(冨士:片岡球子 万葉日本画の世界 、奈良県立万葉文化館発行より)

( 大和国原:絹谷幸二 同上 )

( 大和心 )

古代、「やまと」は「山跡」「山常」などと漢字表記され、山があるところ、
山に囲まれたところ、を意味していました。
やがて王権の支配領域が拡大されてゆくにつれ、王宮がある三輪山の麓の地域、さらに
奈良県全域、近畿の呼称となり、ついには国生み神話の大八州、つまり日本全体の称に
なります。
大八州とは古事記や日本書紀にあるイザナギとイザナミによる国生みに由来する
「本州、四国、九州、淡路、壱岐、対馬、隠岐、佐渡」のことで、当時の王権の
支配領域をさしています。(北海道、東北は含まれていない)
一方中国ではわが国のことを「倭」(わ)とよんでいました。
「倭」が最も早くあらわれるのは神話地理の書である山海経(せんがいきょう:戦国時代
BC403-BC221年)での「倭は燕に属す」、ついで1世紀成立の歴史書「漢書」の
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為し歳時を以って来たりて献じ見ゆと云う」と
倭人が朝貢していた事が記録されています。
「倭人」とはもともと種族名をさしていたそうですが「倭」の字の意味そのものは
定かではありません。
ただ、「倭」の語のもととなる「委」には「おとろえる」や「したがう」の意味が
あるとされ(直木孝次郎)、決して良い意味の漢字ではなかったようです。
我国では「倭」を「やまと」と訓みならわし、漢字に意味担わせない借字、つまり
単なる「やまと王朝の地」を表示するものとして使用しました。
それでは、「日本」という字はどのようにして生まれたのでしょうか。
「日の本」の「本」は本来根元を意味し「日の出る処」「日のあるところ」を
さすそうです。
「 日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙(つつが)無きや 」
推古天皇時代(在位592年~628年)に遣隋使、小野妹子が持参した国書で、
日本国号の淵源となったとも主張されている一文です。
東の蛮夷国とされていた王が「天子」を称したことで隋皇帝の不興を買ったと
伝えられていますが、自主独立の気概を示し、対等の立場を強く打ち出した
堂々たる文章で、古代人の高い志がひしひしと感じられます。
かって倭の五王(5世紀頃)は中国の宋(南朝)の皇帝から「倭王」として
柵封(さくほう:任命)されることを願い国印まで受領して臣従を誓っていました。
それに対して推古天皇は終始一貫して柵封を受けようとせず、外来文化や文物を
取り入れるための朝貢は続けるが隋の皇帝の臣下になることはかたくなに拒んだのです。
さて、この「日出づる」は仏典「大智度論」に由来しています。
「 経の中に説く如くんば 日出づる処は是れ東方
日没する処は是れ西方
日行く処は是れ南方
日行かざる処は是れ北方なり 」
従って、国書に引用された「日出づる処」は単なる「東」つまり方角を示す言葉と
されているため、日本国号の成立とは直接の関係はないと考えられていますが、
その知識が大きな下地となっていたようです。
以下は「吉田孝 日本の誕生:岩波新書」からの要約です。
『 国号を改称したのは、「倭」という字を避けるというよりも、小さいながらも
唐帝国に対して自立した国であることを明示する国号、王朝名を明示したかった。
そして「日」の字を含む新しい国号を積極的に採用した。
何故ならば、そこには「日」のイデオロギーが想定されるからである。
水耕栽培を主な生業とする我国では稲の実りをもたらす太陽神への信仰が強く、
特に日が昇る東の海に面した伊勢の地の天照大神はヤマト王権の守護神と
されていた。
とくに天武、持統期は「日」のイデオロギーの昂揚を基礎としており、
日本という国号は「日の御子(天皇)が治めたまう日の出の国、やまと王朝」の
名として成立されたと思われるのである。
もし壬申の乱の勝敗が逆であったなら「日本」という国号は生まれなかったかも
しれない。
何故ならば近江朝は中国の儒教的な「天」即ち「天が有徳者に天命を下して
天子とする」という観念への憧れが強かったからである。 』
「日本」という国号が正式に制定されたのは「天皇」号と同時期である
689年施行の「飛鳥浄御原令(あすか きみよみがはら りょう)」(吉田孝 同)と
推定されています。 日本書紀には
『 日本、これをば やまとという 下(しも)みなこれにならえ』とあり、
「日本」を「やまと」と訓ませました。
註:国号制定の時期については「701年の大宝律令前後」説もあり。
(神野志 隆光:日本とは何か 講談社現代新書)
702年粟田真人を主席とする遣唐使が派遣され、中国に対して初めて
国号「日本」を用いました。
当時、唐は則天武后のもとにあり国号は周に変っています。
遣唐使は「日本国」を名乗り、則天武后はそれを承認したのです。
もし当時の「やまと王朝」が唐から柵封を受け、臣従を誓っていたら国号を勝手に
変更するなどはとても認められなかったことでしょう。
「 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の
御津の浜松 待ち恋ひぬらむ 」 巻1-63 山上憶良( さぁ、者どもよ 早く日の本の国、日本へ帰ろう。
大伴の御津の浜辺の松もわれらを待ち焦がれていることであろう )
この歌は遣唐使の任を終え、長安を去る最後の宴席で主席粟田真人に従っていた作者が
主人の立場となって詠ったものと思われます。
「大伴の御津」は難波津のことで、大和朝廷の外港かつ大伴氏の所轄であったので
敬称されたものです。
「日本」という国号を認めさせるために留学経験があり中国語に堪能な粟田真人を選任し、
周到な用意を重ねたものの、そこまでたどり着くには数々の困難もあったことでしょう。
則天武后は真人の唐朝廷での堂々たる振る舞いについて最大限の賛辞を呈しており、
使節主席の人選も大いに功を奏したものと思われます。
長年の苦労が報われ、交渉が成功裏に終わった喜びがあふれている宴席。
作者はおそらく「日本」を「やまと」ではなく「にっぽん」あるいは「じっぽん」と
声高らかに詠ったのではないでしょうか。
それ以降、我国の国号は対外的にすべて「倭」から「日本」に変ります。
然しながら「倭:やまと」は依然として国内で使用され続け、古事記は
すべて「倭」と表記されています。
万葉人は「倭」という字を「やまと」と訓んでいたため、決して嫌っては
いなかったのです。
「倭」という字の使用が少なくなるのは、「倭」(やまと)が雅やかな「大和」と表記され
「日本」が「ひのもと」と和訓された平安時代以降と思われます。
註:「日の本」は万葉集で一例のみながら既に枕詞として使用されている。:巻3-319 )
アジア全域を支配する唐大帝国に対し断固として臣従を拒み、自主独立を貫いた
我国古代の朝廷。
その姿勢はやがて仮名文字を生み出し、我国独自の精神構造と文化の華を咲かせて
真の独立国への道を歩んでいきます。
国号を「倭」から「日本」に変えるべく国力をあげて奮闘した古代政治家の不撓不屈の姿勢は
明治維新後、不平等条約改正に渾身の力を振り絞った明治政府の悲願に
重なるものがありましょう。
「 日本、うつくしい国だ
葦(あし)の葉っぱの
朝露がぽたりと
落ちてこぼれてひとしづく
それが
この国となったのだとも言ひたいやうな日本
大海(たいかい)のうへに浮いてゐる
かあいらしい日本
うつくしい日本
小さな国だ
小さいけれど
その強さは
鋼鉄のような精神である
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静かな国 日本
小さな国 日本
つよくあれ
すこやかであれ
奢(おご)るな
日本よ、真実であれ
馬鹿にされるな 」
( 山村暮鳥 日本より)