カテゴリ:生活( 143 )

万葉集その六百三十六 (田植は神事)

( 春日大社本殿から御田植神事の会場へ   奈良 )
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( 巫女が勢ぞろいする中神主がゆっくり歩む  同上 )
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( 笛と打ちものの楽奏に合わせて舞を奉納   同上 )
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( 巫女の舞   同上 )
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( 春日山からの湧水に向かって祈る  同上 )
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(  苗やり  同上 )
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(  御田植祭のイラスト  月刊 ならら )
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(  住吉大社の御田植祭  大阪 )
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(  大神神社:おおみわじんじゃ の御田植祭  奈良 )
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(  菅原天満宮の御田植祭    奈良  )
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( 田植が終わったあと  安達太良山麓 )
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万葉集その六百三十六 (田植は神事) 

日本列島の田植は3月末頃から始まり、6月中旬まで続きます。
沖縄、九州は同じ畑で年2回栽培、収穫する2期作や、麦、小麦など2種類の
作物を収穫する2毛作を行うところがある関係で早い時期から始まり、
中には8月まで続くところもあるようです。

北海道、東北は5月、関東は6月が多いようですが、必ずしも南から北へと
順次移るわけではなく、気温や品種により各地域毎にその都度判断されており、
ばらつきがあります。

古代の田植は、先ず田の神を迎えて豊作を祈願する儀式を行うのが習いでした。
早乙女(田植する女性)が巫女になり、屋根の上に菖蒲や蓬(よもぎ)を葺(ふ)いて
邪気を払い、家の中には香り高い草を積んでその上に座り、
一夜お籠りをして身を清める。
やがて夜が明けると、乙女たちは早々と紺の着物に紺の手甲脚絆、菅笠に
赤いたすきという出で立ちで田植に向かったのです。

「 青柳の 枝(えだ)伐(き)り下ろし 齊種(ゆたね)蒔き
   ゆゆしき君に 恋ひわたるかも 」  
                           巻15-3603 作者未詳

( そろそろ田植の時期です。
  青柳の枝を伐り取って田に挿し、ゆ種を蒔いて神様に豊作をお祈りいたします。
  そのような神様のように恐れ多く、近づきがたい身分違いのあなた様に
  恋をしてしまって- - 、毎日々々焦がれ続けている私。 )

奈良時代の水稲耕作は、直接籾種を蒔く直播式から苗代で育てた苗を移植する田植式へ
移行する過渡期にあたり、二通りの方法が行われていました。

「ゆ種」とは「神が宿る神聖な種籾」という意味で、ここでは直播式と思われ、
苗代の中央や水口(田の水の取り入れ口)に生命力の強い青柳やツツジの枝を挿して
苗の順調な発育を祈ります。

この風習は現在でも続けられており、ウツギの枝、地竹の細いものなども
用いられているそうです。

「 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに
     国別れして 我(あ)れは  いかにせむ 」 
                    巻15-3746  狭野弟上娘子(さの おとかみの をとめ)

( 世間の人はみな二人一緒に田植をなさるというのに
 新婚早々、あなたは別の国へ旅立ってしまわれたのですね。
 別居することになってしまった今、私はこれから一体どのようにして
 生きて行けばよいのでしょうか。 )

当時の官人は、都で暮しつつ農耕の状況に応じて郊外にある庄(たどころ)で
農作に従事していました。
農繁期の5月、8月には田仮(でんけ)という15日の休暇が与えられ
夫は妻の労働を助ける習慣がありましたが、作者の夫、中臣宅守は新婚早々、
罪を得て配流の身になってしまったのです。(740年)、

罪は何によるものかは定かではなく、一説に政争に巻き込まれた讒言によるもの
ともいわれていますが、二人の悲しみは如何ばかりであったことでしょう。

本来なら一緒に田植え作業が出来たはずなのに!
一人寂しく作業を営むにつけても別離の悲しみが込みあげてくる新妻。

なお、ここでの田植は苗代で育てた苗を移植したようです。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植えし田を
     刈りて収めむ 倉無(くらなし)の浜 」
                         巻9-1710  伝 柿本人麻呂

( 可愛いあの子が 赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに
 その収穫を刈りとって収めようにも 収めきれる倉がないという
 この倉無の浜よ )

「倉無の浜」という珍しい地名に興を覚えての歌。
収めようにも収めきれる倉がないの意で、それほど稲の豊かに稔る地だと
機知を込めた、土地褒めの通過儀礼。
古代、異郷を旅する時、その土地の神様に敬意を表して祟(たた)りなきよう
歌を奉納して祈ったのです。

人麻呂は九州まで旅をしたのでしょうか。
「万葉集地名歌総覧」(樋口和也著 近代文芸社)によると

「 倉無の浜は大分県中津市竜王町の浜。
  現在、闇無浜(くらなしのはま)神社とよばれる社ある」 そうです。

   「 雨乞に 曇る国司の なみだ哉 」   蕪村

古代、水不足による旱魃は人々の生死に関わる重大事であり、
雨乞いは国司(国守)の大切な仕事の一つとされていました。

749年越中の国で6月(陰暦)下旬から1ヶ月近く雨が降らず
秋の収穫が心配されはじめます。
7月もまもなく終わろうとする頃、空の彼方に雨雲の気配が見られたので
国守、大伴家持は雨乞いの歌を詠って天に祈りました。

「 -  雨降らず 日の重なれば 
  植ゑし田も 蒔きし畑も 
  朝ごとに凋(しぼ)み 枯れゆく 
  そを見れば 心を痛み 
  みどり子の 乳乞ふごとく 
  天つ水  仰(あふ)ぎてぞ 待つ - 
  との曇りあひて 雨も賜はね 」 
                      巻18-4122 大伴家持 (長歌の一部)

「との曇りあひて」: 四方から雲が広がって一面の曇り空になる
          との:一面に
(訳文)

( 雨が降らない日が重なり、
 苗を植えた田も、種を蒔いた畑も
 朝ごとに萎んで枯れてゆく。
 それを見ると、心が痛んで
 幼子が乳を求めるように
 天を振り仰いで恵みの雨を待っている。- -
 どうか一面にかき曇って 雨をお与え下さい )

幸運にも祈祷三日後、家持は雨に恵まれ面目を果たしました。
祈祷には天文学や気象学の知識も必要とされ、国守の仕事も楽ではありません。

もし雨が降らなければ、この人は神に見放されたのだと、部下や領民から
冷たい眼で見られるだけに、必死の思いだったことと思われます。

 「早乙女の 重なり下りし 植田かな」     高濱虚子

田植や雨乞いにかかわる神事は現在もなお各地で継承され、神社の
重要な祭事となっています。
中でも春日大社(奈良)の田植神事は、田の中ではなく、神社の境内の一角で
宮司や巫女たちが笛や打ちものに合わせて舞を奉納する優雅な催しです。

「 早乙女に 早苗さみどり やさしけれ 」    池内友次郎



           万葉集636(田植は神事)完

           次回の更新は6月16日(金)の予定です
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by uqrx74fd | 2017-06-08 16:26 | 生活

万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

( 長谷寺本坊大玄関   奈良 )
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( 白牡丹   長谷寺 )
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( 赤牡丹   同上 )
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( 黄牡丹   同上 )
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( 緋牡丹   同上 )
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( 美しき新緑  同上 )
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( 本堂から  同上 )
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( 五重塔遠景   同上 )
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( 本堂遠景    同上 )
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( 日本一美しいといわれる登廊  同上 )
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( 仁王門:山門   同上 )
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万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

昔々ある日、皇族の子弟達が泊瀬(はつせ)に集まり宴会を催しました。
場所は都人憧れの地、長谷寺(奈良)近辺。
山々に囲まれ、清流が爽やかな音を響かせている風光明媚な川べりで、
獲れたての鮎や新鮮な山菜を肴に、飲めや歌えやの賑やかな宴。
久しぶりの親しい仲間同士の酒席なので話も大いに弾みます。
「あぁ、酒も肴も美味い!」

席も盛り上がってきた頃合いを見計らって、侍(はべ)っていた一人が立ち上がり
「さぁ、さぁ、余興ですよ」と弓削皇子(天智天皇の子)に歌を1首
献上しました。

皇子が恋に悩んでいるという設定です

「 神(かむ)なびの 神依(よ)せ板に する杉の
     思ひも過ぎず 恋の繁きに 」 
                       巻9-1773 柿本人麻呂歌集

 ( 神なびの 神依せの板に用いる杉。
  その「すぎ」の名のように、私は貴女と何としても結ばれたいという想いを
  断ち切る(過ぎる)ことが出来ないのです。
  あぁ、この恋の苦しみよ )

神が宿るとされる「杉(すぎ)」と「思い過(すぎ)る」とを掛けた言葉遊び。

「(思ひ)過ぎる」は即ち「忘れる」、「諦める」。
「二人の間に越えることが出来ない障害があり、あれこれ思い悩んでいます」
と詠っています。

「神なび」: 神の辺(べ)で神のこもるところ、ここでは神聖な三輪山か。
「神よせ板」:神の降臨を仰ぐために叩いて音を立てる板。

それを受けて別の陪席人が舎人皇子(とねりみこ:天武天皇の皇子)に
2首奉ります。
1首目は女性の返事、2首目は恋の結末。
弓削皇子が悩んでいる様子を見て、愛する女が返事を返す。
そしてその結果は? という寸劇風に仕立てあげたのです。

「 たらちねの 母の命(みこと)の 言(こと)にあらば
    年の緒(を)長く  頼め過ぎむや 」 
                          巻9-1774 柿本人麻呂歌集

( 「恋の成就を妨げている」というあなたのお言葉が、
  もし、私のお母様ことであったなら、そのまま何年もずるずると
  結婚を当てにさせたまま放っておくことなどありえましょうか。
  決してそのようなことはいたしません )

「 愛しているのは私も同じ。
二人の仲を隔てているのは母親の反対。
でも、許しさえ得られれば、すぐにでも結婚出来ましょう。
私が必ず母親を説得致してみせます 」 と

固く誓う清純な乙女。

「母の命(みこと)」: 子の結婚に強い発言力を持つ母親を恐れ
畏(かしこ)んで敬称「命(みこと)」をつけたもの

「言にあれば」: 母の許しさえ得られたならば
「頼め過ぎむや」: 気を持たせたままにしておく

そして、懸命の説得が功を奏して、二人の仲がめでたく認められ、
男が喜び勇んで女性の許に通って行きます。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                      巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、愛しい人の家に近づいてきた
  あぁ、ついに、彼女に逢えるのか。 )


「 かな門(と)」: 道の曲がり角に面している戸口
           「かな」は曲がっているさま。
           扉や柱を金具で止めたり飾ったりしている立派な門。
           女性が上流階級であることを暗示。

この歌について伊藤博氏は次のように解説されています。(万葉集釋注5)

『 人麻呂の歌に多い、訳文を与えることを強く拒否するような歌である。
  一夕の感動は、本文を何度も朗誦して味わうにしくはない。
  そして、一首を孤立して味わっても、男の心の高鳴りは
  充分聞こえて来るけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、
  なおさら光彩を放つことが知られよう。
  「家のかな門に近づけり」― その向こうに何があるか。
  すべて万人の理解のうちにある。
  歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。』

この歌が評価されているのは、宴会での即興歌にもかかわらず二人の作者が
ピタリと息を合わせて物語風に仕立てたこと。
1首目で何故悩んでいるのかと周囲に疑問をもたせ、2首目で相思相愛であること
母親の反対が障害となっていること、そして、3首目で
めでたし、めでたしと結ぶ。
特に、結末に余韻を持たせて読者の想像の世界に誘ったことなどでしょうか。

さらに深読みすれば、最初に歌を奉られた弓削皇子は天武系全盛のにあって
唯一の天智系で壬申の乱で敗れた側。
何かにつけて肩身が狭い思いをしていました。

それを承知している心優しい天武系の皇子たちは
「やがて貴方もきっと日の目を見る時が参りますよ」と励まし、
思いやったようにも感じます。

  「 此の寺の ぼたんや 旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)

五月の長谷寺は全山牡丹で埋め尽くされています。
山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右に約7千株を越すと云われる色とりどりの牡丹が真っ盛り。
赤、黄、ピンク、紫、白、この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は
もと薬草園だったらしく、移植されたのは元禄時代からと伝えられています。

余談ながら長谷寺の参道に沿って民家の裏側に流れているのが初瀬川。
今は川幅が狭く見栄えしませんが、昔は滔々と流れる大川であったようです。

人々は川床で洗濯物や野菜を洗い、上流に堰(せき)を作って清流を
生活用水として引き込み、田畑を潤しました。
初瀬川は人々の生活にとって不可欠な存在だったのです。

その川は山々の間の長い谷を縫って流れていたので、やがて
「長谷川」という名前が生まれ、次第に人の苗字になって
全国に広がっていたそうな。

生活に不可欠な水の恵みに対する感謝の念から生まれた「長谷川」。
その苗字のルーツは「泊瀬川にあり」です。

「 凛として 牡丹動かず 真昼中 」 正岡子規



万葉集633 (泊瀬の皇子たち) 完

次回の更新は5月26日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-05-18 18:15 | 生活

万葉集その六百三十 (曲水の宴)

( 城南宮 平安時代 都の守護神 曲水の宴が今でも開催されている 京都伏見区 )
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( 曲水の宴  城南宮 )
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( 同上 )
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( 曲水の宴図  吉田元陳作  城南宮収蔵 )
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(  羽觴:うしょう 鴛鴦の形をした酒杯の受皿  作歌が終わった人が取り上げ盃を戴く) 
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( 曲水の宴図  京都御所 )
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(  東院庭園  平城宮跡隣り  奈良 )
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( 同上 )
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( 桃と鯉のぼり  万葉ゆかりの古河 茨城県 )
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(  桃の花  同上 )
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万葉集その六百三十 (曲水の宴)

「曲水の宴」とは宮中で催された中国伝来の行事で、庭園の曲がりくねった小川の両側に
貴族たちが座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を通り過ぎないうちに
詩歌を詠んだのち、おもむろに酒杯を取り上げて飲むという優雅な宴です。

時期は旧暦の3月初旬、現在の4月の中頃でしょうか。
桜や桃、椿の花が咲く華やかな季節です。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(しめ)し あしひきの
      峰の上の桜 かく咲きにけり 」 
                       巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜はこんなに見事に咲きました。)

「 奥山の 八つ峰(を)の椿 つばらかに
    今日(けふ)は暮さね ますらをの伴(とも) 」 
                          巻19-4152 大伴家持

( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、
 その名のように、つばらかに心ゆくまで
 今日1日、ゆっくりお過ごしください。
 お集まりの ますらおの皆様たち。)

      「つばらかに」: ゆったりとした気持ちで

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
      今日(けふ)ぞ 我が背子  花かづらせな 」 
                            巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、
 楽しく遊ぼうではありませんか )

   「花蘰」: 花で編んだ髪飾り

古代中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)といい
格別な吉日とされて曲水の宴が行われていました。
この行事が後に、3月3日に固定されて我国に伝えられたと云われています。

我国文献での記録は古く、日本書記 顕宗(けんぞう)天皇元年(485)
「 3月の上巳に後苑にて曲水の宴をきこしめす 」とあります。

ただ、家持が詠った3首の歌は、いわゆる正式な曲水の宴ではなく、
越中国守の館で山桜、椿を眺めながら官吏と共にした宴会でのもの。
というのは、曲水の宴を催すには広大かつ凝った造りの庭園が必要なので、
場所は宮中か大貴族の庭園にかぎられ、一介の地方国守ではなしえない
行事だったからです。

風流貴族の家持は3月3日に歌を詠むという習慣だけを採りいれたようですが、
他に例がなく、上記3首は和歌史上初の記念すべき歌群とされています。

また、747年、大伴家持の歌友、大伴池主も同じく「晩春3日遊覧」と題する
漢詩を作り3月3日の佳き日に、桃の花の紅と柳の緑が美しいことと、
水辺に出て酒を酌み交わす光景を述べています。

以下は訳文です。(漢詩は省略)

「 春の終わりの佳き日は 賞美するによく
  3月3日のさわやかな風景は、遊覧するに値する。
  川に沿って柳の道が続き、人々の色とりどりの晴れ着が美しい。
  桃咲く里は流れが海に通じており、仙人が舟を浮かべている。

  雲雷模様の酒樽で香り高い佳酒を酌めば
  澄酒がなみなみと湛えられ、
  鳥形の盃は人々に詩詠をうながして,幾曲りもしている水に流れる。

  私はほしいままに気持ち良く酔い 陶然としてすべてを忘れ、
  酩酊してところ構わず 座り込むばかりである。」
    
さて、宮中で行われた曲水の宴の歌は、我国最初の漢詩集「懐風藻」に
3編残されており、下記はそのうちの1つです。

三月三日 曲水の宴 

「 錦巌(きんがん) 飛瀑(ひばく)激し
  春岫(しゆんしゅう) 曄桃(えふとう)開く
  流水の急なるを 憚(はばか)らず
  ただ盞(さん)の 遅く来ることを 恨む 」   山田 三方 懐風藻より

                    (春)岫(しゅう) :(春の)峰 
                    曄桃(えふとう): 輝き照っている桃
                    盞(さん):盃

( 錦の彩りをした巌から 滝が激しく流れ落ち
  春にかすむ峰には  桃があでやかに咲いている
  曲水の流れの急なことは 別にいとわないが
  盃の廻ってくるのが 遅いのが残念だ )

我国では民間で古くから流し雛といって木片などで作った人形(ひとがた)に
穢れや災いを託して水辺に流すという禊ぎの風習があり、のち宮中で
6月,12月の末、大祓(おおはらえ)といわれる大規模な行事になります。

このような下地があったので、酒杯を川に浮かべて流すという行事が
中国からもたらされてもごく自然に我国でも受け入れられたのでしょう。

現在、平城京宮跡の近くに当時の庭園(東院庭園)が再現されています。
春日山、御蓋山を借景にし、古代王侯貴族の優雅な生活を彷彿させるような
たたずまいです。
また、京都の城南宮、上賀茂神社、福岡の太宰府天満宮でも毎年、
古式豊かな曲水の宴が催されており、多くの観光客を楽しませてくれています。

※ 京都城南宮の曲水の宴 4月29日、11月3日 年2回開催

  「 曲水の 流れゆるやか 花筏 」       川戸狐舟


            万葉集630 (曲水の宴) 完



           次回の更新は5月5日(金) の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-04-27 15:18 | 生活

万葉集その六百二十六 (剣太刀)

( 藤の木古墳出土 飾り太刀復元品 橿原考古学研究所  奈良 )
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( 佩刀する聖徳太子  平等寺  山の辺の道 奈良 )
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( 柿本人麻呂 阿騎野 奈良宇陀かぎろひの丘 )
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( 古代の太刀  国立博物館  上野 )
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( 稲荷山古墳 金錯銘鉄剣 )
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( アイヌ太刀  国立博物館  上野 )
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( 万葉の春   上村松篁  )
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我国の刀剣の歴史は古く、古墳時代以前、青銅剣のみならず鉄製の刀剣類の
生産が始まっていたことが多くの出土品で確認されています。

古事記に登場する3種の神器の1つ草薙剣や島根安来市かわらけ谷出土の
金銅装環頭太刀、埼玉県の稲荷山古墳の金錯名鉄剣などがよく知られていますが
中でも1968年に発掘された稲荷山古墳の鉄剣に115文字の漢字が金象嵌で
刻まれていたことが大きな話題となったことは記憶に新しいところです。

この漢字には「雄略天皇に仕えた功績を記念し471年作った」と由来が
記されており、当時、天皇の勢力が全国に広がっていたことが明らかになった
重要な発見でした。

剣太刀と一言で申しましても、剣は両刃、反りがない直刀で突く武器、
太刀は片刃、反りがあり切るためのものとされていますが、後々
為政者の地位権力の象徴として華美なものになっていったようです。

万葉集では剣太刀、焼太刀など34首残されています。

「 剣太刀 いよいよ磨(と)ぐべし いにしへゆ
    さやけく負ひて  来(き)にし その名ぞ 」
                      巻20-4467 大伴家持

( 剣太刀を磨ぐというではないが 心をいよいよ磨ぎ澄まして
 緊張感をもつべし。
 わが大伴は遠く遥かなる御代から背負い持ってきた由緒ある名であるぞ。
 決して絶やしてはならぬ。 )

後ろ盾であった聖武天皇が亡くなったのち、淡海真人三船という人物の
讒言により一族の大伴古慈斐(こしび)が出雲守の任を解かれたときに
一族を諭したもの。
ここでの剣太刀は磨ぐに掛かる枕詞として使われていますが、切迫した
心情が滲み出ています。
 
万葉集では剣太刀が武器として詠われているものは少なく、
ほとんどが熱烈な恋の歌。

「あなたのためなら火の中、水の中へでも飛び込みましょう」という
健気な女性もいましたが、何と!
「 剣の刃に足を乗せてみせましょう」と詠った女傑もいたのです。

「 剣太刀(つるぎたち) 諸刃(もろは)の利きに 足踏みて
    死なば死なむよ  君によりては 」 
                        巻11-2498 作者未詳

( 剣の太刀の鋭い諸刃に 足を踏み貫いて 死ぬなら死にもいたしましょう。
 あなたさまのためなら )

当時の太刀は片刃が主流だっただけに両刃という表現には凄みがあります。
激しい恋心ながらも、ここまで迫られた男は辟易したのではないでしょうか。
それにしても昔の女性は凄い恋文を贈るものだと感心致します。

「 我妹子(わぎもこ)に 恋ひしわたれば 剣太刀
     名の惜しけくも 思ひかねつも 」 
                         巻11-2499 作者未詳

( あの子に恋焦がれ続けていると 剣の太刀の刃(な)ではないが
 名を惜しむなんて思いもよらないよ )

刃は「な」とも訓み、名の枕詞に使用したもの。
恥も外聞もなく女に惚れた男。
いまにも駆け落ちしそうな気配です。

「 剣太刀 身に佩(は)き添ふる ますらをや
     恋といふものを 忍びかねてむ 」 
                    巻11-2635  作者未詳

( 剣の太刀 この立派な太刀を身に帯びている丈夫(ますらを)たるものが、
 恋と云うものの苦しみに耐えきれないものなのだろうか )

「 大丈夫(ますらを)たるもの、もう少し毅然としなくては」
と自嘲気味の男ですが、恋は魔物、男も女も関係ありません。
「どうせ恋するなら、燃え尽きるほど燃えてごらんなさい。」
と気弱な男に言いたくなるような歌です。

「 剣太刀 身に取り添ふと 夢に見つ
     何の兆(さが)ぞも 君に逢はむため 」
                             巻4-604 笠郎女


( 女だてらに恐ろしい剣太刀をしっかり身に着けた夢をみました。
  なぜかおわかりですか?
  あなたに是が非でもお逢いしたい気持ちが凝って
  私を雄々しく奮い立たせたからですよ。 ) 
                        (杉本苑子訳 私の万葉集 集英社)

最も男性的な持ち物とされていた剣太刀を抱いて寝た夢を見た。
家持を死ぬほどの思いで恋をした作者ですが片想いに終わりました。

古代の女性にとり、剣太刀は恋の道具、それも相手の心を突き刺す
必殺の一撃だったようです。

   「 剣太刀 抱いて夢見る 恋戦(こひいくさ) 」 筆者


             万葉集626 (剣太刀)  完



            次回の更新は4月7日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-04-01 00:00 | 生活

万葉集その六百二十一 ( ノックが合図よ )

( 東国の村 6世紀中頃  国立歴史民俗博物館 )
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( 東国豪族の館   同上 )
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( 平城京庶民の住宅  同上 )
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( 房総の村  千葉県 )
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( 古い町並み:民家  五条  奈良 )
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(  酒屋  同上 )
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( 床屋  奈良 今井町 )
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( 酒屋   同上 )
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( 郵便局   同上 )
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( 薬屋   奈良町 )
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 昔、通い婚の時代、男は夜が更けてから月の光をたよりに女の許に行き
家族が寝静まった頃合いを見て家に忍び入りました。
勿論、女の家は用心の為入口には閂(かんぬき)が掛けられていたのでしょうが、
お互いに予め合図を決めておき本人を確認してから家に招きいれたのです
広い家ならまだしも1間しかない部屋で雑魚寝している時は
どうしていたのでしょうかね。
夏なら外でということもありましょうが、寒い冬は藁のある物置小屋へ
行ったかもしれません。

 それはともかく、次の歌は女が男を招き入れる時の合図の打ち合わせです。

「 奥山の 真木(まき)の板戸を とどと押(し)て
     我が開かむに 入り来て寝(な)さね 」 
                    巻14-3467 作者未詳

( 奥山に茂る真木で作った板戸、この板戸を私が軽くたたいて
  ごとごと押して開けたなら、さっと中に入ってきて、一緒に寝てね。)

「とどと」は翻訳不可能ですが、強いて言えば「トントン」か。

 男は「何日何時頃行くよと」予め連絡し、そのころ外で待機している。
 女は家族が寝静まったのを確認し、トントンと戸を叩いて合図しながら
 そっと戸を開け、招き入れる。

「真木の板戸」は立派な木で作られた板戸、恐らく檜や杉などで
作られていたのでしょうから、かなり大きな家だったのでしょう。
照明もなく真っ暗な家の中を、そろりそろりと通り、女の部屋へ。
あとは久しぶりの逢瀬を堪能し、家族が目覚める前に男は家を出て帰る。

このように上手くいかない場合もありました。

「 奥山の 真木の板戸を 押し開き
   しゑや出(い)で来(こ)ね 後(のち)は何せむ 」 
                               巻11-2519 作者未詳

( こんな奥山の真木の板戸なんか、どんと押し開けて、もういい加減に
 出てきてくれよ。 
 ええーい、あとはどうなったってかまうものか。)

どうやら合図が通じなかったみたいです。
いくら待っても戸が開きません。
とうとう「シエー」という言葉が出てきました。

1300年後、漫画家、赤塚不二夫が多用した「おそまつ君」の決まり文句。
調べて見たら、同氏は漫画「万葉集」を書いており、そこに「シエー」という言葉が
使われていました。
                    ( 赤塚不二夫の漫画古典入門  万葉集 学研 p121)

さて、呼べども門は開かれず。
男はとうとう諦めて外で寝てしまいました。

「 奥山の 真木の板戸を 音早み
    妹があたりの 霜の上に寝ぬ 」 
                     巻11-2616 作者未詳

( あの子の家の真木の板戸は 激しい音をたててきしむので、
 開けるに開けられず、とうとう近くの霜の上で寝てしまったよ。)

合図なしで戸を開けようとしたのか、約束の日を勘違いしたのか。
中から戸が開かないので、閂が掛かっていないのを幸い、戸を開けようとした。
ところが立てつけが悪かったのか、引けども動きません。
無理に開けようとしたら「ギシギシ」と大きな音が鳴る。
これ以上大きな音をたてると「家族が目を覚ます」 と躊躇する。
女がなんとか出てきてくれないかと、じっと外で立ち尽くす。
何時まで待っても、反応なし。

寒い中、諦めてさっさと帰ればよいものを、ひよっとしたらと思いつつ
とうとうウトウトしてしまった。
なんとも面白味とペーソスを感じさせる歌です。

「 こなた思へば 千里も1里 
    逢わず戻れば 1里が千里 」   (山城国歌)


「よばい」という言葉があり、「夜這い」即ち「夜、恋人のもとへ忍んで行く」
あるいは「寝とりたい相手の寝所へ忍び入る」という良からぬ連想をさせるものして
用いられています。
しかしながら、その原義は「相手を呼び続ける」という意の「呼ばふ」が
「呼ばひ」に変化したもので、万葉仮名では「よばひ」に「結婚」という字が
当てられている例があり「呼び続ける」意の中に「求婚する」という気持が
含まれていることが窺われます。

「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の国に 
  さよばひに(左結婚丹)  我(わ)が来(きた)れば
  たな曇り 雪は降り来(く)  さ曇り 雨は降り来(く)
  野(の)つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む   家つ鳥 鶏(かけ)も鳴く
  さ夜は明け この夜は明けぬ   
  入りてかつ寝む この戸開かせ 」
                     巻13-3310  作者未詳

( 山々の奥深いこの初瀬の国に 妻どいにやってくると
 急に曇って雪が降ってくるし さらに雨も降ってきた。
 野の鳥、雉は鳴き騒ぎ  家の鳥、鶏も鳴き立てる。
 夜は白みはじめ とうとう夜が明けてしまった。
 だけど中に入って寝るだけは寝よう。 
 さぁ、戸を開けてくだされ。 )

初瀬(奈良桜井市)は古来特別な聖地とされ国とよばれていました。
遠方から妻問いに来た男が途中悪天気に遭遇し、雪を避け雨がやむのを
待っているうちに空が白みはじめた。
妻問いは月が出ている夜に訪れ、明け方の暗いうちに帰るというのが
当時の暗黙のルール。
男はそのルールに反して強引に迫ったのです。

「 隣から 戸をたたかれる 新所帯 」 (江戸川柳 柳墫)

( 新婚早々、派手な夫婦の睦事。
 うるさいと隣の家から戸をたたく。
 長屋での生活だったのでしょう。)




       万葉集621(ノックが合図よ ) 完

      次回の更新は3月3日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-02-23 19:56 | 生活

万葉集その六百十九 (眉美人)

(月齢2,2日の三日月  学友M.I さん提供 )
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( 樹下美人図 一部   正倉院宝物 )
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( 技芸面 奈良町 藤岡家住宅で)
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(  難波ひと 一部  長谷川 青澄:せいちょう  奈良万葉文化館収蔵 )
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( 梅花粧  一部   鎌倉秀雄   同上 )
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( 額田女王  上村松篁  )
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( 広目天  国宝 東大寺戒壇堂 )
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( 阿修羅像  国宝  興福寺 )
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「眉」と云う字は目の上に波の形を書いた象形文字で、細くて美しいまゆ毛を
表すそうです。

漢字辞典を紐解くと

「眉山」(びざん) 美人の眉、また顔かたちの美しいさま

「眉壽」(びじゅ) 眉が長く伸びるまで長生きする人、長寿の人

「眉黛」(びたい) まゆずみで描いた眉、美人のたとえ

「眉斧」(びふ)  美人の眉、
           美貌のために身をうしなうことになるので
           斧(ふ:命を絶つもの)という

「眉目秀麗」 すぐれ秀でている人  ( 眉秀でたる若人ともいう:筆者注)

「柳眉」   柳の葉のように細く美しい眉、美人の眉

「三日月眉」  三日月形の眉、眉の上下が細い

など、いずれも女性は美人、男性はイケメンを意味する言葉ばかりです。

万葉人は三日月や柳葉の形をした眉の持主を美人と称え、可愛い女性が
眉を掻くしぐさをして(一種のおまじない)恋人の訪れを待つ様子を
楽しそうに詠っています。

「 思はぬに 至(いた)らば妹が 嬉しみと
   笑(え)まむ 眉引き(まよびき) 思ほゆるかも 」  
                         巻11-2546 作者未詳

( 思いかけないところへひよっこり俺が行ったら
 あの子が喜んでにっこり微笑む、その眉のさまがありありと浮かんでくるよ。)

「 不意に訪ねたらびっくりするだろうな。
きっとにっこり笑って喜んでくれるだろう。
あの可愛い眉を引き伸ばしながら。」

道を歩きながらにやにや笑っている男の顔が目に浮かんでくるような一首です。

嬉しみと:「まぁ嬉しい」と

「 月立ちて ただ三日月の 眉根(まよね)掻き
     日長(けなが)く恋ひし 君に逢へるかも 」
                   巻6-993 大伴坂上郎女

( 月が替わって、ほんの三日月のような細い眉を掻きながら
 長く待ち焦がれていたあなた様にとうとうお逢い出来ました。)

「月が替わって」とはお月さまが見えなくなってほんの少し姿を現した時期をいい
眉毛のような細い三日月だったのでしょう。

当時、眉根を掻くと、恋人に逢えるという俗信があり、

「 あなたが恋しい、お逢いしたいと眉根を掻いたら
  その効き目があって、やっとお見えになりました。」と

 まだ幼い娘、大嬢(おほいらつめ)に替わって詠ったもの。

 坂上郎女は大伴旅人の異母妹で家持の叔母、大嬢は家持の許嫁でした。

「 振りさけて 三日月見れば 一目見し
    人の眉引き 思ほゆるかも 」 
                            巻6-994 大伴家持

( 遠く振り仰いで三日月を見ますと、一目見たあの人が
 思われてなりません。)

当時、家持は16歳。
叔母、坂上郎女は恋と歌の先生。
おそらく「三日月」という題と上記の歌を示して、一首詠んでみなさいと
促されたのでしょう。

さすが万葉屈指の恋の達人マダムの指導の賜物、この年にして
堂々たる返歌。
はやくも天賦の才の片りんを見せています。
度々逢っていたのにもかかわらず、一目惚れの歌にして叔母との恋歌仕立てに
仕上げました。
そして、家持長じて恋の遍歴。
女性の容貌を桃のような紅、眉を青柳の葉に譬えた美しい歌を作りました。

「 桃の花 紅色(くれなひいろ)に にほひたる 
  面輪のうちに 青柳の 細き眉根(まよね)を
  笑み曲がり - - 」   
                  巻19-4192 (長歌の一部)  大伴家持

( 桃の花、その紅色に輝いている面の中で
 ひときわ目立つ青柳のような細い眉、
 その眉がゆがむほどに笑みこぼれて- )

妻、大伴大嬢(おほいらつめ)や他の美人を意識しながら詠ったものです。

「 びるばくしゃ まゆね よせたる まざなしを
    まなこ に み つつ あきの の を ゆく 」           会津八一

   「びるばくしゃ」(昆楼博叉)  東大寺戒壇堂 国宝 広目天

怒った様子を「眉を上げる」と云います。
しかし、この仏様の眉は上がっているが決して怒ってはいない。
右手に筆を、左手に巻物を持ち、まざなしは深い。
物思いに耽けりながら、静かに遠くを見つめている。
その名の通り、広く、多くの人々を守っているかのようです。

仏像で忘れられないのは興福寺の国宝「阿修羅像」。
長谷部 日出男氏は次のような説を唱えられています。

『 天平のスカーレット・オハラ。
モデルは若き頃の光明皇后。 (筆者注:聖武天皇皇后)
古代インドでは天上の神々に戦いを挑む悪神とされ、改心して仏法の守護神に
なってからも、荒々しい闘争心の権化であるはずなのに、
ここでは清純な信仰心の化身のように表現されている。』
                      ( 阿修羅像の真実 一部要約  文春新書)。

憂いを含み、優しさあふれる眉。
この眉こそ、この仏像の最大の魅力です。
 
人物や仏様の絵を描くとき
眉の表現の仕方で人相が一変します。
古の人たちも仏様を造る時、その性質を十分にわきまえ、眉の表現に
細心の注意をはらったことでしょう。

ここでちょっと脱線。

『 ところで、いま・・・。
  浪人姿に変装している木村忠吾と、さし向いで酒を飲んでいる五十男は
  めったに見られぬ顔貌をしていた。
  中肉中背の姿にも、尋常な目鼻立ちにも異常はないのだが、眉だけが
  普通でない。
  濃い眉と眉との間にも、もじゃもじゃと毛が生えているのだ。
  つまり、眉毛と眉毛がつながっている。
  二つの眉毛が一すじになって見える。
  忠吾は「一本眉の客」とひそかによんでいた。』

                  (池波正太郎 鬼平犯科帳13(一本眉より)  文春文庫

この男の正体は盗賊「清州の甚五郎」。
面白いですよ。

       「 水煙に 三日月かかる 興福寺 」    河本遊子



    万葉集619 (眉美人)完


  次回の更新は2月17日です。
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by uqrx74fd | 2017-02-09 19:59 | 生活

万葉集その六百十四 (春菜摘む乙女)

( 万葉人の春菜    カタクリ  弘前城公園 )
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(  同上 )
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( スミレも食用でした   森野旧薬園  奈良 )
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( ニラ  山の辺の道  奈良 )
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(  同上 )
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(  ヨメナ  山の辺の道 同上 )
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(  同上 )
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( ヨモギ  同上 )
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( テレビでも放映されたヨモギ餅つき  奈良 猿沢池の近くで )
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( ヨモギ餅  長谷寺前で  奈良 )
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( ワラビ   山辺の道 )
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長い冬が過ぎ水ぬるむ頃、はだら雪が残る大地を割って顔を出す春菜は
若菜ともいいます。
早春の新芽はアクやエグ味が少なく美味。
乙女たちは暖かくなると一斉に野山に繰り出し、おしゃべりをし、歌いながら
春のピクニックを楽しみました。
摘んだ春菜はヨメナ、ヨモギ、ニラ、スミレ、カタクリ、ワラビ等々。

羹(あつもの:おひたし、汁)にして食べ、その旺盛な生命力を身に付け
健康と長寿を祈るのです。

「 國栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の
     しばし君を 思ふこのころ 」 
                         巻10-1919 作者未詳

( 國栖たちが春の若菜を摘むという司馬の野。
  その野の名のように、しばしばあなたのことを思うこのごろです )

國栖ら: 奈良県吉野郡吉野町の吉野川の上流、國栖(くず)付近に住んでいた人びと。
      春の遅い山奥の住人と考えられていた
      性質が純朴で山の果実を食し、山菜など土地の産物を献上したという。

司馬の野:國栖付近なるも所在不明  「しま」の音から「しばし」を導く

 日本書紀によると

『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、
歌舞を奏して歓迎した。
その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の
食物としている 』とあり、
天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の所作をするものであったそうです。

それは、のちに「国栖奏」(くずそう)とよばれ、今もなお受け継がれています。

「 春草の 繁(しげ)き我(あ)が恋 大海(おおうみ)の
    辺に行く波の 千重(ちへ)に 積りぬ 」 
                          巻10-1920 作者未詳

( 春草が茂るように しきりにつのる私の恋
  その恋心は 大海の岸辺に寄せる波のように
  幾重にも積ってしまった )

「 おほほしく 君を相みて 菅(すが)の根の
   長き春日を 恋ひわたるかも 」 
                       巻10-1921  作者未詳

( おぼろげにあのかたをお見かけしたばっかりに、
  私は菅(すげ)の根のような この長い春の1日を ひたすら恋い焦がれながら
  過ごしています )

この三首の歌は、純情な乙女が道で見かけた男に一目惚れしたように
思われます。

春菜摘みをしながら凛々しい若者の面影を追い、大海(ここでは吉野川か)の
ほとりに佇み、波が幾重にも重なり合いながら流れているさまと、
自ら気持ちを重ねあわせる。
花咲く野をひねもす散策しながら、傍らの菅の地面深く張る根に、長い春日を想い、
終日の恋焦がれの歓びを詠う。

初恋のやるせなさと喜びが感じられる歌群です。

庶民の行事であった春菜摘みは次第に上流階級の人々の間に普及して儀礼化され
平安時代になると朝廷の行事となり、醍醐天皇延喜年間(901~914)には、
正月最初の子の日(のち七日)に天皇に若菜を奉る公式儀式に制定されます。

民間で羹(あつもの:汁物)として食べられていた若菜は、その後、
七種粥(ななくさがゆ)としてその心意が伝えられ、今もなお新春七日の行事として
脈々と受け継がれているのです。

  「 母許(ははがり)や 春七草の 籠下げて 」     星野 立子

                    (母がり:母のもとへ )




        万葉集614(春菜摘む乙女) 完


       次回の更新は1月13日の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-01-05 18:12 | 生活

万葉集その六百十三 ( 新年の歌: 酉 )

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。
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( 今年は鶏の年と声高に   尾長鶏  石上神宮  奈良 )
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(  色、姿とも美しく神鳥にふさわしい   同上 )
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(  この堂々たる風格   同上 )
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( 木にもいっぱい止まっています  同上 )
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(  矮鶏:チャボ  同上 )
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(  烏骨鶏 :うこっけい 卵は高級品  同上 )
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(  深大寺で  東京 )
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( 山の辺の道で  奈良 )
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(  千駄木で  東京 )
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( 酉の字は口の細い壺を表した象形文字 )
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「 昨日(きのふ)こそ 年は果てしか 春霞
      春日の山に 早や立ちにけり 」 
                          巻10-1843 作者未詳

( つい昨日、年は暮れたばかりだというのに。
 春日の山に春霞が早くも棚引きはじめたことよ。 )

「年が果て」1年が終わって、今日は新年。
ふと春日山をみると霞が棚引いている。
文字通り春山に春到来の二重の歓び。
「さぁ、気持ちも新たにして今年も頑張るぞ」と
気力みなぎる万葉人です。

「 今し いま年の来ると ひむがしの 
     八百(やほ)うづ潮に 茜(あかね)かがよふ 」    斎藤茂吉

新年到来と同時に海上を茜色に染めながら昇る太陽。
海も空も赤一色、荘厳かつ雄大な光景。

「 庭の面(も)を ゆきかふ鶏の しだり尾に
     ふれてはうごく 花すみれかな 」      落合直文

本年は酉(とり)年。
酉という字は酒を成熟させるための口の細い壺を表した
象形文字とされています。

何故、鶏と結び付けられたかは全く不明ですが、
酒が成熟して「壺から溢れんばかり」の豊穣と、鶏(とり)の「音」から
「とり込む」を連想させるので、家運隆盛、商売繁盛の目出度い年です。

年の瀬に各地で立てられる酉の市。
縁起物で飾られた賑やかな「熊手」は冬の風物詩。
中でも浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)は由緒あり、

   「 春を待つ ことのはじめや  酉の市 」  其角

などと詠まれています。

鶏は今から7000年前、東南アジアの赤色野鶏(セキショクヤケイ)が
家畜化されたもので、中國、朝鮮を経て我国に伝わりました。

我国文献での初出は古事記。
天の岩戸にこもられた太陽神、天照大神に洞窟から出てもらうため
「常世の長鳴鶏を集めて鳴かせ」とあり、鶏が祭祀ないし神事で
大きな役割を果たしたことを窺わせています。

良く響く声で時刻を正確に告げた鶏は、人に良く慣れた上、
卵を産むので家でも大切に飼われました。

「にわとり」とよばれるのは「庭で飼われた鶏」の意で、
古名「かけ」は鳴き声(カケコッコ-)によるもの。
また雄略天皇7年(462)に闘鶏の記録もみえます。

万葉集での鶏は16首、すべて鳴く鶏として詠われています。

「 遠妻と 手枕(たまくら)交(か)へて 寝たる夜は
      鶏がね な鳴き  明けば明けぬとも 」 
                          巻10-2021 作者未詳

( いつも遠くに離れている妻。
 やっと手枕を交わして一緒に寝ることが出来た。
 鶏よ! 朝が来たと そう鳴きたてるな。
 帰り支度する時間だが、えぇーい、かまうものか。
 お前! もう一度寝ようよ。 )

「鶏がね」: 雁がね と同じ使用法

「な鳴き」 鳴くな ( な:否定の命令形 「な○○そ」 と使われることが多い)

「明けば 明けぬとも 」: 夜が明ければ明けてしまおうと かまうものか。
                 通い婚の時代、男は夜になってから訪れ、
                 夜明け前に帰るのが習い。

「 寝遅れて 初鶏聞くや 拍子ぬけ 」 内藤鳴雪

酉年生まれの人は、
「 鋭い観察力、決断力、行動力、社交性があり、
さらに親切面倒見が良いので出世する人が多いとされていますが、
多才のため八方美人的に事に当たる傾向があり、移り気にご用心」

だそうです。

「 初鶏や 大仏前の 古き家 」  松瀬青々

           (元旦の朝に聞く鶏の声は特別に「初鶏」といわれ新年の季語 )


    万葉集613 (新年の歌: 酉) 完



    次回の更新は1月6日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-01-01 00:00 | 生活

万葉集その六百十一 (橘諸兄邸の宴)

( 橘諸兄 前賢故実:江戸~明治時代に刊行された伝記集 菊池容斉筆 )
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(  赤塚不二夫の万葉集  学研 )   画面をクリックすると拡大できます
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( あたしたちの古典 万葉集  学校図書 )
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( 橘の花  山の辺の道  奈良 )
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( 橘の小さな実  同上 )
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( 右近の橘  興福寺南円堂前  奈良 )
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( 春日大社若宮   奈良 )
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( 橘諸兄が愛した山吹  山辺の道 奈良 )
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天平の頃 左大臣 橘 諸兄(もろえ)は山城の国,井手の里、玉川のほとりに
山荘を営み、遣水した庭園を中心に山吹を植え、川の両岸を埋め尽くしたそうです。
740年、その見事さを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸されたことにより、
天下に喧伝され「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど
詠われるようになります。

それから12年後の752年、退位された聖武太上天皇は井手の橘諸兄宅へ
再び行幸され、肆宴(とよのあかり)を催されました。
肆宴とは天皇、上皇が催す酒宴のことですが、臣下の屋敷を訪問されて
一席を設けるというのは破格のこと。
長年の忠誠に対する労をねぎらわれたものと思われます。

出席者は上皇を入れて4人。
気心が知れた人ばかりの内々の酒席です。
時は12月中旬、まだ晩秋の気配が漂う時期。
美酒と松茸、桃、栗、梨、山海の珍味がふんだんに供され、
選りすぐりの美女が大勢侍(はべ)って座をとりもったことでしょう。
かた苦しい宮中では味わえない雰囲気、上機嫌の上皇はまず挨拶歌を
詠われます。

「 よそのみに 見ればありしを 今日(けふ)見ては
    年に忘れず 思ほえむかも 」  
                        巻19-4269 太上天皇(聖武)

( 外ながら見るだけであった以前ならともかく、今日こうして見たからには
 もう毎年忘れずに思いだされることであろうな )

12年前の行幸は山吹見物だけだったのでしょうか。
ようやく邸(やしき)を訪れることができたと詠われています。
続いて恐縮した橘諸兄のお迎えの歌。

「 葎(むぐら)延(は)ふ 賤(いや)しきやども 大君の
    座(ま)さむと知らば  玉敷かましを 」 
                                巻19-4270 橘諸兄

( 葎の生い茂るむさくるしい我家、こんなところに大君がお出ましいただけると
 存じておりましたら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに )

勿論、事前にお達しがあったでしょうが、謙遜しながらの感謝と歓迎の辞。

「 松陰の 清き浜辺(はまへ)に 玉敷かば
    君来まさむか  清き浜辺に 」 
                      巻19-4271 藤原八束

( このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に、玉を敷いてお待ちしたなら
 大君はまたお出まし下さるでしょうか。
 この清き浜辺に )

庭の砂、松の木、借景の川を海に見たて、松に待つの意を響かせ、
再度の行幸を願っています。
作者と諸兄は伯父、甥の関係。
家持とも親しい間柄です

「 天地に 足(た)らはし照りて 我が大君
     敷きませばかも 楽しき小里(をさと) 」 
                    巻19-4272 大伴家持

( 天地にあまねく照り輝いておられるわが大君。
その大君が国をお治めになっておられますゆえ、
この里も楽しくてしかたがない所でございます。)

橘邸周囲全体が楽しく、賑わっていると太上天皇の治世をたたえたもの。
もっともこの歌は予め用意したが披露されなかったとの注記があります。
席が盛り上がっている最中の結びの歌だけに、出しそびれたのかもしれません。

さて、聖武天皇の寵臣、橘諸兄とはどういう人物だったのでしょうか?

諸兄は敏達天皇の後裔で父は大宰府帥、美努王(みぬのおほきみ)、母は縣犬養三千代。
三千代は後に藤原不比等に嫁し、光明皇后を生む。
従って光明皇后は諸兄の異父妹という間柄。
元々は王族で、葛城王と称していましたが自ら臣籍降下を請い、
許されて母の姓、橘を名のりました。

737年天然痘の流行によって朝廷の中枢、藤原4兄弟が病死したことにより
一躍、右大臣に任じられて国政の中心になり、吉備真備、玄昉をブレーンとして
聖武天皇を終生補佐し続けます。

然しながら孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂の発言力が強大になり、
755年酒席で不敬の言ありと讒言され、756年、辞職を申し出て引退。
強力な支持者を失った大伴家は諸兄の政敵仲麻呂に疎まれ次第に衰退し、
遂に因幡、多賀城へ左遷されました。

この聖武太上天皇による宴の時期が、橘諸兄、大伴家持の絶頂期で
あったと言えましょう。

「 橘と 家持編(あ)みし よろづ葉の歌 」 筆者

特筆されることは、橘諸兄は万葉集1~2巻の編者とも推定され、
その後を家持に託したことです。
引き継がれた万葉集の編纂は、多くの人たちの超人的な努力、協力により、
遂に20巻4516首をもって完結します。
天皇から庶民、老若男女を網羅する歌集は世界でも類がなく、
我国文学界に燦然たる光を放ち、いまなお褪せることなく輝き続けているのです。

「 家橘(いえきつ)が 植えし万葉 年を経て
     日本(やまと)の大樹に なりにけるかも 」 筆者


        万葉集611 (橘諸兄邸の宴) 完



        次回の更新は12月23日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-12-16 05:57 | 生活

万葉集その六百十 (結婚 しまーす)

( 朝の神事   橿原神宮  奈良 )
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( 同上  巫女の舞が美しい  同上 )
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( 同上 )
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( 古式豊かな結婚式   春日大社  奈良 )
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(  住吉大社  大阪 )
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( 嫁入り船  潮来  茨城 )
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(  八坂神社  京都 )
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( 新郎新婦のお練り   鶴岡八幡宮  鎌倉 )
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( 同上 )
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( 笙の演奏とともに  同上 )
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(  同上 )
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(  花嫁切手 )
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昔々、飛鳥に都があった頃、上流階級とおぼしき一組の結婚式が行われました。
結婚後も男が妻の元に通う習慣の時代ですが、ともかくも親や周囲の人たちに
認知されれば堂々と出入りでき、噂を気にすることもなくなります。

喜び勇んで式に臨んだ新郎新婦。
場所は飛鳥、橘寺南東に位置する聖なるミハ山の麓です。
いよいよ式が始まり、まずは主賓の挨拶。
神に奉げる祝詞(のりと)のような調べで厳かに詠みあげられていきます。

先ずは超訳から。(原文訓み下しは末尾ご参考をご覧ください)

「 多くの神々が天降られて崇められている瑞穂の国の聖なるミハ山は、
 神代の昔から高天原にいます天つ神を祀るこの上もなく尊き山。

 春が来ると霞が立ち 秋になると紅葉が照り輝くさまは
 賑々しく栄えているわが国土を象徴しているようである。

 この聖なる山の周囲を取り巻くように
 明日香の川の清き流れが国を潤している。

 流れが早いので、苔が付きにくいにもかかわらず悠久の時が経過すると
 石に苔生し、鮮やかに映えている。

 神様、どうかこの二人が苔生すほど幾久しく
 来る夜も来る夜も幸せに仲睦まじく過ごせるようお取り計らい下さい。
 そして、そのことを夢にお示し下さい。
 そのために我々は精進潔斎して一心不乱にお祈りさせて戴きます。
 我らの神よ。 」             (巻13-3227 作者未詳)

山川を対比させて国土豊穣を神に感謝した後、苔むすほどに何時いつまでもと
最終部の本題に導く挨拶歌です。

続いては新郎の誓いの言葉。

「 神なびの みもろの山に 斎(いは)ふ杉
     思ひ過ぎめや 苔むすまでに 」 
                            巻13-3228 作者未詳

( 神が住むというミハ山。
      私は身を慎んで境内の御神木である杉を崇め奉っています。
      その杉ではありませんが、これから先、苔がむすほどに長い時が経とうとも
      私の愛情が消え失せるなどということは絶対にありません。 神に誓って! )

「みもろ」は「神が籠るところ」で、奈良県櫻井市ミハ山。
「思ひ過ぎ」:思いが過ぎる→愛情が消え失せるの意で「過ぎ」に「杉」を掛ける 

神、山、杉、苔と祝宴にふさわしい言葉が並び、
厳粛な式の様子が偲ばれる歌です。

続いて一同和して声高らかに詠います。

「 斎串(いぐし)立て 御瓶(みわ)据(す)ゑ奉(まつ)る 祝部(はふりへ)が
     うずの玉かげ  見ればともしも 」 
                                巻13-3229 作者未詳

( 玉串を立て 神酒の甕(かめ)を据えてお供えしている
     神主たちの 髪飾りのひかげのかずら。
     そのかずらを見ると まことにゆかしく思われます。)

「 斎串(いぐし)」
             神前に立てる聖なる串 串は木の枝や竹などで神を招き降ろすもの

「 御瓶(みわ)据(す)ゑ奉(まつ)る」

             酒甕をすえて供え祀る

「祝部(はふりへ)」    神主

「うずの玉かげ」
             うずは頭に挿して髪飾りにした木の枝や花
             玉かげは「ひかげのかずら」の美称

「見ればともしも」 
         ともし:ゆかしく心惹かれる

これにて式は無事終了。
あとは飲めや歌えやの祝宴。
万葉集でも珍しい祝婚の歌でした。

然しながら、このような仰々しい儀式は貴族など上流階級だけのもの。
では一般庶民はどうだったのでしょうか?
土屋正夫著「検証 万葉びとの暮し」(表現社)によると 

「 当時は母系母権の制で男はまず母親の許しを得る。
  許可が下りれば男は夜々女の家へ通って夫婦生活ができる。

  ところがその前に儀式が行われる。
  何と!
  男と女が睦み合っている現場を両親以下親戚一同踏みこみ、
  二人の仲を公にするというのです。
  これを「トコロアラワシ」と云うそうな。

  それから女の家の餅を食べさせる。
  これらの儀式は男を女の家の一人とみなす呪い(まじない)であって
  現今でいう世間への披露であり、固めの盃に相当するもの。

  このような状態になっても、男は普通、女の家には住まず、
  毎晩通ってきて、婿の世話は一切女の家でする。 」(要約)

何故同居しないのか?
それは、当時の女性は一家の重要な労働力。
男は防人などで何時徴集されるか分からないので、女性を簡単に外へ
出すことが出来なかったのです。

それにしても、お互い抱き合っている最中に親戚一同踏みこむとはねぇ。
いやはや驚きました。

 「 花嫁は こわく うれしく 恥ずかしく 」(江戸川柳 柳多留)



ご参考

冒頭、長歌(巻13-3227) 訳文の原文訓み下し。

「 葦原(あしはら)の 瑞穂の国に 
  手向けすと 天降(あも)りましけむ
  五百万(いほよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の
  神代より 言ひ継ぎ来(きた)る

  神(かむ)なびの  みもろの山は
  春されば  春霞立ち  
  秋行けば  紅にほふ

  神なびの  みもろの神の
  帯(お)ばせる 明日香の川の
  水脈(みを)早み  生(む)しためかたき
  石枕 苔むすまでに

  新夜(あらたよ)の  幸く通はむ
  事計(ことはか)り  夢(いめ)に見せこそ
  剣太刀 斎(いは)ひ祭れる
  神にしいませば  」         巻13-3227  作者未詳

一行づつの訓み下し。

「葦原(あしはら)の 瑞穂の国に」
 
    日本国の神話的呼称。

   (天つ神の統治によって五穀が豊かに稔る国の)

「手向けすと 天降(あも)りましけむ」

   ( 手向けするために 天降られた )

「五百万(いほよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の」

     ( たくさんの神々の )

  「神代より 言ひ継ぎ来(きた)る」

    ( 悠久の昔から 語り継がれてきた )

 「 神(かむ)なびの  みもろの山は」

    ( 神が降臨している御室(みむろ)の山 :明日香橘寺南東のミハ山)

 「春されば  春霞立ち 」

     (春になると 霞が立ち ) 

  「秋行けば  紅にほふ」

     ( 秋になると  紅葉が照り輝く )

  「神なびの  みもろの神の」

     ( 神々しい 御室の神が )

  「帯(お)ばせる 明日香の川の」

     ( 帯にしている 飛鳥川の :山を取り巻く様子を帯に喩えた)

  「水脈(みを)早み  生(む)しためかたき」

      ( 川の流れが早いので 苔がつきにくい )

  「石枕 苔むすまでに」

      ( ごろごろ並んでいる石に苔生すまで 末永く )

  「新夜(あらたよ)の  幸く通はむ」

      ( 毎日新たにめぐってくる夜を 幸せに通い続けられるような
        :当時は通い婚 )

  「事計(ことはか)り  夢(いめ)に見せこそ」

      ( 神様のお計らいを 夢に見せて下さい )

  「剣太刀 斎(いは)ひ祭れる」

      ( 神祭りの剣太刀を崇め祀るように 身を清めてお祭りしている)

 「 神にしいませば」

       (われらの 神でいらっしゃるからには)  」
    
                                巻13-3227  作者未詳


    万葉集610 (結婚しまーす) 完



       次回の更新は12月16日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-12-08 16:18 | 生活