カテゴリ:生活( 147 )

万葉集その六百六十一 (楽しみは)

( 大伴旅人の最大の楽しみは酒   奈良万葉列車 )
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( 梅の下で宴会   奈良万葉植物園レリーフ )
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( 屋内での宴       同上 )
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( 打毬、双六、 蹴鞠    奈良万葉文化館)
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( 貴族の歌会     同上   画面をクリックすると拡大できます )
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(  琴         同上)
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(  伎楽面で踊る   同上 )
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   万葉集その六百六十一 (楽しみは)
  
「 たのしみは 意(こころ)に かなふ  山水の
      あたりしずかに 見てありく時 」      橘 曙覧


江戸時代の歌人、橘 曙覧 (たちばな あけみ)は「独楽吟」という歌集を編み、
「たのしみは」で始まる52首の歌を残しました。
いずれも身近でささやかなことに生きる楽しみを感じているものばかりで、
上記の歌もそのうちの1首です。
曙覧は名誉栄達を望まず、生涯日々の小さな楽しみを重ねることにより、
心の平穏と大きな幸せを得たといえましょう。

万葉人が「楽しみ」を詠ったものは15首.
勿論、他に恋など楽しいことは多くあったでしょうが、本稿は「楽しみ」という
言葉を使われたものに限定してピックアップしてみました。

「 生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば
     この世にある間(ま)は 楽しくあらな 」 
                         巻3-349 大伴旅人

( 生ある者はいずれ死ぬもの。
せめてこの世にいる間は、楽しく過ごしたいものだ )

では何をもって楽しみとするか?
この歌は酒賛歌の中の1首で、酒好きな作者の人生の最大の楽しみは酒、
できることなら酒壺にでもなりたいと詠うほど徹底していました。
そして
「 この世にし 楽しくあらば 来む世には
        虫に鳥にも 我(わ)れはなりなむ 」 
                         巻3-348  大伴旅人

(  この世で酒を飲んで楽しく暮らせるなら、
来世は虫にでも鳥にでもなってしまってもかまわないよ。)

と詠うのです。


「 矢釣山(やつりやま) 木立も見えず 降りまがひ
     雪の騒(さわ)ける 朝(あした)楽しも 」 
                            巻3-262 柿本人麻呂

( 矢釣山の木立も見えないほどに粉々と降り乱れて
      雪のさわさわと降り積もるこの朝。
      何と楽しいことでしょうか。)

天武天皇の子、新田部皇子の何かの祝いの席で詠ったもの。
雪が降り積もると豊作、国が豊かになり幸先が良いものとされていました。
矢釣山は奈良県明日香村八釣の東北にある山。


「 かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる
      短き命を 長く欲(ほ)りする 」  
                        巻6-975 安倍広庭 

( こうして過ごすのが楽しいからこそ 人は短い命であるのに
 長かれと皆が願うのですね )

「あらくをよみぞ」: 「ありよしぞ」(有り好しぞ)の変形で 「楽しいからこそ」
「たまきはる」:    命の枕詞 たま(命)の極限までの意 

作者は中納言(大納言の補佐役) 
親しい人たちの宴席でのもの。  
歌の通り、当時としては長命74歳まで人生を楽しんだようです。

毎日毎日が楽しければ長生きしたくなりますね。

「たのしみは 心をおかぬ友どちと
            笑ひかたりて 腹をよるとき 」           橘 曙覧


       万葉集661 (楽しみは) 完


   次回の更新は11月10日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-30 10:58 | 生活

万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

( 正暦寺    奈良 )
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( 大仏池    同上 )
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( 大湯屋  二月堂参道の途中で  同上 )
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( 吉城園      同上 )
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( 談山神社    同上 )
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( 室生寺     同上 )
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( 長谷寺    同上 )
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( 奈良公園 浮御堂前   同上 )
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万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

秋の野山を美しく彩る「もみぢ」(黄葉:紅葉)。
それは、多くの草木の葉が紅や黄に変わることを意味する言葉であり、
特定の植物をさしているわけではありません。
古くは清音で「モミチ」とよばれ、その語源は秋が深まりゆくと共に、
木々の葉が揉(も)み出されるように染まってゆく、つまり「揉出(モミチ)」の
意とされております。

万葉集で「モミチ」は135余首も詠まれていますが、大半は「黄葉」や
「色づく」「もみつ」などと表記され「紅」「赤」の字が見られるのは
ごく僅かです。
その理由は大和付近の山々は雑木が多く楓類が少なかった、あるいは
黄も赤もすべて「黄」と表記したとも言われていますが定かではなく、
紅葉と表記されるようになったのは赤に対する憧れが強かった平安時代からです。

「 わが衣(ころも) 色どり染めむ   味酒(うまさけ)
     三室(みむろ)の山は  黄葉(もみち)しにけり 」
                      巻7-1094 柿本人麻呂歌集

( あぁ- 素晴らしい! 神様を祭る三輪山はすっかり黄葉しました。 
  私の着物も色とりどり鮮やかに染めたいものです。 )

味酒: 神酒(みわ)として神に供えることから三輪山(三室の山)に掛かる掛詞。
    三輪山(奈良)の神は「酒の神」ともいわれている。

紅葉狩には酒がつきもの。
738年11月中旬、秋も深まりゆく頃のことです。
右大臣、橘諸兄の御曹司、奈良麻呂(17~18歳)は日頃親しくしている女性二人を含む
友人達10名を招き、酒宴を催しました。

「 本日はお忙しい中 お集まりいただき有難うございます。
  色づいてきた山々を愛でながら歌を詠み、久しぶりに
  酒を酌み交わそうでは、ありませんか」と

まずは主人の歓迎の挨拶歌を披露します。

「 手折(たを)らずて 散りなば惜しと 我(あ)が思(も)ひし
    秋の黄葉(もみち)を  かざしつるかも 」 
                               巻8-1581 橘奈良麻呂

( 手折って賞(め)でる前に 散ってしまったら惜しいと私が思っていた黄葉。
 この黄葉をようやくこのようにして、かざすことが出来ました。 )

当時美しい木や花に強い生命力を備えた精霊が宿り、手折って頭や身に付けると
その力を受け継ぐことが出来ると信じられていました。
きらびやかな衣装に黄葉。
さぞ、美しく映えたことでしょう。

「 黄葉(もみちば)を 散らす時雨に濡れてきて
      君が黄葉を かざしつるかも 」 
                   巻8-1583  久米女王(くめのおほきみ)

( 黄葉を散らす時雨の雨に濡れながらやってまいりましたが
 その甲斐あってあなたさまが手折ってきて下さった美しいもみじを
 かざすことが出来ましたわ。)

作者は本日の主賓。
家系は未詳ですが「天智、天武天皇 いずれかの皇子の子孫」と推定され、
奈良麻呂がひそかに好意を抱いていたようです。

「 奈良山の 嶺の黄葉(もみじば) 取れば散る
       時雨の雨し  間なく降るらし 」
                     巻8-1585 犬養吉雄(よしお)

( 奈良山の嶺で手折ってきた黄葉を手に取ればはらはらと散ります。
 これは時雨の雨に濡れたからだが、山では今でも時雨が絶え間なく
 降っているらしい。) 

当時、時雨は黄葉を散らすものと考えられていました。
いずれ散り果ててしまう黄葉。
それなら目前の美しい姿を大いに楽しもうではありませんか。
と行く秋を惜しみ、いとしんでいます。
酒席は大いに盛り上がり、夜になりました。
月の光が木々を美しく照らしています。
やおら大伴家持の弟が立ち上がり、声高らかに詠います。

「 あしひきの 山の黄葉(もみちば) 今夜(こよひ)もか
      浮かび行(ゆ)くらむ 山川の瀬に 」 
                          巻8-1587 大伴書持(ふみもち)

( あしひきの山の黄葉、この黄葉の葉は今夜もはらはらと散って
 山あいの瀬の上を流れていることであろう )

昼間見た見事な奥山の黄葉が、はらはらと散り川に浮かび流れている
様子を想像しています。
一枚また一枚、表を見せ、裏を返しながら散り落ちた色とりどりの葉が
小舟のように流れてゆく。
月の光を浴びてきらきら光りながら静かに、滑るように。
風情があり、感性豊かな一首です。

「 黄葉(もみちば)の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
     遊ぶ今夜(こよひ)は 明けずもあらぬか 」 
                            巻8-1591 大伴家持

( 紅葉が散ってゆくのを惜しみながら 気の合うもの同士で飲む酒の美味さよ。
  実に楽しい夜だ。時よ止まれ!)

当時家持は21歳、最年長だったらしく、宴を楽しく盛り上げて
歌会を締めました。

主人を含め11名全員黄葉という言葉を入れて1首づつ。(主人は2首)
若い仲間同士の楽しい歌会。
古代貴族の雅な生活が彷彿される情景です。

    「 彼一語 我一語 秋深みかも 」   高濱虚子



        万葉集659(黄葉の宴 )完



       次回の更新は11月24日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-11-16 11:03 | 生活

万葉集その六百四十二 (祭と市)

( 飛騨高山祭 )
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(  同上 )
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( 同上 子供たちも楽しげ )
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( ねぶた祭  青森 )
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(  立佞武多 津軽 )
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(  古代庶民の祭 歌垣 奈良万葉文化館 )
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( 古代の市  陶器、焼き物  同上 )
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( 野菜売り   同上 )
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( 朝顔市  東京 入谷 )
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( ほおずき市  東京 浅草 )
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万葉集その六百四十二 (祭と市)

夏から秋にかけて全国各地は祭や市の季節到来です。
賀茂、祇園、ねぶた、立佞武多、飛騨高山、花笠、仙台七夕、郡上おどり、風の盆、
朝顔市、ほおずき市、風鈴市、草市等々、数え上げればきりがありません。

夏祭がこの時期に多いのは災害や疫病が多く発生し、それを祓おうとする
ところから起きたとされていますが、神輿や山車、祭り太鼓といった賑やかで
勇壮なものが多く、想像するだけでも浮き立つような気分になってまいります。

「祭る」は「祀る」「奉る」とも書かれるように神を崇め安置して
儀式を行うことをいいますが、中西進氏はその語源について非常に
ユニークな見解をされているので一部引用させて戴きます。

『  神は人間にとって怖く恐ろしい存在ですが、それゆえにその畏怖すべき
   力を借りたい場合もあります。
   その時に出てきてもらわなければならない。
   一所懸命に笛を吹いたり、囃したりして、さぁ来てください、
   さぁ来てくださいといって、神を待つ。
   つまり「まつる」とはそういうふうに神を待つ「まつ」に「る」が付いた言葉で、
   「まつり」とは「まつる」の名詞形です。
      (中略)
   神様は、それぞれに支配のおよぶ範囲が決まっていて、その圏内を
   ほうぼう旅して回ります。
   祭礼の時、社を出た神輿が仮に鎮座する場所を御旅所(おたびしょ)といいますが、
   これは神様が立ち寄るところであると同時に、そのテリトリーを示すものでも
   あります。
   神様は「おまつり」されることで、そこへ降りて人々に恩恵を与えるのです。 』

           (  「 日本語のふしぎ 」 小学館所収 )

なるほど、なるほど、お祭りとは神様が来ていただけるように、踊りや
神楽で囃しながらお迎えする、天の岩戸の天照大神以来の伝統であったのだ。

古代の人達にとって神とは太陽や月、海山や川、風や雷など
命の糧や安全にかかわる自然神や各地の地霊神でした。
人々は身近なところにある山々や海川の近くに社を作って祀り、
旅する人は自国と他国の境界を異境と感じ、その地の社や道祖神に
幣を手向けて道中の安全を祈ったのです。
幣とは白い布や紙を榊などの神木の枝に付けたもので、今でも
その名残をとどめています。

 「 国々の 社の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り 
                 あがこひすなむ 妹が愛(かな)しさ 」

       巻20-4391  結城郡 忍海部五百麻呂( おしぬみべのいほまろ)

( あちらこちらの社の神様に幣を祀って無事を
  祈ってくれているだろうあの子。
  おれに恋焦がれて、なんともいじらしいことよ。)

作者は結城国(茨城)出身の防人。
故郷を離れ集合地の難波に向かう途中で詠ったものです。

徒歩、野宿の長い長い旅。
山々を越えながら思い出すのは可愛い妻。
泣く泣く別れたあの日の朝。
「今ごろは、あちらこちらの社で旅の安全を祈ってくれているだろう。」と、
故郷の方角を振り返り、振り返りしながら歩いてゆく若者です。

万葉時代の祭は、新年の宴、若菜摘、曲水の宴、花見、端午の節句、
薬狩り、七夕、初穂の祭り(新嘗祭)、紅葉狩など宮廷行事に多く見られ、
次の歌は新嘗祭の寿ぎ歌です。

「 天地と 久しきまでに 万代(よろづよ)に
    仕へ奉らむ 黒酒(くろき)白酒(しろき)を 」 
                巻19-4275  文室智努真人( ふみやの ちのの まひと)

( 天地と共に遠い遠い先々まで、万代にわたってお仕えいたしましょう。
      このめでたい黒酒や白酒を奉げて。)


752年11月25日 孝謙女帝のもとで新穀を神に供える儀式、新嘗祭が
催されたのちの宴でのもの。
新米で作られた酒は、クサギという木の灰を加えたものが黒酒、
加えないものを白酒といい(延喜式)、新嘗の酒を捧げ、治世の長久を賀した一首です。

  「 雑踏の 中に草市 立つらしき 」  高濱虚子

          草市: 盆の時期に供え物の蓮の葉などの植物や食物、用具を売る市

市の歴史は古く西暦280年頃に立った軽の市(奈良県橿原市)が
我が国最古のものとされています。
当時の市は露天であったので、木陰を確保するために色々な樹木を植え、
海石榴市(つばいち:椿)、桑市(桑)、餌香市(えがいち:橘)、軽市(槻:けやき)
などと呼ばれました。

平城京の時代になると物資の交換の場として東西の官営市が設けられましたが、
掘割などの水運をともなう大規模なもので、東市は51店舗、西市は33店舗あり、
取扱い品は各地から運ばれた衣食住に関連するもののほか武器なども扱っていたとか。

朝廷が官営の市を運営したのは、全国各地から税として納められる物産や
現物支給の役人の給与を金銭や必要な物資に交換するためです。

一方、海石榴市、軽の市、阿倍の市(駿河)など市井のものは自由な雰囲気で、
時には歌垣なども行われており、男女の出会いの場となっていました。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に  逢える子や誰(た)れ 」
                                巻12-3101 作者未詳
( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
      海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
      あなたは何処のどなたですか?
      お名前を教えてくれませんか?)

            八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

  紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
 この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて、“混わる”すなわち結婚の
 誘いかけをしています。
 当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を男に告げることは
 求婚の承諾につながりました。
 さて女性はどのように返事をしたのでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                        巻12-3102 作者未詳

    ( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか分らない
      行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るものでしょうか?)

海石榴市は歌垣が行われるところとしても有名で、性の解放も行われていました。
男にとってラブハントは当然の事と声をかけたところ
女性は「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断ったのです。

なかなかしっかりした女性ですなぁ。

 「 西の市に ただ一人出(い)でて 目並べず 
        買ひてし絹の 商(あき)じこりかも 」 
                      巻7-1264 作者未詳 

 ( 西の市にただ一人出かけ、自分の目だけで判断して買ってきた絹は
  とんでもない品だったよ。
  あぁ安物買いの銭失いだ。)

官営市は厳格な管理がなされていましたが、それでも盗品や偽物を持ち込む
怪しからぬ輩もいたらしく、騙されて悔しがっている男です。


  (目並べず) 自分だけの判断で他のものと比較もせず  
  (商じこり) 商いの仕損じ

 「 朝顔の 模様の法被(はっぴ)  市の者」  高濱年尾

朝顔は奈良時代に中国から渡来して、「牽牛花(けんぎゅうか)」とよばれ、
七夕伝説の彦星に擬されていました。
それに因んだのは東京入谷の鬼子母神で開かれる朝顔まつり。(7月6,7,8日)
早朝5時から色とりどりの朝顔が売られ、浴衣姿の人々で賑わいます。

「 みくじ手に 鬼灯市(ほおずきいち)を 覗きけり 」    阿久津 渓音子

こちらは、ほぼ同じ日に浅草寺の縁日に立つ酸漿(鬼灯)市(ほおずきいち)
この日にお参りすると1日で4万6千日分のご利益があるといいます。

どちらもお江戸の伝統の市。
万葉時代から続く市は形を変え、いまだに健在です。

「 鬼灯市 夕風のたつ ところかな 」 岸田 稚魚

        暑かった一日にも夕風が吹きわたってきた。
        店先に吊るされた風鈴の涼しげな響きの心地よさ。



          万葉集641(祭と市)完

          次回の更新は 7月28日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-07-20 17:07 | 生活

万葉集その六百四十 ( 七夕・相撲・ナデシコ)

( 護国神社の七夕  仙台 )
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( 優雅な仙台七夕 )
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( 同上 )
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( 平塚七夕 )
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(  同上 )
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( 笹に願いを  同上 )
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( 相撲  国立歴史民俗博物館  佐倉市 )
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( 大相撲凧  海外向け観光案内所  東京京橋)
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( カワラナデシコ  古くは七夕の花とされ生花の源流となった )
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( 庄司信州作  撫子  万葉の茶花 講談社より )
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万葉集その六百四十 (七夕・相撲・なでしこ)

今回は何やら三題噺めいたお題ですが、それぞれ密接な関係があり、
すべて日本文化の源流をなしているというお話です。

まずは「七夕」。
何故この漢字を「たなばた」と訓むのでしょうか?

遥か遠い古の時代、我国では夏秋の行き会いの時期に遠来のまれびとである神を
迎えるために水辺に棚を掛けて乙女が機織りする風習があり、
精進潔斎して待ち受ける聖女を「棚(たな)機(ばた)女(つめ)」(たなばたつめ)と
よんでいました。

一方、中国では7月7日の夜、織姫星が天の川を渡って牽牛星に逢うという
空想豊かな恋物語があり、遣唐使(山上憶良?)が帰国後伝えたところ、
このロマンティクな伝説は、たちまち人々の心をとらえ、かつ魅了しました。

物語のヒロインは片や織姫、こなたは「たなばたつめ」。
二人共、織物にかかわる女性とはなんという偶然の一致。
そこで、万葉人は中国で「七夕」と表記されていた漢字に
「たなばた」という訓みを当てたのです。

次は相撲。
734年、聖武天皇の時代、7月7日に相撲を奉納し、その夕方、文人に
七夕の歌を詠ませる行事が定着していました。
相撲と七夕の節会を同じ日に行ない、五穀豊穣、国土繁栄を祈ったのです。

天覧相撲の起源は4世紀前半(推定)、垂仁天皇ご臨席の下で
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力と技を競ったのが
始まりとされ(日本書紀)、以降、宮中で行われた相撲節会(すまいせちえ)は
源平争乱で廃絶になる1174年まで続けられました。
( ただし824年、平城天皇が7月7日に崩御されたため以後7月下旬に変更)
今日の天覧相撲もこのような長い歴史を踏まえたものでありましょう。

万葉集には「相撲をとる歌」はありませんが相撲使の役人が諸国から
力士を選別して都に上る途中18歳の若い従者大伴熊凝(くまごり)が急病で
亡くなり、それを悼んで本人になり代わって詠った歌が伝えられています。
長い説明文の序と6首の歌があり、相撲史を知る上での貴重な記録です。

「 出(い)でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日(けふ)今日と
     我(あ)を 待たすらむ 父母らはも 」  
                                巻5-890 山上憶良

( 私が出発した日を、もう何日経ったかと数えながら今日こそはと私の帰りを
  待っておられるであろう父母よ-- あぁ・・・)

最後に生花。
我国の7月7日の七夕節会の記録は持統天皇の691年が最も古いとされており
公卿以下に宴を賜り、朝服を下される宮廷儀礼でした。

平安時代になると「花合わせ」といわれる「ナデシコ(撫子)」の花の
優劣を競い合う行事も七夕の日に行われるようになり、
櫻井満氏によると
『 この「ナデシコ合わせ」が後に「秋の七草合わせになり」五節会に
結びついてハレの花になり、生花への道に進むことになった。』のだそうです。
                    ( 節会の古典要約 雄山閣) 
        筆者注: 五節会 
                 1月1日(正月)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、
                 7月7日(七夕)、9月9日(重陽)

何故ナデシコなのか定かではありませんが。その可憐で美しく凛とした姿が
織姫を想像させ「七夕の花」として特別視されたのでしょうか。
日本が誇るべき生花文化の源流は七夕節会にありと考えられているのです。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし 
     君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                           巻8-1518 山上憶良

( 天の川、この川に向かい立って 私が恋焦がれているあの方がこちらの方へ
 いよいよお出でになるらしい。
 さぁさぁ、私も衣の紐を解いてお待ちいたしましょう。)

724年、作者が東宮(のちの聖武天皇)に命じられ詠った12首のうちの一.
教育掛(侍講)として唐の文化の説明も交えながら織姫の立場で詠ったものと
思われます。

憶良の歌は天空の世界の物語ではなく、人間界の現実のものとして詠っており
後の人々に多大な影響を与えました。
人々は自身が牽牛、織姫の立場になって思いのたけを詠う。
七夕はいわば愛を告白する日、共寝する日だったのです。
だからこそ135首もの多くの歌が詠われたのでしょう。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                            巻10-2029  柿本人麻呂歌集

( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

人麻呂歌集には38首の七夕歌があり、憶良にはじまった現世表現様式を
確立させた感があります。
作者が銀河を眺めながら織姫、牽牛の逢瀬を想像し、
「俺もそろそろ行かなくては」と呟いているのかもしれません。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                         巻10-2031  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7日の1夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに
 夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく二人は逢うことが出来たが、時はあっという間に過ぎて行く。
1年に1度の逢瀬は、この上もない幸せ。
だが、のちに長い長い苦しみが待っている。
あぁ、時は止まらないのか。

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                      巻10-2050 作者未詳

( 私たちの寝床を払い清めたとしても、明日からあなたと共寝することができずに 
ただ、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。)

七夕、相撲、撫子。
日本文化の源流には山上憶良がすべてかかわっています。
秋の七草の歌を初めて詠んだのも憶良でした。

 「 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
      かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 」 
                          巻8-1537 山上憶良

 「 萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花
     おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花 」 
                             巻8-1538  山上憶良

ナデシコが七夕の花とされたのは、この歌とかかわりがあった
からなのでしょうか。

   「 木曽山に 流れ入りけり 天の川 」 一茶

貴族の行事であった「七夕節会」は、さらに中国古来の行事である、
「乞巧奠(きこうでん)」(女子が機織り等の手芸巧みになる事を祈る行事)と
結び付けられ、機織、裁縫、手芸、歌道、書道の上達を祈る行事として
定着してゆきました。
そして、次第に拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事に変わってゆき、
江戸時代、庶民の間にも手習いが広まると、色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり現在に至っています。

七夕行事は夏の7月7日に行う地方も多いですが、本来は陰暦7月7日。
初秋の行事です。
太陽暦の7月7日より約1ヵ月後のこの時期になると、夜空が澄みはじめ
星もさやかに見えるのです。

           「 荒海や 佐渡に橫たふ 天の川 」  芭蕉




万葉集640 (七夕・相撲・ナデシコ) 完


次回の更新は 7月14日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-07-06 17:26 | 生活

万葉集その六百三十六 (田植は神事)

( 春日大社本殿から御田植神事の会場へ   奈良 )
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( 巫女が勢ぞろいする中神主がゆっくり歩む  同上 )
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( 笛と打ちものの楽奏に合わせて舞を奉納   同上 )
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( 巫女の舞   同上 )
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( 春日山からの湧水に向かって祈る  同上 )
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(  苗やり  同上 )
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(  御田植祭のイラスト  月刊 ならら )
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(  住吉大社の御田植祭  大阪 )
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(  大神神社:おおみわじんじゃ の御田植祭  奈良 )
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(  菅原天満宮の御田植祭    奈良  )
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( 田植が終わったあと  安達太良山麓 )
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万葉集その六百三十六 (田植は神事) 

日本列島の田植は3月末頃から始まり、6月中旬まで続きます。
沖縄、九州は同じ畑で年2回栽培、収穫する2期作や、麦、小麦など2種類の
作物を収穫する2毛作を行うところがある関係で早い時期から始まり、
中には8月まで続くところもあるようです。

北海道、東北は5月、関東は6月が多いようですが、必ずしも南から北へと
順次移るわけではなく、気温や品種により各地域毎にその都度判断されており、
ばらつきがあります。

古代の田植は、先ず田の神を迎えて豊作を祈願する儀式を行うのが習いでした。
早乙女(田植する女性)が巫女になり、屋根の上に菖蒲や蓬(よもぎ)を葺(ふ)いて
邪気を払い、家の中には香り高い草を積んでその上に座り、
一夜お籠りをして身を清める。
やがて夜が明けると、乙女たちは早々と紺の着物に紺の手甲脚絆、菅笠に
赤いたすきという出で立ちで田植に向かったのです。

「 青柳の 枝(えだ)伐(き)り下ろし 齊種(ゆたね)蒔き
   ゆゆしき君に 恋ひわたるかも 」  
                           巻15-3603 作者未詳

( そろそろ田植の時期です。
  青柳の枝を伐り取って田に挿し、ゆ種を蒔いて神様に豊作をお祈りいたします。
  そのような神様のように恐れ多く、近づきがたい身分違いのあなた様に
  恋をしてしまって- - 、毎日々々焦がれ続けている私。 )

奈良時代の水稲耕作は、直接籾種を蒔く直播式から苗代で育てた苗を移植する田植式へ
移行する過渡期にあたり、二通りの方法が行われていました。

「ゆ種」とは「神が宿る神聖な種籾」という意味で、ここでは直播式と思われ、
苗代の中央や水口(田の水の取り入れ口)に生命力の強い青柳やツツジの枝を挿して
苗の順調な発育を祈ります。

この風習は現在でも続けられており、ウツギの枝、地竹の細いものなども
用いられているそうです。

「 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに
     国別れして 我(あ)れは  いかにせむ 」 
                    巻15-3746  狭野弟上娘子(さの おとかみの をとめ)

( 世間の人はみな二人一緒に田植をなさるというのに
 新婚早々、あなたは別の国へ旅立ってしまわれたのですね。
 別居することになってしまった今、私はこれから一体どのようにして
 生きて行けばよいのでしょうか。 )

当時の官人は、都で暮しつつ農耕の状況に応じて郊外にある庄(たどころ)で
農作に従事していました。
農繁期の5月、8月には田仮(でんけ)という15日の休暇が与えられ
夫は妻の労働を助ける習慣がありましたが、作者の夫、中臣宅守は新婚早々、
罪を得て配流の身になってしまったのです。(740年)、

罪は何によるものかは定かではなく、一説に政争に巻き込まれた讒言によるもの
ともいわれていますが、二人の悲しみは如何ばかりであったことでしょう。

本来なら一緒に田植え作業が出来たはずなのに!
一人寂しく作業を営むにつけても別離の悲しみが込みあげてくる新妻。

なお、ここでの田植は苗代で育てた苗を移植したようです。

「 我妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植えし田を
     刈りて収めむ 倉無(くらなし)の浜 」
                         巻9-1710  伝 柿本人麻呂

( 可愛いあの子が 赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに
 その収穫を刈りとって収めようにも 収めきれる倉がないという
 この倉無の浜よ )

「倉無の浜」という珍しい地名に興を覚えての歌。
収めようにも収めきれる倉がないの意で、それほど稲の豊かに稔る地だと
機知を込めた、土地褒めの通過儀礼。
古代、異郷を旅する時、その土地の神様に敬意を表して祟(たた)りなきよう
歌を奉納して祈ったのです。

人麻呂は九州まで旅をしたのでしょうか。
「万葉集地名歌総覧」(樋口和也著 近代文芸社)によると

「 倉無の浜は大分県中津市竜王町の浜。
  現在、闇無浜(くらなしのはま)神社とよばれる社ある」 そうです。

   「 雨乞に 曇る国司の なみだ哉 」   蕪村

古代、水不足による旱魃は人々の生死に関わる重大事であり、
雨乞いは国司(国守)の大切な仕事の一つとされていました。

749年越中の国で6月(陰暦)下旬から1ヶ月近く雨が降らず
秋の収穫が心配されはじめます。
7月もまもなく終わろうとする頃、空の彼方に雨雲の気配が見られたので
国守、大伴家持は雨乞いの歌を詠って天に祈りました。

「 -  雨降らず 日の重なれば 
  植ゑし田も 蒔きし畑も 
  朝ごとに凋(しぼ)み 枯れゆく 
  そを見れば 心を痛み 
  みどり子の 乳乞ふごとく 
  天つ水  仰(あふ)ぎてぞ 待つ - 
  との曇りあひて 雨も賜はね 」 
                      巻18-4122 大伴家持 (長歌の一部)

「との曇りあひて」: 四方から雲が広がって一面の曇り空になる
          との:一面に
(訳文)

( 雨が降らない日が重なり、
 苗を植えた田も、種を蒔いた畑も
 朝ごとに萎んで枯れてゆく。
 それを見ると、心が痛んで
 幼子が乳を求めるように
 天を振り仰いで恵みの雨を待っている。- -
 どうか一面にかき曇って 雨をお与え下さい )

幸運にも祈祷三日後、家持は雨に恵まれ面目を果たしました。
祈祷には天文学や気象学の知識も必要とされ、国守の仕事も楽ではありません。

もし雨が降らなければ、この人は神に見放されたのだと、部下や領民から
冷たい眼で見られるだけに、必死の思いだったことと思われます。

 「早乙女の 重なり下りし 植田かな」     高濱虚子

田植や雨乞いにかかわる神事は現在もなお各地で継承され、神社の
重要な祭事となっています。
中でも春日大社(奈良)の田植神事は、田の中ではなく、神社の境内の一角で
宮司や巫女たちが笛や打ちものに合わせて舞を奉納する優雅な催しです。

「 早乙女に 早苗さみどり やさしけれ 」    池内友次郎



           万葉集636(田植は神事)完

           次回の更新は6月16日(金)の予定です
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by uqrx74fd | 2017-06-08 16:26 | 生活

万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

( 長谷寺本坊大玄関   奈良 )
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( 白牡丹   長谷寺 )
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( 赤牡丹   同上 )
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( 黄牡丹   同上 )
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( 緋牡丹   同上 )
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( 美しき新緑  同上 )
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( 本堂から  同上 )
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( 五重塔遠景   同上 )
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( 本堂遠景    同上 )
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( 日本一美しいといわれる登廊  同上 )
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( 仁王門:山門   同上 )
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万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

昔々ある日、皇族の子弟達が泊瀬(はつせ)に集まり宴会を催しました。
場所は都人憧れの地、長谷寺(奈良)近辺。
山々に囲まれ、清流が爽やかな音を響かせている風光明媚な川べりで、
獲れたての鮎や新鮮な山菜を肴に、飲めや歌えやの賑やかな宴。
久しぶりの親しい仲間同士の酒席なので話も大いに弾みます。
「あぁ、酒も肴も美味い!」

席も盛り上がってきた頃合いを見計らって、侍(はべ)っていた一人が立ち上がり
「さぁ、さぁ、余興ですよ」と弓削皇子(天智天皇の子)に歌を1首
献上しました。

皇子が恋に悩んでいるという設定です

「 神(かむ)なびの 神依(よ)せ板に する杉の
     思ひも過ぎず 恋の繁きに 」 
                       巻9-1773 柿本人麻呂歌集

 ( 神なびの 神依せの板に用いる杉。
  その「すぎ」の名のように、私は貴女と何としても結ばれたいという想いを
  断ち切る(過ぎる)ことが出来ないのです。
  あぁ、この恋の苦しみよ )

神が宿るとされる「杉(すぎ)」と「思い過(すぎ)る」とを掛けた言葉遊び。

「(思ひ)過ぎる」は即ち「忘れる」、「諦める」。
「二人の間に越えることが出来ない障害があり、あれこれ思い悩んでいます」
と詠っています。

「神なび」: 神の辺(べ)で神のこもるところ、ここでは神聖な三輪山か。
「神よせ板」:神の降臨を仰ぐために叩いて音を立てる板。

それを受けて別の陪席人が舎人皇子(とねりみこ:天武天皇の皇子)に
2首奉ります。
1首目は女性の返事、2首目は恋の結末。
弓削皇子が悩んでいる様子を見て、愛する女が返事を返す。
そしてその結果は? という寸劇風に仕立てあげたのです。

「 たらちねの 母の命(みこと)の 言(こと)にあらば
    年の緒(を)長く  頼め過ぎむや 」 
                          巻9-1774 柿本人麻呂歌集

( 「恋の成就を妨げている」というあなたのお言葉が、
  もし、私のお母様ことであったなら、そのまま何年もずるずると
  結婚を当てにさせたまま放っておくことなどありえましょうか。
  決してそのようなことはいたしません )

「 愛しているのは私も同じ。
二人の仲を隔てているのは母親の反対。
でも、許しさえ得られれば、すぐにでも結婚出来ましょう。
私が必ず母親を説得致してみせます 」 と

固く誓う清純な乙女。

「母の命(みこと)」: 子の結婚に強い発言力を持つ母親を恐れ
畏(かしこ)んで敬称「命(みこと)」をつけたもの

「言にあれば」: 母の許しさえ得られたならば
「頼め過ぎむや」: 気を持たせたままにしておく

そして、懸命の説得が功を奏して、二人の仲がめでたく認められ、
男が喜び勇んで女性の許に通って行きます。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                      巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、愛しい人の家に近づいてきた
  あぁ、ついに、彼女に逢えるのか。 )


「 かな門(と)」: 道の曲がり角に面している戸口
           「かな」は曲がっているさま。
           扉や柱を金具で止めたり飾ったりしている立派な門。
           女性が上流階級であることを暗示。

この歌について伊藤博氏は次のように解説されています。(万葉集釋注5)

『 人麻呂の歌に多い、訳文を与えることを強く拒否するような歌である。
  一夕の感動は、本文を何度も朗誦して味わうにしくはない。
  そして、一首を孤立して味わっても、男の心の高鳴りは
  充分聞こえて来るけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、
  なおさら光彩を放つことが知られよう。
  「家のかな門に近づけり」― その向こうに何があるか。
  すべて万人の理解のうちにある。
  歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。』

この歌が評価されているのは、宴会での即興歌にもかかわらず二人の作者が
ピタリと息を合わせて物語風に仕立てたこと。
1首目で何故悩んでいるのかと周囲に疑問をもたせ、2首目で相思相愛であること
母親の反対が障害となっていること、そして、3首目で
めでたし、めでたしと結ぶ。
特に、結末に余韻を持たせて読者の想像の世界に誘ったことなどでしょうか。

さらに深読みすれば、最初に歌を奉られた弓削皇子は天武系全盛のにあって
唯一の天智系で壬申の乱で敗れた側。
何かにつけて肩身が狭い思いをしていました。

それを承知している心優しい天武系の皇子たちは
「やがて貴方もきっと日の目を見る時が参りますよ」と励まし、
思いやったようにも感じます。

  「 此の寺の ぼたんや 旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)

五月の長谷寺は全山牡丹で埋め尽くされています。
山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右に約7千株を越すと云われる色とりどりの牡丹が真っ盛り。
赤、黄、ピンク、紫、白、この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は
もと薬草園だったらしく、移植されたのは元禄時代からと伝えられています。

余談ながら長谷寺の参道に沿って民家の裏側に流れているのが初瀬川。
今は川幅が狭く見栄えしませんが、昔は滔々と流れる大川であったようです。

人々は川床で洗濯物や野菜を洗い、上流に堰(せき)を作って清流を
生活用水として引き込み、田畑を潤しました。
初瀬川は人々の生活にとって不可欠な存在だったのです。

その川は山々の間の長い谷を縫って流れていたので、やがて
「長谷川」という名前が生まれ、次第に人の苗字になって
全国に広がっていたそうな。

生活に不可欠な水の恵みに対する感謝の念から生まれた「長谷川」。
その苗字のルーツは「泊瀬川にあり」です。

「 凛として 牡丹動かず 真昼中 」 正岡子規



万葉集633 (泊瀬の皇子たち) 完

次回の更新は5月26日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-05-18 18:15 | 生活

万葉集その六百三十 (曲水の宴)

( 城南宮 平安時代 都の守護神 曲水の宴が今でも開催されている 京都伏見区 )
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( 曲水の宴  城南宮 )
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( 同上 )
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( 曲水の宴図  吉田元陳作  城南宮収蔵 )
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(  羽觴:うしょう 鴛鴦の形をした酒杯の受皿  作歌が終わった人が取り上げ盃を戴く) 
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( 曲水の宴図  京都御所 )
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(  東院庭園  平城宮跡隣り  奈良 )
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( 同上 )
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( 桃と鯉のぼり  万葉ゆかりの古河 茨城県 )
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(  桃の花  同上 )
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万葉集その六百三十 (曲水の宴)

「曲水の宴」とは宮中で催された中国伝来の行事で、庭園の曲がりくねった小川の両側に
貴族たちが座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を通り過ぎないうちに
詩歌を詠んだのち、おもむろに酒杯を取り上げて飲むという優雅な宴です。

時期は旧暦の3月初旬、現在の4月の中頃でしょうか。
桜や桃、椿の花が咲く華やかな季節です。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(しめ)し あしひきの
      峰の上の桜 かく咲きにけり 」 
                       巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜はこんなに見事に咲きました。)

「 奥山の 八つ峰(を)の椿 つばらかに
    今日(けふ)は暮さね ますらをの伴(とも) 」 
                          巻19-4152 大伴家持

( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、
 その名のように、つばらかに心ゆくまで
 今日1日、ゆっくりお過ごしください。
 お集まりの ますらおの皆様たち。)

      「つばらかに」: ゆったりとした気持ちで

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
      今日(けふ)ぞ 我が背子  花かづらせな 」 
                            巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、
 楽しく遊ぼうではありませんか )

   「花蘰」: 花で編んだ髪飾り

古代中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)といい
格別な吉日とされて曲水の宴が行われていました。
この行事が後に、3月3日に固定されて我国に伝えられたと云われています。

我国文献での記録は古く、日本書記 顕宗(けんぞう)天皇元年(485)
「 3月の上巳に後苑にて曲水の宴をきこしめす 」とあります。

ただ、家持が詠った3首の歌は、いわゆる正式な曲水の宴ではなく、
越中国守の館で山桜、椿を眺めながら官吏と共にした宴会でのもの。
というのは、曲水の宴を催すには広大かつ凝った造りの庭園が必要なので、
場所は宮中か大貴族の庭園にかぎられ、一介の地方国守ではなしえない
行事だったからです。

風流貴族の家持は3月3日に歌を詠むという習慣だけを採りいれたようですが、
他に例がなく、上記3首は和歌史上初の記念すべき歌群とされています。

また、747年、大伴家持の歌友、大伴池主も同じく「晩春3日遊覧」と題する
漢詩を作り3月3日の佳き日に、桃の花の紅と柳の緑が美しいことと、
水辺に出て酒を酌み交わす光景を述べています。

以下は訳文です。(漢詩は省略)

「 春の終わりの佳き日は 賞美するによく
  3月3日のさわやかな風景は、遊覧するに値する。
  川に沿って柳の道が続き、人々の色とりどりの晴れ着が美しい。
  桃咲く里は流れが海に通じており、仙人が舟を浮かべている。

  雲雷模様の酒樽で香り高い佳酒を酌めば
  澄酒がなみなみと湛えられ、
  鳥形の盃は人々に詩詠をうながして,幾曲りもしている水に流れる。

  私はほしいままに気持ち良く酔い 陶然としてすべてを忘れ、
  酩酊してところ構わず 座り込むばかりである。」
    
さて、宮中で行われた曲水の宴の歌は、我国最初の漢詩集「懐風藻」に
3編残されており、下記はそのうちの1つです。

三月三日 曲水の宴 

「 錦巌(きんがん) 飛瀑(ひばく)激し
  春岫(しゆんしゅう) 曄桃(えふとう)開く
  流水の急なるを 憚(はばか)らず
  ただ盞(さん)の 遅く来ることを 恨む 」   山田 三方 懐風藻より

                    (春)岫(しゅう) :(春の)峰 
                    曄桃(えふとう): 輝き照っている桃
                    盞(さん):盃

( 錦の彩りをした巌から 滝が激しく流れ落ち
  春にかすむ峰には  桃があでやかに咲いている
  曲水の流れの急なことは 別にいとわないが
  盃の廻ってくるのが 遅いのが残念だ )

我国では民間で古くから流し雛といって木片などで作った人形(ひとがた)に
穢れや災いを託して水辺に流すという禊ぎの風習があり、のち宮中で
6月,12月の末、大祓(おおはらえ)といわれる大規模な行事になります。

このような下地があったので、酒杯を川に浮かべて流すという行事が
中国からもたらされてもごく自然に我国でも受け入れられたのでしょう。

現在、平城京宮跡の近くに当時の庭園(東院庭園)が再現されています。
春日山、御蓋山を借景にし、古代王侯貴族の優雅な生活を彷彿させるような
たたずまいです。
また、京都の城南宮、上賀茂神社、福岡の太宰府天満宮でも毎年、
古式豊かな曲水の宴が催されており、多くの観光客を楽しませてくれています。

※ 京都城南宮の曲水の宴 4月29日、11月3日 年2回開催

  「 曲水の 流れゆるやか 花筏 」       川戸狐舟


            万葉集630 (曲水の宴) 完



           次回の更新は5月5日(金) の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-04-27 15:18 | 生活

万葉集その六百二十六 (剣太刀)

( 藤の木古墳出土 飾り太刀復元品 橿原考古学研究所  奈良 )
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( 佩刀する聖徳太子  平等寺  山の辺の道 奈良 )
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( 柿本人麻呂 阿騎野 奈良宇陀かぎろひの丘 )
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( 古代の太刀  国立博物館  上野 )
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( 稲荷山古墳 金錯銘鉄剣 )
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( アイヌ太刀  国立博物館  上野 )
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( 万葉の春   上村松篁  )
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我国の刀剣の歴史は古く、古墳時代以前、青銅剣のみならず鉄製の刀剣類の
生産が始まっていたことが多くの出土品で確認されています。

古事記に登場する3種の神器の1つ草薙剣や島根安来市かわらけ谷出土の
金銅装環頭太刀、埼玉県の稲荷山古墳の金錯名鉄剣などがよく知られていますが
中でも1968年に発掘された稲荷山古墳の鉄剣に115文字の漢字が金象嵌で
刻まれていたことが大きな話題となったことは記憶に新しいところです。

この漢字には「雄略天皇に仕えた功績を記念し471年作った」と由来が
記されており、当時、天皇の勢力が全国に広がっていたことが明らかになった
重要な発見でした。

剣太刀と一言で申しましても、剣は両刃、反りがない直刀で突く武器、
太刀は片刃、反りがあり切るためのものとされていますが、後々
為政者の地位権力の象徴として華美なものになっていったようです。

万葉集では剣太刀、焼太刀など34首残されています。

「 剣太刀 いよいよ磨(と)ぐべし いにしへゆ
    さやけく負ひて  来(き)にし その名ぞ 」
                      巻20-4467 大伴家持

( 剣太刀を磨ぐというではないが 心をいよいよ磨ぎ澄まして
 緊張感をもつべし。
 わが大伴は遠く遥かなる御代から背負い持ってきた由緒ある名であるぞ。
 決して絶やしてはならぬ。 )

後ろ盾であった聖武天皇が亡くなったのち、淡海真人三船という人物の
讒言により一族の大伴古慈斐(こしび)が出雲守の任を解かれたときに
一族を諭したもの。
ここでの剣太刀は磨ぐに掛かる枕詞として使われていますが、切迫した
心情が滲み出ています。
 
万葉集では剣太刀が武器として詠われているものは少なく、
ほとんどが熱烈な恋の歌。

「あなたのためなら火の中、水の中へでも飛び込みましょう」という
健気な女性もいましたが、何と!
「 剣の刃に足を乗せてみせましょう」と詠った女傑もいたのです。

「 剣太刀(つるぎたち) 諸刃(もろは)の利きに 足踏みて
    死なば死なむよ  君によりては 」 
                        巻11-2498 作者未詳

( 剣の太刀の鋭い諸刃に 足を踏み貫いて 死ぬなら死にもいたしましょう。
 あなたさまのためなら )

当時の太刀は片刃が主流だっただけに両刃という表現には凄みがあります。
激しい恋心ながらも、ここまで迫られた男は辟易したのではないでしょうか。
それにしても昔の女性は凄い恋文を贈るものだと感心致します。

「 我妹子(わぎもこ)に 恋ひしわたれば 剣太刀
     名の惜しけくも 思ひかねつも 」 
                         巻11-2499 作者未詳

( あの子に恋焦がれ続けていると 剣の太刀の刃(な)ではないが
 名を惜しむなんて思いもよらないよ )

刃は「な」とも訓み、名の枕詞に使用したもの。
恥も外聞もなく女に惚れた男。
いまにも駆け落ちしそうな気配です。

「 剣太刀 身に佩(は)き添ふる ますらをや
     恋といふものを 忍びかねてむ 」 
                    巻11-2635  作者未詳

( 剣の太刀 この立派な太刀を身に帯びている丈夫(ますらを)たるものが、
 恋と云うものの苦しみに耐えきれないものなのだろうか )

「 大丈夫(ますらを)たるもの、もう少し毅然としなくては」
と自嘲気味の男ですが、恋は魔物、男も女も関係ありません。
「どうせ恋するなら、燃え尽きるほど燃えてごらんなさい。」
と気弱な男に言いたくなるような歌です。

「 剣太刀 身に取り添ふと 夢に見つ
     何の兆(さが)ぞも 君に逢はむため 」
                             巻4-604 笠郎女


( 女だてらに恐ろしい剣太刀をしっかり身に着けた夢をみました。
  なぜかおわかりですか?
  あなたに是が非でもお逢いしたい気持ちが凝って
  私を雄々しく奮い立たせたからですよ。 ) 
                        (杉本苑子訳 私の万葉集 集英社)

最も男性的な持ち物とされていた剣太刀を抱いて寝た夢を見た。
家持を死ぬほどの思いで恋をした作者ですが片想いに終わりました。

古代の女性にとり、剣太刀は恋の道具、それも相手の心を突き刺す
必殺の一撃だったようです。

   「 剣太刀 抱いて夢見る 恋戦(こひいくさ) 」 筆者


             万葉集626 (剣太刀)  完



            次回の更新は4月7日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-04-01 00:00 | 生活

万葉集その六百二十一 ( ノックが合図よ )

( 東国の村 6世紀中頃  国立歴史民俗博物館 )
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( 東国豪族の館   同上 )
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( 平城京庶民の住宅  同上 )
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( 房総の村  千葉県 )
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( 古い町並み:民家  五条  奈良 )
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(  酒屋  同上 )
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( 床屋  奈良 今井町 )
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( 酒屋   同上 )
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( 郵便局   同上 )
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( 薬屋   奈良町 )
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 昔、通い婚の時代、男は夜が更けてから月の光をたよりに女の許に行き
家族が寝静まった頃合いを見て家に忍び入りました。
勿論、女の家は用心の為入口には閂(かんぬき)が掛けられていたのでしょうが、
お互いに予め合図を決めておき本人を確認してから家に招きいれたのです
広い家ならまだしも1間しかない部屋で雑魚寝している時は
どうしていたのでしょうかね。
夏なら外でということもありましょうが、寒い冬は藁のある物置小屋へ
行ったかもしれません。

 それはともかく、次の歌は女が男を招き入れる時の合図の打ち合わせです。

「 奥山の 真木(まき)の板戸を とどと押(し)て
     我が開かむに 入り来て寝(な)さね 」 
                    巻14-3467 作者未詳

( 奥山に茂る真木で作った板戸、この板戸を私が軽くたたいて
  ごとごと押して開けたなら、さっと中に入ってきて、一緒に寝てね。)

「とどと」は翻訳不可能ですが、強いて言えば「トントン」か。

 男は「何日何時頃行くよと」予め連絡し、そのころ外で待機している。
 女は家族が寝静まったのを確認し、トントンと戸を叩いて合図しながら
 そっと戸を開け、招き入れる。

「真木の板戸」は立派な木で作られた板戸、恐らく檜や杉などで
作られていたのでしょうから、かなり大きな家だったのでしょう。
照明もなく真っ暗な家の中を、そろりそろりと通り、女の部屋へ。
あとは久しぶりの逢瀬を堪能し、家族が目覚める前に男は家を出て帰る。

このように上手くいかない場合もありました。

「 奥山の 真木の板戸を 押し開き
   しゑや出(い)で来(こ)ね 後(のち)は何せむ 」 
                               巻11-2519 作者未詳

( こんな奥山の真木の板戸なんか、どんと押し開けて、もういい加減に
 出てきてくれよ。 
 ええーい、あとはどうなったってかまうものか。)

どうやら合図が通じなかったみたいです。
いくら待っても戸が開きません。
とうとう「シエー」という言葉が出てきました。

1300年後、漫画家、赤塚不二夫が多用した「おそまつ君」の決まり文句。
調べて見たら、同氏は漫画「万葉集」を書いており、そこに「シエー」という言葉が
使われていました。
                    ( 赤塚不二夫の漫画古典入門  万葉集 学研 p121)

さて、呼べども門は開かれず。
男はとうとう諦めて外で寝てしまいました。

「 奥山の 真木の板戸を 音早み
    妹があたりの 霜の上に寝ぬ 」 
                     巻11-2616 作者未詳

( あの子の家の真木の板戸は 激しい音をたててきしむので、
 開けるに開けられず、とうとう近くの霜の上で寝てしまったよ。)

合図なしで戸を開けようとしたのか、約束の日を勘違いしたのか。
中から戸が開かないので、閂が掛かっていないのを幸い、戸を開けようとした。
ところが立てつけが悪かったのか、引けども動きません。
無理に開けようとしたら「ギシギシ」と大きな音が鳴る。
これ以上大きな音をたてると「家族が目を覚ます」 と躊躇する。
女がなんとか出てきてくれないかと、じっと外で立ち尽くす。
何時まで待っても、反応なし。

寒い中、諦めてさっさと帰ればよいものを、ひよっとしたらと思いつつ
とうとうウトウトしてしまった。
なんとも面白味とペーソスを感じさせる歌です。

「 こなた思へば 千里も1里 
    逢わず戻れば 1里が千里 」   (山城国歌)


「よばい」という言葉があり、「夜這い」即ち「夜、恋人のもとへ忍んで行く」
あるいは「寝とりたい相手の寝所へ忍び入る」という良からぬ連想をさせるものして
用いられています。
しかしながら、その原義は「相手を呼び続ける」という意の「呼ばふ」が
「呼ばひ」に変化したもので、万葉仮名では「よばひ」に「結婚」という字が
当てられている例があり「呼び続ける」意の中に「求婚する」という気持が
含まれていることが窺われます。

「 こもりくの 泊瀬(はつせ)の国に 
  さよばひに(左結婚丹)  我(わ)が来(きた)れば
  たな曇り 雪は降り来(く)  さ曇り 雨は降り来(く)
  野(の)つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む   家つ鳥 鶏(かけ)も鳴く
  さ夜は明け この夜は明けぬ   
  入りてかつ寝む この戸開かせ 」
                     巻13-3310  作者未詳

( 山々の奥深いこの初瀬の国に 妻どいにやってくると
 急に曇って雪が降ってくるし さらに雨も降ってきた。
 野の鳥、雉は鳴き騒ぎ  家の鳥、鶏も鳴き立てる。
 夜は白みはじめ とうとう夜が明けてしまった。
 だけど中に入って寝るだけは寝よう。 
 さぁ、戸を開けてくだされ。 )

初瀬(奈良桜井市)は古来特別な聖地とされ国とよばれていました。
遠方から妻問いに来た男が途中悪天気に遭遇し、雪を避け雨がやむのを
待っているうちに空が白みはじめた。
妻問いは月が出ている夜に訪れ、明け方の暗いうちに帰るというのが
当時の暗黙のルール。
男はそのルールに反して強引に迫ったのです。

「 隣から 戸をたたかれる 新所帯 」 (江戸川柳 柳墫)

( 新婚早々、派手な夫婦の睦事。
 うるさいと隣の家から戸をたたく。
 長屋での生活だったのでしょう。)




       万葉集621(ノックが合図よ ) 完

      次回の更新は3月3日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2017-02-23 19:56 | 生活

万葉集その六百十九 (眉美人)

(月齢2,2日の三日月  学友M.I さん提供 )
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( 樹下美人図 一部   正倉院宝物 )
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( 技芸面 奈良町 藤岡家住宅で)
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(  難波ひと 一部  長谷川 青澄:せいちょう  奈良万葉文化館収蔵 )
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( 梅花粧  一部   鎌倉秀雄   同上 )
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( 額田女王  上村松篁  )
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( 広目天  国宝 東大寺戒壇堂 )
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( 阿修羅像  国宝  興福寺 )
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「眉」と云う字は目の上に波の形を書いた象形文字で、細くて美しいまゆ毛を
表すそうです。

漢字辞典を紐解くと

「眉山」(びざん) 美人の眉、また顔かたちの美しいさま

「眉壽」(びじゅ) 眉が長く伸びるまで長生きする人、長寿の人

「眉黛」(びたい) まゆずみで描いた眉、美人のたとえ

「眉斧」(びふ)  美人の眉、
           美貌のために身をうしなうことになるので
           斧(ふ:命を絶つもの)という

「眉目秀麗」 すぐれ秀でている人  ( 眉秀でたる若人ともいう:筆者注)

「柳眉」   柳の葉のように細く美しい眉、美人の眉

「三日月眉」  三日月形の眉、眉の上下が細い

など、いずれも女性は美人、男性はイケメンを意味する言葉ばかりです。

万葉人は三日月や柳葉の形をした眉の持主を美人と称え、可愛い女性が
眉を掻くしぐさをして(一種のおまじない)恋人の訪れを待つ様子を
楽しそうに詠っています。

「 思はぬに 至(いた)らば妹が 嬉しみと
   笑(え)まむ 眉引き(まよびき) 思ほゆるかも 」  
                         巻11-2546 作者未詳

( 思いかけないところへひよっこり俺が行ったら
 あの子が喜んでにっこり微笑む、その眉のさまがありありと浮かんでくるよ。)

「 不意に訪ねたらびっくりするだろうな。
きっとにっこり笑って喜んでくれるだろう。
あの可愛い眉を引き伸ばしながら。」

道を歩きながらにやにや笑っている男の顔が目に浮かんでくるような一首です。

嬉しみと:「まぁ嬉しい」と

「 月立ちて ただ三日月の 眉根(まよね)掻き
     日長(けなが)く恋ひし 君に逢へるかも 」
                   巻6-993 大伴坂上郎女

( 月が替わって、ほんの三日月のような細い眉を掻きながら
 長く待ち焦がれていたあなた様にとうとうお逢い出来ました。)

「月が替わって」とはお月さまが見えなくなってほんの少し姿を現した時期をいい
眉毛のような細い三日月だったのでしょう。

当時、眉根を掻くと、恋人に逢えるという俗信があり、

「 あなたが恋しい、お逢いしたいと眉根を掻いたら
  その効き目があって、やっとお見えになりました。」と

 まだ幼い娘、大嬢(おほいらつめ)に替わって詠ったもの。

 坂上郎女は大伴旅人の異母妹で家持の叔母、大嬢は家持の許嫁でした。

「 振りさけて 三日月見れば 一目見し
    人の眉引き 思ほゆるかも 」 
                            巻6-994 大伴家持

( 遠く振り仰いで三日月を見ますと、一目見たあの人が
 思われてなりません。)

当時、家持は16歳。
叔母、坂上郎女は恋と歌の先生。
おそらく「三日月」という題と上記の歌を示して、一首詠んでみなさいと
促されたのでしょう。

さすが万葉屈指の恋の達人マダムの指導の賜物、この年にして
堂々たる返歌。
はやくも天賦の才の片りんを見せています。
度々逢っていたのにもかかわらず、一目惚れの歌にして叔母との恋歌仕立てに
仕上げました。
そして、家持長じて恋の遍歴。
女性の容貌を桃のような紅、眉を青柳の葉に譬えた美しい歌を作りました。

「 桃の花 紅色(くれなひいろ)に にほひたる 
  面輪のうちに 青柳の 細き眉根(まよね)を
  笑み曲がり - - 」   
                  巻19-4192 (長歌の一部)  大伴家持

( 桃の花、その紅色に輝いている面の中で
 ひときわ目立つ青柳のような細い眉、
 その眉がゆがむほどに笑みこぼれて- )

妻、大伴大嬢(おほいらつめ)や他の美人を意識しながら詠ったものです。

「 びるばくしゃ まゆね よせたる まざなしを
    まなこ に み つつ あきの の を ゆく 」           会津八一

   「びるばくしゃ」(昆楼博叉)  東大寺戒壇堂 国宝 広目天

怒った様子を「眉を上げる」と云います。
しかし、この仏様の眉は上がっているが決して怒ってはいない。
右手に筆を、左手に巻物を持ち、まざなしは深い。
物思いに耽けりながら、静かに遠くを見つめている。
その名の通り、広く、多くの人々を守っているかのようです。

仏像で忘れられないのは興福寺の国宝「阿修羅像」。
長谷部 日出男氏は次のような説を唱えられています。

『 天平のスカーレット・オハラ。
モデルは若き頃の光明皇后。 (筆者注:聖武天皇皇后)
古代インドでは天上の神々に戦いを挑む悪神とされ、改心して仏法の守護神に
なってからも、荒々しい闘争心の権化であるはずなのに、
ここでは清純な信仰心の化身のように表現されている。』
                      ( 阿修羅像の真実 一部要約  文春新書)。

憂いを含み、優しさあふれる眉。
この眉こそ、この仏像の最大の魅力です。
 
人物や仏様の絵を描くとき
眉の表現の仕方で人相が一変します。
古の人たちも仏様を造る時、その性質を十分にわきまえ、眉の表現に
細心の注意をはらったことでしょう。

ここでちょっと脱線。

『 ところで、いま・・・。
  浪人姿に変装している木村忠吾と、さし向いで酒を飲んでいる五十男は
  めったに見られぬ顔貌をしていた。
  中肉中背の姿にも、尋常な目鼻立ちにも異常はないのだが、眉だけが
  普通でない。
  濃い眉と眉との間にも、もじゃもじゃと毛が生えているのだ。
  つまり、眉毛と眉毛がつながっている。
  二つの眉毛が一すじになって見える。
  忠吾は「一本眉の客」とひそかによんでいた。』

                  (池波正太郎 鬼平犯科帳13(一本眉より)  文春文庫

この男の正体は盗賊「清州の甚五郎」。
面白いですよ。

       「 水煙に 三日月かかる 興福寺 」    河本遊子



    万葉集619 (眉美人)完


  次回の更新は2月17日です。
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by uqrx74fd | 2017-02-09 19:59 | 生活