カテゴリ:生活( 150 )

万葉集その三十七(駅伝)

今年も駅伝の季節がやってきました。

駅伝のルーツは古く「大化の改新」にまで遡ります。

646年大化の改新の詔が公布され律令制度が発足しました。

律は刑法、令は行政法で律令を統治の基本にしようというわけです。

それ以前の氏族制社会では各郡がそれぞれ独自の経済システムや

法律で版図を支配していました。

このような政治の仕組みを中国の制度も参考にしながら

中央集権社会、即ちすべてを中央の秩序、価値観に

統一しようと試みたのです。

この制度を円滑に運営するためには、中央や地方の情報を

速やかに行き来させることが必須となります。

即ち古代情報化社会への移行です。
そこで、まず幅6~12mの7つの幹線道路を整備し、

関所を設けました。

更に幹線道路には16kmごとに駅(駅家=うまや)を置き、

馬を常時5~20匹用意して官用に供し(駅馬)、宿泊、給食、

給水設備も完備しました。

又これとは別に伝馬という逓送用の馬も各郡に置き公用の

役人に使わせたのです。

駅馬には鈴を付け(駅鈴)、官の通行証とサイレンの役割を果たし、

リィーン・リンと鈴を響かせながら馬を走らせていました。

次の歌は都の役人が早馬を走らせ、駅家で休息しょうとした時に

うら若く美しい乙女を見かけて声をかけたものです。

「 鈴が音(ね)の 
     早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井(つつみい)の
     水を給(たま)へな 妹が直手(ただて)よ 」 

                   巻14の3439 作者未詳



「堤井」周りを堰で囲み湧き水などを溜めた水汲み場 

「直手」 手から直接に

( 鈴が響き渡る駅、その宿場で一休みしましょう。

 お嬢さん水を頂けませんか?いえいえコップなんか結構です。
 貴女の綺麗な手に水を汲んでそのまま飲ませて頂戴ね。)

この駅家制度は戦国時代から更に江戸時代へと引き継がれ幕府、

領主の公用に供し、民間の輸送にも用いられました。

それと共に手紙、金銭、小荷物をリレー式に運ぶ飛脚制度が考案され

足の速い韋駄天が日本全国を走り廻るるようにになります。

かくして駅馬、伝馬、飛脚からヒントを得て競技としての

駅伝競走が誕生し、1917年(大正6年)世界最初の駅伝が開催されました。

この大会名は「東海道五十三次駅伝徒歩競争」といい関西、関東2チームが

参加し、4月27日午前11時に京都三条大橋を出発、23区508kmを走り抜き、

翌々日の29日午前11時34分にようやく上野不忍池に到着しました。

今もなお、この競技のスタートの地、京都三条大橋とゴール上野不忍池界隈に

「駅伝発祥記念碑」が立っています。

更に3年後の1920年、長距離選手の育成を目的として「箱根駅伝」

(正式名 東京箱根間往復大学駅伝競走) が誕生しました。

82回目を迎えるこの行事は毎年テレビでも放映され、

新年に彩りを添えてくれています。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:16 | 生活

万葉集その三十六(歌垣)


古代に歌垣という行事があり、東国地方では「かがい」と

よばれていました。

「かがい」とは歌を掛け合い、踊るといった意味です。

本来は豊作を祈ったり、豊年であったことを感謝する行事でありましたが

次第に歌を仲立ちとした男女の求愛の場となり、

性の解放も許されていたようです。

とりわけ筑波山の歌垣は全国的に有名で春秋2回の行事には都から役人が

視察に来たという記録も残っています。

伝説歌人といわれる高橋虫麿呂は当時の様子を次のように語っています

「鷲が住むという筑波の山奥に裳羽服津(もはきつ)というところがある。

その場所にお互い声を掛け合って誘い合わせた男女が多数集まり、

大いに歌い、且つ踊り実に楽しそうだ。

このような晩には俺も人妻に交わろう。俺の女房には他人も言い寄るがよい。

これはこの山を支配する神様が遠い昔からお許し下さった行事なのだ。

何をしても咎めだてしてくれるなよ 」    (巻9の1759の長歌を抄訳)



「男神(ひこかみ)に 雲立ち上(のぼ)り 時雨降り

   濡れ通るとも 我れ帰らめや」 巻9の1760(高橋虫麿呂歌集)


 「男神」 は筑波山西側の男体山

( 男神の嶺に雲が湧き上がり 時雨が降ってびしょ濡れになろうとも

 楽しみ半ばで帰ったりするものか。今夜はとことん交わるぞぉ )

この歌垣という行事は筑波山のみならず日本各地で行われており、

摂津の国(兵庫)の鄙人(田舎者)夫婦にまつわる面白い話が残っています。

摂津の国住吉というところで行われた歌垣に

「人妻におれも交わろう 他人も俺の女房に言い寄るがよい」と

心を弾ませて出かけた夫婦がいました。

当時は夫婦別居の習慣(男の通い婚)でお互い現地待ち合わせです。

鄙人の妻は毎日家業に明け暮れ、汗にまみれた真っ黒な山妻でした。

彼女は今日は歌垣ということで日頃の身なりとは打って変わり、

めかせるだけめかし、顔に厚化粧をし、年に似合わぬ派手な装いに

着飾っていきました。

ところが現地で妻を見た夫は彼女のあまりの変貌とその美しさに

息をのみ且つ驚嘆し

「他人の妻に我は交じらはむ」の勢いはどこへやら。

衆人の前で「どうだ、俺の女房は美人だろう。凄いだろう」と

大いにのろけたということです。

「住吉(すみのえ)の 小集楽(をづめ)に出(い)でて うつつにも

    おの妻(づま)すらを 鏡と見つも」 

            巻16の3808 (作者未詳)

 「小集楽」は歌垣の集い

( 住吉の歌垣の集まりに出かけてきたが、夢ではないか。いや現実だ。

  ピカピカと鏡のように光り輝く女。我が妻ながら大いに見直したぞ。

  どうだ諸君。美人だろう、わが女房殿は!)

ところがどうやらこの鏡のごとく光り輝く妻の姿はあくまで鄙人の夫だけに

映った美しさだったらしく、不必要な厚化粧、ど派手に着飾った妻の姿は

他人から見れば随分と滑稽な姿だったようです。

ところが夫はそのようなことに気が付かずただただ美しいと見て

のぼせ上ってしまいました。

だからこそこの夫婦は「鄙人の夫婦」だったのです。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:15 | 生活

万葉集その二十四(漱石の草枕)


 「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ、
 情に棹させば流される--」の名文で始まる夏目漱石の草枕。
 

峠の茶屋で主人公と老婆が次のような会話を交わします。

「昔しこの村に長良の乙女という美しい長者の娘がござりましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと女はあけくれ思い煩ったが、
どちらへも靡きかねてとうとう

 ーあきづけば おばなが上に置く露の けぬべくもわは おもほゆるかもー

 という歌を詠んで淵川へ身を投げて果てました」

余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、
こんな古雅な話を聞こうとは思いがけなかった。(草枕第二章)

今回は万葉歌ー漱石ーシェイクスピアの三題噺です。

 「 秋づけば尾花が上に置く露の 
    消ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも 」 巻8の1564


作者の日置長枝娘子(へきながえをとめ)は 大伴家持が青春時代に交友が
あった女性の一人で、この歌は家持と掛け合いをして「楽しんでいる」ものです。

(秋めいてくると尾花の上に露がおきます。
 その露のように今にも消え果ててしまいそうに
 私はあなたのことが、この上もなく切なく思われます)

話は変わって古代から摂津の葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる妻争いの説話。

「摂津の葦屋に莵原処女 (うないおとめ) という美しい娘がいました。

数多くの男が言い寄りましたが、最後まで望みを捨てずに争った男が二人。
一人は同郷の莵原壮士(うないおとこ) 
一人は隣国和泉の信太壮士(しのだおとこ)

娘は信太に心を傾けていましたが、信太がよそ者なので同村の若者達の
妨害を受け 遂に思い余って入水して果ててしまいました。

すると二人の男も負けじと娘の後を追って果てたのです。
後世の人は哀れに思い、娘の墓を真ん中にして左右に男の墓を建てて
弔ったそうです」

これは万葉時代に有名な説話だったようで、万葉集にも多くの長歌と短歌が残され
ています。
その中からの短歌一首、

 「 いにしえの信太壮士(しのだをとこ)妻問し 
    莵原処女(うないおとめ)の 奥津城(おくつき)ぞこれ」

              田辺福麻呂巻9の1802

 ( はるか遠くの時代の信太壮士がはるばる妻問いにやってきた菟原処女の
   お墓がここなのだよ )

漱石は「尾花が上に置く露の消ぬべくも我」という歌を、日置長枝娘子より深刻に
「命が消える我」という意味に置き換え、更に、この歌とは直接関係がない
万葉集に伝わる説話を、場所と名前を変えた上で
 (草枕の場所は熊本県小天「おあま」) 
新しい悲恋物語として茶屋の老婆に語らせました。

最後に話は大きく三転します。

ロンドンのテイト・ギャラリーに ジョン・E・ミレー作の「オフイーリャの面影」
という絵があります。
シエイクスピァ作 「ハムレット」の女主人公の入水の場面です。

漱石は、ロンドン留学中に見たこの絵に強烈な印象を受けました。

その結果「草枕」で、峠の茶屋の老婆の悲恋物語に、万葉集・シェイクスピア
を想い、 万葉説話の菟原処女とオフイーリヤの入水場面とを重ね合わせて、
主人公に春の夜の夢を見せるという幻想的な場面を登場させたのです。
(草枕第三章)

ここに万葉集の伝説の美少女は、漱石の「草枕」によってはるか彼方の
ハムレットのオフイーリャと結びついたのであります。

余談ですが、アメリカで発生した第2のハリケーンの名前はオフイーリャ。
余程ハムレットの好きな人が名付けたのかしらん。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:03 | 生活

万葉集その十七(良寛の歌の手本は万葉集)

良寛さんといえば子供達とひねもす手鞠つき。

歌もその春風駘蕩とした人柄を反映したものが多く、漢詩、和歌あわせて
2000もの作品、さらに素晴らしい「書」を残しています。

「今ここに生きる」「無欲」という道元の「正法眼蔵」の教えを忠実に実践した
清貧の人でもありました。

本が買えない良寛は人から借り、要点を書きとめ、その恐るべき記憶力で
心にかなった歌や表現をたちまち暗記し自由自在に使ったといわれています。

万葉集については「良寛禅師奇話」で
「歌を学ぶには万葉がよろしい。古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」
と明治の正岡子規を彷彿させるような歌論を述べています。

今回は良寛が如何に万葉集を駆使して歌を作ったか、所謂「本歌取り」のお話です。

(注): 本歌取りとは和歌、連歌などを意識的に先人の作の用語などを
     取り入れて作る事。
     背後にある古歌(本歌)と二重写しになって余情を高める効果がある。


まずは有名な手鞠歌と万葉の歌をご覧下さい「上段:良寛、下段:万葉集」


 「霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」 良寛

    「霞たつながき春日を かざせれど いやなつかしき梅の花かも」

      巻5の846 小野氏淡理(おのうじのたもり)


 (霞立ち込める長い1日。ずっと髪に梅の花をかざしているが益々心が惹かれる事よ)

 更に、良寛歌最後の部分「この日暮らしつ」 も

  「春の雨に ありけるものを 立ち隠(かく)り 

      妹が家路に この日暮しつ」   
                巻10の1877 作者未詳
 

  から取っています。

 つまり、初めと終わりは万葉集からの引用で、良寛のオリジナルは
 「子供らと手まり つきつつ」だけながら全く新しい歌に生まれ変わっています。

 後の歌の意

 (濡れてもどうという雨でもないのに、木陰で雨宿りして、
  いとしいあの子のところへ行くのが遅くなってしまった。
  「春雨だ、濡れて参ろう」とやれば良かったなぁ。)

 次は風雅の友でもあり、有力な後援者でもあった阿部定珍(さだよし)が訪ねてきたが
 話し込んでいるうちに日が暮れてしまい慌てて帰ろうとする定珍を引きとめ、又帰路
 を気遣かった歌。

 冒頭の「月読み」とは月を数えるという意味で月の形で日数を数える事に
 基づくもの。転じて月のこと。

 「 月(つく)読みの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがの多きに 」 良寛

     「月(つく)読みの 光に来ませ あしひきの 山きへなりて遠からなくに」

      巻4の670 湯原王(宴席で湯原王が女の立場で詠ったもの) 
 

  山きへなりて=(山経隔て) 山がへだてて
 
 (月の光をたよりにおいで下さい。山が隔てて遠いというわけではありませんのに)

 他に数多くの本歌取りがありますが、このようにTPOに応じて即座に自分の歌に取り
 込めるという事は万葉歌を完全に自家薬籠中のものにしていたと思われます。

 最後に、良寛晩年の恋について少し触れてみたいと思います。

 相手は美貌の貞心尼。長岡藩士の娘。18歳で医師に嫁ぎ離婚した後23歳で出家。
 良寛70歳、貞心尼30歳の時に出会い良寛74歳で没するまで歌物語を続けました。
 初めての出会いに、

「君にかく あい見ることの嬉しさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」 (貞心尼)

「白妙の衣手寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に澄み渡るかも」 (良寛)
 

なんとも初々しい歌、

 袖のあたりが肌寒いので驚いて外を見れば、秋の夜の月が早や天心に輝いており
 とうとう二人は明け方まで話し合っていたというのです。

 この時から4年の間、良寛は生涯最良の日々を過ごしたのであります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:56 | 生活

万葉集その十六(鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤
18日間を言います。
冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で
健康上用心が必要な時期とされていました。

丑というのがこれまた危ない。

方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」「丑三つ時」と言えば
お化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており,丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。
そこで「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。
鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

 「 石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに

      よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」

         巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で
痩せの大食い老人でした。

痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。

( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
  夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤 (ひしお 現在の醤油の原型)で
味付けしたものに,山椒や味噌などを付けて食べていました。
現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。

俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ,大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

『 鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
 鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
 握り飯をがっついていました。

 それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
 請求書を突きつける。

 しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
 ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 
 「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」
 といって鰻屋を追い返したそうであります。』

 さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。

 彼は会食する時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
 時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
 齊藤茂太さんなどが書いています。

 「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

           鰻を食ふは 楽しかりけり 」 

               齊藤茂吉 (ともしび)より

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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:55 | 生活

万葉集その十三(七夕祭り)

日本における七夕行事は,3つの伝説が習合して1300年前には既に
形作られていたと云われています。

7月7日の夜、織姫星(ヴェガ)が天の川を渡って牽牛星(アルタイル)に会う
空想豊かな中国の恋愛物語。

中国古来の行事である、女子が機織り等の手芸で巧みになる事を祈る
乞巧奠(きこうでん)。 

この二つが結びつき、
更に日本の、夏秋の行き会いの時期に水辺に掛け作りにした棚の上で
遠来の,まれびと神の訪れを待って機(ハタ)を織るタナバタツメの習俗が
合体して伝承されたものです。

タナバタツメとはタナ(横板)を付けたハタ(機)で布を織る女(ツメ)と言う意味です。

中国では織姫が牽牛を訪れますが日本では通い婚の風習があり逆に
牽牛(彦星)が織女のところへ通います。

万葉集では132首もの多くの七夕の歌が残されています。 

 「 彦星 (ひこほし) と 織女(たなばたつめ)と 今夜(こよい)会う

   天の川門(かわと)に 波立つなゆめ 」 

              巻10の2040  作者未詳


 (彦星と織姫が今宵逢う、その天の川の渡し場には波よ
  荒々しく立たないでおくれ。決して。)

 迎えに来た織姫と行き着いた牽牛とが支障なくすぐさま逢えることを
 祈った歌です。

   「天の川 川門(かわと)に立ちて 我が恋し

       君来ますなり 紐解き 待たむ 」 

                巻10の2048  作者未詳
 

(天の川の渡し場に佇んでは私が恋続けてきたあの方が
  いよいよいらっしゃるらしい。着物の紐を解いてお待ちしよう。)

 いよいよ近くに恋人がやってきた気配に身も心も躍る織女。
 紐解き待たむのあとはただ待ちに待った共寝があるばかり。
 織女にかけて自身の心情を表したもの。

 古代の「七夕」は男女共寝をする日でもありました。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:52 | 生活

万葉集その十二(万葉人は掛け算がお得意)

私達が小学校で習う掛け算の9×9。千三百年前の人たちは
この計算に習熟していたことが明らかにされています。

今回は万葉仮名のお話です。まずは歌をご紹介します。

 「 若草の 新手枕(にひたまくら)を まきそめて

    夜をや隔てむ にくくあらなくに 」 

                巻11の2542  作者未詳


 どこか遠くへ旅する新婚早々の男の心境を表した歌で

 ( 若草のような新妻の手枕 その手枕を折角まきはじめたのに
 これから幾夜も会えないというのであろうか。
 可愛いくって仕方がないのに )

 さて掛け算ですが この歌の結句「にくくあらなくに」 の「にくく」 は原文で
 「二八十一」 となっています。 「二」 は 「に」 
 「八十一」は九九=八十一で 「くく」 を表すのです。

 万葉集の原文はすべて漢字で書かれています。
 当時平仮名や片仮名はまだ発明されておらず、
 万葉人は漢字の意味や音、訓をあれこれ工夫して
 日本語に表記しました。

 猪 (しし) は 十六=四四(しし) 
 平仮名の「し」は「二二」 または「重二」、「とを」は「二五」 と
 掛け算を楽しんで使用して様子が窺われます。

 又、擬声語として、例えば 「いぶせし」=(うっとうしい)の「いぶ」を示すのに
 馬音蜂音と書き「いぶ」と読ませます。
 これは万葉人が馬音を「イーン」、蜂音を「ブーン」と聞いたようです。

 その他、丸雪(あられ) 未通女(をとめ) 去家(たび) 暖(はる)
 寒(ふゆ) 往来(かよう) など手をたたきたくなるような上手な表現が
 多数あります。

 一風変わったところでは 「義之」 を手師(てし)と読ませ
 上手に字を書く人を表し中国の王義之の存在を知っていたものと
 思われます。

 歌の中には難解なものも多くあり後代の人達はその解読に
 難渋を極めました。
 遂に951年、村上天皇の勅命で万葉集に読み仮名をつける
 訓点作業プロジエクトチームが発足し
 現代の読み仮名へのスタートを切りました。

 その後現在に至るまで専門家による解読、研究がなされていますが、
 未だに読み仮名が確定しない歌もいくつか残されています。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:51 | 生活

万葉集その十(すまじきものは宮仕え)

つい最近、奈良正倉院に残る文書2通を鑑定した結果、
奈良時代の下級役人が同族の上役に「付け届け」をして
役職に就けてもらえるように頼んだ手紙であったことが
判明しました。

1通目は「軍隊の末席でもいいから官を望みます」と登用を依頼、
5日後の2通目では 「生イワシ60匹を貢ぎます」
そしてその手紙には不採用を示す「用不」と
大きく書かれていたそうです。

万葉集でも当時の宮仕えの様子を活き活きと伝えてくれています。

 「 天(あま)離(ざか)る 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 

     住まひつつ

     都のてぶり 忘らえにけり 」 

            巻5の880 山上憶良


 (遠い田舎(九州)に5年も住み続けてきて都の洗練された
  風習(てぶり)をすっかり忘れてしまったよ。
  いつまで地方勤務をさせるのだろう。
  そろそろ本社に戻してくれないかな)

当時(725726年)国守の任期は4年と定められていました。
教養人である山上憶良は自分の気持ちを抑えてこの歌を詠みましたが
とうとう我慢が出来なくなり、上司の大伴旅人に直訴します。

 「我(あ)が主の 御霊(みたま)賜ひて 春さらば

   奈良の都に召上(めさ)げ たまわね」 

                巻5の882 山上憶良
 

(あなた様のお力で春になったら奈良の都に転勤させて下さい)

次は勤務時間中のサボタージュが見つかり厳罰を受けた男の歌

 「梅柳 過ぐらく惜しみ 佐保の内に

    遊びしことを 宮もとどろに」 

             巻6の949 作者未詳


 (梅や柳の美しい見頃が過ぎてしまうのが惜しさに佐保の里で
 楽しく遊んだだけなのに 何とまあ宮廷が轟くばかりに騒ぎたてて)

 727年初春、天皇の身辺警護を任務とする役人達が勤務時間中に
 春日野で打毬(うちまりー現在のホッケーのような球技)に興じていました。

 折りしも急に稲妻を伴って雨が降り出し、警護の人を欠いた宮中はてんてこ舞い。

 打毬に興じていた人々は勅令により全員職務怠慢の罪に問われて
 授刀寮(後の近衛府)に閉じ込められ禁足処分となりました。

 宮人達はそれ見たことかと大喜びで騒ぎ立て、
 「まあ何と口さがない世間であることか。それにつけてもわが身の情けなさよ」と
 ぼやいている情景であります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:49 | 生活

万葉集その九(ぼやきの一つも言いたくなるさ)

万葉集は1300年前の歌と共に当時のさまざまな生活を私達に
活き活きと伝えてくれています。
今回は万葉人の「ぼやき」です。
さあ、耳を澄ませて聴いてみましょう。

 「 西の市に ただ一人出(い)でて 目並べず 

    買ひてし絹の 商(あき)じこりかも 」 

                      巻7ー1264 作者未詳


 (目並べず) 自分だけの判断で 
 (商じこり) 商いの仕損じ

 奈良の都では人々が各地から集まって交易する東西の市がありました。
 この歌は物々交換の市で不良品をつかまされ口惜しがっている時の
 「ぼやき」です。

 (西の市にただ一人出かけ、自分の目だけで判断して買ってきた絹は
 とんでもない品だったよ。あぁ安物買いの銭失いだ。)

 現在でもバーゲンセールで良くあることですね。

 ところで、この歌には裏の意味があるようです。

市と云えば人が行き交う場所。
ここでは男と女が集い、お互いに歌を
掛け合って恋人を見つける「歌垣」が行われていました。
                                                                   このような背景を考えますと
「他人の意見も聞かずに有頂天で我が物にした女がとんだ食わせ物だった」
と嘆いている歌ともとれます。

 注; 古い研究書では「仲人口にだまされて見掛け倒しの配偶者を得たことを
     悔いる気持ちの比喩歌」との解釈もなされています。

 次は、身分の高い家の女を妻にした男が気苦労の多さにぼやいている歌です。

 「 橡(つるはみ)の 衣(きぬ)は人皆(ひとみな) 事なしと

     言ひし時より 着欲しく思ほゆ 」 
                       巻7ー1311 作者未詳


 橡はくぬぎ、 その実どんぐりを煎じた汁に鉄を加え紺黒または黒色に
 染めた着物は身分が低い階級が着るものとされていました。

 「事なし」とは男女間のわずらわしさがないこと 「着欲しく」は女と契ること

 (つるばみで染めた着物は気楽だと世間の人々が口々に言うのを聞いてから
  あぁ、着たいものだと思えてならない)

 つまり身分は低くても、心映えの優しい気楽な女性と結婚すればよかったと
 嘆いている様で、恐らく毎日小うるさく言われ尻に敷かれているものと
 想像されます。

 「いい気な贅沢をいうな」と言われそうな歌ですが今も昔も変わらぬ
 人間の心理には驚かされます。
 
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:48 | 生活

万葉集その五(万葉人はお酒がなによりもお好き)

「ワインは人と人との心を結び、楽しさを倍加する酒、
ウヰスキーは人を孤独にする酒 」 (木村尚三郎) 
なれば 「日本酒はワイワイ酒か」(永井路子)


さあ、さあ、ご一緒に飲みましょう。

729年、大宰府長官大伴旅人は山上憶良ら5人と酒盛りをしていた時のお話です。
ひとしきり酔いがまわりはじめたころ、旅人がまず詠います。

  「 験(しるし)なき ものを思はずは 一杯(ひとつき)の

      濁れる酒を 飲むべくあるらし 」  

               巻3-338 大伴旅人


    ( この人生、くよくよ甲斐のない物思いなどにふけるより
      一杯の濁り酒を飲んだ方がよっぽどましだよ )

      (験): 効能、効き目  (思はずは): 思わないでいっそのこと

  「 なかなかに 人とあらずは 酒壷(さかつほ)に

     なりにてしかも 酒に染み(しみ)なむ 」  

                     巻3-343 大伴旅人


( なまじっか分別くさい人間として生きているよりいっそ
  酒壷になってしまいたいなぁ。
  そうしたら何時も酒びたりになっていられように )

 (なかなかに): なまじっか (なりにてしかも):いっそのことなってしまいたい

色々な歌のやり取りのなか、宴は盛り上がっていきます。
そのとき山上憶良は突然立ち上がり詠いました。

  「憶良(おくら)らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ

     それその母も 我(わ)を 待つらむぞ 」  

     巻3-337 山上憶良
 

 ( 憶良めは、そろそろ失礼いたします。家では子供が泣いていましょう、
   多分その子の母も 私の帰りを待っていますので )

    (今は罷らむ): 貴人のもとを退出する意 
     (その母)  : 直接妻と云わないところに笑いがこもります

  当時憶良は70歳近くでマイホームパパだったようです。
  宴席の途中から退席するのはなかなかタイミングが難しいものですが
  一同をどっと沸かせるような逃げ口上を置き土産にして去りました。


男ばかりではなく女性にも酒豪だったと思わせる歌もあります。

   「酒杯(さかづき)に 梅の花浮かべ 思ふどち

     飲みてののちは 散りぬともよし 」 

          巻8-1656 大伴坂上郎女
 

( 酒杯に梅の花を浮かべて心の通じ合うもの同士が飲みあった後は、
  梅の花など散ってもかまいませんわ。 )

  (思うどち): 心の通じあうもの同士 、作者は大伴旅人の異母妹

 この歌は、親しいもの同士の宴会での主人としての歓迎の挨拶で
 「さぁ、今宵は宴を尽くして飲み明かしましょう」というのが本意です。

当時は禁酒令が出ていましたが、2~3人の親しいもの同士なら良いとの
お上のお達しがあったそうです。 女性同士の徹夜酒だったのでしょうか?

  「世の中に たのしみ多し 然れども
      酒なしにして なにのたのしみ 」 若山牧水
   

 昔も今もこの酒好きな人々です!
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:44 | 生活