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カテゴリ:動物

  • 万葉集その三百六十八(谷ぐく=ヒキガエル)
    [ 2012-04-22 08:28 ]
  • 万葉集その三百六十一( 猿 )
    [ 2012-03-04 09:35 ]
  • 万葉集その三百五十五 (鴨)
    [ 2012-01-22 08:12 ]
  • 万葉集その三百五十三(亀鳴く)
    [ 2012-01-08 08:19 ]
  • 万葉集その三百五十二(鶴の舞)
    [ 2012-01-02 11:00 ]
  • 万葉集その三百二十五(鮎)
    [ 2011-06-26 10:39 ]
  • 万葉集その三百二十四〈しただみのレシピ〉
    [ 2011-06-19 07:48 ]
  • 万葉集その三百八(雉:きぎす)
    [ 2011-02-27 15:04 ]
  • 万葉集その三百六(鷹)
    [ 2011-02-14 20:34 ]
  • 万葉集その二百九十九(兎)
    [ 2010-12-26 18:10 ]

万葉集その三百六十八(谷ぐく=ヒキガエル)

( 吉野山の薬屋で)

( 鏡背にみる月の世界 中央に蛙  中西進 古代日本人・心の宇宙 NHKライブラリー)

( 山の辺の道  玄賓庵にて)

( 自来也 yahoo画像検索より )

「谷ぐく」とはヒキガエル、いわゆるガマの古名で、「谷間を潜(くく)り渡る」
あるいは「谷間の陰湿地に住んでククと鳴く」ことに由来するとも言われています。
早春の2月頃、冬眠から覚めて交尾し、ひも状の寒天のような卵塊を生んだ後、
再び冬眠に入り初夏にモコモコと地上に出てきますが、昼間は土石の中に隠れ、
夜になると食用の昆虫などを求めて活動し、中には鼠を捕食する大きなものも
いるそうです。

そのユーモラスな表情の中に王者の風格さえ感じられ、万葉集では深い意味をもつ
両生類として長歌二首に登場しています。

「 -  この照らす 日月の下は 
  天雲(あまぐも)の 向伏す(むかぶす)極み 
  谷ぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ - 」
             巻5-800 (長歌の一部) 山上憶良


( - この月日を照らす下は
  天雲のたなびく果て 
  蟇(ひきがえる)の這い回る果てまで
  大君が治められている 秀(すぐ)れた国なのだ - ) (5-800)

「きこしをす」 は「きこしめす」でお治めになる。
この歌は父母に孝養を尽くすことを忘れ妻子まで捨てて、自ら「世俗に背く先生」と
称して山野を浮浪している民に反省を求めた歌です。
当時、そのような人が多く社会問題になっていたらしく、この歌に続く短歌で
「 天への道のりは遠いのだ。
  私のいう道理を認めて、素直に帰り家業に励め」と
  聖の真似事などせず、普段の生活に戻れと諭しています。

「 - 山彦の 答へむ極み 
    谷ぐくの  さ渡る極み
    国形(くにかた)を 見したまひて 
    冬こもり 春さりゆかば 
    飛ぶ鳥の  早く来まさね  」
                      巻6-971 (長歌の一部) 高橋虫麻呂


( - 山彦のこだまするかぎり
   ヒキガエルの這い廻るかぎり
   国のありさまをご覧になって
   冬木が芽吹く春になったら
   空飛ぶ鳥のように 早くお帰り下さい。 ) (6-971)

藤原宇合が対馬、壱岐を含む九州全土の軍事を監督する「西海節度使」に
任じられた時の送別歌です。

憶良の歌共々「谷ぐくのさ渡るきわみ」すなわち「ヒキガエルが地上を這い渡って
行く隅々まで」と、空間のこの上ない広さを示す表現が使われていますが、
鈍重なヒキガエルがなぜそのように詠われたのか? 
さらに「さ渡る」と神聖を表す「さ」という敬称がなぜ用いられたのでしょうか?

伊藤博氏は友人の話として
『 ヒキガエルは一定の個所に棲息していて、そこを基地にしつつ、谷から谷へ、
  野から野へ、ほとんど現在いう一郡程度の広範囲を這い回る習性を持つと
  いうのである。
  幼年時代、大きなガマガエルに赤い紐をつけて放置しておいたら2,3日後
  2㎞離れた村はずれで奇しくも再会した。
  しかしそれにしても,油の筋を地上につけて谷グクのノタウチが一郡に及ぶとは
  つゆ知らぬことであった。
  万葉びとは一体どのようにして谷グクの生態を知ったのであろうか。
  万葉びとの物を見る眼の深さや確かさに、今さらながら驚嘆せずにはいられない 』
と述べておられます。  (万葉のいのち はなわ新書より要約 )

今一つの「さ」という敬称です。
中西進氏は
『 冬眠してまた姿をあらわすことは、死と再生の実修者としてイメージされたらしい。
  そもそもヒキともガマともよぶこの動物は和名がヒキ、漢名がガマで、ヒキとは
  日招(お)き、つまり太陽を招く動物だと考えられた名前である。
  それも太陽の力が 強くなる春に地上に姿をあらわすから、逆にヒキの力によって
  太陽が復活すると考えたのであろう。 (万葉時代の日本人 潮出版社) 』

いささか強引な説ですが下記の話は説得力があります。

 『 中国の伝説だが、月の世界を描いた鏡の裏の中央に蛙、右上に桂の木、
   右下は杵で薬をねっているウサギ、左上は天女に桃、左下の池に2匹の蛙
   こうした図像はすべて不老不死をかたどったもので、もちろん月が死と生を
   繰り返すからです。
  その中の一つとして登場するのがカエルですから、やはりカエルの性格の中心が
  死と再生-冬眠にあったことになります。 (添付写真ご参照) 』
                   ( 古代日本人 心の宇宙 NHKライブラリーより要約 )

上記の話をまとめると、古代の人はヒキガエルが広範囲に這い回って活動していることを
子細に観察した上、冬眠を生命の再生、すなわち神のなせる業と考え
「谷ぐくの さ渡る極み」と表現したのです。

たった一行の歌の中にも古代人の限りなく厚い信仰と鋭い洞察力が込められている一例です。

「見る限り 青野ゆたかに起き伏せば
    水の中にて ひきがへる鳴く 」 斎藤茂吉


 「 ヒキガエルは大型で長い舌端を飛ばせてかなり離れた位置にいる昆虫などを
  捕食するため、引きよせるものとして「引き」とよばれたという。
  動作は鈍重で姿が醜怪な上に、背にある疣(いぼ)から有毒な粘液を分泌し、
  これを捕食しょうとする蛇、イタチ、猫などを撃退する。
  これを神秘とする人間が、ガマとよんで怪物の一つと考えるようになり、
  近世の怪談や小説にも取り入れられるようになった。
  その分泌液からは心臓の作用を刺激強化する蟾酥(せんそ)という白色の薬品が製される。
  これを主成分とするのが俗にいう「ガマの油」で切傷や腫れ物に
  効ありとされる漢方薬である。
  その路傍における効能の口上は大道芸の一つとして、江戸時代から
  明治大正期までよく耳にするものであった。」 
                      ( 角海 武 万葉の動物に寄せて 自家出版)

ガマの呼称は想像上の怪物。
歌舞伎などで自来也(児来也)が上演され、宮沢賢治は詩を作り、小説でも
「かえるくん東京をすくう」(村上春樹著 神の子どのたちはみな踊る所収 新潮文庫) 、
さらに、忍者コミックなどにも登場する人気者です。

「 雲を吐く 口つきしたり 引蟇(ひきがへる) 」  一茶

番外編

「 宮沢賢治 蛙のゴム靴 」(一部抜粋)

『 一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峰を見ることが大すきです。- -
  眺めても眺めても厭(あ)きないのです。
  そのわけは雲のみねといふものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)てゐますし、
  それから春の蛙の卵に似てゐます。
  それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処を、蛙どもは雲見をやります。

  「 どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
  「うん。 うすい金色だね。 永遠の命を思はせるね。」
  「実に僕たちの理想だね。」

  雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。
  ペネタ形といふのは、蛙どもでは大へん高尚なものになってゐます。
  平たいことなのです。 』
( 吉野山にて )


by uqrx74fd | 2012-04-22 08:28 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百六十一( 猿 )

( 猿石  飛鳥にて )

( ニホンザルの親子 上野動物園にて )

( 下北半島のニホンザルの堂々たる風格  クウとサルが鳴くとき 松岡史朗 地人書館より)

( 恍惚のグルーミング  同上 )

( 猿田彦神社  東京:大塚 )


猿は人類を除く霊長目の獣の総称とされ、単に猿という場合はニホンザルをさすことが
多いようです。
古くは「ましら」ともよばれ、万葉集巻2-91の歌で「いへもあらましを」の
原文表示に「家母有猿尾」とあり、「まし」に「猿」という字を当てていることからも
そのことが窺えます。
また、猿を「えて公」とよぶことがありますが「さる」は「去る」に通じると忌まれ
「得て」に言い換えたそうです。

「猿」という字は本来「手長猿」をさし、尾の短いニホンザルは「猴」と書くべきと
されていますが、古くから混用され今は専ら「猿」。

縄文時代には各地で多く棲息していたらしく、遺跡から骨や埴輪などが出土しており、
また、記紀をはじめ各地の風土記に多くの記述があるにもかかわらず、
不思議なことに万葉集にはたった一首、それも極めて特異な場面、酒飲みの歌に
登場するのです。
  
「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
    人をよく見ば 猿にかも似む 」      
                   巻3-344  大伴旅人


( ちっ、醜怪きわまるなあ、利口ぶってさ、
  わたくしお酒みたいなものいただきませんのよ、ホホホなんていうやつの顔を見ると、
  猿そっくりだぜ )            (杉本苑子訳)

讃酒十三首の中の一ですが、大酒飲みの作者は酒を飲まない人を猿に似ていると
けなしているのです。 
ここまで云われれば「けしからぬ」という反論が出てくるのは当然でしょう。

『 失礼な言い草ではないか。下戸の私は大いに気に食わない。
 酒吞みというものは独善的で、えて、かかるタワゴトを口走るものだが
 猿の赤っ面に似ているのは、そもそも酔っ払いか しらふか、どちらであろうか。』
                            (杉本苑子 私の万葉集 集英社文庫)

御尤も、御尤も。
旅人サンもさぞ苦笑いしていることでしょう。

正岡子規は旅人の歌をもじって

「 世の人は さかしらをすと 酒飲みぬ
     あれは柿くひて 猿にかも似る 」   正岡子規


  「さかしら」な人間をからかい、万葉人のようにもっと鷹揚になれと詠い

「 世の人は 四国猿とぞ笑ふなる
            四国の猿の 子猿ぞわれは 」 正岡子規


と世の人が田舎者扱いするのをと「笑はば笑え」と吹き飛ばしています。
子規も賢しこそうに振る舞い利口ぶる人間には我慢ならなかったのでしょう。

『 猿は動物園の人気者だが、神経は細やかで繊細である。
  猿を見て人は笑うが、猿は人を見ても笑わない。
  面白くないからだ。 」  
                  ( 樋口 覚著 短歌動物誌 文春文庫)

そう云われれば ??
子猿がじゃれて親を見ながら笑っている場面に遭遇したことはありますが、
猿から笑いかけてきたことは一度もありませんなぁ。

青森県下北半島は北緯41度。そこに棲むニホンザルは北限の奇跡といわれています。
同じ緯度前後に位置するニユーヨーク、マドリード、ナポリ、北京、イスタンブールに
野性の猿は存在しません。
そもそも猿は熱帯、亜熱帯地方に生息する動物で、下北のニホンザルはさぞ過酷な
冬を過ごしていることでしょう。
厳寒の森の中で木の皮を剥いで飢えをしのぎ、それでも食べ物がないときは海に出て
貝殻、海藻、さらには流れ着く野菜や果物なども拾っているそうです。

「 わびしらに ましらな鳴きそ あしひきの
    山のかひある 今日(けふ)にやあらなむ 」
                凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)


( 猿よ、そんなにもの悲しげに鳴くな。
 山の峡(かい)、すなわち甲斐ある今日の日ではないか )
 
907年宇多法皇大堰川(おおいがわ)行幸の折、「猿、山の峡に叫ぶ」という題で
詠われたもので、「わびしら」→「ましら」と同音「しら」を反復し
「峡」と「甲斐」、「峡(けふ)」に「今日」を二重に掛けた技巧の歌です。

「法皇がいらした甲斐のある日だから、ふだんはもの悲しげに鳴く猿も
今日ばかりは悲しげに鳴くな」と呼びかけたものですが、猿が悲しげに鳴くという
表現は漢詩文の常套句であったようです。

平安時代、猿の鳴き声は「カッ、カッ、カッ」、鎌倉、室町、戦国から江戸時代までは
「キャッ、キャッ、キャッ」とか「キィー」と聞き慣らされていたようですが
これは猿の悲鳴で、檻に閉じ込められたり、人から制裁を受けたりしたときに
引きつった顔で鳴く声だそうです。
それが猿の一般的な鳴き声とされたのは

『 猿回しなどの風習が定着し、野性の猿と疎遠になったため、庶民は日常的に
耳にする鳴き声を代表的なものと受け取っていた 』と考えられています。
                        ( 三戸幸久 人とサルの社会史 東海大出版会 )

下北半島で猿の生態を研究されている松岡史朗氏は

『 猿の鳴き声は30~40種類あり、心が落ち着いている時は、まろやかに
「クウ、クウ」と鳴き、これをニホンザルの代表的な声として推したい 』と
言われています。   ( クウとサルが鳴くとき 地人書館)

「膝立てて蚤(のみ)とる猿や岩の上」  涼菟

猿の毛づくろいを「グルーミング」といいますが、捕っているのは蚤(のみ)ではなく虱(しらみ)。
捕る方も心の安らぎを感じながら楽しんでいるようですが、3日もサボるとたちまち
虱だらけになるそうです。 (松岡史朗 同)

「 手を廻し 子猿背(せな)掻くに母の猿 
       その毛掻き分け 見てはやりつも」  太田水穂


出産、育児は母親のみで行い、父親の協力はなし。
近年の調査によると群れの中のボス猿は餌付けされた猿の世界の中のことで
野性の猿は協調の群れとなっており、ボスではなく、リーダという呼び名に
変えているそうです。

  「猿の温泉入浴もよく放映されますがこれも餌付けされた人間を
  怖がらない猿の生活の一環で、野生の猿にはその習慣がない。
  ニホンザルの顔と尻が特に赤くなるのは秋の発情期。
  興奮した時に発色し、赤の色は相手も興奮させるための性ホルモン。」
                                 ( 松岡史朗 同)

15年間も野生のサルに密着して生活をされた松岡氏。
今までの常識が大きく覆された貴重な記録です。

「 猿の子の目のくりくりを面白み
      日の入りがたを わがかへるなり 」 斎藤茂吉

by uqrx74fd | 2012-03-04 09:35 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百五十五 (鴨)

(雄鴨 横浜山下公園の海上にて)

( 雄雌の鴨  同上 )

( みんなで一緒に  同上 )

「 あしひきの 山田の田居に鳴く鴨の
     声聞くときぞ 冬は来にけり 」  良寛


鴨はカモ科のうち比較的小形の水鳥の総称とされています。
秋に寒地より群れをなして飛来して湖沼、河川に生息し、春になると再び帰って
ゆきますが、カルガモと鴛鴦(おしどり)は留鳥です。

マガモ、コガモ、ヨシガモ、オナガガモ、ハシビロガモ、スズガモ、ホシハジロ、
キンクロハジロなど色々な種類の鴨がいる中で一番多いのは、青頸(あおくび)とも
よばれるマガモで、単に鴨と言う場合はマガモさすことが多いようです。

マガモは雄雌異色で雄は金属光沢がある緑色をしており、襟に白い首輪、胸は
紫ががった栗色と際立つ容姿ですが、雌は全体が地味な黄褐色で波型の黒い模様が
あります。
雄は「グェッ グェツ」メスは「グェーグェグェ」と鳴き、情感には程遠い「だみ声」
ながら古代の人にはその愛らしい姿が好まれたのでしょうか、万葉集に29首もあり、
さらに、オシ(鴛鴦)、たかべ(コガモ)、あじ(巴鴨)、あきさ(秋沙:あいさ) 
などが識別されて別途に詠われています。

「葦辺(あしへ)行く 鴨の羽がひに 霜降りて
     寒き夕(ゆふへ)は 大和し思ほゆ 」
               巻1-64   志貴皇子(天智天皇皇子)


 ( 葦のほとりを泳いでゆく鴨の背に霜が降りている。
  そのような寒さが身に染みるような夕暮れは、とりわけ妻子がいる大和が
  恋しく思われることだ。 )

706年文武天皇難波行幸の折の詠で、「羽がひ」は「羽交」と書き、鳥の左右の羽が
重なりあったところ、ここでは鴨の背の意です。

明かりなどあまりない古代の夕はかなり暗く、小さな鳥の背などのような細かい観察は
不可能でしょうから、日中に見た情景を目に思い浮かべながら詠ったのかもしれません。


星が美しい冬の夜空。
池のほとりに出て大和の方向を見上げながら故郷の妻子を想う。
足下は霜柱が立ち、心身共に凍てつくよう。
昼間見たあの鴨の背中にも霜が降りて寒かろう。
それにつけても、暖かい我が家、妻の体。
一刻も早く帰りたいものだ。

「 埼玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨ぞ翼(はね)霧(き)る
   おのが尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし 」
            巻9-1744 旋頭歌  高橋虫麻呂歌集 


( 埼玉の小崎の沼で鴨が羽ばたきしてしぶきを飛ばしている。
 自分の尾に降り積もった霜を掃いのけているのだろう。 )

埼玉の「小崎の沼」は埼玉県行田市の東南部にありましたが、埋め立てられて
小さな森になり現在は小崎沼の碑が残るのみです。

「翼霧る」とは「羽ばたきして飛び散った雫が霧のようになっている」という意で、
常陸に赴任していた高橋虫麻呂は近郷の地へ赴き色々な伝説を集める傍ら
動物の生態などもしっかりと観察していたようです。

この歌について清少納言は枕草子31段「鳥は」で

「 鴨は羽の霜うち払ふらむと思ふにをかし 」と書いています。

( 鴨は古歌にあるように羽に置く霜を羽ばたきして自分で払っているのだろうと
思うと面白く思われます)

清少納言も万葉集を勉強していたのですね。

  
 「 降る雪に さめて羽ばたく鴨のあり 」加藤楸邨


わが国では古くから獣肉食は忌まれましたがカモやキジなど野鳥の肉は
愛好されたようです。
広野卓著  食の万葉集 (中公新書)によると 

『 平城京から出土した木簡に「鴨4羽百文」とあり、鴨1羽が25文で
  売買されている。
  100文で酒1石(筆者註180ℓ)買えたので、比較的高価である。
  カモやキジの肉は部位にもよるがニワトリに比べると脂質が6分の1で
  タンパク質は約1,5倍あるので、淡白な肉質が好まれたと考えられる。」
  そうです。

鴨の肉は鳥肉の中でも最上とされ、あらゆる料理に使われていますが、
蕎麦屋での定番は鴨南蛮。
南蛮とは何か?と 調べて見ると「日本葱(ネギ)」のことだそうです。
「日本葱」が「南蛮」とは如何に?
江戸時代、大阪の難波は葱の大産地だったそうで、
「たべもの語源辞典」(東京堂出版)によると、

『 切り餅にネギ、鶏肉、竹輪などを入れて鍋焼きにしたものを
難波餅といい、その難波(ナンバ)が訛って南蛮(ナンバン)になった。
また、日本に永住していた南蛮人が健康保持のために毎日葱を食べていたので
南蛮とよぶようになった』と解説されていますが今一つすっきりしません。

ともあれ、今日もまた無意識のうちに多くの人たちが「鴨南蛮一丁!」と
全国の蕎麦屋さんで注文されていることでしょう。

「鴨喰ふや 湖に生身の鴨のこゑ 」 森澄雄

「 番外編 」

鴨料理を殊の外好まれた池波正太郎氏は色々な場面で登場させていますが、
ご存じ「剣客商売」からの一コマです。

『 おはるの父親が持たせてよこした鴨の肉と見事な葱(ねぎ)を一束と
 芹と、手打ちの饂飩(うどん)を小兵衛の前にひろげ、

「お父つぁん今日はこれをとどけに来るつもりでいたんだとよ、先生」

「何よりのご馳走だ」

小兵衛はおはるに命じ、鉄鍋で葱と共に焼き、酒をふくませた醤油に付けて
食べることにした。
酒が出た。
秋山親子は悠々として鴨を食べ、酒を飲んでいる- -

酒の後は鴨飯である。
これはおはるが得意の料理で、鴨の肉を卸し、脂皮を煎じ、その湯で飯を炊き、
鴨肉はこそげてたたき、酒と醤油で味をつけこれに熱い飯にかけ
きざんだ芹をかけて出す。
それまで黙然としていた孫介老人もこの鴨飯には思わず舌つづみを打ち

「かようなものが、この世にござったのか- -」

驚きの声を発したのである。』
                         ( 辻斬り;老虎 新潮文庫より) 

by uqrx74fd | 2012-01-22 08:12 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百五十三(亀鳴く)

( 亀石 明日香にて)

( ガラパゴスゾウガメ 上野動物園にて)

( ニホンイシガメ  上野動物園にて )


「 亀は万年 齡(よはひ)を経、鶴も千代をや重ぬらん
   - 丹頂の鶴も一千年の齢を君に授け奉り 」 (謡曲:鶴亀) 


亀は爬虫類カメ目の動物で、今から約2億年以上前に地球上に住んでいた恐竜と
同じ仲間とされ、長い年月の間に棲む場所に合わせて甲羅や足の形を変えてきたと
いわれています。
「ゴジラ」という映画に出てくる亀状の怪獣「ガメラ」もこのような背景から
着想を得たものなのでしょうか。
中國最古の古典「書経」によると、亀は神秘的な生き物なので宇宙の縮図とみなされ、
国家の大事を占う時には亀の甲を焼いて出来た裂け目から吉凶を判断していたそうです。

我国では鹿の肩骨を焼いて判断する「鹿占(しかうら)」が主流でしたが
亀占(きぼく)の法が中国から伝来すると、朝廷は神祇官に卜部20人を配置して
これに従事させたと伝えられ、また、民間でも亀による占が行われていたことが
次の歌から窺われます。

「 - - ちはやぶる 神にも な負(ほ)ほせ
  占部(うらへ)据ゑ 亀もな焼きそ - -」 
            巻16-3811 作者未詳 (長歌の一部)


( 私の恋煩いを荒ぶる神様のせいにしないで下さい。私自身から生じた病なのです。
 また、占い師などに頼み込んで亀の甲などを焼いて占ったりしないで下さい。
 もう死にゆく身なのですから。 )

な負(ほ)ほせ : 「な-せ(そ)」は禁止を表す 負ほす:「負わせる=せいにする」

詞書によると、
「 夫婦となって契った男が姿を消し、何年も便りをよこさないので
女は恋しさ余ってとうとう病になり、床に臥す身となった。
まわりの者が心配して夫を呼び寄せたが、もはや手遅れ。
女は涙を流しながらこの歌を口ずさんで死んだ」 とあります。

病床を見守る人たちは占い師に何を占ってもらおうとしたのでしょうか。
「もう何をしたって無駄です」と悲しみながらも甘えたい女心です。

「  -- 我が国は 常世にならむ 図(あや)負(お)へる くすしき亀も
 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる  ―
              巻1-50    藤原宮の役民の作る歌 (長歌の一部)


 ( 「 我国は常世の国になるであろう」と瑞兆のしるしを背に負うた神秘の亀も
   「新しい良き御代である」と言って泉の川(木津川)に出る- )

 694年、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮から大和三山に囲まれた藤原宮に
遷都が行われたとき、宮造営に奉仕した役民が作った歌とされています。

「常世」は不老不死の理想郷、
「図(あや)に負へる亀」は甲羅に瑞兆の模様を負う霊妙な亀のことで、
新しい時代の新都造営を寿いだ一首です。
ハイレベルの調べなので、実際には監督した官人が詠み、
「使役をしている民も喜んでいる」という形にしてお上にゴマをすったのかもしれません。

古代人に「奇しき」と詠まれた吉兆、長寿の象徴の亀は「玄武」ともいわれ、
北の方角の守り神として崇められ、その原型を明日香の高松塚壁画や亀石に
とどめています。
また、年号も「霊亀」「神亀」「宝亀」「元亀」と四例も使われているのです。

「 亀鳴くと 春は水より動きけり 」 小松崎爽青

「亀鳴く」は春の季語です。
そもそも鳴き声を出す動物には必ず発声器か共鳴器があり、亀には声帯も
鳴管もないので鳴くはずがありません。
ところが古の人たちは亀が鳴くと信じ、その鳴き声がお経を唱えているように
聞こえるとして「亀の看経」という有難い名前まで付けているのです。
これは一体どうしたことでしょうか?

村上鬼城 は 「亀鳴くと嘘をつきなる俳人よ」

菅 裸馬(らば) は 「 亀鳴いて 椿山荘に椿なし 」  
  

 ( 椿山荘と言うからには椿があふれてしかるべきなのに、
    椿がないと椿事だ。亀が鳴かないのと同じことではないか )

と大いに皮肉っていますが、「亀鳴く」という言葉の典拠は次の歌とされています。

「 川越の をちの田中の夕闇に
       何ぞときけば 亀の鳴くなり 」
                  藤原為家(定家の子) :夫木和歌集:ふぼくわかしゅう)


( 夕暮れの中、向こう遠くの田んぼで 何かの鳴き声がする。
 何かと尋ねてみると、亀が鳴いているのだという )

「をち」は遠近(おちこち)の「遠(おち)」
 
作者は何気ない気持ちで近くにいる百姓に「あれは何の声かのう」と
尋ねたところ「亀の鳴き声でございます」と真顔で答えたのでしょう。
聞いた本人も亀が鳴かないとは夢にも思わなかったのでは?

それを真に受けた後代の歌人や俳人は「これは面白い」と多くの歌句に詠み、
空想の世界の産物である「亀鳴く」は今や堂々と季語集にまで載せられているのです。

諧謔と、いささかの滑稽味。
ほんのりとした温かさが感じられる日本人の感性です。

 「 何ぞもと のぞき見しかば 弟妹(いろと)らは
      亀に酒をば飲ませてゐたり 」     斎藤茂吉


亀さんは酒が大好き。これは作り話ではなく本当のことだそうです。

( 亀の親子    三溪園にて )



by uqrx74fd | 2012-01-08 08:19 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百五十二(鶴の舞)

(タンチョウのタンゴ)  学友M.i さん提供(ブログ;昨日今日明日運用中)

( タンチョウのワルツ)  同上

( 天翔ける鶴)  自然のことのは 幻冬舎より 

( 凍鶴 )   学友M.i さん提供


「 空といふ自由鶴舞ひやまざるは 」  稲畑汀子

『 鶴は古くからめでたい鳥とされてきた。
  特に私が50年ものあいだ関わってきたタンチョウ、
  一般的には「丹頂鶴」といわれるこの鳥は、スマートな体が白い羽に覆われ、
  頭頂部が赤く首や尾などに黒が配色され、優雅でどことなく清楚な雰囲気を
  漂わせている。
  そんな見た目にも瑞鳥というイメージにぴったりだったのだろう。 』
  
    ( 高橋良治 釧路市丹頂鶴自然公園名誉園長:鶴になった老人 角川書店より)

高橋氏は世界で初めて丹頂鶴の人工ふ化に成功された方で、その長年の苦労を
上記著書で語られています。そのご教示によると、

 「 鶴は一度契りを結ぶと一生浮気をしないで添い遂げるといわれているが、
   求婚前の鶴は雄争奪を巡って雌同士激しく戦う。
  自分の縄張りの中に他の雌が侵入してくると、追い出しにかかるが
  戦いがが不利になると高い声を出して雄を呼ぶ。
  その声はその日の天候、湿度などによっても違うが、最大半径6㎞までとどく。

  そして、助けに現れた雄が相手を追っ払ってくれると求愛の候補者として認定し、
  それから求愛行動、つまりダンスと鳴き合いが始まる。
  翼を広げて飛び跳ねたり、気取った様子で歩いたり、くちばしを空に
  突き上げたり、草などをついばんで放り投げたり。互いにくちばしを上に
  突き上げて鳴き交わす。」 のだそうです。

「 青天のどこか破れて鶴鳴けり 」 福永耕二

古代、「たづ」とよばれた鶴は、その姿が美しい上、夫婦仲がよく子を可愛がる
長寿の鳥として人々に好まれ、万葉集では45首詠われています。


「 桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる 年魚千潟(あゆちがた)
        潮干(しほひ)にけらし 鶴鳴きわたる 」 
                       巻 3-271  高市黒人


( 桜田の方へ鶴が群れ鳴きわたって行く。
 年魚干潟の潮が引いたらしい。
 あれ、ずっと鶴が鳴きわたって行くよ。 )

「桜田」は現在の名古屋市南区桜田町、 「年魚千潟」は名古屋市熱田区および
南区あたりとされています。

千潟の方へ餌を求めて群れをなして飛び立っていく鶴。
その鳴き声は高く、大きい。
躍動するような情景です。
日本画で描かれる鶴は1~2羽のものが多く、静かなイメージを持っていますが、
実際には集団で行動し、その羽ばたきと鳴き声の連呼は賑々しく、
それほど優雅なものではないようです。
やはり野生に生きる猛々しい本能というべきものでしょうか。


「 妹に恋ひ 和歌の松原みわたせば
         潮干(しほひ)の潟に 鶴(たづ)鳴きわたる 」
                聖武天皇 新古今和歌集897


( 旅にあって急に都に残してきた妻が恋しくなってきた。
 向こうの和歌の松原を見渡すと、あぁ、潮が干(ひ)いた潟へ向かって
 鶴が鳴きながら飛びわたってゆくよ )

「聖武天皇伊勢行幸のおりの詠で「和歌の松原」は歌枕。
地名の「和歌浦(伊勢)」と歌の「和歌」を掛けています。

高市黒人の歌を本歌取りにしたものですが、天皇の実作かどうかは不明です。

「 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
        淡路の島に 鶴渡る見ゆ 」  
                      巻7-1160 作者未詳


( 難波潟 その潮が引いた千潟に立って見わたすと
  淡路の島の彼方に向かって鶴が鳴きわたってゆく  )

伊勢、難波、淡路で詠われた鶴。
当時は全国各地で見られたようですが明治時代の乱獲がたたり、現在では
鹿児島県出水地方、山口県八代、北海道釧路原野でしかお目にかかることが出来なく
なってしまいました。
釧路原野の丹頂は留鳥で多くの人の努力により現在1000羽以上に増えているのは
嬉しいことです。

「 凍鶴(いてづる)が 羽ひろげたる めでたさよ 」 阿波野青畝

雪ふりしきる中の鶴は頸をまげて頭を翼深く隠し、一本足で立って身じろぎもしません。
物音にもあまり驚かず、一歩二歩あるいてもまたもとの静寂の姿にもどる。
まわりの景色と共に凍ってしまったように見えた凍鶴が突然両翼を大きく広げた。
それは、あたかも新しい年を祝福しているかのようです。

「 この国に よき名を負ひて生まれこし
       よき子を守れ 白妙の鶴 」  太田水穂


  「夜の鶴」。巣ごもる鶴は自分の翼で子を寒さや敵から守ります。
  子を思う親の愛情の言葉として人間にも当てはまる諺です。

(タンチョウの親子 )  学友M。Iさん提供 


ご参考:鶴については下記にも記事があります。
「 その四十二 夜の鶴」 
「 その百四十二 鶴鳴きわたる 」    (カテゴリ-:共に動物 )

by uqrx74fd | 2012-01-02 11:00 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百二十五(鮎)

(鮎  俳句の菜図鑑 柏書房より)

(鮎の友釣り 同上 )

(鮎料理 池波正太郎 包丁ごよみ 新潮文庫より)

  
「若鮎の二手になりて上りけり 」 正岡子規

 鮎釣り解禁の六月。
 各地から鮎だよりが寄せられ、待ちに待った釣人は喜び勇んで清流に出かけます。
 ところが梅雨時の鮎は旨くないというのが、もっぱらの定評なのです。
 唯一の餌である岩苔が出水で流れ取られ、栄養源を失った鮎は痩せ衰えてしまうばかり。
 だからこそ飢えた鮎は釣竿の下に寄ってくるのでしょう。

 「 石垢に なほ喰い入るや淵の鮎 」 去来     (石垢=岩苔) 

やがて、梅雨が明け気温が上がってくると岩苔は急速に成長し、たっぷり餌を食べた
鮎は脂肪太りとなって独特の芳香を漂わせはじめ、その時期、つまり、
土用入りから二週間の頃が旬と言われています。

万葉集には魚の歌が32首ありますが、そのうち半数の16首が鮎。
如何に万葉人が鮎好きだったかが窺われますが、なんと、その大半が大伴旅人と
家持の歌なのです。
ご両人とも食べる方にはあまり関心がなかったらしく、旅人は若鮎のピチピチした姿を
美しい乙女に重ね、家持は鵜飼に興趣を抱いたようです。

「 松浦川(まつらがわ) 川の瀬早み 紅(くれない)の
    裳の裾(すそ)濡れて 鮎か釣るらむ 」 
                巻5-861 帥老(そちらう)
 
    
( 松浦川の川瀬の流れが早いので、娘子たちは紅の裳裾をあでやかに濡らしながら
 鮎を釣っていることだろうか )

 この作品は「序」と十一首の短歌群からなる空想の歌物語です。
作者は大伴旅人とされ、中国の通俗的好色小説「遊仙窟」や正統文学集の「文選」
等からヒントを得、その昔、神功皇后が鮎を釣ったと伝えられる故地「松浦川」
(現在の玉島川)で詠まれたものです。

鮎釣りに興じている美しい乙女。
燃えるような紅の裳裾から白い素足がチラチラと見えている。
健康な色気を感じさせる幻想的な一首です。

「 鵜川(うかは)立ち、取らさむ鮎の しが鰭(はた)は
    我れに削(か)き向け 思ひし思はば」 
              巻19-4191 大伴家持


( 私が贈った鵜でお捕りになる鮎。
 もし、あなたが私のことを相変わらず思って下さっているならば、
 せめてその尾ひれくらいは感謝の気持ちとして贈って下さいな。)

しが鰭(はた): 「しが」の「し」は鮎をさす指示代名詞  
「鰭(はた)」は「ひれ」であるが鮎は小魚ゆえここでは尻尾か。
「削(か)き向け」: 切って贈る

ある年の5月中旬、まもなく鮎の季節が到来する頃、作者は長年の歌友である
大伴池主(越前地方官)に歌を添えて鵜を贈りました。
「この鵜は優秀だから鮎をたっぷり捕ってくれるぞ。
あまりにも沢山捕れるので、お前さんはきっと涙を流さんばかりに
感謝をせずにはおられまいよ」
と冗談めかしたものです。
このようなことを言い合えるのも互いに腹蔵なく話し合える友人だから
こそでしよう。

「鮎くれて寄らで過ぎ行く夜半の門 」 蕪村

鮎は活きているのをすぐ焼き、緑色のピリッとした蓼(たで)酢に浸して食するのが
天下の美味。
古代から食用とされていた蓼(たで)も、万葉集に登場しています。

この句は親しい友人が釣りの帰りに活鮎を届けてくれたのでしょうか。
すぐ料理できるように、挨拶もそこそこに立ち去ったようです。
押しつけがましくない親切や思いやり、そして作者の感謝の気持ちがこもる一句です。

「 加茂川の 瀬にすむ鮎の 腹にこそ
   うるかといへる わたはありけり 」 (古歌)


(「加茂川」が「淀川」となっているものもあり)
この歌は後水尾天皇の詠とも言われていますが、やんごとなきお方も「うるか」が
お好きだったのでしょうか。

藤原宮跡や平城京跡から発掘された木簡から「年魚」「鮎」「醤(脾塩:ひしほ)鮎」
「酢年魚」「煮干鮎」などの記述が見え、また、各地の風土記にも(鮎)「有昧(うま)し」とあり、
鮎は様々な料理にされて万葉人の舌を満足させていたことが窺えます。
鮎の内臓の塩辛「あゆのうるか」も古来から称賛されていたようですが、
木簡にみえる「醤鮎(ひしおあゆ)」もその一種だったかもしれません。
 
「 鮎と蕎麦 食うてわが老い養はむ 」 獅子文六

ご参考: 

万葉集遊楽 その六十四(鮎子さ走る)

鮎はその清楚な姿から川魚の王とされています。
川底で孵化した稚魚は水流に従って一旦海にはいり、二、三月頃にまた川に戻って
一メートル余ものジャンプを繰り返しながら清流の川上へと遡ります。
さらに秋には産卵を終えてから海に戻り、その短い一生を終えるのです。
このような生涯から「アユ」は古来「年魚」と表記されました。
また川の石苔を常食として一種の香気があるところから「香魚」ともよばれています。
旬は土用入りの後二十日ほどの間です。

「 隼人(はやひと)の瀬戸の巌も 年魚(あゆ)走る
       吉野の滝に なほ及(し)かずけり 」
                    巻6の960 大伴旅人


( 隼人の瀬戸へ来て見ると白波が大岩に砕け散り実に勇壮な風景だ。
  でも、鮎が身を躍らせて走っている大和の激流のさわやかさの方が
  もっと素晴らしいよ )

隼人の瀬戸:所在については2説あり
① 鹿児島県阿久根市黒の浜と天草諸島長島との間の黒の瀬戸
② 北九州市門司と下関壇ノ浦との間の早鞆の瀬戸

大和吉野川の鮎は川面に散り浮く櫻の花びらをついばんで食べるので櫻の匂いが
身に沁みて「櫻鮎」とよばれ、ひときわ風味が良いよされています。
旅人は「隼人の瀬戸」の荒々しい海波に感心しながらも、吉野の流れを思い浮かべて
望郷の念に駆られたのでしょう。

「 春されば 我家(わぎえ)の里の 川門(かわと)には
       鮎子(あゆこ)さ走る 君待ちがてに 」 
                    巻5の859 作者未詳


(春になると我家の里の渡り瀬では若鮎が跳ね回っています。
 あなた様を待ちあぐんで )

この歌は大伴旅人が肥前松浦の玉島川のほとりで遊んだ時の歌です。
(作者未詳となっているが実際は大伴旅人作)

玉島川はその昔、神功皇后が魚を釣って征韓の成否を占い、アユが釣れたので
大いに喜ばれ「アユ」を魚編に占うと書き「鮎」という漢字が当てられます。
それ以来、この玉島川では女性が鮎釣りをすると大漁になり、男が釣っても全く
掛からなくなるのです。
旅人はこの伝説をふまえて玉島川を美しい乙女ばかりが住む神仙境に仕立てます。

『 松浦川の川瀬に赤い裳裾を濡らして立っている美しい乙女たち、彼女達は
  あたかも川を自由に泳ぎまわる若鮎の化身のようです。
  「 若い雌鮎が雄の鮎を待ちかねていますよ 」
  彼女たちは積極的に男たちに誘いかけ、男たちも拒む気持ちはありません。
  さぁさぁ喜んで釣り上げられましょう 』

清流のほとりでうたた寝をしながら、しばし俗世を離れて幻想の世界に遊んだ
旅人の楽しいひとときでした。

   「 熟恋や 次ぎの逢瀬は 鮎の宿 」 田中冶生子

by uqrx74fd | 2011-06-26 10:39 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百二十四〈しただみのレシピ〉

〈しただみ〉

〈机島遠景  万葉風土記 偕成社より)

  「うず高き 小貝を前に 火を焚けば
       原始の人と なりぬわれらは」  尾上柴舟
  

 貝類は大別して、二枚貝と巻貝、それに角(つの)貝の三つに分けられますが、
「しただみ」はニシキウズガイ科の馬蹄螺(ばていら)とよばれる小型の巻貝です。
 地方により類似種とともに、シッタカ(尻高)、コシダカガンガラ、イシダタミ
 ともよばれていますが、サザエに似た旨味があり、現在では塩茹で、煮物、揚げ物、
 酢の物、味噌汁の具など多様に調理されています。

 万葉のころは生食されていたらしく、ご馳走だったのでしょうか。
 そのレシピを詠った珍しい歌が残されているのです。

「鹿島嶺(かしまね)の 机(つくえ)の島の しただみを
 い拾(ひり)ひ持ちきて 石もち つつき破り
 早川に洗ひ濯(すす)ぎ 辛塩(からしほ)に こごと揉(も)み
 高坏(たかつき)に盛り 机に立てて
 母にあへつや 目豆児(めづこ)の刀自(とじ)
 父にあへつや 身女児(みめこ)の刀自 」 
                   巻16-3880 作者未詳

( 鹿島嶺近くの  机島のしただみ。
 そのシタダミを拾ってきて 石で殻をコツコツつつき破り
 早い流れで ザブザブ洗いすすぎ
 辛い塩でゴシゴシ揉んで
 脚付き皿に盛りつけ 机の上にきちんと立てて
 お母さんに差し上げましたか 可愛いおかみさん
 お父さんに ご馳走しましたか 愛くるしいおかみさん )

   ○鹿島嶺:石川県七尾市東方の宝達山脈か
    原文「所聞多祢乃」(かしまねの)は「聞くところ多し」の意があり
    当時この地にシタダミが多く棲息することで知られていたことを示す。
   ○こごと揉み: せっせと揉む
   ○机: 杯据(つきすえ)で、物を載せる台、食膳
   ○あへつや: 饗(あふ)の意で食物をもてなす
   ○目豆児(めづこ)、身女児(みめこ) : 可愛い。いとしい。
   ○刀自(とじ):一家の主婦。ここでは幼女を主婦に見立てたもの
             ( 語句解説は万葉集釋注 伊藤博 集英社単行本による)

採りたての新鮮な貝から潮の香が漂ってくるような一首です。

机島は石川県能登半島の輪島沖、有名な和倉温泉の西北2,5㎞の海上にあります。
本来ならば人に知られることがない小さな無人島ですが、万葉集のこの一首で
後世に名を残すことになりました。

この歌は童歌と推定され、

「 おのずから料理の手順が知られるように仕組まれている。
  庶民の生活風景がほのぼのとこめられた佳品。(伊藤博) 」

「 この地方の風土に生きる古代庶民の間から生まれた、かくも日常的な
  愛情の所産による童歌の存在は、万葉集の中の貴重といわねばならない」(犬養孝)

と高く評価されています。

また、「まず母上に、次いで父上にご馳走を差し上げる子供たちの母親の姿」は
通い婚であった当時の母系社会の様子が描かれており、子供たちは歌によって
日常生活の作法を学んでいたことも窺われるのです。

犬養孝氏の実地調査によると、
『 島を取り巻く岩石には所狭しとシタダミ貝が棲息し、岩肌をはい回る貝の動きさえ
透き通って見える。
全国どこにでもみられる貝だが、こんなに密生しているところは珍しい。』(万葉の旅)
とのことで、しかもこの近辺では貝の名前も万葉時代のまま「しただみ」とよばれ、
日々の大切な食糧の一つになっているそうです。
また、通の人が好む貝らしく、インターネットでも1㎏1500円前後で
販売されています。

『 われわれの祖先が食を求めて、最初は木の実や草の実を口にし、
  海辺ではまず貝を求めたでありましょう。
  そのおおらかな生活を連想させてくれるのが、各地に残る貝塚で、
  約50余種が発見されています。
  日本近海には、約600種の貝がいるそうですが、(古の人たちは)
  味の良いものを選んだことがわかります。 』
                 ( 辻嘉一 味覚三昧 中公文庫より要約 )

「 しただみの からいっぱいに 前の道」
            (中島中学一年生、若木和枝)
 

 この句は犬養孝氏が机島を実地調査をされた折、鹿島教育振興会の俳誌「しただみ」
 から抜粋されたもの。 (万葉の風土。塙書房より)

by uqrx74fd | 2011-06-19 07:48 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百八(雉:きぎす)

「雉のペア(地味な羽色がメス) : 成美堂出版より 」

「繁殖期のオスの羽ばたき :同上 」


「 あしひきの 青山越えて 我が来れば
   雉子(きぎす)鳴くなり その山もとに 」 良寛


我国の国鳥である雉は鶉鶏(じゅんけい)目キジ科の野鳥で、草原、畑地、雑木林などに
棲んでいます。
昔から代表的な狩猟鳥の一つとされていますが、その脚には振動を敏感に感じ取る
感覚細胞があり地震予知能力があるそうです。
繁殖期の春になると雄は「ケーンケーン」と勇ましく、雌は「チョンチョン」と可憐に
鳴き、その声を愛でて「雉のほろろ」ともいわれます。

「 大原の野を焼く男 野を焼くと
    雉(きぎす)な焼きそ 野を焼く男 」  正岡子規


雉は野が火事になっても逃げずに卵を守り、鶴は羽を広げて子鳥を寒さから守るので
「焼け野の雉、夜の鶴」という諺を踏まえた一首です。
「な焼きそ」は「焼くな」の意で「な○○そ」は禁止を表します。

万葉時代の雉は身を隠すことが出来ず、すぐに所在を知られてしまう鳥、
妻恋の心根の優しい鳥として詠われました。

「 杉の野に さ躍(をど)る雉(きぎし) いちしろく
   音(ね)にしも泣かむ 隠(こも)り妻かも 」  
                   巻19-4148 大伴家持


( 杉林の野で 鳴きたてて騒いでいる雉よ。
 お前さんは、はっきりと人に知られてしまうほどに大きな声をあげて
 泣くような隠り妻だというのか )

隠り妻とは通っている夫がいることを秘して閉じこもっている妻。
繁殖期の雉の雄鳥は雌を求めて朝方に急激に激しく、鋭く鳴きます。
作者はその鳴き声から雉が躍り上るさまを想像し、
雄鳥を「隠り妻でもないのにと」と茶化しています。
都で待つ妻、坂上大嬢(おおいらつめ)を思い出しているのかもしれません。

   「 あしひきの 片山雉 立ち行かむ
       君に後れて うつしけめやも 」 巻12-3210 作者未詳


( 片山に棲む雉 、その雉があわてて飛び立つように慌しく旅立っていかれるあなた。
  残される私はどうして正気でいられましょうか。)

「うつしけめやも」 「うつしけ」は正気 「めやも」は反語
慌しく出立する夫は防人に指名されたのでしょうか。
寂しさと、不安一杯の妻の表情を見て「気を確かに持て」と云われて答えた
歌と思われます。
あるいは、人の気も知らないで見送り騒ぎを作り出す人びとへの反発を下地に詠んだ歌
(伊藤博) とも。

「 人去って雉子(きじ)鳴くこだま滝の前 」    飯田蛇笏

by uqrx74fd | 2011-02-27 15:04 | 動物 | Comments(0)

万葉集その三百六(鷹)

( オオタカ:万葉集歳時記 偕成社より)

(同:万葉花。動物風月編 ニッポンリプロ社より)


「 雲海や 鷹のまひたる 嶺ひとつ 」 水原秋櫻子

鷹はタカ科の鳥のうち比較的小形のものの総称で、大形種をワシ(鷲)とよんでいますが、
分類学的には両者の区別はないそうです。
鷹とよばれる鳥のうちオオタカ、ハイタカ、ハヤブサなどが良く知られており、とりわけオオタカは
鷹狩に用いるため、古くから大切にされてきました。
その体は暗褐色、嘴(くちばし)は強くて鋭く曲り、強靭かつ大きな釣爪をもち、その鋭い
目は驚異的な視力を誇り、何と750m先のネズミを見分けることが出来るそうです。

慣らすと人には従順な性格なので古代から世界各地で狩に使用され、マルコポーロの
東方見聞録によるとモンゴル地方で元のフビライが1万人余の鷹匠と5百羽の
オオタカや多数のハヤブサなどを動員して鷹狩を楽しんだと伝えられています。

我国でも鷹を背中に止まらせている鷹匠の埴輪が群馬県境町から出土(6世紀頃の作)
されており、古代から鷹狩が行われていたことが推察されています。
文献による公式の鷹狩の伝承は日本書紀に

『 仁徳天皇43年、依綱屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)という人物が
「異(あや)しき鳥」を捕らえて献上し、今までに見たことがない鳥ですと言上した。
天皇は百済王族の渡来人酒君(さけのきみ)に尋ねたところ、
「百済に多くいる鳥です。
 馴らして使えば良く人に従い、早く飛んで諸々の鳥を捕獲します。
 百済ではこの鳥を倶知(クチ)といいます。」と答えた。

 そこで天皇は酒君に鳥を預けて調教させ鷹狩を行った。
 鷹の足に柔らかくした皮の紐と小鈴を取り付けて放したところ沢山の雉を捕らえた。」

とあり日本の鷹狩の技法は百済からの伝承とされています。

( - - 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 
  我(あ)が大黒に  白塗の 鈴取り付けて
  朝猟(あさがり)に 五百(いほ)つ鳥立て  夕猟に千鳥踏み立て
  追ふごとに 許すことなく 手放(たばな)れも をちもかやすき
  これをおきて またありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと - - )
                           巻17-4011  大伴家持


(  鷹といえばたくさんいるけれども、中でも逸物の 矢形尾の我が大黒は
   白く光った鈴を取り付けて 朝の狩に多くの鳥を追いたて
   夕の狩にはさらに千鳥を追って踏み立て
   追うたびに獲物を取り逃がすことなく 
  手から放れるのも 手に舞い戻るのも思いのまま 
  まことに二つと得がたい大黒 これほど手馴れた鷹は ほかにあるまい )

「語句解釈」 鷹はしも: 鷹狩の鷹は多くいるけれども 「しも」は強意をあらわす
        矢形尾 : 矢の羽の形をした尾の鷹
        大黒 :  家持所有の蒼鷹(オオタカ:3歳の雌鷹)の名前
        白塗りの鈴 : 銀メッキした鈴
        五百つ鳥、千鳥 : 多くの鳥
        踏み立て :勢子や犬が草むらや藪に踏み込む
        をちもかやすき :「をち」は戻るの意で鷹が手元に戻ってくること

この歌に詞書があり、その大意は
「 747年、富山県射水郡の古江の村で姿かたちは立派で、雉を捕らえる技術も
  抜群の蒼鷹(オオタカ)を捕えた。
  大いに喜んで大黒と名付けて飼育を翁に任せていたところ、時節はずれの
  調教しょうと無断で鷹を持ち出し、しかも不注意で逃げられてしまった。
 そこで鳥網などを張って万が一の僥倖を頼んだが無駄だった。
 毎日、残念無念と悔やんでいたところ夢に中に1人の少女が現われ、
 逃げてしまったあの鷹を捕まえる事が出来るのもそんなに先ではないでしょうと
 告げたので、たちまち目が覚め、喜びこの歌を詠った」ということです。

まれに見る名鷹、時節は渡り鳥の季節で鷹狩には絶好の時、家持が
切歯扼腕している様子が目にみえるようです。
残念ながら夢のお告げは正夢とはならず、それから4年後、家持は再び白鷹を飼いました。
万葉集で鷹の歌は七首ありますが、すべて家持の作。
鷹狩に対する愛着と執心がことのほか強かったのでしょう。

「 鷹匠のいつくしみつつ厳しき目 」 山田凡二

箕浦芳浩氏 (織田宗家十三代鷹匠) は鷹の調教について次のように語っておられます。

『 鷹は必ず人間の拳の上で、ものすごくおとなしくしていなければいけないんです。
  1日に2時間も3時間も、拳の上に据えてじっとさせる「据え回し」という訓練をします。
  そうして拳の上が最も安心できる場所であり、拳から飛び立ったら獲物が獲れて、
  それが食べられるということを条件づけるわけです。
  鷹が飛び立つ瞬間は「人鷹一体」といって人と鷹とが一心同体にならなければいけない。
  鷹匠の魂が鷹に乗り移り、その欲が獲物をつかまえさせる、そういうところがあるんです。
  ですから獲物を押えた瞬間は、人も鷹も、最も気持のいい魅力的な空間を味わうわけです。」  
                        ( NHK、日めくり万葉集より:2009年11月16日放映 )

   「 鷹匠の放ちし鷹の日に光 」  田中王城

「リンリンリンリンリーン」涼やかな音が空中を渡っていきます。
鷹に鈴を付けるのは、飛んでいく位置を知るためですが松岡正剛氏は

『 鈴は精神をチャンネリングしマインドチエンジさせる道具で、
  今なお神社の巫女さんたちが鈴を振っているのと同じである。
  鈴を鳴らしながら大きく旋回し、空中を舞っている鷹の姿を見ながら人々は
  魂を高め、鎮めていたのである 』と述べておられます。
                            ( 花鳥風月の科学より大意 中公文庫)

悠々と天翔ける鷹、眼光鋭く威厳があるその姿は古来から尊重され、多くの神話や
伝説が生み出されました。
古代エジプト人は天空を翼、右目を太陽、左目を月とする神 ホルスの姿を鷹に
イメージし、ギリシャ神話では霊長キルコスを鷹とみなし、オーストラリアでは
火を最初におこしたのは鷹とする神話もあるそうです。
そしてゴーリーキーは19世紀末の帝政ロシアで圧制からの開放を
「鷹の歌」に託しています。

『 おお、勇ましい鷹よ!  お前は敵との戦いに血を流した。
  けれど やがて時がくれば、お前の流した血の一滴一滴は、
  生活の闇の中で火花のように明るく燃えさかり、多くの大胆な心臓に、
  自由と光明へのもの狂おしい渇望を燃えたたせるであろう。 』

     (ゴーリーキー短編集所収 鳥の歌より 上田進、横田瑞穂訳編 岩波文庫)

[ 鷹の目の枯野に居(すわ)るあらしかな ] 丈草

翼を逆立てるばかりの嵐の中で鷹匠の手に据えられ、鋭い眼光で獲物を狙っている鷹。
野生の鷹が枯れ木に止まっていると解釈した場合は、大きな広がりを持つ一句です。

by uqrx74fd | 2011-02-14 20:34 | 動物 | Comments(0)

万葉集その二百九十九(兎)

(野兎)

(奈良:春日大社の縁起物)


「 霜枯(しもがれ)の 垣根に赤き 木の実は何(な)ぞ
   雪ふらば 雪の兎の 眼(まなこ)にはめな 」 正岡子規


兎といえば赤い目に白毛、そして長い耳が想像されます。
ところが、これは家畜用に改良されたもので、野生の兎の目は黒く体毛はほとんど茶色。
ただし、雪国の兎は夏は茶、冬は白と保護色用の毛に生え変わります。

昼間は日当たりのよい笹の葉陰などに安眠し、夕方から草の葉、木の皮、
若芽など食を求めて動きはじめますが筍、甘藷が好物なので時々山野の作物を
荒らすいたずらものです。

前足に比べては後足が長いので「脱兎のごとく」早く走りますが、山を下るのが
苦手でよく転倒するそうです。
車の「ダットサン」は「脱兎のごとく早い」から命名されたと言われていますが、
その出典は孫子の「始めは処女の如く、後には脱兎の如し」すなわち、
「まず処女の如くよそおって敵を油断させ、後に脱兎のように敏速に敵を破れ」と
いうのが本来の意だそうです。

「 等夜(とや)の野に 兎(をさぎ)狙はり をさをさも
   寝なへ子ゆゑに 母に嘖(ころ)はえ」
               巻14-3529 作者未詳


( 等夜の野で兎を狙い定めると言うではないが、よばひをしたら
あいつのおつ母さんに、こっぴどく怒られてしまったわい。
ろくすっぽ寝もしていないあの子なのになぁ。)

 「をさをさも」:「ろくに」「ろくすっぽ」

万葉集唯一の兎の歌です。
「等夜」は所在未詳ですが下総国印旛郡の鳥矢郷ともいわれています。
 
『 「をさぎ(うさぎ)」の「ヲサ」から「をさをさ」を起こす同音の序で
ありながら、狙いを定めて女に近づく男の姿を連想させており、そこがおもしろい。
近づく折の息づかいや表情が見えてくるようだ 』(伊藤博)

自嘲を込めながらも、からっとした明るい歌で若者達が兎狩の酒席などで
詠ったものと思われます。

「 待ちぼうけ 待ちぼうけ   ある日せっせと野良かせぎ、
  そこへ兎が飛んで出て  ころりころげた  木のねっこ 。

  待ちぼうけ 待ちぼうけ  しめた これから寝て待とうか、
  待てば獲物が駆けてくる。  兎ぶつかれ  木のねっこ。 」 

                         (待ちぼうけ :北原白秋作詞 山田耕作作曲)


その昔、中国の戦国時代に宋という国があり、百姓が野良仕事をしていたところ、
畑の中の木の切り株に兎が衝突して倒れ、難なく捕る事が出来た。
そこで、この百姓、耕作をやめて毎日株を見守りながら兎を手に入れようとしたが
兎は再び表れず、作物もサボっていた為、収穫は皆無となり国中の物笑いになった。
このことから「株(くいせ)を守って兎を待つ」という諺が生まれ、転じて
「古臭いやり方を固守して融通が利かない」の意となりました。

北原白秋の歌はこの故事を題材にしたものですが、さらに大正9年にベストセラーと
なった菊池寛の小説にも。

『 彼女はその途端、 ふと学校で習った『株(くいぜ)を守って兎を待つ』という
  熟語を思い出した。
  約束もしない人が、どうして一定の日時に、一定の場所に来ることがあるだろう。』
                                    ( 菊池寛 真珠夫人より)


清純な乙女、美奈子が一目見た長身白皙の美青年に惹かれ、何日も思い悩んだ末
同じ時間、同じ場所に再び現れることを期待してその場所で待ち続けるという場面です。

 「草の上に まるまるとして飼はれたる
   兎の冬の ぬくみをおもふ 」      岡 稲里 


1869年我国で初めて飼育用の兎が輸入されます。
ヨーロッパ原産のアナウサギを家畜化したものでアンゴラ、チンチラ、日本白色種など
があり、愛玩、毛皮、食肉用とされました。

古代から人々にとって身近な存在であった兎は、「因幡の白兎」、「月で餅を搗く兎」、
「兎と亀」、「カチカチ山」、など多くの昔話が創作され、今もなお語り継がれていますが、
とりわけ、太宰治の「カチカチ山」は異色の大人の物語として知られています。
以下はその冒頭部です。

『 カチカチ山の物語における兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は
その少女を恋している醜男(ぶおとこ)。
これはもう疑いを容れぬ厳然たる事実のように私には思われる。
これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行われた
事件であるという。 甲州の人情は荒っぽい。
そのせいか、この物語も他の御伽噺に比べていくぶん荒っぽく出来ている 』
                                   ( 御伽草紙所収:岩波文庫)

2011年の干支は卯。
卯年生まれ一代の運勢は「心美しく、人に愛され、性格温和で、世渡り交際も
たくみなので信頼を受けて望外の出世をすることもある」そうです。

まもなく お正月。
郷里で新年を迎えられる方も多いことでしょう。
皆様、よき新年をお迎えください。

「うさぎ追いし かの山
  小鮒つりし かの川
  夢はいまも めぐりて
  忘れがたき 故郷(ふるさと) 」 

( 故郷より 高野辰之作詞 岡野貞一作曲)


本年のご愛読どうもありがとうございました。
  新年は1月4日出稿の予定です。
  明年もどうぞよろしくお願いいたします。

by uqrx74fd | 2010-12-26 18:10 | 動物 | Comments(0)