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カテゴリ:心象

  • 万葉集その三百六十九 (つつじ花 にほえ乙女)
    [ 2012-04-28 18:18 ]
  • 万葉集その三百五十(もののあはれ)
    [ 2011-12-17 15:41 ]
  • 万葉集その三百四十六(筑波山に登る)
    [ 2011-11-18 20:39 ]
  • 万葉集その三百三十七(朝影)
    [ 2011-09-17 14:38 ]
  • 万葉集その三百三十二(夏の夜の夢)
    [ 2011-08-14 07:58 ]
  • 万葉集その三百三十一(きけ わだつみのこえ)
    [ 2011-08-06 08:25 ]
  • 万葉集その三百二十二(浦島伝説)
    [ 2011-06-05 08:34 ]
  • 万葉集その三百二十(磐姫皇后の謎)
    [ 2011-05-22 10:26 ]
  • 万葉集その三百十六( あかねさす紫野)
    [ 2011-04-24 20:02 ]
  • 万葉集その三百(やまと、倭、日本)
    [ 2011-01-03 21:21 ]

万葉集その三百六十九 (つつじ花 にほえ乙女)

( 桜花 栄え乙女 新宿御苑の八重桜 )

( つつじ花 にほえ乙女  笠間にて )

 ( 新宿御苑 )

( 同上 )

( 奈良 二月堂近辺 )

『 つつじが咲くと初夏を感じる。
  庭には小ぶりな赤色の花と、紅むらさきの中型と、やや大きい紅白の絞りのつつじが咲く。
  誰がいつ植えてくれたのか思い出すこともできないまで、すっかり庭に馴染んで、
  定番の季節の花になっている。
  つつじが咲くと、そのほとりにしゃがんで、「つつじ花 匂え乙女」と囁いてやる。
  花も私もちょっとうれしい。
  「万葉集」の昔から、それは「さくら花 栄え乙女」と一対に賞(め)でられてきた
  花乙女なのだ。』
                  ( 馬場あき子 花のうた紀行 新書館より)

「 物思(ものも)はず 道行く行くも 
  青山を 振り放(さ)け見れば
  つつじ花  にほえ娘子(をとめ)  
  桜花(さくらばな)  栄え娘子
  汝(な)れをぞも  我れに寄すといふ  
  我れをぞも  汝れに寄すといふ
  汝はいかに思ふ

  思へこそ 年の八年(やとせ)を 
  切り髪の よち子を過ぎ 
  橘の ほつ枝(え)をすぐり 
  この川の 下にも長く
  汝が心待て 」
           巻13-3309 柿本人麻呂歌集 (一部既出)

(訳文)
( 男: 
  「何の物思いもせずに道を行きながら、
  緑したたり茂る山を振り仰いでみると、
  目に入るのは色美しいつつじ花 その花のように匂ひやかな乙女よ、
  咲き誇っている桜花、 その花のように照り輝く乙女よ、
  そんなお前さんを世間では私といい仲だと噂しているようだ、
  そんな私をお前さんといい仲だと噂しているそうだ。
  当のおまえさんはどう思っているかね。 」
(女: 
  「憎からず思っているからこそ、この長い年月を、
  あの切り髪の年ごろを過ごし、同じ年頃の子よりも背丈が伸び
  橘の枝先を越えるようになった今の今まで、
  この川の底よりも深く、心の奥で長い間
  お前さんの気持ちが私のほうに向くまで待っていたのに。 」 )

(語句解釈) 

「物思はず」無心に 
「道行く行くも」道を行きながら
「寄す」 心を寄せていると人が噂する
「思へこそ」 貴方を想えばこそ
「切り髪」 肩のあたりで切りそろえる少女の髪型
「よち子」原文「吾同子」 自分と同じ年頃の若い子 
「ほつ枝」 秀(ほ)つ枝 枝振りがよい 
「すぐり」 過ぐり 背丈が枝を超え

この歌は問答歌とされており、「汝はいかに思ふ」までが男の問いかけ
「思へこそ」からは「このようなことを今さら聞くのは心外だ」という
気持ちがこもる乙女の答えです。
また、男の歌の「山」に対して女は「川」となっており、
「人麻呂の表現に多い対句(伊藤博)」とも指摘されています。

今日、「匂う」という動詞は嗅覚に関する語として用いられていますが、元々は
内面の奥に隠れているものが何かに触発されて表面に美しく映え出たさまをいいました。
その語源は「丹」(に)「穂」(ほ:秀)「生」(ふ)で、鉄分を含む丹土が高熱で焼かれて
鮮やかな朱色に変身することにあるとされています。
赤や紫の美を讃える以外に「白妙に にほふ」と白色を賛美する表現もあり、
女性の美しさ、衣装、自然、季節の花々などあらゆるものを褒め称える言葉として
万葉集で75例もみられる慣用句です。

また、娘子(おとめ)は原文で「遥越賣」となっていますが、一般的には
「未通女」と表示されることが多く、清純な処女を暗示しています。

「 つつじ花 にほえ娘子(をとめ) 」

犬養孝氏は 「ツツジのように美しいおとめではなく、つつじの花の美が、
そのまま、かぐわしいおとめの美とかさなっているのだ」(万葉12か月 新潮社) 
と述べておられます。
まさに瑞々しく、輝くような美貌の乙女が彷彿される一首であり、調べ美しく
多くの人たちに歌い継がれたことでありましょう。

 「 吾子(あこ)の瞳(め)に 緋つつじ宿る むらさきに」 中村草田男


( 新宿御苑 )

by uqrx74fd | 2012-04-28 18:18 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百五十(もののあはれ)

( 辰巳 寛 月出づ 万葉日本画の世界 奈良県立万葉文化館刊行より)

( 雪月花 筑波の雪 )

( 入江泰吉  薬師寺の月  大和路雪月花 集英社より )

( 滝桜  福島県三春町  がんばれ東北 )


『 「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。
  しからばその「もののあはれ」は何を意味しているのか。
  彼はいふ、「あはれ」とは「見るもの、聞くもの、ふるる事に心の感じて出る
  嘆息の声」であり、
  「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみ などいふたぐひの物にて 
  ひろくいふ時に添ふる語」である。
  従って「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」を
  「物のあはれ」を知るという。
  「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、
  おかしきこと、すべて嗚呼(ああ)と感嘆されるものを皆意味している。
  「あはれに嬉しく」「あはれにおかしく」というごとき用法は
  常に見るところである。 』
           ( 和辻哲郎 日本精神史研究 岩波文庫より)
 
「ものさびしい」「ものがなしい」「もの言い」「物にする」「物になる」
「もの心がつく」「ものわかりのいい人」「女ですもの」「急病になったもので」
「雨を降らせるもの」「もののけ」- - 。

 なんと「もの好きな」日本人よ!

「もの」という言葉は解明が非常に難しい日本語の一つとされています。
古代の人は具体的に識別できる物体のほか、あらゆる森羅万象や空漠とした
心の印象を「もの」とよんでいました。

「 世の中は 空(むな)しきものと 知る時し
    いよよますます 悲しかりけり 」
                    巻5-793 大伴旅人

( 世の中とは空しいものだと思い知るにつけ
 さらにいっそう深い悲しみがこみ上げてきてしまいます。)

727年、作者は大宰府長官に任ぜられ、筑紫に赴任しました。
その半年後、都から異母妹大伴坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂が他界したとの
知らせを受け、悲しみを込めてお悔やみを述べた一首です。

「世の中は空しきもの」は仏教用語「世間空」を翻案したもので、
人力の及ばぬ自然の摂理を「もの」という言葉で表現しています。

「 旅にして もの思ふ時に ほととぎす
    もとなな鳴きそ 我が恋まさる 」 
          巻15-3781 中臣宅守(なかとみのやかもり)


( 旅先にあって物思いに沈んでいるこんな時にホトトギスよ
  そんなにむやみやたらと鳴かないでくれ。 
  都恋しさがますます募るから )

作者は下級女官、狭野弟上娘子(さののおとかみのおとめ)を娶った直後、
勅勘の身となり越前に配流されました。
何の罪であったかは定かでありません。
新婚早々遠く別れ住む二人。
その恋の歌の数々は一大絵巻物語のようです。
ここでの「もの思ふ」は別れてきた新妻のこと、将来への不安など、
歩きながら次から次へと思い浮かんできたことの表現と思われます。

「 水鳥の 立たむ装(よそ)ひに 妹のらに
    物えはず来にて 思ひかねつも 」 
                   巻14-3528 作者未詳


( 水鳥が飛び立つ時のような慌しい旅立ちの準備にかまけて、あの子にろくに
物を言わずに出てきてしまった。 どうも心残りで仕方がない。)

遠国に旅立つ夫がその出発に際して当然妻に言うべき言葉
「体をいとい、子供をしっかり育て留守を守って欲しい」「親の世話を頼む」
「困ったことがあれば誰々さんに相談するように」など、
当然言い置くべきことがすべて「もの」に集約されています。

「 雁が音の 寒き朝明(あさけ)の露ならし
   春日の山を もみたすものは 」 
                          巻10-2181 作者未詳


( 雁の声が寒々と聞こえる。
 春日山をこんなに美しく色づかせるのは、朝明けの露なのだなぁ )

ここでの「もの」は自然現象を詠っています。
古代、紅葉(こうよう)を促進させるものは、時雨であり露であると考えていたのです。

一方、「あはれ」は「あ」+「はれ」で、ともに感動すると自然に発生する声から
生まれた言葉とされています。

「 - 卯の花の 咲く月立てば 
  めづらしく 鳴くほととぎす  
  あやめぐさ 玉貫(ぬ)くまでに  
  昼暮らし 夜わたし聞けど
  聞くごと 心つごきて 
  うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし 」
                巻18-4089(長歌の一部) 大伴家持


( - 卯の花の咲く月ともなると、
  愛らしく鳴くホトトギス
  あやめ草を薬玉に通す節句の日まで
  昼はひねもす 夜は夜通し聞くけれども 
  その声を聞くごとに 心がわくわくしてため息をつき
  あぁ、なんと趣深き鳥よ と 言わない時とてない )

作者はホトトギスを格別に好み、その初音を待ちわびる歌を多く詠んでいます。
 ここでの「あはれ」は「憐憫」の情ではなく「言葉に表せないほど心惹かれる」の
意で、万葉時代に早くも「もののあはれ」の感覚が芽生えていたことが窺われます。


『 「あっぱれ」という言葉がある。
  武将などが「いや、あっぱれな奴じゃ」などとつかう。
  おおむね男性的な言葉です。
  「あっぱれ」にくらべると「あはれ」は女性的です。
  しかし、実はこの「あはれ」と「あっぱれ」は同じ言葉をつかいかたを
  変えているにすぎません。
  貴族社会でつかわれた「あはれ」は季節のうつろいや人事や事物の有為転変を
  詠嘆するときの言葉です。
  いわば貴族の文化がみがきあげた感覚である。
  ところが、武士が登場し、政権が武門のほうに移る時代になると、
  清盛がその最初の代表なのですが、武士の棟梁たちも貴族の「みやび」が
  ほしくなり、さまざまに華麗を演じます。
  けれども武家がつかう「あはれ」はアワレとは発音しない。
  「あっぱれ」というふうに破裂音がともなう発音になる。
  それとともに「あはれ」というイメージをもう一段べつのところから詠嘆して
  みせる言葉になるのです。』
                           ( 松岡正剛 花鳥風月の科学 中公文庫より)

by uqrx74fd | 2011-12-17 15:41 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百四十六(筑波山に登る)

( 筑波山遠景)

( 高橋虫麻呂が見た筑波山 角田信四郎  万葉日本画の世界 :奈良県立万葉文化館刊より)

( 筑波嶺の雪  福井爽人  同上 )


『 「常陸風土記」によれば関東諸国の男女は、春花の咲く頃、秋紅葉の節、
  相たずさえて登り、山上でご馳走を拡げ、歌をうたって舞い楽しみ、
  そこで夜を過ごす者もあった。
  筑波山へ登ってその会合で男から結婚を申し込まれないような女は、
  一人前ではないと言われさえした。
  わが国では宗教登山が最初のように言われるが、筑波山のような大衆の
  遊楽登山も早くから行われていたのである。 』
               (深田久弥 日本百名山 朝日新聞社より)

数多い万葉歌人の中でも異色の存在とされる高橋虫麻呂の出身は常陸国だそうです。
当時、国守であった藤原宇合(うまかい)にその才能を買われて官人となり、
常陸国風土記の編集にも携わったと推定されています。
もしそうだとすれば、筑波山は虫麻呂にとって懐かしい故郷の山であり、夏や秋の登山、
歌垣など多くの歌を特別な思い入れを持って詠ったのも当然のことと思われます。
まずは、秋の筑波登山の歌です。

  「夏の登山」(9-1753、1754) 、「嬥歌(かがい)=歌垣」(9-1759、1760) 

「 草枕 旅の憂へを慰もる こともありやと 
  筑波嶺(つくはね)に登りて見れば  

  尾花散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 
  雁がねも  寒く来鳴きぬ 
  新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
  秋風に 白波立ちぬ

  筑波嶺の よけくを見れば
  長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し憂へはやみぬ 」 
                                 巻9-1757 高橋虫麻呂

訳文:
( 草を枕にしての旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、
 筑波嶺に登って 見はるかすと
 尾花の散る師付の田んぼには
 雁も飛来して寒々と鳴いている
 新治の鳥羽の湖にも 
 秋風に白波が立っている
 筑波嶺のこの光景を目にして
 長い旅の日数に積もっていた憂いは 跡形もなく鎮まった。)

(語句解釈)
「師付(しつく)」: 筑波山東方の山麓、現在の下妻、下館、石岡、土浦市近郷
「新治(にひばり)」: 広く筑波山一帯をさす。
「田居」:   たんぼ
「鳥羽の淡海」: 筑波山の西側、今の真壁郡の南部、小貝川と鬼怒川の間にあった沼沢、
           現在は田園地帯となっている

古来、山で詠うのは、「国土賛歌」、「山の神を讃える」「遠くにありて家を想う」
というのが習いでした。
ところが、虫麻呂は憂さ晴らしに山に登ったと詠っています。

このような万葉歌人は彼以外には見当たりません。
さらに、この歌は平易な表現ながら心情が芭蕉や夏目漱石の境地に通じるものがある
とも指摘(中西進)されており、虫麻呂研究にとって重要な資料とされているのです。

まず、歌は
「 旅の憂へを慰もる こともありやと 」
その成果にあまり期待していないような表現からはじまり

「 尾花散る 師付の田居に 雁がねも寒く来鳴きぬ 」
「 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に白波立ちぬ 」 と

筑波登頂の途中で目にしたであろう東方の田野、頂上での眼前の西方の湖と
東西の景観を対比させます。

その景観たるや「 尾花が散り、雁が寒々と鳴き、秋風に白波が立つ湖水 」という
紅葉の華やかさとは程遠いもので、その寂寥たる風景を見て虫麻呂は積年の憂さが
晴れたというのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。

以下は中西進氏の解説です。(旅に棲む 中公新書より要約)

『 風は白波が立つのだから決して微風などではない。 
湖面に吹きつけ、湖面を騒がせて吹きすぎる風である。
雁がねも寒々としているなら、秋風も蕭条(しょうじょう)と吹きわたっている。
 尾花、白波、白の景 芭蕉の

「 海暮れて 鴨の声ほのかに白し」

を引き合いに出すまでもないが、豊穣を予祝するどころではなく、
また遠く家人を思うといったものですらない。
いま天地寂寥の相と出会ったのである。
そして彼はその体験を「よけくを見」「思い積みこし」憂いがやんだと語る。

それは寂寥の風景が、心の憂情とよく調和した。
心に抱いていたものと同質のものを風景の中に発見したのではないだろうか。
心の寂寥と景の寂寥との共鳴、心と景との調和に達して虫麻呂の心の憂情は
やんだのではないか。

それは自然との照合といってもよいだろうか。
漱石の「則天去私」。
より大きな一つの宇宙に生きて、私を個別を去るという境地は、
いまの虫麻呂の感じているものと似通っているのではないか。
天に則(のっと)るといってもよい。 』
  
筆者註: 「 海暮れて 鴨の声ほのかに白し」(芭蕉)

( とっぷりと暮れた中で水上はまだ薄明を漂わせている。
  その仄白さの中で鳴く鴨の声を作者は白いと感じた。
  白しには「顕(しる)し」と「白秋」すなわち「秋深み」の意も含む)

「 筑波嶺の 裾(すそ)みの田居に 秋田刈る
    妹がり遣(や)らむ 黄葉(もみち)手折らな 」
                     巻9-1758  同上

訳文:
( 筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っている可愛いあの子に
   あげるために 紅葉を手折っていこう  )

自ら孤独を求めて旅を続けた虫麻呂。
でも、結局は人間のもとに戻ってきました。
ただ、この歌の妹は想像上の人間、山を登る時に見かけた乙女を美化したようです。

彼の歌には魅力的な女性が多く登場します。
ところが、自らの恋の歌は一首もないのです。
愛に飢え、女性願望が強かった虫麻呂は理想とする女性を頭の中で描き、
それを友として旅を続けていたようです。
このような虫麻呂の心情を犬養孝氏は「漂泊する魂」と表現されています。

人懐かしさを求めながらも、現実の人間ではなく自ら作り上げた人間に
心惹かれた虫麻呂。
それは、彼にとって唯一の魂の救いどころだったのでしょうか。

「夕されば むらさき匂ふ 筑波嶺の
      しずくの田居に 鶴鳴きわたる 」 長塚節


「むらさき匂ふ」は古来、筑波山は「紫峰」と称されていたことをふまえたもので
虫麻呂の歌を本歌取りしています。
茨城県結城郡で生まれた作者は、朝夕筑波山を仰ぎながら虫麻呂を想ったことでしょう。

「 赤蜻蛉(あかとんぼ) 筑波に雲もなかりけり 」正岡子規

by uqrx74fd | 2011-11-18 20:39 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百三十七(朝影)

「 去(い)にし子 」

( 髭面の泣き男  神代植物公園にて )

『 朝影って、こんなすばらしい言葉があるでしょうか。
  だって朝、人間が道に立つとするでしょ。
  太陽は東から照るでしょ。
  そうしたら電柱みたいな細い影になるでしょ。自分の影が。
  これを朝影というんですね。
  恋の悩みで私はもう ひょろひょろ になっちゃった。
  ひょろひょろと言ったらまずしいけれど、朝の影みたいに電柱みたいに細い
  影法師になっちゃった。- -
  万葉人の造語力のすばらしさ。非常に勘のいい言葉でしょ。 』

                     ( 犬養孝 わたしの万葉百首 ブティック社より要約 )

  
「 朝影に 我(あ)が身はなりぬ 玉かきる
    ほのかに見えて 去(い)にし子ゆゑに 」
             巻11-2394   柿本人麻呂歌集


( 我が身はとうとう朝日に映る影法師になってしまった。
 あのほんのちょっと姿を見せて、行ってしまったあの子ゆえに )

「玉かきる」は「玉かぎる」の訓みかたもあり、「ほのかに」に掛かる枕詞。
「玉がかすかに光るように」の意。

この部分の原文表記は
「玉垣入(たまかきる) 風所見(ほのかにみえて) 去子故(いにしこゆえに) 」 
とあり、神社の玉垣に入るかすかな風の印象を与え、その子が風の様に去っていったさまを
連想させています。

「ほのかに」は通常「髣髴(ほのか)」の字が当てられていますが、ここでは法華経にある
「風(ほのか)」が採られており、作者は仏典にも精通していたことが窺われ、
隅々にまで繊細な神経が行き届いている名歌です。

永井路子さんはこの歌をさらに想像たくましく膨らませています。

『 「見る」の意味はそれだけだろうか。
  というのは、この言葉自体、ただ会って顔を見るというだけではなく、
  肌を重ね、夜をともにして愛撫を交わすという意味もあるからである。- -
  恋人同士の逢いびきは、ふつう男が女を訪れるという形で始まる。が、そのほか、
  祭の夜もデイトによく使われた。
  豊年を祝って、歌い、踊り、騒ぎ、その興奮に体をほてらせたまま、やがて
  一組、二組と暗闇に消えて行く、といったことはつい最近まで農村では
  よく行われていた。
  だから、この歌もそんなことを頭に入れておいて味わえば、ただならぬ思いを
  秘めていることがわかると思う。
  ふとしたきっかけで逢いびきした美しいあの娘- 
  「な、いいんだろう。」そっと肩を抱くと、細い肩が無言で肯いた。
  あの夜の記憶、あの肌の匂いは幻だったのか。
  かりそめの夜を過したあと、あの娘はどこへ行ってしまったのか- -』
                                (「万葉恋歌」:光文社より )

「 夕月夜 暗闇(あかときやみ)の 朝影に
       我(あ)が身はなりぬ 汝(な)を思ひかねて 」
                   巻11-2664 作者未詳 


( 夕方出ていた月が沈んで、暁の闇が明けた朝。
  私は、その朝日に映る影法師になってしまいました。
  あなたへの思いに堪えかねて  )

通い婚の時代、月の夜は女のもとに行く絶好の機会でした。
にもかかわらず男はついに訪れなかった。
夜通し待ち続けたやるせない女の思いを時間の経過とともに詠っている一首です。

なお、この歌の「汝(な)」から男が詠んだものとする解釈もありますが、
女歌にも用例があるので伊藤博説に従いました。

「 年も経(へ)ず 帰り来なむと 朝影に
      待つらむ妹し 面影に見ゆ 」
                   巻12-3138 作者未詳


( あの子は、年が変わらぬうちに帰ってきてほしいと、
毎日門に立って待ち続けているだろうな。
 きっと、朝日に映る影法師のように痩せ細ってしまっているだろう。
 そんな姿が目の前に浮かんで可哀想で仕方がないよ。)

遠く離れた旅の空から故郷の方角を仰ぎながら妻を思う。
帰郷の日も定かならぬ防人、あるいは都での労働に徴発された男でしょうか。

「 ほのぼのと 目を細くして 抱かれし
    子は去りしより 幾夜か経たる 」  斎藤茂吉


茂吉は人麻呂の「朝影に我が身はなりぬ」を見出したとき、心がふるえるほどに
感動したそうです。
そして、「おひろ」と題する連作にその影響を強く受けた作品を残しています。

「 愁へつつ 去(い)にし子ゆゑに 遠山に
  もゆる火ほどの 我(あ)が心かな 」  斎藤茂吉
 
         

by uqrx74fd | 2011-09-17 14:38 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百三十二(夏の夜の夢)

(上村松園 蛍 新潮日本美術文庫より)

( 仲村 進 穂の上に霧らふ 奈良県立万葉文化館刊より)

「 ゆふぐれしづかに  ゆめみむとて
  よのわずらひより  しばしのがる
 
  きみよりほかには  しるものなき
  花かげにゆきて   こひを泣きぬ

  すぎこしゆめじを  おもひみるに
  こひこそつみなれ  つみこそこひなれ 」
               (島崎藤村 逃げ水より 新潮社:藤村詩歌集)

「夏の夜の夢」
今にも楽しげな音楽が流れ出てきそうな響きを持つ言葉です。
万葉集にみえる夢の歌は100首を超えますが、その大半が恋の歌。
古代の人たちにとって夢みることは「逢い引き」をすることでした。
携帯もメールもない時代、遠くに離れている恋人たちは、夢で逢い、
覚めては現実に立ち返り、ますます恋の辛さを思い知らされるのです。

「 夢の逢ひは 苦しくありけり おどろきて
   掻き探(さぐ)れども 手にも触れねば 」
                  巻4-741 大伴家持

( 夢で逢うのはつらいものだ。
 目を覚まして手さぐりしても、あなたはおろか何も手に触れることができないのだから。)

婚約者 坂上大嬢(おほいらつめ)に贈った歌15首のうちの1首です。
作者は当時越中の国守。
婚約者大嬢は遠く離れた都に住んでいます。
古代の人たちは、夢に恋人の姿が現れるのは、「相手が自分を想ってくれているから」
と信じていました。
逢いたい、逢いたいと面影を瞼に浮かべながら眠れぬ時を過ごす。
うとうととしながら、ようやく眠りにつき夜も明けようとするころ、
いとしい恋人の面影が夢に現れる。
美しく豊満な肢体はまるで男を誘っているよう。
「大嬢!」思わず叫んで抱こうとした手はむなしく空を切る。
はっと目がさめ、「あぁ、また夢か!」と呟く家持。

この歌は中国唐代の艶情小説「遊仙窟」の
「 夢に十娘(じふろう)を見る。驚き覚めてこれを攬(と)れば忽然として
  手を空しうす 」からヒントを得て作られたものとされています。

文武天皇の時代、遣唐使に派遣された粟田真人は天皇から書籍を求めてくるように
命ぜられ、多くの文献を集めました。
そして、同行していた山上憶良が「遊仙窟」なる本を見つけて買い求め、
大切に持ち帰ったといわれています。
この本は後々中国で発禁となった通俗小説で

「 男は手を娘の紅の下穿(したばき)きに入れ、足差し違え、口に口を合わせ、
  片捥で頭を支え、乳房を掻き探り、内股を撫で摩(さす)る。
  口吸えば心地よく、抱けばうら悲しく、鼻はくすぶり、胸つまる心地。
  やがてどっと目はかすみ、耳はのぼせ、血管がふくらみ、筋がゆるむ- -」

などの表現から察せられるように、いわゆるエロ本なのです。
四書五経に馴染んでばかりいた憶良はこのような本を読んでびっくり仰天したことでしょう。

帰国後、真面目な憶良は艶なる部分を省いた箇所から「貧窮問答歌」のヒントを得、
この本を借りて読んだ大伴旅人、家持親子は狂喜して(?)、女性を題材にした歌を
作ったといわれています。
そして、旅人は「松浦川に遊ぶ」という神仙譚を創作し、家持は大嬢へのラブレターに
応用したのです。

古代、女性を口説く最大の武器は歌でした。
多くの官人たちは「どのような歌を詠んだら女性の気を引くことが出来るか」熱心に研究し、
あらゆる文献からこれはという材料を探し求めました。
現代の若者が島崎藤村やハイネの詩を引用してラブレターを書くような感覚だったのでしょう。

そして、10世紀中ごろの辞書「和名抄」にもこの「遊仙窟」が収められ、醍醐天皇や
その息女など、やんごとなき女性までこの書を読んでいたそうです。

「 いにしへに ありけむ人も 我(あ)がごとか
        妹に恋ひつつ 寝(い)ねかてずけむ 」 
                       巻4-497 柿本人麻呂


( こんなに苦しいのは自分だけであろうか。
 昔の人も恋人が恋しくて眠れない思いをしたのだろうか )

人麻呂も恋に悩み、寝られぬ一夜を過ごしています。
この歌は、持統天皇紀伊行幸(690年)の折の宴席でのものとされていますが、
女を想って寝られないわが心を昔の人に託して詠ったのでしょうか。
「我がごとか」の一句に強い気持ちが感じられます。

「 夏の夜は 浦島の子が箱なれや
    はかなくあけて 悔しかるらむ 」 拾遺和歌集


※夜が「明ける」と玉手箱を「開ける」とを掛けている

(エピローグ)

「 夜の住人、私どもの、とんだり、はねたり、
  もしも皆様、お気に召さぬとあらば、
  こう思召(おぼしめ)せ、
  ちよいと夜のうたたねに垣間見た夢まぼろしにすぎないと。
  それならお腹も立ちますまい。- -
  つきせぬお名ごりなれど、
  今宵は皆様、これにてお寝(やす)みなさいまし。 」

( W.シエイクスピア 夏の夜の夢 パックの台詞より
            新潮文庫:福田恒存訳 )

by uqrx74fd | 2011-08-14 07:58 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百三十一(きけ わだつみのこえ)

「 祈り: 石川 義(ただし) 奈良県立万葉文化館刊 」

「 怒り 伐折羅(バサラ): 新薬師寺 淡交社」



以下の文章は万葉集を学ぶ京都大学の学生が学徒出陣で徴集され、海軍で訓練を受けて
いる時の日記の一部です。

『 「 父母死すとも郷里にかえるこころをおこすな。
   決戦下此の夏までにお前たちはみな死ね。
   うかうかした気持でいたら、帝国海軍の伝統に泥を塗るだけだぞ。
   こんご生死の間にあって、お前たちが去就にまようときは、すみやかに死に就け」
   云々と。
   夏までに死ぬ覚悟をさだめておけというのではなく、ただ死ねというのだ。
   われわれはここでは、何か事あるごとに死ね死ねと教えられている。
   いったい、戦争をやりとげることが目的なのか、
   自分たちを殺すことが目的なのか。- 

  大和の風物、そして万葉集は、なんといってもわれわれが生涯をかけた
  心の拠りどころであった。が今となってはそれも単なる美しい情調、
  なつかしい憶い出と化したことを忘れてはならない。- - 』
                           ( 阿川弘之 雲の墓標 新潮文庫より )

楽しい学生生活から一転、異次元の世界に強制的に移動させられた若人たちの嘆きと
悲しみは如何ばかりであったことでしょう。
然しながら、そのような苦境の中でも彼らは自らの使命を自覚し、逞しく生き、
そして従容と死に臨んでゆきました。

古代の防人も突然の徴集と生還を期しがたい出征にあわてふためき、愛する家族との
別れに嘆き悲しむ歌を多く詠っています。
そこには、出陣に対する勇壮な決意を述べたものは数首にすぎず、大半が父母、妻子への追慕、
懐かしい故郷への想いを綴ったものばかりです。
それは、1300年後の学徒の遺作「きけ、わだつみのこえ」に書きとどめられた心情と
なんと似ていることか。

以下は万葉集防人の歌と「きけ わだつみのこえ」所収の作品を比較しながら、
いにしへと近代の若人の心の軌道を辿ってみたいと思います。


軍隊流行歌(市井素治のノートからの数え歌)

「 オ国ノタメト云イナガラ
  人ノ嫌ガル軍隊ニ
  出テクルコノ身ノアハレサヨ
  可愛イアノ娘(こ)ト 泣キ分レ 」 
                    (きけ わだつみのこえより :岩波文庫)

「 大君の命(みこと)畏(かしこ)み 磯に触(ふ)り
            海原(うのはら)渡る 父母を置きて 」

     巻20-4328 丈部造人麻呂(はせつかべのみやっこひとまろ:相模国防人)


( 大君の仰せを恐れ畏んで 磯から礒へと伝いながら、おれは海原を渡って行くのだ。
 父母をあとに残したままで )

「 葦垣(あしかき)の 隈処(くまと)に立ちて 我妹子(わぎもこ)が
   袖もしほほに  泣きしぞ思(も)はゆ 」

        巻20-4357 刑部直千国(おさかべあたひいくに:上総国 防人)


( 葦垣の隅っこに立って、袖も絞るばかりに涙を流して泣いていたあの子。
 その姿が思い出されてならないよ )

しほほに: 「しほしほに」の略で「ぐっしょり濡れる」さま。

  「 コレカラ勤メル3年間
      寝ルモ起キルモ皆ラッパ
      嫌ナ2年兵ニドヤサレテ
      泣キ泣キ送クル日ノ長サ 」     ( 同上 )

「 大君の命畏み 弓の共(みた)
         さ寝か わたらむ 長けこの夜を 」

   巻20-4394 大伴部子羊 おほともべのこひつじ:相馬(茨城、千葉)の防人


( 大君の仰せの恐れ多さに、弓なんか抱いて夜を明かすのか。
 この長い夜をずっと )

厳しい官命に対する嘆きの声 弓と共に寝る毎日。妻と共寝できない苦しさ。
辛い日々の経過がひとしお長く感じられます。

「点呼ガスンダソノ後デ
   鉄ケン制裁雨アラレ
   泣キ泣キモグル床ノナカ
   夢ハ故郷ノ母ノカオ 」    (同上)

「 我が母の 袖もち撫でて 我(あ)がからに
   泣きし心を 忘らえのかも 」

       巻20-4356 物部乎刀良(もののべのをとら:山辺(千葉)防人


( 母さんが袖でおれの頭を掻き撫でながら、おれのために泣いてくれていた
 あの気持ち。 忘れようにも忘れられないよ )

苦しさに耐えきれない時、いつも思い出すのは故郷の山川、家族、
とりわけ自分を慈しんでくれた母の顔。

明治の日清戦争のころ、言論の自由はまだ保たれていました。
与謝野晶子は反戦歌を発表、特に二番は天皇批判とも受け取れる痛烈なものです。
昭和の戦中なら恐らく不敬罪で勾留でしょうか。

「 あぁ、をとうとよ 君を泣く、
  君死にたまふことなかれ、
  末に生まれし君なれば
  親のなさけはまさりしも、
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと をしえしや
  人を殺して死ねよとて
  二十四までそだてしや。


  君死にたまふことなかれ
  すめらみことは、戦いに
  おほみづからは 出でまさぬ、
  かたみに人の血を流し
  獣(けもの)の道に 死ねよとは、
  大みこころの深ければ
  もとよりいかで思(おぼ)されむ。 』

        ( 与謝野晶子 君 死にたまふことなかれ)


8月6日、9日。 広島、長崎原爆忌
8月15日。 終戦記念日。

私たちは「原爆許すまじ」と歌った日々を決して忘れることはありません。
その「原爆」を「原発事故」に置き換えると、それは「東日本大震災」そのままの姿。

      ※「原発事故」と表記したのは政府の場当たり的な原発政策には組しない意

震災後、五ケ月経過しているにもかかわらず、自己保身専一の拙劣な政治のため、
今もなお塗炭の苦しみを味わい続けておられる多くの方々を救うことが出来ません。
千年に一度の国難に最悪の指導者を抱いた我国の不幸です。

歴史の節目節目に彗星のごとく素晴らしい指導者が現れ、国を救ってきた日本。
今ほど強い信念と不惜身命の志を持つ政治家が求められている時はありません。

被災地の一日も早い復旧と復興を祈りつつ。

「 ふるさとの街やかれ
  身よりの骨うめし焼土に
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの街に

  ふるさとの海荒れて
  黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの海に 」

                   (原爆ゆるすまじ)
                      浅田石二作詞、 
                      木下航二作曲

by uqrx74fd | 2011-08-06 08:25 | 心象 | Comments(2)

万葉集その三百二十二(浦島伝説)

(浦島太郎:作詞作曲者未詳 愛唱名歌集 野ばら社より) 

(岸浪百草居画 魚百種類献上絵巻の一部 作品社 魚より)

浦島伝説が文献に登場するのは日本書紀の雄略天皇のくだり(478年)で
「 秋7月、丹波国、余社郡(よぎのこほり)の管川(つつがわ)の人、瑞江(みずのえ)の
  浦島子が舟に乗って釣をしているうちに大亀を捕え、その亀がたちまち女に変身した。
  その女に魅力を感じた浦島は妻となし、共に手を携えて蓬莱山(とこよのくに)に
  行き仙境を巡り観た。」の記述が初出とされ、続いて「丹後国風土記」逸文にも
  同様のものがみられます。

名文の誉れ高い高橋虫麻呂の浦島物語は次のような出だしから始まります。

「 春の日の 霞(かす)める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出(い)で居て
  釣舟(つりぶね)の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 」


「とをらふ」=「たわむ」ここでは釣り舟が波の間に上下して揺れ続けている意。

( 春霞がかかっている麗(うら)らかな日に、住吉(すみのえ)の岸に出て
  釣り舟がゆらゆら揺れているのを見ると おのずと昔のことが思われます )

この一節は導入部。
まず、遠くいにしえを回想する舞台装置に春の日の霞と釣り舟のたゆたいを持ち出し、
『 映画の画面でゆらゆらと画面をゆらしながら回想の世界に筋が運ばれてゆくのと
  同じ手法 』(中西進)を用いた心憎い演出です。

なお、現在伝えられているお伽話は京都丹後の国が舞台ですが、虫麻呂のは
摂津の住吉となっています。

「 水江(みずのえ)の 浦の島子が 鰹(かつを)釣り 鯛釣りほこり
  七日まで家にも来(こ)ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに
  海神(わたつみ)の 神の女(をみな)に たまさかに い漕ぎ向かひ
  相(あひ)とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 
  海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿(との)に たづさはり
  ふたり入り居(い)て 老いもせず 死にもせずに 長き世にありけるものを」


「たまさかに」:はからずも 
「相とぶらひ」:愛の言葉を交わしあい
「かき結び」:契りを結び

(水江(みずのえ)の浦の島子が、鰹(かつを)や鯛を釣っているうちに、大漁となって
調子づき、7日も家に帰らず、とうとう海の境を通り過ぎてしまった。
なおも漕いでゆくうちに、海神(わたつみ)の神の娘の漕ぐ舟とたまたま出逢い、
 一目見て二人はたちまち意気投合して求婚し合い、話がうまくまとまったので、
夫婦の契りを結んで常世(とこよ)の国まで一緒に赴いた。
そして、海神の神の宮の、奥にある、善美を尽くした宮殿に二人ともに住み、
老いもせず死ぬこともなく永遠に生きていたのに、 )

虫麻呂の話では、いじめられる亀や、鯛、ヒラメの踊りは登場しません。
大漁で釣り誇っているうちに時を忘れて無我の境地。
ふと気がつくと、そこは海と常世との境界。
そこへ現れた乙女は絶世の美女、海の神の娘です。
あっという間に意気投合して二人は結婚。
浦島も容姿端麗の美丈夫だったのでしょう。

「世間(よのなか)の 愚か人の 我妹子(わぎもこ)に 告(の)りて語らく
 しましくは 家に帰りて 父母に 事も告(の)らひ 
 明日のごと 我れは来なむと言ひければ 
 妹が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと
 逢はむとならば この櫛笥(くしげ) 開くなゆめと 
 そこらくに 堅(かた)めし言を 」


「しましくは」: しばらくの間
「櫛笥(くしげ)」: 櫛を入れる小箱。古代、櫛には霊魂がこもるとされた
「開くなゆめ」: (開けると呪力が失われるので) 決して開けないで下さい。

 ( この男、世にも愚かな人間よ。愛しい妻に告げて言うには、
  『ちょっとの間、家に帰って父母に事情も話し明日にでも帰ってこよう』と
   言ったので、妻は、
   『常世の国へまた帰ってきて、今のように私に逢おうと思うならば、
   この櫛箱を決して開けてはなりませぬ』 と、
   くれぐれも堅くいましめたのに、)

「なんと愚かな人間なのだろう」という作者のため息が聞こえてくるようです。


「 住吉(すみのえ)に 帰り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 
  里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出(い)でて
  三年(みとせ)の間に 垣(かき)もなく 家失(う)せめやと 
  この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 」


( 住吉に帰りついても家は見当たらず、里も見当たらず、怪しいことだと
  不思議に思い、そこで思うに、
 「 家を出て三年、その間に、垣根もなくなり、家も失せる、そんなことが
  あり得ようか。 この箱を開いてみたら、元通り家もあるだろう」と )

あれだけ妻が固く戒めたのに浦島はとうとう箱を開けてしまうのです。

「玉櫛笥(たまくしげ) 少し開くに 白雲の箱より出でて
 常世辺(とこよへ)に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 臥(こ)ひまろび
 足ずりしつつ たちまちに 心消失(こころけう)せぬ 
 若くありし 肌も皺(しわ)みぬ  黒くありし 髪も白(しら)けぬ ゆなゆなは 
 息さへ絶(た)えて 後(のち)つひに命死にける 」


「ゆなゆなは」後々、やがては

( 美しい櫛箱を少し開くと、白雲が箱から出て、常世の方へたなびいていったので、
 引き留めようと、立ち走り、叫びながら袖振りまわし、ころげ回り、地団駄を
 踏みながら、たちまち気を失った。
 若々しかった肌も皴ばみ、黒髪も白くなった。
 やがては息さえふっつりと絶え、後には死んでしまったのです。 )

白雲は常世の神だけが持っている呪力が込められている雲、
その雲が常世の国へ戻ってしまった。
呪力が失われた浦島はたちまち現実の世界に戻され、あっという間に生命力が失われて
気絶して倒れ、やがて死にいたります。
何しろ常世にいる間に何百年も経っているのですから。

「 水江(みずのえ)の 浦の島子が 家のところ見ゆ 」
                     巻9-1740 高橋虫麻呂


( このように伝えられている水江の浦の島子の家の跡が見えるのです。)

ここで現実に戻り、作者の回想が終わります。


「反歌」
 「 常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣太刀 
    汝(な)が心から おそやこの君 」 
                 巻9-1741 高橋虫麻呂

「おそや」 愚かな
「剣太刀」 枕詞。 古来、刀を「な」といったことから同音の「汝:な」に掛かる

( 常世の国に いつまでも住める身であったのに
 自分自身の浅はかさから そんなことになって 
なんとまぁ 愚か者であることか。この浦の島子の君は )
  
浦島を繰り返し「愚か者」と詠う虫麻呂は、一体何を伝えたかったのでしょうか?
現世で執着心を持つことへの愚かさと人間の弱さ、切っても切れない親子の関係、
そして何人といえども避けることが出来ない老や死。
さればこそ、その心の奥底には不老不死のまま絶世の美女とともに暮らしたいという
男の儚い願望も窺われるように思われるのです。

  「 宇良神社 長寿招福 絵馬涼し 」 福井貞子 

 註:  宇良神社は京都府与謝郡伊根町本庄浜に所在。
     もと浦島大明神と称し、浦島一族を祀る。
     浦島氏はかって丹後半島一円に勢力があった名家で
     浦島太郎はその一族と伝える。
     

by uqrx74fd | 2011-06-05 08:34 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百二十(磐姫皇后の謎)

(天平眩夢 船水徳雄 万葉日本画の世界より 奈良県立万葉文化館刊) 

( 磐姫御陵:奈良平城宮跡東北 藤田浩 万葉の旅:創元社より)

仁徳天皇のお后(きさき) 磐姫(いはのひめ)は歴史上臣下から皇后になられた最初の方です。
歴代の天皇に仕えた功臣、武内宿禰の孫にあたり、大和の豪族葛城氏の一族とされています。
仁徳天皇(313~399年)と言えば、民の竃(かまど)の煙が乏しいのを見て、3年間の免税を
断行された聖帝とされていますが、人は見かけによらぬもの、実は大の色好みだったそうです。
一夫多妻が公然と認められた時代ながら、潔癖感が強い皇后は天皇の浮気に大いに悩まれ、
その心情を余すところなく詠われました。
以下の四首連作からなる歌群は万葉集最古にして、かつ名歌の誉れが高いものとされています。

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
           巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)


( あなたが家を出られてから随分日にちが経ちました。
 毎日毎日あなたのことを想い、胸が張り裂けんばかりです。
いっそのこと険しい山を越えてお迎えにいきましょうか、それとも、
このままじっと待ち続けましょうか )

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
  岩根しまきて 死なましものを 」  巻2-86 同上


( こんなに恋焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、いっそのこと
お迎えに出ていこうかしら。
たとえ、道に迷って険しい山の岩を枕にして死んでしまっても構わないわ。)
  
「 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
   我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに 」  巻2-87 同上


( でも、やはり、このままいつまでも、あの方をお待ちいたしましょう。
  長々と靡くこの黒髪が白髪に変るまでも  )

「 秋の田の 穂の上に 霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)
    いつへの方に 我(あ)が恋やまむ 」   巻2-88 同上


( 秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧はまるで私のため息のよう。
それにしても私の恋は一体いつになったらすっきりするのでしょう。
秋の田の稲穂の上に立ち込めている朝霧だってやがては晴れるというのに。)

この歌は、天皇が長い旅に出られ(他の女性に逢いに行った?)、帰りを待つ皇后の気持を
詠ったもので、
『 恋情のやるせなさ、死ぬほどの激しさ、ひたぶるに待つ純情、かなしいあきらめを
これほど美しくまとめあげた作品は万葉の相聞歌の中でもまれである』(青木生子)
『 煩悶、興奮、反省、嘆息、まことに見事な連作、全く見事なロマンチシズム
  女性の恋愛心理に対する理解の深さは文学精神でもある』 (犬養孝)

と最大限の評価がなされております。
然しながら、万葉最古の歌にしては、あまりにも流暢な調べのため、
「作者は本当に磐姫なのか?」との疑問が呈されており、伊藤博氏は

『 心情の流れを漢詩絶句の起承転結に託する高度な技法がその頃に存在したはずがない。
ここには誰か埋もれた作者が必ずいる。
その人が新旧さまざまな歌を組み合わせて磐姫皇后が夫、仁徳天皇を偲ぶ歌として
仮託したもの。
そしてその演出者は柿本人麻呂ではなかろうか?
何故ならば、短歌四首を起承転結構えに仕立てることを試み、また、
自然現象の「霧」を人間の悲しみや、はかなさを言う為の素材として用いたのは
人麻呂が最初の人だからである 。
元々民謡のように歌われていたものが歌物語風に編集されたのではなかろうか 』
 (万葉集釈註より要約) と推定されています。

ところが、もう一つ大きな疑問があります。
古事記、日本書紀によると磐姫は異常なくらい嫉妬深い女性だったようです。

曰く『 他の妻妃たちが天皇に対して普段と違った物言いをすると「足もあかがに」
(地団太ふんで) 妬んだ。
曰く『 吉備国から召された黒姫は磐姫の嫉妬に耐えかねて実家に逃げ帰った』
そしてさらに決定的な事件は
『 宮中で大宴会を催すことになり、皇后はそれに必要な柏の葉を採りに遥々(はるばる)
紀州にまで出かけた。
その留守中、天皇はかねてから執心の異母妹八田皇女(やたのひめみこ)を
こっそり宮中に入れた。
その事実を知った皇后は柏の葉を全部海に捨て、そのまま天皇のもとに帰らず
山城の帰化人のところに身を寄せ、再三迎えに来た天皇に逢うことも拒絶し、
そのまま夫を許すことなく五年後にその地で生涯を終えた 』

と記されているのです。

歌では貞淑、献身的で情熱的ではあるがつつましく、しおらしい磐姫
記紀ではねたみ深く、独占的で、威圧的な女性。
一体これはどうしたことでしょうか?

「愛情」と「嫉妬」とは表裏一体。
愛情深ければ嫉妬もまた強いことも一面の真理です。
万葉人は磐姫を生き生きとした人間らしい理想の女性と憧れたのでしょうか。
伊藤博氏は
『 磐姫の嫉妬は、彼女が臣下、葛城氏の出身で皇族の八田皇女と比べて
格が低い点に一つの由来があろう。
有史以来はじめて人臣の出身で皇后になるという経験をもつ磐姫にとっての
保身の術は、嫉妬しかなかったかもしれない。
しかしながら、それは天皇への深い愛情に根づいているだけに、
どんなに強烈であっても最も安心できる戦術であったのではないか。」と
磐姫の心情に深い理解を示しておられます。

然しながら更にもう一つ大きな謎があります。
それは冒頭の磐姫の歌とほぼ同じ歌が記紀歌謡に別の作者のものとして記されて
いるのです。
以下は二首の比較です。

「 君が行(ゆ) 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
          万葉集巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

「君がゆき け長くなりぬ 山たづの
   迎へを行かむ 待つには待たじ 」   軽大郎女 記紀歌謡


充慕天皇の皇女である軽大郎女の歌は、厳禁されている同母兄、木梨軽皇子との結婚に
走り、二人して心中に追いやられた悲恋物語とされているものですが、
磐姫歌とたった五文字入れ替わっているだけです。
なぜこの様な盗作まがいのことがおきたのでしょうか?

実は、磐姫の歌には「山上憶良が類聚歌林に載す」との註があり、憶良は軽大郎女の歌を
意識的に磐姫作に置き換えたのではないか?と憶測されているのです。

直木孝次郎氏はその著「夜の船出」で
『 憶良は聖武天皇の東宮時代、学問の相手をつとめていた。
彼は軽大郎女作とされている歌を磐姫の作とすることにより、藤原氏が皇族でない
光明子(不比等の娘)を聖武天皇の皇后にする手助けをしたのではないか。
その為に記紀の嫉妬深い猛妻の磐姫像から貞淑でつましい理想の女性への転換を
はかった。
そして、藤原氏は万葉集巻二の巻頭に置くよう編集させたのではなかろうか 』
と述べておられます。

民謡で歌われていたものに最後の一首を加えて歌物語に仕立てたあげた柿本人麻呂。
それをさらに政治的な意図をもって他人の作を磐姫作に置き換えた山上憶良。
果たしてこの憶測が真実であるかどうかは今となっては知る術がありません。

しかしながら、その経緯がどのようなものであっても、この四首の歌の価値はいささかも
損なわれることなく、古代の理想の女性― じっと耐えながら待ち続ける芯の強い大和撫子が
「ただ私一人だけを愛して」と切なく詠った恋歌として多くの人たちに愛誦され続け、
今もなお燦然と光を放っているように思われるのです。

「 人恋ふは 悲しきものと
    もとおり来つつ  たえ難かりき 
  いにしへの  夫(つま)に恋いつつ
    平城山の路(みち)に 涙おとしぬ 」
                       ( 北見志保子作詞 平城山 )


( 作者は磐姫の歌をもとにして自身の恋を重ねたものとされている )

by uqrx74fd | 2011-05-22 10:26 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百十六( あかねさす紫野)

(安田靭彦 飛鳥の春の額田王  奈良県立美術館刊行 描かれた大和所収)

( 蒲生野 万葉風土記 偕成社より)


『 袖を振るというのは恋のしぐさだったそうで、万葉集にも、集中第一の才女額田王の
  歌が出ている。
「 あかねさす紫野行(ゆ)き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 巻1-20 

 恋歌ながら、景観が大きく、吹きわたる野風まで感じられる。
 紫野とは、染料の紫をとる紫草がはえている野をいう。
 標野の“しめ”は、しめ縄の“しめ”と同義で、“しめの”とは“占められている野”を
 言い、古代の皇室や貴族が猟をする禁野をさす。紫野とは接続していたらしい。
 紫野もまた禁野なのである。
 ここで貴族たちが野あそびをし、紫草をみつけては根を掘る。
 根とは染料をとるだけでなく、干して軟膏をつくり、やけどや湿疹の治療に
 つかうのである。
 このため、紫草をさがす野遊びのことを薬猟(くすりがり)といった。
 標野が男どもの遊猟の場であったのに対し、薬猟はおそらく女性たちのあそび
 だったろう。 』
     (司馬遼太郎 街道をゆく:大徳寺散歩中津宇佐のみち:朝日文庫より)

668年5月5日。天智天皇は近江の蒲生野で遊猟を催されました。
皇太弟大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)をはじめ諸皇族、群臣
ことごとく従い、華やかな衣裳をまとった女性は紫草を、男性は生えかけたばかりの
鹿の袋角(鹿茸:ろくじょう:強壮剤に用いる)を採集する行楽色の強い儀式です。
風薫る野原の中でのピクニックを満喫し、黄昏こめるころ待望の酒宴がはじまりました。

皓皓と輝く月光の下での賑やかな酒盛り、今日の猟の成果に弾む会話。
心地よい音楽と艶やかな美女の踊り。夢のようなひとときが過ぎてゆきます。
やがて宴が佳境に達したとき、周りから声があがりました。

「おーい 額田王さま、歌を一首所望いたす! 」

額田王は大海人皇子と十市皇女までなした元愛人同士ながら、今は天智天皇の後宮に
召されている女性です。
満場の人々は息をのんで王を凝視します。
やがて朗々たる美声が響き渡りました。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                    巻1-20  額田王


( 美しい茜色に照り映える紫野を行きつ戻りつしながら袖を振るあなた。
 そんなにあからさまに振ると標野の番人(野守)に見つかってしまいますよ) 

人々は楽しかった昼間のひと時を思い起こしたことでしょう。
標野を行きつ戻りつしたのはすべての男に当てはまることでした。
誰が返歌をしても良い状況です。額田王はじっと反響を見守ります。
突然、大海人皇子が立ち上がり詠いだしました。

「 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば
     人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも 」  
                  巻1-21 大海人皇子


( 紫草のように色あでやかな妹よ。そなたをどうして憎く思えるでしょうか。
  今は人妻になったあなたですが、わたしはなお一層恋しくてならないのです。)

額田は今や天皇の愛人。
別れたとはいえ大海人はきわどい告白したのです。

一同シーンと静まりかえり天智天皇の顔色を伺います。

ややあって、天皇は破顔一笑。
やがて並居る満座も賑やかな笑いに包まれ拍手喝采です。
真迫の演技だったのでしょう。

人々は二人が今でもひよっとしたら密かに思いあっているのではないかと
疑ったかもしれません。
とはいえ、美人の誉れ高い額田王も当時すでに齢(よわい)四十前後。
大海人は姥桜といってもよいその容貌を紫のように艶で麗しいと褒め称えたのです。
さらに「人妻ゆえに」は「人妻なのに」と受け取れるほか
「触れてはならない人妻だから一層心をそそる」とも取れます。

美しく、張りがあり、格調高い額田の歌、男らしい堂々たる大海人の歌。
特に額田王はこの一首で万葉不朽の歌人になったといえましょう。

この歌は、古くから
「子までなした二人から天智天皇は額田王を強引に奪い取った。
そして、この薬獵の場で久しく会わなかった二人が再会し、
恋情いまだに燃え続けている」ロマンティックな歌として
多くの人々を魅了してきました。

野守を天智天皇に擬す解釈あるいは、額田王は天智天皇に惹かれて自らの意思で
大海人のもとを去ったとの説もあります。

しかしながらこの歌は相聞歌ではなく雑歌に分類されており、朝廷の儀式的行事に
付随して詠われた公的なもの、つまり、遊猟が終わったあとの天皇臨席宴会の歌なのです。
だからこそ酒席を最大限に盛り上げる必要がありました。
額田王と大海人皇子は、若々しい恋情の時代が過ぎ去ったにもかかわらず、
今もなお恋して止まぬ恋人同士を見事に演じきりました。

とはいえ、二人の胸の中には初恋の甘酸っぱい幸せな思い出が満ち満ちて
いたことでありましょう。
二人の歌には過ぎ去りし「紫のゆかり」の想いを胸に秘め、老いたりといえども、
今なお茜色に輝くばかりの美しさを讃えあっているように思われるのです。

『 ぼくの中にきみが入ってきたのは どこであったか
  花散る五月の紫草の野で
  あまりに長くきみは待っていた
  なぜなら すでにながいあいだ
  ぼくは暗闇のなかを歩いてきたのだから

  男たちは潮が満ちるのを待っていた
  深い夜は遠い山々のかなたにあったが
  あの夜が明けたら
  男たちは原野を進まねばならぬのだ

  天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
  もちろん ぼくにはその朝の深さをしるすべはない
  だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
  ぼくはきみに遭うことはなかっただろう
  その時
  きみは髪にムラサキの花をさして立っていた 』
  --   
       ( 秋谷 豊 額田王より 花の詩集 筑摩書房所収)

by uqrx74fd | 2011-04-24 20:02 | 心象 | Comments(0)

万葉集その三百(やまと、倭、日本)

(冨士:片岡球子  万葉日本画の世界 、奈良県立万葉文化館発行より)

( 大和国原:絹谷幸二  同上 )

( 大和心 )


古代、「やまと」は「山跡」「山常」などと漢字表記され、山があるところ、
山に囲まれたところ、を意味していました。
やがて王権の支配領域が拡大されてゆくにつれ、王宮がある三輪山の麓の地域、さらに
奈良県全域、近畿の呼称となり、ついには国生み神話の大八州、つまり日本全体の称に
なります。
大八州とは古事記や日本書紀にあるイザナギとイザナミによる国生みに由来する
「本州、四国、九州、淡路、壱岐、対馬、隠岐、佐渡」のことで、当時の王権の
支配領域をさしています。(北海道、東北は含まれていない)

一方中国ではわが国のことを「倭」(わ)とよんでいました。
「倭」が最も早くあらわれるのは神話地理の書である山海経(せんがいきょう:戦国時代
BC403-BC221年)での「倭は燕に属す」、ついで1世紀成立の歴史書「漢書」の
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為し歳時を以って来たりて献じ見ゆと云う」と
倭人が朝貢していた事が記録されています。

「倭人」とはもともと種族名をさしていたそうですが「倭」の字の意味そのものは
定かではありません。
ただ、「倭」の語のもととなる「委」には「おとろえる」や「したがう」の意味が
あるとされ(直木孝次郎)、決して良い意味の漢字ではなかったようです。

我国では「倭」を「やまと」と訓みならわし、漢字に意味担わせない借字、つまり
単なる「やまと王朝の地」を表示するものとして使用しました。

それでは、「日本」という字はどのようにして生まれたのでしょうか。
「日の本」の「本」は本来根元を意味し「日の出る処」「日のあるところ」を
さすそうです。

「 日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙(つつが)無きや 」

推古天皇時代(在位592年~628年)に遣隋使、小野妹子が持参した国書で、
日本国号の淵源となったとも主張されている一文です。
東の蛮夷国とされていた王が「天子」を称したことで隋皇帝の不興を買ったと
伝えられていますが、自主独立の気概を示し、対等の立場を強く打ち出した
堂々たる文章で、古代人の高い志がひしひしと感じられます。

かって倭の五王(5世紀頃)は中国の宋(南朝)の皇帝から「倭王」として
柵封(さくほう:任命)されることを願い国印まで受領して臣従を誓っていました。
それに対して推古天皇は終始一貫して柵封を受けようとせず、外来文化や文物を
取り入れるための朝貢は続けるが隋の皇帝の臣下になることはかたくなに拒んだのです。

さて、この「日出づる」は仏典「大智度論」に由来しています。

「 経の中に説く如くんば 日出づる処は是れ東方
  日没する処は是れ西方
  日行く処は是れ南方
  日行かざる処は是れ北方なり 」

従って、国書に引用された「日出づる処」は単なる「東」つまり方角を示す言葉と
されているため、日本国号の成立とは直接の関係はないと考えられていますが、
その知識が大きな下地となっていたようです。

以下は「吉田孝 日本の誕生:岩波新書」からの要約です。

『  国号を改称したのは、「倭」という字を避けるというよりも、小さいながらも
唐帝国に対して自立した国であることを明示する国号、王朝名を明示したかった。
そして「日」の字を含む新しい国号を積極的に採用した。
何故ならば、そこには「日」のイデオロギーが想定されるからである。

水耕栽培を主な生業とする我国では稲の実りをもたらす太陽神への信仰が強く、
特に日が昇る東の海に面した伊勢の地の天照大神はヤマト王権の守護神と
されていた。
とくに天武、持統期は「日」のイデオロギーの昂揚を基礎としており、
日本という国号は「日の御子(天皇)が治めたまう日の出の国、やまと王朝」の
名として成立されたと思われるのである。
もし壬申の乱の勝敗が逆であったなら「日本」という国号は生まれなかったかも
しれない。 
何故ならば近江朝は中国の儒教的な「天」即ち「天が有徳者に天命を下して
天子とする」という観念への憧れが強かったからである。 』

「日本」という国号が正式に制定されたのは「天皇」号と同時期である
689年施行の「飛鳥浄御原令(あすか きみよみがはら りょう)」(吉田孝 同)と
推定されています。 日本書紀には
『 日本、これをば やまとという 下(しも)みなこれにならえ』とあり、
「日本」を「やまと」と訓ませました。

註:国号制定の時期については「701年の大宝律令前後」説もあり。 
(神野志 隆光:日本とは何か 講談社現代新書)

702年粟田真人を主席とする遣唐使が派遣され、中国に対して初めて
国号「日本」を用いました。
当時、唐は則天武后のもとにあり国号は周に変っています。
遣唐使は「日本国」を名乗り、則天武后はそれを承認したのです。
もし当時の「やまと王朝」が唐から柵封を受け、臣従を誓っていたら国号を勝手に
変更するなどはとても認められなかったことでしょう。


「 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の
    御津の浜松 待ち恋ひぬらむ 」   巻1-63 山上憶良


( さぁ、者どもよ 早く日の本の国、日本へ帰ろう。
大伴の御津の浜辺の松もわれらを待ち焦がれていることであろう )

この歌は遣唐使の任を終え、長安を去る最後の宴席で主席粟田真人に従っていた作者が
主人の立場となって詠ったものと思われます。
「大伴の御津」は難波津のことで、大和朝廷の外港かつ大伴氏の所轄であったので
敬称されたものです。
         
「日本」という国号を認めさせるために留学経験があり中国語に堪能な粟田真人を選任し、
周到な用意を重ねたものの、そこまでたどり着くには数々の困難もあったことでしょう。
則天武后は真人の唐朝廷での堂々たる振る舞いについて最大限の賛辞を呈しており、
使節主席の人選も大いに功を奏したものと思われます。

長年の苦労が報われ、交渉が成功裏に終わった喜びがあふれている宴席。
作者はおそらく「日本」を「やまと」ではなく「にっぽん」あるいは「じっぽん」と
声高らかに詠ったのではないでしょうか。

それ以降、我国の国号は対外的にすべて「倭」から「日本」に変ります。
然しながら「倭:やまと」は依然として国内で使用され続け、古事記は
すべて「倭」と表記されています。
万葉人は「倭」という字を「やまと」と訓んでいたため、決して嫌っては
いなかったのです。

「倭」という字の使用が少なくなるのは、「倭」(やまと)が雅やかな「大和」と表記され
「日本」が「ひのもと」と和訓された平安時代以降と思われます。

註:「日の本」は万葉集で一例のみながら既に枕詞として使用されている。:巻3-319 )

アジア全域を支配する唐大帝国に対し断固として臣従を拒み、自主独立を貫いた
我国古代の朝廷。
その姿勢はやがて仮名文字を生み出し、我国独自の精神構造と文化の華を咲かせて
真の独立国への道を歩んでいきます。
国号を「倭」から「日本」に変えるべく国力をあげて奮闘した古代政治家の不撓不屈の姿勢は
明治維新後、不平等条約改正に渾身の力を振り絞った明治政府の悲願に
重なるものがありましょう。

「 日本、うつくしい国だ
  葦(あし)の葉っぱの
  朝露がぽたりと
  落ちてこぼれてひとしづく
  それが
  この国となったのだとも言ひたいやうな日本

  大海(たいかい)のうへに浮いてゐる
  かあいらしい日本
  うつくしい日本
  小さな国だ
  小さいけれど
  その強さは
  鋼鉄のような精神である
  - -

  静かな国 日本
  小さな国 日本
  つよくあれ
  すこやかであれ
  奢(おご)るな
  日本よ、真実であれ
  馬鹿にされるな    」 
                      ( 山村暮鳥 日本より)
  

by uqrx74fd | 2011-01-03 21:21 | 心象 | Comments(0)