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カテゴリ:生活

  • 万葉集その三百六十五(春の夜の夢)
    [ 2012-04-01 00:00 ]
  • 万葉集その三百六十三(祈りと供花)
    [ 2012-03-17 20:31 ]
  • 万葉集その三百五十九(雪の梅)
    [ 2012-02-18 20:57 ]
  • 万葉集その三百五十七「乞食人(ほかひひと)の歌:鹿」
    [ 2012-02-05 08:59 ]
  • 万葉集その三百四十九(年内立春)
    [ 2011-12-11 22:10 ]
  • 万葉集その三百四十八(采女)
    [ 2011-12-03 11:10 ]
  • 万葉集その三百四十五(御蓋山:みかさやま)
    [ 2011-11-12 20:44 ]
  • 万葉集その三百三十八( 花嫁の父)
    [ 2011-09-23 20:24 ]
  • 万葉集その三百三十三(薬の神様)
    [ 2011-08-21 09:22 ]
  • 万葉集その三百十九(桐の琴をお贈りします)
    [ 2011-05-15 08:10 ]

万葉集その三百六十五(春の夜の夢)

 〈 北鎌倉:明月院 にて)

( 河津桜と菜の花  :伊豆)

( 梅花粧:ばいかそう 鎌倉秀雄 万葉日本画の世界 奈良県立万葉文化館より)

 (  桃の花:古河 ) 

( 山吹の花  北鎌倉 明月院 )


「目に見えね 色をも知れず春の夜や
    ただ何んとなき 我がこころ哉 」
 ( 山田耕作:春の夜の夢 : 楽譜は失われている)

春の夜は目覚めても床離れしがたく、怠惰と愉悦が同居した何とも云えない幸せを
感じるいっときです。
「春眠暁を覚えず」 (孟浩然) 」の中で見る夢は甘美で艶めかしいもの。
古代の人たちもそれぞれの夢を楽しんだことでありましょう。

「 梅の花 夢に語らく みやびたる
        花と我れ思(も)ふ 酒に浮かべこそ 」
                   巻5-852 大伴旅人


( 夢の中に梅の花の精が出て参りました。
 そして私にこのように語ったのです。
 「 私は風雅な花だと自負しております。
   咲いた花は散るのが定め。
   ならばせめてあなた様の酒杯に浮かべて戴けませんでしょうか 」 )

730年大宰府長官大伴旅人宅で観梅会が催され、集う官人たちが32首の歌を
詠み競った後、その余韻がなお冷めやらぬ気持ちで追加して詠われたものです。
酒杯に梅の花を浮かべるという雅やかな趣向が夢の中の梅花の言葉に仕立てられ
後の歌に大きな影響を与えた一首です。

酒と梅をこよなく愛した風流人旅人の暖かい心が感じられると共に、
その幻想的な詠いぶりは能の世界を思わせます。
なおこの歌には 
「梅の花 夢に語らくいたづらに
          我を散らすな酒に 浮かべこそ」 
                            とも付記されています。

「 山吹の にほえる妹が はねず色の
     赤裳(あかも)の姿 夢(いめ)に見えつつ 」
                        巻11-2786  作者未詳 (既出)


( 咲きにおう山吹の花のようにあでやかな乙女
 その美しい子がはねず色の裳を付けて夢の中に現れたよ。
 きっと彼女は俺のことを想っていてくれているのだなぁ )

古代では相手が自分を想ってくれていると夢の中に現れると信じられていました。
片思いでは夢にも出てこないのです。
作者は黄色とピンク色に囲まれた美しい夢の世界で陶然と乙女を抱きしめながら
「 春宵(しゅんしょう)一刻 値千金 (蘇東坡)」、至福の時をすごしたことでしょう。

「蛙の目借り時」という言葉があります。
あまり聞きなれない言葉ですが榎本好宏氏は以下のように解説されています。

『 晩春の頃になると、どうにも我慢ならないほどの眠気を催すことがあります。
そんな時、夜が短くなったと言えば無粋ですが、蛙が目を借りに来たと言えば
微苦笑も出るものです。
苗代の出来る頃の蛙の声を聞いているとつい眠くなりますが、
これは蛙に目を借りられるからだとして出来た春の季語です。
ところが、目借時は、蛙が異性を求める時期ですから、妻(め)狩り時、
または女(め)狩り時だとする説もあります。』 「季語語源成り立ち辞典(平凡社)」

やはり、春は恋の季節なのです。

「 春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
    かひなく立たむ 名こそ惜しけれ 」
        周防内侍(すほうのないし) 千載和歌集、百人一首


( 春の夜の短い夢。そんなはかない浮気心に気をゆるし
 あなたさまの捥(かいな)を手枕にしたりすれば、
 きっとありもせぬ浮名が立つことでしょう。
 せっかくのおぼしめしはありがたいのですが残念なことでございます )

詞書によると、ある二月、現在の三月の終わりでしょうか。
月の明るい夜、二条院で大勢の人々が寝ずに夜明かしして話などしていたところ、
作者が物に寄りかかって「枕がほしいものです」とそっと言うのを聞いて
大納言藤原忠家(俊成の祖父)が「これを枕に」といって腕を御簾(みす)の下から
差し入れてきたので詠んだ歌とされています。

「かひなをさしいれる」「かひなを交わす」という言葉には「共寝する」と
意味があり、たとえ戯れにしても腕を差し入れてきたので、それを素早く受け止めて
「腕(かいな)く」「甲斐なく」と詠みこみ、さらに「春の夜」「夢」「手枕」と、
はかなくも甘美な趣の歌に仕上げ、やんわりと男の誘いを断った機知ある一首です。

「 枕だに 知らねばいはじ 見しままに
    君かたるなよ 春の夜の夢 」 
                          和泉式部 新古今和歌集


( 枕ですら二人の恋は知らないのだから人には告げることはしないでしょう。
  だから決して人におっしゃったりしないで下さい。
  この春の一夜、共に見た夢のような逢瀬を )

作者によると、思いもかけずに恋に陥った相手に贈った一首だそうですが、
堀口大学氏は下記のような解説をされています。

『 実に視覚的なエロティックな歌ですね。
  枕というものは見たことを人に話すと言われているのね。
  その枕さえ見ないことは言わないのだから、「君語るな春の夜の夢」と
  ぼかしてあるが、「見しままに」とは式部が男に何を見られてしまったことか、
  想像できるでしょう。
  枕は上の方にあるから、下の方までみてないということだ。 』

        ( 日本の鶯-堀口大学聞き書き 関容子 岩波現代文庫 )

慶応大学での講義、艶やかな堀口節です。
さぞ名物教授だったことでしょう。

「 およしよと いはず小声で 春の夜の 」 (俳風柳樽)

by uqrx74fd | 2012-04-01 00:00 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百六十三(祈りと供花)

( 薬師寺花会式  入江泰吉 奈良大和路 日本カメラより)

( 下曽我梅林 )

( 鳥獣戯画: 猿の僧が蛙に供花  鳥羽僧正 高野山蔵  池坊HPより )

( 万葉の茶花  柳、梅、椿 庄司信州  講談社より )

( 長谷寺の桜 )

「 山寺の 扉(と)に雲遊ぶ 彼岸かな 」 飯田蛇笏

彼岸とはもともと梵語(ぼんご)「波羅蜜多(はらみった)」の訳で、「悟りの境地に至る」
こととされていますが、この季節は太陽が真西に沈むので西方浄土と関係づけて
彼岸会の仏事が行われるようになったといわれています。

春分の日を「お中日」とした前後3日ずつの7日間をいい、今年は3月17日から23日まで。
7日間とされている理由は、中日は先祖に感謝し、残る6日は悟りの境地に
達するのに必要な徳目である六波羅蜜(ろくはらみつ)、すなわち

1、布施(分け与えること) 2、持戒(戒律を守る)、 3、忍辱(にんにく:慈悲)、
4、精進(努力)、 5、禅定(心を安定させる)、
6、智慧 (物事をありのままに観察し根源的なものを把握する)
を1日一つづつ修めるためとされています。

わが国最初のの公式な彼岸会は
『 806年、朝廷が崇道天皇のために諸国の国分寺の僧に命じて
「七日金剛般若経」を読ませたと』(日本後記) の記述によりますが、
記録に残らない法会はそれ以前に行われており、万葉集にも仏前唱歌や
供花に関する歌が残されています。

738年、11月の中頃、光明皇后の祖父にあたる藤原鎌足の70周忌の法会が
皇后宮で行われました。
僧侶の読経が終わった後でしょうか、唐や高麗などの異国の音楽を終日供養したあと、
琴の伴奏で十数人の人たちが仏前で唱歌を捧げ、故人の冥福を祈ります。

「 時雨の雨 間(ま)なくな降りそ 紅(くれなゐ)に
    にほへる山の 散らまく惜しも 」 
                           巻8-1594 作者未詳(既出)


( 時雨の雨よ そんなに絶え間なく降らないでおくれ。
 紅色に美しく照り映えている山の紅葉が散ってゆくのは
 なんとも残念でたまりません )

声明のような節をつけて歌われたのでしょうか。
いまにも妙なる声が聞こえてきそうな気がいたします。

この歌は、もともと仏教とは関係なく、時雨に打たれて散る紅葉を惜しむ気持ちを
詠ったものですが、紅葉に亡き鎌足の華々しい人生、散るさまに諸行無常の気持ちを
こめて献じたものであることが後書きで知ることが出来ます。

鎌足を祀る談山神社が紅葉の名所であることもにも思い重ねて古代王朝の雅やかな
法要の一端を偲ばせてくれる一首です。

「 梅の花 しだり柳に 折り交え
     花に供へば 君に逢はむかも 」 
                      巻10-1904 作者未詳


( 手折ったしだれ柳に梅を交じえて、お花として供えたならば、あの方に
 お逢いすることができるでしょうか。)

愛する人に先立たれ、仏前にぬかずく女性。
様々な思い出が瞼に浮かんできたことでしょう。

万葉集で仏前の供花を詠ったのはこの一首のみですが、春の供花として、
梅、柳を手向けることが多かったことが窺えます。

柳が用いられたのは生命力が強く、春一番に芽吹くことから長寿や繁栄の象徴と
みなされ、さらにその頼もしい生命力に頼り、悪い妖気を払う守護神として
屋敷の周辺や水辺を取り巻くように植えられていたことによるものと思われます。

供花は浄土信仰が浸透する平安時代に一般的になり、有名な鳥羽僧正の鳥獣戯画にも
猿の姿をした僧が蛙の仏前に花を供える様子が描かれていますが、やがて生け花へと
進化してゆきました。

「 みちのくの 今年の桜 すべて供花(くげ) 」 高野ムツオ

以下は長谷川櫂氏の解説です。
『 作者は宮城県多賀城市の人。 昨年の大震災直後の句である。
やがて咲く桜は犠牲者への供花。
「みちのくの」とあるが日本全国の桜が供花のようだった。 』
                       (2012,3,11読売新聞 四季より)

震災後1年経過した後もいまだに傷が癒えることはありません。
本稿を亡くなられた方々に捧げ、心からの冥福をお祈りいたします。

「手に持ちて 線香売りぬ 彼岸道」 高濱虚子

わが国での香の起こりは聖徳太子の時代、595年に淡路島に香木「沈香」が
漂着した(日本書紀)ことに始まるとされています。
その後中国から各種の香木が渡来しますが、正倉院に納められている有名な
蘭奢待(らんじゃたい)もその一つです。
法会に欠かせない線香ですが現在のような形になったのは江戸時代以降だそうです。

また、蝋燭(蜂蜜から作る蜜蝋)も奈良時代に中国から渡来していました。

「 命婦より 牡丹餅たばす 彼岸かな 」  蕪村
彼岸の供え物といえば「ぼたもち」「おはぎ」ですが、彼岸の頃に咲く牡丹(春)、
萩(秋)に由来するといわれています。
「たばす」は「賜ばす」で戴く。
「命婦(みょうぶ)」は後宮の中級女官や中臈の女房の総称ですが、ここでは
牡丹餅をくれた女性を面白がって詠んでいるのでしょう。

「長谷寺に法鼓轟く彼岸かな 」  高濱虚子

( 薬師寺 月光菩薩 入江泰吉 古寺とみほとけ 小学館より )

by uqrx74fd | 2012-03-17 20:31 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百五十九(雪の梅)

(筑波山梅林)

( 雪か梅か  下曽我梅林)

( 梅一輪  亀戸天満宮 2012,2,17撮影)


立春はもうとっくに過ぎたというのに、北の国では吹雪が猛威を振るい、東の国も
朝夕は未だに氷点下。
この寒さに恐れをなしたのか、梅の花も気の短い慌て者だけがほんの少し頭を
出しながら「何時咲こうかなぁ」と思案気な様子です。
古の人たちは、なかなか訪れない春の便りにとうとう痺れを切らし、
雪を梅に見たてて、まだか、まだかと急き立てるように詠っています。

「 たな霧(ぎ)らひ 雪も降らぬか 梅の花
    咲かぬが代(しろ)に そへてだに見む 」
                        巻8-1642 安倍奥道(おきみち)


( 空一面にかき曇って、雪でも降ってこないものか。
 梅の花が咲かない代わりに、せめてそれを梅とでも見ように。)

「たな」はすっかりの意でここでは空一面に。
「代(しろ)」は代わりに。
「そへてだに見む」は「なぞらえて見る」

春の訪れを切ないほどに待ち望む気持ちを雪梅に託した作者です。

「 我が岡に 盛りに咲ける 梅の花
     残れる雪を まがへつるかも 」 
                             巻8-1640  大伴旅人


( 我が家の岡に真っ盛りに咲いている白梅の花、
 あまりの見事な白さに消え残りの雪と見間違えてしまったことよ。)

一見、梅の盛りの歌と思いきや、この歌は冬の雑歌の中に編入されています。
伊藤博氏は『この歌は冬の雪見の宴において雪を梅に見立てた作なのかもしれない。
冬木の枝に白く積もる雪を、つい花と見てしまうことは誰にでもある。
編者の粗忽による手違いでなければ、雪の梅花をほんとうの梅花のように
詠ったのがこの一首だと見ざるをえない。』
と述べておられます。(万葉集釋注)

「 梅の花 散らくはいづく しかすがに
      この城(き)の山に 雪は降りつつ 」
                     巻5-823 伴氏百代(ばんじのももよ)


( 梅の花が雪のように散るというのはどこなのでしょう。
 そうは申しますものの、この城の山にはまだ雪が降っています。
 散る花は雪なのですね )  

城の山は大宰府北方の四王子山。
この歌は大宰府の大伴旅人邸で催された有名な観梅の宴の席上で主人が詠った

「 我が園に 梅の花散る ひさかたの
      天より雪の 流れくるかも 」
                           巻5-822 大伴旅人(既出)


に続いたものです。
旅人が「梅の花が吹雪のように散っている」といったのに対して、
「いやあれは梅ではありますまい。本物の雪ですよ」と詠ったのですが、
宴は主人をまず立てて褒めるのが習い。
それをあえて否定する歌、取りようによっては礼を失することになります。

伊藤博氏は後の人が詠いやすいように「あいつ野暮だなぁ」と笑いものになるよう
道化役を買って出たのではないかと推定されていますが、宴は現在の暦で2月8日。
正直もので融通のきかない作者は事実をありのままに詠ってしまったのかもしれません。

「 この道をわれらが往くや探梅行 」  高濱虚子

「観梅」といえば昔も今も春のものですが、厳寒の中せめて一輪の梅でもと求めて
歩きまわる冬の「探梅」。
昔も今も、はやる気持ちを抑えきれないのは同じなのですねぇ。

以下は 柴田流星著 「残されたる江戸 」(中公文庫)からです。

『 何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を
  待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のと騒ぎまわって
  蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い怠(だる)いも言わず、鬼の首を
  取りもしたかのように独り北叟笑(ほくそえ)んで、探梅の清興を恣(ほしいまま)に
  する。 』 
  
ともあれ、日ごとに待ち遠しさが募る春の訪れです。

『 梅のたよりが届くころは陽気も穏やかに日差しもやわらかになる。
  関西の古都の梅をたずねる旅がしたくなる。
  名所の梅林の芳香と、紅白の花の光につつまれる幸福感もたまらないが、
  冬から春へひっそりと蘇りの色をみせる寺社の片隅に、
  純白の光を転じているような梅の心憎さは格別である。』 
                             (馬場あき子 花のうた紀行 新書館)

「 寒梅の 唯一輪の日向(ひなた)かな」 高濱年尾 

( 亀戸天満宮 紅梅は満開 2012,2、17) 

by uqrx74fd | 2012-02-18 20:57 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百五十七「乞食人(ほかひひと)の歌:鹿」

( 鹿踊り  Yahoo画像検索より)

( 鹿踊り 花巻空港壁画 ウイキペディァ フリー百科事典より)

( 獅子舞 千葉県浦安市無形文化財 季節の言葉 小学館より)


乞食人(ホカヒヒト)とは人家の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして
金品を貰い歩く人、即ち「門付け芸人」の事で、今でも行われている鹿(しし)踊りや
獅子舞、三河万歳、大道芸人などの先駆をなすものです。

乞食には「カタイ」と「ホカヒ」の二つがあり、「カタイ」は「傍居」で、道の傍らに
座って金銭や食物を乞う人、「ホカヒ」は「寿(ホカヒ)」で祝い事を述べ芸をする人を
いいます。
乞食(こじき)という言葉は本来、仏教用語の乞食(こつじき)に由来し、街をまわって
食物などの施しを受ける修行をさしていましたが、次第に単なる物もらいと区別が
つかなくなったそうです。

万葉集には「鹿と蟹の痛みを述べる歌」二首残されていますが、芸人は民衆の前で
それぞれの動物の衣装を着て身振り手振りよろしく節をつけて詠っていたことでしょう。

以下は「鹿の歌」長歌の一部です。

(原文) 乞食人(ほかひひと) が詠ふ歌
「 ―  大君に我は仕へむ
 我が角(つの)は み笠のはやし  我が耳は み墨坩(すみつほ)              
 我が目らは ますみの鏡    我が爪は み弓の弓弭(ゆはず) 
 我が毛らは み筆(ふみて)はやし  我が皮は み箱の皮に
 我が肉(しし)は み膾(なます)はやし  我が肝は み膾はやし 
 我がみげは み塩のはやし - - 」

            巻16-3885 (鹿のために痛みを述べて作る )

(訳文)

( - 私は天皇のお役に立ちましょう
   私の角は お笠の飾りに   私の耳は墨を入れる墨壺
   私の目は 澄んだ鏡    私の爪はお弓の弓弭(ゆはず)
   私の毛は筆の材料   私の皮は革張りの箱に
   私の肉は膾の材料   私の肝も膾の材料
   私の胃の腑は塩辛の材料 - )
 
( 語句解釈)

はやし:  装飾、材料 
墨坩(すみつぼ):  鹿の耳が墨壺に似ることによる見立て
目:  鏡を連想させる    
ますみ:  きれいに澄んださま
み弓の弓弭 :  爪先を弓の先の鉄などで固めた部分に見立てた
み膾(なます)のはやし:   生肉を切り刻んだ料理
みげ:  内臓のことで塩辛のよき材料とされた

この歌の解釈については、庶民を鹿に見立てて、その苦しみと悲しみを詠ったものと
する説と、大君に食せられて身を捧げることを光栄とする説があり、学者間でも
意見が分かれています。

光栄説: 武田祐吉(万葉集全注釈)、土屋文明(万葉集私注)、鴻巣盛広(万葉集全釈)
沢瀉久孝(万葉集新釈)、大岡信(私の万葉集) 

中西進: 詠う立場により両方の解釈できる。即ち鹿の立場なら悲しみ、
ホカイヒトの立場なら鹿はこのように奉仕しますという光栄説となる
                           (万葉の長歌:教育出版社)

土橋寛氏はその著「万葉開眼」(NHKブックス)で

『 動物が人間に食われようとすることを幸福とする思想は食われる動物の考えではなく、
 食う方の思想であり、それは殺された動物の祟りを遁れようとする人間の手前勝手な
 思想である。
 だからこの思想を律令社会に移すなら鹿が大君に食われることを光栄とする思想は、
 大君の側に身を置いている宮廷官人や御用学者が抱くものであって、
 生産物や労働力を食われる立場にある農民の思想であるはずはなく、
 まして農民社会から脱落した「乞食者」の思想であるはずがない。

 飛鳥、藤原朝の人民は、明治以後のように、普及教育を通じて国家主義思想や
 忠君愛国思想を吹き込まれていないのである。 』

と述べ、伊藤博氏も土橋説に賛意を表し

「祝歌をもじった痛み、悲しみの歌以外ではない」(万葉集釋注8)
と強く主張されております。

未だに決着が付いていない本質的な問題ですが、本稿は伊藤説に拠って話を
進めてまいります。

鹿の芸能の起源は、農作物を食い荒らす鹿が農民に捕えられて殺されようとするとき、
今後は田畑を荒らさないと誓いを立てて許され、祝言を唱えて退散するというのが
本来の筋書きであり、時代と共に変化していったといわれています。

その背景には大化の改新以後、人民の租税と庸役の負担が段々重くなり、
農民は秋に収穫した稲を納めると春までの食糧しか残らず、已む無く
次の収穫期まで5割の利息がついている官稲を借りて喰いつがなければならないような
苦しい生活を強いられていたのです。
その上に飢饉などが起きれば生活は全く破綻してしまうような状態だったことでしょう。

さらに、平城京、東大寺大仏などの造営などにより庶民の負担がますます重くなり
諸国から都に納める「調」いわゆる物納税を運搬する往復の費用も自費であったため、
帰りの食糧が尽き、途中で行き倒れや乞食化する者が多発しました。
人びとはやむなく身につけていたホカヒの芸能をもって富者の門に立ち、
その謝礼として食を乞うていったのが職業的芸能人としての「ホカヒヒト」の
始まりといわれています。

過酷な生活を強いられながら表立って怨嗟の声をあげることが出来なかった多くの庶民。
深いペーソスを秘めた大道芸は大いなる共感もって迎えられたことでしょう。
そして、次第に形を変えながら全国各地に広がっていったのです。

この歌は庶民の生活の苦しさを伝えてくれていると共に、搾取していた側、すなわち
支配階級の人達が日常の生活で膾(なます)すなわち生肉や、塩辛を好んで食していた
ことも教えてくれています。
冷蔵庫などがない時代、新鮮な生ものを食すという事は最高の贅沢だったのです。

「 人口に膾炙(かいしゃ)する 」

「人々に知れ渡って賞賛される」の意の言葉ですが
「膾炙」の「膾」は「生肉:ユッケ」、「炙」は「あぶり肉、焼き肉」のことです。
よほど多くの人に好まれたのでしょうか。
なお、膾(なます)には細切りにするという意味もあり、刺身の元祖でもありますが
魚の場合は「鱠」と魚扁の漢字が使われていました。

「 鱠(なます)にしてもうまき小鰯(こいわし)」 
                            (俳諧開花集 1881年)


番外編

余録:「 なますと日本人 」 (毎日新聞 2011年5月13日) 

なますといえば、今はダイコンとニンジンの千切りを合わせ酢であえた
紅白なますを思い浮かべる。
だが、もともと漢字で書けば「膾」または「鱠」、獣や魚の生肉を細切りにした
料理のことだ。
なますというのも「生肉(なましし)」が転じたとされる
万葉集には鹿を詠んだ歌に「吾(あ)(鹿)が肉は御膾料(みなますばやし) 
吾が肝も御膾料……」、つまり自分の肉も肝も大君に供するなますの材料だという
ところがある。
また日本書紀には雄略天皇が狩りの獲物を料理人になますにさせるか、
自分で料理すべきかを問うくだりがあった。

当時の日本人は肉のなますをよく食べていたようだ。
だから今日も「肉膾」を好む人が少なくないのは分かる。
韓国語のユッケは漢字で書くと「肉膾」なのである。

ただそれを供する人々の衛生感覚まで古代同然では困る
4人の死者を出した「焼肉酒家えびす」のユッケによる集団食中毒で牛肉の
生食にともなう危険を初めて知った方も多かろう。
ユッケはよく食べられているのに、そもそも国の生食用衛生基準を守って出荷される
牛肉はないのだと聞けば、キツネにつままれた気分だ。
しかも警察に対し、ユッケの肉を卸した業者は生食用に使うと思っていなかったといい、
店側は卸売業者が生食用の処理をすませていたはずと話している。
責任の所在は今後の捜査で明らかにされようが、お客の生命を守る衛生管理まで
細切りにされてはかなわない

国はようやく衛生基準を見直し、生肉を扱う店の規制強化に乗り出すという。
「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」は心配性の人のことだが、
厚生労働省は熱くないがゆえの膾の危険にあまりに無頓着だった。
                              ( 学友M I さん提供)

その後の記事(毎日新聞 2012年1月27日)より

<生食用牛肉規格基準> 全国で9割以上の施設が違反


焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」の集団食中毒事件を受け、厚生労働省が
昨年10月施行した食品衛生法に基づく生食用牛肉の規格基準を守っているか、
全国の飲食店などを対象に調べたところ、「生肉専用の加工設備がない」など
9割以上の施設が違反していたことが分かった。
違反施設には都道府県などが生肉の提供中止を指導したという。

昨年10~12月、牛タタキやユッケなどの生食用牛肉を扱う飲食店、食肉販売業、
食肉処理業の計445施設に都道府県などの職員が立ち入り調査を実施。
このうち418施設(93.9%)で違反が確認された。
厚労省は「新基準の周知が不十分だった」としている。
                          (以上)
なんともいい加減な話ですね

by uqrx74fd | 2012-02-05 08:59 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百四十九(年内立春)

( 春告げ花 水仙 房総鋸南町 )

( ふきのとう 青森ねぶたの里 )

( わらび  藤田浩 万葉ロマン紀行 偕成社より )


『 十二月の声が近づくと、もう年の瀬のあわただしさが頭にちらつきはじめる。

   「 一とせの暦を奥にまきよせて
      のこる日数の かずぞすくなき 」 藤原知家 (鎌倉時代の人)


  暦と言えば私たちは壁に掛ける日めくりやカレンダーを思い浮かべるが、
  古くをたどれば暦は巻物だった。
  日本での正式な暦の採用は千三百年ほど前、持統天皇四年(690)からと
  日本書紀は伝えている。
  百済から伝わった中国、宋代の元嘉暦だが、その後いくつかの中國暦を経て
  貞観4年(862)に施行された宣明暦は、そのままなんと800年以上も使われて、
  江戸時代に至った。 』
                        ( 海部則男 天文歳時記 角川選書 より)

「 み雪降る 冬は今日のみ うぐひすの
         鳴かむ春へは 明日にしあるらし 」
                巻20-4488  三形 王


( 白雪の降り敷く冬、その冬も今日で終わりです。
  鶯の鳴き出す春の到来は、もう明日に迫っているのですよ。)

757年12月18日に催された三形王の邸宅での宴歌で、「明19日が立春」と詠っています。
立春といえば2月の初めなのに、なぜ12月に到来するのでしょうか?
実は旧暦の「大の月」は30日、「小の月」は29日とされており、合計すると1年で
354日、つまり365日に11日足りません。
そこで、2~3年に1回、閏月(うるうづき)を置き、閏月がある年の1年は
13か月という暦になっていたのです。
記録などで年月が記載される時、閏8月とあるのは正規の8月に続きもう1回
8月が続いているということを示しています。
したがって、閏年あるいはその翌年に年内立春という現象が起きるわけです。
また、元旦1月1日が立春という年は19年に1度の割合で巡ってきたそうです。

「 あらたまの 年行(ゆ)き返り 春立たば
    まづわがやどに うぐひすは鳴け 」
             巻20-4490   大伴家持


( 年が改まって新しい春を迎えたなら、鶯よ!まず真っ先にこのわれわれの
  庭先で鳴くのだぞ )

三形王の歌に応じて詠われたもので、「春立たば」と暦の上での「立春」を
意識し、待ちに待った春の訪れを寿いでいます。

『 暦が貴族に使われるようになって初めて立春、夏至、春分などの節季が明確になり、
 暦に合わせたさまざまな節会で歌が盛んに詠まれたこともあって、
 歌人たちの意識に季節が大きく入り込むようになった。
 万葉集も初期には季節による分類はなかったが、大伴家持がはじめて四季による
 分類で巻18を編集した。』            ( 海部宣男 同 )

歌の世界における季節の分類は平安時代になると、さらに明確となり古今和歌集の冒頭
「春1」は有名な年内立春歌から始まります。

「 年の内に春は来(き)にけり ひととせを
         去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ」
               在原元方 古今和歌集

 
( 年内に早くも春がやってきたよ。
 今までの1年を今日からどう呼んだらよいのか。
 去年と言おうか、今年と言おうか。 )

詞書に「ふる年に春たちける日よめる」とあり、
   「ふる年」は古い年 「春たちける日」は「立春の日」で
   「ひととせを」は「同じ1年であるのに今までを」の意です。

大陰暦では元旦までに立春が来ることは当時としては珍しいことではありませんでしたが、
春が来たという喜びをこのようにやや誇張してはしゃいでいます。

この歌は正岡子規が痛烈に批判したことにより一層世に知られることになりました。

『 古今集といふ書を取りて第1枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」
  といふ歌が出てくる。
  実に呆れ返った無趣味の歌に有之候。
  日本人と外国人との合(あい)いの子を日本人とや申さん外国人と申さんと
  しゃれたるに同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候。 』
                          ( 歌よみに与ふる書 岩波文庫より)

      「 平凡を大切に生き去年今年 」  稲畑汀子

by uqrx74fd | 2011-12-11 22:10 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百四十八(采女)

( 采女神社 奈良猿沢池前)

(猿沢池にて)

(采女祭  野本暉房著 奈良大和の祭り 東方出版より) 

( 同上 入江泰吉 祭りと歳時記 小学館より )


 采女とは地方豪族である国造(くにのみやっこ)が服属のしるしとして天皇に奉られた
 一種の人質で、その姉妹、子女の中から容姿端麗な女性が選ばれていました。
 また、国造は地方の政治だけではなく祭祀も司っていたので国造家の女性を
 采女として奉らせるということは朝廷が地方の祭祀権を掌握しその地域を支配する
 ことも意味しています。

 701年、大化の改新の詔により国造は郡司に任命され大領(長官)、少領(次官)となります。
 そして、采女も宮内省の管理下に置かれ水司(もいとりのつかさ)、
 膳司(かしわでのつかさ)という役所に属して天皇の食膳に奉仕する下級女官として
 位置づけられるようになり、中には従4位下の高級女官や本国の国造に出世したり、
 44年も勤続して80歳で退官した剛のものもいたようです。

 天皇に近侍する采女は、他の男性と縁をもつことを固く禁じられ、皇族といえども
 これに手をつけてはいけない、まして臣下からみれば雲の上の存在、憧れの女性
 だったのです。

「 采女の 袖吹きかえす 明日香風
      都を遠み いたずらに吹く 」 巻1-51 志貴皇子 (既出)


 采女のあでやかな姿を思い起こしている万葉傑作の一とされている歌ですが、
 作者もまた天智天皇と采女越智君の間に生まれた皇子でした。

 采女は天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、諸国から容姿に優れたものが
 献上されていたため、帝にみそめられて妻妾としての役割を果たすことも多く、
 子をなすものもいました。
 然しながら当時は母親の身分を重視する時代であったため、地方豪族出身の采女出生の
 子供は皇族や中央豪族の子に比べて低い立場に置かれていたようです。

日本書紀に
『 雄略天皇が采女とともに一夜を共にしたところ、女はみごもり女の子を産んだ。
 天皇は疑って自分の子と認めなかった。
 そこで大臣が「一夜にいくたびお召しになったのか」と聞くと
 天皇曰く「七回」。
 大臣「この子を産んだ采女は清い身と心を以って一夜をおつかえした。
    それをどうして疑うのか。」 
 そこで天皇はこの子を正式に皇女とし、母も妃とした。』 
というような逸話も残されています。

「 うちひさす 宮に行(ゆ)く子を ま悲しみ
       留(と)むれば苦し  遣(や)ればすべなし 」
               巻4-532 大伴宿奈麻呂(大伴旅人の弟)


( 宮仕えにいく子よ この子がいとおしくて仕方がない。
  引き止めるのは心苦しいし、そうかといって行かせるのもやり切れないことよ)

 「うちひさす」は「日が当たる」の意で宮の枕詞。  
 「ま悲しみ」は「ま愛しみ」の意。

 聖武天皇の采女として宮仕えに出かける大伴一族の女性を送る歌で、
 宮廷の内情に明るい作者が可憐な女性の行く末を思いやっている心情があふれています。

 なお、宿奈麻呂は719年備後の国守として安芸、周防2国を管する按察使(あぜち)に
 任じられ、異母妹坂上郎女と結婚し(正妻ではなかったらしい)のちに大伴家持の正妻となる
 坂上大嬢をもうけています。

「 敷栲(しきたへ)の 手枕まかず 間(あいだ)置きて
     年ぞ経にける 逢はなく思えば 」  
              巻4-534 安貴王(あきのおほきみ;志貴皇子の孫)


( あの子の手を枕にして寝ることもないままに長い時間がたち、とうとう年を
 越してしまった。
 あの子に逢っていないことを思うと切なくまた寂しいものだ。)

 この歌の注によると、作者は因幡の国出身の八上采女に対する想いを押えきれず、
 ついに通じて不敬罪に問われて配流されたことを悲しんで作った歌とあります。
 この歌の前に長歌があり
 「 この地にあの子がいないので胸が張り裂けそうだ。
   雲になり、鳥になって明日にでも逢い、お互い誰にも咎められずに心ゆくまで
   逢っていたい」と詠っています。

  作者には妻の紀郎女(きのいらつめ)や、鹿人太夫の娘の小鹿という妻妾がいたにも
 かかわらず、いい歳になって天皇の女性を寝取ったのですから尋常な仕業ではありません。
 よくもぬけぬけと詠ったものだと感心いたします。

  「 采女祭 糸で占ふ 縁結び」 河合佳代子

 奈良市の猿沢池湖畔にある采女神社で、毎年9月18日に采女祭が行われます。
 奈良時代のさる天皇(平城天皇か?)の寵愛を失った采女が猿沢池に投身自殺したとされ、
 その霊を慰める祭で謡曲「采女」はこのエピソードを題材にして作曲されたそうです。

( 謡曲 采女の由来 猿沢池にて )

by uqrx74fd | 2011-12-03 11:10 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百四十五(御蓋山:みかさやま)

( 御蓋山 後方は春日山 )

( 能登川 春日山原始林にて)

( 御蓋山の月)  別冊太陽 平城京より


御蓋山は奈良市の東部、高円山と若草山との間にある山で、春日神社に接し
神域の一部をなしています。
円錐形の山容が笠に似ているところから三笠山とよびならわしましたが、
後年、隣りの若草山が三笠山とよばれたので混同を避けるため「御蓋山」と書き、
「おんかさやま」とよぶ人もいます。

標高283mの小山ながら万葉人は春日山と共にご神体として崇め、山の背後から上る
朝日を拝み、折につけ麓を逍遥して桜や新緑、紅葉を楽しみ、月を愛でて多くの歌を
詠みました。
御蓋山は平城京のシンボルだったのです。

「 春日にある御蓋山に月の船出づ
   風流士(みやびを)の飲む酒坏(さかづき)に 影にみえつつ」

    巻7-1295 作者未詳 :旋頭歌 (既出 133後の月)


( ここ春日の御蓋山に月が出ました。まるで船のようですね。 
 おやおや、我ら風流人が飲む杯にまでお月さんが映っているぞ。)

官人たちの月見の宴での歌ですが、月の船は三日月なのでしょうか。
自らを風流人を称したこの優雅な作者は、杯に映った月を詠むという今までにない
新しいセンスの持ち主です。

「 雨隠(あまごも)る 御蓋の山を高みかも
    月の出で来ぬ夜は更けにつつ 」

      巻6-980 安倍虫麻呂(大伴坂上郎女の従兄弟)


( 御蓋の山が高いからか、月がなかなか出てきてくれませんね。
  もう夜も更けようとしているのに )

「雨隠る」は雨の時に蓋(傘)の下に隠れるの意で御蓋山の枕詞
御蓋山はそれほど高い山ではありませんが、その背後の春日山が高いので、
なかなか月が姿を見せません。
待ち焦がれているじれったさが感じられるような一首です。

「 しぐれの雨 間(ま)なくし降れば御蓋山
    木末(こぬれ)あまねく 色づきにけり 」

     巻8-1553 大伴稲公(いなきみ:家持の叔父)


( 時雨が休みなくふるので御蓋の山は木々の先まで
すっかり色づいてきました)

山の紅葉を時雨のなせるわざとみて喜んだ歌です。
繊細な目で季節の移り変わりを敏感にとらえており、もはや古今和歌集の
世界に近い調べが感じられます。

「 能登川の水底さへに照るまでに
        御蓋の山は咲きにけるかも 」
               巻10-1861  作者未詳


( 能登川の水底まで照り映えるほどに、御蓋の山の花は美しく咲き満ちています。)

花は桜と思われますが正確なところは不明です。
能登川は春日山の奥を源流とし、高円山と御蓋山の間を流れて佐保川に合流しています。
その流れ出る水は聖水とされました。

「 天の原 ふりさけ見れば春日なる
          三笠の山に 出でし月かも 」 

         安倍仲麻呂 (古今和歌集:百人一首)


( 大空ははてもなく東へかたむく
 ふりあおげば夜空は円く
 鏡のような月がかかって- -
 ああふるさと 春日なる三笠の山
 かの山にさしのぼっている同じ月を
 私は今この遥かな岸にみつめている 
       訳文: 大岡 信  百人一首  講談社文庫より )

古今和歌集の詞書によれば、唐に留学していた作者が日本への帰国の旅の途中、
明州(現在の寧波:ニンポー)で友人達が別れの宴を張ってくれた時に
この歌を詠んだとあります。
大らかな調べ、雄大な景観、郷愁を誘う名歌として多くの人々の口にのせられた
一首です。

安倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生で、弱冠16歳にして716年、遣唐使
多治比県守(たじひのあがたもり) の船で吉備真備らとともに入唐しました。

当時、唐は玄宗皇帝の時代で隆盛をきわめており、仲麻呂は中国名を晁衡(ちょうこう)と
名乗って玄宗に仕え寵愛を得て活躍し、また、盛唐の代表的詩人、李白、王維とも
交遊したといわれています。

憧れの先進国で華やかなりし文化に身も心も魅了された仲麻呂は、唐に滞在すること
37年の長きにわたりましたが、さすがに老年になり故郷日本が恋しくなったので
しょうか。
 753年遣唐使藤原清河とともに帰国することになりました。

ところが、不運にも途中で嵐に遭遇し、難破して安南(ベトナム)に漂着。
再び唐に戻ることを余儀なくされた仲麻呂はついに帰国を断念して
政府高官に登りつめ73歳の生涯をかの地で終えたと伝えられています。

2004年10月のことです。
中国陜西省(シャンシ-)西安市で安倍仲麻呂と一緒に唐に渡った留学生の
墓誌が発見されたと大きく伝えられました。
没後1250年も経っているにも関わらず一留学生の墓誌が残っていたとは
奇跡的なことです。

その墓誌には
「 姓 井 字(あざな)は真成 国号 日本
 生来の才能あり、礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きなかったが、
突然の出来事により36歳で亡くなった。
皇帝はその死を悼み称号を贈って功績を讃え、盛大な葬儀を国費で行った。
多くの人が悲しんだが、日本の人々も悲しんでいるだろう。
遺骨は異国に埋葬するが魂は故郷に帰ることを願う。」

という意味の事が記されているそうです。
阿倍仲麻呂も当然その葬儀に立ち会ったことでしょう。

「飛べ麒麟」の著書で安倍仲麻呂の生涯を生き生きと書かれた辻原登氏は

『 仲麻呂はこの歌を詠んだとき、共に選ばれ一緒に唐にやってきて、
祖国のために奮励した親友 井 真成を葬った悲しみを胸に抱えていたのである。
  歴史的事実の新たな発見は、あまのはらの歌をより味わい深く、われわれを
  勇気づける響きを奏でてみせてくれる。』と述べられています。

        ( 安倍仲麻呂と井真成 別冊太陽 平城京所収 )
   
「仲麿は もろこし団子 にて月見」 ( 川柳 柳樽)

    中国の月見ゆえ唐土(もろこし)団子

by uqrx74fd | 2011-11-12 20:44 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百三十八( 花嫁の父)

 ( 花嫁切手 )

 ( 花嫁船1  潮来にて)

 ( 花嫁船2 潮来にて)

「 われとわが子を愛(め)づるとき
  老いたる母を おもひいでて
  その心に手をふれし ここちするなり

  誰(たれ)か人の世の 父たることを否むものぞ
  げに かれら われらのごとく
  そだちがたきものを育てしごとく
  われも このひ弱き子を そだてん 」    ( 室生犀星 ちちはは )

天から授かった愛しいわが子。
何物にも代えがたいわが宝。
わけてもその子が娘ともなれば、父親にとって特別な感慨があるようです。
それは第二の恋人ともいうべき存在なのでしょうか。

「 幼子が 母に甘ゆる 笑(ゑ)み面(おも)の
      吾(あ)をも笑まして 言(こと)忘らすも 」  島木赤彦


慈しみ育て、親子共々仲良く過ごした楽しい日々の思い出。
そのような生活もあっという間に過ぎ去ってゆきます。

人生50年といわれていた昔、結婚が許される年齢は男が15歳、女は13歳と
定められていました。
ところが、なんと! 
大伴家持のもとに12歳になったばかりの娘に求婚があったのです。
その娘は他界した妻妾の子供ながら家持が愛情をこめて育てた掌中の珠でした。
求婚者は当時朝廷で権勢をふるっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の子、久須麻呂(くずまろ)。
まだ20歳に満たない年齢(推定)ながら、後年、美濃、大和などの国守を歴任し、
参議にまで上った人物です

久須麻呂は何度も使いを遣り、口上をもって求婚したところ、家持は次のような歌を
送りました。

「夢のごと 思ほゆるかも はしきやし
   君が使(つかい)の 数多(まね)く通へば 」 
                        巻4-787 大伴家持


(  あなたさまの使いが何度もお見えになるので 勿体なく、
   まるで夢のような気がいたします。 )

     はしきやし:愛(はし)きやし 感嘆を表す言葉


「春の雨は いやしき降るに 梅の花
   いまだ咲かなく いと若みかも 」 
                        巻4-786 大伴家持


( 春雨はいよいよしきりに降り続き、梅の開花をうながしているのに
 蕾が固くいまだに咲きません。 
 よほど木が若いからでしょうか。 )

春雨に久須麻呂、梅に花に娘を暗示し、
「 娘が幼い故、まだお誘いに応じる力がありません」と応えた家持。

さらに、感謝の意を示しながらも、父親らしい威厳をもって
「もし、本気ならば、使いをよこすだけではなく歌ではっきりとした
意思表示をして欲しい」と暗にうながします。

「 春風の 音にし出でなば ありさりて
    今ならずとも  君がまにまに 」 
                   巻4-790 大伴家持


( 春風が吹いてくるように、きちんとしたお言葉をお寄せ下さったなら、
  時期を見計らってあなた様のお心に添うようにいたしましょうに )

「ありさりて」:「ありしありて」の約で「現在の状況を変えずに時の経過を待つこと」

それに対して久須麻呂は次のような返歌で応えます。

「 奥山の 岩蔭に生(お)ふる 菅(すが)の根の
   ねもころ我れも 相思はずあれや 」 
                      巻4-791 藤原久須麻呂


( 奥山の山陰にひっそりと生えている菅の根のように、私だって心の奥底から
 真剣に思っております 。)

ねもころに:ねんごろに

「 春雨を 待つとにあらし 我がやどの
        若木の梅は いまだふふめり 」 
                       巻4-792 藤原久須磨呂


( 梅は春雨を待って咲くもののようですね。
 我家の梅の若木も未だ蕾のままです。)

「ご尤も ご尤もです。有り難い仰せ。その時期が来るまでお待ちしています」と
梅の蕾にことよせた万葉人の優雅な求婚の一幕です。

この婚約は成立したようですが、764年、父親の藤原仲麻呂が朝廷に反乱を企て、
久須麻呂も共に死亡していますので、その後どうなったのかは明らかでありません。

以下は伊藤博氏の評です。(万葉集釋注)

『 古代の娘を持つ父親と、その娘を求める男性の微妙な心のかけひきの
  うかがわれる貴重な歌群。
  家持がきちっとした(求婚の)言葉として歌を要求しているらしい点は、
  家持にとって、古代人にとって、歌というものが何であったかを教え、
  その点でもこの歌群は貴重である。 』

 「 林あり 嫁がせし子を思ふべく
      落葉を踏みて 入り来ぬ我は 」  宮 柊二

by uqrx74fd | 2011-09-23 20:24 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百三十三(薬の神様)

「志都(しつ)の石室(いわや)島根県大田市  万葉風土記 偕成社より」

「大神神社 後方の山はご神体の三輪山」

「 少彦名神社 大阪道修町 」

「 少彦名神社 」


我国で最も古い薬の神様は大国主命( オオクニヌシ ノミコト)と少彦名命
( スクナヒコナ ノミコト)といわれています。

大国主命は「力」、少彦名命は「知恵」に秀でられ、古事記、日本書紀によると、
父、神産巣日神( カミムスヒ ノカミ)から
「お互いに兄弟として力を合わせ、国をつくり固めよ」と命じられたそうです。

ここでの国つくりとは、日本列島をつくることではなく、人々に農業や医術を教え、
安定した生活を営ませることをいい、二神共々民を指導して豊かな農耕社会を
築くことを託されたのです。
大切な任務を与えられた二神は人民と家畜のために病気治療の方法を、また、
諸々の災いを除くため、呪(まじない)の法も定め、日本各地を指導しながら
巡り歩かれました。

「 大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の いましける
    志都(しつ)の石室(いはや)は 幾代経(へ)ぬらむ 」

     巻3-355 生石村主真人( おひしの すぐり まひと)


 ( 大汝や少彦名命が住んでおられたという ここ志都の岩屋。
  この神さびた窟は一体どのくらいの年代を経ているのであろうか )

大国主命は大汝(おほなむち)ともよばれました。
幾代経たとも知られぬ神代さながらの岩屋を訪れ深い感慨を抱いた官人の一首です。

志都の石室の所在は二神が全国各地の国つくりをされただけに、諸説あり、
兵庫県高砂市の生石(おうしこ)神社、三木市の志染(しじみ)の窟、
島根県邑智(おおち)郡瑞穂町岩屋説などありますが、犬養孝氏は島根県大田市静間町の
日本海に面した静之窟(しずのいわや)がいかにも歌の趣にかなうとされ

『 こんにちの人でさえ、ぞっと寒気がするような岬の大洞窟に、古代人が神秘と畏怖を
おぼえて国土経営の神のすまいと伝えるのも当然のことだし、こうした洞窟を
見あげて「幾代経るらむ」の感動をいだくのもしぜんのことだろう。-
洞窟のなかからみる海の色はかくべつ鮮明だ。
誰一人、旅の人のこないところだから海水も澄明のかぎりだし、砂浜の汀には
千鳥が群れ、鳴き声は波音にまじって、やがて岬の山にすいこまれてゆくように
思われる。』    と述べておられます。  ( 万葉の旅 下 平凡社より)

大国主命信仰は一世紀半ばごろ出雲で生まれ、「因幡(いなば)の白兎」にも登場しています。
ワニザメを騙そうとして逆に捕えられ、赤裸にされた白兎が通りかかった大国主命に
「きれいな水で体を洗い、蒲(がま)の黄(はな)をとり浜辺に敷いてその上を転がれ」と
教えられ、もとの膚に戻ることが出来たというお話です。

この説話は、大国主命は薬の神様であるが故にガマの花の花粉の止血、消毒効能を
教えたことを示唆しています。
また「伊予国風土記」によると、少彦名命が死にかけた時、大国主命が大分の
速水(別府)の湯からパイプを引いて少彦名命に浴びさせ、生き返らせたとも
書かれており、温泉治療の効能にも熟知していたことを窺わせています。

「 大汝(おほなむち) 少御神(すくなみかみ)の 作らしし
    妹背の山を 見らくしよしも 」
                      巻7-1247 柿本人麻呂歌集


( その昔、大国主命と少彦名命が力を合わせてお作りになった妹と背の山。
 この山を眺めるとなんと素晴らしいことよ。)

夫婦仲睦まじく並んでいるように見える妹山、背山。
大和五条から紀伊に向かう途中、紀ノ川沿いに美しい姿を現します。
出雲から出発された二神の国つくりが大和、紀伊にも及んだことが知られる一首です。

二神がめでたくその使命を終えた後、大国主命は大物主神(オオモノヌシノカミ)という
名に変えて大和三輪山の神のまつりとなり、少彦名命は、常世の国に去られたと
伝えられています。

そして、1300年後の現在。
大国主命(大物主神)はそのまま三輪山の大神神社(おほみわじんじゃ)に、
少彦名命は大阪、道修町の少彦名神社に祀られ、共に薬の神様として崇められています。

「 お供への 百合の根細し 花鎮め 」 福永京子

毎年4月18日、大神神社で花鎮祭 (はなしずめのまつり:俗に薬祭) が
盛大に行われます。
神饌に百合根、忍冬(すいかずら)の薬草が献供されるとともに、
関西を中心とした製薬業者から2万点を超える薬品の奉納があり、
祭典後、社会福祉施設、援護家庭、地方団体などに贈られているそうです。
さらに、忍冬を原料に醸造した薬酒「忍冬酒」が授与され、12月に入ると薬祖神の
御神徳を広く一般に分かつため、お正月用のお屠蘇が出されます。

「 春琴の家は代々鵙屋(もずや)安左衛門を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。
 - - 春琴 幼にして頴悟(えいご)、加ふるに容姿端麗にして高雅なること
 譬(たと)へんに物なし。」 
                         (谷崎潤一郎著 春琴抄 新潮文庫より)


名作「春琴抄」の舞台となり、その町の名を知られた大阪の道修町は、
江戸時代の初めから薬種問屋が集まったところです。

今日でも製薬、薬品会社がひしめく中、少彦名神社、町の人からは神農(しんのう)さんと
親しまれている薬の神様がビルの谷間に静かに祀られています。
神農さんとは、中国の医薬の祖、神農氏による神で漢方医薬の祖として もともと
この地に祀られていたものが少彦名命と合祀されたそうです。

薬用に供される植物や、動物、鉱物などを「本草」といいますが、我国最古の本草の書
「本草和名」(918年)の中に少彦名神の名を持つ薬草が登場します。

曰く、「須久奈比古乃久須祢(すくなひこのくすね)、以波久須利(いわくすり)」

「くすね」は薬の古名。「いわくすり」は岩に着生して奇しき効力を発する草の意

それは現在「石斛(せっこく)」といわれる岩や古い木の枝に着生するラン科の多年草で、
健胃、解熱、消炎、強壮、強精剤として効ありとされ、今日でもよく見られる
テンドロビユームもその一種です。

薬用植物として今も重用されている石斛の古名に国土経営の神の名前が
冠せられていることは、少彦名命が大国主神と力を合わせて病苦に悩む多くの人々を
救ってきたことが窺われ感慨深いものがあります。

少彦名神社では毎年11月22-23日に「家内安全、無病息災」を祈願して、
神農祭がおこなわれます。(大阪市無形文化財)

薬玉飾りや薬関係者の献灯提灯が立ち、多くの露天商が軒を並べ、厄除けの
張子の虎を求める参詣者で終日賑わい、薬関係の仕事に従事する人は、
社から受けた厄除け張子の虎を顧客に配るのに大忙しだそうです。

張子の虎を配る所以は1822年大阪でコレラが流行した時、虎頭骨を配合した
「虎頭殺鬼黄圓( ことうさつき おうえん)」という丸薬をを施与すると共に
病除けお守りの虎を授与したことによるそうです。

「 神農(しんのう)の 祭の虎を もらひけり 」 本田一杉

by uqrx74fd | 2011-08-21 09:22 | 生活 | Comments(0)

万葉集その三百十九(桐の琴をお贈りします)

(桐の花 :入江泰吉 万葉の華 雄飛企画より)

(梧桐(ごとう=アオギリ 万葉花 ニッポンリプロより)

729年のことです。
大宰府長官大伴旅人は朝廷の要職にあった藤原房前(ふささき:不比等の第二子 参議)に
梧桐(ごどう)で作られた琴を贈るにあたり歌二首を添えた書状をしたためました。
梧桐とは一般的には青桐(アオギリ科)とされていますが、文学作品では普通の桐
(ゴマノハグサ科)をいうことが多いようです。

書状は旅人が夢に見た琴の精である乙女との会話から始まります。

『 この悟桐製の日本琴(やまとこと)は対馬の結石山(ゆひしやま)の
  孫枝(ひこえ:根もとの脇から生えた枝) から作られたものです。
  この琴が夢で乙女になって現れ、こう言いました。

「 私は遥か遠い対島の高い峰に生え、大空の美しい光に幹をさらして育ちました。
  いつもまわりを雲や霞に取り囲まれ、山や川のもとで遊び暮らし、
  遠く海の風波を眺めながら、伐られるか伐られないか分からないまま
  立っていました。
  ただ一つ心配なことは、このまま長い歳月を経たのち寿命を終え、
  空しく谷底に朽ち果てることでございました。
  ところが幸いにも立派な工匠(たくみ)にめぐり合い、伐られて小さな琴に
  なることができたのです。
  音は粗末で響きも悪うございますが、いつまでも徳の高いお方のお側に
  置いて戴けることを願っております。 」

このように語った乙女は次のように詠いかけました。
 
「 いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ
    人の膝の上(へ) 我が枕かも 」    巻5-810 大伴旅人


( いつ、どんな時になったら、この琴の音を知ってくださる人の膝の上で、
  膝を枕に横たわることができるでしょうか。)

そこで私も歌で答えました。

「 言問わぬ 木にはありとも うるはしき
    君が手(た)馴れの 琴にしあるべし 」   巻5-811 同上


( 物を言わぬ木であっても、お前はきっとすばらしいお方の寵愛を受ける琴に
  なることができましょう。)

すると乙女は
「つつしんでご親切なお言葉をうけたまわりました。
 ありがたいきわみでございます。」と答えたのです。

私はふと目が覚めて、しみじみと夢を思い、乙女の言葉に感じ入って
じっとしていることができません。
そこで公用の使いにことづけて、その琴を御進呈申し上げる次第です。 』

それから1ヶ月後、房前から礼状が届きます。

『 謹んでお便りを拝受いたしました。
  ただただ、喜びでいっぱいでございます。
  お琴をお贈り下さった御志がいかに厚いか、この卑しい身に痛感いたしました。
  お会いしたいという気持が常日頃の百倍でございます。
  はるか白雲の彼方から届いたお歌に和し、拙い歌を奏上いたします。
  房前、謹んで申し上げます。

「 言とはぬ 木にもありとも 我が背子が
    手馴れの御琴(みこと)地に置かめやも 」 
                 巻5-812 藤原房前


( 物言わぬ木であっても、あなたさまのご愛用の琴です。
決してわが膝から離すようなことはいたしません。)    』

この一連の手紙のやり取りから古代貴族の社交の様子が窺われます。
旅人の文章は中国の文献「遊仙窟」など故事を下敷きにしており、
その豊富な知識を縦横無尽に駆使して練り上げられたものです。
それを十分理解できた藤原房前も相当な知識人であり、この礼状を受け取った
大伴旅人はさぞ満足したことでしょう。

以下は「大岡信著 私の万葉集(講談社現代新書)」からの抜粋です。

『 人に贈物をするのに、ただ物を届けるのではなく、いかにも相手が喜びそうな
  因縁ばなしを創作してこれにつけるというのが、当時の貴族の風習だったことが
  わかります。 
  相手が当然それを理解しうることが前提となりますから、相手に教養(この場合は
  中国の文物に通じていること)がなければ無意味な気取りに過ぎなくなります、
  逆に相手がこのジエスチュアを理解できる人であれば、親しみと敬意の表現として
  最高のものになるわけです 』

この贈り物が功を奏したのでしょうか。
一年後、大伴旅人は昇進し、念願の都への転任を果たしました。

「 桐の花 露のおりくる黎明(しののめ)に
         うす紫の しとやかさかな 」 木下利玄

by uqrx74fd | 2011-05-15 08:10 | 生活 | Comments(0)