カテゴリ:植物( 202 )

万葉集その五百二十九 (山吹いろいろ)

( 山吹と桜の競演   新宿御苑 )
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(  見事な山吹    同上 )
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( 柳、桜、山吹   同上 )
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(  北鎌倉 明月院 )
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( 東京大学小石川植物園 )
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( 白山吹  市川万葉植物園 )
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( 八重山吹   東大小石川植物園 )
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(  薬師寺花会式のポスター )
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(  同上 山吹、梅、椿、牡丹の造花   )
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754年の4月中旬、山野に山吹が咲き乱れている頃のことです。
置始長谷(おきそめの はつせ) という人物が、明日香の別宅に滞在していた
大伴家持を訪ねました。

長谷もこの近くに住んでおり、久しぶりの顔合わせ。
手土産に自宅の山吹を手折って壺に入れて持参したところ、家持大いに喜び、
「 これは これは 何よりのお心づかい 。
  かたじけのうございます 」
と一枝を取り出し頭に挿して見せました。

古代、山吹は神聖なものとされ、魔除け厄除けに効ありと信じられていたので
心からの感謝の意を示したのでしょう。

長谷は思わずにっこりと笑い、詠います。

「 山吹は 撫でつつ生(お)ほさむ ありつつも
     君来ましつつ かざしたりけり 」 
                    巻20-4302 置始連長谷(おきそめの むらじ はつせ)

( この山吹の花は これからも慈しんで育てましょう。
 このように変わらずに咲いているからこそ あなたがここにおいでになって
 髪飾りにして下さったのですから )

「つつ」を3回も重ね、決して上手とは言えない武骨な歌ですが、
精一杯の気持ちをこめて絞り出すように詠った?1首です。

「 撫でつつ生(お)ほさむ 」 大切に育てる
 「 ありつつも 」    そのままの状態で
「 君 来ましつつ 」   あなた様(家持)が例年おいで下さって

作者は伝未詳の人物ですが、皇后の前で維摩経を唱えたとの記録があります。

返す家持。

「 わが背子が やどの山吹 咲きてあらば
    やまず通はむ いや年のはに 」
                         巻20-4303 大伴家持


( あなたのお庭の山吹 その花がいつもこんなに美しく咲いているのなら
 これから先も しょっちゅう お訪ねいたしましよう。
 来る年も来る年も )

「わが背子」 置始長谷(おきそめのはせ)を親しみこめていったもの
「咲きてあらば」 咲いている限りずっと
「年のはに」 「年毎に」(としのはに) で毎年々々

万葉集で詠まれた山吹は17首ありますが、そのうち家持作が7首。
よほどこの花が好きだったのでしょう。

歌の挨拶が終わり、欅の大木の下で酒を酌み交わし旧交を温める二人。
一献また一献。
爽やかな風が通り過ぎてゆく五月晴の一日です。

山吹好きと言えば、左大臣 橘諸兄。
天平の頃 諸兄は山城の国(京都),井手の里、玉川のほとりに山荘を営み、
遣水した庭園を中心に山吹を植え、さらに川の両岸も花で埋め尽くし、
黄金の世界、極楽浄土を出現させました。
それを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸され(740年)、天下に喧伝されて以来、
「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど詠われるようになります。

「 駒とめて なほ水かはむ 山吹の
    花の露そふ  井手の玉川 」    
                         藤原俊成 (新古今和歌集)

( 馬を止めて水を飲ませよう。
 そして私はその間、心行くまで山吹を眺めよう。
 花に置く露が流れ落ちているこの井手の玉川で。)

露は玉川の玉と縁語、あたかも山吹が泣きぬれた女性であるかのような
艶なる趣を醸し出しており、美女と逢瀬を楽しんだのかもしれません。

流石に俊成、洗練された詠み口ですが、万葉集に本歌があります。

「 さ檜(ひ)の隈(くま) 檜(ひ)の隈川に 馬とどめ、
    馬に水飼(か)へ 我(わ)れ外(よそ)に見む 」 
                            巻12-3097 作者未詳


( さ檜隈を流れる檜隈川の岸に馬を止めて、馬に水を飲ませて下さい。
 その間にも私は脇からあなた様の姿をこっそりと見ましょう)

素朴な田舎の女性が詠んだ歌のようですが、男に憧れる乙女の純真な気持ちが
感じられ、うっとりとした表情が目に浮かぶ1首です。

「さ檜の隈 檜の隈川」は奈良県明日香村檜前(ひのくま)を流れる川

「 恋の山吹 情けの菖蒲(あやめ)
      秋の枯草 しをれ草 」  (山家鳥虫歌) 



  恋の山、情けのあや、秋の飽き、失恋のしおれ などを掛けて
  女心を詠ったもの

今年は山吹の開花が早かったせいか、桜との共演が随処でみられ
桃色と黄色の取り合わせは女性の艶やかな踊りを見るようでした。
特に新宿御苑の「 桜、柳、山吹をこきまぜた」風景は見事。
まさに万葉の世界にひたっているような気分でありました。



お知らせ :
次回の投稿は5月31日(日曜日)になります。

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by uqrx74fd | 2015-05-21 21:09 | 植物

万葉集その五百二十五 ( 散る桜 )

( 寒緋桜の花筏   横浜 山手11番館の近くで )
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(  同上 )
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( 玄賓庵の砂庭に散り敷かれた桜の花びら  山の辺の道 奈良 )
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(  醍醐寺  京都 )
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(  同上 )
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(  同上 可憐なスミレが美しい )
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(  八重桜の絨毯   高千穂神社 佐倉市 )
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(  つつじの上に散った桜  同上 )
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( 千鳥ケ淵  東京 )
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(  同上 )
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(  同上 )
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「 空をゆく 一とかたまりの 花吹雪 」    高野素十

数年前のことです。
石仏で有名な般若寺を参拝した後、奈良坂から佐保丘陵を横切るような形で
佐保路、平城京跡へ向かいました。
丘の麓に佐保川が流れ、遠い昔、大伴旅人の邸宅があったと伝えられているところです。

好天に恵まれ、紺碧の空。
杉木立が続く細い道を通り抜けるとやがて桜並木。
山桜の大木が「にほふがごとく 今盛りなり」と咲き誇っています。
あまりの見事さにしばし立ち止まって見上げていると、突然一陣の強い風が吹き起こり、
花びらが舞い上がりました。

あっという間もなく次から次へと散ってゆく。
まるで雪が降りそそいでいるような花吹雪です。
時折、地面に届きそうになった花びらが下からの風にあおられて再び舞い上がり
思いきり高く飛んでゆく。
驚き、その美しさに感動し、ただただ呆然と見惚れるのみでした。

満開の桜は見事だが、舞い落ちながら散り敷く桜はさらに美しい。
西行は昼間のこのような光景を夢にまで見て次のように詠っています。

  「 春風の 花を散らすと 見る夢は
         さめても胸の さわぐなりけり 」     西行   山家集

私が歩いてきた佐保丘陵は昔、桜の名所であったらしく万葉集に次のような歌が
残されています。
    
「 阿保山の 桜の花は 今日(けふ)もかも
     散り乱(まが)ふらむ  見る人なしに 」 
                         巻10-1867 作者未詳

( 阿保山の桜の花は 今日もまたいたずらに散り乱れているだろうか。
 見る人もいないままに )

作者は昨日見た桜の花びらの乱舞が目に焼き付いていたのでしょうか。

「 散る桜の美しさを愛でる人がいないのは惜しいなぁ。
  自分も見たかったのに今日行けないのが残念だ 」

阿保山は奈良市の西北の丘稜、在原業平ゆかりの不退寺の裏山とされていますが、
その近くに光明皇后が晩年住んでいたとされる法華寺や磐姫皇后の御陵もあり
少し足をのばすと平城京跡です。

「 花びらの 山を動かす さくらかな 」   酒井抱一


満開の花、風が吹くたびにひらひら散るはなびら。 
山全体が揺れ動くような酔い心地。

散る桜を愛でる万葉人。
そこには後世に見られる命のはかなさを詠う無常観は微塵もみられません
古代の人にとって精一杯咲き、散るべき時に散る桜は命の再生と農作物の豊穣を
予祝するめでたきものでした。

以下は栗田勇さんのお話です。

『 どんな花でも散りますが、なぜ散る桜なのか。
  満開で強風の時でさえも1枚の花びらが散らないのに、突然わずかな風に
  舞い上がって桜吹雪になっている。
  とことんまで咲ききって、ある時期が来たら一瞬にして、一斉に思い切って散ってゆく。

  こうした生ききって身を捨てるという散り際のよさが、日本人にはこたえられないのではないでしょうか。
  そこに人生を重ねて見るんですね。
  静かに散るのではなく、花吹雪となって散るという生き生きとした
  エネルギーさえも桜から感じられるのです。

  散ると言っても、衰えてボタンと落ちるのではないのです。
  むしろ散ることによって、次の生命が春になったらまた姿をあらわす、
  私は生命の交代という深い意味でのエロティシズムの極地のようなものが
  そこに見えるのではないかといいう気がします。 』

                                     ( 花を旅する 岩波新書 )

    「花吹雪 浴びてしづかに 昂奮し」 神田敏子
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by uqrx74fd | 2015-04-23 21:06 | 植物

万葉集その五百二十 (春柳 )

( 柳が芽吹きました  東京国立博物館  2015,3,6撮影)
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(  梅から柳へ    同上 )
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(  東大寺三月堂前 )
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(  奈良ホテルの近くで )
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( しだれ柳と枝垂れ桜   氷室神社  奈良国立博物館の近く )
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( 東大寺大仏殿前 )
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( 同上 )
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( 朱雀門  平城京跡 )
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( 皇居前の大柳 )
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柳は中国から渡来したヤナギ科の植物で遣唐使がもたらしたものとされています。
世界で400種、我国でも約40種あるそうですが、専門家といえども全ての種を
見ただけで正確に特定することは難しいようです。

我国で多いのはシダレヤナギ。
早春、梅が芳しい香りを漂わせ、やがて散りはじめる頃になると、今まで固く
閉じていた芽が一斉に開き、清々しい浅緑色の枝を風に靡かせます。

万葉集での柳は36首(別途川楊4首)、そのうち梅と共に詠われているのが16首もあり、
両々相まって春をもたらす景物として愛でられていました。

「 春雨に 萌えし柳か 梅の花
   ともに後れぬ 常の物かも 」 
                      巻17-3903  大伴書持(ふみもち)


( この柳は春雨に誘われて萌え出たものか。
 それとも梅の花が咲き揃うにつれて遅れじと萌え出すいつもの柳なのか )

梅に誘われたように芽吹いた柳。
春雨は花の開花を促すものと考えられていましたが、作者は
「いや、これはきっと梅に誘われて萌えだしたに違いない」と詠っています。
待ちに待った春到来の喜び。

「 朝な朝な 我が見る柳 うぐひすの
     来居(きい)て鳴くべく 茂(しげ)に早やなれ 」 
                           巻10-1850 作者未詳


( 来る朝ごとに私が見ている柳よ、
 鶯が飛んできて枝に止まって鳴けるように
 一日も早く大きな茂みになれよ )

青々とした芽が少し頭を出したばかりなのでしょう。
鶯の囀りを心待ちにしている作者。
梅や竹との取り合わせは多く見られますが、柳に鶯が止まるのかなぁ?

「 ももしきの 大宮人の かづらける
     しだり柳は 見れど飽かぬかも 」
                          巻10-1852 作者未詳

     〈 大宮びとが蘰(かずら)にしているしだれ柳。
       見ても見ても飽かないことよ 〉

平城京の大通りで風に靡く柳並木の下を颯爽と闊歩するきらびやかな大宮人。

古代の人達は柳の若々しい生気を身に受けるため、細い枝を丸く輪にして
頭に巻いたり、載せたりして長寿と幸いを祈りました。
作者が眺めている柳はもう大きくなり青々としているのでしょう。

「 柳こそ 伐(き)れば生えすれ 人の世の
    恋に死なむを いかにせよとぞ 」
                           巻14-3491  作者未詳


( 柳なら伐ってもまた生えもいたしましょう。
 でもこの私は生身、あなたに恋い焦がれ死にそうになっているのに
 どうしろとおっしゃるのですか )

片想いの苦しさを訴える女。(男説もあり)

「 柳は何度でも再生出来るのに、人は死んだら終わり。
  さぁさぁ、どうしてくれますの 」
と云う調子で迫られたら怖いですね。

柳はその生命力の強さから神霊が宿ると信じられて寺社、屋敷の外側に植えられ
悪霊を追い払う守護神とされました。
池の周りや田の近くに植えられているのは長く伸びる根で堤防を強化することも
兼ねているとか。

柳は様々な用途があり、枝を切り取って苗代の水口に挿して豊作を祈願し、
正月の雑煮に柳箸や餅花の飾りに。
弓矢を作って山の神に供え、丈夫な柳行李にも変身します。
行李になるのはコリヤナギという種類です。
特筆されるのはセイヨウシロヤナギ。

紀元前400年頃、ヒポクラテスは病人の熱や痛みを軽減するためにヤナギの樹皮を用い、
また、分娩時の痛みを和らげるために柳葉を使用していたという驚くべき記録が
残っているそうです。

それから長い年月を経て19世紀にヤナギの木からサルチル酸が分離され、
遂に1897年、ドイツのバイエル社、フェリックス・ホフマンが副作用が少ない
アセチルサリチル酸、世界で初めて人工合成された医薬品「アスピリン」を
誕生させました。

今やあらゆる病気の消炎、解熱、鎮痛や抗血小板作用に不可欠な医薬品となっており、
人類に対する貢献度は目覚ましいものがあります。

アスピリンのルーツとなった柳のエキス。
その生命力恐るべしです。

  「 みわたせば 柳桜をこきまぜて
         都ぞ春の 錦なりける 」   素性   古今和歌集 



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by uqrx74fd | 2015-03-19 17:11 | 植物

万葉集その五百十八 (ネコヤナギ)

( ネコヤナギ 市川市万葉植物園 )
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( 赤い爪のよう  同上 )
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( 飛び出したものの寒そう  赤い帽子と襟巻みたい  同上)
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( ピンク色が映える  同上 )
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( 暖かそう、 猫の尾のよう  月ヶ瀬梅林  奈良県 )
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( 梅と一緒に咲きました  青梅市 )
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( 花芽が飛び出した  千葉県成東 )
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早春、水辺で光沢のある銀白色の絹毛が密生した花穂をふくらませるネコヤナギは
猫の尾に似ているところからその名があり、古くは川楊(かはやなぎ)とよばれていました。
「楊」は木の枝が立っていることを意味し「柳」と書くと枝が下へ垂れている「しだれ柳」。
この使い分けは厳密に区分されているわけではありませんが、共にヤナギ科の落葉低木です。

芽は赤く、暖かくなるにつれて先端が割れて白銀色の花穂が顔をだすと
まるで赤い帽子をかぶっているように見えて微笑ましく、
「ようやく春が来ました」と呟いているようです。

「 山の際(ま)の 雪は消(け)ずあるを みなぎらふ
    川の沿(そ)ひには 萌えにけるかも 」 
                                巻10-1849 作者未詳

( 山あいの雪はまだ消え残っているのに
     水があふれ流れている川のそばで 川楊が早々と芽を吹き出しましたよ)

この歌は「柳を詠む」と題されている4首のうちの1首。
「川の沿い」と詠まれているので川楊と確認できます。

「みなぎらふ」は「漲(みなぎる)の継続体で、山の雪が融けて水かさが満々と
なって流れている様子を詠っており
「 雪が融けて 川となって 山を下り 谷を走る」(おヽ牧場はみどり)を
口遊(くちづさ)みたくなるような早春の浮き浮きした雰囲気を醸し出している一首です。

「 霰(あられ)降り 遠江(とほつあふみ)の 吾跡川楊(あとかはやなぎ)
     刈れども またも生ふといふ 吾跡川楊 」
                            巻7-1293 柿本人麻呂歌集 (既出)

( 霰が降る中で吾跡川の川楊よ。
  刈っても刈ってもあとからすぐすぐ生えてくる吾跡川の楊よ )

この歌は旋頭歌といい五七七 五七七調の変則形。
楊の生長と再生力を詠いながら恋心がしきりに湧いて止められないことを
例えた歌ですが民謡のような明るい雰囲気を持っています。

「霰降り」はあられが板屋根などに打ちつけてトホトホと音を立てるというので
遠江に掛かる枕詞とされ、また、霰(あられ)の原文表示が「丸雪」、
これを「あられ」と訓ませる作者のユーモアセンスたっぷりの歌です。

なお、「遠江(とほつあふみ)」は都から遠い淡海(あはうみ)ということで浜名湖をさし、
逆に近い淡海、すなわち琵琶湖は近江と書き、あはうみ→あふみ→おうみ と
転訛しました。
吾跡川(あとかは)は浜名湖の北側を流れる現在の跡川です。

ネコヤナギの青々としていた枝は冬の厳しい寒さに耐えて鍛えられ、しなやかに、
そして、強靭になり臙脂色に変化します。
その樹皮を乾かしたものを煎じて飲むと扁桃炎や風邪、リウマチの発熱に効あるそうです。

柳はその旺盛な生命力から悪霊を追い払う植物とされ、昔から建物の外側に植えられて
きましたが、形を変えても人間を守ってくれているのですね。

新春を彩る活花としても欠くことが出来ないネコヤナギ。
これからも春告げ花として愛され詠い続けられることでしょう。

「 霧雨のこまかにかかる猫柳 
      つくづく見れば  春たけにけり 」 北原白秋

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by uqrx74fd | 2015-03-05 17:10 | 植物

万葉集その五百十四 (初梅)

( 早くも満開の梅  皇居東御苑 )
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( メジロ  同上 )
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( 同上 )
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( 白梅の開花は数輪  同上 )
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( 紅梅は七分咲き  同上 )
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( 立ち姿が美しい松  同上 )
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( 橘の実  同上 )
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( 蝋梅も満開  同上 )
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立春を過ぎると気持ちが華やぎ「梅はまだかいな」とそわそわいたします。
冬枯れの中に春の兆しを探り、花に出会えなくても「それはそれでよろしい」と
心得るのが探梅の心馳せだそうですが、「せめて一輪なりとも」と期待するのが凡夫の悲しさ。

寒風吹きすさぶ中、皇居東御苑に出かけました。
数日前に雪が降り、日射しの当たらない石垣の下には斑模様の白い塊が残っています。
緑鮮やかな松、黄金色の実をたわわに付けた橘の他は寂寥とした冬景色。
裸の桜並木はいかにも寒そうです。
近づいて枝の先をよく見ると小さな蕾がほんの少しだけ頭を出し「何時出ようかな」と思案気のよう。

「さぁて 梅は 」と見渡すと白梅が一輪また一輪、紅梅は七分咲。
先ずは満足しながら「もう十日も経てば見頃かな」思いながらゆっくりと
坂道を下って行きました。
すると、何と! 満開の梅が枝を大きく広げているではありませんか。
しかも艶やかなピンク色です。

「 霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに
       春日の里に 梅の花見つ 」 
                            巻8-1434 大伴宿禰三林(既出)

( 霜も雪もまだ消えやらぬのに 思いもかけず春日の里で 梅の花を見たことよ )

「春日の里に」を「御苑の庭に」と置き換えると我が心境にぴったり。
さらに幸運にもメジロが花を啄んでいるのです。
飛び交う度に枝花が揺れますが、散ることもなく静かに晴れやかに咲き続けています。

「 わがやどの 梅の下枝(しづえ)に 遊びつつ
    うぐひす鳴くも  散らまく惜しみ 」
                      巻5-842 高氏海人(かうじ あま)

( この我らが庭の梅の下枝を飛びかいながら鶯が鳴き立てている。
  花の散るのをいとおしんで )

メジロは鳴きませんでしたが、美しい羽色を存分に見せてくれました。
海外からの客さんも大喜び。
次から次へと記念撮影です。

「 梅の花 咲けるがなかに ふふめるは
     恋か隠れる 雪を待つとか 」 
                 巻19-4283 茨田 王(まむたの おほきみ)


( 梅の花 この花が咲いている中に まだ蕾のままのものがあるのは
  訪れて来る人を待つ思いをこめてのことでしょうか
  それとも、雪を待ってのことなのでしょうか )

古代、歌の世界では白梅と雪、鶯との取り合わせが好まれました。
散る花びらを雪のようだと詠い、美しい鳴き声にうっとりと聴き惚れ
春の訪れを寿いだのです。

梅の一角から離れるとまだ冬の世界ですが、大手門の近くに黄色い花。
近づくと馥郁とした香りが漂ってきました。
先駆けの花、蝋梅です。

これからは三寒四温の日々。
本格的な春の訪れも近いことでしょう。

     「 探梅や 枝の先なる 梅の花 」    高野素十
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by uqrx74fd | 2015-02-05 17:52 | 植物

万葉集その五百十三 「茜(あかね)さす」

( 茜色  色の手帳 小学館より ) 
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( あかねの根  高温で煮て染料にする  yahoo画像検索 )
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( あかねさす富士の裾野 )
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( あかね雲 )
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( アルピコ交通 上高地線のカラフルな列車 )
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( 天平祭の華やかな衣装 奈良平城京跡 ポスター )
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( アキアカネ     yahoo画像検索 )
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( あかねの花  遠くから見ると蕎麦の花のよう   yahoo画像検索 )
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( 同上 )
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「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                           巻1-20  額田王(既出)

「あかね」は山野に自生する蔓(つる)性の多年草で、根を高温で煮て赤色の染料に
することからその名があり、植物名であると同時に色名として使われています。
「さす」は「光や日が射す」などの自然現象をいい、万葉人はこの二つの言葉を合わせて
鮮やかな赤色をふまえた情緒感あふれる素晴らしい表現を造り出しました。

上記の額田王の歌はあまねく知られていますが、万葉集では13首も「あかねさす」が
登場しており、古代の歌人にとって馴染み深い成句だったことが窺われます。

ただ、植物そのものを詠った例は1首もなく、すべて昼や日、さらに色彩の類似から
紫や紅に掛かる枕詞として用いられているのは、染色された茜色の鮮やかさに比べて
初秋に咲く白い小花が地味で目立たないせいだったからでしょうか。

「 あかねさす 日の暮れゆけば すべをなみ
    千(ち)たび嘆きて 恋ひつつぞ居る 」
                           巻12-2901 作者未詳

( 日が暮れてゆくと何ともやるせなくて 私は幾度も幾度も溜息をつきながら
      あの方を恋慕っているのです。)

「すべをなみ」は術無(すべなし) の意。

男の訪れを今か今かと待つ女。   
たまらず外に出て通りを見渡すが人影は見えず。
あたりが次第に暗くなってゆく中で肩を落として待つ女のやるせなさ。

「 あかねさす 昼は物思(ものも)ひ ぬばたまの 
        夜はすがらに 音(ね)のみし 泣かゆ 」
                      巻15-3732 中臣宅守(なかとみのやかもり )

( 明るい昼は昼で物思いにふけり、
 暗い夜は夜通し声を上げて泣けてくるばかり )

738年前後、朝廷の官人である作者は新婚早々勅勘の身となり越前に配流されます。
罪の理由は女官との禁断の恋、重婚、政治的策略説などあり、はっきりしません。
恋の相手は狭野芽上娘子(さの ちがみのおとめ)。
二人がやり取りした恋歌は宅守40首、娘子は23首という膨大なものです。
約1年8か月ばかりを経て赦され、昇進して都に栄転したところを見ると、
はやり政治的事件に巻き込まれた失脚かと思われます。

「 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの
      夜(よ)わたる月の 隠らく惜しも 」
                          巻2-169 柿本人麻呂

( 天つ日は照り輝いているけれども 夜空を渡る月の隠れて見えぬことの悲しさよ。)

「ぬばたま」は檜扇の古名で実が黒いことから夜に掛かる枕詞。

昼の太陽、夜の月を対比させ、「あかねさす」「ぬばたま」を添えることにより
白黒、明暗、色彩感あふれる世界を生み出し、奥深い情緒を感じさせています。

この歌は689年、天武、持統天皇の皇子、草壁皇子の1回忌の席で詠われたもので
月は草壁、日は持統を暗示し、歌の前段に次のような趣旨の長歌があります。

『 天地開闢の神話によると先帝天武天皇は神の子として明日香に降臨され、
神のままに瑞穂の国の統治を行ったが、あとを草壁に任せて天界に帰られた。
それゆえに人々はその皇子の統治に期待を寄せていたのに、
残念ながら真弓の丘などに籠ってしまった。
皇子に仕えていた人々はただ途方に暮れているばかりである。』

ライバル大津皇子を冥界に退けてまで草壁天皇即位にすべてをかけた持統女帝の
落胆はいかばかりであったことでしょうか。

万葉人に愛された茜色。

我国のアカネは根が細く必要量を得るのに手間がかかる上、鮮やかな緋色にするために
高温に保った器で根を煮出し触媒剤(灰)を使い、厄介な副成分であるタンニンを取り除き
さらに紫草や紅花と交染するという複雑かつ高度な技術を要したといわれています。

織られた衣服は極めて貴重なものゆえ、その着用は親王、諸王の皇族に限られ、
それ以下の身分のものは禁色、庶民には全く縁のない色でした。
それにしても古代の染色技術の確かさには驚嘆いたします。

今日茜染めと称されているものは容易に色素を抽出できるインド原産の
セイヨウアカネや中国で薬用に栽培されている茜を用いているようです。
ちなみに「ローズマダー」とよばれる絵具はセイヨウアカネノ成分である
アリザニンが合成されたもの。
独特の芳香がある天然ものは希少,高価でお目にかかったことがありません。

       「 染色の 山の麓や 茜掘り 」 素丸 
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by uqrx74fd | 2015-01-30 06:40 | 植物

万葉集その五百十一 (橘いろいろ)

( 橘の実  春日大社神苑 万葉植物園 )
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(  橘の花   同上 )
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( 柚子の花   橘とほとんど変わらない  自庭で)
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(  京都御所 右近の橘 )
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(  文化勲章 筑波大学朝永記念館蔵 )
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橘は近畿地方以西の暖かい海岸線に近い山地に生育するミカン科の常緑高木で、
古くは蜜柑類の総称とされていました。
6月頃、5弁の白い花を咲かせ、秋には黄色の美しい実を付けますが、古代の橘は
我国固有のニホンタチバナと推定され、酸味が強くて食べられなかったので、
もっぱら観賞用として植栽されていたようです。

清々しい香りを漂わせる白い花、黄金色の実、常緑の葉。
万葉人はこの植物に永遠の生命が宿ると信じ69首もの歌を詠んでいます。

「 橘は 実さへ花さへ その葉さへ
      枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木 」
                   巻6-1009 聖武天皇(元正上皇とも)

( 橘の木は実も花もめでたく、そしてその葉さえ冬、枝に霜が降っても常緑。
  ますます栄える目出度い木であるぞ。 )

『 「さへ」を三つ重ねて、逆接の「霜降れど」で盛り上げ,体言止めで結んだ
調べの高い歌で、王者の風格がある。(伊藤博) 』一首。

736年 葛城王、佐為王たちが臣籍に降下し、「橘 宿禰」の姓を賜ったときの歌で、
常緑樹で霊木とされた橘の木をたたえることで、橘氏の繁栄を予祝したものです。
葛城王は後の橘諸兄。
光明皇后の異父兄で天皇の信頼厚く、左大臣,正一位と位人臣を極めます。

「 橘の とをの橘 八つ代にも
     我れは忘れじ この橘を 」 巻18-4058 元正上皇

 「とを」は実の重みで枝が撓むさま

( 橘の中でも特に枝も撓むばかりに実をつけたこの橘
  私はいつの世までも忘れはしませんよ。
  この見事な橘を )

元正上皇が左大臣橘諸兄の邸宅を訪れ、宴を催したときの挨拶歌。
橘の木に寄せて橘氏を讃えています。

臣下の屋敷を訪問する格別の思し召し。
当時、諸兄は朝廷最高の権力を持ち、大伴一族の後ろ盾ともなっていました。

「 我が宿の 花橘の いつしかも
      玉に貫くべく その実なりなむ 」
                      巻8-1478  大伴家持

( 我が家の庭の橘の花は、いつになったら
  玉として糸に通せるほどの大きさの実になるのだろうか )

万葉人の美しい造語「花橘」。
白い花を愛でながら黄金色の実を待ちわびる。
玉飾りは愛する人に贈るのでしょうか。

家持は殊の外橘を好んだらしく25首もの歌を残しています。

「 橘は 花にも実にも 見つれども
    いや時じくに なほし見が欲し 」
                      巻18-4112 大伴家持

  「時じくに」 絶えず

( 橘は花が咲いた時も、美しい実がなった時も見ているが
 見れば見るほど素晴らしい。
 もう、時を定めず、毎日でも見ていたいものだ )

ここまでくれば橘狂としか言いようがありません。

家持が橘を特に讃えたのは、左大臣、橘諸兄を持ち上げる意図があったのかも
しれません。
藤原氏に対抗するには諸兄の支えが絶対不可欠の政情。
事実、諸兄が引退すると大伴家はたちまち衰退してゆきます。

なお、家持が「時じく」と詠ったのは記紀の次の逸話を下敷きにしたものです。

『 その昔、垂仁天皇が田道間守(たじ まもり)という人物を常世の国(外国)に遣わし
  不老長寿の霊薬「非時の香菓(ときじく の かくのみ)」即ち
「 季節に関係なくいつも瑞々しさを保っている香り高い木の実」を求めさせた。
  間守は10年間探し求めて、その実のなる木(橘)を手に入れ帰国したが
  天皇は既に崩御された後であった。
  間守はその木の一部を皇后に献上すると共に、残りは天皇の御陵の
  ほとりに植え、嘆き悲しんで亡くなった』 と。

以来、橘は永遠の繁栄を人の世にもたらすものとして珍重され
「常世草」(とこよくさ)ともよばれました。
また「神が立つ花」すなわち神霊が現れる花(中西進 花の万葉秀歌)との
説もあります。

橘と云えば文化勲章。

その図案は当初、桜花に配する曲玉の意匠が予定されていましたが、昭和天皇から
「 桜は昔から武を表す意味に用いられているから、文の方面は橘を用いたらどうか 」

という意味のお言葉があり、橘になったそうです。
    ( 井原頼明氏 東京朝日新聞宮内庁記者 昭和13年当時)

また氏は以下のような文章も残しておられます。(一部現代仮名使いに変更)

『 橘は古来わが国では尊重され愛好せられ、桓武天皇が平安京に遷都遊ばされてからは
  紫宸殿の南庭に用いられて右近橘と称せられ、左近櫻と共に併称せられて今日に及び
  万葉集にも数多く詠ぜられているところである。
  垂仁天皇が常世の国に橘を求められたことよりして、橘は永劫悠久の意味を
  有しているものであり、その悠久性、永遠性は文化の永久性を表現するのに
  最も適するものとの聖慮と拝察される 』 (増補皇室事典 富山房)

かくして記紀の伝説「時じくの橘」は万葉集から古今、新古今和歌集、さらに
源氏物語、枕草子などにも採りあげられて平安御所の象徴となり、櫻と共に
国花ともいえるような存在になったのです。


「 唄は ちやっきりぶし
  男は 次郎長
  花は たちばな
  夏は たちばな
  茶の かをり
  ちやっきり ちゃっきり
  ちゃっきりよ
  きやァるが啼くから 雨づらよ 」 

          ( ちやっきり節 1番 
           北原白秋 作曲 町田嘉章作詞 )

(  梅に橘  春日大社神苑 万葉植物園 )
 
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by uqrx74fd | 2015-01-13 17:54 | 植物

万葉集その四百九十八 (瓜:うり)

( 金俵マクワ   国立歴史民俗博物館 くらしの植物苑  佐倉市 )
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( 成歓マクワ   同上 )
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( 藤原京近くで   奈良市)
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( 白はぐら瓜    くらしの植物苑  佐倉市 )
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( 北海甘アジウリ   同上 )
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(  マクワウリの花   同上)
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(  栗   馬来田にて  千葉県 )
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(  万葉歌碑    同上 )    「 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
     まされる宝 子に及(し)かめやも 」
                            巻5-803 山上憶良
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メロンの一種とされているウリはアフリカ、ギニアのニジェール川流域を原産地とし、
古代エジプト、中央アジアを経てギリシャ、ローマに伝わりました。
中世以降、ヨーロッパ各地に普及し、改良を重ねてマスクメロンとよばれる
高級果実になり今日に至っております。
一方、古代インドに伝わったウリはマクワウリに分化して紀元前に中国に入り、
我国にも弥生時代に伝来していたことが各地の遺跡から出土した炭化種子で
確認されています。

菓子類が少ない古代、甘くて美味しいマクワウリはさぞ子供たちの好物だったこと
でしょうが、正倉院文書によると極めて高価な贅沢品。
米四合が五文であったのに対し1個三文、庶民には高根の花であったようです。
また奈良漬けに使われるシロウリも粕漬けとして貴族の食膳に供されていたことが
長屋王の木簡の記録に見えます。

万葉集での瓜は1首のみ。
特権階級や金持ち以外にはお目に掛かることが少なかったため、詠われることが
なかったのでしょうか。

「 瓜食めば 子ども思ほゆ 
  栗食めば まして偲(しの)はゆ 
  いずくより 来りしものぞ
  まなかひに もとな かかりて 
  安寐(やすい)し 寝(な)さぬ 」 
                          巻5-802 山上憶良 (既出)

( 瓜を食べると子どものことが思われる。
 栗を食べるとそれにも増して偲ばれる。
 こんなに可愛い子どもというものは一体どういう宿縁でどこから
 我が子として生まれてきたものであろうか。 
 やたらに眼前にちらついて安眠させてくれないことだ )

「子ども」 子供たち 
「思ほゆ」 自然と思い出されてくる
「偲はゆ」 眼前に今見えないものを思い出すこと
「まなかひ」:眼の交(かひ) 眼前
「もとな」(元無);わけもなくやたらに

大宰府に単身赴任していた憶良。
遠く都に置いてきた我が子を思う親心がひしひしと伝わってくる長歌です。

栗は瓜よりさらに高く四合で八文、同量の米五文に対し1、6倍。
「栗食めば まして偲はゆ」に「近くに居れば食べさせてあげるのに」という
気持ちが強く籠ります。

この歌の前に次のような序があり、意訳すると、

『 釈尊が御口ずから説かれるには
 「 等しく衆生を思うことは、我が子羅睺羅(らごら)を思うのと同じだ」と。
 然しまた、もう一方で説かれるには
 「 愛執(あいしゅう)は 子に勝るものはない」と。
 この上ない大聖人でさえも、なおかつ、このように子への愛着に
 とらわれる心をお持ちである。
 ましてや、俗世の凡人たるもの、誰が我が子を愛さないでいられようか 』

仏教では物事に執着することは例え自分の子でさえも道にもとるとされていました。
敬虔な仏教徒である作者はその教えは十分に承知しながらも釈迦如来のような
大聖人でさえ、子への愛にとらわれる心をお持ちだった。
まして自分のような凡愚は、子どもが可愛くて可愛いくてどうしょうもないと
訴えております。
伊藤博氏は
『「愛執(あいしゅう)は 子に勝るものはない」という言葉は仏典に釈迦の言葉として
見られないといわれており、憶良が勝手に作り出したものと考えられる。
そこまでして心の拠りどころを求めるほど我が子にとらわれることへの罪を
意識していたわけである』 と述べておられます。 (万葉集釋注3)

が、人間的情愛の深かった憶良。
厚く帰依する仏教の教えに反してでも愛し続ける我が子への真情。
瓜や栗という身近な食べものを通して詠い上げたこの名歌は万人の心を打ち、
次の反歌とともに時代を越えて詠い続けられることでありましょう。

「 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
    まされる宝 子に及(し)かめやも 」
                            巻5-803 山上憶良

( 銀も金も玉など 何のことがあろうか。
  子に及ぶ宝などあるはずがない。
  あるはずがないのだ  )

                              ご参考:万葉集遊楽その184(栗:くり)
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by uqrx74fd | 2014-10-16 17:32 | 植物

万葉集その四百九十七(野辺の秋萩)

( 白毫寺への道の途中で   萩とざくろ   奈良市)
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(  ヤマハギ   飛鳥で )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 白萩   白毫寺で)
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( 同上 )
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(  宗林寺で    東京、谷中)
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( 白毫寺    奈良 )
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( 国営飛鳥歴史公園  石舞台地区 )
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いつの頃からでしょうか。
こんなにも萩に魅せられるようになったのは。
秋風と共に訪れる開花の便りを聞くや否や、近隣、遠出をものともせず
もう何もかも放り出して
「 秋風は涼しくなりぬ 馬並(な)めて
    いざ野に行かな 萩の花見に 」  巻10-2103 作者未詳(既出)

の馬ならぬ「列車にて いざ行かむ」の心境。
気もそぞろに新幹線に飛び乗り、まずは古都、奈良を目指します。
飛鳥、平城宮跡、藤原京跡、白毫寺。
そこには野性味豊かな萩と薄の群生地があり万葉人の面影が身近に感じられるのです。

「 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に
   靡(なび)ける上に 秋の露置けり 」 巻8-1597 大伴家持


( 秋の野に咲いている秋萩、その萩が秋風に靡いているその上に
   秋の露が置いているよ )

咲き乱れた萩は風に靡き、枝もたわわにしなう。
優雅さをたたえた花や葉に乗る白玉はキラキラと光り今にもこぼれ落ちそう。
白露は萩の開花を促し、晩秋のそれは落花を早めるものと思っていた古(いにしへ)の人。
四つの秋を重ね、待望の季節到来を目いっぱいに表現する作者です。

「春されば 霞隠りて 見えずありし
    秋萩咲きぬ 折りてかざさむ 」 
                  10-2105 作者未詳


( 春には霞に隠れて見えなかった萩。
 秋になった今、見事に咲きはじめた。
 さぁ、手折ってかざしにしょう )

野原一面に霞が垂れこめて萩の若芽を覆っていた春から、紫の花をつけた枝が
大波のように靡く秋到来。
今までの時の経過を回顧し、待ちに待っていた開花の歓びを詠う。
「萩」は古くは「生芽」(はえぎ)といい、転じて「はぎ」になったそうです。
「生え芽」即ち、根元から絶えず新しい芽が出、折れたり切れたりしても次々と芽吹く。
古代の人はその旺盛な生命力にあやかろうと手折って頭や衣服に挿し、
長寿、繁栄を祈りました。
「萩」という字は平安時代に創られた国字、草冠に秋はいかにも日本らしい。

「 娘子(をとめ)らに 行(ゆ)き逢ひの早稲(わせ)を 刈る時に
    なりにけらしも 萩の花咲く 」 
                               巻10-2117  作者未詳

( 夏と秋が行き逢う季節は稲刈りする美しい乙女たちと出会う時。
  萩の花も美しく咲いているよ
 さぁさぁ、出かけましょう、萩と乙女との出逢いを求めて )

「行き逢い」に「乙女らに行き逢う」と「夏秋季節の行き会い」を掛けています。
歓び溢れ、わくわくしている作者。
首尾よく美しい乙女に出会えたでしょうか。

「 春日野の 萩は散りなば 朝東風(あさごち)の
     風にたぐひて ここに散り来(こ)ね 」
                         巻10-2125 作者未詳

( 春日野に 咲きにおう萩よ もし散るのなら 朝東風の風に乗って
 ここに散っておくれ )

東風(こち)は東の方から吹いてくる風。
「たぐひて」は「類(たぐい)て」で「仲間になって」、ここでは風に乗っての意。
作者は春日野の西、平城京で詠ったのでしょうか。

当時、平城京郊外の春日野や高円の野は、今では想像も出来ないような
萩の大群生地があり、野性の鹿も棲んでいた身近な行楽地でした。
宴なども盛んに行われていたことでしょう。

萩が散り敷く紫の絨毯。
そのかたわらで飲めや歌えやの楽しい酒宴。
いつの間にか現れた鹿が萩をかき分けながら遠ざかってゆく。
そのような雅やかな光景が目に浮かぶようです。

「 草深み こおろぎ多(さは)に 鳴くやどの
    萩見に君は  いつか来まさむ 」 
                  巻10- 2271 作者未詳(既出)

( 我家の庭は草深いので 蟋蟀(こおろぎ)がいたるところで鳴き、萩も満開ですよ。
 あなた様は一体いつおいでになるのですか!
 お会いしたいわ。 来て!早く!  )

「誰かこんな歌くれないかなぁ」と思わせるような優雅なお誘いです。

  「 萩に伏し 薄にみだれ 故里は 」  夏目漱石

しなやかに伸びる強靭な枝。
紅紫の花の奥に秘めた濃艶な色気。
楚々とした風情と品格。
着物姿の日本女性を感じさせる萩。
風に靡く薄とともに今年も日本の秋を美しく彩ってくれています。
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by uqrx74fd | 2014-10-10 07:15 | 植物

万葉集その四百九十四  (女郎花)

( オミナエシ  山辺の道で 奈良県 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 向島百花園で   東京都)
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( 神代植物公園で  東京都 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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秋の気配が漂いはじめると全国各地の野に黄色の可憐な姿をあらわすオミナエシ。
万葉集の原文では「佳人部為」「美人部師」「姫部志」「娘部志」などと書かれ、
いずれも「オミナエシ」と訓みますが、古の人たちはこの花を見て優雅で奥ゆかしい
女性を想像したのでしょうか。

オミナエシの語源については2説あり、その一は
『 「をみなへし」はその黄色い小花が「蒸した粟飯(あわめし)」のように見える。
  古代の女性は粟を主食にしていたため粟飯を「をんなめし」とよんでいた。
  その「をんなめし」が花の名前に転訛した。
  つまり「をみな」=「をんな」 「へし」=「めし」 』

いま一つは
『 「へし」に「押し倒す、圧倒する」の意の、漢字「押」があてられていることから
  「美女も圧倒するほど美しい」 』 の意。

大言海では後者の説を採用しています。

「 我が里に 今咲く花の をみなへし
    堪(あ)へぬ心に なほ恋ひにけり 」
                       巻10-2279 作者未詳

( 我が里で今を盛りと咲くおみなえし、
 その女郎花に恋をしてしまった。
 所詮叶わぬ恋、諦めようと堪えていたが
 恋心はますます募るばかり
 あぁ、美しい女郎花よ )

美人で評判の乙女に恋した男
でも高根の花なのでしょうか。
とても無理、無理、
諦めようと思ったのに
ますます募るやるせなさ。

746年の9月上旬頃、大伴家持は越中国司に転任しました。
早速、歓迎の宴が催されることになり、客人の一人が手土産に女郎花を
持参したところ花好きな家持は大いに喜び、お礼の歌を詠いました。

「 秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が
    ふさ手折り来(け)る をみなへしかも 」 
                     巻17-3943 大伴家持

( 秋の田の 垂穂(たりほ)の様子を見廻りかたがた あなたさまが
 どっさり手折ってきてくださったのですね。 この女郎花は。 )

「穂向き見てがり」 : 稲穂の靡き具合を見廻りながら、
「ふさ」(房) :     量が多いさま たくさん

女の立場で詠うことで恋人を待つような想いで客人を待ちかねていたという
強い気持ちを込めると共に、稲の出来栄えを見廻る官人の労をねぎらう心配りを
みせています。

主人が女の立場で詠ってきたので、客も「君」と応じ次のように返しました。

「 をみなへし 咲きたる野辺(のへ)を 行(ゆ)き廻(めぐ)り 
     君を思ひ出 た廻(もとほ)り来(き)ぬ 」
                                巻17-3944 大伴池主

( 女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに
 あなた様を思い出し、回り道をしてきてしまいました )

恋人同士のようなやり取り。
終生歌友として心許した二人です。
なお、「遠い道のりを廻り道しながら来ました」〈た廻(もとほ)り来ぬ〉というのは、
いささか変な表現ですが「どうしてもお会いしたかった」ことを示す挨拶の型だそうです。

「 花の色は 蒸せる粟(あは)のごとし
  俗(しょく)呼ばうて 女郎(じょろう)となす
  名を聞きて戯(たはぶ)れに 偕老を契らむとすれば
  恐るらくは 衰翁(すいをう)が首(かうべ)の  霜に似たるを悪(にく)まむことを 」

              ( 源 順:みなもとの したがふ  和漢朗詠集 秋 女郎花 )

( 花の色は 蒸した粟のようで 
 俗に女郎花とよんでいます
 わたしは女郎という名を聞いて 戯れに愛をささやき 
 夫婦の契りを交わしたいと思ってみたものの
 恐らく白髪頭の老衰した爺さんとではいやだと
 嫌われることでありましょうよ )

偕老(かいろう) 共に睦まじく一緒に暮らす意

万葉集で色々な漢字をあてられていたオミナエシは平安時代から「女郎花」に
統一されました。
源順の漢詩の女郎は芸妓の意味に使われていますが、女郎はもともと
大伴家持と交渉があった笠女郎(いらつめ),紀女郎、中臣女郎などにみられる如く
由緒ある家柄、身分の高い女性の尊称とされていました。

女郎花のイメージが変わったのは次の歌からです。

「 名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
     われ落ちにきと 人に語るな 」 
                          僧正遍照 (古今和歌集秋上)

( 女郎花という名前に引かれて花を折り取っただけのことですよ。
  女犯戒を破ったなんて噂を立てないで下さい。
  おみなへしさん )

女郎花を採ろうとして落馬したとお思いきや、女郎をものにしようとした堕落を
掛けた洒落。
万葉時代の楚々としたイメージの「をみなへし」は僧をも堕落させる妖しくも
美しい女に変化してしまいました。

慎ましやかで優しく、しっとりした美しさの中に秋草らしく一抹の寂しさを
たたえている女郎花は、晩秋、地上に出ている部分が枯れても、
地中の根元の太い茎で冬を越す強靭な生命力の持主。
美しさ、たおやかさの中に強い芯を秘めた我国の女性を象徴する花なのです。

    「 女の香 放ちてその名 をみなへし」 稲垣きくの
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by uqrx74fd | 2014-09-19 06:24 | 植物