カテゴリ:植物( 206 )

万葉集その五百九十二 (麻いろいろ1)

( 亜麻の花  学友m.i さん提供 )
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( 苧麻:ちょま カラムシともいう   奈良万葉植物園 )
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( 大麻  新北海道の花より  学友m.i さん提供 )
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( 亜麻  小石川植物園  我国で初めて栽培されたのは小石川御薬園 )
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( 麻のれん、繊維   麻専門店 おかい(岡井)  奈良市 )
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( 復元機織具 弥生時代  橿原考古学研究所  奈良 )
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( 機織具を使って麻を織る女性   同上 )
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( 麻のレース  吉田蚊帳店  奈良町 )
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(  麻の蚊帳  奈良町資料館 )
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( 麻のタペストリー  奈良町センター )
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縄文時代晩期、古代の人達は麻、苧麻(ちょま)、藤、楮、三椏、葛、芭蕉布などの
内皮を利用して衣類や袋、縄、網などの生活用品を作っていました。
とりわけ麻、苧麻は栽培が容易で短期間に大量に収穫でき、しかも質の良い
靭皮を採る作業も比較的簡単なので広く使用され、奈良時代になると
持統天皇が苧麻の栽培を推奨する詔を出されています。(692年)
やがて、亜麻、黄麻(こうま:ジュート)、サイザル麻などが渡来すると、
それら麻類を一括して麻と呼ぶようになり元来の麻は大麻と呼んで区別しました。
大麻とは大きく成長する麻の意です。

万葉集に登場する麻は二十八首、種蒔き、刈り取り、布作り、晒し、
機織りなどすべての生産工程が歌に詠まれています。

「 夏麻(なつそ)引(び)く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ洲に
     鳥は すだけど 君の音もせず 」  
                               巻7-1176 作者未詳

( 海上潟の沖の砂州に鳥が群がって騒いでいるけれども
 あなたからは一向に音沙汰もありません。
 いったいどうなさったのでしょうか。 )

「夏麻(なつそ)引く」は「海上潟」の枕詞 
夏の麻を引いて衣に績(う)む、あるいは夏の麻を引き抜く畝(うね)の意で
「ウ」の音を冠する地名「ウナカミ」「ウナヒ」に掛かる。

「海上潟(うなかみがた)」 千葉県銚子市海上郡地方の海岸の千潟

ここでの麻は「引く=引き抜く」とあるのでアサ科の1年草の大麻、
雌雄異株です。
名の由来は茎が青みを帯びた皮の繊維であることから青麻(あおそ)とよばれて
いたものが「あさ(麻)」に転訛したとされています。
原産地は中央アジアから西アジア。
日本では弥生時代の栽培とみられています。

春に播種し、品質を高めるため密植する。(さもないと枝分かれして品質が落ちる)
夏に草丈2~3mで抜き取り蒸して皮を剥いで繊維を採ります。
開花は夏。秋に果実となった苧実(おのみ:麻美)は七味唐辛子の薬味の一つ。
食用油、工業油も採れます。(毒性のないものの栽培は免許制)

成熟した雌株の葉から分泌する樹脂をハシーシュ、栽培種の花序からのをガンジャ、
野生種の花序や葉からのをマリファナと云うそうです。(禁制品:昭和23年大麻取締法)

「 庭に立つ 麻手(あさで) 刈り干し 布 曝(さら)す
    東女(あづまおみな)を 忘れたまふな 」 
                         巻4-521 常陸娘子(既出)

( 庭に生い立つ麻 それを手で刈り取り、干し、布に織って晒す私。
 この東女をどうぞ忘れないで下さいね ) 

この歌は藤原宇合(うまかい:藤原不比等の第三子)が常陸守の任を離れて帰京する際
親しかった女性が詠ったもの。
麻に関わる作業過程が次々と重ねられ、忙しく立ち働く東国女性の姿が想像されます。
たった31文字で麻にかかわる作業と恋歌を重ねた驚異的な手腕。
相当な教養の持主だったのでしょう。

ここでの麻は苧麻(ちょま)。
一年草の大麻は引き抜きますが多年草の苧麻は刈り取る。
翌年に同じ株から新しい茎が成長し、同じ作業が数年に及びます。

苧麻は真苧(まお)、カラムシ、ラミーともよばれるイラクサ科の草木で
春に根分けして植え、夏に茎を刈り、皮を剥いで中の繊維を採ります。
粗繊維を灰汁に漬けて水で晒すと美しい光沢がある糸や布に。

苧麻(一般にはカラムシとよばれる)から作られる越後布は古くから良品として
知られ、朝廷にも貢納されて正倉院に収蔵されています。

中世、越後の国は日本一の苧麻の産地で上杉謙信と執政、直江兼続は
衣類の原料として京都などに積極的に売り出し、江戸時代初期、技術改良を重ねて
高級苧麻布を生み出しました。
中でも新潟県、魚沼地方の越後上布、小千谷縮(おぢやちぢみ)は名高く、
元禄年間に将軍家の御用縮、武家の式服、諸大名は麻裃(かみしも)に
用いられ、金持ちの商人もこぞって買い求めたようです。
現在、国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料である
苧麻は本州唯一の産地、福島県会津地方の昭和村で栽培されています。

江戸時代、魚沼出身の鈴木牧之(ぼくし:1770~1842)はその著
「北越雪譜:ほくえつせっぷ」(岩波文庫)で次のように記しています。

「 雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒(そそ)ぎ、雪上に晒(さら)す、
  雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人と気力相半(あいなかば)して
  名産の名あり。
  魚沼郡(うをぬまこほり)の雪は縮の親といふべし。」

縮布の「雪晒し」は、太陽の紫外線が作り出すオゾンによる漂白作業で、
縮に独特の風合いを与えましたが、雪中での作業の連続は過酷を極め、
極めて忍耐力が必要とされたようです。

川端康成は小説「雪国」で縮の記述の多くを同著に拠り、主人公(島村)は
自分の着る麻の縮を「古着屋で漁って夏衣にし」毎年晒して着る人物で、
次のように書いています。

『 自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。
  誰が肌につけたかもしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど
  厄介だけれども、昔の雪ごもりの丹精を思ふと、やはりその織子の土地で
  ほんたうの晒し方をしてやりたいのだった。

  深い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪か布かが紅(くれなゐ)に
  染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだし、
  我が身をさらされるやうに気持ちよかった。』 
                                   (川端康成 雪国 新潮社)

   「 苧(からむし)の 露白々と 結びけり 」 奥園操子

  
            万葉集592(麻いろいろ1) 完




           次回の更新は8月12日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-08-04 19:15 | 植物

万葉集その五百八十六 (小楢:こなら)

( 初夏の小楢  赤塚植物園   東京都板橋区 )
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(  同上 万葉歌 )
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( 小楢の新芽  くらしの植物苑  佐倉市 )
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(  垂れさがる花穂    同上 )
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(  黄葉のころ   同上 )
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(  小楢の実  : どんぐりは楢、樫、椎などの木の実の総称)  
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(  樫の実 )
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( 椎の実  )
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小楢(こなら)は山野によく見られるブナ科の落葉高木で、一般的には
楢(なら)とよばれています。
生命力極めて旺盛な樹木で、根元から切断しても、その切り株から
新芽を伸ばして再び大きくなり、古くから薪炭の材料やシイタケ培養の
ホダ木として重宝されてきました。

春先、新しい枝に尾状の黄褐色の花穂を垂らして小さな花を付けますが、
まるで風に揺れる簪(かんざし)の飾りのよう。
万葉人もその様子を見て、美しい女性を連想したようです。
また、青葉の頃の瑞々しい葉裏は白くて柔らかい毛が密生して銀色に輝き、
幻想的な雰囲気を醸し出してくれます。

秋には黄葉が山野を美しく彩り、シカ、イノシシ、ネズミなどの大好物、
団栗を大量に地面に落として、命の糧を恵む。
勿論、古代の人達の食用にも供していましたが、タンニンが多く含まれている為
アクが強く、何度も流水で洗わなければなりませんでした。

ナラの名は滑葉(なめらば)、あるいは奈良に多く群生していたので
地名に由来するとも。

万葉集では2首、共に恋の歌です。

「 下つ毛の 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす
    まぐはし子ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ 」 
                            巻14-3424 作者未詳

( 下野の三毳(みかも)の山に生い立つ小楢の木
 その瑞々しい若葉のように目にも爽やかなあの子は一体誰の
 お椀を世話することになるのだろうか )

「三毳(みかも)の山」は栃木県佐野市東方の大和田山か。
「小楢のす」の「のす」は「なす」の訛り
「まぐはし子ろ 」 「まぐはし」は目にも艶々として鮮やかなさま
「誰が笥(け)か持たむ」 笥は食器。食事の世話を妻がするのでこの表現がある。

本当は自分の妻にしたいのだけれど高嶺の花と半ば諦めている?男。
この歌の評価は高く、次のような解説がなされています。

「 小楢の葉のような美しい少女というのも如何にも山国の人たちらしい形容で、
  新鮮味があり生々溌剌たる少女の健康美を的確に描き出している 」
                  ( 佐佐木信綱 評釈)

「 妻を笥(食椀)という語であらわしているのも実際生活に即している言い方で
  一首おのずから素朴な地方色をたたえている。
  愛すべき魅力ある歌。
  男の深い懸念を活写して、すこぶる新鮮、集中でも特記すべき表現」 (伊藤博 釋注)

「再読精読して思うには、どうもこの歌言外に
  あの子はきっとおれの妻になるんだという含みがあるようだ」
                         ( 遠藤一雄 東歌防人歌の鑑賞 )

「 み狩する 雁羽(かりは)の小野の 櫟柴(ならしば)の
     なれはまさらず 恋こそまされ 」
                          巻12-3048 作者未詳

( み狩りにちなむ雁羽の小野の 楢の雑木ではありませんが
 あなたと馴れ親しむ機会が一向増さず、お会いできない苦しみばかりが
 増す一方です )

み狩(かり)と雁(かり)羽、櫟(なら)柴と馴(なれ)とを掛ける。
一向に見えないのはどうしたことかと嘆く女。
男は心変わりして足遠くなったのでしょうか。

雁羽の小野の所在は未詳。
「み狩り」は天皇、皇族の狩をいう(沢瀉久孝)のでこのあたりに皇室の
 猟場があったと思われます。

柴は小さい雑木。

 「 山の田に 日かげをなせる 楢の木の
        若葉は白くやわらかに見ゆ 」   島木赤彦
 
以下は足田輝一著「雑木林の博物誌 新潮選書」からです。

『 コナラの若葉は、小さいながらもその縁にぎざぎざの鋸歯をもち、
  くるつと下向きに反転した形で伸びてくる。
  その葉の表面には、絹のように光った銀色の細毛が、みっしり生えている。
  この密毛の反射が、遠くから見ると、うす緑の上に銀鼠のもやをかけたように
  見えるのだ。
  この細毛は、コナラの葉がきりっと伸びきり、一人前の木の葉となるころは
  なくなってしまう。
  コナラは古くから日本人に愛された木だった。 』

   「 団栗(どんぐり)や ころり 子供の言ふなりに 」  一茶


           万葉集586(小楢:こなら)完


          次回の更新は7月1日の予定です。


  
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by uqrx74fd | 2016-06-24 07:11 | 植物

万葉集その五百七十九 (春の萩と藤)

( 季節はずれの萩 5月1日撮影 谷中 宋林寺 )
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( 野生の藤    春日大社境内  奈良 )
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( 白藤    万葉植物園:春日大社神苑  奈良 )  
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(  臥龍の藤  イチイガシの大木に絡みついた藤  同上 )
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(  奈良公園の藤の老木 )
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(  万葉植物園 :春日大社神苑 )
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( 向島百花園  東京 )
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(  同上 )
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( 亀戸天神  東京 )
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( 同上 )
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本年の5月1日のことです。
谷中の夕焼けだんだん坂を下って最初の曲がり角を左へ約100mほど歩くと、
宗林寺という古刹があり、美しい花々が咲き乱れていました。
ところが何と!
入口の躑躅の植え込みの前に萩の花が咲いていたのです。
「 エッ― なんで今ごろ!」と驚きながら境内に入っていくと数本の萩が
満開ではありませんか。
4月の終わり頃から咲きはじめたのでしょう。
狂い咲きかな?と思いましたが、最近では二度咲き、春咲きの品種もあるそうな。

昔、季節はずれのことを「不時」(ときじ)といい「その時ではない」あるいは
「思いがけない」という意味に使っていました。

次の歌は大伴家持が通常春に咲く藤が真夏に咲いたのを見て驚き、
妻、坂上大嬢 (さかのうえ おほいらつめ)に贈ったものです。

「 わがやどの 時じき藤の めづらしく
      今日も見てしか 妹が笑(ゑ)まひを 」
              巻8-1627 大伴家持(既出)


( 我家の庭の季節外れに咲いた藤の花、この花のように愛しい貴女の笑顔を
 久しぶりに今すぐにでも見たいものです)

当時は通い婚。
大嬢(おほいらつめ)は母と共に住み家持と離れて暮らしていました。
使者に花と歌を持たせた粋なラブレターです。

この歌の藤を萩と入れ替えてもそのまま通用します。

「 わがやどの 時じき萩の めづらしく
     今日も見てしか 妹が笑(ゑ)まひを 」 
                         巻8-1627の替え歌


家持さんも春咲く萩を見たら、このように詠ったことでしょう。

746年、都で青春を謳歌していた家持は越中国守に栄転することになりました。
弱冠29歳、意気揚々と赴任します。

着任してから1か月経ち、藤が満開になるのを見計らって、国守の館で
挨拶と歓迎を兼ねた宴が催されました。
爽やかな薫風、藤、牡丹、芍薬、菖蒲、杜若などが咲き匂ほふ庭園を眺めながら、
一同心地良く一献また一献。
宴もたけなわ、各々ほろ酔い加減の中、国分寺の僧が次のような古歌を披露します。

「 妹が家に 伊久里(いくり)の杜の 藤の花
   今来む春も 常かくし見む 」 
                 巻17-3952 古歌(僧 玄勝が伝誦)

( 愛しいあの子の家に行くという、ここ伊久里の森の藤の花。
 これからも巡ってくる春ごとに、この美しい花を愛でに
 参りましょう。 )

「伊久里(いくり)」と「行(い)く」を掛けた洒落。
「常かくし」:いつもこのように 「かくし」は「斯の如くし」の略

伊久里の所在は不明ですが富山県砺波郡井栗谷と平城京説あり、
ここでは、井栗谷説がふさわしく思われます。

藤は藤波と詠われることが多く「藤の花」は万葉集中この1首のみ。
わざわざ花としたのは女性を寓したものか?

伊藤博氏は
「 玄勝がこの歌を披露したのは、都の女性もよいが、
越中の女性(藤の花)もまた佳なりとして地名を詠みこんだものを
披露したのでは? 」と推測されています。(万葉集釋注7)

単身赴任の家持は大いに羽を伸ばしたかったことでしょうが、今は国守の身。
部下の目もあり、そうもいかなかったかも知れません。
逆に、浮気して大噂になっている部下を説教した面白い歌が残っています。
              ( 万葉集遊楽32 「部下の恋狂い」 ジャンル:心象 ご参照)

「 藤波の 花は盛りに なりにけり
     奈良の都を 思ほすや君 」  
             巻3-330 大伴四綱(既出)

( ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。
あなたさまも、奈良の都を懐かしく思われていることでしょう。)

こちらは大宰府帥(そち:長官)、大伴旅人宅宴席での歌。
当時、旅人は65歳、生まれ育った奈良への望郷の念に駆られている日々でした。

「もう二度とあの懐かしい都や青春を過ごした飛鳥を見ることが出来ない
かもしれない」

そのような旅人の気持ちを察して、部下である作者が
「さぞお懐かしいことでしょう」と思いやったのです。

それから暫くして、朝廷から旅人に帰京の知らせが届きました。
長年の功が認められ大納言に昇進。
めでたし、めでたしです。
    
「 草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤の花 」 芭蕉

( 大和路を1日歩き疲れ、宿を求める日暮れ。
 薄紫の藤の花が咲きこぼれているのを見かけた。
 懐旧の情と旅愁と春愁(しゅんしゅう)が渾然一体。) (芭蕉全句 小学館より)



    万葉集その579 (春の萩と藤) 完


   次回の更新は5月15日(日)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-05-06 06:27 | 植物

万葉集その五百七十七(竹は木か草か?)

( 竹の秋と藤   山の辺の道  奈良 )
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( 京都嵯峨野の竹林 )
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( ムクロジの木の幹を突き破って生え出た驚異的な生命力の竹  奈良公園 )
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( 脱皮して竹になる  皇居東御苑 )
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( 美しい竹の色    同上 )
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( 六義園の竹垣と門   東京 )
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( 披雲閣の竹垣  玉藻公園  高松城跡 )
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( 京都祇王寺の入り口 )
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( 掬月亭の竹垣  高松栗林公園 )
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( 京都嵯峨野の竹垣と竹籠 )」
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( 池波正太郎が愛した筍料理 刺身、煮物、付け焼き、木の芽和え、など、包丁好みより  )
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「 木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの
     はしにわが身は 成りぬべらなり 」  
                           高津皇女(桓武天皇皇女) 古今和歌集


( 木でもなく草でもない竹の、その節(よ)と節(よ)の間(はし)のように
  私は中空のどっちつかずの状態の身になってしまいそうだ )

恋に焦がれて身も心もうつろな作者ですが、この歌は、紀元300年頃の中国の人、
戴凱之(たいがいし)の「竹譜」に見える
「竹は剛ならず,柔ならず、草にあらず、木にあらず」に拠っているそうです。

「竹は木か草か」という議論は古くからあり、今でも続いています。
草説が多いようですが、その理由として竹は、

1、生えた根が伸びて次々に芽を出し繁殖する。
2、節は空洞。
3、花は60~120年に1回しか咲かないが、咲くとすべて枯れ果てる。
4、年輪がない。 
5、成長が異常に早く、マダケで1日121㎝、モウソウチクで119㎝の記録がある。

など、木にはない特性を持つことがあげられています。

竹の歴史は古く、縄文晩期(前1000~前300)の竹製品が亀ヶ岡遺跡(つがる市)や
是川遺跡(八戸市)から出土されており、それも、笊(ざる)、籠、
籃胎漆器(らんたいしっき:竹を編み漆を塗った器)など、高度な加工品。
身近なところから得られ、しかも加工しやすいため色々な生活用品が作られたと
思われますが、早くも漆塗り製品が作られていたとは驚きです。

なお、現在どこにでも見られる孟宗竹は1763年頃の江戸時代、中国からの渡来と
されているので古代の竹はマダケと笹と思われます。

筍も古くから食されていました。
奈良時代の平城京木簡に筍を大量に購入して代金を支払ったとの記録があり、
廣野卓氏は「薬効を目的として焼いて食べたらしいが、ワカメと和えて食した」
とも推定されており(食の万葉集、中公新書)、今も昔も変わらぬ季節の食物として
好まれていたことが窺われます。

万葉集では、竹、笹、篠なども含めて四十首近く詠われ、群竹、竹垣、竹葉、
竹玉(神事用)、細竹、小竹、植え竹など多彩な表現がなされています。

「 我がやどの いささ群竹(むらたけ) 吹く風の
   音のかそけき この夕(ゆふへ)かも 」
                               巻19-4291 大伴家持(既出)


753年4月(旧暦)の初めに詠まれた三連首のうちの一。

庭の一隅のわずかな竹林に一陣の風が吹き渡ってゆく。
作者の研ぎ澄まされた神経に微かに聴こえてくる風の音。
それは揺れる竹の葉であるとともに家持の心の揺らぎ。
誰もが浮き浮きとした気分の麗(うら)らかな春日であるにもかかわらず、
晴れやらぬ気持で一人孤独を感じている。

「まさにこの歌はバイオリンの細かい旋律を聞くみたい。
震えるような心」(犬養孝)とも評されている万葉屈指の名歌です。

さらに大岡信氏は

「 何ともとらえどころのない気分そのものを制作のモチーフしたもので
万葉集の他の作者たちの歌とは極めて異質な出来栄えを示しているばかりではなく
平安朝の和歌とも画然と異なるところのある作。
このような歌は、近代人のものの感じ方、はっきりいえば、感傷に大きな価値を
見出すようになった近代以降の感受性のありかたに、意外なほど近親性をもって
いるものだと云える」
              と述べておられます。(私の万葉集5 講談社)

「 あらたまの 寸戸(きへ)が竹垣 編目ゆも
    妹し見えなば 我(あ)れ恋ひめやも 」 
                             巻11-2530 作者未詳


「寸戸(きへ)が竹垣」は 特殊な形をした家の周囲を囲んでいる竹垣。

( 寸戸(きへ)の竹垣、このわずかな編み目からでも お前の姿を
 一目見ることが出来たら、俺はこんなに恋焦がれたりするもんか)

男が女性の家を訪ねたが女は家に閉じ籠って顔を見せない。
せめて一目だけでもと家の周りをうろつく。
女性は母親から交際を禁じられ、強く叱責されたのでしょうか。
うろうろしながら、家の中を覗き込んでいる男の様子を想像すると、
いささか微笑を禁じ得ない一首です。

「 大和には 聞こえも行くか 大我野(おほがの)の
    竹葉刈り敷き 廬(いほ)りせりとは 」 
                          巻9-1677 作者未詳


( ここ大我野の竹の葉を刈り敷いて 私が廬に籠っているということを
 いとしい人が待つ大和に噂で聞こえていったかな )

701年持統、文武天皇が紀伊の牟婁(むろ)温泉に行幸された時、
供奉した作者が帰路で詠ったもの。

大我野は和歌山と奈良の間にある地名。
「 あと1日でいよいよ妻に逢える。
私がここまで来ていることを風の便りに聞いてくれただろうか 」
とそわそわしている男です。

「 妹らがり 我が通い道(ぢ)の 小竹(しの)すすき
      我(わ)れし通はば 靡け小篠原 」 
                            巻7-1121 作者未詳


( あの子のもとにいつも通っている道に生い茂っている篠竹や薄よ。
私が通るときは地面に伏して靡け、靡け。)

愛する女の許に通う時はいつも夜。
道をふさぐ篠竹や芒に足をとられて転ぶこともあったことでしょう。
心がはやり、靡け、靡け、道を広げろと願う男。

「妹らがり」は「妹が在り」で愛しい子の許へ 
「妹ら」の「ら」は親愛を示す

「 我が背子を いづち行かめと さき竹の
   そがひに寝しく  今し悔しも 」 
                       巻7-1412 作者未詳


( 私の愛しい人、あの人にかぎって何処へも行くはずがないと思っていた。
 それなのに、急にいなくなって。
 今となっては割き竹のように背中を向けて寝たことが、悔やまれてなりません。)

夫婦喧嘩をして、すねて背を向けて寝た直後に夫がいなくなった。
防人として旅立ったのか、腹を立てて家出をしたのか、それとも急死?
涙にくれながら共に過ごした日を思い出し、もっと優しくしてあげればよかったと
悔やむ女。

さき竹は割れて二つになった竹。
それにしても万葉人は面白い表現をするものです。

   「 竹の子や 藪の中から 酒買ひに 」     泉鏡花

いよいよ待ちに待った筍の季節。
以下は 池波正太郎の「包丁ごよみ」(新潮文庫)からです。

『 京都の南郊、乙訓(おとくに)は、見事な竹藪で有名だ。
 その乙訓の長岡天神の池畔に「錦水亭」という筍料理専門の料理屋があって、
  むかしは、食べさせるだけでなく,泊めてもくれた。
  池のほとりに、大小の離れ屋がたちならび、ここに泊まると、別世界へ
  来た思いがした。
  掘りたての筍を、吸い物,炊き合わせ、刺身、木の芽和え、でんがく、天麩羅。
  すべて筍料理だが、その旨いことは、私の友人の言葉ではないが
  「おはなしにならない」のであった。
  掘りたての筍が、こんなに、やわらかくて旨いものだと知ったのは
  むかし、錦水亭に泊まってからだ。
  いまも私は、筍が大好きである。 』 

筍と云う字は「竹」と「旬」から成り、一旬は10日すなわち竹の早い成長を
表す文字だそうです。
朝露が残る掘りたての筍は、えぐ味がないので、ゆでてアク抜きする必要がなく、
刺身にしてもよし、カツオの出汁で煮てもこれが同じ筍かと思うくらい美味い。
さぁ、さぁ、旬の香りと味を楽しみましょう。

     「 松風に 筍飯を さましけり 」   長谷川かな女



              万葉集577(竹は木か草か?) 完

    
       
       次回の更新は4月29日です
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by uqrx74fd | 2016-04-21 21:18 | 植物

万葉集その五百七十五 (瀬戸の縄海苔)

( 瀬戸内海の朝  小豆島で )
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( 干潮になると島々が陸続きになる 夜明けから渡るカップルも )
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( 陸続きになった海岸を歩く  ここはエンジェルロードとよぶそうな)
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( 浅瀬で靡く縄海苔  現在名はウミゾウメン)
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(  ウミゾウメン )
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( 同上 )
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(  海藻と貝  )
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( 海底で宝石のように輝く貝 )
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( ツルモ  牧野富太郎博士は縄海苔はツルモとされている   植物図鑑より )
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( 能登土産の海ぞうめん )
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縄海苔とは波の荒い磯に付く細長いひも状の海藻で、現在名はウミゾウメンが通説と
されていますが、砂や泥質の海底に立つ長い糸状のツルモとする説(牧野富太郎)もあります。

ウミゾウメンはベニモズク科の紅藻類で長さ10~20cm、
ツルモはツルモ科の褐藻類で90㎝~3,6mもあり海でゆらゆら揺れている姿は
長いロープが垂れ下がっているようです。

古代の人にとって海藻は食用として身近な存在だったと思われますが、
縄海苔はウミゾウメン、ツルモの区別なく、紐状の藻の総称だったかもしれません。

万葉集では4首登場しますが、すべて恋の歌。
どんな対象でも愛する人に結び付ける万葉人の恋の材料の豊かさ、
発想のユニークさには毎度のことながら驚かされます。

「 海原(うなはら)の 沖つ縄海苔 うち靡き
        心もしのに 思ほゆるかも」 
                             巻11-2779 作者未詳


( 青海原の水底に生えている縄海苔が揺れ靡いているように
  私は、ただただ、あの人に惚れぬいています。
  もう、心が折れて死んでしまいそう。)

海底から長く伸びている紐糸状の海藻がゆらゆら揺れている。
この縄海苔のように自身の気持ちもあなた様に靡いて一時も忘れることがありません。
このままでは焦がれ死にしそうですと詠う乙女。

「 わたつみの 沖に生ひたる 縄海苔の
     名はかって告(の)らじ 恋は死ぬとも 」 
                         巻12-3080 作者未詳


( 大海原の底深くに根生えている縄海苔の名のように
 あなたの名(な)は決して口に出して他人に洩らしません。
 たとえ焦がれ死ぬようなことがありましても。)

恋は秘密にというのが当時のしきたり。
相手の名前を口に出すと、想いは成就しないと信じられていました。
死んでもあの人のことは誰にも言うまいと必死に耐える純情な娘です。

「 わたつみの 沖つ縄海苔 来る時と
    妹が待つらむ  月は経(へ)につつ 」 
                      巻15-3663 作者未詳


( 海の神が統べ給う海底の縄海苔
 その縄海苔を手繰るように もう帰ってくる頃だと、あの子が待っているはずの
 約束の月日はどんどん過ぎ去ってしまった。)

736年遣新羅使が都を離れて筑紫に到着した時、月を遠くにみはるかし
故郷を思い慕った歌。

縄海苔はある時期になると着床から遊離して岸に流れついていたようです。
作者は妻に「縄海苔が流れ着く頃に家へ帰るからな」と云って出かけたのでしょう。
ところが途中で遭難し、新羅どころか、まだ博多湾。
何時帰ることが出来るか分からない状態でした。
「あぁ、今ごろ首を長くして待っているだろうなぁ」と
故郷の方角に向かいながら嘆く男です。

  「 海原に 靡く縄海苔  恋心  」 筆者

縄海苔はミネラル類( 鉄、カリウム、カルシユウム、ヨード)やビタミンAが多く
含まれ、万葉人の健康を支えていたと思われますが、現在でも輪島などで
名産品として販売されています。

 「 海藻の にほひ香し  波風に
        病と闘う  友をしぞ思ふ 」    筆者

( 60年来の学友の急病。
 栄養たっぷりの海藻を召して回復を。)

小豆島の土庄港(とのしょうこう)近くにエンジェルロード、天使の散歩道と
よばれている場所があります。
干潮になると今まで海を隔てて離れていた小さな島々が陸続きになるのです。
美しい砂浜を歩くと今まで海に沈んでいた海藻や貝が砂浜に現れ、
その中にウミゾウメンも混じっていました。
「 おぁ! 万葉の縄海苔見つけた、あったぞ! 」と小躍り。
まさに天使の贈り物でした。

海は底まで見えるほど澄み切っており、浅瀬で陽の光を受けた海藻が
ゆらゆら揺れる中、貝が宝石のように光り輝き、幻想的な雰囲気を
醸し出していました。
瀬戸内海の自然の美しさを目の当たりにし、万葉人もきっとこのような
風景の中で詠ったのだろうと思ったことでした。

  「 あらうれし 瀬戸で縄海苔  見つけたり 」 筆者


             万葉集575(瀬戸の縄海苔) 完

   
   次回の更新は4月15日です。

  
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by uqrx74fd | 2016-04-08 00:00 | 植物

万葉集その五百七十四 ( 虫麻呂の桜 )

( 花の寺 長谷寺  奈良 )
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(  同上  白木蓮と桜 )
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(  同上  境内満開の桜 ) 
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(  同上 白木蓮、サンシュ、桜の競演 )
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(  二月堂参道     奈良 )
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( 桃と桜  山辺の道  奈良 )
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( 川俣神社 曽我川    奈良 )
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( 大美和の杜  後方は三輪山  山辺の道  奈良 )
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( 玄賓庵  波状の砂庭に散り落ちた桜の花びら  山辺の道 奈良 )
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( 花筏  千鳥ヶ淵  東京 )
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( まるで花吹雪のよう  千鳥ヶ淵  )
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(  京都御所御苑の枝垂れ桜 )
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( 新宿御苑  東京 )
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高橋虫麻呂は浦島伝説や筑波山の歌垣、胸元広く腰が締まった美女、
ホトトギスの托卵など36首(うち34首は虫麻呂歌集)の歌を残していますが、
その大半が地名と美しい女性が登場し、読む人を引き付けてやまない魅力を
もつものばかりです。
にもかかわらず、その経歴は全く不明。
歌から推測できるのは、藤原宇合(うまかい)の庇護を受けて共に東国、近畿を
巡り歩き、各地の伝説や言い伝えを歌に詠み、常陸国風土記を編纂したと
推定されることのみです。

宇合は時の権力者、藤原不比等の子であり、光明皇后の異母兄妹。
虫麻呂は経済的な心配何一つ無く、伸び伸びと活動できたと思われ、
その歌風は色彩的かつ幻想的で独特の美の世界を作り上げているロマンチシスト、
そして美しい女性に対する憧れが強かったにもかかわらず自身の恋の歌を
詠わない孤愁の人でした。

次の歌は桜、それも花吹雪が川に舞い落ちる美しさを詠ったものといえば、
虫麻呂はいかに現代的な感覚の歌人であったことが窺いしれましょう。
まずは長歌の訳文からです。

( 訳文:巻9-1751 高橋虫麻呂 長歌)

 「島山を行き巡って流れる   
  川沿いの 岡辺の道を通って
  私が越えてきたのは ほんの昨日のことであったが
  たった一晩旅宿りしただけなのに
  もう、峰の上の桜の花は 
  滝の早瀬を ひらひらと散っては流れている

  わが君が帰り道に ご覧になるその日までは
  山おろしの風など 吹かせ給うなと
  馬にうち乗りながら せっせと越え行き、
  その名も高い風の神 龍田の杜に 
   風を鎮めるお祭りをいたしましょう 」
                               巻9-1751 高橋虫麻呂
( 訓み下し文 )

「 島山を い行(ゆ)き廻(めぐ)れる 
 川沿ひの 岡辺(おかへ)の道ゆ
 昨日(きのふ)こそ 我が越え来(こ)しか 
  一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに

  峰(を)の上の  桜の花は
  滝の瀬ゆ  散らひて流る

  君が見む その日までに
  山おろしの 風な吹きそと

  打ち越えて 
  名に負へる杜に 風祭りせな 」    巻9-1751 高橋虫麻呂(一部既出)


   (語句解説)

       島山: 「島」は水に面した美しい所。
             ここでは大和川が龍田山の裾を巡っている川べりの山、
             今は芝山とよばれるあたり

       山おろしの風: 山から吹き下ろしてくる激しい風

       名に負える社: 風を祀る神として知られた龍田神社

       風祭りせな:  風の神を祀って祈願しよう
                 当時、台風、風害を防ぐ官祭として4月、7月に
                 豊穣祈願祭がおこなわれていた。

この歌は726年、藤原宇合が難波宮造営の責任者に任命されたのに従い、
大和と難波を往復した時の歌です。
虫麻呂は急用ができたのか、一足先に大和へ戻る途中、龍田山の芝山辺りで
満開の桜が風に吹かれ花吹雪となっている光景に出合いました。
はらはらと舞い落ちる花びらは、川一面に散り敷き、花筏となって流れています。
あまりの見事さに虫麻呂は

「 櫻よ、龍田山の風の神様にお願いに行きますから
  もうこれ以上散らさないで下さい。
  わが主、宇合様が帰りにご覧になるまで 」と祈ったのです。

中西進氏は「 激流に もまれる花びらの美の発見者は虫麻呂だった」と
述べておられる( 旅に棲む 高橋虫麻呂論 中公文庫 )異色の長歌です。

続いて反歌です。

「 い行(ゆ)き逢ひの 坂のふもとに 咲きををる
    桜の花を 見せむ子もがも 」    
                             巻9-1752 高橋虫麻呂


( 国境の聖なる行き逢いの坂の麓に 枝もたわわに咲く桜の花。
 この美しい花を見せてあげられる 乙女でもいればよいのになぁ。 ) 
 
「咲きををる」:茂りたわむ
「い行き逢いの坂」とは隣国の神同士が両側から登りつめて、境界をきめたという
伝承をもつ神聖な坂とされ、ここは大和と河内の境をなす龍田越えの坂。
ここも桜が満開だったのでしょう。

美しい女性に対する憧れが強かった虫麻呂は、帰りの一人旅の気安さからか、
理想の美女を瞼に描きながら詠っています。

さて、この歌のどういうところが虫麻呂風なのか?
犬養孝氏は詳細に解説されていますが要約すると以下の通りです。

 1、虫麻呂の歌はほとんど土地名が出てくるがここでも冒頭に場所が示され、
   しかも、行ったことがない魅力を感じたところを描く。

 2、 花が散り落ちて流れる美に陶酔。

 3、 「 君が見む その日までには」は宇合に対する社交辞令で
    心は花の散り際の美しさによせる耽美の気持ち。
    狙いは櫻だけにある。

  4、 「風祭り」すなわち稲の豊作を祈る行事を、桜が散らないように祈る
      祭祀に利用している。
      つまり都会人の感覚で美の為の神に転用した。
     神を畏れ敬っていた昔の時代には見ることが出来ない感覚。

  5、 反歌に「見せたい児」が出てくる。
     「恋人に値する可愛い女性がいればなぁ」と詠い、
     桜に女性を添え、美を求めてやまない虫麻呂。
                               ( 高橋虫麻呂の世界: 世界思想社 )

じっくり味わうと奥深いですね。

     「 櫻花 何が不足で 散りいそぐ 」   一茶


       万葉集その574(虫麻呂の櫻 )  完

       次回の更新は4月8日です。
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by uqrx74fd | 2016-04-01 00:00 | 植物

万葉集その五百七十 (春菜美味し)

( 早蕨:さわらび  小石川植物園 )
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( 蕨とカタクリの花  森野旧薬園  奈良県 )
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( わらび餅  二月堂内の茶店で 奈良 )
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( 芹    奈良万葉植物園 )
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( 芹の花 夏開花   同上 )
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( ゼンマイ  小石川植物園 )
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( 土筆  又兵衛桜の近くで  奈良県 榛原市 )
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( ヨモギ  葛城古道  奈良県 )
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( ヨモギ餅  長谷寺参道で  奈良県 )
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( 蕗の薹    青森ねぶたの里で )
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( 雪間の菜の花 )
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「 春はきぬ 春はきぬ
  浅緑なる新草(にひぐさ)よ
  とほき野面(のもせ)を 画(えが)けかし
  さきては紅き 春花よ
  樹々(きぎ)の梢を 染めよかし

  春はきぬ 春はきぬ
  うれひの芹の 根を絶えて
  氷れる なみだ今いずこ
  つもれる雪の 消えうせて
  けふの若菜と 萌えよかし 」      ( 島崎藤村 春の歌 )

           (うれひの芹) : 憂ひせりと芹を掛けている

雪がまばらに残る早春の野山で頭をもたげるワラビ、ゼンマイ、蕗の薹。
春の日射しを受けながらスクスク育つセリ、ヨモギ、ニラ、ノビル。
古代の人達はこれらの野菜は栄養価が高く、病気への抵抗力を強くする
薬効成分が多いことを長い間の経験で会得していました。

野菜不足の冬、人々は春の兆しが見えるやいなや、喜び勇んで萌え出づる
春菜を摘みに出かけたのです。

「 -娘子(をとめ)らが 春菜摘ますと 
  紅の 赤裳の裾の 
  春雨に にほひひづちて 通ふらむ 
  時の盛りを- 」    
                  巻17-3969 大伴家持(長歌の一部)

( 乙女たちが 春菜を摘もうと 
 紅の赤裳の裾が
 春雨に濡れて 
 ひときは照り映えながら 
 行き来している
 春たけなわの時  )

「摘ますと」は敬語で「摘まれるとて」 仙女を意識してか。
 ここでは通常語訳とした
「にほひひづちて」 濡れて色がいっそう引き立つさま
「ひづちて」は 濡れて

この歌は作者が大病を患った時、心の友、大伴池主に贈ったもので、
このような美しい光景が見ることが出来ないのは残念だと述べています。
春菜摘みは乙女たちの待望の楽しみであり、その様を見る男達にとっても
何よりの目の保養であったことでしょう。

「 いざけふは をぎの やけ原かき分けて
    手折(たおり)てを来む 春のさわらび 」      賀茂真淵

( いざいざ、今日は荻を焼いた野原をかき分け、頭を出している
      早蕨を手折ってこようぞ )
                       「手折りてをこむ」  手折ってこよう

早蕨とは芽生えたばかりのワラビ。
まだ葉がまいているころの茎は柔らかくアクも少なくて美味い。
灰を加えた水に二日ばかり浸してアクを抜き、ゆでて切りそろえ
昆布締めにして一日寝かすと絶品の酒の肴になり、また乾燥させて保存食にしたのち、
戻して和え物や煮物にします。

「 煮わらびの 淡煮の青を 小鉢盛 」 木津柳芽

8~9月頃、根をとって澱粉の原料にしたものが、ワラビ粉で、
ワラビ餅などに加工されます。
きな粉をつけて食べたり、黒蜜を加えたり、美味しいですねぇ。

「 大仏蕨餅 奈良の春にて 木皿を重ね 」 河東碧梧桐

万葉集での早蕨は一首のみですが、次の歌は屈指の名歌とされています。

「 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの
      萌え出づる 春になりにけるかも」  
                      巻8の1418 志貴皇子(既出
)

( しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。
 水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。
 あぁ、もう春だ。
 待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ )

垂水は瀧、躍動するような軽やかなリズムが心地よく、春到来の喜びを
大らかに詠っています。
このような名歌は現代訳にすると趣が削がれ、ゆっくり口誦するに限るようです。

作者は天智天皇の皇子、当時、天武系が幅をきかす中、肩身の狭い存在でしたが、
天武の血統が絶えた後、その子白壁王が光仁天皇となり現在の皇統に続いております。

「 さすたけの きみが みためと ひさかたの
      雨間に出でて つみし 芹ぞこれ 」    良寛


( あなたさまのために 雨降る中で摘んでまいりました芹ですよ。
  これは )

「さす竹」は貴人に掛かる枕詞で「竹がさし茂る」ことから貴人の繁栄を
祝ってのもの、あるいは「立つ竹」の意で貴人の優雅な姿をたとえたとの説があり、
万葉集で既に使われています。
良寛さんは枕詞、「さすたけ」と雨(あめ)に掛かる「ひさかたの」を万葉から引用し、
さらに次の歌を本歌取りしたものと思われます。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
     夜のいとまに 摘める芹これ 」  
                          巻20-4455   葛城王(既出)


( 昼間は役所の仕事で大忙し。
 それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

「あかねさす」「ぬばたま」は枕詞  
「昼は田賜びて」の「賜ぶ」は「賜る」の約で天皇に代わって田を
支給するのでこう言ったもの 
「夜のいとま」勤務後の余暇

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣、橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。
班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を徴収する重要な仕事です。
彼は忙しいながらも暇をみて日頃から心憎からず想っていた女官に芹を摘んで
歌と共に贈ったのです。
おどけながら詠ったもので、相手は親しい間柄だったのでしょう。

芹は日本各地の湿地、水田、小川などに群生するセリ科の多年草で、
「せりあって葉を出す」ことからその名があるとされています。
数ある菜の中でも我国栽培史上最も古く、栄養価の高い野菜の一つで
今日なお、ほとんど改良の手が加えられていない昔のままの姿を持つ
数少ない貴重な植物。
現在は栽培もされているようです。

「 摘みいそげ 木曽の沢井の雪芹の
               いや清くして うまかるらしき 」   太田水穂


                                        以上
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by uqrx74fd | 2016-03-03 19:38 | 植物

万葉集その五百六十八 (梅いろいろ)

( 吉野梅郷  青梅市  ウイルス発生のため2014年すべて伐採された)
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(  同上  )
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(  同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 曽我梅林  小田原市)
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 浜離宮庭園 )
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二月も中旬を過ぎると各地から梅の便りが次々と届いて参ります。
早いものは1月の終わりごろから咲きはじめ、4月上旬まで咲き継ぐ。
中には早咲きの品種なのか、それともポカポカ陽気に誘われたのか、
周りが蕾のままなのに1本だけ満開になっている気が早い梅も見かけます。

この時期になるといつも思い出すのは吉野梅郷(青梅市)。
こんもりとした丘の上に色鮮やかな花を咲かせ、私たちを長らく
楽しませてくれていましたが、2014年、プラムボックスというウイルスに
罹病し、120品種1500本がすべて伐採されました。

まだまだ美しい花を咲かせることができるのに1本残らず切り倒す。
その無念さ、懸命に育ててこられた方々の心情察するに余りあります。
あの華やかな風景を再び目にすることが出来ないことは痛恨の極みであり、
他の梅林にこのようなウイルスが波及しないことを祈るばかりです。

さて今回は万葉集から近代まで、色々な梅の歌を辿ってみたいと思います。
まずは、万葉の庭に咲きだした梅から。

「 春されば まづ咲くやどの 梅の花
     ひとり見つつや 春日暮らさむ 」      巻5-818 山上憶良

( 春が来ると真っ先に咲く庭の梅の花。
 この花をただ一人見ながら、長い春の一日を思う存分過ごすことに
 なりましょうかな )

730年、九州大宰府で催された大伴旅人長官による梅花の宴。
32名の人々が集まり、一人一首づつ詠う我国最初のやまと言葉による歌会で、
文藝史上画期的な試みとされている催しですが、憶良先生は
ただ一人で梅を眺めようかと詠っています。
だが、心優しい作者、主催者を無視するようなことは考えられません。
歌の奥には「あまりにも見事な梅なので、一人で鑑賞するには勿体ない」
という心がこもり主催者に対する賛美を贈っているように思われます。

万葉人は梅を愛し、120首近くの歌を残していますが、香りを詠ったものは
次の1首しか残されていません。
梅が香はまだ歌の題とするには早かったのか、誰も思いつかなかったのか。

「 梅の花 香をかぐはしみ  遠けれど
       心もしのに 君をしぞ思ふ 」 
                      巻20-4500 市原王(既出) 

( あなた様のお庭の梅の香が芳(かぐわ)しく、遠く離れたところまで漂って参ります。
 その香り同様に高いあなた様の人徳。
 私はいつも心からお慕い申しております。)

758年平城京近くの中臣清麻呂宅で催された宴席での歌。
主人は大伴家持とも親しく16歳年上の57歳、式部省の次官です。

歌の作者、市原王は天智天皇の玄孫(やしゃご)で独創的なセンスの持主。
香りがもてはやされた平安時代の先駆をなす一首で、清麻呂の誕生日を寿ぎ、
その人徳を慕う気持を梅の香に託し、且つ女性の立場からの恋歌仕立てに
したものです。

梅が香は平安時代になると多く詠われるようになりますが、表現は洗練され
内容も複雑になってまいります。

「 色よりも 香こそあはれと 思ほゆれ
    誰(た)が袖ふれし 宿の梅ぞも 」  
                           よみ人しらず 古今和歌集

( お庭の梅は色もさることながら 香りが特に素晴らしいと思われます。
 いったいどんな素晴らしい方が袖をふれて香りを残されたのでしょうか )

女性の家を訪ねると馥郁と梅の香りが漂っている。
もしや自分以外の男が訪ねてきたのかしらと様子を窺う作者。
なかなか手が込んでいますね。

「 わがやどの 梅の初花 昼は雪
      夜は月かと 見えまがふかな 」  
                            よみ人しらず 後撰和歌集

終日梅見を楽しむ作者。
初花を雪か月かといとおしむ。
白梅を雪に見立てるのは万葉時代に多用されている手法です。

「 春の夜は 軒端(のきば)の梅を もる月の
     光も薫る 心地こそすれ 」 
                           藤原俊成 千載和歌集

軒端から月の光が洩れている。
その光さえも梅が薫るようだと詠う作者。
さすが垢抜けした美しい幻想の世界です。

軒端: 日や雨などを防ぐため窓、縁側、出入口などの上に設けた小屋根の端
    
近代になると生活に密着した歌も多く登場します。

「 湯の宿に 一人残りて 昼過ぎの
      静かなる庭の 梅を愛すも 」    伊藤左千夫

温泉に浸かりながら庭の梅を眺める。
燗酒がかたわらに。
いいですなぁ。

「ほのぼのと 明けゆく庭に 天雲(あまぐも)ぞ
    流れきたれる しら梅散るも 」      石川啄木

啄木さんも万葉集も勉強されていたと思われる一首。
次の歌の本歌取りではなかろうか。

「 わが園に 梅の花散る ひさかたの
    天(あめ)より雪の 流れくるかも 」 
                    巻5の822  大伴旅人(既出)

( あれっ 梅の花びらが空から降ってくる。
  まるで雪が流れてくるようだね )
 
ひらひらと舞い落ちてくる花びらが風にあおられて吹き上がり、
やがて地面を白く覆い尽くしてゆきます。
花が「流れる」という斬新な表現は万葉時代既に使われていたのです。

ざっと万葉時代から近代まで駆け抜けましたが、歌の表現、技巧は違っても
梅を愛する人の心は同じでした。

清楚で凛とした気品を持ち、百花に先駆けて咲く梅は当初、食用、薬用として
中國からもたらされた実用第一の植物でした。
万葉集で「うめ」の漢字表記は「烏梅」が多く、梅の実が烏(カラス)のごとく
真っ黒に燻した「うばい」という漢方薬や紅染の触媒剤であったことが
示されています。

花の鑑賞は後に文人たちの間で起こり、漢詩から始まりましたが、
大宰府の梅花の宴で「やまと言葉」による歌会で詠われて以来、
我国独自の境地に変化し、今日に至っております。

「 むめがかに のつと日の出る 山路かな 」 芭蕉

    むめがかに: 梅が香に

( 夜明けの山路は清冷の気に満ち、余寒が頬に冷たい。
 どこからか梅の香が漂ってきたとき、
 彼方の雲を分け のっと朝日が射し出た。 ) 「 芭蕉全句  小学館より」
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by uqrx74fd | 2016-02-19 06:48 | 植物

万葉集その五百六十六 (玉藻と海苔)

( 養殖海苔発祥地大森には問屋が多く残る)
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( 大森海苔 名産御膳乾海苔所と記されている )
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( 海苔の保存箱  お茶屋が海苔屋を兼業しているのは保存技術を生かせるから
              : 大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔干し  大森海苔のふるさと館 )
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( 海苔船からの採取 第2次大戦後   同上)
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( 荒波で散乱した海苔を玉網ですくい取る作業 (ふっきり拾い) 同上
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( ヒビ建て  ナラやクマギの枝に海苔の胞子を付け養殖する 高下駄を履き
         太い棒を突き立て海底に穴を開けてヒビを突き立てる   同上)
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( 海苔の養殖風景  震災前の相馬双葉 )
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( 生きている海苔 大森海苔のふるさと館 水槽 )
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( ホンダワラの見本  市川万葉植物園 )
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( 羅臼昆布 )
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( 若布  鎌倉材木座 )
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( 東京湾での海苔つくり風景:江戸時代  柴田是真 諏訪神社に奉納 大森海苔のふるさと館)
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玉藻とは美しく、立派な藻の意で海藻の総称とされています。
ミネラルの宝庫、コンブ、ワカメ、アラメ、ミル、ヒジキ
風味がよいアマノリ、アオノリ、アサオ、
寒天に加工できるテングサ、フノリなど。
採集しやすく、栄養に富み、乾燥すれば持ち運びが容易な海藻は
昔も今も貴重な食材です。

延喜式によると藻の料理は醤(ヒシオ)、酢、飴、酒などの調味料を使い、
ナス、マメ、ナギ、ショウガ、ノビル、などと煮て和え物にしたり、
酢の物、吸い物など現在と変わらない食べ方をしていたようです。

万葉集では74首の藻の歌が見られ(内玉藻 57首)、身近で生活に必要不可欠な
食材であったことが窺われますが、藻そのものを詠ったものは少なく大半が恋の歌。
次の歌は藻刈を詠った数少ない例外で、百人一首で有名な「これやこの」という
言葉が既に出てまいります。

「 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に
   玉藻刈るとふ 海人娘子(あまおとめ)ども 」
                           巻15-3638  田辺秋庭


( これがまぁ、名にし負う鳴門の渦巻き。
そんな激しい渦巻きに掉さして玉藻を刈るという,海人娘子たちなのか )

新羅に派遣された使人が鳴門にさしかかった時に目にした光景。
名だたる鳴門の渦潮をものともせず、小舟を巧みに操って玉藻を刈る
娘たちに驚嘆し、褒めたたえています。
当時「藻刈舟」に乗り、竿に鎌を括り付けて海に靡く海藻を
刈り取っていましたが、女性が鳴門の渦潮逆巻く危険な場所にまで
出かけていたとは信じられないことです。
このような光景を目の当たりにした作者が驚嘆したのも無理もありません。

( ご参考:百人一首 

  「 これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも 逢坂の関 」  蝉丸 )

「 風高く 辺(へ)には吹けども 妹がため
         袖さへ濡れて 刈れる玉藻ぞ 」 
                            巻4-782 紀郎女(きのいらつめ)


( 風が高く吹き渡り岸辺に激しい波がよせていました。
 でも、これは、あなたのためにと思って袖まで濡らして
 刈り取った藻ですよ。)

こちらは磯の岩礁に貼りついた海藻を鎌で刈り採ったもの。
詞書に藻に何かを包んで友に渡したとあり、親しい女友達に贈り物をしたときに
添えた歌のようです。
乾いた海藻に海産物でも包んだのでしょうか。
藻でプレゼントを包んだというのも奇抜な趣向が面白く、受け取った女性は
さぞ驚き喜んだことでしょう。
当時の女性の髪は長く、緑なす黒髪にはヨードを大量に含む海藻を食することが
何よりも効果的でした。

「 荒磯(ありそ)越す 波は畏(かしこ)し しかすがに
      海の玉藻は 憎くはあらずて 」
                           巻7-1397 作者未詳

( 荒磯を越す波は恐ろしい。
 でも、波に寄せられる玉藻は決して憎くはないんだよ )

こちらは恋の歌、美しい女に惚れた男が女を玉藻に譬え、
どんなに苦難があろうとも荒波を乗り越えて結ばれたいと願っています。
当時、娘の結婚については母親の発言力が強かったので、
何らかの事情で猛烈に反対されていたのかも知れません。

「 花のごと 流るる海苔を すくひ網 」  高濱虚子

海苔は太古の時代から食されていたと推定されていますが、文献での記述は
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」の
「ヤマトタケルが常陸国乗浜で海苔を干しているのを見た」
「出雲国風土記」の
「紫菜(のり)は楯縫郡(たてぬひのこほり:島根県出雲)がもっとも優れている」
などに見られ、さらに公式文書としては、701年に公布された大宝律令に
税(調)の対象として紫菜(のり)の貢納を定めた記述などがあります。

当時は生海苔か、素干しだったので日持ちがせず、極めて高級品として
扱われていました。
因みに「のり」の語源は、生海苔のぬるぬるした感触をさす「滑(ぬら)」が
転訛したものとか。

鎌倉時代、源頼朝が伊豆名産の海苔を4回にわたって朝廷に献上し、
以来、岩海苔は贈答用に使われ、室町時代は僧坊料理や喫茶の茶うけとしても
食されました。

「 海苔の香や 障子にうつる 僧二人 」 
                      梅室 (ばいしつ:江戸末期の俳人)

今日の一般的な「板海苔」の誕生は江戸時代からで、「ヒビ」といわれる
生簀の柵で養殖がはじまり、生海苔を細かく刻んで水に溶かし、
紙漉の要領よろしくスノコで薄く延ばして作る製法が確立すると
生産が飛躍的に向上し、巻きずしなど江戸っ子には欠かせないものになりました。

昭和24年、イギリスの海藻学者ドリユー女史が海苔の糸状体を発見。
これにより海苔のライフサイクルが解明され、不確定な天然採苗に変わり
人工採苗が実用化され大量生産が可能となりました。

2月6日は海苔の日。
この日は、大宝律令が施行された大宝2年1月1日を西暦に換算すると
702年2月6日になるとのことで、昭和41年、海からの贈り物、
海苔に対する感謝の気持ちを込めて全海苔漁連が定めたそうです。

  「 海苔あぶる 手もとも袖も 美しき 」 滝井孝作
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by uqrx74fd | 2016-02-05 06:30 | 植物

万葉集その五百六十二 (玉箒:たまばはき)

( 玉箒:たまばはき  現代名 コウヤボウキ  この枝を束ねて箒を作る  奈良万葉植物園)
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( 同上 )
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( コウヤボウキの花  秋9~10月に咲く   かんな屑のような花穂が可愛い 同上)
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( 玉箒   正倉院、複製が東京国立博物館に収蔵されている )
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玉箒はキク科の落葉低木で、葉が落ちた後の枝を束ねて箒にし、ガラス玉の
飾りを付けたことからその名があります。
元々、蚕の床を払う用具とされていましたが、次第に華美になり装飾品になったようです。

現在名はコウヤボウキ。
その昔、高野山で竹を植えることを禁じていたので、この植物の枝を
箒にしたことから命名されたとか。
何故、竹を植えることが禁じられたかというと、竹は筍が育ち、色々な用具の
材料になることから、人間の欲望を生じさせるものとされ、戒律が厳しかった
空海の寺ならではのことです。

万葉集では2首登場し、一首は新春を寿ぐ下賜品、残りは単なる箒として
詠われています。

「 初春の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき)
   手に取るからに  揺らく玉の緒 」 
                          巻20-4493 大伴家持 (既出)


( 初春の初子の今日、お上から玉箒を賜りました。
  手に取ると玉がゆらゆらと揺れ妙なる音を立てます。 
  何とめでたい佳き日でしょか )

玉の緒とは玉を通した紐。
古代、玉は命、魂とされ、緒に貫くことにより生命の永続を願ったのです。

華やかに「初春の」「初子(はつね)の」「今日の」と「の」で繋いだ
流れるようなリズムが快く響き、玉がかすかに触れ合う音、「たまゆら(玉響)」が
いまにも聞こえてきそうな新春にふさわしい名歌です。

この歌の詞書によると次のようなことが記されています。
『 758年正月3日の最初の子の日に宮中で孝謙天皇主催の農耕、養蚕を
勧奨する行事が催され、農耕の具である辛鋤(からすき:鋤)と
蚕の床を払う玉箒が神前に供えられ、その年の収穫の豊かならんことを祈られた。
その後、伺候している王族や官僚たちに「玉箒」を下賜され、
宴席で「自分たちの技量に応じそれぞれ自由に歌をつくって披露せよ」と命じられた。
しかしながら、(家持は行事を司る部署であったためか忙しく)、その折の歌を
手に入れることが出来なかった 』

なお、この日に使われた「玉箒」(子日 目利箒:ねのひの めとき の ほうき)は
東大寺から皇室に献上され現在、正倉院に、また、その複製品が
東京国立博物館に収められています。

根元を金糸で束ねた美麗なもので当時の華やかな宴会の様子が偲ばれますが、
色とりどりに飾られた瑠璃(ガラス)は、ほとんど脱落して2~3個の残すのみです。

「 玉掃(たまばはき) 刈り来(こ) 鎌麻呂 むろの木と
     棗(なつめ)が本(もと)と かき掃(は)かむため 」 巻16-3830 
                            長忌寸 意吉麻呂(ながのいむきの おきまろ)


( 鎌麻呂よ 箒にする玉掃を刈ってこい。
 むろの木と棗(なつめ)の木の根元を掃除するために )

「 玉掃 鎌、むろの木 棗(なつめ) 」を詠めといわれ、
  清掃を主題にまとめた宴席での歌。

「棗」は「そう」とも訓み「掃」「早」を懸け「掃除のために早く刈ってこい」
さらに、「刈り」(カリ)、「来」(コ) 、鎌麻呂(カママロ)と「カ」行を重ねた
機知ある一首です。

「むろの木」はヒノキ科ビャクシン属の針葉樹で「実が多くつく」
すなわち「実群(み むろ)」の意からその名があるといわれています。

葉は硬質。鋭く尖っていて、触ると痛いので、昔の人は鼠の通り穴に置いて
その出没を防いだことから「ネズミサシ」、「ネズ」の別名があり、
漢方ではその実を杜松子(としょうじつ)といい利尿、リュウマチに薬効ありと
されています。

更に棗(なつめ)の枝にも棘があり、そのような歌を即座に思い浮かべることが
出来る作者は大変な才能の持主。
宴席の人気者だったことでしょう。

「 玉ばはき 星を見るにも 君が代は
         ちりおさまりて  いやさかへなん 」 
                               権僧正公朝


( あなた様の代は これから 星のように輝き、
 玉箒で払いのけた塵が散りおさまるごとく
 大いに栄えることでございましょう。)

      新しい年が皆様にとって良い年でありますように
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by uqrx74fd | 2016-01-08 06:17 | 植物