでに世を去り息子薫は二十五歳。
薫と共に仏道を学んだ「八の宮」とその娘「姉の大君」の二人に先立たれ、
ひとり淋しく宇治の山荘に残された「中の君」は気持ちが晴れず、
沈みこんで鬱々としています。
そこへ山の阿闍梨(あじゃり:父の友人で有徳の高僧)が
蕨や土筆を風流な籠に入れて贈ってくれたので中姫君は歌を返します。

 「 この春は たれにか見せむ 亡き人の
    かたみに摘める 峰の早蕨 」


「かたみ」は形見と筐(かたみ:竹篭)を掛ける

(亡き父君の形見と思って摘んで下すった山の蕨も
 姉君までお亡くなりなされた今年の春は誰に見て戴いたら
 よいのでせうか。 谷崎潤一郎訳)

この歌によりこの巻は「早蕨」と名付けられました。
また源氏絵の一つとしてよく描かれる場面です。

源氏物語五十四帳の表題の中に万葉集に出てくる言葉が多く使われています。

(早蕨、空蝉、朝顔 花散里、乙女、玉蔓、行幸、藤袴、若菜、雲隠、等)
また物語の中で万葉集の伝説を下敷きとした場面(浮舟)もあり、紫式部も万葉集から
色々な着想を得ていたようです。

また同時代の「枕草子」の作者、清少納言の父、清原元輔は高名な歌学者で
村上天皇の勅命により万葉集の訓読を手掛けた五人のメンバーの一人です。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:30 | 植物

万葉集その五十(桃李)

 「 桃李云わざれども 
      下(した)自(おの)ずから 蹊(みち)を成す」(史記)


この言葉は
「桃や李(スモモ)は何も言わなくても、その美しい花や美味しい実にひかれて
多くの人が集まり、木の下には自然に小道が出来る。
立派な人格者の周りには自分は招かなくても自然と人が慕い寄ってくることの例え」
とされています。

中国では早くから「桃李」は熟字として使われ美人の形容に「容華桃李の如し」
(芸文類聚)とも用いられました。

日本では日本書紀に616年「春正月に桃李実(みな)れり」
626年「春正月に桃李咲けり」と出てまいります。

万葉時代、宮廷貴族にとって漢詩は必須の教養で唐詩選なども
競って読まれ751年には我が国最初の漢詩集「懐風藻」が編まれます。

越中にあった大伴家持も父旅人の薫陶よろしきを得、深く漢詩を学び
750年着想をえて「桃李」二首の歌を詠いました。

所謂越中名吟の始まりです。

「 春の苑(その) 紅にほふ 桃の花
     下照る道に 出(い)で立つ 少女(おとめ) 」 
                巻19の4139

「 わが園の 李(すもも)の花が 庭に降る
     はだれのいまだ 残りたるかも」 
              巻19の4140


  はだれ:斑雪(まだらゆき)

( 春の盛りの今、庭園には桃の花が咲き誇っています。
  花もまわりも光に映えて紅色に染まるばかり。
  木の下へ つと出てきた娘子もまた全身を紅色に染め
 輝くばかりの美しさです。あぁ何と素晴らしい景色だろう ) 

( あれっこちらの庭園の上に白いものが見えるよ。
 あれは李の花が散っているのだろうか 
 それとも消え残った雪だろうか。
 空を見上げると李が満開でまるで雪のようだね)

この歌は華麗なる桃の花の「紅」 純白な李の「白」の「紅白」を
取り合わせ、さらに父、大伴旅人の名歌

「わが園に 梅の花散るひさかたの 天より雪の流れくるかも」
を踏まえた構成となっており
「まさに美の最高の一つのピークに登りえたと思う (犬養孝)」とまで
賞賛されています。

特に紅の桃と美少女の取合せは正倉院の「樹下美人図」を連想させ
正に幻想の世界です。

さらにこの二首は唐詩選にある劉庭芝(りゅうていし)の「代悲白頭翁」という詩との
関連をも指摘されております。(北陸学院短大 梶井名誉教授) 

「 洛陽城東 桃李の花 飛びきたり飛び去って誰が家に落つ  
  洛陽の女児顔色好し 行く落花に逢(お)うて 長嘆息す 」


この詩はさらにかの有名な

「年々歳々 花相似たり 歳々年々人同じからず」
という成句に続いていき 多くの万葉人に愛唱されたものと思われます。

さて、このような夢のような光景は果たして実在したのでしょうか?

伊藤博、大岡信の両氏は
家持のこの二首は上記のような中国漢詩の詩的感興に裏打ちされていること
及びそのあまりにも美しい情景ではあるが北の国、越中では桃と李が同時に
咲くことはまずありえないなどのことから、この桃李は家持の幻想の世界に
咲いた花で桃の下に立ち出でた美少女も想像上の佳人ではないかと
されています。

多くの万葉人は心の思いのたけを素直に詠いました。
家持は別の次元、つまり創作、文学への道を開拓しつつあったと言えるのです。

この二首を出発点とした越中名吟は爾後、家持の創作意欲をさらにかきたて、
遂に生涯の最高峰とも言うべき作品群の高みへ登り古今和歌集へと
バトンタッチされていきます。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:29 | 植物

万葉集その四十八(柳は緑)

「柳は緑 花は紅」 この言葉は13世紀南宋の
道川(どうせん)という禅僧が
「目前ニ法無シ サモアラバアレ 柳ハ緑 華ハ紅」
と説いたことに由来します。

「すべて あるがまま 自然のままに受け入れる心にこそ
悟りの境地がある」と言う意味です。

その言葉が転じて「春の眺めの美しさ」の例えとして用いられ、
さらに花と柳をあわせて遊里、遊女をさす「花柳」という言葉も生まれました。

柳は生命力が強く、春一番に芽を吹くことから我が国では古くから
長寿や繁栄の象徴とされ、さらにその頼もしい生命力に頼り、
悪い妖気を払う守護神として屋敷の周辺や水辺を取り巻くように植えられました。

 古来「柳」という字は葉が細かくて枝か柔らかく垂れる「シダレヤナギ」に用い
「楊」のほうは葉に丸みがあり枝が堅く上向くヤナギ つまり「ネコヤナギ」や
「ヤマネコヤナギ」に用います。

ネコヤナギは芽が銀色に光り柔らかく猫の毛に見えるのでその名があり
二~三月頃に芽吹き、二ヶ月くらい後にシダレヤナギの花が咲きます。

「うちのぼる 佐保の川原の 青柳は 
       今は春へと なりにけるかも」 
               巻8の1433 大伴坂上郎女


( 春ですねぇ 佐保川の流れに沿ってのぼっていくと柳も
  すっかり芽吹きそよ風に揺れてなんと気持ちの良いこと )

 作家 栗田勇さんは次のような名解説をされています。

「いかにも春が柳の緑となって押し寄せてきているという迫力を感じます。
何故か一本ではなく河岸沿いに新芽がうねっているようです。

本当に躍動するエネルギーのうねりが目に見える歌といえるでしょう。
柳の持っている生命力、芽を吹く不思議な力がせせらぐ流水と一つになって
実感されます」
           「花のある暮らし 岩波新書」より

万葉人は柳の若葉から女性の眉を連想し「柳眉(りゅうび)」という言葉は
美人の代名詞となります。
また女性の美しく細くしなやかな腰を「柳腰」ともいいます。


「梅の花 取り持ちみれば わが屋前(やど)の 
       柳の眉し 思ほゆるかも」      
              巻10の1853 作者未詳


( 梅の花を手折ってじっと見つめていると あの柳の若葉のような
  美しい眉をした新妻が思われてならないよ )

私たちは柳の木をその神秘な生命力にあやかり現在でもなお
「柳の祝い箸」「爪楊枝」
「餅花飾り(米の粉を丸めて作る団子や繭形の餅を柳の木に飾る)」
「結び柳(生け花で柳を輪にして新春に飾る)」など様々な用途に用いています。

余談ではありますが「青柳」という貝があり料理や寿司のネタに使われます。

バカガイの剥き身をいい、足の形が柳の葉に似ており、また千葉県の
青柳で昔たくさん採れたところからその名があるそうです。

また「柳川」という「どじょう鍋」料理がありますが、これは天保時代に江戸の
「柳川」という店で始め、大いに流行ったところからその名が付きました。

従って福岡県の「柳川市」も「柳の下の泥鰌」という諺も
「柳川」という料理名の由来とは無関係のようです。

因みに柳川市の名物料理は「鰻のせいろ蒸し」でこれは
絶品であります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:27 | 植物

万葉集その四十六(つらつら椿から椿姫へ)

「椿」はツバキ科の常緑高木で葉が厚く、つややかなので「艶葉(つやば)の木」が
転訛して「つばき」になった、或いは連なって咲くところから「つらつら椿」とよばれ
「つらつら」が詰まって「つらき」から「つばき」になったとも云われています。

「椿」の字は春に咲く木を意味する国訓で中国では「山茶」と書き中国で使われる
「椿」は日本とは別種の木です。

日本原産である椿の原種は四種あり全国に広く分布する「ヤブツバキ」
積雪地帯に咲く「ユキツバキ」、九州に自生する秋咲きの「サザンカ」、
ほのかな香りをもつ沖縄の「ヒメサザンカ」です。

「 川の上(べ)の つらつら椿 つらつらに
       見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は 」 
            巻1の56 春日老(かすがのおゆ)


   巨勢;奈良県御所市古瀬

( わぁ-椿がきれい! 川のほとりにまるで帯のように赤い花が並んでいる。
 いつまで見ていても飽きないなぁ。本当に巨勢の春の眺めは素晴らしいよ )

古代から椿は聖樹であると伝えられ、古事記に「斉(ゆ)つ真椿(まつばき)=神聖な椿」の
語が見えます。
この歌謡は雄略天皇が新嘗祭の酒宴をされたときに皇后が歌われた歌詞の一部とされています。

日本民族学を創始した柳田国男氏によれば「椿」が北海道以外の全国各地に見られるのは
信仰を広める人々が長い間、椿を聖なる木として携え歩き廻った結果だとのことです。

また椿の木から農具やお椀等が作られ、その種子は椿油に、椿炭は漆工芸の研磨用に
椿灰は草木染めの媒染剤として日常生活に欠くことが出来ない有用の花木であることも
全国に広がった理由の一つと考えられています。

然しながら万葉時代に崇められた椿は平安貴族の好みに合わなかったのか古今和歌集
新古今和歌集には全く登場しません。

椿が再び姿を現すのは鎌倉末期から室町、桃山時代にかけてです。

武家社会や貴族社会の生活様式が確立され住居も武家造りや寝殿造りが一般的になり
連歌や生け花、茶の湯が盛んになるにつれ椿の寂びた奥深い姿が見直されたのです。

豊臣秀吉は伏見城に多数の椿を植えました。茶室に好まれる「侘助(わびすけ)」は
秀吉の朝鮮侵攻の際、侘助という男が持ち帰ったのでその名があり「トウツバキ」系と
みられています。

徳川時代になると二代将軍秀忠が我国椿の普及に大きな役割を果たしました。

椿を好んだ秀忠は江戸城に国中の椿を集めた結果、多彩な品種が生まれ、また
庶民も盛んに栽培をするようになりました。さらに元禄時代(1688~1702)には
空前の椿ブームになり内外の商人達が競って長崎から西欧へ名花の苗や種を輸出します。

椿の西欧での最初の開花はイングランドの南部の温室だそうです。
アメリカにはヨーロッパから渡り、リンカーン大統領在任中(1860~1865)には日本から
直接苗木が送られたと言われています。

西欧の椿ブームの様子を栗田勇さんは次のように生き生きと描写されています。(要約)

「19世紀後半、欧州にこれまた絢爛豪華な大輪の椿ブームを引き起こしました。
その象徴とも云うべきものがフランスのデュマ・フイス(小デュマ)の小説「椿姫」です。
1848年に小説として発表され、翌年戯曲に改作され1952年初演の芝居は大当たりを
取りました。

濃艶な高級娼婦が初めて純粋な恋をするが愛する青年のため身を引き犠牲と成り果てる。
義理と人情の板挟み、それも絢爛たる趣はまるで歌舞伎の舞台のようです。
その芝居を見て感動したイタリアの作曲家ヴェルディは「ラ・トラヴィアータ」 と
題したオペラを作りこれも大当たりとなりました」
                    (花を旅する 岩波文庫)より

注1:「ラ・トラヴィアータ」は「道に外れた女」の意
注2:オペラの初演は歌手のミスキャストにより大失敗。再演で好評を得た

 かくして古代日本の原産「つらつら椿」は品種改良を重ねて今や世界各国で
七~八千種類もの花木が栽培されています。
そして、プラシド・ドミンゴやマリア・カラス達が声高に歌う「乾杯の歌」や
「ああ そは 彼(か)の人か」「さよなら 過ぎ去った日よ」などの美しい歌曲と共に
世界中の人々から愛され続けているのです。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:26 | 植物

万葉集その四十五(梅は母の木)

梅の字は「木」と「毎」の組合せから成っています。
「毎」の原義は母が頭飾りをして正装している姿をさし、
また母の字の中の二つの点(:)は女性の乳房を表し、
子供に対する授乳を強調したものだそうです。

梅が母の木とされたのは「つわり」に酸っぱい実が好まれたから(水上静夫説)と
云われています。

ウメの発音の由来は原産地中国の六朝時代に「梅」を「メエイ」とよんだのが
日本では「ウメ」となり、また唐時代に「梅」を「ンバイ」と発音していたのが
日本に渡り「バイ」という音読みになりました。

梅の歴史は古く今から3200年前の殷代の青銅器からウメの核(サネ)が出土しており
食用、調味料、薬用に用いられ、花の観賞は漢代からと云われています。

日本に初めて到来したのは奈良時代の終わり頃で、九州大宰府の庭で開花しました。

730年大宰府長官の大伴旅人は九州全島から主だった役人を集め官邸で華やかな
梅花の宴を催しました。

「わが園に 梅の花散る ひさかたの
   天(あめ)より雪の 流れくるかも 」 
            巻5の822 大伴旅人


白梅の花散る光景を天からの雪に紛うものとして詠いその美しさを讃えています。

( あれっ 雪かな 
 あぁ梅の花びらがまるで空から雪が降ってくるようで綺麗だなぁ。花の舞ですね )

列席の官人達も負けじと続いて詠います

「梅の花 今盛りなり 百鳥(ももどり)の 
         声の恋(こほ)しき 春来るらし」 

         巻5の834 田氏肥人(でんしのうまひと)
  

 「百鳥」色々なたくさんの鳥

( 梅の花が今満開だ。
  賑やかな鳥のさえずりの心躍る春がまさしくやってきたらしいよ)

 春まだ浅き頃に凛と咲き、ほのかに甘い香りを運んでくる中国渡来の白梅に
 万葉人はまさに欣喜雀躍し、百十八首もの梅の歌を詠みました。

 しかしながら「香り」を読み込んだ歌はたった一首しかなく万葉集不思議の
 一つとされています。

 また紅梅が本格的に渡来したのは平安時代になってからのことです。

 万葉人は「香り」よりも梅と動植物、自然とのかかわりのほうに
 興味を持ち、雪をはじめ鶯、柳、霞、春雨などと取り合わせ
 更に月光の中で梅の花びらが舞い落ちる能の舞台のような歌をも詠みました。

「誰(た)が園の 梅の花ぞも ひさかたの
      清き月夜(つくよ)に ここだ散り来る 」 
                10の2325 作者未詳


「ここだ」 こんなにもたくさん

( どこの方の庭の梅でしょうか。月の光が皓々と照るなかで
  花びらがこんなにもたくさんひらひらと舞い落ちてきますよ。
  空気も澄み切って素晴らしい夜ですね )

この歌は香りは詠みこまれていなくても月夜の中から馥郁たる匂いが
漂ってくる気配を感じさせてくれます。
万葉歌では珍しい雅の世界です。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:24 | 植物

万葉集その四十四(翁草・茂吉・接吻)

立春の歌枕の一つである翁草(おきな草)

その花は紫掛かった深紅色で釣鐘形をしています。
うつむき加減に咲くその姿は可憐な女性を連想させ、古代から多くの人々に
愛されてきました。

花がすむと花柱が白い羽毛状に変わり、それを白頭の老人にみたてて翁草と
言います。
大名行列で奴が持つ毛槍の穂先や禅僧が持つ払子(ほっす)に例えられる事も
あります。

また東国地方では花茎よりも根のほうが長いところから「ねっこ草」と名付けられ
女性の姿態を思わせる花姿から「寝っ娘(こ)」即ち共寝した娘と掛けて詠われます。

 「 芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)なる ねつこ草
     相見(あいみ)ずあれば 我(あ)れ恋ひめやも 」 
                巻14の3508 作者未詳
 

 芝付の御宇良崎は神奈川県の三浦半島とされています。

 ( 三浦崎に咲くねっこ草のような可憐なあの娘ととうとう共寝してしまった。

 ますます想いが募って仕方がないよ。あの娘と会うことがなかったら

 こんなに思い焦がれることもないのに一目惚れだよ。これは )

 近代の歌人齊藤茂吉も万葉人と同じように翁草をこよなく愛し多くの歌を残しました。

 「 おきなぐさ 唇ふれて 帰りしが
      あはれ あはれ いま思い出(いで)つも 」 (赤光)より
 

 若き日の回想を詠ったものです。

 茂吉がいとおしく思い、唇を触れたのは「深紅の花」にですが
 「下句の表現から恋愛的抒情表現として受け止められてもそれはそれでも
 かまわない」と意味深長なことを述べています。

 1922年 茂吉はウイーンに外遊中、生まれて初めてでしょうか、
 「接吻」の場面に出くわし強烈な印象を受けました。

 帰国後その体験を「接吻」と題する随筆に書いています。
 (齊藤茂吉随筆集 岩波文庫)

 茂吉は公園を散歩しているうちに二人の男女が抱き合っている場面に遭遇し
 木陰に身をよせて立ち、じっと観察します。

 < その接吻は実にいつまでもつづいた。一時間あまり経った頃、
    僕は木かげから身を離して急ぎ足でそこを去った。
    「ながいなぁ、実にながいなぁ」こう僕は独語した。
    そして、とある居酒屋に入って麦酒の大杯を三息(みいき)ぐらいで飲みほした。
    そして両手で頭を抱えて「どうも長かったなぁ、実にながいなぁ」こう独語した。
    そこでなお1杯の麦酒を傾けた> とあります。

 さらに接吻という言葉の由来は旧約聖書で英語からの漢訳に「この子に吻接せよ」
 「我に吻接せよ」などあり、この漢訳から思い付いて邦訳で「接吻」としたかも
 しれぬとしています。

 最後に <僕はいつぞや「おきな草 くちびるふれて かへりしが」などという歌を
 こしらえたことがあり、ある詩人は既に「くちふれよ」「くちふれあいし」とも
 用いている > と結んでいるのです。

 一時間にわたる接吻とは茂吉も驚嘆したことでしょうが、
 それにしても、よく動かずにじっと観察していたものだと感心いたします。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:23 | 植物

万葉集その四十(芹:春の七草)

万葉時代「春の七草」はまだ定まっていませんでした。
南北朝時代に四辻善成が「河海抄」で七種の草を選んだのが最初で、
その後歌道師範家として名高い冷泉家に次のような歌が伝えられました。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ 
すずな すずしろ 春の七草 」


日本人は大の野菜好きでありますが日本原産の野菜は極めて少なく、
芹、水菜、蔓菜(つるな) 蕗(ふき) 韮 茗荷 独活(うど) 三つ葉 
山芋 位しかなく、それもほとんど葉菜です。

菜とは「草の茎 葉根の食べられるものの総称」とされています。
数ある若菜の中でもとりわけ芹は我国栽培史上最も古く、
栄養価の高い野菜の一つで今日なお、ほとんど改良の手が
加えられていない昔のままの姿を持つ数少ない貴重な植物です。

万葉人は冬枯れの野菜不足の時期に雪間を分けて
萌えだしたばかりの野草を摘み集め栄養補給に励みました。

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。

班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を
徴収する超多忙の仕事です。

彼は忙しいながらも暇をみて心憎からず想っていた女官に
芹を摘んで歌と共に贈ります。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
夜のいとまに 摘める芹 これ 」  
                   巻20の4455 葛城王


( 昼間は役所の仕事で大変忙しかったのだよ。
  それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

  「あかねさす」「ぬばたま」 :枕詞
  「昼は田賜びて」:賜ぶは賜るの約で天皇に代わって田を支給するので
             こう言ったもの
  「夜のいとま」:勤務時間後の余暇

芹を贈られた女官は次のような歌を返します 

「 ますらをと 思えるものを 太刀佩(は)きて
可爾波(かには)の 田居(たい)に 芹ぞ摘みける 」
巻20の4456    薩妙観命婦(さつのめうかんみょうぶ) 


「可爾波」京都山城町蟹幡の地で地名と蟹とを掛けている

( 貴方様は大変偉いお方だと思っておりましたのになんとまぁ、
  立派な刀を腰に差したまま蟹のように地面を這って
  芹を摘んで下さったのですか。
  それはそれはどうもありがとう)

お互い親しいもの同士が掛け合って戯れたもので、
「苦労して摘んだ芹だから大事に食べて下さいよ」と
些かもったいぶった歌に対しておどけながらも感謝の意を述べています。
当時、芹には強精作用があると信じられていました。
この事を念頭に入れてこの歌を読むとさらに面白味が増しましょう。

春の七草といえば七草粥。

平安時代の七種(ななくさ)粥は七種の穀類など 

米 粟(あわ) 黍(きび) 稗(ひえ) 
篁子(みの=水田に生える野草の実) 小豆 胡麻)で炊かれ、
正月15日(小正月)に食べました。

これはのちに小豆粥として継承されます。

現代の正月7日の朝に食べる七草粥の姿になるのは
鎌倉時代になってからのことです。

春の七草の名前の由来は次の通りです。

芹(せり) 一つのところで競り合って生えるので「せり」
薺(なずな) ぺんぺん草ともいう 
     果実の形が三角形で三味線の撥に似ており
     又、茎を口にくわえて引張って弾くとペンペンと音がする

繁縷(はこべら) 茎が長く連なって箆(へら)のように繁殖する

御形(ごぎょう) 母子草ともいう。茎の端に小さな頭花が球状に集まって

        咲くので子が母にまつわりつく様子を例えた。 

        御形は人形のこと。餅に入れ母子餅と称し
        後に蓬(よもぎ)に変わり現在の草餅となる
仏の座(ほとけのざ) 田平子(たびらこ)ともいい仏の座布団(蓮華)のような
          形をしている

菘(すずな) 蕪 根が球の形をしているので「かぶ」という かぶは頭のこと
清白(すずしろ) 大根 菘の代わり(菘代)ともいう 

なお、農業気象研究等で著名な大後美保氏は栄養補給の点から

「 三つ葉 春菊 レタス キャベツ セロリ ほうれん草 葱 」を

近代七草にと提唱しておられます。
栄養面では良いとしてもこれではとても七草の歌にはなりません。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:19 | 植物

万葉集その三十八(弓絃葉:ゆづるは=ゆずりは)

明治末期、口語自由詩を提唱した河井酔茗(かわいすいめい)は

「ゆずりは」と題する美しい詩をつくりました。

  こどもたちよ、これはゆずりはの木です。
  このゆずりはは 新しい葉ができると
  入れ代わって 古い葉が落ちてしまうのです。

  こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも
  新しい葉ができると無造作に落ちる、
  新しい葉に 命を譲って― 。

  こどもたちよ、
  おまえたちは何を欲しがらないでも
  すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
  太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません。

  世のおとうさん おかあさんたちは
  何一つ持っていかない。
  みんなおまえたちに譲っていくために、
  いのちあるもの よいもの 美しいものを
  一生懸命造っています。 

              (花鎮抄より部分抜粋)


「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれトウダイグサ科の常緑高木です。

春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名が付きました。

その名の由来から子孫永続の願いを込めて大晦日には生け花に用いられ、
またお正月のしめ飾りや鏡餅に添え、縁起物として使われています。

「いにしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の
             御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                       弓削皇子(ゆげのみこ) 巻2の111


「御井」は 聖なる泉

この歌は678年持統天皇が吉野に行幸された時、お伴した弓削皇子
(天武天皇第6皇子当時24歳)が都にいる額田王(当時63~64歳)に贈った歌です。

調べ美しく、格調が高い名歌とされています。

額田王は若くして天武天皇と結ばれ、十市皇女をもうけた後、
兄の天智天皇の寵愛をも受けた華々しいラブ・ロマンスの持ち主でありました。

一方、弓削皇子は持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、
他の諸皇子には厳しくあたる治世下にあって人一倍不安と哀愁を感じて
生きなければならない運命でした。

吉野にお伴した彼は天武天皇が在世中額田王と共に訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより
時代の移り変わり、新旧交代する自然のあり方に感慨を示したものと思われます。

従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

( 昔を恋うる鳥でしょうか。
  弓絃葉が茂る泉の上を今、よい声で鳴き渡っていきましたよ)

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
             けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                            額田王 巻2の112


ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があります。

( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
  丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう)

「 年ごとに ゆづりゆづりて 譲り葉の
            ゆづりしあとに また新しく 」   河井酔茗


皆様、良き新年をお迎え下さい。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:17 | 植物

万葉集その三十一(紅葉・黄葉=もみじ)

古代では秋が深まり草木の葉が「もみだされるように」赤や黄色に変わる
ことを「もみつ」と云いました。

「もみつ」が名詞になって「もみち」さらに「もみぢ」と変わり、
今日の「もみじ」は草木の変色をさすと共にイロハカエデを中心とした
カエデ類の樹木名としても使われています。

カエデを漢字で書くときによく「楓」という字を用いますがこれは誤り。

中国から輸入された楓はカエデ科ではなくマンサク科の樹木で「フウ」のことです。
万葉集で「もみち」という言葉を漢字に当てはめる場合は
「毛美知」「母美知」「黄葉」「黄変」「黄反」などの字をあて、紅葉の紅をあてることは
極めて少なく一例しかありません。

大和地方ではコナラやクヌギなど黄色に色づく樹木が多く、
赤くなるイロハカエデなどのカエデ類は少なかったものと思われますが、
黄色のほか赤、褐色に変化する全ての色を「もみち」とよんだようです。

「もみち」が「もみぢ」とよまれ「紅葉」という漢字を常用するようになったのは
平安時代から後のことです。

「 春日野にしぐれ降る見ゆ 明日よりは
      黄葉(もみち)かざさむ 高円(たかまと)の山 」

 巻8の1571 藤原八束 (太政大臣(追贈) 藤原房前の第三子)


春日野、高円山はともに奈良市内。「黄葉かざす」は頭に挿して飾る意を擬人化したもの



( 寒いと思ったら春日野の方に時雨が降っているようですね。
 明日あたりから高円の山も色づいて緑の中に黄色や赤色を
 ちりばめたように美しくなることでしょう。
 まるで山が頭に挿頭(かざし)を挿しているように見えることでしょうね)

万葉人は秋の山々が黄色や赤一色になることよりも緑も混じった
「まだら」になる景色を好んだようで次のようにも詠います。

「 経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず少女(おとめ)らが
   織る黄葉(もみちば)に 霜なふりそね 」     
   巻8の1512 大津皇子(天武天皇第三皇子)


機を織る時は通常縦糸と横糸をきちんと決めて織ります。
この歌はもみじを織物に見立て縦糸も横糸もこれといって決めずに
さまざまな色で織りなした布がもみじだといっているのです。

(紅葉錦のなんとまぁ鮮やかなこと。まるで乙女達が
縦糸も横糸も決めないで気の向くままに織った錦みたいだ。
こんな綺麗な錦の上に霜よ降らないでおくれ)

現在「紅葉」という言葉は色々な意味に使われています。
鹿肉のことを紅葉(もみじ)ということは広く知られていますが
珍しい例では「お茶を濃く味良くたてる」ことを
「紅葉」(こうよう)といい、「濃う好(よ)う」と洒落たもので
広辞苑にも記載されています。

さて、今年も 「林間に酒を暖めて 紅葉を焚く」
紅葉狩に参るといたしましょうか。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:10 | 植物