カテゴリ:植物( 200 )

万葉集その五百七十 (春菜美味し)

( 早蕨:さわらび  小石川植物園 )
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( 蕨とカタクリの花  森野旧薬園  奈良県 )
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( わらび餅  二月堂内の茶店で 奈良 )
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( 芹    奈良万葉植物園 )
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( 芹の花 夏開花   同上 )
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( ゼンマイ  小石川植物園 )
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( 土筆  又兵衛桜の近くで  奈良県 榛原市 )
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( ヨモギ  葛城古道  奈良県 )
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( ヨモギ餅  長谷寺参道で  奈良県 )
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( 蕗の薹    青森ねぶたの里で )
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( 雪間の菜の花 )
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「 春はきぬ 春はきぬ
  浅緑なる新草(にひぐさ)よ
  とほき野面(のもせ)を 画(えが)けかし
  さきては紅き 春花よ
  樹々(きぎ)の梢を 染めよかし

  春はきぬ 春はきぬ
  うれひの芹の 根を絶えて
  氷れる なみだ今いずこ
  つもれる雪の 消えうせて
  けふの若菜と 萌えよかし 」      ( 島崎藤村 春の歌 )

           (うれひの芹) : 憂ひせりと芹を掛けている

雪がまばらに残る早春の野山で頭をもたげるワラビ、ゼンマイ、蕗の薹。
春の日射しを受けながらスクスク育つセリ、ヨモギ、ニラ、ノビル。
古代の人達はこれらの野菜は栄養価が高く、病気への抵抗力を強くする
薬効成分が多いことを長い間の経験で会得していました。

野菜不足の冬、人々は春の兆しが見えるやいなや、喜び勇んで萌え出づる
春菜を摘みに出かけたのです。

「 -娘子(をとめ)らが 春菜摘ますと 
  紅の 赤裳の裾の 
  春雨に にほひひづちて 通ふらむ 
  時の盛りを- 」    
                  巻17-3969 大伴家持(長歌の一部)

( 乙女たちが 春菜を摘もうと 
 紅の赤裳の裾が
 春雨に濡れて 
 ひときは照り映えながら 
 行き来している
 春たけなわの時  )

「摘ますと」は敬語で「摘まれるとて」 仙女を意識してか。
 ここでは通常語訳とした
「にほひひづちて」 濡れて色がいっそう引き立つさま
「ひづちて」は 濡れて

この歌は作者が大病を患った時、心の友、大伴池主に贈ったもので、
このような美しい光景が見ることが出来ないのは残念だと述べています。
春菜摘みは乙女たちの待望の楽しみであり、その様を見る男達にとっても
何よりの目の保養であったことでしょう。

「 いざけふは をぎの やけ原かき分けて
    手折(たおり)てを来む 春のさわらび 」      賀茂真淵

( いざいざ、今日は荻を焼いた野原をかき分け、頭を出している
      早蕨を手折ってこようぞ )
                       「手折りてをこむ」  手折ってこよう

早蕨とは芽生えたばかりのワラビ。
まだ葉がまいているころの茎は柔らかくアクも少なくて美味い。
灰を加えた水に二日ばかり浸してアクを抜き、ゆでて切りそろえ
昆布締めにして一日寝かすと絶品の酒の肴になり、また乾燥させて保存食にしたのち、
戻して和え物や煮物にします。

「 煮わらびの 淡煮の青を 小鉢盛 」 木津柳芽

8~9月頃、根をとって澱粉の原料にしたものが、ワラビ粉で、
ワラビ餅などに加工されます。
きな粉をつけて食べたり、黒蜜を加えたり、美味しいですねぇ。

「 大仏蕨餅 奈良の春にて 木皿を重ね 」 河東碧梧桐

万葉集での早蕨は一首のみですが、次の歌は屈指の名歌とされています。

「 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの
      萌え出づる 春になりにけるかも」  
                      巻8の1418 志貴皇子(既出
)

( しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。
 水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。
 あぁ、もう春だ。
 待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ )

垂水は瀧、躍動するような軽やかなリズムが心地よく、春到来の喜びを
大らかに詠っています。
このような名歌は現代訳にすると趣が削がれ、ゆっくり口誦するに限るようです。

作者は天智天皇の皇子、当時、天武系が幅をきかす中、肩身の狭い存在でしたが、
天武の血統が絶えた後、その子白壁王が光仁天皇となり現在の皇統に続いております。

「 さすたけの きみが みためと ひさかたの
      雨間に出でて つみし 芹ぞこれ 」    良寛


( あなたさまのために 雨降る中で摘んでまいりました芹ですよ。
  これは )

「さす竹」は貴人に掛かる枕詞で「竹がさし茂る」ことから貴人の繁栄を
祝ってのもの、あるいは「立つ竹」の意で貴人の優雅な姿をたとえたとの説があり、
万葉集で既に使われています。
良寛さんは枕詞、「さすたけ」と雨(あめ)に掛かる「ひさかたの」を万葉から引用し、
さらに次の歌を本歌取りしたものと思われます。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
     夜のいとまに 摘める芹これ 」  
                          巻20-4455   葛城王(既出)


( 昼間は役所の仕事で大忙し。
 それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

「あかねさす」「ぬばたま」は枕詞  
「昼は田賜びて」の「賜ぶ」は「賜る」の約で天皇に代わって田を
支給するのでこう言ったもの 
「夜のいとま」勤務後の余暇

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣、橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。
班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を徴収する重要な仕事です。
彼は忙しいながらも暇をみて日頃から心憎からず想っていた女官に芹を摘んで
歌と共に贈ったのです。
おどけながら詠ったもので、相手は親しい間柄だったのでしょう。

芹は日本各地の湿地、水田、小川などに群生するセリ科の多年草で、
「せりあって葉を出す」ことからその名があるとされています。
数ある菜の中でも我国栽培史上最も古く、栄養価の高い野菜の一つで
今日なお、ほとんど改良の手が加えられていない昔のままの姿を持つ
数少ない貴重な植物。
現在は栽培もされているようです。

「 摘みいそげ 木曽の沢井の雪芹の
               いや清くして うまかるらしき 」   太田水穂


                                        以上
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by uqrx74fd | 2016-03-03 19:38 | 植物

万葉集その五百六十八 (梅いろいろ)

( 吉野梅郷  青梅市  ウイルス発生のため2014年すべて伐採された)
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(  同上  )
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 曽我梅林  小田原市)
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 浜離宮庭園 )
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二月も中旬を過ぎると各地から梅の便りが次々と届いて参ります。
早いものは1月の終わりごろから咲きはじめ、4月上旬まで咲き継ぐ。
中には早咲きの品種なのか、それともポカポカ陽気に誘われたのか、
周りが蕾のままなのに1本だけ満開になっている気が早い梅も見かけます。

この時期になるといつも思い出すのは吉野梅郷(青梅市)。
こんもりとした丘の上に色鮮やかな花を咲かせ、私たちを長らく
楽しませてくれていましたが、2014年、プラムボックスというウイルスに
罹病し、120品種1500本がすべて伐採されました。

まだまだ美しい花を咲かせることができるのに1本残らず切り倒す。
その無念さ、懸命に育ててこられた方々の心情察するに余りあります。
あの華やかな風景を再び目にすることが出来ないことは痛恨の極みであり、
他の梅林にこのようなウイルスが波及しないことを祈るばかりです。

さて今回は万葉集から近代まで、色々な梅の歌を辿ってみたいと思います。
まずは、万葉の庭に咲きだした梅から。

「 春されば まづ咲くやどの 梅の花
     ひとり見つつや 春日暮らさむ 」      巻5-818 山上憶良

( 春が来ると真っ先に咲く庭の梅の花。
 この花をただ一人見ながら、長い春の一日を思う存分過ごすことに
 なりましょうかな )

730年、九州大宰府で催された大伴旅人長官による梅花の宴。
32名の人々が集まり、一人一首づつ詠う我国最初のやまと言葉による歌会で、
文藝史上画期的な試みとされている催しですが、憶良先生は
ただ一人で梅を眺めようかと詠っています。
だが、心優しい作者、主催者を無視するようなことは考えられません。
歌の奥には「あまりにも見事な梅なので、一人で鑑賞するには勿体ない」
という心がこもり主催者に対する賛美を贈っているように思われます。

万葉人は梅を愛し、120首近くの歌を残していますが、香りを詠ったものは
次の1首しか残されていません。
梅が香はまだ歌の題とするには早かったのか、誰も思いつかなかったのか。

「 梅の花 香をかぐはしみ  遠けれど
       心もしのに 君をしぞ思ふ 」 
                      巻20-4500 市原王(既出) 

( あなた様のお庭の梅の香が芳(かぐわ)しく、遠く離れたところまで漂って参ります。
 その香り同様に高いあなた様の人徳。
 私はいつも心からお慕い申しております。)

758年平城京近くの中臣清麻呂宅で催された宴席での歌。
主人は大伴家持とも親しく16歳年上の57歳、式部省の次官です。

歌の作者、市原王は天智天皇の玄孫(やしゃご)で独創的なセンスの持主。
香りがもてはやされた平安時代の先駆をなす一首で、清麻呂の誕生日を寿ぎ、
その人徳を慕う気持を梅の香に託し、且つ女性の立場からの恋歌仕立てに
したものです。

梅が香は平安時代になると多く詠われるようになりますが、表現は洗練され
内容も複雑になってまいります。

「 色よりも 香こそあはれと 思ほゆれ
    誰(た)が袖ふれし 宿の梅ぞも 」  
                           よみ人しらず 古今和歌集

( お庭の梅は色もさることながら 香りが特に素晴らしいと思われます。
 いったいどんな素晴らしい方が袖をふれて香りを残されたのでしょうか )

女性の家を訪ねると馥郁と梅の香りが漂っている。
もしや自分以外の男が訪ねてきたのかしらと様子を窺う作者。
なかなか手が込んでいますね。

「 わがやどの 梅の初花 昼は雪
      夜は月かと 見えまがふかな 」  
                            よみ人しらず 後撰和歌集

終日梅見を楽しむ作者。
初花を雪か月かといとおしむ。
白梅を雪に見立てるのは万葉時代に多用されている手法です。

「 春の夜は 軒端(のきば)の梅を もる月の
     光も薫る 心地こそすれ 」 
                           藤原俊成 千載和歌集

軒端から月の光が洩れている。
その光さえも梅が薫るようだと詠う作者。
さすが垢抜けした美しい幻想の世界です。

軒端: 日や雨などを防ぐため窓、縁側、出入口などの上に設けた小屋根の端
    
近代になると生活に密着した歌も多く登場します。

「 湯の宿に 一人残りて 昼過ぎの
      静かなる庭の 梅を愛すも 」    伊藤左千夫

温泉に浸かりながら庭の梅を眺める。
燗酒がかたわらに。
いいですなぁ。

「ほのぼのと 明けゆく庭に 天雲(あまぐも)ぞ
    流れきたれる しら梅散るも 」      石川啄木

啄木さんも万葉集も勉強されていたと思われる一首。
次の歌の本歌取りではなかろうか。

「 わが園に 梅の花散る ひさかたの
    天(あめ)より雪の 流れくるかも 」 
                    巻5の822  大伴旅人(既出)

( あれっ 梅の花びらが空から降ってくる。
  まるで雪が流れてくるようだね )
 
ひらひらと舞い落ちてくる花びらが風にあおられて吹き上がり、
やがて地面を白く覆い尽くしてゆきます。
花が「流れる」という斬新な表現は万葉時代既に使われていたのです。

ざっと万葉時代から近代まで駆け抜けましたが、歌の表現、技巧は違っても
梅を愛する人の心は同じでした。

清楚で凛とした気品を持ち、百花に先駆けて咲く梅は当初、食用、薬用として
中國からもたらされた実用第一の植物でした。
万葉集で「うめ」の漢字表記は「烏梅」が多く、梅の実が烏(カラス)のごとく
真っ黒に燻した「うばい」という漢方薬や紅染の触媒剤であったことが
示されています。

花の鑑賞は後に文人たちの間で起こり、漢詩から始まりましたが、
大宰府の梅花の宴で「やまと言葉」による歌会で詠われて以来、
我国独自の境地に変化し、今日に至っております。

「 むめがかに のつと日の出る 山路かな 」 芭蕉

    むめがかに: 梅が香に

( 夜明けの山路は清冷の気に満ち、余寒が頬に冷たい。
 どこからか梅の香が漂ってきたとき、
 彼方の雲を分け のっと朝日が射し出た。 ) 「 芭蕉全句  小学館より」
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by uqrx74fd | 2016-02-19 06:48 | 植物

万葉集その五百六十六 (玉藻と海苔)

( 養殖海苔発祥地大森には問屋が多く残る)
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( 大森海苔 名産御膳乾海苔所と記されている )
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( 海苔の保存箱  お茶屋が海苔屋を兼業しているのは保存技術を生かせるから
              : 大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔干し  大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔船からの採取 第2次大戦後   同上)
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( 荒波で散乱した海苔を玉網ですくい取る作業 (ふっきり拾い) 同上
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( ヒビ建て  ナラやクマギの枝に海苔の胞子を付け養殖する 高下駄を履き
         太い棒を突き立て海底に穴を開けてヒビを突き立てる   同上)
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( 海苔の養殖風景  震災前の相馬双葉 )
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( 生きている海苔 大森海苔のふるさと館 水槽 )
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( ホンダワラの見本  市川万葉植物園 )
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( 羅臼昆布 )
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( 若布  鎌倉材木座 )
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( 東京湾での海苔つくり風景:江戸時代  柴田是真 諏訪神社に奉納 大森海苔のふるさと館)
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玉藻とは美しく、立派な藻の意で海藻の総称とされています。
ミネラルの宝庫、コンブ、ワカメ、アラメ、ミル、ヒジキ
風味がよいアマノリ、アオノリ、アサオ、
寒天に加工できるテングサ、フノリなど。
採集しやすく、栄養に富み、乾燥すれば持ち運びが容易な海藻は
昔も今も貴重な食材です。

延喜式によると藻の料理は醤(ヒシオ)、酢、飴、酒などの調味料を使い、
ナス、マメ、ナギ、ショウガ、ノビル、などと煮て和え物にしたり、
酢の物、吸い物など現在と変わらない食べ方をしていたようです。

万葉集では74首の藻の歌が見られ(内玉藻 57首)、身近で生活に必要不可欠な
食材であったことが窺われますが、藻そのものを詠ったものは少なく大半が恋の歌。
次の歌は藻刈を詠った数少ない例外で、百人一首で有名な「これやこの」という
言葉が既に出てまいります。

「 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に
   玉藻刈るとふ 海人娘子(あまおとめ)ども 」
                           巻15-3638  田辺秋庭


( これがまぁ、名にし負う鳴門の渦巻き。
そんな激しい渦巻きに掉さして玉藻を刈るという,海人娘子たちなのか )

新羅に派遣された使人が鳴門にさしかかった時に目にした光景。
名だたる鳴門の渦潮をものともせず、小舟を巧みに操って玉藻を刈る
娘たちに驚嘆し、褒めたたえています。
当時「藻刈舟」に乗り、竿に鎌を括り付けて海に靡く海藻を
刈り取っていましたが、女性が鳴門の渦潮逆巻く危険な場所にまで
出かけていたとは信じられないことです。
このような光景を目の当たりにした作者が驚嘆したのも無理もありません。

( ご参考:百人一首 

  「 これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも 逢坂の関 」  蝉丸 )

「 風高く 辺(へ)には吹けども 妹がため
         袖さへ濡れて 刈れる玉藻ぞ 」 
                            巻4-782 紀郎女(きのいらつめ)


( 風が高く吹き渡り岸辺に激しい波がよせていました。
 でも、これは、あなたのためにと思って袖まで濡らして
 刈り取った藻ですよ。)

こちらは磯の岩礁に貼りついた海藻を鎌で刈り採ったもの。
詞書に藻に何かを包んで友に渡したとあり、親しい女友達に贈り物をしたときに
添えた歌のようです。
乾いた海藻に海産物でも包んだのでしょうか。
藻でプレゼントを包んだというのも奇抜な趣向が面白く、受け取った女性は
さぞ驚き喜んだことでしょう。
当時の女性の髪は長く、緑なす黒髪にはヨードを大量に含む海藻を食することが
何よりも効果的でした。

「 荒磯(ありそ)越す 波は畏(かしこ)し しかすがに
      海の玉藻は 憎くはあらずて 」
                           巻7-1397 作者未詳

( 荒磯を越す波は恐ろしい。
 でも、波に寄せられる玉藻は決して憎くはないんだよ )

こちらは恋の歌、美しい女に惚れた男が女を玉藻に譬え、
どんなに苦難があろうとも荒波を乗り越えて結ばれたいと願っています。
当時、娘の結婚については母親の発言力が強かったので、
何らかの事情で猛烈に反対されていたのかも知れません。

「 花のごと 流るる海苔を すくひ網 」  高濱虚子

海苔は太古の時代から食されていたと推定されていますが、文献での記述は
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」の
「ヤマトタケルが常陸国乗浜で海苔を干しているのを見た」
「出雲国風土記」の
「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬひのこほり:島根県出雲)がもっとも優れている」
などに見られ、さらに公式文書としては、701年に公布された大宝律令に
税(調)の対象として紫菜(のり)の貢納を定めた記述などがあります。

当時は生海苔か、素干しだったので日持ちがせず、極めて高級品として
扱われていました。
因みに「のり」の語源は、生海苔のぬるぬるした感触をさす「滑(ぬら)」が
転訛したものとか。

鎌倉時代、源頼朝が伊豆名産の海苔を4回にわたって朝廷に献上し、
以来、岩海苔は贈答用に使われ、室町時代は僧坊料理や喫茶の茶うけとしても
食されました。

「 海苔の香や 障子にうつる 僧二人 」 
                      梅室 (ばいしつ:江戸末期の俳人)

今日の一般的な「板海苔」の誕生は江戸時代からで、「ヒビ」といわれる
生簀の柵で養殖がはじまり、生海苔を細かく刻んで水に溶かし、
紙漉の要領よろしくスノコで薄く延ばして作る製法が確立すると
生産が飛躍的に向上し、巻きずしなど江戸っ子には欠かせないものになりました。

昭和24年、イギリスの海藻学者ドリユー女史が海苔の糸状体を発見。
これにより海苔のライフサイクルが解明され、不確定な天然採苗に変わり
人工採苗が実用化され大量生産が可能となりました。

2月6日は海苔の日。
この日は、大宝律令が施行された大宝2年1月1日を西暦に換算すると
702年2月6日になるとのことで、昭和41年、海からの贈り物、
海苔に対する感謝の気持ちを込めて全海苔漁連が定めたそうです。

  「 海苔あぶる 手もとも袖も 美しき 」 滝井孝作
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by uqrx74fd | 2016-02-05 06:30 | 植物

万葉集その五百六十二 (玉箒:たまばはき)

( 玉箒:たまばはき  現代名 コウヤボウキ  この枝を束ねて箒を作る  奈良万葉植物園)
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( 同上 )
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( コウヤボウキの花  秋9~10月に咲く   かんな屑のような花穂が可愛い 同上)
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( 玉箒   正倉院、複製が東京国立博物館に収蔵されている )
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玉箒はキク科の落葉低木で、葉が落ちた後の枝を束ねて箒にし、ガラス玉の
飾りを付けたことからその名があります。
元々、蚕の床を払う用具とされていましたが、次第に華美になり装飾品になったようです。

現在名はコウヤボウキ。
その昔、高野山で竹を植えることを禁じていたので、この植物の枝を
箒にしたことから命名されたとか。
何故、竹を植えることが禁じられたかというと、竹は筍が育ち、色々な用具の
材料になることから、人間の欲望を生じさせるものとされ、戒律が厳しかった
空海の寺ならではのことです。

万葉集では2首登場し、一首は新春を寿ぐ下賜品、残りは単なる箒として
詠われています。

「 初春の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき)
   手に取るからに  揺らく玉の緒 」 
                          巻20-4493 大伴家持 (既出)


( 初春の初子の今日、お上から玉箒を賜りました。
  手に取ると玉がゆらゆらと揺れ妙なる音を立てます。 
  何とめでたい佳き日でしょか )

玉の緒とは玉を通した紐。
古代、玉は命、魂とされ、緒に貫くことにより生命の永続を願ったのです。

華やかに「初春の」「初子(はつね)の」「今日の」と「の」で繋いだ
流れるようなリズムが快く響き、玉がかすかに触れ合う音、「たまゆら(玉響)」が
いまにも聞こえてきそうな新春にふさわしい名歌です。

この歌の詞書によると次のようなことが記されています。
『 758年正月3日の最初の子の日に宮中で孝謙天皇主催の農耕、養蚕を
勧奨する行事が催され、農耕の具である辛鋤(からすき:鋤)と
蚕の床を払う玉箒が神前に供えられ、その年の収穫の豊かならんことを祈られた。
その後、伺候している王族や官僚たちに「玉箒」を下賜され、
宴席で「自分たちの技量に応じそれぞれ自由に歌をつくって披露せよ」と命じられた。
しかしながら、(家持は行事を司る部署であったためか忙しく)、その折の歌を
手に入れることが出来なかった 』

なお、この日に使われた「玉箒」(子日 目利箒:ねのひの めとき の ほうき)は
東大寺から皇室に献上され現在、正倉院に、また、その複製品が
東京国立博物館に収められています。

根元を金糸で束ねた美麗なもので当時の華やかな宴会の様子が偲ばれますが、
色とりどりに飾られた瑠璃(ガラス)は、ほとんど脱落して2~3個の残すのみです。

「 玉掃(たまばはき) 刈り来(こ) 鎌麻呂 むろの木と
     棗(なつめ)が本(もと)と かき掃(は)かむため 」 巻16-3830 
                            長忌寸 意吉麻呂(ながのいむきの おきまろ)


( 鎌麻呂よ 箒にする玉掃を刈ってこい。
 むろの木と棗(なつめ)の木の根元を掃除するために )

「 玉掃 鎌、むろの木 棗(なつめ) 」を詠めといわれ、
  清掃を主題にまとめた宴席での歌。

「棗」は「そう」とも訓み「掃」「早」を懸け「掃除のために早く刈ってこい」
さらに、「刈り」(カリ)、「来」(コ) 、鎌麻呂(カママロ)と「カ」行を重ねた
機知ある一首です。

「むろの木」はヒノキ科ビャクシン属の針葉樹で「実が多くつく」
すなわち「実群(み むろ)」の意からその名があるといわれています。

葉は硬質。鋭く尖っていて、触ると痛いので、昔の人は鼠の通り穴に置いて
その出没を防いだことから「ネズミサシ」、「ネズ」の別名があり、
漢方ではその実を杜松子(としょうじつ)といい利尿、リュウマチに薬効ありと
されています。

更に棗(なつめ)の枝にも棘があり、そのような歌を即座に思い浮かべることが
出来る作者は大変な才能の持主。
宴席の人気者だったことでしょう。

「 玉ばはき 星を見るにも 君が代は
         ちりおさまりて  いやさかへなん 」 
                               権僧正公朝


( あなた様の代は これから 星のように輝き、
 玉箒で払いのけた塵が散りおさまるごとく
 大いに栄えることでございましょう。)

      新しい年が皆様にとって良い年でありますように
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by uqrx74fd | 2016-01-08 06:17 | 植物

万葉集その五百六十 (十両:ヤブコウジ)

( 十両:ヤブコウジ 市川万葉植物園  千葉県 )
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(  同  六義園  東京都 )
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( ツルヤブコウジ 横に伸びる珍しい品種  奈良万葉植物園 )
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( 千両 黄色、赤色  皇居東御苑 )
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( 万両  市川万葉植物園  )
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( 手前 十両:ヤブコウジ 左:千両  右:百両  後方:万両  浜離宮庭園 )
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( 手前右  十両 
     左  一両:アリトウシ:蟻も通さない細かい刺があるのでその名があるが
        お金が年中あり通しでめでたいとされている 
  中央:百両 後方左:千両   同右:万両     六義園 )
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( 同上説明文  画面をクリックすると拡大出来ます)
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( 龍の髭  奈良万葉植物園  )
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「 鶺鴒(せきれい)の 来鳴くこのごろ 藪柑子
    はや色づきぬ 冬のかまへに 」    伊藤左千夫


十両の正式名は藪柑子(やぶこうじ)、古くは山橘とよばれ、高さ10㎝~30㎝の
常緑小低木です。
夏に白または淡緑色の小花を咲かせたのち青い実をつけ、晩秋霜下りる頃
鮮やかな赤色に熟します。
藪の中で自生し、葉の形が蜜柑に似ているのでその名があるそうですが、
鮮やかな紅色、丸々とした可愛い実はサクランボのよう。

同じヤブコウジ科で葉の下に実が付く万両、百両。
葉の上に実が付くセンリョウ科の千両。
メギ科の南天。
ともに花の乏しい冬を彩り、生花にも無くてはならない存在です。

万葉集での山橘5首、いずれも美しい色の実を愛でたものばかりで、
花を詠ったものはありません。
5mm程度の小花ゆえ、目立たなかったのでしょうか。

「 消(け)残りの 雪にあへ照る あしひきの
     山橘を つとに摘み来(こ)な 」  
                        巻20-4471 大伴家持


( 幸い消えずに残っている白い雪に映えて、ひとしお赤々と照る山橘、
 その実を土産にするため、採りに行こう )

家持難波出張の折の歌。
眼前の残雪に映える山橘を見ながら、帰途、山中の藪で美しい実を
付けているさまを想像し、奈良の都で留守番をしている妻への土産にしたいと
思っています。
赤と白の対比が鮮やかに印象に残る一首。

「あへ照る」: 雪と山橘が互いに照り映えているさま
「つと」: 藁に包んだ土産品

「 あしひきの 山橘の 色に出でて
     我(あ)は恋ひなむを 人目(ひとめ)難(かた)みすな 」
                                   巻11-2767 作者未詳


( 山の木陰の山橘の真っ赤な実のように、私の恋心はあたりかまわず
 顔に出してしまいそうだ。
 なのに、あなたは人目を気にするなんて!
 周りのことなんか気にしないでくれ 。)

「色に出でて」 山橘の赤い実のように人目につく。
「人目 難(かた)みすな」 人目に立つのを難儀に思ったりするな

 恋は秘密にと云うのが古代の流儀。
 なのに、もう我慢できないと訴える男。

「 あしひきの 山橘の 色に出(い)でよ
    語らひ継ぎて  逢ふこともあらむ 」
                           巻4-669 春日王


( 鮮やかな赤色の実をつけている山橘。
 その色のように いっそ気持ちを表に出して下さい。
 もう人目を忍ぶのはやめましょう。
 そうすればいつでも逢えるし、話もできるではありませんか。)

「なまじ人目をはばかり想いを秘めていては、いつ逢えるか分からないので
いっそのこと、思いのたけを出しましょうよ。
山橘は秋から冬にかけて青から鮮やかな赤色に変わるではありませんか。
我々もそのように変身しましょう」
と詠う作者は天智天皇の孫。

相手の女性の素性は不明ですが禁断の恋だった?

「 紫の糸をぞ 我が縒(よ)る あしひきの
    山橘を 貫(ぬ)かむと思ひて 」
                       巻7-1340 作者未詳(既出)


( 紫色の糸を私は今一生懸命に縒(よ)りあわせております。
  山橘の赤い実をこれに通そうと思って )

「山橘を貫く」は好きな相手と結ばれることをも暗示しています。
 小さな実に糸を通して薬玉を作り、惚れた相手と結ばれることを願う女心。
 赤い実が燃えさかる恋の炎を象徴しているようです。

山橘は群青色の山菅(龍の髭)と並べると色の対比が鮮やかな上、
厳寒の中を生き抜く逞しさをもつので、その生命力にあやかり、
髪飾りにしたり、祝い事のご祝儀に添えて用いられたそうです。

今年も数々の庭園や部屋の生花で新年の彩りをそえてくれることでしょう。

    「 遠き日の 小さき恋や 藪柑子 」 鈴木龍江
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by uqrx74fd | 2015-12-24 19:52 | 植物

万葉集その五百五十五 (尾花)

( 朱雀門前で靡く尾花   平城宮跡  奈良 ) 
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(  同上 )
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(  正歴寺への道の途中で   奈良 )
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(  石舞台公園  飛鳥  奈良 )
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(   同上  )
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(   同上 )
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(   同上 )
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(  仙石原    箱根 )
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( 尾花に寄生するナンバンギセル  高松塚公園  飛鳥 )
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(  尾花に寄り掛かる萩  石舞台公園   飛鳥 )
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「 たけたかく 芒(すすき)はらりと 天の澄み 」 飯田蛇笏

万葉集で秋を彩る植物と云えば黄葉と秋の七草。
             (萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗)
中でも萩は圧倒的な人気を誇り141首も詠まれています。
ところが万葉人の中には次のように詠っている風流な御仁もいるのです。

「 人皆は 萩を秋と言ふ よし我れは
      尾花が末(すえ)を 秋とは言はむ 」 
                         巻10-2100 作者未詳(既出)


( 世の人々は 萩の花こそ秋を代表するものだという。
 なになに、俺様は尾花の穂先こそ秋の風情だと言おうではないか )

ススキの穂が波のように光りながら銀色にきらめく。
作者は日本人の心の風景とも云うべき芒が風に吹かれて靡くさまに
最高の秋らしい美観を見出しているのです。

この歌を年来の友人に紹介すると次のようなコメントをくれました。

「 実はボクも萩ではなく芒派です。
  夏の終わりごろ、まだ猛暑が続いていても芒が真新しい赤みがかった穂を
  出しているのを見かけると秋を感じます。
  写真の場合は順光で撮ることは少なく透過光による美しさを出すために
  ほとんどの場合、逆光で撮ります。 」

さすがカメラマン、穂が出たばかりの芒は赤いということも知っていました。
古代の人が「まそほ(蘇芳色)の芒」と呼んでいたものです。
因みに秋の七草で黄色は女郎花のみ。
あとはすべて紫がかった薄紅色。
万葉人の紫に対する憧れは大なるものがありました。
  
注: 紅葉は特定の木を指すものではなく、木々が色づいた様をいうので植物数は
   参考として取り扱われ136首。
   尾花35首 葛 20 撫子26 女郎花 15 藤袴1 桔梗(朝顔) 5首。

「 はだすすき 穂には咲き出ぬ 恋をぞ我がする
      玉かぎる ただ一目のみ 見し人ゆゑに 」
              巻10-2311  作者未詳 (旋頭歌)


( はだすすきがまだ穂には咲き出していないように
  私はそぶりには出さない秘めた恋をしています。
  玉がちらっと光るように ただ一目だけ見たあの人ゆえに )

「はだすすき」は「肌すすき」で穂が皮ごもりしている芒。
 8月~9月にかけて穂を出す芒は、葉鞘につかえてなかなか飛び出せません。
 やがて大きく膨らんで横から皮を破ってちぢれた花穂が恥じらうように顔を出します。

「 秋津野に 尾花刈り添へ 秋萩の
       花を葺(ふ)かさね 君が仮蘆(かりほ)に 」
                巻10-2292 作者未詳

( 秋津野の尾花を刈り添えて、秋萩の花をお葺きあそばせ。
  あなたさまの仮のお住まいに )

秋津野は持統天皇が好んだ吉野離宮があったところ。
吉野へ旅立つ男に仮の住まいに萩の花をのせて私を思い出して欲しいと
詠ったようです。
風雅な女性ですね。
男はお供の一人だったのでしょうか。
大人数で宿が足りず仮小屋に滞在した?

ここでは尾花が屋根葺きの材料に使われていたことを教えてくれています。

「 さを鹿の 入野のすすき 初尾花
    いづれの時か 妹が手まかむ 」
                           巻10-2277 作者未詳


( 雄鹿が分け入るという入野のすすきの初尾花
 その花のように初々しい子
 一体いつになったらあの子の手を枕にすることができるのだろうか)

相手はまだ少女。 
成人して結婚できる日を待ち焦がれている男。
入野は奥まった山の、実り豊かな野の共有林であることが多いそうです。

「 ほほけたる 尾花に風の 遊ぶ見ゆ
               尾花拒まず またあそぶらし 」    斎藤 史


「ほほけたる」 乱れほどけた

万葉人は芒の生態をよく観察し、穂が出ていないものを「はだすすき」
穂が旗のように靡くものを「はたすすき」、葉の細いものを「細野(しの)すすき」、
花のように見える「はなすすき」、屋根葺く材料を「草(かや)すすき」と区別していました。
「尾花」も花穂が動物の尻尾に似ているところから付けられたものです。

   「 しろがねの こがねの芒 鳴りわたる 」 平井照敏
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by uqrx74fd | 2015-11-21 05:55 | 植物

万葉集その五百五十四 (黄葉)

( 談山神社  奈良 )
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( 長谷寺    奈良)
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( 浄瑠璃寺   京都)
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(  同上 )
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( 大湯屋   二月堂参道の途中で   奈良 )
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( 吉城園    奈良 )
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( 春日大社参道途中のお休み処    奈良 )
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( 東大寺指図堂  奈良 )
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( 奈良公園  )
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(  同上 )
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(  同上 )
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( 正倉院近くの大仏池  奈良 )
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( 鹿は銀杏がお好き?  正倉院の前で   奈良 ) 
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「黄葉」は「もみじ」、古くは清音で「もみち」と訓みならわしていました。
秋が深まりゆくと共に、木々の葉が揉(も)み出されるように染まってゆく、
その揉出(もみち)が語源とされています。
万葉集で「もみち」は135余首も詠まれていますが、大半は「黄葉」や
「色づく」「もみつ」などと表記され「紅、赤」の字が見られるのはごく僅かです。

その理由は大和付近の山々は雑木が多く楓類が少なかった、あるいは万葉人が
黄色を好んだ、もしくは、黄も赤もすべて「黄」と表記したとも言われていますが、
定かではありません。
現在のように紅葉と表記されるようになったのは赤に対する憧れが強かった
平安時代からのようです。

「 秋山に もみつ木(こ)の葉の うつりなば
      さらにや秋を 見まく欲りせむ 」 
                           巻8-1516 山部王 (経歴未詳)


( 秋山のこの見事な黄葉、
 木の葉が散ってしまったなら、さらにいっそう見たくてたまらなくなるだろうなぁ。)

晩秋、山野のさまざまな木の葉が思い思いの色に染まって行く。
作者はその光景を眺めながら行く秋を惜しみ、翌年の黄葉に思いを馳せています。

「 あしひきの 山の黄葉(もみちば)今夜(こよひ)もか
    浮かび行(ゆ)くらむ 山川の瀬に 」 
                           巻8-1587 大伴書持(ふみもち
)

( あしひきの山の黄葉、この黄葉の葉は今夜も散って
  山あいの瀬の上を流れていることであろう )

左大臣橘諸兄の子奈良麻呂宅での宴で披露されたもの。

作者は昼間見た奥山の見事な黄葉が はらはらと散り、
川に浮かび流れている様子を瞼に思い浮かべています。
一枚また一枚、表を見せ、裏を返しながら散り落ちた色とりどりの葉が
小舟のように流れてゆく。
月の光を浴びてきらきら光りながら静かに、滑るように。

風情があり、感性豊かな作者の一首です。

「 祝(はふり)らが 斎(いは)ふ社(やしろ)の 黄葉(もみちば)も
    標縄(しめなは)越えて 散るというものを 」
                        巻10-2309 作者未詳


( 神官たちが崇(あが)め祀っているお社の黄葉(もみちば)でさえ
  しめ縄を飛び越えて散るというのに。 )

男がある女に惚れた。
ところが女は親の目を気にして外に出て逢ってくれない。

親の目を神域のしめ縄に譬え、
「 黄葉の葉でさえも軽々としめ縄を飛び越えてゆくではないか。
  お前さんも勇気を出して出ておいで」と
女に呼びかけたもの。
母親をしめ縄に例えるとは面白い。
きっと怖い存在だったのでしょう。

「 このしぐれ いたくな降りそ 我妹子(わぎもこ)に
    見せむがために 黄葉(もみち)取りてむ 」 
                        巻19-4222 久米広縄(ひろつな)


( この時雨よ そんなにひどく降ってくれるな
  いとしいあの子に見せるため 黄葉を折り取っておきたいのでな)

越中、広縄邸で催された宴での歌。
古代、木々の小枝を折り取って頭や着物に挿すことが粋とされ、
またその生命力にあやかろうとしていました。
黄葉を褒め、主人のもてなしへの感謝の気持ちもこめているようです。

「 あしひきの 山の黄葉に しづくあひて
     散らむ山道(やまぢ)を 君が越えまく 」
                       巻19-4225 大伴家持


( あなたさまが、これから越えて行かれる山道は険しいでしょうが
 黄葉はきっと見事なことでしょう。
 時雨と共にはらはらと散る黄葉。
 そんな山路を行かれるのですね  )

越中在任の秦伊美吉 石竹(はだのいみき いはたけ)が国政一般の報告書(朝集帳)を
都に届けるにあたって催された宴での送別歌。
遠路の任務の苦労をねぎらうと共に、美しい紅葉路を行く人に対する羨望が
感じられる1首です。

「 時雨の雨 間(ま)なくな降りそ 紅(くれなゐ)に
    にほへる山の 散らまく惜しも 」 
                           巻8-1594 作者未詳(既出)


( 時雨の雨よ そんなに絶え間なく降らないでおくれ。
  こんなに降ると美しく紅色に照り映えている山の紅葉が散ってしまうよ。
  まだまだ散らすのには惜しいものなぁ )

738年 光明皇后の祖父、藤原鎌足の70周忌にあたり法会が行われた時に
出席者一同で唱和されたもの。
一種の無常観を感じてのことのようですが、この歌はもともと仏教に関係なく、
散り失せるもみじを惜しむ心を詠んだ歌で、「紅にほう」と赤色を使用した
珍しい例です。

北から始まった紅葉前線は今や関西でたけなわ。
京都の高山寺や東福寺、奈良の室生寺や長谷寺は大勢の人たちで
ごった返していることでしょう。
ゆっくりと楽しむため早起きして一番乗り。
では、では、朝靄かすむ長谷寺の長い石段を登るといたしましょうか。

    「 大紅葉 燃え上がらんと しつつあり  」 高濱虚子
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by uqrx74fd | 2015-11-13 06:35 | 植物

万葉集その五百五十一 (芝草)

( 芝草 現代名 力芝  山辺の道 奈良)
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(  野の花々   飛鳥 )
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(  同上  芝草は花の引立て役  同上 )
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(  同上  山辺の道 )
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( 同上    同上 )
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( 薊  同上 )
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( 鶏頭   飛鳥 )
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( 彼岸花 露草 吾亦紅  同上 )
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(  ススキ キバナコシモス  同上 )
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「芝草」は現在、力芝(チカラシバ)とよばれるイネ科の多年草で全国各地の
日当たりのよい草原や道端に生えます。
地面にしっかり根を張り、力一杯引っ張ってもなかなか抜けないのでその名があり、
秋に高さ50㎝内外の茎の先にブラシのような紫色の花穂を付けますが地味、
気を付けて観察しないと見過ごしてしまいそうな存在です。
それでも美しい花々の引き立て役、歌の世界では情緒を醸し出す主役となるのです。

万葉集では2首登場し、いずれも道端に生い茂っている雑草として
詠われています。

「 たち変(かは)り 古き都と なりぬれば
      道の芝草(しばくさ) 長く生ひにけり 」
                             巻6-1048 田辺福麻呂
 

( あの華やかな都の様子がすっかり変わり、今や古びた廃墟になってしまった。
 道の芝草も生茂り、伸び放題になっていることよ )

740年 大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしたことに衝撃を受けた聖武天皇は
平城京から恭仁京(山背)へ都を遷します。
建物はすべて解体移設され、官人たちも新しい京に異動。
きらびやかな奈良の都は瞬く間に荒廃し、人も馬も通らない道は草茫々となって
しまいました。
最後の宮廷歌人といわれる作者は元正太上天皇が新都に移住する折に長歌とともに
この歌を詠い、去りゆく旧都の地霊を鎮めたものと思われます。

   「 畳薦(たたみこも) 隔て編む数 通はさば
          道の芝草 生ひずあらましを 」
                       巻11-2777 作者未詳


( 畳にする薦(こも)を 隔て隔てして編む、 その編み目の数ほど頻繁に
  通って下さったら 道の芝草も生い茂ったりしなかったでしょうに )

畳薦(たたみこも)はイネ科のマコモで編んだむしろのような敷物。
竹の小片で作った筬(おさ)という道具を用いて編みますが大変根気がいる仕事です。
「 私のもとに通ってくれなくなってからどれくらいになるのかしら。
  あまりにも間遠くなったので、通い道が草茫々になってしまった。
  はぁー。」
と、誠意なく遠のいた男を恨む女です。

いささか大げさな詠いぶりで、宴席での余興歌であったかもしれません。

「 訪(と)ふ人も あらし吹きそふ 秋は来て
      木の葉に埋(うづ)む  宿の道芝 」 
                      俊成卿女(藤原俊成の孫娘) 新古今和歌集


( もはやあの人は訪れてこないでしょう。
 ただでさえ淋しい上に嵐が吹く秋がやってきて、
あの方が踏み分けてきた私の家の道芝は、木の葉に埋もれてしまいました )

平安時代になると芝草は道芝と詠われ、道端に生える草の総称になります。
この歌では丈の短い芝。

「訪ふ人もあらじ」「あらし吹きそふ」と、「あらし」に「嵐」と「有らじ」を掛け、
王朝時代の洗練された恋歌となっています。

一見地味な存在である道端の雑草ですが、歌人の興趣を引くのか、
今もなお四季折々の情景や野焼きの芝まで広がりを見せて詠われており、
逞しい生命力の強さを誇っているようです。

  「 枯芝の 土手の日当たり をりをりに
           土の乾きの こぼるるけはい 」   島木赤彦


ある冬の一日。
ポカポカと暖かい日ざしをうけ、かすかに湯気でも立っているのでしょうか。
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by uqrx74fd | 2015-10-22 19:42 | 植物

万葉集その五百四十八 (にこ草)

( ハコネシダ  小石川植物園 )
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( 同上  奈良万葉植物園 )
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(  同上、観賞用 アジアンタムと呼ばれている  yahoo画像検索 )
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(  アマドコロ  奈良万葉植物園 )
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(  アマドコロの花     yahoo画像検索 )
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「にこ草」とは「柔らかい草」の意で、現在のイノモトソウ科の「ハコネシダ」、
ユリ科の「アマドコロ(甘野老)」の2説ありハコネシダ説が有力です。

「ハコネシダ」は江戸時代、オランダ使節の随員であったケンフエル(博物学者、医者)が
箱根で採集し、産前産後の特効薬としたことから知られるようになり、
「和蘭草(オランダソウ)」ともよばれ、また、葉が黄緑色で扇形に広がり、
銀杏に似ているとことから「銀杏草」「銀杏忍(いちようしのぶ)」の別名もあります。

色、形が美しく育てやすいので、近年「アジアンタム」の名で栽培種が出回り、
鑑賞植物として人気を博しているようです。

万葉集で詠われている「にこ草」は4首。
小さな葉がニコニコ笑っているようにも見え、いずれも明るく愉快な恋の歌ばかりです。

「 足柄(あしがり)の 箱根の嶺(ね)ろの にこ草の
    花つ妻なれや 紐解かず寝む 」 
                          巻14-3370 作者未詳(既出)


( お前さんは箱根山の高嶺に咲いている「にこ草」かい。
 まるで手が届かない聖女、花妻みたいじゃないか。
 おれと寝るのが嫌なの?
 そうでないなら、紐を解いて一緒に寝ようよ。
 それとも 体の具合が悪いのかい?)
  

何らかの事情で妻から夜の共寝を拒絶された男の嘆き節。
「花つ妻」という美しい造語は清純な乙女を想像させ、神祭りの時などに
触れてはならない期間の妻、あるいは月の障りかもしれません。

当時、箱根で多く咲いていたのでしょう。
ハコネシダ説を裏付ける根拠になっている一首です。

「 葦垣(あしかき)の 中の にこ草 にこよかに
    我れと笑(え)まして 人に知らゆな 」 
                       巻11-2762 作者未詳


( 葦垣の中に隠れている にこ草。
 その名のように にこよかに私にだけ微笑みかけて下さいな。
 決して周りの人にそれと知られないようにね )

恋は秘密にと言うのが当時の鉄則。
人の噂になるとその恋は成就しないと信じられていた時代です。
初恋なのでしょうか。
憧れの目ざなしで夢みるような うら若き乙女です。

「 秋風に 靡く川びの にこ草の
    にこよかにしも 思ほゆるかも 」 
                      巻20-4309 大伴家持


( 秋風に靡く 川辺の にこ草ではないが
 もう秋風が吹きはじめたかと思うと にこにこ嬉しさがこみあげてくる)

この歌に
「七夕の歌、一人 天の川を仰ぎて作る」との詞書があります。

牽牛、織姫の待ちに待った再会に思いをいたしながら、自身も恋人との
逢い引きを頭にえがいているようです。
相好を崩しながら詠っている作者の様子が目に浮かぶ一首。

「 射(い)ゆ鹿(しし)を 認(つな)ぐ川辺の にこ草の
    身の若かへに さ寝し子らはも 」
                           巻16-3874 作者未詳


( 昔、狩りで矢を射立てた手負いの鹿の足跡を追って歩き廻ったものだ。
 そうそう、川のほとりで「にこ草」が咲いていた。
あの草のように俺もまだ若かったなぁ。
共寝した可愛いあの子は今頃どうしているだろうか  )

若き日の甘い恋を回想している一老人。
ここでの にこ草は柔らかい若草。
その上で一緒に寝たのです。

「認(つなぐ)」は「綱」と同根 足跡を追って追い求めるの意。
手負いの鹿は水を飲みに里へ出て斃れる習性をもつのだそうです。
「身の若かへに」 わが身が若かりし頃
 
男は好きな女性を見かけ、驚かそうと息をつめて後を追っていた?
鹿狩りに寓した野性の恋。

4首の「にこ草」には箱根、蘆垣、川のほとり(2首)と生育地が示されています。
箱根は別にして他の3首は、ハコネシダと断定するにはいささか無理があります。
シダ類は岩壁にへばりつくように生え、花も咲きません。

そこで出てきたのは「アマドコロ」説。
初夏に細長い釣鐘形の白い小花を咲かせます。
根茎は食用になり甘味があるので「甘野老」という漢字があてられ
「アマドコロ」と訓みます。

古くは「エミクサ」とよばれたことが「にこ草」説の根拠になっていますが
これは「海老草」(えびくさ)が訛ったもので「笑み草」ではありません。
根が肥厚して横に這う姿が海老に似ているところからその名があります。

漢方で強精剤として使われており、飲むと元気になるので「笑み草」?
いやいや、これは無理、無理。

結局のところ「にこ草」は 最初の歌はハコネシダ、残る3首は
柔らかい草の総称と考えるしかないようです。

  「 にこ草の 笑みにあふれる 恋心 」  筆者























 
   
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by uqrx74fd | 2015-10-01 19:39 | 植物

万葉集その五百四十七 (山藍:やまあい)

( 山藍 奈良万葉植物園   花芽から白い小花が咲く )
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( 山藍染めの製作工程 西川康行著 万葉植物の技と心 求龍堂 )
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( 同上  藤色に染め上る )
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( 巫女の神事の時の衣装  白い衣に染められた山藍の模様  どんど焼き 奈良春日大社)
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( 同上  大神神社  )
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( 唐橋幻想  本稿の万葉歌をイメージ  堀 泰明 奈良万葉文化館所収 )
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(  小忌衣:おみごろも  yahoo画像検索  )
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( 徳島藍染   同上 )
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山藍はトウダイ草科の多年草で我国最古の染料とされています。
山地の木陰に群生し、3月から4月にかけて白緑色の小さな花を咲かせ、葉は常緑。
古代の人はその葉や根をすりつぶして出た汁を直接衣類に摺りつけて染めていました。

この植物は藍という名前がついているにもかかわらず、濃紺のインディゴという
色素を含まないため、淡い青緑や薄紫色にしか染まらなかったようですが
青々と茂る葉から染められた上品な色は神聖かつ目出度いものとされ、
白衣に花や鳥の模様を摺りつけた神事用の衣服、とりわけ天皇の大嘗会に
着用する小忌衣(おみごろも)に用いられ現代にまで脈々と継続されています。
 
次の歌は万葉集で唯一山藍。
若い女性も山藍染めの衣服を着ていたことを示すものです。

まずは訳文から

「 ここ 片足羽川(かたしは がわ)の 
 赤い丹塗りの大橋
 この橋の上を 紅に染めた美しい裳裾を長く引き
 山藍染めの薄青い着物を着て
 ただ一人渡って行く子

あの子は若々しい夫がいる身なのか
それとも橿の実のように 独り夜を過ごす身なのか。
妻問いに行きたい可愛い子だけれど
どこのお人か知りたいが その家が分からないことよ 」 
                               巻9-1742 高橋虫麻呂

「 しなでる 片足羽川(かたしはがわ)の 
  さ丹塗りの 大橋の上ゆ
  紅の 赤裳裾引き(あかもすそびき)き 
  山藍(やまあい)もち 摺れる衣(きぬ)着て
  ただひとり い渡らす子は
  若草の 夫(つま)かあるらむ
  橿(かし)の実の  ひとりか寝(ぬ)らむ
  問(と)はまくの 欲しき我妹(わぎも)が  家の知らなく 」
 
                                巻9-1742   高橋虫麻呂

語句解釈

「しなでる」 (級照る) 片足羽川の枕詞
               片のつく地名にかかる
               級(しな)とは坂、階段の意で
               重なるように日が照る、あるいは
               葛(くず:かたともいう)の葉が層をなして重なり日に照るの意とも。

「片足羽川」   大和川が竜田から河内へ流れ出たあたりの川

「橿の実の」   「ひとり」の枕詞 
           橿の実は一つの殻に実が一つしか入っていないことによる

裳裾は腰から下を被う衣服で現在の巻きスカートのようなもの。
紅の赤裳裾を引く女性の姿は当時の男性にとって官能をそそる魅力あるものでした。

朱塗りの大橋の上を一人行く美女に淡い憧れの情をよせる作者。
恐らく夕暮れのひとときなのでしょう。
茜色の夕焼け、朱色の橋、紅色の裳裾に山藍染の衣。

想像するだけでも色彩感豊かな情景が目に浮かびます。
ロマンティックな雰囲気の中にも作者の孤愁が漂う虫麻呂独特の世界です。

反歌

「 大橋の 頭(つめ)に家あらば ま悲しく
              ひとり行く子に やど貸さましを 」 
                                  巻9-1743 高橋虫麻呂


( 大橋のたもとに私の家があったら 
  わびしげに行くあの子に 宿を貸してあげたいのだがなぁ )

   「 頭(つめ) 」 端(つま)と同根の言葉。 ここでは「橋のたもと」

   「 ま悲しく 」  「わびしそうに」の意であるが 悲しは「愛(かな)し」で
             「いとおしい」気持ちが含まれる。

当時河内は渡来人が多く住む先進文化の地で、丹塗りの大橋が掛かるところは高級住宅街。
麗しき女性は上流階級の子女だったのでしょうか。
家の所在が分かれば求婚をしたいという作者の気持ちが籠ります。

「 石根山(いわねやま) やま藍(ゐ)にすれる 小忌衣(をみごろも)
      袂(たもと)ゆたかに 立つぞうれしき 」
            大江匡房(おおえまさふさ)  新千載和歌集

( 石根山で採った山藍で摺り染めた小忌衣
 そのあでやかな袂のように 満を持して皇位にお立ちになるめでたさよ )

石根山は滋賀県甲賀郡の岩根山

鳥羽天皇の大嘗会の席上での賀歌
大嘗会は天皇即位後初めて新穀を神に奉げる一代一回の極めて重要な祭りごとです。

「小忌衣」(おみごろも)とは白布に山藍の汁で草木や小鳥などの文様を描いて
摺りつけた狩衣に似た衣装で、現在、京都の石清水八幡宮で採れる山藍が
用いられ、京都の葵祭、奈良の春日大社の衣装にも使われているそうです。

「 ゆふだすき 千歳(ちとせ)をかけて あしびきの
   山藍の色は かはらざりけり 」   
                                賀歌 新古今和歌集


( 神事に奉仕するときに木綿襷(ゆふたすき)をかけて着る山藍摺りの衣の色は
 千歳にわたって変わらないなぁ )

神事の長さを詠うことによって、その神に守られている天皇を慶祝する意味を
籠めています。
染色法も摺り染めから、乾燥したものを搗き出して銅塩などの媒染剤を
用いたりして安定したものになっていたようです。

一方、純粋な藍染めは4~5世紀にかけて中国からタデ科のタデが渡来しており
その美しい色は多くの人々を魅了し、播磨、京都、摂津、和歌山ほか
各地で盛んに生産され、税としても貢納されました。

奈良時代には既に高度な染色技術が確立しており、衣服、料紙、経典など
様々なものに用いられ、正倉院御物にも色鮮やかな作品が残されています。

藍染が最盛期を迎えるのは木綿が安価に供給されるようになった江戸時代からで
特に徳島の阿波藍は全国の生産量の三分の一を占めたと云われています。

明治維新以降安価で色鮮やかなインド藍が輸入されるようになると
タデ藍の生産は大打撃をうけ、さらに1897年に始まったドイツのバイエル社による
合成インジゴの生産により、タデ、インド藍による染色は共に壊滅的な打撃を
受けました。

今日、安全志向が高まる中、再び天然染料が注目され、技術保存の努力もなされて、
徐々に生産復活の兆しが見えるようです。

    「 ふるさとや 今も名残の 藍植うる 」  清水良艸(りょうそう)
























 
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by uqrx74fd | 2015-09-26 21:09 | 植物