カテゴリ:生活( 145 )

万葉集その六百十一 (橘諸兄邸の宴)

( 橘諸兄 前賢故実:江戸~明治時代に刊行された伝記集 菊池容斉筆 )
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(  赤塚不二夫の万葉集  学研 )   画面をクリックすると拡大できます
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( あたしたちの古典 万葉集  学校図書 )
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( 橘の花  山の辺の道  奈良 )
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( 橘の小さな実  同上 )
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( 右近の橘  興福寺南円堂前  奈良 )
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( 春日大社若宮   奈良 )
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( 橘諸兄が愛した山吹  山辺の道 奈良 )
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天平の頃 左大臣 橘 諸兄(もろえ)は山城の国,井手の里、玉川のほとりに
山荘を営み、遣水した庭園を中心に山吹を植え、川の両岸を埋め尽くしたそうです。
740年、その見事さを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸されたことにより、
天下に喧伝され「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど
詠われるようになります。

それから12年後の752年、退位された聖武太上天皇は井手の橘諸兄宅へ
再び行幸され、肆宴(とよのあかり)を催されました。
肆宴とは天皇、上皇が催す酒宴のことですが、臣下の屋敷を訪問されて
一席を設けるというのは破格のこと。
長年の忠誠に対する労をねぎらわれたものと思われます。

出席者は上皇を入れて4人。
気心が知れた人ばかりの内々の酒席です。
時は12月中旬、まだ晩秋の気配が漂う時期。
美酒と松茸、桃、栗、梨、山海の珍味がふんだんに供され、
選りすぐりの美女が大勢侍(はべ)って座をとりもったことでしょう。
かた苦しい宮中では味わえない雰囲気、上機嫌の上皇はまず挨拶歌を
詠われます。

「 よそのみに 見ればありしを 今日(けふ)見ては
    年に忘れず 思ほえむかも 」  
                        巻19-4269 太上天皇(聖武)

( 外ながら見るだけであった以前ならともかく、今日こうして見たからには
 もう毎年忘れずに思いだされることであろうな )

12年前の行幸は山吹見物だけだったのでしょうか。
ようやく邸(やしき)を訪れることができたと詠われています。
続いて恐縮した橘諸兄のお迎えの歌。

「 葎(むぐら)延(は)ふ 賤(いや)しきやども 大君の
    座(ま)さむと知らば  玉敷かましを 」 
                                巻19-4270 橘諸兄

( 葎の生い茂るむさくるしい我家、こんなところに大君がお出ましいただけると
 存じておりましたら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに )

勿論、事前にお達しがあったでしょうが、謙遜しながらの感謝と歓迎の辞。

「 松陰の 清き浜辺(はまへ)に 玉敷かば
    君来まさむか  清き浜辺に 」 
                      巻19-4271 藤原八束

( このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に、玉を敷いてお待ちしたなら
 大君はまたお出まし下さるでしょうか。
 この清き浜辺に )

庭の砂、松の木、借景の川を海に見たて、松に待つの意を響かせ、
再度の行幸を願っています。
作者と諸兄は伯父、甥の関係。
家持とも親しい間柄です

「 天地に 足(た)らはし照りて 我が大君
     敷きませばかも 楽しき小里(をさと) 」 
                    巻19-4272 大伴家持

( 天地にあまねく照り輝いておられるわが大君。
その大君が国をお治めになっておられますゆえ、
この里も楽しくてしかたがない所でございます。)

橘邸周囲全体が楽しく、賑わっていると太上天皇の治世をたたえたもの。
もっともこの歌は予め用意したが披露されなかったとの注記があります。
席が盛り上がっている最中の結びの歌だけに、出しそびれたのかもしれません。

さて、聖武天皇の寵臣、橘諸兄とはどういう人物だったのでしょうか?

諸兄は敏達天皇の後裔で父は大宰府帥、美努王(みぬのおほきみ)、母は縣犬養三千代。
三千代は後に藤原不比等に嫁し、光明皇后を生む。
従って光明皇后は諸兄の異父妹という間柄。
元々は王族で、葛城王と称していましたが自ら臣籍降下を請い、
許されて母の姓、橘を名のりました。

737年天然痘の流行によって朝廷の中枢、藤原4兄弟が病死したことにより
一躍、右大臣に任じられて国政の中心になり、吉備真備、玄昉をブレーンとして
聖武天皇を終生補佐し続けます。

然しながら孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂の発言力が強大になり、
755年酒席で不敬の言ありと讒言され、756年、辞職を申し出て引退。
強力な支持者を失った大伴家は諸兄の政敵仲麻呂に疎まれ次第に衰退し、
遂に因幡、多賀城へ左遷されました。

この聖武太上天皇による宴の時期が、橘諸兄、大伴家持の絶頂期で
あったと言えましょう。

「 橘と 家持編(あ)みし よろづ葉の歌 」 筆者

特筆されることは、橘諸兄は万葉集1~2巻の編者とも推定され、
その後を家持に託したことです。
引き継がれた万葉集の編纂は、多くの人たちの超人的な努力、協力により、
遂に20巻4516首をもって完結します。
天皇から庶民、老若男女を網羅する歌集は世界でも類がなく、
我国文学界に燦然たる光を放ち、いまなお褪せることなく輝き続けているのです。

「 家橘(いえきつ)が 植えし万葉 年を経て
     日本(やまと)の大樹に なりにけるかも 」 筆者


        万葉集611 (橘諸兄邸の宴) 完



        次回の更新は12月23日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-12-16 05:57 | 生活

万葉集その六百十 (結婚 しまーす)

( 朝の神事   橿原神宮  奈良 )
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( 同上  巫女の舞が美しい  同上 )
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( 同上 )
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( 古式豊かな結婚式   春日大社  奈良 )
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(  住吉大社  大阪 )
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( 嫁入り船  潮来  茨城 )
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(  八坂神社  京都 )
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( 新郎新婦のお練り   鶴岡八幡宮  鎌倉 )
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( 同上 )
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( 笙の演奏とともに  同上 )
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(  同上 )
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(  花嫁切手 )
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昔々、飛鳥に都があった頃、上流階級とおぼしき一組の結婚式が行われました。
結婚後も男が妻の元に通う習慣の時代ですが、ともかくも親や周囲の人たちに
認知されれば堂々と出入りでき、噂を気にすることもなくなります。

喜び勇んで式に臨んだ新郎新婦。
場所は飛鳥、橘寺南東に位置する聖なるミハ山の麓です。
いよいよ式が始まり、まずは主賓の挨拶。
神に奉げる祝詞(のりと)のような調べで厳かに詠みあげられていきます。

先ずは超訳から。(原文訓み下しは末尾ご参考をご覧ください)

「 多くの神々が天降られて崇められている瑞穂の国の聖なるミハ山は、
 神代の昔から高天原にいます天つ神を祀るこの上もなく尊き山。

 春が来ると霞が立ち 秋になると紅葉が照り輝くさまは
 賑々しく栄えているわが国土を象徴しているようである。

 この聖なる山の周囲を取り巻くように
 明日香の川の清き流れが国を潤している。

 流れが早いので、苔が付きにくいにもかかわらず悠久の時が経過すると
 石に苔生し、鮮やかに映えている。

 神様、どうかこの二人が苔生すほど幾久しく
 来る夜も来る夜も幸せに仲睦まじく過ごせるようお取り計らい下さい。
 そして、そのことを夢にお示し下さい。
 そのために我々は精進潔斎して一心不乱にお祈りさせて戴きます。
 我らの神よ。 」             (巻13-3227 作者未詳)

山川を対比させて国土豊穣を神に感謝した後、苔むすほどに何時いつまでもと
最終部の本題に導く挨拶歌です。

続いては新郎の誓いの言葉。

「 神なびの みもろの山に 斎(いは)ふ杉
     思ひ過ぎめや 苔むすまでに 」 
                            巻13-3228 作者未詳

( 神が住むというミハ山。
      私は身を慎んで境内の御神木である杉を崇め奉っています。
      その杉ではありませんが、これから先、苔がむすほどに長い時が経とうとも
      私の愛情が消え失せるなどということは絶対にありません。 神に誓って! )

「みもろ」は「神が籠るところ」で、奈良県櫻井市ミハ山。
「思ひ過ぎ」:思いが過ぎる→愛情が消え失せるの意で「過ぎ」に「杉」を掛ける 

神、山、杉、苔と祝宴にふさわしい言葉が並び、
厳粛な式の様子が偲ばれる歌です。

続いて一同和して声高らかに詠います。

「 斎串(いぐし)立て 御瓶(みわ)据(す)ゑ奉(まつ)る 祝部(はふりへ)が
     うずの玉かげ  見ればともしも 」 
                                巻13-3229 作者未詳

( 玉串を立て 神酒の甕(かめ)を据えてお供えしている
     神主たちの 髪飾りのひかげのかずら。
     そのかずらを見ると まことにゆかしく思われます。)

「 斎串(いぐし)」
             神前に立てる聖なる串 串は木の枝や竹などで神を招き降ろすもの

「 御瓶(みわ)据(す)ゑ奉(まつ)る」

             酒甕をすえて供え祀る

「祝部(はふりへ)」    神主

「うずの玉かげ」
             うずは頭に挿して髪飾りにした木の枝や花
             玉かげは「ひかげのかずら」の美称

「見ればともしも」 
         ともし:ゆかしく心惹かれる

これにて式は無事終了。
あとは飲めや歌えやの祝宴。
万葉集でも珍しい祝婚の歌でした。

然しながら、このような仰々しい儀式は貴族など上流階級だけのもの。
では一般庶民はどうだったのでしょうか?
土屋正夫著「検証 万葉びとの暮し」(表現社)によると 

「 当時は母系母権の制で男はまず母親の許しを得る。
  許可が下りれば男は夜々女の家へ通って夫婦生活ができる。

  ところがその前に儀式が行われる。
  何と!
  男と女が睦み合っている現場を両親以下親戚一同踏みこみ、
  二人の仲を公にするというのです。
  これを「トコロアラワシ」と云うそうな。

  それから女の家の餅を食べさせる。
  これらの儀式は男を女の家の一人とみなす呪い(まじない)であって
  現今でいう世間への披露であり、固めの盃に相当するもの。

  このような状態になっても、男は普通、女の家には住まず、
  毎晩通ってきて、婿の世話は一切女の家でする。 」(要約)

何故同居しないのか?
それは、当時の女性は一家の重要な労働力。
男は防人などで何時徴集されるか分からないので、女性を簡単に外へ
出すことが出来なかったのです。

それにしても、お互い抱き合っている最中に親戚一同踏みこむとはねぇ。
いやはや驚きました。

 「 花嫁は こわく うれしく 恥ずかしく 」(江戸川柳 柳多留)



ご参考

冒頭、長歌(巻13-3227) 訳文の原文訓み下し。

「 葦原(あしはら)の 瑞穂の国に 
  手向けすと 天降(あも)りましけむ
  五百万(いほよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の
  神代より 言ひ継ぎ来(きた)る

  神(かむ)なびの  みもろの山は
  春されば  春霞立ち  
  秋行けば  紅にほふ

  神なびの  みもろの神の
  帯(お)ばせる 明日香の川の
  水脈(みを)早み  生(む)しためかたき
  石枕 苔むすまでに

  新夜(あらたよ)の  幸く通はむ
  事計(ことはか)り  夢(いめ)に見せこそ
  剣太刀 斎(いは)ひ祭れる
  神にしいませば  」         巻13-3227  作者未詳

一行づつの訓み下し。

「葦原(あしはら)の 瑞穂の国に」
 
    日本国の神話的呼称。

   (天つ神の統治によって五穀が豊かに稔る国の)

「手向けすと 天降(あも)りましけむ」

   ( 手向けするために 天降られた )

「五百万(いほよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の」

     ( たくさんの神々の )

  「神代より 言ひ継ぎ来(きた)る」

    ( 悠久の昔から 語り継がれてきた )

 「 神(かむ)なびの  みもろの山は」

    ( 神が降臨している御室(みむろ)の山 :明日香橘寺南東のミハ山)

 「春されば  春霞立ち 」

     (春になると 霞が立ち ) 

  「秋行けば  紅にほふ」

     ( 秋になると  紅葉が照り輝く )

  「神なびの  みもろの神の」

     ( 神々しい 御室の神が )

  「帯(お)ばせる 明日香の川の」

     ( 帯にしている 飛鳥川の :山を取り巻く様子を帯に喩えた)

  「水脈(みを)早み  生(む)しためかたき」

      ( 川の流れが早いので 苔がつきにくい )

  「石枕 苔むすまでに」

      ( ごろごろ並んでいる石に苔生すまで 末永く )

  「新夜(あらたよ)の  幸く通はむ」

      ( 毎日新たにめぐってくる夜を 幸せに通い続けられるような
        :当時は通い婚 )

  「事計(ことはか)り  夢(いめ)に見せこそ」

      ( 神様のお計らいを 夢に見せて下さい )

  「剣太刀 斎(いは)ひ祭れる」

      ( 神祭りの剣太刀を崇め祀るように 身を清めてお祭りしている)

 「 神にしいませば」

       (われらの 神でいらっしゃるからには)  」
    
                                巻13-3227  作者未詳


    万葉集610 (結婚しまーす) 完



       次回の更新は12月16日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-12-08 16:18 | 生活

万葉集その六百 (藤原京)

( 藤原京復元CG 奈良産業大学、橿原市   以下の資料すべて撮影許可を戴いています)
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( 藤原京と平城京の規模比較  奈良文化財研究所)
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( 天の香久山  大極殿跡から )
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( 畝傍山 )
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( 耳成山 )
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( 藤原京造営のための道づくり  山を切り拓く  奈良文化財研究所 画面をクリックすると拡大)
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( 資材運搬  同上 )
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( 瓦工場   同上 )
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( 屋根工事  同上 )
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( 大工  同上 )
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( 貴族邸の復元模型   同上 )
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(  台所  同上 )
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( 租税として集められた物品  同上 )
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( 藤原宮復元模型   奈良万葉文化館 )
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694年持統天皇は都を飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)から藤原京に遷しました。
東西、南北共に約5.3㎞四方、少なくとも25万平方㎞に及ぶ我国最初の本格的な
都城で平城京、平安京を凌ぐ堂々たる規模です。

着手は天武天皇時代、676年になされましたが、天皇崩御の為中断し、
持統天皇即位後の690年に再開されたのです。
4年後ようやく遷都したとはいえ建物は一部しか出来上がっておらず、
完成したのは704年。
着工から実に28年も経過していました。

日本書記の記録では藤原宮は見えますが、藤原京の記載はなく
新益京(あらましのみやこ)となっています。
完成するまで飛鳥浄御原宮と併用されたので「新たに増した」の意で
命名されたものと思われ、「藤原京」は明治時代になってから付けられた
学術用語です。

※ この稿では、すべて「藤原宮、藤原京」で統一します。
      「宮」は天皇の居住執務地 (内裏、大極殿、朝堂院、宮司の建物)
      「京」は都 (官人、民の居住地、商業地、公共空間)

新都は東、香具山、西、畝傍山、北は耳成山の大和三山、さらに南の吉野山を
守護神とする山々に囲まれた盆地で清水がこんこんと湧く場所に宮殿が建てられたと
詠われています。(巻1-52 長歌)

朱雀大路を中心に碁盤目のように整然と区画された道路。
宮は1㎞四方、周囲に瓦葺の大垣がめぐらされ、大極殿(天皇の政務、重要な儀式場)、
朝堂院(官人の執務場所)はすべて瓦が葺かれました。
更に、官立の寺院として大官大寺(後の大安寺)、薬師寺が建てられ、
持統、文武、元明天皇3代にわたる古代最大の都として機能することになります。

使用された太柱、数万本、瓦10万枚以上、巨大な花崗岩礎石2千個以上。
運搬のための道路、運河、瓦工場、数万人の労働者の宿泊場所、食堂。
都つくりのためには膨大な労力、資材、技術、金銭を必要とし、
過酷な労働、租税は想像を絶するものであったことでしょう。

万葉集では造営のための木材運搬の様子が語られていますが、
民の苦しみは詠われず、ただ喜び勇んで奉仕するさまが描かれています。

まずは訳文から。(  )は枕詞

「 -(石:いわ走る) 豊かな近江の地の 
 (衣手の) 田上山の立派な檜丸太
 その丸太を (もののふの八十の)宇治川に 
 (玉藻のように) 軽々と浮かべ流しているものだから 
 それを引き取ろうと せわしく働く大君の御民も 
 家のことを忘れ、わが身のことも すつかり忘れて 
 鴨のように軽々と水に浮きながら
 われらが造る大君の宮廷(みかど)- 」  巻1-50 (一部)

訓み下し文

「 石(いは)走る 近江の国の
  衣手の 田上山(たなかみやま)の
  真木さく 檜(ひ)の つまでを
  もののふの 八十(やそ)宇治川に
  玉藻なす 浮かべ流せれ
  そを取ると 騒く御民(みたみ)も 
  家忘れ 身もたな知らず
  鴨じもの 水に浮き居て 
  我が作る 日の御門(みかど)-  」 巻1-50 (一部)

   
一行づつ訓み解いてまいります。

「 石(いは)走る 近江の国の」

   石(いは)走る:「近江」の枕詞  石走る溢水(あふみ)の意
          「走る」は水平の移動にも、上下の跳躍にもいう

          「水が溢れるほど豊かな近江の国の」

「 衣手の 田上山(たなかみやま)の」

       「衣手の」: 田上山の枕詞 衣手(袖)の手(た)の意
       「田上山」は 大津市南部 檜の名産地

「真木さく 檜(ひ)のつまでを」

      「真木さく」: 檜の枕詞 「さく」栄くの意で
              檜の中でも特にすぐれた
      「つまで」:  角材(つま)の料(て) 丸太の意

「もののふの八十(やそ) 宇治川に」 

      「もののふの八十」: 「宇治をおこす序」
                 「もののふ」は宮廷に仕える文武百官、
                 氏が多いので「宇治に」かかる

「玉藻なす 浮かべ流せれ」

      「玉藻なす」: 軽々とした藻のように 「玉」は美称
      「浮かべ流せれ 」: 丸太を浮かべて流せば

「そを取ると 騒く御民(みたみ)も 」

      「 広大な貯木池(巨椋池:おおくらいけ)で待ち受けて
        宇治川を下ってきた丸太を木津川の方に導く作業を
        大忙しで騒ぎ働く民たちは 」の意 
       「そを」: 丸太

「家忘れ 身もたな知らず」

        故郷に残してきた家人も、自分自身のことも忘れて
        「たな」は「すっかり」



「 鴨じもの 水に浮き居て 」

        「鴨もじの」:まるで鴨のように 

「我が作る 日の御門(みかど)-」

     我らが造る大君の宮殿 -

枕詞を多用して祝詞のようになっており、持統天皇、宮造営状況視察の折の歌
と思われます。
題詞に「藤原の宮の役民の作る歌」とありますが、実際には
官人が民になり代わって天皇の威光を賛美したもののようです。

檜の良材を滋賀県の田上山に求め、瀬田川、宇治川に流して貯木場である
巨椋池に集めて筏を組んで木津川に流し、陸揚げしてから荷車で佐保川まで運ぶ。
その後、再び川に流し、初瀬川を経て飛鳥まで運んだ。

役民たちがまるで鴨のように軽々と水に浮き、重い丸太を玉藻のように
扱っている、それは神ながらのお上の御威光であると賛美していますが、
この頃の役民には報酬がなく、労力で税を賄う人頭税です。
(大宝時代になると僅かな賃金が支払われた)

歌とは裏腹に、過酷な労働に耐えきれず逃亡し、餓死した人達も
少なからずいたようです。

こうした国を挙げての大事業がなされ、都が完成するとともに
飛鳥浄御原令に続く大宝律令(701)による法整備、官僚組織の構築、冠位位階制度、
戸籍編纂による税収の確保、国号(日本)、天皇号、元号の制定、史記の編纂
(後の古事記、日本書記となる)、耕作すべき田を分かち与える班田収授法、
和同開珎発行による貨幣制度、遣唐使の再開。
など次々と画期的な政を推し進め、天皇中心の集権国家を築きあげました。

官僚制度の名称である宮内庁、主計局は今もその名を残し、大蔵省も
近年にいたるまで使われ続けられました。
大宝律令はその後、養老律令に修正され、形式的には国法として
江戸時代末期まで存続したのです。

「このくにの かたち」を創り上げた天武、持統天皇。
国家の100年の大計のために、あらゆる犠牲も厭わない決断力と、実行力。
そしてゆるぎない信念。
政治家とは何ぞやと再認識させられる藤原京造営です。

持統、文武、元明三代16年続いた都は710年に平城京に遷ります。
短命に終わったのは、国際社会との接触により不便となった地理的要因、
組織が肥大化し手狭になった、下水道の処理に失敗したともいわれ、
焼失説もあります。(発掘の結果、焼失の跡は認められていない)

都が奈良へ移る際に、建物は解体されて再利用、跡地は完全に埋め立てられ
田畑に転用されました。
藤原京の概要が明るみになったのは、今から僅か80年前、昭和9年(1934)に
日本古文化研究所による発掘が開始されてからで、当時は文献もほとんどなく、
藤原宮の所在地すら不明でした。

現在の地(橿原市高殿町)であると言明したのは江戸時代の賀茂真淵。
その後多くの議論を経て、発掘が進むにつれてようやく実態が解明されつつあり、
現在も発掘が続けられています。

我国のかたちをつくった原点、藤原京への認識が薄いのも、地中に埋もれていた
都であり公式の記録もほとんどなく、発掘の検証結果を待つしかなかったためです。
そうした中で万葉集が大きな力を発揮し、単なる歌集ではなく、
古代の歴史、文化を解明する重要な資料であり記録であることを
物語っています。
発掘された大極殿の土壇から、東を臨むと、天の香具山が眼前に迫り、

「 春過ぎて 夏きたるらし 白栲(しろたへ)の
     衣干したり 天の香具山 」   
                     巻 1-28(既出) 持統天皇


と声高らかに詠われた女帝の姿が目に浮かぶようです

     「 揚げひばり 藤原宮址 真つ平ら 」  福永京子


              万葉集600(藤原京) 完


             次回の更新は10月7日の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-09-29 20:52 | 生活

万葉集その五百九十九 (実りの秋)

( 今年も豊作  飛鳥 )
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( 橘寺 稲と彼岸花   飛鳥 )
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( 棚田  飛鳥 )
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(  粟:あわ  市川万葉植物園  )
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( 桃  山梨 )
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( 栗  飛鳥 )
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( 梨   千葉 )
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( 松茸 新島々駅の前で農家が格安で売っていた あるところにはあるもの 長野 )
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( リンゴ   山梨 )
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( 巨峰   山梨 )
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歳時記語源辞典によると、「秋(アキ)」という言葉の語源は

1、作物の仕上がり、成熟の意の「アガリ」が「アガイ」「アキ」に
  転訛した。(橋本文三郎著 文芸社)

2、熟して赤らむの約「黄熟り(アカリ)」が「アキ」に転じたもの(大言海)

3、江戸時代の学者、新井白石の「作物が豊かに稔って飽きる義」、
  つまり「飽きるほど十分満足する稔り」の意、

など諸説あります。

このような豊かな実り秋に万葉人はどのような歌を詠ったのでしょうか?
代表的なものとして「稲」「桃」「栗」「粟(あわ)」「松茸」を採りあげてみましょう。

まずは稲、二人のやり取りです。

 「 我が蒔ける 早稲田(わさだ)の穂立 作りたる
     かづらぞ見つつ 偲はせ 我が背 」 
                巻8-1624 大伴坂上大嬢(おほいらつめ)

( 私が蒔いた早稲田の穂立、立ち揃ったこの稲穂でこしらえた蘰(かづら)です。
      どうかこれをご覧になりながら私だと思って偲んでください。)

「 我妹子(わぎもこ)が 業(なり)と作れる 秋の田の
    早稲穂のかづら 見れど飽かぬかも 」 
                          巻8-1625 大伴家持

    ( あなたが仕事をして獲り入れた秋の田、その早稲穂でこしらえた蘰は
      いくら見ても見飽きることがありません 。)

  蘰(かづら) : 稲の穂を編んで作った髪や衣類に挿す飾り。

739年の秋、家持の婚約者、大嬢は竹田庄に住んでいる母、坂上郎女のもとで
農事を手伝っていました。
竹田庄は飛鳥近く、大伴家の領地です。

収穫が終わり一段落した頃、久しぶりに家持が訪ねてきましたが、
公用で多忙の為、すぐ都へ戻らなければなりません。
大嬢はそのようなことも予想してあらかじめ作っておいた蘰(かずら)を 
「私だと思って偲んで下さいね」と渡したのです。

時に家持22歳、 大嬢17歳。 
花嫁修業中の大嬢、初々しさと気負いが感じられる1首ですが、
貴族でも自分の領地の農作業を自ら行っていたことがこの歌から窺われます。

「 はしきやし 我家(わぎへ)の毛桃 本茂く(もとしげく)
    花のみ咲きて ならずあらめや 」 
                           巻7-1358  作者未詳

( かわいい我家の毛桃 この桃の木に花がいっぱい咲くだけで
  実がならないのであろうか。
  まさかそんなことはあるまいでしょうね。)

「桃」にわが娘、「元茂く咲く」に縁談が多いこと 
「実になる」に結婚を譬えて年頃の娘をもつ心配性の母親。

縁談は次から次へとあるが、一向にまとまらない。
こんなに可愛い娘なのにどうしてなのだろう。

「はしきやし」は「いとしい」
「毛桃」 桃の実に細かい毛が生えていることによる。
      古代の桃は小粒で酸味が強かったらしい。

なお、桃は初夏から出回りますが秋の季語になっています。

「 松反り(まつがへり) しひてあれやは 三栗の
    中上り(なかのぼり)来(こ)ぬ 麻呂といふ奴 」 
                      巻9-1782 柿本人麻呂歌集

  ( 鷹の松返りというではないが、ぼけてしまったのかしら。
    機嫌伺いに中上りもしない 麻呂という奴は )

「松反り」は「しひて」の枕詞、
        鷹が戻るべき手許に戻らず、高い木に返るの意。
        掛かり方は未詳。

「しいて あれやは」 頭が呆けた 身体に障害がある

「三栗」は中の枕詞 栗のいがの中に三つの栗、その真ん中の意で掛かる。

「中上り」(なかのぼり) 地方官が任期中に諸報告のため都に上ること。

「麻呂」 夫の名 男の一般的な名前

地方官の麻呂と云う男が帰省した時、都で留守をしている妻に、
「 任地に手紙も寄こさないで、まるで音沙汰なし。
  怪しからん。
  お前は俺を思う気がうせてしまったのか。」
と怒鳴ったところ

「 あんたこそ呆けたのではないか。 
  もっと頻繁に帰ることが出来るのに
  こんなに長く放っておいて。
  よく人のことが言えたものだ。」

とやり返したもの。
人麻呂が宴席で一人芝居した座興とも思われます。

万葉集での栗は3首。すべて枕詞として使われていますが、
毬栗(いがぐり)の中の実が3つ、その真ん中の実とは面白い。

「  足柄の 箱根の山に 粟(あは)蒔きて
     実とは なれるを 粟無くもあやし 」
                    巻14-3364 作者未詳(既出)

  ( 足柄の箱根の山に粟を蒔いてめでたく実がなった。
     なのに俺があの子に逢えないとは、おかしいではないか )

「粟無く」に「逢わなく」を掛けている。

一生懸命あの子に想いを掛けているのに見向きもしてもらえない。
片想いの辛さを嘆く男ですが、からっとしていて笑いを誘う1首。
粟の種蒔きは春、初秋に収穫。
古代の重要な穀物です。

「 高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて
    満ち盛りたる 秋の香のよさ 」 
                  巻10-2233 作者不詳(既出)

   ( 高円山の峰も狭しとばかりに、まぁ見事に茸の傘が立ったことよ。
     眺めもさることながらこの香りの良さ。
     早く食べたいものだなぁ。)

高松は奈良の高円山(たかまどやま)。
全山に松が林立し足の踏み場のない程にびっしりと生い並ぶ松茸が、
今が盛りとかぐわしい芳香を放っている様子を詠ったもので、
今日では想像も出来ない光景です。

茸の歴史は古く縄文時代後期(4000年前)まで遡りますが、
ふんだんに採れた松茸は今や希少品。
昭和初期に6000トンを超えていた国産品の生産量は現在わずか37トン。
庶民にとって高嶺の花になってしまいました。

このような惨状になったのは、松茸の育成に欠かせない赤松の減少。
赤松は痩せた土地を好み、里に暮す人々が、燃料や肥料にする草木を集めることで
最適の条件を保ってきました。
然しながら、昭和30年代後半から農村に電気、ガス、化学肥料が普及し、
里人が山に入らなくなったため土地が肥沃になり、その結果広葉樹が繁殖し
松林を荒廃させたのです。

因みに現在の松茸生産量は中国775トン、アメリカ214、カナダ173、が御三家。
国産は長野県29トン、岩手県4、岡山県 1,8。
万葉で詠われた奈良はわずか0,3トンです。

    「 茸狩や 頭を挙れば 峰の月 」 蕪村

昭和28年頃、奈良市近郷の山では松茸がまだ沢山生えていました。
家族揃っての松茸狩り。
いくらでも採れました。
持参した七輪で火を起こして食べた「すき焼き」の美味かったこと。
あぁ、香り高い松茸が懐かしい!
今や1本1万円以上とはねぇ。

    「 松茸を 焼く七輪の 横に燗 」 梅田蘇芳


             万葉集599 (実りの秋)  完


             次回の更新は9月30日の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-09-22 19:43 | 生活

万葉集その五百九十八 (萩の遊び)

( 白毫寺の入り口から山門へ  奈良 )
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( 同 山門から境内へ  両側の萩が道をふさぐほどに )
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( 同 石段を上りきったところから )
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( 同 境内の桔梗も美しい)
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(  元興寺の群萩  奈良 )
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(  石舞台公園  飛鳥 奈良 )
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( 絞り模様の萩  神代植物公園  東京 )
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( 山萩  潮来  茨城県 )
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(  宋林寺  谷中 東京 )
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( 咲く萩、散る萩  向島百花園  東京 )
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「遊ぶ」とは元々祭祀にかかわる行為とされ、鎮魂、招魂の儀礼で歌舞を
奉納することをいうそうです。
巫女が神の依代であるヒゲノカズラ、ツルマサキ、ササなどを髪飾りにして、
鈴を鳴らしながら厳かに舞う。
今でも神社の儀式でよく見られる神事です。

万葉集での「遊び」は40例。
天皇の行為、国見、狩猟、野遊びに対して用いられ、さらに貴族の旅や
宴における詩歌、管弦を楽しむ雅やかな行為にも及んでいます。
「遊び」は時の経過と共に祭祀とは別の意味になっていったのです。

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
           今日(けふ)ぞ我が背子  花かづらせな 」 
                           巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、楽しく遊ぼうでは
 ありませんか )

中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)と称し、
格別な吉日としていました。
後に、3月3日に固定されて曲水の宴が行われていたものが
我国でも行われるようになったことを示す歌です。

ここでの花は桃と思われますが、「花蘰」(花で編んだ髪飾り)にして
頭に挿そうと詠っています。
植物の生命力にあやかりながら、わが身を飾ろうというわけです。


「 白露を 取らば消(け)ぬべし いざ子ども
           露に競(きほ)ひて 萩の遊びせむ 」 
                                巻10-2173 作者未詳



( 萩に置く白露、あれを手に取ったら消えてしまうだろう。
  さぁ、みんな、あの露と張り合って萩見の遊びを楽しもう )

当時、露は萩の開花を促すものとされていました。
露が「早く咲け」と催促すると、萩は恥じらって「いやよ いやよ」という。
そのような様子を万葉人は「競う」と表現したのです。

この歌は宴席でのもので、白露を萩の恋人かのようにとらえ、
「我々も露に負けないで萩を愛でよう」とおどけながら詠っています。

「いざ子ども」は親しみを込めた言葉で「おのおのがたよ」と
いったところでしょうか。

「 天雲に 雁ぞ鳴くなる 高円(たかまと)の
           萩の下葉(したば)は もみちあへむかも 」 
                           巻20-4296 中臣清麻呂

( 天雲の彼方にもう雁がきて鳴いている。
  ここ高円の萩の下葉も間もなく紅葉してしまうであろうなぁ。)

753年、秋もそろそろ終わりにさしかかる頃。
2~3人の官人がおのおの酒壺をさげて高円山の麓の高台に登り、
酒盛りをした時の1首です。

当時、雁が渡来すると、萩の落花が始まると考えられていました。
晩秋の時雨に打たれて黄葉が進む。
萩の下葉も間もなくもみぢし、やがて落ちてしまうだろう。
花を眺めつつ一献一献と美酒を味わい、行く秋を惜しむ作者です。

なお、高円は奈良朝官人の遊楽地で、頂上近くに聖武天皇の離宮や
志貴皇子(天智天皇の子)の春日宮がありました。

ある秋の晴れた日、皇子邸の跡地とされている萩の寺、白毫寺へ。
山門をくぐると、長い石段が続き、両側に枝もたわわに群萩が
咲き乱れて道をふさいでいる。
普段は幅2mある石段が、人がようやく通れる位にまで狭まり、
登るたびに紫、萩が頬をなでてくれます。
頂上まで約70段ばかり。
高台の境内に到着すると視界が大きく広がり、奈良盆地が一望。
彼方に生駒、金剛葛城山。
庭に萩や桔梗が咲き乱れ、名木、五色椿も健在。
境内の奥、高円山が見渡せるあたりに、笠金村が志貴皇子を偲んで詠った歌碑が
ひっそりと建っていました。

 「 高円の 野辺(のへ)の秋萩 いたずらに
            咲きか散るらむ 見る人なしに 」  
                        巻2-231 笠金村歌集(既出)

( 高円の野辺の秋萩。
  今は見る人もおらず、甲斐なく咲いては散っていることであろうか。 ) 
 
「咲きか散るらむ」は「咲き散るらむか」の意で、満開となって散る

    「 萩散るや 石段粗き 白毫寺」   筆者



             万葉集598 (萩の遊び ) 完

            次回の更新は9月25日(日)の予定です
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by uqrx74fd | 2016-09-15 20:11 | 生活

万葉集その五百九十一 (家持の百合と撫子)

( ヤマユリ  万葉植物園   奈良 )
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( 同上   源氏山公園   鎌倉 )
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( 同上   自宅 )
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( カサブランカ  自宅 )
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(   同上  )
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(  ササユリ  大神神社ゆりの苑   奈良 )
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(  カハラナデシコ  万葉植物園  奈良 )
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(    同上  )
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(  白ナデシコ  神代植物公園  東京 )
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(  ムシトリナデシコ  小石川植物園  東京 )
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 746年、大伴家持は越中国の長官(国司)に任じられました。
栄転とはいえ華やかな都から雪深い国への異動。
任期は5年の長きにわたります。

突然の命令で取る物も取りあえず単身赴任した家持は、持ち前の真面目さで、
日々の任務を無難にこなす傍ら歌作にも力を注ぎ、早や3年。

とはいえ、味気ない夜の一人寝は辛くてたまりません。
現地妻を求めたいと思っても部下の恋狂いを厳しく叱責した手前、
控えなくてはならない立場です。

「あぁ、あと2年も我慢しなければならないのか」と溜息をつきながら
都に残してきた妻、坂上大嬢(さかのうえ おほをとめ) への恋しさが
募っていたある夏の日、無聊を慰めるつもりで野原から自宅の庭に移植し、
丹精しながら育てた百合と撫子が見事な花を咲かせました。

愛妻の面影を連想させるような可憐な撫子。
百合の香りが馥郁と漂う中、鬱憤を晴らすかのように家持は詠いだします。

「 さ百合花 ゆりも逢はむと 下延(したは)ふる
    心しなくは  今日も経(へ)めやも 」  
                             巻18-4115 大伴家持

( 百合の花の名のように ゆり-後にでもきっと逢おうと ひそかに
 頼む心がなかったなら 今日1日たりとも過ごせようか。
 とても過ごせるものではない 。)

「ゆり」は「後(ゆり)」の意で「百合」と語呂が合うのでよく併用され、「いずれ後々に」。
「下延(したは)ふる」 心の中でひそかに思う。

「さ百合」の「さ」は「神聖」を意味し新婚の初夜にも飾られました。
当時、関東以北で自生するのは「山百合」、関西以南では「ササユリ」と
されているので、家持が越中で詠んだのは山百合。

詞書に庭の花を見て作った歌とありますが、植栽は非常に難しいのです。
山中に自生している百合の根は深く、庭に移しかえると大概は枯れてしまいます。
というのは、山百合の根は2つあり1つは栄養を摂るための「上根」、
今1つは「下根」といい球根をウイルスから守るため地中深く延びて
下へ引きずり込む役割を果たしています。
庭では余程深く掘らないとうまく育ちません。
家持さんはそのことも知っていて、上手く花を咲かせたのでしょうね。

大輪の花を咲かせ、濃厚な香りを漂わせる山百合は、後々、世界中で愛され、
「カサブランカ」も山百合の交配種から生みだされたものです。

   「 百合の露 揚羽のねむる 真昼時 」     飯田蛇笏

続いて撫子の花。

 「 なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが
              笑(え)まひの にほひ 思ほゆるかも 」  
                               巻18-4114 大伴家持

( なでしこの花を見るたびに あの愛しい娘子の笑顔のあでやかさが
  思われてなりません)

「娘子(をとめ)らが」: 妻、坂上大嬢をさすが一般の女性を呼ぶように詠ったもの
           「ら」は親愛を示す言葉
「 笑(え)まひの にほひ 」: 美しい笑顔

 「 我がやどの なでしこの花 盛りなり
     手折りて一目 見せむ子もがも 」
                      巻8-1496 大伴家持(既出)

( 我が家の庭の、なでしこの花が真っ盛り。
  手折って一目なりと 見せてやる子がいればいいのになぁ。 )

万葉集中、撫子は26首、そのうち家持は11首も詠っています。
清純で美しく、楚々とした佇まい。
愛しい人を撫でる心地がするのでその名があるそうですが、
庭の花を眺めながら愛妻の姿を瞼に浮かべている姿は
なんとなく寂しげです。

それから程なくして家持は政務報告のために上京。
「もう、単身赴任はいやだ」と妻を越中に伴い、浮き浮きしながら帰任し、
その後、公私共に充実した時を過ごして歌作も最盛期を迎えました。

「 撫子が さきたる 野辺に 相おもふ
           人とゆきけむ いにしへ おもほゆ 」 伊藤左千夫



               万葉集591 (家持の百合と撫子 )    完


                次回の更新は8月5日です。
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by uqrx74fd | 2016-07-29 00:00 | 生活

万葉集その五百七十六 (常盤)

( 常盤なるもの 日の出 精進湖より)
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( 落日の生駒山   奈良 )
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( 皆既日食 )
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( 渦巻銀河  宇宙博で )
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( 満月)
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( 母なる海   ハワイで)
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( 父なる山 三島で)
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( さざれ石: 小石、細かい石が集まった隙間に炭酸カルシウム、水酸化鉄が入り込み
         固まったもの。学術名 石灰質角礫岩 前の説明文 橿原考古学研究所)
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( 宮滝の巨岩  奈良吉野)
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( 常盤の松  善養寺  東京小岩 )
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( あれ見よ かしこの常盤の杜は 心の故郷 我らが母校 
             早稲田大学校歌3番  大隈庭園にその面影を残す)
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( 石山寺縁起 大岡信ことば館  三島  画面をクリックすると拡大できます)
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「ときわ」の語源は「とこいわ」とされ「とこ」は常、「いわ」は「岩」で
「岩のように不変、永久に」という祝福の気持ちがこめられた言葉です。

「とこ」から派生したものに「常夏」「とこ葉(常緑)」「とこしえ」などがあり
古くは常盤国、常盤御前、現在では鉄道路線や駅、船、学校、会社名、
神社(水戸黄門を祀る)、姓名(常盤貴子、常盤新平など)、常磐津、はては
饅頭、泡盛の銘柄などにいたるまで、ありとあらゆる分野で幅広く
用いられており、この言葉がいかに万人に好まれているかを窺わせています。

万葉集では宴席での寿ぎ歌、不変と移ろうものとの対比による詠嘆として
「常盤なす」「常盤にいませ」「常盤なる」など4首見えます。

「 吉野川 巌と栢(かや)と 常盤なす
   我れは通はむ  万代(よろづよ)までに 」
                         巻7-1134 作者未詳


( 吉野川の巌と山に根を張る栢の木が変わることがないように
  我々もこれから変わることなく、いついつまでもこの地に通おう )

古代、吉野は都の人たちにとって憧れの地でした。
山あり清流あり、花咲く木々、そして鮎や山女魚、松茸、栗、山菜,筍などのご馳走。
天皇の行幸42回、特に持統天皇は妃時代も含めると34回も訪れた聖地です。

念願かなって吉野を訪れた作者は、仲間たちと川のほとりで飲めや歌えやの宴会。
「何度でも訪れたい素晴らしい地だ」と褒めそやしています。

なお歌の結句「万代までに」の原文が「万世左右二」となっており、平安時代、
源順(みなもとのしたごう)が「 よろづよ までに 」と訓み解くのに
四苦八苦した逸話が残されています。(掲載写真参照)

「 春草は 後(のち)はうつろふ 巌なす
     常盤にいませ 貴(たふと)き我(あ)が君 」 
                      巻6-988 市原王(既出)

( 春草はどんなに茂ってものちには枯れて変わり果ててしまいます。
 わが貴き父よ! どうか巌のように、いつまでも変わらず
 お元気でいて下さい)

「君」は自分が敬愛する人(主人、父母、配偶者、友人、知人)をいい、
作者が宴席で 父、安貴王の健在を寿いだもの。
春草と巌を対比させ、調べは荘重。
安貴王は天智天皇の曾孫、親愛と深い愛情が感じられる一首です。

「 八千種(やちくさ)の 花はうつろふ 常盤なる
     松のさ枝を 我れは結ばな 」 
                      巻20-4501 大伴家持(既出)


( 折々の花はとりどりに美しいけれどやがて色褪せてしまいます。
 我らは永久に変わらぬ、このお庭の松を結んで ご主人の長寿とご繁栄を
 お祈りいたしましょう。)

758年 作者と親しかった中臣清麻呂宅での宴の折の歌。
「松が枝を結ぶ」は、枝と枝とを紐などで結び合わせて無事、安全を祈る
おまじない的行為で、結ぶ紐は自分の魂の分身であると考えられていました。

家持は主人と友人の繁栄と長寿を祈りつつ、
「 この松のごとく長寿は保ちえないとしても、お互いを結ぶ
友情の絆は不変でありたい」と願っていたように思われます。

なお、「紐を結ぶ」という行為は、「御神籤を神木に結ぶ」「慶弔の袋を紐(水引)で結ぶ」、
「組み紐」、さらに「印刷された贈答用の水引き付熨斗紙で包む」等、
形を変えながら今もなお受け継がれています。

「 常盤なす 石室(いはや)や今も ありけれど
       住みける人ぞ 常なかりける 」
                      巻3-308  博通法師(伝未詳)

( 石室は常盤のように昔と変わらず今もあり続けているけれども
 ここに住んでいた人は常住不変ではなかったなぁ )

作者が紀伊を訪れ、伝説の人、久米の若子(わくご:若者)が住んでいたという
三穂の石室を見た時の感慨のようですが、どのような伝説であったかは不明です。
ただ、「万葉の歌 和歌山 村瀬憲夫著 保育社」によると

『 都から難をのがれて紀伊国にいらっしゃった久米の若子は人目、人言を避けて
  三穂の岩屋にひっそり住んでいらっしゃった。
  そこで三穂の女性と契りを結び、やがて都へ帰って栄達する。
  ところが三穂の女性は(源氏物語の)明石の君と筋書きが違い、ひっそりと
  この地で果てた。
  こう考えると、久米の若子は日本書紀にある
  「またの名は来目稚子(わくご)とある「弘計王(をけのみこ)」
  すなわち「顕宗天皇(けんぞうてんのう)という説がもっともふさわしい。

  父が雄略天皇に殺されたとき、兄の憶計王(おけのみこ)とともに難を逃れて
  播磨の国に行き、そこで志自牟(しじむ)という家に身を隠し、
  馬飼い、牛飼いの仕事をして世を過ごす。
  その後、清寧天皇(せいねいてんのう)の世に発見され、互いに譲り合いながらも
  弟の弘計王(をけのみこ)が位につくのである。

  もちろん紀伊国とは関係のない話だが、こと伝説となるとあちらこちら駆け巡る。
  弘計王すなわち久米稚子が、紀伊国の三穂の岩屋に隠れ住んでいたという
  伝説が残っていたかもしれないのである。』 と
  想像たくましく述べておられます。

また、伊藤博氏は
「 和歌山県日高郡美浜町の神社の裏手の崖を下りたあたりに巨大な石窟があり
巨岩も沢山転がっている。
このあたりが詠われた地ではないか」とも。

「常盤」で忘れられないのは「トキワ荘」。(東京都豊島区東長崎)
手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森正太郎、赤塚不二夫、園山俊夫など
錚々たる漫画家が若き頃住み、お互いに切磋琢磨していたと言われる木造アパートです。
1982年、老朽化のため残念ながら取り壊されましたが、今なお伝説の地として
記憶に新しく、小説、映画化されました。

 「 牛若の 目がさめますと 常盤言い 」 江戸川柳

          ( 強引にくどき寄る清盛、 避ける常盤御前 )

             万葉集576 (常盤) 完


    次回の更新は4月22日(金)の予定です。
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by uqrx74fd | 2016-04-15 07:13 | 生活

万葉集その五百六十九 (梅愛づる人)

( 満開の梅  奈良万葉植物園 )
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( 馥郁とした香りが漂う  東大寺戒壇院の梅 )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 同上 )
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(  月ヶ瀬   奈良 )
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(  同上 )
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( 皇居東御苑の白梅 )
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(  同上 珍しい形の紅梅の木 )
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(  曽我梅林の枝垂れ梅  小田原市 )
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(  富士山が見えるかどうかは運しだい 曽我梅林 同上 )
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「 もっそりと 毘盧遮那仏(びるしゃなぼとけ)の 古りゐます
         寺よぎり 梅の香につつまれぬ 」      大滝貞一
                              毘盧遮那仏 : 東大寺大仏
如月(きさらぎ)が終わり、まもなく弥生。
東大寺戒壇院の裏手に咲く白梅が馥郁とした香りを漂よわせ、
道行く人々を楽しませてくれる時期になりました。

「 おぉい! 古の都へ梅見に行こう 」
と声をかけると集まったのは仲間4人衆。
何しろ60年近い付き合い、気心が知れた友ばかりです。
あっという間に話がまとまり、たちまち奈良へ。

晴天に恵まれ、最高のお花見日和。
鑑真和尚が開基された東大寺戒壇院の四天王像(国宝)を拝観し、
大仏池に通じる裏側に廻ると今が盛りと咲き誇る白梅。

「 おぉ!今年も逢えたな 」と 声をかける。

「 春さらば 逢はむと思(も)ひし 梅の花
          今日の遊びに 相見つるかも 」
                    巻5-835 高氏義通(かうじのよしみち)

( 春になったら是非出会いたいと思っていた梅の花。
 念願かなって今日この宴で皆でめぐりあうことができたなぁ )

さぁ、さぁ花の下で酒盛りだ。
当節、梅の下での酒盛りはあまり見かけないが、まぁいいか。

「 梅の花 今盛りなり 思ふどち
    かざしにしてな 今盛りなり 」 
                    巻5-820 葛井大夫(ふじい まへつきみ)
( 梅の花は今が真っ盛り。 
    さぁ、気心知れた皆の髪飾りにしょう。
    梅の花は今が真っ盛りだ )

昔の人は梅や桜の枝を頭や着物に挿してその生命力にあやかろうとしました。
勿論、現在は枝折厳禁。
一献また一献と盃を酌み交わしながら、花や香を愛づる紳士ばかりです。

突然一陣の風、花びらが空に舞い、ひらひらと流れ落ちてきました。
「 そうだ、大伴旅人がこんな歌を詠っているぞ」と披露する。

「 梅の花 夢に語らく みやびたる
     花と我(あ)れ思(も)う 酒に浮かべこそ 」
                           巻5-852 大伴旅人(既出)
( 梅の花が夢でこう語った。
    「 私は風雅な花だと自負しております。
      どうか酒の上に浮かべて下さい 」 と)

念願通り、花を盃に浮かべてあげました。
「 そういえば履中天皇(438年)の盃に桜の花びらが舞い落ちたという
  風雅な話もあったなぁ」
とふと思いだす。

宴はいよいよ佳境。

「 梅の花 折りてかざせる 諸人は
     今日の間は 楽しくあるべし 」 
                  巻5-832  荒氏稲布(くわうじの いなしき)


( 梅の花をかざしにしている各々方 
  今日は尽きない楽しみの一日を過ごしましょう )

時間が経つのも忘れ、数々の思い出を語り合う。
喧嘩したこともあったっけ。
それにしても皆年取ったなぁ。
それぞれ苦労もあっただろうに、微塵も感じさせない武士(もののふ)たち。

 「 年のはに 春の来たらば かくしこそ
         梅をかざして 楽しく飲まめ 」 
                   巻5-833 野氏宿奈麻呂( やじの すくなまろ)

( これからも 春が巡ってくるたびに このようにして梅をかざしながら
  楽しく飲もうではないか )

「そのためには、みんな体を鍛えて元気でいなきゃ」と口々に。

ふと気が付くと肌寒い。
まもなく黄昏、人影もまばらになってきた。
突然、東大寺の大鐘が鳴り響く。
余韻を残した美しい調べに聴き惚れながら、
「やっぱり奈良はいいな」と呟く。

名残惜しいがそろそろお開きにいたしましょう。
ではまた、来年までさようなら。

  「 としひとつ 又もかさねつ 梅の花 」 鬼貫

( 本稿の歌はすべて730年大宰府長官大伴旅人主催の梅花の宴32首の
  中から選び、現代風に並べ替えたものです。)
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by uqrx74fd | 2016-02-26 06:31 | 生活

万葉集その五百六十七 (光明皇后)

( 法華寺山門  奈良 )
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( 同  本堂 )
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( 厄除けの茅の輪  同 )
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( から風呂  同 )
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( 本尊 十一面観音像:国宝  同 )
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( 光明皇后  小泉淳作画 )
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(  同上    林屋拓蓊:はやしや たくおう 画
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(  同上絵本  梶田幸恵 作、絵)
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(  光明皇后陵  佐保山の麓、聖武天皇の隣 )
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( 光明天皇が人々の為に作ったと伝えられる守り犬  昭和45年年賀切手 )
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光明皇后は701年 藤原不比等と橘三千代の間に生まれ、安宿媛(あすかべひめ)と
名付けられました。
聡明にして美しく、光り輝くごとしで、長じて光明子(こうみょうし)とよばれ
16歳にして後の聖武天皇の皇太子妃となり,阿倍皇女(後の孝謙天皇)を出産されます。

724年、聖武天皇即位。
5年後の729年光明子は妃から皇后に。
立后が遅れたのは、当時、皇后は天皇亡き後女帝になる可能性があり、出自は
皇族出身に限るという不文律があったため長屋王などが強く反対し難航したためです。

天皇の熱意と藤原家の強力な後押しで皇后に冊立された光明子は、内外の政治混乱、
大飢饉、大地震、悪病の流行、大仏建立等で疲労困憊する夫を献身的に支えます。

仏教に篤く帰依した皇后は、東大寺、国分寺の設立を天皇に進言し、
自らも興福寺五重塔や西金堂を建立したり、貧しい人を救済する施設「悲田院」、
医療施設「施薬院」を設置されました。
また、能書家としても知られ、王羲之の「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)
されたものが、正倉院に収められており、その書は

『 筆力 勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない
  美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
  まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』

との最高級の評価がなされています。(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)

さらに、聖武天皇崩御後四十九日に遺品などを東大寺大仏に寄進しその宝物を
収めるための正倉院を創設するなど、その功績は大なるものがあります。

万葉集での皇后の歌は3首。
慈愛に満ちたお人柄を偲ばせるものばかりです。

「 我が背子と ふたり見ませば いくばくか
     この降る雪の 嬉しくあらまし 」  
                         巻8-1658 光明皇后

( この降り積もる雪の見事なこと。
 わが背の君と一緒に見ることができましたら、
 どんなに嬉しく思われることでしょう )

夫、聖武天皇が東国巡幸の旅にでた折に贈った歌。
一人の女性として詠い、可憐。 皇后40歳。

「 朝霧の たなびく田居(たゐ)に 鳴く雁を
     留(とど)め得むかも  我がやどの萩 」
                          巻19-4224 光明皇后


( 朝霧のたなびく田んぼにきて鳴く雁。
  我が宿の萩はその雁を引きとめておくことができるであろうか )

聖武天皇吉野行幸の折、吉野に美しく咲く萩と雁が音を聴き、
平城京の自邸に思いをいたした宴席での歌と思われます。

当時、雁と萩との取り合わせは秋の花鳥の代表的なものと考えられていました。
さらに、「雁に男性、萩に女性を連想するのはこの時期の共通の詩情」(窪田空穂)
だそうで、この説をもとに深読みするならば
「 私皇后(萩)は彷徨する天皇(雁)を留めることができようか」とも解釈できます。
 聖武天皇は740年九州で藤原広嗣の乱が起きた時、都を次々と遷都し
5年間地方を彷徨した時期がありました。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                          巻19-4240  光明皇太后(既出)

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

孝謙天皇の時世、第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の旅の無事を
祈願した神祭りの歌。
清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
皇太后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠ります。
威厳と力強さが感じられ、当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なもので
あったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

「 いにしへの 古き堤は 年深み
    池の渚に 水草(みくさ)生ひにけり 」  巻3-378 山部赤人


( ずっとずっと以前からのこの古い堤は 年の深みを加えて
  池の渚に水草がびっしり生い茂っていることよ  )

皇后の父、藤原不比等がかって住んでいた屋敷の庭園で故人を偲んで詠ったもの。 
法事の折のものかも知れません。
いにしへ、古き、年深みと時の経過と共に神々しくなっていくさまを詠い
鎮魂の意を奉げています。

「 ふぢはらの おほききさきを うつくしみ
    あひみるごとく あかきくちびる 」   会津八一


佐保路の終わり、平城京跡近くに法華寺という尼寺があります。
( 法花寺とも記し 山号は「法華滅罪寺」)
もと藤原不比等の邸宅であったものを没後、皇后宮、さらに諸国の
総国分尼寺として女人信仰の中心となった古刹で、本尊は十一面観音立像(国宝)、
皇后をモデルとしたものとも伝えられている美しいみ仏で赤い唇が印象的です。

和辻哲郎は古寺巡礼で次のように述べています。

『 この観音は何となく秘密めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。
 胸に盛り上がった女らしい乳房。
 胴体の豊満な肉づけ。
 その柔らかさ、しなやかさ。
 さらにまた奇妙に長い右腕の円(まる)さ。
 腕の先の腕輪をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に
 移っていく間の特殊なふくらみ。
 それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、
 しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような
 一種隠微(いんび)な蠱惑力(こわくりょく)を印象するのである 』 (岩波文庫より)
  
境内はいつも箒の目が清々しく、凛とした風格が漂い、東門の奥には
千人の入浴を発願し、千人目の病人の願いにより患部の膿を
吸い取ったところ、病人は阿閦如来(あしゅくにょらい)の化身で、
光を放って昇天したと伝えられる「から風呂」が残されています。

我国社会福祉の原点と云うべき建物。
当時としては珍しい蒸し風呂で近年まで焚かれているそうです。

最後に、荒木靖生著 万葉歌の世界 (海鳥社)からです。

『 数年前、奈良の佐保路を散策していたとき、法華寺の白い築地塀の外側に
  さらに からたちの生垣が百メートル近く続いていたのが印象的であった。
  
  皇后の母「県犬飼 橘三千代」の姓の一字「橘」は後に賜姓されたものである。
 「からたち」すなわち「唐橘」の「橘」が何かしらそんなことに
  かかわりのあるものとして、後世の人たちが「からたち」の生垣を
  作ったのだろうと考えながら、おりからの小雨に濡れる白い花に
  目を落としていた。 』

        「 法華寺に 守り犬買う 小正月 」 河合佳代子

            守り犬: 精進潔斎した門主と尼僧のみで作る土製彩色された子犬。
            小正月: 旧暦の正月15日あるいは正月14日~16日





















               
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by uqrx74fd | 2016-02-11 14:12 | 生活

万葉集その五百六十五 (おもてなし)

( 満開の桜を前にしての一服  最高のおもてなし  長谷寺 奈良)
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( お膳をお持ちしました   国立歴史博物館 佐倉市 )
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( 遊楽メニユー  鰻  野田岩  麻布 )
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( すし乃池  谷中 )
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( 大天もり  まつや  神田 )
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( ひれかつ  蓬莱屋  御徒町 )
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( 親子丼  玉ひで  人形町 )
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( 釜めし 志津香  奈良 )
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( お好み焼き  おかる 奈良 )
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(  茶粥  御蓋荘  奈良 )
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( わらび餅  二月堂 龍美堂 奈良 )
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( 粟ぜんざい 桜湯  竹むら  神田 )
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( つばらつばら  鶴屋吉信  京都 )
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東京オリンピック招致プレゼンで注目を浴び、一躍流行語になった「おもてなし」。
その語源は「お」と「もて」と「なす」に分解して考察するそうです。

「お」は美化語。
「もて」は「もて騒ぐ」「もて扱う」「もて隠す」などのように
動詞に付属して強調されるときに使われる接頭語で、漢語「以」の訓読「もちて」が
変化して「もて」となったもの。(日本国語大辞典:小学館)

「なす」は「成す」で (モノを)「そのように扱う、そのようにする」。

従って、「もてなす」は 元々「取扱うことを強調する場合に使う言葉」、
今流でいえば 「 やっておいたぞ!」「 処置しておいたぞ!」といった
ところでしょうか。
乾 善彦教授(関西大学国文学)によると、現在のように接待に関して用いられる
ようになったのは中世以降とされています。

「モノ」には目に見える物体と見えない事象があり、「おもてなし」の神髄は
「表裏なく」「見返りを求めず」「物心両面で」遠来のお客に心を尽くすこと、
現在のお遍路さんの接待にその精神がみられるとでもいえましょうか。

万葉集で「もてなす」という言葉はみえませんが「おもてなし」の心は
古代の人々にも十分理解され、日常生活に溶け込んでいたことが
次の歌のやり取りからも窺われます。

751年 正月3日(現在の2月3日頃) のことです。
越中の官人、内蔵介縄麻呂(くらのすけ つなまろ)という人物の館で
酒宴が催されました。
ところが当日は予想だにしなかった大雪。
それでも大伴家持以下招待客は、なんとか辿りつくことができ、
全員揃ったところで宴が始まりました。

まずは来賓の挨拶です。

「 降る雪を 腰になづみて 参り来(こ)し
    験(しるし)もあるか 年の初めに 」      巻19―4230 大伴家持

( 本日はお招きいただき誠に有難うございました。
  思わぬ大雪。
  腰までどっぷり浸かり難儀いたしましたが、何はともあれと参上させて戴きました。
  お目にかかれて嬉しゅうございます。
  それにしても年の初めに雪が降るとは、誠に縁起が良いことでございますね )

当時、雪は豊作のしるし、幸先が良いものとされていました。
主人を寿ぐ一首で心遣いをみせた作者。

迎える主人はあっと驚く趣向を披露します。
庭に降り積った雪で大きな岩を造り、無数の造花の撫子を植えて歓待したのです。
まさに雪中花、家持が殊の外撫子を好んでいたことを知った上での
さりげないおもてなしです。

「 なでしこは 秋咲くものを 君が家の
       雪の巌に 咲きにけるかも 」   
                           巻19-4231  久米広縄


( 撫子は秋に咲くものなのに、これはこれは、驚きましたなぁ。
 あなた様のお家では雪の岩に花が咲いていたのですね 。)

「 秋から雪の降る今まで咲き続けていたのですね。」と主人の趣向に驚き、
感謝しつつ家の繁栄を寿いだ歌。

来客に喜んでもらえ、苦労した甲斐があったと主人もにんまりしたことでしょう。

「 雪の山斎(しま) 巌に植ゑたる なでしこは
      千代に咲かぬか  君がかざしに 」
              巻19-4232 蒲生娘子(かまふの をとめ) 遊行女婦(うかれめ)

( 雪の積もった美しい園に植えてある撫子。
  いつまでも枯れないで 千代八千代に咲いてくれないものでしょうか。 
  あなた様の挿頭(かざし)にするために )

主人は文藝の嗜みがある遊行女婦(うかれめ)を待機させ席に侍らせたようです。
座を華やかにと心配りした主人の粋な計らいです。
前の2首の意を受け、「あなた様の挿頭(かざし)したい」つまり撫子を自分に
譬え、「私がご主人さまの頭を飾りたいものです」と艶なる取り持ちで
座を賑やかにしています。

遊行女婦とは後年の遊女と異なり、高貴な人と対等に渡り合える高い教養の持主。
主人と客をたてた機転ある一首です。

宴はたけなわとなり気が付くと夜が明け始めています。
時を告げる鶏、一同「もう帰らねば」とそわそわ。
周りの気配を感じた主人が、相手から「そろそろお暇を」と言いださない前に
機先を制した心遣いの言葉をかけます。

「 うち羽振(はぶ)き 鶏(とり)は鳴くとも かくばかり
    降り敷く雪に 君いまさめやも 」 
                 巻19-4233 内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきのつなまろ:主人)


( 鶏が羽ばたいて時を告げて鳴こうとも これほどまでに降り積もった雪の中を
 皆さん、どうやってお帰りになるのですか。
 さぁさぁ 遠慮しないで腰を落ち着けて下さい。
 飲み直し致しましょうや )

やれやれと浮かした腰をまた戻し、家持が感謝の意を。

「 鳴く鶏は いやしき鳴けど 降る雪の
     千重(ちへ)に積めこそ 我が立ちかてね 」 
                                巻19-4234 大伴家持


( 鶏が朝を告げてしきりに鳴き立てており、私共はそろそろお暇しなければ
 ならないと思っておりましたが- -。
 実は内心ではこの積り具合では帰れますまいと困惑いたしておりました。
 ご配慮有難うございます。
 ではお言葉に甘えまして )

迎える主人も招かれた客人もお互いに心遣いをしながら楽しい時を過ごす。
造花の撫子は茶室の掛け軸にでも相当するものでしようか。
我国の繊細な「お・も・て・な・し」の心は古代からずっと育まれていたのです。

 「 呑明(のみあ) けて 花生(はないけ)にせん 二升墫 」 芭蕉

   尾張の人から酒一樽,木曽うど、茶を贈られた時の吟詠。
   多くの門人が集まっての句会。
   斗酒なお辞せずの浮き浮きした気分が漂う一句。
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by uqrx74fd | 2016-01-29 06:51 | 生活