カテゴリ:生活( 142 )

万葉集その五百九十九 (実りの秋)

( 今年も豊作  飛鳥 )
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( 橘寺 稲と彼岸花   飛鳥 )
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( 棚田  飛鳥 )
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(  粟:あわ  市川万葉植物園  )
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( 桃  山梨 )
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( 栗  飛鳥 )
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( 梨   千葉 )
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( 松茸 新島々駅の前で農家が格安で売っていた あるところにはあるもの 長野 )
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( リンゴ   山梨 )
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( 巨峰   山梨 )
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歳時記語源辞典によると、「秋(アキ)」という言葉の語源は

1、作物の仕上がり、成熟の意の「アガリ」が「アガイ」「アキ」に
  転訛した。(橋本文三郎著 文芸社)

2、熟して赤らむの約「黄熟り(アカリ)」が「アキ」に転じたもの(大言海)

3、江戸時代の学者、新井白石の「作物が豊かに稔って飽きる義」、
  つまり「飽きるほど十分満足する稔り」の意、

など諸説あります。

このような豊かな実り秋に万葉人はどのような歌を詠ったのでしょうか?
代表的なものとして「稲」「桃」「栗」「粟(あわ)」「松茸」を採りあげてみましょう。

まずは稲、二人のやり取りです。

 「 我が蒔ける 早稲田(わさだ)の穂立 作りたる
     かづらぞ見つつ 偲はせ 我が背 」 
                巻8-1624 大伴坂上大嬢(おほいらつめ)

( 私が蒔いた早稲田の穂立、立ち揃ったこの稲穂でこしらえた蘰(かづら)です。
      どうかこれをご覧になりながら私だと思って偲んでください。)

「 我妹子(わぎもこ)が 業(なり)と作れる 秋の田の
    早稲穂のかづら 見れど飽かぬかも 」 
                          巻8-1625 大伴家持

    ( あなたが仕事をして獲り入れた秋の田、その早稲穂でこしらえた蘰は
      いくら見ても見飽きることがありません 。)

  蘰(かづら) : 稲の穂を編んで作った髪や衣類に挿す飾り。

739年の秋、家持の婚約者、大嬢は竹田庄に住んでいる母、坂上郎女のもとで
農事を手伝っていました。
竹田庄は飛鳥近く、大伴家の領地です。

収穫が終わり一段落した頃、久しぶりに家持が訪ねてきましたが、
公用で多忙の為、すぐ都へ戻らなければなりません。
大嬢はそのようなことも予想してあらかじめ作っておいた蘰(かずら)を 
「私だと思って偲んで下さいね」と渡したのです。

時に家持22歳、 大嬢17歳。 
花嫁修業中の大嬢、初々しさと気負いが感じられる1首ですが、
貴族でも自分の領地の農作業を自ら行っていたことがこの歌から窺われます。

「 はしきやし 我家(わぎへ)の毛桃 本茂く(もとしげく)
    花のみ咲きて ならずあらめや 」 
                           巻7-1358  作者未詳

( かわいい我家の毛桃 この桃の木に花がいっぱい咲くだけで
  実がならないのであろうか。
  まさかそんなことはあるまいでしょうね。)

「桃」にわが娘、「元茂く咲く」に縁談が多いこと 
「実になる」に結婚を譬えて年頃の娘をもつ心配性の母親。

縁談は次から次へとあるが、一向にまとまらない。
こんなに可愛い娘なのにどうしてなのだろう。

「はしきやし」は「いとしい」
「毛桃」 桃の実に細かい毛が生えていることによる。
      古代の桃は小粒で酸味が強かったらしい。

なお、桃は初夏から出回りますが秋の季語になっています。

「 松反り(まつがへり) しひてあれやは 三栗の
    中上り(なかのぼり)来(こ)ぬ 麻呂といふ奴 」 
                      巻9-1782 柿本人麻呂歌集

  ( 鷹の松返りというではないが、ぼけてしまったのかしら。
    機嫌伺いに中上りもしない 麻呂という奴は )

「松反り」は「しひて」の枕詞、
        鷹が戻るべき手許に戻らず、高い木に返るの意。
        掛かり方は未詳。

「しいて あれやは」 頭が呆けた 身体に障害がある

「三栗」は中の枕詞 栗のいがの中に三つの栗、その真ん中の意で掛かる。

「中上り」(なかのぼり) 地方官が任期中に諸報告のため都に上ること。

「麻呂」 夫の名 男の一般的な名前

地方官の麻呂と云う男が帰省した時、都で留守をしている妻に、
「 任地に手紙も寄こさないで、まるで音沙汰なし。
  怪しからん。
  お前は俺を思う気がうせてしまったのか。」
と怒鳴ったところ

「 あんたこそ呆けたのではないか。 
  もっと頻繁に帰ることが出来るのに
  こんなに長く放っておいて。
  よく人のことが言えたものだ。」

とやり返したもの。
人麻呂が宴席で一人芝居した座興とも思われます。

万葉集での栗は3首。すべて枕詞として使われていますが、
毬栗(いがぐり)の中の実が3つ、その真ん中の実とは面白い。

「  足柄の 箱根の山に 粟(あは)蒔きて
     実とは なれるを 粟無くもあやし 」
                    巻14-3364 作者未詳(既出)

  ( 足柄の箱根の山に粟を蒔いてめでたく実がなった。
     なのに俺があの子に逢えないとは、おかしいではないか )

「粟無く」に「逢わなく」を掛けている。

一生懸命あの子に想いを掛けているのに見向きもしてもらえない。
片想いの辛さを嘆く男ですが、からっとしていて笑いを誘う1首。
粟の種蒔きは春、初秋に収穫。
古代の重要な穀物です。

「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて
    満ち盛りたる 秋の香のよさ 」 
                  巻10-2233 作者不詳(既出)

   ( 高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
     眺めもさることながらこの香りの良さ。
     早く食べたいものだなぁ。)

高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に松が林立し足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸が、
今が盛りとかぐわしい芳香を放っている様子を詠ったもので、
今日では想像も出来ない光景です。

茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡りますが、
ふんだんに採れた松茸は今や希少品。
昭和初期に6000トンを超えていた国産品の生産量は現在わずか37トン。
庶民にとって高嶺の花になってしまいました。

このような惨状になったのは、松茸の育成に欠かせない赤松の減少。
赤松は痩せた土地を好み、里に暮す人々が、燃料や肥料にする草木を集めることで
最適の条件を保ってきました。
然しながら、昭和30年代後半から農村に電気、ガス、化学肥料が普及し、
里人が山に入らなくなったため土地が肥沃になり、その結果広葉樹が繁殖し
松林を荒廃させたのです。

因みに現在の松茸生産量は中国775トン、アメリカ214、カナダ173、が御三家。
国産は長野県29トン、岩手県4、岡山県 1,8。
万葉で詠われた奈良はわずか0,3トンです。

    「 茸狩や 頭を挙れば 峰の月 」 蕪村

昭和28年頃、奈良市近郷の山では松茸がまだ沢山生えていました。
家族揃っての松茸狩り。
いくらでも採れました。
持参した七輪で火を起こして食べた「すき焼き」の美味かったこと。
あぁ、香り高い松茸が懐かしい!
今や1本1万円以上とはねぇ。

    「 松茸を 焼く七輪の 横に燗 」 梅田蘇芳


             万葉集599 (実りの秋)  完


             次回の更新は9月30日の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-09-22 19:43 | 生活

万葉集その五百九十八 (萩の遊び)

( 白毫寺の入り口から山門へ  奈良 )
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( 同 山門から境内へ  両側の萩が道をふさぐほどに )
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( 同 石段を上りきったところから )
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( 同 境内の桔梗も美しい)
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(  元興寺の群萩  奈良 )
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(  石舞台公園  飛鳥 奈良 )
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( 絞り模様の萩  神代植物公園  東京 )
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( 山萩  潮来  茨城県 )
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(  宋林寺  谷中 東京 )
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( 咲く萩、散る萩  向島百花園  東京 )
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「遊ぶ」とは元々祭祀にかかわる行為とされ、鎮魂、招魂の儀礼で歌舞を
奉納することをいうそうです。
巫女が神の依代であるヒゲノカズラ、ツルマサキ、ササなどを髪飾りにして、
鈴を鳴らしながら厳かに舞う。
今でも神社の儀式でよく見られる神事です。

万葉集での「遊び」は40例。
天皇の行為、国見、狩猟、野遊びに対して用いられ、さらに貴族の旅や
宴における詩歌、管弦を楽しむ雅やかな行為にも及んでいます。
「遊び」は時の経過と共に祭祀とは別の意味になっていったのです。

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
           今日(けふ)ぞ我が背子  花かづらせな 」 
                           巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、楽しく遊ぼうでは
 ありませんか )

中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)と称し、
格別な吉日としていました。
後に、3月3日に固定されて曲水の宴が行われていたものが
我国でも行われるようになったことを示す歌です。

ここでの花は桃と思われますが、「花蘰」(花で編んだ髪飾り)にして
頭に挿そうと詠っています。
植物の生命力にあやかりながら、わが身を飾ろうというわけです。


「 白露を 取らば消(け)ぬべし いざ子ども
           露に競(きほ)ひて 萩の遊びせむ 」 
                                巻10-2173 作者未詳



( 萩に置く白露、あれを手に取ったら消えてしまうだろう。
  さぁ、みんな、あの露と張り合って萩見の遊びを楽しもう )

当時、露は萩の開花を促すものとされていました。
露が「早く咲け」と催促すると、萩は恥じらって「いやよ いやよ」という。
そのような様子を万葉人は「競う」と表現したのです。

この歌は宴席でのもので、白露を萩の恋人かのようにとらえ、
「我々も露に負けないで萩を愛でよう」とおどけながら詠っています。

「いざ子ども」は親しみを込めた言葉で「おのおのがたよ」と
いったところでしょうか。

「 天雲に 雁ぞ鳴くなる 高円(たかまと)の
           萩の下葉(したば)は もみちあへむかも 」 
                           巻20-4296 中臣清麻呂

( 天雲の彼方にもう雁がきて鳴いている。
  ここ高円の萩の下葉も間もなく紅葉してしまうであろうなぁ。)

753年、秋もそろそろ終わりにさしかかる頃。
2~3人の官人がおのおの酒壺をさげて高円山の麓の高台に登り、
酒盛りをした時の1首です。

当時、雁が渡来すると、萩の落花が始まると考えられていました。
晩秋の時雨に打たれて黄葉が進む。
萩の下葉も間もなくもみぢし、やがて落ちてしまうだろう。
花を眺めつつ一献一献と美酒を味わい、行く秋を惜しむ作者です。

なお、高円は奈良朝官人の遊楽地で、頂上近くに聖武天皇の離宮や
志貴皇子(天智天皇の子)の春日宮がありました。

ある秋の晴れた日、皇子邸の跡地とされている萩の寺、白毫寺へ。
山門をくぐると、長い石段が続き、両側に枝もたわわに群萩が
咲き乱れて道をふさいでいる。
普段は幅2mある石段が、人がようやく通れる位にまで狭まり、
登るたびに紫、萩が頬をなでてくれます。
頂上まで約70段ばかり。
高台の境内に到着すると視界が大きく広がり、奈良盆地が一望。
彼方に生駒、金剛葛城山。
庭に萩や桔梗が咲き乱れ、名木、五色椿も健在。
境内の奥、高円山が見渡せるあたりに、笠金村が志貴皇子を偲んで詠った歌碑が
ひっそりと建っていました。

 「 高円の 野辺(のへ)の秋萩 いたずらに
            咲きか散るらむ 見る人なしに 」  
                        巻2-231 笠金村歌集(既出)

( 高円の野辺の秋萩。
  今は見る人もおらず、甲斐なく咲いては散っていることであろうか。 ) 
 
「咲きか散るらむ」は「咲き散るらむか」の意で、満開となって散る

    「 萩散るや 石段粗き 白毫寺」   筆者



             万葉集598 (萩の遊び ) 完

            次回の更新は9月25日(日)の予定です
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by uqrx74fd | 2016-09-15 20:11 | 生活

万葉集その五百九十一 (家持の百合と撫子)

( ヤマユリ  万葉植物園   奈良 )
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( 同上   源氏山公園   鎌倉 )
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( 同上   自宅 )
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( カサブランカ  自宅 )
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(   同上  )
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(  ササユリ  大神神社ゆりの苑   奈良 )
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(  カハラナデシコ  万葉植物園  奈良 )
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(    同上  )
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(  白ナデシコ  神代植物公園  東京 )
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(  ムシトリナデシコ  小石川植物園  東京 )
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 746年、大伴家持は越中国の長官(国司)に任じられました。
栄転とはいえ華やかな都から雪深い国への異動。
任期は5年の長きにわたります。

突然の命令で取る物も取りあえず単身赴任した家持は、持ち前の真面目さで、
日々の任務を無難にこなす傍ら歌作にも力を注ぎ、早や3年。

とはいえ、味気ない夜の一人寝は辛くてたまりません。
現地妻を求めたいと思っても部下の恋狂いを厳しく叱責した手前、
控えなくてはならない立場です。

「あぁ、あと2年も我慢しなければならないのか」と溜息をつきながら
都に残してきた妻、坂上大嬢(さかのうえ おほをとめ) への恋しさが
募っていたある夏の日、無聊を慰めるつもりで野原から自宅の庭に移植し、
丹精しながら育てた百合と撫子が見事な花を咲かせました。

愛妻の面影を連想させるような可憐な撫子。
百合の香りが馥郁と漂う中、鬱憤を晴らすかのように家持は詠いだします。

「 さ百合花 ゆりも逢はむと 下延(したは)ふる
    心しなくは  今日も経(へ)めやも 」  
                             巻18-4115 大伴家持

( 百合の花の名のように ゆり-後にでもきっと逢おうと ひそかに
 頼む心がなかったなら 今日1日たりとも過ごせようか。
 とても過ごせるものではない 。)

「ゆり」は「後(ゆり)」の意で「百合」と語呂が合うのでよく併用され、「いずれ後々に」。
「下延(したは)ふる」 心の中でひそかに思う。

「さ百合」の「さ」は「神聖」を意味し新婚の初夜にも飾られました。
当時、関東以北で自生するのは「山百合」、関西以南では「ササユリ」と
されているので、家持が越中で詠んだのは山百合。

詞書に庭の花を見て作った歌とありますが、植栽は非常に難しいのです。
山中に自生している百合の根は深く、庭に移しかえると大概は枯れてしまいます。
というのは、山百合の根は2つあり1つは栄養を摂るための「上根」、
今1つは「下根」といい球根をウイルスから守るため地中深く延びて
下へ引きずり込む役割を果たしています。
庭では余程深く掘らないとうまく育ちません。
家持さんはそのことも知っていて、上手く花を咲かせたのでしょうね。

大輪の花を咲かせ、濃厚な香りを漂わせる山百合は、後々、世界中で愛され、
「カサブランカ」も山百合の交配種から生みだされたものです。

   「 百合の露 揚羽のねむる 真昼時 」     飯田蛇笏

続いて撫子の花。

 「 なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが
              笑(え)まひの にほひ 思ほゆるかも 」  
                               巻18-4114 大伴家持

( なでしこの花を見るたびに あの愛しい娘子の笑顔のあでやかさが
  思われてなりません)

「娘子(をとめ)らが」: 妻、坂上大嬢をさすが一般の女性を呼ぶように詠ったもの
           「ら」は親愛を示す言葉
「 笑(え)まひの にほひ 」: 美しい笑顔

 「 我がやどの なでしこの花 盛りなり
     手折りて一目 見せむ子もがも 」
                      巻8-1496 大伴家持(既出)

( 我が家の庭の、なでしこの花が真っ盛り。
  手折って一目なりと 見せてやる子がいればいいのになぁ。 )

万葉集中、撫子は26首、そのうち家持は11首も詠っています。
清純で美しく、楚々とした佇まい。
愛しい人を撫でる心地がするのでその名があるそうですが、
庭の花を眺めながら愛妻の姿を瞼に浮かべている姿は
なんとなく寂しげです。

それから程なくして家持は政務報告のために上京。
「もう、単身赴任はいやだ」と妻を越中に伴い、浮き浮きしながら帰任し、
その後、公私共に充実した時を過ごして歌作も最盛期を迎えました。

「 撫子が さきたる 野辺に 相おもふ
           人とゆきけむ いにしへ おもほゆ 」 伊藤左千夫



               万葉集591 (家持の百合と撫子 )    完


                次回の更新は8月5日です。
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by uqrx74fd | 2016-07-29 00:00 | 生活

万葉集その五百七十六 (常盤)

( 常盤なるもの 日の出 精進湖より)
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( 落日の生駒山   奈良 )
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( 皆既日食 )
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( 渦巻銀河  宇宙博で )
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( 満月)
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( 母なる海   ハワイで)
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( 父なる山 三島で)
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( さざれ石: 小石、細かい石が集まった隙間に炭酸カルシウム、水酸化鉄が入り込み
         固まったもの。学術名 石灰質角礫岩 前の説明文 橿原考古学研究所)
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( 宮滝の巨岩  奈良吉野)
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( 常盤の松  善養寺  東京小岩 )
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( あれ見よ かしこの常盤の杜は 心の故郷 我らが母校 
             早稲田大学校歌3番  大隈庭園にその面影を残す)
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( 石山寺縁起 大岡信ことば館  三島  画面をクリックすると拡大できます)
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「ときわ」の語源は「とこいわ」とされ「とこ」は常、「いわ」は「岩」で
「岩のように不変、永久に」という祝福の気持ちがこめられた言葉です。

「とこ」から派生したものに「常夏」「とこ葉(常緑)」「とこしえ」などがあり
古くは常盤国、常盤御前、現在では鉄道路線や駅、船、学校、会社名、
神社(水戸黄門を祀る)、姓名(常盤貴子、常盤新平など)、常磐津、はては
饅頭、泡盛の銘柄などにいたるまで、ありとあらゆる分野で幅広く
用いられており、この言葉がいかに万人に好まれているかを窺わせています。

万葉集では宴席での寿ぎ歌、不変と移ろうものとの対比による詠嘆として
「常盤なす」「常盤にいませ」「常盤なる」など4首見えます。

「 吉野川 巌と栢(かや)と 常盤なす
   我れは通はむ  万代(よろづよ)までに 」
                         巻7-1134 作者未詳


( 吉野川の巌と山に根を張る栢の木が変わることがないように
  我々もこれから変わることなく、いついつまでもこの地に通おう )

古代、吉野は都の人たちにとって憧れの地でした。
山あり清流あり、花咲く木々、そして鮎や山女魚、松茸、栗、山菜,筍などのご馳走。
天皇の行幸42回、特に持統天皇は妃時代も含めると34回も訪れた聖地です。

念願かなって吉野を訪れた作者は、仲間たちと川のほとりで飲めや歌えやの宴会。
「何度でも訪れたい素晴らしい地だ」と褒めそやしています。

なお歌の結句「万代までに」の原文が「万世左右二」となっており、平安時代、
源順(みなもとのしたごう)が「 よろづよ までに 」と訓み解くのに
四苦八苦した逸話が残されています。(掲載写真参照)

「 春草は 後(のち)はうつろふ 巌なす
     常盤にいませ 貴(たふと)き我(あ)が君 」 
                      巻6-988 市原王(既出)

( 春草はどんなに茂ってものちには枯れて変わり果ててしまいます。
 わが貴き父よ! どうか巌のように、いつまでも変わらず
 お元気でいて下さい)

「君」は自分が敬愛する人(主人、父母、配偶者、友人、知人)をいい、
作者が宴席で 父、安貴王の健在を寿いだもの。
春草と巌を対比させ、調べは荘重。
安貴王は天智天皇の曾孫、親愛と深い愛情が感じられる一首です。

「 八千種(やちくさ)の 花はうつろふ 常盤なる
     松のさ枝を 我れは結ばな 」 
                      巻20-4501 大伴家持(既出)


( 折々の花はとりどりに美しいけれどやがて色褪せてしまいます。
 我らは永久に変わらぬ、このお庭の松を結んで ご主人の長寿とご繁栄を
 お祈りいたしましょう。)

758年 作者と親しかった中臣清麻呂宅での宴の折の歌。
「松が枝を結ぶ」は、枝と枝とを紐などで結び合わせて無事、安全を祈る
おまじない的行為で、結ぶ紐は自分の魂の分身であると考えられていました。

家持は主人と友人の繁栄と長寿を祈りつつ、
「 この松のごとく長寿は保ちえないとしても、お互いを結ぶ
友情の絆は不変でありたい」と願っていたように思われます。

なお、「紐を結ぶ」という行為は、「御神籤を神木に結ぶ」「慶弔の袋を紐(水引)で結ぶ」、
「組み紐」、さらに「印刷された贈答用の水引き付熨斗紙で包む」等、
形を変えながら今もなお受け継がれています。

「 常盤なす 石室(いはや)や今も ありけれど
       住みける人ぞ 常なかりける 」
                      巻3-308  博通法師(伝未詳)

( 石室は常盤のように昔と変わらず今もあり続けているけれども
 ここに住んでいた人は常住不変ではなかったなぁ )

作者が紀伊を訪れ、伝説の人、久米の若子(わくご:若者)が住んでいたという
三穂の石室を見た時の感慨のようですが、どのような伝説であったかは不明です。
ただ、「万葉の歌 和歌山 村瀬憲夫著 保育社」によると

『 都から難をのがれて紀伊国にいらっしゃった久米の若子は人目、人言を避けて
  三穂の岩屋にひっそり住んでいらっしゃった。
  そこで三穂の女性と契りを結び、やがて都へ帰って栄達する。
  ところが三穂の女性は(源氏物語の)明石の君と筋書きが違い、ひっそりと
  この地で果てた。
  こう考えると、久米の若子は日本書紀にある
  「またの名は来目稚子(わくご)とある「弘計王(をけのみこ)」
  すなわち「顕宗天皇(けんぞうてんのう)という説がもっともふさわしい。

  父が雄略天皇に殺されたとき、兄の憶計王(おけのみこ)とともに難を逃れて
  播磨の国に行き、そこで志自牟(しじむ)という家に身を隠し、
  馬飼い、牛飼いの仕事をして世を過ごす。
  その後、清寧天皇(せいねいてんのう)の世に発見され、互いに譲り合いながらも
  弟の弘計王(をけのみこ)が位につくのである。

  もちろん紀伊国とは関係のない話だが、こと伝説となるとあちらこちら駆け巡る。
  弘計王すなわち久米稚子が、紀伊国の三穂の岩屋に隠れ住んでいたという
  伝説が残っていたかもしれないのである。』 と
  想像たくましく述べておられます。

また、伊藤博氏は
「 和歌山県日高郡美浜町の神社の裏手の崖を下りたあたりに巨大な石窟があり
巨岩も沢山転がっている。
このあたりが詠われた地ではないか」とも。

「常盤」で忘れられないのは「トキワ荘」。(東京都豊島区東長崎)
手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森正太郎、赤塚不二夫、園山俊夫など
錚々たる漫画家が若き頃住み、お互いに切磋琢磨していたと言われる木造アパートです。
1982年、老朽化のため残念ながら取り壊されましたが、今なお伝説の地として
記憶に新しく、小説、映画化されました。

 「 牛若の 目がさめますと 常盤言い 」 江戸川柳

          ( 強引にくどき寄る清盛、 避ける常盤御前 )

             万葉集576 (常盤) 完


    次回の更新は4月22日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-04-15 07:13 | 生活

万葉集その五百六十九 (梅愛づる人)

( 満開の梅  奈良万葉植物園 )
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( 馥郁とした香りが漂う  東大寺戒壇院の梅 )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 同上 )
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(  月ヶ瀬   奈良 )
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(  同上 )
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( 皇居東御苑の白梅 )
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(  同上 珍しい形の紅梅の木 )
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(  曽我梅林の枝垂れ梅  小田原市 )
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(  富士山が見えるかどうかは運しだい 曽我梅林 同上 )
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「 もっそりと 毘盧遮那仏(びるしゃなぼとけ)の 古りゐます
         寺よぎり 梅の香につつまれぬ 」      大滝貞一
                              毘盧遮那仏 : 東大寺大仏
如月(きさらぎ)が終わり、まもなく弥生。
東大寺戒壇院の裏手に咲く白梅が馥郁とした香りを漂よわせ、
道行く人々を楽しませてくれる時期になりました。

「 おぉい! 古の都へ梅見に行こう 」
と声をかけると集まったのは仲間4人衆。
何しろ60年近い付き合い、気心が知れた友ばかりです。
あっという間に話がまとまり、たちまち奈良へ。

晴天に恵まれ、最高のお花見日和。
鑑真和尚が開基された東大寺戒壇院の四天王像(国宝)を拝観し、
大仏池に通じる裏側に廻ると今が盛りと咲き誇る白梅。

「 おぉ!今年も逢えたな 」と 声をかける。

「 春さらば 逢はむと思(も)ひし 梅の花
          今日の遊びに 相見つるかも 」
                    巻5-835 高氏義通(かうじのよしみち)

( 春になったら是非出会いたいと思っていた梅の花。
 念願かなって今日この宴で皆でめぐりあうことができたなぁ )

さぁ、さぁ花の下で酒盛りだ。
当節、梅の下での酒盛りはあまり見かけないが、まぁいいか。

「 梅の花 今盛りなり 思ふどち
    かざしにしてな 今盛りなり 」 
                    巻5-820 葛井大夫(ふじい まへつきみ)
( 梅の花は今が真っ盛り。 
    さぁ、気心知れた皆の髪飾りにしょう。
    梅の花は今が真っ盛りだ )

昔の人は梅や桜の枝を頭や着物に挿してその生命力にあやかろうとしました。
勿論、現在は枝折厳禁。
一献また一献と盃を酌み交わしながら、花や香を愛づる紳士ばかりです。

突然一陣の風、花びらが空に舞い、ひらひらと流れ落ちてきました。
「 そうだ、大伴旅人がこんな歌を詠っているぞ」と披露する。

「 梅の花 夢に語らく みやびたる
     花と我(あ)れ思(も)う 酒に浮かべこそ 」
                           巻5-852 大伴旅人(既出)
( 梅の花が夢でこう語った。
    「 私は風雅な花だと自負しております。
      どうか酒の上に浮かべて下さい 」 と)

念願通り、花を盃に浮かべてあげました。
「 そういえば履中天皇(438年)の盃に桜の花びらが舞い落ちたという
  風雅な話もあったなぁ」
とふと思いだす。

宴はいよいよ佳境。

「 梅の花 折りてかざせる 諸人は
     今日の間は 楽しくあるべし 」 
                  巻5-832  荒氏稲布(くわうじの いなしき)


( 梅の花をかざしにしている各々方 
  今日は尽きない楽しみの一日を過ごしましょう )

時間が経つのも忘れ、数々の思い出を語り合う。
喧嘩したこともあったっけ。
それにしても皆年取ったなぁ。
それぞれ苦労もあっただろうに、微塵も感じさせない武士(もののふ)たち。

 「 年のはに 春の来たらば かくしこそ
         梅をかざして 楽しく飲まめ 」 
                   巻5-833 野氏宿奈麻呂( やじの すくなまろ)

( これからも 春が巡ってくるたびに このようにして梅をかざしながら
  楽しく飲もうではないか )

「そのためには、みんな体を鍛えて元気でいなきゃ」と口々に。

ふと気が付くと肌寒い。
まもなく黄昏、人影もまばらになってきた。
突然、東大寺の大鐘が鳴り響く。
余韻を残した美しい調べに聴き惚れながら、
「やっぱり奈良はいいな」と呟く。

名残惜しいがそろそろお開きにいたしましょう。
ではまた、来年までさようなら。

  「 としひとつ 又もかさねつ 梅の花 」 鬼貫

( 本稿の歌はすべて730年大宰府長官大伴旅人主催の梅花の宴32首の
  中から選び、現代風に並べ替えたものです。)
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by uqrx74fd | 2016-02-26 06:31 | 生活

万葉集その五百六十七 (光明皇后)

( 法華寺山門  奈良 )
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( 同  本堂 )
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( 厄除けの茅の輪  同 )
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( から風呂  同 )
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( 本尊 十一面観音像:国宝  同 )
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( 光明皇后  小泉淳作画 )
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(  同上    林屋拓蓊:はやしや たくおう 画
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(  同上絵本  梶田幸恵 作、絵)
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(  光明皇后陵  佐保山の麓、聖武天皇の隣 )
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( 光明天皇が人々の為に作ったと伝えられる守り犬  昭和45年年賀切手 )
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光明皇后は701年 藤原不比等と橘三千代の間に生まれ、安宿媛(あすかべひめ)と
名付けられました。
聡明にして美しく、光り輝くごとしで、長じて光明子(こうみょうし)とよばれ
16歳にして後の聖武天皇の皇太子妃となり,阿倍皇女(後の孝謙天皇)を出産されます。

724年、聖武天皇即位。
5年後の729年光明子は妃から皇后に。
立后が遅れたのは、当時、皇后は天皇亡き後女帝になる可能性があり、出自は
皇族出身に限るという不文律があったため長屋王などが強く反対し難航したためです。

天皇の熱意と藤原家の強力な後押しで皇后に冊立された光明子は、内外の政治混乱、
大飢饉、大地震、悪病の流行、大仏建立等で疲労困憊する夫を献身的に支えます。

仏教に篤く帰依した皇后は、東大寺、国分寺の設立を天皇に進言し、
自らも興福寺五重塔や西金堂を建立したり、貧しい人を救済する施設「悲田院」、
医療施設「施薬院」を設置されました。
また、能書家としても知られ、王羲之の「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)
されたものが、正倉院に収められており、その書は

『 筆力 勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない
  美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
  まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』

との最高級の評価がなされています。(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)

さらに、聖武天皇崩御後四十九日に遺品などを東大寺大仏に寄進しその宝物を
収めるための正倉院を創設するなど、その功績は大なるものがあります。

万葉集での皇后の歌は3首。
慈愛に満ちたお人柄を偲ばせるものばかりです。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
     この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                         巻8-1658 光明皇后

( この降り積もる雪の見事なこと。
 わが背の君と一緒に見ることができましたら、
 どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 皇后40歳。

「 朝霧の たなびく田居(たゐ)に 鳴く雁を
     留(とど)め得むかも  我がやどの萩 」
                          巻19-4224 光明皇后


( 朝霧のたなびく田んぼにきて鳴く雁。
  我が宿の萩はその雁を引きとめておくことができるであろうか )

聖武天皇吉野行幸の折、吉野に美しく咲く萩と雁が音を聴き、
平城京の自邸に思いをいたした宴席での歌と思われます。

当時、雁と萩との取り合わせは秋の花鳥の代表的なものと考えられていました。
さらに、「雁に男性、萩に女性を連想するのはこの時期の共通の詩情」(窪田空穂)
だそうで、この説をもとに深読みするならば
「 私皇后(萩)は彷徨する天皇(雁)を留めることができようか」とも解釈できます。
 聖武天皇は740年九州で藤原広嗣の乱が起きた時、都を次々と遷都し
5年間地方を彷徨した時期がありました。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                          巻19-4240  光明皇太后(既出)

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

孝謙天皇の時世、第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の旅の無事を
祈願した神祭りの歌。
清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
皇太后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠ります。
威厳と力強さが感じられ、当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なもので
あったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

「 いにしへの 古き堤は 年深み
    池の渚に 水草(みくさ)生ひにけり 」  巻3-378 山部赤人


( ずっとずっと以前からのこの古い堤は 年の深みを加えて
  池の渚に水草がびっしり生い茂っていることよ  )

皇后の父、藤原不比等がかって住んでいた屋敷の庭園で故人を偲んで詠ったもの。 
法事の折のものかも知れません。
いにしへ、古き、年深みと時の経過と共に神々しくなっていくさまを詠い
鎮魂の意を奉げています。

「 ふぢはらの おほききさきを うつくしみ
    あひみるごとく あかきくちびる 」   会津八一


佐保路の終わり、平城京跡近くに法華寺という尼寺があります。
( 法花寺とも記し 山号は「法華滅罪寺」)
もと藤原不比等の邸宅であったものを没後、皇后宮、さらに諸国の
総国分尼寺として女人信仰の中心となった古刹で、本尊は十一面観音立像(国宝)、
皇后をモデルとしたものとも伝えられている美しいみ仏で赤い唇が印象的です。

和辻哲郎は古寺巡礼で次のように述べています。

『 この観音は何となく秘密めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。
 胸に盛り上がった女らしい乳房。
 胴体の豊満な肉づけ。
 その柔らかさ、しなやかさ。
 さらにまた奇妙に長い右腕の円(まる)さ。
 腕の先の腕輪をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に
 移っていく間の特殊なふくらみ。
 それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、
 しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような
 一種隠微(いんび)な蠱惑力(こわくりょく)を印象するのである 』 (岩波文庫より)
  
境内はいつも箒の目が清々しく、凛とした風格が漂い、東門の奥には
千人の入浴を発願し、千人目の病人の願いにより患部の膿を
吸い取ったところ、病人は阿閦如来(あしゅくにょらい)の化身で、
光を放って昇天したと伝えられる「から風呂」が残されています。

我国社会福祉の原点と云うべき建物。
当時としては珍しい蒸し風呂で近年まで焚かれているそうです。

最後に、荒木靖生著 万葉歌の世界 (海鳥社)からです。

『 数年前、奈良の佐保路を散策していたとき、法華寺の白い築地塀の外側に
  さらに からたちの生垣が百メートル近く続いていたのが印象的であった。
  
  皇后の母「県犬飼 橘三千代」の姓の一字「橘」は後に賜姓されたものである。
 「からたち」すなわち「唐橘」の「橘」が何かしらそんなことに
  かかわりのあるものとして、後世の人たちが「からたち」の生垣を
  作ったのだろうと考えながら、おりからの小雨に濡れる白い花に
  目を落としていた。 』

        「 法華寺に 守り犬買う 小正月 」 河合佳代子

            守り犬: 精進潔斎した門主と尼僧のみで作る土製彩色された子犬。
            小正月: 旧暦の正月15日あるいは正月14日~16日





















               
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by uqrx74fd | 2016-02-11 14:12 | 生活

万葉集その五百六十五 (おもてなし)

( 満開の桜を前にしての一服  最高のおもてなし  長谷寺 奈良)
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( お膳をお持ちしました   国立歴史博物館 佐倉市 )
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( 遊楽メニユー  鰻  野田岩  麻布 )
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( すし乃池  谷中 )
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( 大天もり  まつや  神田 )
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( ひれかつ  蓬莱屋  御徒町 )
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( 親子丼  玉ひで  人形町 )
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( 釜めし 志津香  奈良 )
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( お好み焼き  おかる 奈良 )
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(  茶粥  御蓋荘  奈良 )
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( わらび餅  二月堂 龍美堂 奈良 )
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( 粟ぜんざい 桜湯  竹むら  神田 )
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( つばらつばら  鶴屋吉信  京都 )
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東京オリンピック招致プレゼンで注目を浴び、一躍流行語になった「おもてなし」。
その語源は「お」と「もて」と「なす」に分解して考察するそうです。

「お」は美化語。
「もて」は「もて騒ぐ」「もて扱う」「もて隠す」などのように
動詞に付属して強調されるときに使われる接頭語で、漢語「以」の訓読「もちて」が
変化して「もて」となったもの。(日本国語大辞典:小学館)

「なす」は「成す」で (モノを)「そのように扱う、そのようにする」。

従って、「もてなす」は 元々「取扱うことを強調する場合に使う言葉」、
今流でいえば 「 やっておいたぞ!」「 処置しておいたぞ!」といった
ところでしょうか。
乾 善彦教授(関西大学国文学)によると、現在のように接待に関して用いられる
ようになったのは中世以降とされています。

「モノ」には目に見える物体と見えない事象があり、「おもてなし」の神髄は
「表裏なく」「見返りを求めず」「物心両面で」遠来のお客に心を尽くすこと、
現在のお遍路さんの接待にその精神がみられるとでもいえましょうか。

万葉集で「もてなす」という言葉はみえませんが「おもてなし」の心は
古代の人々にも十分理解され、日常生活に溶け込んでいたことが
次の歌のやり取りからも窺われます。

751年 正月3日(現在の2月3日頃) のことです。
越中の官人、内蔵介縄麻呂(くらのすけ つなまろ)という人物の館で
酒宴が催されました。
ところが当日は予想だにしなかった大雪。
それでも大伴家持以下招待客は、なんとか辿りつくことができ、
全員揃ったところで宴が始まりました。

まずは来賓の挨拶です。

「 降る雪を 腰になづみて 参り来(こ)し
    験(しるし)もあるか 年の初めに 」      巻19―4230 大伴家持

( 本日はお招きいただき誠に有難うございました。
  思わぬ大雪。
  腰までどっぷり浸かり難儀いたしましたが、何はともあれと参上させて戴きました。
  お目にかかれて嬉しゅうございます。
  それにしても年の初めに雪が降るとは、誠に縁起が良いことでございますね )

当時、雪は豊作のしるし、幸先が良いものとされていました。
主人を寿ぐ一首で心遣いをみせた作者。

迎える主人はあっと驚く趣向を披露します。
庭に降り積った雪で大きな岩を造り、無数の造花の撫子を植えて歓待したのです。
まさに雪中花、家持が殊の外撫子を好んでいたことを知った上での
さりげないおもてなしです。

「 なでしこは 秋咲くものを 君が家の
       雪の巌に 咲きにけるかも 」   
                           巻19-4231  久米広縄


( 撫子は秋に咲くものなのに、これはこれは、驚きましたなぁ。
 あなた様のお家では雪の岩に花が咲いていたのですね 。)

「 秋から雪の降る今まで咲き続けていたのですね。」と主人の趣向に驚き、
感謝しつつ家の繁栄を寿いだ歌。

来客に喜んでもらえ、苦労した甲斐があったと主人もにんまりしたことでしょう。

「 雪の山斎(しま) 巌に植ゑたる なでしこは
      千代に咲かぬか  君がかざしに 」
              巻19-4232 蒲生娘子(かまふの をとめ) 遊行女婦(うかれめ)

( 雪の積もった美しい園に植えてある撫子。
  いつまでも枯れないで 千代八千代に咲いてくれないものでしょうか。 
  あなた様の挿頭(かざし)にするために )

主人は文藝の嗜みがある遊行女婦(うかれめ)を待機させ席に侍らせたようです。
座を華やかにと心配りした主人の粋な計らいです。
前の2首の意を受け、「あなた様の挿頭(かざし)したい」つまり撫子を自分に
譬え、「私がご主人さまの頭を飾りたいものです」と艶なる取り持ちで
座を賑やかにしています。

遊行女婦とは後年の遊女と異なり、高貴な人と対等に渡り合える高い教養の持主。
主人と客をたてた機転ある一首です。

宴はたけなわとなり気が付くと夜が明け始めています。
時を告げる鶏、一同「もう帰らねば」とそわそわ。
周りの気配を感じた主人が、相手から「そろそろお暇を」と言いださない前に
機先を制した心遣いの言葉をかけます。

「 うち羽振(はぶ)き 鶏(とり)は鳴くとも かくばかり
    降り敷く雪に 君いまさめやも 」 
                 巻19-4233 内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきのつなまろ:主人)


( 鶏が羽ばたいて時を告げて鳴こうとも これほどまでに降り積もった雪の中を
 皆さん、どうやってお帰りになるのですか。
 さぁさぁ 遠慮しないで腰を落ち着けて下さい。
 飲み直し致しましょうや )

やれやれと浮かした腰をまた戻し、家持が感謝の意を。

「 鳴く鶏は いやしき鳴けど 降る雪の
     千重(ちへ)に積めこそ 我が立ちかてね 」 
                                巻19-4234 大伴家持


( 鶏が朝を告げてしきりに鳴き立てており、私共はそろそろお暇しなければ
 ならないと思っておりましたが- -。
 実は内心ではこの積り具合では帰れますまいと困惑いたしておりました。
 ご配慮有難うございます。
 ではお言葉に甘えまして )

迎える主人も招かれた客人もお互いに心遣いをしながら楽しい時を過ごす。
造花の撫子は茶室の掛け軸にでも相当するものでしようか。
我国の繊細な「お・も・て・な・し」の心は古代からずっと育まれていたのです。

 「 呑明(のみあ) けて 花生(はないけ)にせん 二升墫 」 芭蕉

   尾張の人から酒一樽,木曽うど、茶を贈られた時の吟詠。
   多くの門人が集まっての句会。
   斗酒なお辞せずの浮き浮きした気分が漂う一句。
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by uqrx74fd | 2016-01-29 06:51 | 生活

万葉集その五百六十三 (鷹狩)

( 鷹狩の埴輪 鏡神社 奈良新薬師寺の隣)
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( 獲物を狙う鷹  浜離宮庭園 東京 )
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( 諏訪流放鷹術を披露する鷹匠の行進 浜離宮庭園 )
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( 動く鷹をなだめながら  同上 )
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( こちらの鷹は泰然自若  同上 )
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( 放鷹前の瞑想  同上 )
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( ますは師匠から  同上 )
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(  同上 )
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( 向こう側の鷹匠の腕を目指して水平に飛ぶ鷹  同上 )
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( 見事に腕に止まりました  広げた翼が美しい )
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( 美人鷹匠が目の前に来てくれ色々な質問に答えてくれました 鷹は微動だにしません) 
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( 同上 )
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( 同上 )
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 「 鷹舞うて 音なき後山 ただ聳ゆ 」 飯田蛇笏

鷹狩は放鷹(ほうよう)、鷹野(たかの)ともいわれ、飼い馴らしたイヌワシ、オオタカ、
ハイタカ、ハヤブサなどを放って、鳥類や兎、狐などを捕えさせる狩猟をいいます。

その歴史は古く、紀元前3000~2000年頃中央アジア、モンゴル高原に発祥したと
想定され、中國では紀元前680年、我国は鷹狩を表現した古墳時代の埴輪が
発掘されているので太古に渡来していたと思われますが、文献での記録は
仁徳天皇の時代(355年)、鷹を調教する鷹飼部(たかかいべ)が置かれたという
日本書記の記述が最古のものとされています。

鷹狩は広大な狩場、高度な飼育技術をもつ鷹匠が必要とされるので、
天皇、皇族、貴族、地方の豪族の権力の象徴とされていましたが、
時代の推移と共に武士達も鍛錬をかねて行うようになりました。

狩をするときは飛んでいる鷹の位置を知るために尾羽に小さな鈴をつけ、
獲物を見つけて飛び立つと「リンリンリンリンリーン」と涼やかな音が
空を渡ってゆきます。

「 都武賀野(つむがの)に 鈴が音(おと) 聞こゆ
     可牟思太(かむしだ)の 殿の中ちし 鳥猟(とがり)すらしも 」
                  巻14-3438  作者未詳

( 都武賀野(つむがの)で 鈴の音が響いているのが聞こえる。
 可牟思太(かむしだ)のお館の 次男坊様が鷹狩をなさっているらしい。) 

「都武賀野(つむがの)、可牟思太(かむしだ)」: 東国の一地方なるも所在不明。
「鈴が音」: 鷹の尾羽につけた小鈴の音 
        もともとは草むらの中の鷹の位置を知るために付けたもの
「殿」:    土地の豪族の立派な邸宅、 
「中ち」 :  次男坊  自由闊達、凛々しい若者を想像させる

この歌から地方豪族も鷹狩を楽しんでいたことが窺われ、鳥猟(とがり)と
云われていたようです。

何かの作業をしている娘のもとに涼やかな鈴の音が響いてきた。
「 あぁ、若殿が狩りをなさっている 」
颯爽と馬を駆けさせている姿を思い浮かべながらうっとりと聞き惚れている。
娘は以前、若様をどこかで見かけたのでしょうか。
ほのかな恋心を抱いているのかもしれません。

万葉集での鷹狩は7首、そのうち大伴家持が6首、時の越中国守は
大の鷹好きでした。
まずは家持の長歌の訳文から。

「- 秋ともなれば 萩の花が咲き匂う石瀬野(いはのせ)に
  馬を駆って出で立ち 
  あちらこちらに 鳥を追いたて
  獲物に向かって放つ鷹の 鈴の音もさわやかだ。 

  空のかなたを仰ぎ見ながら 
  悶々としていた心のうちを晴らして
  心嬉しく 思い思いしながら  
  その夜は枕をつけて寝る 

  妻屋の中に 止まり木を作って
  そこに大事にすえて 飼っている
  この真白斑(ましらふ)の鷹よ  」     
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
訓み下し文 

  「 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 
     馬だき行きて 
     をちこちに  鳥踏み立て 
     白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り
     振り放(さ)け見つつ 
     いきどほる  心のうちを 思ひ延べ
     嬉しびながら  枕付(まくらづ)く
     妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ
     据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
一行ずつ読み解いてゆきます。

 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 

        (石瀬野(いはのせ):高岡市庄川左岸石瀬(いしぜ)一帯)

  馬だき行きて 
             ( 馬の手綱を操って)

 をちこちに  鳥踏み立て 
            ( あちらこちらに 鳥を追い立てて )

 白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り

         ( ゆらに:さわやかに 
           あはせ遣り:獲物をめがけて手に据えた鷹を飛びたたせて )

  振り放(さ)け見つつ 
              ( 大空の彼方を仰ぎみながら)

 いきどほる  心のうちを 思ひ延べ

              (胸につかえていた鬱屈を晴らし)

  嬉しびながら  枕付(まくらづ)く

             ( 心楽しく 枕をつけて寝る )

   妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ

            ( 寝室に 鳥を止まらせる台を作り )

  据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」

   ( 据えて飼う 尾羽に斑(まだら)が入った白鷹よ )

                               巻19-4154(一部) 大伴家持

反歌

 「 矢形尾(やかたを)の 真白の鷹を やどに据ゑ
     掻き撫で見つつ 飼はくしよしも )  
                           巻19-4155 大伴家持(既出)

( 矢のような形をした尾をもつ白い鷹を家の中で飼い、
     いつも優しくかき撫でて 大切にしている私の鷹。
     実に可愛いなぁ )

作者は心の中に鬱屈するものがあり、気晴らしに鷹を空中に放したところ
心が晴れたと詠っていますが、都から遠く離れた越中の地に単身赴任し
最愛の妻、坂上大嬢と長らく逢えなかったこと、大伴家に衰退の兆しが見え、
出世街道から外れてゆく寂しさなどが重なっていたのかも知れません。
それにしてもいささか異常と思われるくらいの鷹への執着ぶりです。

「 夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母(たのも)しき 」 芭蕉

天皇、貴族のものとされていた鷹狩は、戦国時代から近世にかけて武家の間で流行し
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、家光などが特に好み、慶長年間(1596~1615)には
鷹匠が116名もいたそうです。
1716年、8代吉宗の時代には江戸近郊594村という広大な地域を公儀の鷹場とし
慶応2年(1866)の廃止まで続きました。
徳川時代の鷹狩は民情視察、治安維持などの目的もあったようです。

現在一般公開されている浜離宮庭園はもと将軍家の御鷹場だったといわれ、
毎年正月2~3日、この地で「放鷹術」が公開されています。
技を披露されるのは信州諏訪大社ゆかりの諏訪流の方々。
江戸将軍家お抱え鷹匠の流れを継承し、宮内省鷹匠でもあった16代花見薫氏に
敬意を表して昭和初期の鷹匠衣装を正装とされているとのこと。

大観衆が見守る中、7人の鷹匠の紹介をかねて行進開始。
何と!若い女性が5人。
しかも美人揃いにはびっくり仰天しました!!
各々、手さばきも見事に鷹を放ち、鳩を捕えさせたり、高所から急降下させて
獲物を獲る術は、古の鷹狩を彷彿させ新春にふさわしい華やかな行事でありました。

   「 鷹据うる 人に逢ひけり 原の中 」 正岡子規
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by uqrx74fd | 2016-01-14 07:28 | 生活

万葉集その五百六十一 (新年の歌:申)

( 謹賀新年 本年もよろしくお願い申し上げます )
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( 本年の干支は申  上高地明神池への途中で )
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( 干支文字切手 )
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( 三番叟手拭  大野屋製:銀座   三番叟:さんばそう については本文で説明)
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( 三番叟 扇子  三越本店ショウウインドウ )
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( 一刀彫  奈良 )
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( 三番叟 奈良の骨董品店で )
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( 猿面  京都物産館:八重洲口 )
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( 三番叟香合  赤膚焼  尾西楽斉作  月刊ならら表紙より )
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( 奈良町庚申堂 )
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( 同 軒先に猿の魔除けを吊す家々 )
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( お年賀 虎屋羊羹 )
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「 新(あらた)しき 年の初めは いや年に
     雪踏み平(なら)し 常にかくにもが 」 
                        巻19-4229 大伴家持


( 新しい年の初めは 来る年も来る年も 雪を踏みならして
  いつもこのように賑々しくありたいものです。)

751年正月 越中国守の新年賀宴での歌。
その日1mもの大雪が積ったと詞書にあり、
「 人々は雪を踏みならして目出度い新年を祝ってくれる、
このめでたさがずっと続いて欲しいものです」
と挨拶したもの。
当時大雪は豊作の瑞兆とされており、天下泰平、実り豊かな新年を祝う喜びが
あふれている一首。

なお、「新(あらた)しき年の初め」や「初春」(はつはる)は、天平の終わり頃に成立した
慣用表現で、1月1日から7日までをいい、現在も綿々と受け継がれている
由緒ある言葉です。

本年は申年。
申は正式には「しん」と訓み、元々稲妻を表した象形文字とされていますが、
後に「伸」の原字になり、「草木が伸び切り、果実が成熟して固くなってゆく」
状態を表すとされています。

動物の猿が当てられている理由は全く不明ですが、「さる」は病や不幸が
「去る」に通じるので神社などで祀られて魔除けとされたり、
能楽で3番目に演じられる三番叟(さんばそう)が猿楽に由来し五穀豊穣を寿ぐ
神事的な内容であるため猿の飾り物が多く作られています。

奈良の猿沢池からほど近いところに「ならまち」とよばれる古い街並みを残す
一角があり、中心部に青面金剛像を祀る庚申堂、その前面に猿の石像が
置かれています。
青面金剛は文武天皇の時代(697~707年)、悪疫が流行したときに町を守った神様、
猿はその使者とされ、猿のぬいぐるみを家々の軒先に吊るし魔除けとしています。
厄災を代わりに引き受けてくれるので「身代わり猿」ともよばれ、
大きいものは大人、小さなものは子供、家族の数だけ吊るしているそうです。
町中吊るし猿が溢れているところは日本広しといえどもこの町だけでありましょう。

「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
    人をよく見ば  猿にかも似む 」   
                             巻3-344  大伴旅人(既出)

( あぁ、見られたものじゃないよ。
 わけ知り顔して「俺は酒を飲まないんだ」という奴をよくよく見ると
 まるで小賢しい猿そっくりではないか )

万葉集唯一の猿の歌です。
旅人が何故酒飲まぬ人を猿に喩えたのかよく分かりませんが、
宴席をいつも辞退する部下に猿面がいたのかも。

「十二支の話題辞典」によると 申年生まれの人は

「 機敏にして進取の気性に富んでいて、若くして異色の出世をする人がいる。
  研究意欲が旺盛で、世話好きで、味方もあるが口舌が災いして敵を作ることも。
  軽率に人を信用して失敗することもあるが生来、怜悧な素質だから、晩年は安泰」 とか。 
                                 ( 加藤廸男著 東京堂出版 ) 

 「 七草や 女夫(めをと)女夫(めをと)に 孫女夫(まごめをと) 」 

                                志太 野坡(やば)
 
「 正月になると息子、娘夫婦、それに孫夫婦が各地から集まり、
  一族再会を喜びあう。
  七草のように別々に住む夫婦たちが、七草粥のように一緒にまじりあって
  お互いの息災を祝っている 」という情景。

 まことに、ほのぼのとした雰囲気が感じられ、七草粥の暖かい湯気まで
 漂ってきそうです。

「  千歳(ちとせ)に余る しるしとて
           君が代を経る 春の松が枝 」  和泉民謡

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by uqrx74fd | 2016-01-01 00:00 | 生活

万葉集その五百五十八 (万葉人のトイレ)

( 藤原京のトイレ  飛鳥、藤原京展   画面をクリックすると拡大できます)
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( 平城京のトイレ   国立歴史民俗博物館 )
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( 三内丸山遺跡   青森県 )
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( 同上内部 )
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( 万葉人の宴  奈良万葉植物園内のレリーフ )
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( 6世紀中ごろの東国の村  国立歴史民俗博物館 )
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( 枳殻:カラタチ 小石川植物園 )
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( 同上  花は開いたが刺も大きい )
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(  同上  )
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 1992年、藤原京の邸宅跡からトイレ遺構が発掘されました。
我国初、古代貴族の食生活を知る上で重要な手掛かりとなる画期的成果とされるものです。

その堆積物を分析した結果、古代人は澱粉質食品、魚介、肉、油脂、淡色野菜、
果実、緑黄色野菜、カルシュウムなどの基礎食品群をまんべんなく摂食し、
刺身、焼肉、焼魚 干物、おひたし、あえもの、サラダ、旬の果物、
さらに香辛料なども使った、なかなかのグルメ食生活をおくっていたことも解明されています。

発掘されたトイレは邸宅の外を流れる溝から水を引き入れ、排泄物を
また外の溝に流すという水洗方式で、下水道が整備されていたことが窺われますが。
一般庶民は家の隅で穴を掘り、外出先では川や道路の排水溝や野畑で用を
足していたと思われます。

トイレのことを「厠」といいますが、その語源は
 川屋(かわや)説   川の上に設備を作り不浄をそのまま流す
 側屋(かわや)説   家の傍らに設ける意

の2説あり、万葉集に川屋説を裏付ける、それも滑稽極まる歌が残されています。

「 香塗れる 塔にな寄りそ 川隈(かはくま)の
       屎鮒(くそぶな)食(は)める いたき女奴 」
            巻16-3828  長忌寸 意吉麻呂(ながのいみき おきまろ)

( 香を塗り込めた清らかな塔に近寄るなよ。
      川の隅に集まる屎鮒など食って、ひどく臭くて汚い女奴よ。)

この歌は「香、塔、厠(かわや)、屎(くそ)、鮒、奴」を歌に詠みこめと
宴会で囃され、即座に作ったもの。

高貴,清浄な塔と不浄な屎、それを食う鮒とまたそれを食う奴婢の女。
女を卑下したわけではなく、その対比を面白おかしく詠ったのです。

当時は川の流れを利用し、その隅で用を足すことが多く、
川の隅に便所をしつらえて、足したものが川に落ちるようにしていました。
それを鮒が食べたので屎鮒というわけです。
香は香木、練香、粉香、香油などをさし、塔の中で香の匂いが漂っていたのでしょう。

「いたき女奴」は「ひどくよごれている奴婢」の意で、寺などで使役されている
身分の低い女。

「 からたちの 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ
    屎(くそ)遠くまれ 櫛(くし)つくる刀自(とじ) 」
                    巻16-3832  忌部首(いむべのおびと) 既出


( 櫛作りのおばさんよ、俺様はこれからカラタチの茨を取り除いて、
  そこに倉を建てようと思っているんだよ。
  だからさぁ、屎は遠くでやってくれよな 。)

まぁなんと!
「屎(くそ)を遠くでやれ」と上品らしからざる言葉が飛び出してきました。

この歌も倉つくりに従事している下級官人が夜の宴会で数種の物の名前を歌に
詠みこめと催促され「カラタチ」「茨」「倉」「屎」「櫛」を詠みこんだのです。

指名された人は即座にひらめく機知とアッと驚かせる意外性が要求されます。
とはいえ、宴席の人々もさすがに「屎」には驚き、呆れたことでしょう。
当時、外で作業中に尿意を催したときは、辺りかまわず穴を掘って
用を足していたのですかねぇ。

「屎遠くまれ」の「まれ」は排泄を意味する「まる」の命令形、
「刀自(とじ)」は一家の主婦の尊称ですがここではわざと敬語を使って
相手をからかっています。
さらに、カラタチの「ラ」うばらの「ラ」、くらの「ラ」と「ラ音」を続け、
「ク」の音も クラ、クソ、クシと揃えたもの。

即興でこのような歌を詠めるのは並大抵の才能ではありません。
清らかな白い花を咲かせるカラタチに鋭い刺。
「カラタチの刺に白い尻を刺されるなよ」と女性をからかったとも思える歌です。


「 からたちの 花が咲いたよ
     白い白い 花が咲いたよ
     からたちの とげはいたいよ
     青い青い とげだよ   」     (からたちの花)  北原白秋作詞


最後に谷崎潤一郎著 「陰翳礼讃」 (中公文庫)からです。

『 私は京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも
  掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難味を感じる。
  茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。
  それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のしてくるような
  植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、
  そのうすぐらい光線にうづくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら
  瞑想に耽り、また窓外の庭のけしきを眺める気持ちは何とも云えない。 』

  「 瞑想の ひらめき多し 風呂厠 (ふろ かわや)  」  筆者



















 
   
   
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by uqrx74fd | 2015-12-11 06:35 | 生活