カテゴリ:生活( 145 )

万葉集その五百六十三 (鷹狩)

( 鷹狩の埴輪 鏡神社 奈良新薬師寺の隣)
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( 獲物を狙う鷹  浜離宮庭園 東京 )
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( 諏訪流放鷹術を披露する鷹匠の行進 浜離宮庭園 )
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( 動く鷹をなだめながら  同上 )
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( こちらの鷹は泰然自若  同上 )
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( 放鷹前の瞑想  同上 )
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( ますは師匠から  同上 )
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(  同上 )
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( 向こう側の鷹匠の腕を目指して水平に飛ぶ鷹  同上 )
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( 見事に腕に止まりました  広げた翼が美しい )
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( 美人鷹匠が目の前に来てくれ色々な質問に答えてくれました 鷹は微動だにしません) 
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( 同上 )
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( 同上 )
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 「 鷹舞うて 音なき後山 ただ聳ゆ 」 飯田蛇笏

鷹狩は放鷹(ほうよう)、鷹野(たかの)ともいわれ、飼い馴らしたイヌワシ、オオタカ、
ハイタカ、ハヤブサなどを放って、鳥類や兎、狐などを捕えさせる狩猟をいいます。

その歴史は古く、紀元前3000~2000年頃中央アジア、モンゴル高原に発祥したと
想定され、中國では紀元前680年、我国は鷹狩を表現した古墳時代の埴輪が
発掘されているので太古に渡来していたと思われますが、文献での記録は
仁徳天皇の時代(355年)、鷹を調教する鷹飼部(たかかいべ)が置かれたという
日本書記の記述が最古のものとされています。

鷹狩は広大な狩場、高度な飼育技術をもつ鷹匠が必要とされるので、
天皇、皇族、貴族、地方の豪族の権力の象徴とされていましたが、
時代の推移と共に武士達も鍛錬をかねて行うようになりました。

狩をするときは飛んでいる鷹の位置を知るために尾羽に小さな鈴をつけ、
獲物を見つけて飛び立つと「リンリンリンリンリーン」と涼やかな音が
空を渡ってゆきます。

「 都武賀野(つむがの)に 鈴が音(おと) 聞こゆ
     可牟思太(かむしだ)の 殿の中ちし 鳥猟(とがり)すらしも 」
                  巻14-3438  作者未詳

( 都武賀野(つむがの)で 鈴の音が響いているのが聞こえる。
 可牟思太(かむしだ)のお館の 次男坊様が鷹狩をなさっているらしい。) 

「都武賀野(つむがの)、可牟思太(かむしだ)」: 東国の一地方なるも所在不明。
「鈴が音」: 鷹の尾羽につけた小鈴の音 
        もともとは草むらの中の鷹の位置を知るために付けたもの
「殿」:    土地の豪族の立派な邸宅、 
「中ち」 :  次男坊  自由闊達、凛々しい若者を想像させる

この歌から地方豪族も鷹狩を楽しんでいたことが窺われ、鳥猟(とがり)と
云われていたようです。

何かの作業をしている娘のもとに涼やかな鈴の音が響いてきた。
「 あぁ、若殿が狩りをなさっている 」
颯爽と馬を駆けさせている姿を思い浮かべながらうっとりと聞き惚れている。
娘は以前、若様をどこかで見かけたのでしょうか。
ほのかな恋心を抱いているのかもしれません。

万葉集での鷹狩は7首、そのうち大伴家持が6首、時の越中国守は
大の鷹好きでした。
まずは家持の長歌の訳文から。

「- 秋ともなれば 萩の花が咲き匂う石瀬野(いはのせ)に
  馬を駆って出で立ち 
  あちらこちらに 鳥を追いたて
  獲物に向かって放つ鷹の 鈴の音もさわやかだ。 

  空のかなたを仰ぎ見ながら 
  悶々としていた心のうちを晴らして
  心嬉しく 思い思いしながら  
  その夜は枕をつけて寝る 

  妻屋の中に 止まり木を作って
  そこに大事にすえて 飼っている
  この真白斑(ましらふ)の鷹よ  」     
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
訓み下し文 

  「 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 
     馬だき行きて 
     をちこちに  鳥踏み立て 
     白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り
     振り放(さ)け見つつ 
     いきどほる  心のうちを 思ひ延べ
     嬉しびながら  枕付(まくらづ)く
     妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ
     据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
一行ずつ読み解いてゆきます。

 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 

        (石瀬野(いはのせ):高岡市庄川左岸石瀬(いしぜ)一帯)

  馬だき行きて 
             ( 馬の手綱を操って)

 をちこちに  鳥踏み立て 
            ( あちらこちらに 鳥を追い立てて )

 白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り

         ( ゆらに:さわやかに 
           あはせ遣り:獲物をめがけて手に据えた鷹を飛びたたせて )

  振り放(さ)け見つつ 
              ( 大空の彼方を仰ぎみながら)

 いきどほる  心のうちを 思ひ延べ

              (胸につかえていた鬱屈を晴らし)

  嬉しびながら  枕付(まくらづ)く

             ( 心楽しく 枕をつけて寝る )

   妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ

            ( 寝室に 鳥を止まらせる台を作り )

  据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」

   ( 据えて飼う 尾羽に斑(まだら)が入った白鷹よ )

                               巻19-4154(一部) 大伴家持

反歌

 「 矢形尾(やかたを)の 真白の鷹を やどに据ゑ
     掻き撫で見つつ 飼はくしよしも )  
                           巻19-4155 大伴家持(既出)

( 矢のような形をした尾をもつ白い鷹を家の中で飼い、
     いつも優しくかき撫でて 大切にしている私の鷹。
     実に可愛いなぁ )

作者は心の中に鬱屈するものがあり、気晴らしに鷹を空中に放したところ
心が晴れたと詠っていますが、都から遠く離れた越中の地に単身赴任し
最愛の妻、坂上大嬢と長らく逢えなかったこと、大伴家に衰退の兆しが見え、
出世街道から外れてゆく寂しさなどが重なっていたのかも知れません。
それにしてもいささか異常と思われるくらいの鷹への執着ぶりです。

「 夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母(たのも)しき 」 芭蕉

天皇、貴族のものとされていた鷹狩は、戦国時代から近世にかけて武家の間で流行し
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、家光などが特に好み、慶長年間(1596~1615)には
鷹匠が116名もいたそうです。
1716年、8代吉宗の時代には江戸近郊594村という広大な地域を公儀の鷹場とし
慶応2年(1866)の廃止まで続きました。
徳川時代の鷹狩は民情視察、治安維持などの目的もあったようです。

現在一般公開されている浜離宮庭園はもと将軍家の御鷹場だったといわれ、
毎年正月2~3日、この地で「放鷹術」が公開されています。
技を披露されるのは信州諏訪大社ゆかりの諏訪流の方々。
江戸将軍家お抱え鷹匠の流れを継承し、宮内省鷹匠でもあった16代花見薫氏に
敬意を表して昭和初期の鷹匠衣装を正装とされているとのこと。

大観衆が見守る中、7人の鷹匠の紹介をかねて行進開始。
何と!若い女性が5人。
しかも美人揃いにはびっくり仰天しました!!
各々、手さばきも見事に鷹を放ち、鳩を捕えさせたり、高所から急降下させて
獲物を獲る術は、古の鷹狩を彷彿させ新春にふさわしい華やかな行事でありました。

   「 鷹据うる 人に逢ひけり 原の中 」 正岡子規
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by uqrx74fd | 2016-01-14 07:28 | 生活

万葉集その五百六十一 (新年の歌:申)

( 謹賀新年 本年もよろしくお願い申し上げます )
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( 本年の干支は申  上高地明神池への途中で )
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( 干支文字切手 )
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( 三番叟手拭  大野屋製:銀座   三番叟:さんばそう については本文で説明)
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( 三番叟 扇子  三越本店ショウウインドウ )
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( 一刀彫  奈良 )
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( 三番叟 奈良の骨董品店で )
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( 猿面  京都物産館:八重洲口 )
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( 三番叟香合  赤膚焼  尾西楽斉作  月刊ならら表紙より )
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( 奈良町庚申堂 )
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( 同 軒先に猿の魔除けを吊す家々 )
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( お年賀 虎屋羊羹 )
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「 新(あらた)しき 年の初めは いや年に
     雪踏み平(なら)し 常にかくにもが 」 
                        巻19-4229 大伴家持


( 新しい年の初めは 来る年も来る年も 雪を踏みならして
  いつもこのように賑々しくありたいものです。)

751年正月 越中国守の新年賀宴での歌。
その日1mもの大雪が積ったと詞書にあり、
「 人々は雪を踏みならして目出度い新年を祝ってくれる、
このめでたさがずっと続いて欲しいものです」
と挨拶したもの。
当時大雪は豊作の瑞兆とされており、天下泰平、実り豊かな新年を祝う喜びが
あふれている一首。

なお、「新(あらた)しき年の初め」や「初春」(はつはる)は、天平の終わり頃に成立した
慣用表現で、1月1日から7日までをいい、現在も綿々と受け継がれている
由緒ある言葉です。

本年は申年。
申は正式には「しん」と訓み、元々稲妻を表した象形文字とされていますが、
後に「伸」の原字になり、「草木が伸び切り、果実が成熟して固くなってゆく」
状態を表すとされています。

動物の猿が当てられている理由は全く不明ですが、「さる」は病や不幸が
「去る」に通じるので神社などで祀られて魔除けとされたり、
能楽で3番目に演じられる三番叟(さんばそう)が猿楽に由来し五穀豊穣を寿ぐ
神事的な内容であるため猿の飾り物が多く作られています。

奈良の猿沢池からほど近いところに「ならまち」とよばれる古い街並みを残す
一角があり、中心部に青面金剛像を祀る庚申堂、その前面に猿の石像が
置かれています。
青面金剛は文武天皇の時代(697~707年)、悪疫が流行したときに町を守った神様、
猿はその使者とされ、猿のぬいぐるみを家々の軒先に吊るし魔除けとしています。
厄災を代わりに引き受けてくれるので「身代わり猿」ともよばれ、
大きいものは大人、小さなものは子供、家族の数だけ吊るしているそうです。
町中吊るし猿が溢れているところは日本広しといえどもこの町だけでありましょう。

「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
    人をよく見ば  猿にかも似む 」   
                             巻3-344  大伴旅人(既出)

( あぁ、見られたものじゃないよ。
 わけ知り顔して「俺は酒を飲まないんだ」という奴をよくよく見ると
 まるで小賢しい猿そっくりではないか )

万葉集唯一の猿の歌です。
旅人が何故酒飲まぬ人を猿に喩えたのかよく分かりませんが、
宴席をいつも辞退する部下に猿面がいたのかも。

「十二支の話題辞典」によると 申年生まれの人は

「 機敏にして進取の気性に富んでいて、若くして異色の出世をする人がいる。
  研究意欲が旺盛で、世話好きで、味方もあるが口舌が災いして敵を作ることも。
  軽率に人を信用して失敗することもあるが生来、怜悧な素質だから、晩年は安泰」 とか。 
                                 ( 加藤廸男著 東京堂出版 ) 

 「 七草や 女夫(めをと)女夫(めをと)に 孫女夫(まごめをと) 」 

                                志太 野坡(やば)
 
「 正月になると息子、娘夫婦、それに孫夫婦が各地から集まり、
  一族再会を喜びあう。
  七草のように別々に住む夫婦たちが、七草粥のように一緒にまじりあって
  お互いの息災を祝っている 」という情景。

 まことに、ほのぼのとした雰囲気が感じられ、七草粥の暖かい湯気まで
 漂ってきそうです。

「  千歳(ちとせ)に余る しるしとて
           君が代を経る 春の松が枝 」  和泉民謡

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by uqrx74fd | 2016-01-01 00:00 | 生活

万葉集その五百五十八 (万葉人のトイレ)

( 藤原京のトイレ  飛鳥、藤原京展   画面をクリックすると拡大できます)
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( 平城京のトイレ   国立歴史民俗博物館 )
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( 三内丸山遺跡   青森県 )
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( 同上内部 )
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( 万葉人の宴  奈良万葉植物園内のレリーフ )
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( 6世紀中ごろの東国の村  国立歴史民俗博物館 )
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( 枳殻:カラタチ 小石川植物園 )
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( 同上  花は開いたが刺も大きい )
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(  同上  )
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 1992年、藤原京の邸宅跡からトイレ遺構が発掘されました。
我国初、古代貴族の食生活を知る上で重要な手掛かりとなる画期的成果とされるものです。

その堆積物を分析した結果、古代人は澱粉質食品、魚介、肉、油脂、淡色野菜、
果実、緑黄色野菜、カルシュウムなどの基礎食品群をまんべんなく摂食し、
刺身、焼肉、焼魚 干物、おひたし、あえもの、サラダ、旬の果物、
さらに香辛料なども使った、なかなかのグルメ食生活をおくっていたことも解明されています。

発掘されたトイレは邸宅の外を流れる溝から水を引き入れ、排泄物を
また外の溝に流すという水洗方式で、下水道が整備されていたことが窺われますが。
一般庶民は家の隅で穴を掘り、外出先では川や道路の排水溝や野畑で用を
足していたと思われます。

トイレのことを「厠」といいますが、その語源は
 川屋(かわや)説   川の上に設備を作り不浄をそのまま流す
 側屋(かわや)説   家の傍らに設ける意

の2説あり、万葉集に川屋説を裏付ける、それも滑稽極まる歌が残されています。

「 香塗れる 塔にな寄りそ 川隈(かはくま)の
       屎鮒(くそぶな)食(は)める いたき女奴 」
            巻16-3828  長忌寸 意吉麻呂(ながのいみき おきまろ)

( 香を塗り込めた清らかな塔に近寄るなよ。
      川の隅に集まる屎鮒など食って、ひどく臭くて汚い女奴よ。)

この歌は「香、塔、厠(かわや)、屎(くそ)、鮒、奴」を歌に詠みこめと
宴会で囃され、即座に作ったもの。

高貴,清浄な塔と不浄な屎、それを食う鮒とまたそれを食う奴婢の女。
女を卑下したわけではなく、その対比を面白おかしく詠ったのです。

当時は川の流れを利用し、その隅で用を足すことが多く、
川の隅に便所をしつらえて、足したものが川に落ちるようにしていました。
それを鮒が食べたので屎鮒というわけです。
香は香木、練香、粉香、香油などをさし、塔の中で香の匂いが漂っていたのでしょう。

「いたき女奴」は「ひどくよごれている奴婢」の意で、寺などで使役されている
身分の低い女。

「 からたちの 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ
    屎(くそ)遠くまれ 櫛(くし)つくる刀自(とじ) 」
                    巻16-3832  忌部首(いむべのおびと) 既出


( 櫛作りのおばさんよ、俺様はこれからカラタチの茨を取り除いて、
  そこに倉を建てようと思っているんだよ。
  だからさぁ、屎は遠くでやってくれよな 。)

まぁなんと!
「屎(くそ)を遠くでやれ」と上品らしからざる言葉が飛び出してきました。

この歌も倉つくりに従事している下級官人が夜の宴会で数種の物の名前を歌に
詠みこめと催促され「カラタチ」「茨」「倉」「屎」「櫛」を詠みこんだのです。

指名された人は即座にひらめく機知とアッと驚かせる意外性が要求されます。
とはいえ、宴席の人々もさすがに「屎」には驚き、呆れたことでしょう。
当時、外で作業中に尿意を催したときは、辺りかまわず穴を掘って
用を足していたのですかねぇ。

「屎遠くまれ」の「まれ」は排泄を意味する「まる」の命令形、
「刀自(とじ)」は一家の主婦の尊称ですがここではわざと敬語を使って
相手をからかっています。
さらに、カラタチの「ラ」うばらの「ラ」、くらの「ラ」と「ラ音」を続け、
「ク」の音も クラ、クソ、クシと揃えたもの。

即興でこのような歌を詠めるのは並大抵の才能ではありません。
清らかな白い花を咲かせるカラタチに鋭い刺。
「カラタチの刺に白い尻を刺されるなよ」と女性をからかったとも思える歌です。


「 からたちの 花が咲いたよ
     白い白い 花が咲いたよ
     からたちの とげはいたいよ
     青い青い とげだよ   」     (からたちの花)  北原白秋作詞


最後に谷崎潤一郎著 「陰翳礼讃」 (中公文庫)からです。

『 私は京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも
  掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難味を感じる。
  茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。
  それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のしてくるような
  植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、
  そのうすぐらい光線にうづくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら
  瞑想に耽り、また窓外の庭のけしきを眺める気持ちは何とも云えない。 』

  「 瞑想の ひらめき多し 風呂厠 (ふろ かわや)  」  筆者



















 
   
   
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by uqrx74fd | 2015-12-11 06:35 | 生活

万葉集その五百四十六 (故郷:ふるさと)

( キバナコスモス咲く  耳成山  藤原京跡より )
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( オミナエシ咲く  畝傍山   同上 )
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( ススキの穂靡く  香久山  同上 )
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(  柿実る 飛鳥川  飛鳥 )
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( 野菊、コスモス咲く農家   同上 )
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( 彼岸花咲く棚田   後方多武峰)
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(  同上   )
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(  甘樫の丘   飛鳥  ここから両親が晩年を過ごした家が見える 筆者第二の故郷)
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(  このような遊びもよくしました   東大寺の近くで )
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( 運動会は公園で   奈良公会堂前の広場 )
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( 鹿がよく家の中に入ってきました  奈良公園 )
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(  大仏池  筆者の故郷 ここから5~6分のところに住んでいました) 
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「故郷」(ふるさと)。
なんと心に優しく響く言葉なのでしょうか。

心に思い浮かべるは母なる大地。
それは、
たたなずく青垣。
清流で泳ぐメダカや小鮒。
暗闇に飛び交う蛍がかもしだす幻想の世界。
オニヤンマや赤トンボがスイスイ飛び、蝶が舞う。

悪さして叱ってくれた父母の思い出。
そして、甘くてほろ苦い初恋の味。

新明解語源辞典によると
「故郷:ふるさと」
『 生まれ育った土地、昔馴染みの土地。
  「ふる」は時間がたつの意の「ふる(経)」、
  「さと」は家々が多く集まったところ。
万葉集には仮名書きの例はないが、「古郷」「故郷」を「ふるさと」と訓み、
なにか事のあったところ、馴れ親しんできたところ、
一族が住んできたところ等の意味に用いられた。』  とあります。

「 心ゆも 我(あ)は思はずき またさらに
          わが故郷(ふるさと)に 帰り来(こ)むとは 」
                            巻4-609 笠郎女

                     
( またもや私が昔住んでいた里に帰ってこようなどとは
  ついぞ思ってもみませんでした。 )

大伴家持を熱愛し、片思いに終わった作者が心の痛みに堪えかねて故郷に
戻ったものの、未練を断ち切れず、家持に贈った歌です。
傷心の彼女にとって心を癒す場所は、故郷しかなかったのでしょう。

私たちが折につけ歌うのは「うさぎ追いし かの山 」。
そこには日本人の郷愁がいっぱい詰め込まれているからなのでしょうか。

この歌をなぞりながら、万葉人は故郷をどのように詠ったのか
辿ってみたいと思います。
まずは一番です。

「 うさぎ追いし かの山
  小鮒つりし かの川 
  夢はいまもめぐりて  
  忘れがたき 故郷 」
             ( 故郷:ふるさと  高野辰之 作詞   岡野貞一 作曲)

続いて万葉人の「忘れがたき故郷」です。

「 清き瀬に 千鳥妻呼び 山の際(ま)に
         霞立つらむ   神(かむ)なびの里 」
                             巻7-1125 作者未詳


( 今ごろあの神なびの里、明日香は 
  清らかな川瀬で千鳥が妻を呼び立てて鳴き
  山あいには霞が立ちこめているであろうなぁ。 
  あぁ 懐かしい。)

詞書に「故郷を思ふ」とあり後に続く歌が明日香川なので、
この場所は飛鳥と判断できます。

「 浅茅原 つばらつばらに 物思(ものも)へば
     古りにし里し 思ほゆるかも 」 
                      巻3-333 大伴旅人(既出)


( 心ゆくまま物思いに耽っていると、昔住んでいた明日香、
 あの浅茅が一面に広がっていた我が故郷が懐かしく思われることよ )

都から遠く離れた九州大宰府に長官として赴任している旅人。
生まれ育った香具山に近い故郷を懐かしく思い出しながら、
茅(ちがや)の穂が野原一面に靡いている光景を思い浮かべています。

浅茅原は『あさぢ「はら」』、『つ「ばら」』と「はら」の同音を
繰り返し、リズムよく流れるような一首。

「つばらつばら」は「心ゆくままにしみじみと」
「古りにし里」は新都「奈良」に対する古き里、すなわち「明日香」。

さて「故郷」の二番。

「いかにいます父母
   つつがなしや 友がき
  雨に風につけても
   思いいずる 故郷 」
            友がき: 友垣 交わりを「垣根を結ぶ」に例えたもの。朋友。

同じように「いかにいます父母」と詠う万葉人。

「 父母が 頭(かしら)かき撫で 幸くあれて
     言ひし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる 」 
              巻20-4346 丈部稲麻呂(はせつかべの いなまろ) 駿河国防人

( 父さん、母さんが おれの頭をなでながら 達者でなと言ったあの言葉が
      忘れられないよ )

「 旅行(ゆ)きに  行くと知らずて 母父(あもしし)に
     言申(こともを)さずて  今ぞ悔しけ 」
                    巻20-4376 川上臣老(おみおゆ) 下野国防人 (栃木)

( こんな長旅に出るとも知らず、母さんや父さんに ろくに物も言わないで来て
  今になって悔やまれてならない )

「 高山の 嶺行くししの 友を多み
         袖振らず来ぬ  忘ると思ふな 」 
                              巻11-2493 作者未詳


(高山の嶺を群れてゆく猪のように、仲間がいっぱいいたので
 別れる時は袖も振らずにきてしまったが
 お前さんのことを忘れたとは思うなよ )

「 周りに仲間がいっぱいいたので、照れくさくて手も振れなかった。
  でもお前のことは1日たりとも忘れたことはなかったのだよ。」
  と恋人を思い出しながら心の中でつぶやく男。

さて、さて、いざ故郷に帰ろう

 「 こころざしを 果たして
   いつの日にか 帰らん
   山は青き 故郷
   川は清き 故郷  」 

「 わが命も 常にあらぬか 昔見し
    象(きさ)の小川を 行きて見むため 」  
                          巻3-332 大伴旅人(既出)

( あぁ、いついつまでも命を長らえたいものだ。
  昔見た象の小川へもう一度行って、あの清らかな流れを見るために )

人生50年の時代にあって旅人は当時65歳。
既に高齢の身、何としても生まれ育った明日香や、吉野を再び見たいと
執念を燃やしています。

象の小川は吉野山系の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち、
喜佐谷の杉木立の中を流れる渓流。
宮滝で吉野川に流れこみます。

「 年月も いまだ経(へ)なくに 明日香川
           瀬々ゆ渡しし 石橋もなし 」
                       巻7-1126 作者未詳


( 年月はまだそれほど経っていないのに。
 明日香川のあちこちの川瀬に渡しておいた
 飛び石ももうなくなっているよ )

でも青い山々、清らかな川の流れは変わっていなかった。
暖かく迎えてくれた、わが故郷。

このように辿ってゆくと1300年前も今も人々の故郷に対する想い、心情は
全く同じといえましょう。

然しながら、故郷への思いは人さまざま。
暖かく迎えてくれる時ばかりではなく、冷たい仕打ちを
受けたこともありましょう。

石川県金沢、犀川の近くで生まれた室生犀星は21歳の時文人たらんと上京し
貧困のどん底の中で、喰い詰めると金沢に戻りましたが、周囲はその
落ちぶれた様子に冷ややかであったようです。

以下は「小景異情 その二」からです。

「 ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
   帰るところにあるまじや

   ひとり都の ゆふぐれに
   ふるさとおもひ 涙ぐむ
   そのこころもて
   遠きみやこに かへらばや
   遠きみやこに かへらばや  」
                     [小景異情‐その二] より

大岡信氏の解説です。

「 有名な詩句だが、これは遠方にあって故郷を思う詩ではない。
  上京した犀星が、志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、
  帰郷した折に作った詩である。
  故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れがたい。
  それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。
  その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである。」

石川啄木も「煙」という歌集で

「 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 
                 出でし かなしみ  消ゆる時なし 」


と詠っていますが、それでも故郷を想う気持ちは終生変わらなかったようです。

「 ふるさとに 入りて まず心痛むかな
          道広くなり 橋もあたらし  」

「 ほたる狩り  川にゆかむと いふ我を
        山路にさそふ  人にてありき 」

「ふるさとの  山に向ひて   言ふことなし
        ふるさとの山は ありがたきかな   」 「煙より」
   
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by uqrx74fd | 2015-09-17 15:15 | 生活

万葉集その五百四十四 (滝のほとりで)

( オシンコシンの滝  北海道 知床 )
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(  同上 )
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( 蜻蛉:せいれいの滝  奈良県吉野 )
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( 吉野山から宮滝への山道  奈良県 )
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( 西行ゆかりの石清水   奈良県吉野 )
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( 石清水  京都 天龍寺 )
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( 石清水からの遣り水  京都 祇王寺 )
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(  湧水   同上 )
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(  忍野八海  山梨県 )
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(  歌垣  奈良万葉文化会館 )
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( 天皇の菅笠:御菅蓋:おかんがい  大嘗祭の折 御所内の移動で用いられる
                         侍従が後ろから差し掛ける  京都御所 )
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昔々、「押垂小野(おしたれ おの)」とよばれる小さな村がありました。
所在は不明ですが九州の一田舎だったようです。

山懐の滝から美しい水が流れ落ちて川に注ぎ、夏は冷たく、冬は暖かい。
湧水もあり、手ですくって飲むと、それはもう天の雫かと思われるような美味さ、
酒が造れるほどの良質な水です。
周囲に緑豊かな木々。
季節の草花が美しく咲き、村人たちは四季折々祭りや祝い事がある都度、
川のほとりに集まり、歌えや踊れやの楽しいひとときを過ごしていました。

ある日のことです。
日頃から憎からず思っている男と女が出会いました。
男は次のように詠います。(まずは訳文からです)

男: 
   ( ここ押垂小野(おしたれおの)から湧きだす水は
    格別に美味い酒を造る水
    生ぬるくなく
    ひんやりと冷たく 心にしみて爽やかだ
    その、しみる心は お前さんへの想い。
    どうかな、人気のないところで逢いたいものだなぁ。)     巻16-3875
 
「 こと酒を 押垂小野(おしたれ おの) ゆ
  出づる水  ぬるくは出でず
  寒水(さむみず)の 心もけやに 思ほゆる
  音の少なき 道に逢はぬかも 」    
                              巻16-3875 前半 作者未詳


「こと酒」:  殊酒で格別に美味い酒
「清酒(すみさけ)は圧して搾り垂れるものであるから
押垂に掛かる枕詞に用いられた。」 (松岡静雄)

「押垂小野」:  所在不明なるも滝がある場所と思われる
          歌の前後の関係から九州の一田舎と推定(伊藤博)
「心も けやに」:  (冷たい水のように) 心も爽やかに感じられる
「音の少なき」: 人声の少ない  人気がない

女:
  ( 人気の少ない道で お逢いしたいのは私も同じ。
    でも、愛のしるしとして お前さんの色美しい菅小笠と
    私の首にかけている大切な七連の玉飾りと
    とり替えっこいたしましょうよ。
    それから後、誰もいないところでお逢いいたしましょうか )   巻16-3875

「 少なきよ 道に逢はさば 
   色げせる 菅笠小笠(すがかさ をがさ)
   我がうなげる 玉の七つ緒
   取り替へも 申(まを)さむものを
   少なき  道に逢はぬかも 」  
                      巻16-3875 後半 作者未詳


色げせる:  色を付けている
我がうなげる: 私の首にかけている 「うな」は頸
玉の七つ緒 : 玉をつけた幾条もの緒 首飾り

さてさて、この掛け合いは何を意味するのでしょうか。
人気のない所で逢いたいのは、お互いに愛を交わしたいから。
当時は野原での共寝は珍しいことではありませんが、
そうかと云って人目があると困る。

しかし、女が詠う
「男の色華やかな菅小笠と自分の七連の玉を交換してからね」が
良く分からない。
お互い大切なものを交換し、浮気ではなく結婚の約束の証とする?
あるいは、男の色菅小笠は他の女を意味し、「その女と縁を切ってからね」と
やんわりはぐらかした?

いずれとも解釈できますが、伊藤博氏は
「この歌は酒宴の席の出し物で、男女身振りおかしく掛け合い寸劇を演じたのではないか」
と推定されています。

実景でも差し支えないように思われるこの長歌は、小さな田舎村の
青春の恋の一コマであると共に、「美味い酒、清酒は 佳き水から」という
酒造りの基本的な知識を地方の庶民が既に知っていたことを教えてくれている
貴重な資料でもあるのです。

「 緑わく 夏山蔭の 泉かな 」      蓼太(りょうた) 江戸中期の俳人
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by uqrx74fd | 2015-09-03 17:09 | 生活

万葉集その五百三十六 (雨に唄えば)

( 雨の日の薔薇 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 紫陽花 )
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( 海棠桜 )
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( 牡丹 )
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( 露草 )
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( 室生寺にて   奈良 )
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( 歌川広重 名所江戸百景 大はし あたけ(安宅)の夕立 )
               安宅 :幕府の御用船安宅丸の船着き場があった
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( 雨に唄えば  ポスター )
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「雨に唄えば」といえば年配の方なら、すぐに思い出される不滅のミュージカル。
土砂降りの雨の中、ジーン・ケリーが主題歌を唄いながらタップダンスを踊る場面は
映画史に残る名場面とされています。
競演のデビー・レイノルズの可愛かったこと。

 わが八木重吉は「雨の日」という3行詩で

 「 雨がすきか
   わたしは すきだ
   うたを  うたわう 」
                    うたわう:唄おう

と書いていますが、万葉人も雨がお好き。
なんと125首も雨の歌を詠っているのです。

その中から4首連作の短劇、二人の恋の物語をどうぞ。

( 場面1 )

 今日は、恋人が訪ねてくる夜。
女は朝から いそいそと部屋を掃除し恋人が好きな御馳走を作って
用意万端を整えています。
夕闇が迫り、いよいよ男が訪れる時間が近づいてきました。
ところが、あぁ! 好天が一転かき曇り、土砂降りに。
男が女のもとに通うのは月が出ている夜と言うのが当時の習い。
「 あぁ、やっと逢えると思ったのに」と溜息をつく女。

「 我が背子が 使いを待つと 笠も着ず
     出(い)でつつぞ見し 雨の降らなくに 」 
                           巻12-3121 作者未詳


( いとしい貴方のお使いが待ちどうしくて。
 雨がしきりに降っているのに、笠もかぶらず
 何度も外に出て、まだかまだかと見ていました。)
「 笠も着ず」は 「待ちどうしさに笠もかぶり忘れて」
「雨の降らなくに」は 降るの逆接用法で「雨が降っているのに」

男は予め使いを遣り、訪れる日時を連絡していたようです。
雨が降り出し「あぁ今夜はダメだ」と思いつつ、
雨具も羽織らないで いつまでも外で待つ。
そんなにしてまで逢いたいのに。
うらめしい雨。

場面2.

 そのころ男は
 「さぁ、久しぶりに逢えるぞ」と喜び勇んで出発しようとした矢先の雨です。

「 心なき 雨にもあるか 人目守(も)り
         乏(とも)しき妹に 今日(けふ)だに 逢はむを 」
                               巻12-3122 作者未詳

( まぁ なんと非情な雨であることか。
 普段は人目をはばかりめったに逢ってくれない彼女。
 せめて人目につかない今日だけでも逢いたいのに )

暗闇の雨の中、岩がごろごろしている山道を駆けて行くのは危険です。
土砂降りの雨を恨めしげに見ながらとうとう諦めて床に就く。
眼を閉じても浮かぶのはあの可愛い顔、しなやかな体。
どうにも寝付けません。

突然「ええーい! ままよ 」と飛び起き、寝間着のまま外へ飛び出してしまいした。
降りしきる雨の中を韋駄天のごとく掛け走る。
険しい山道、ぬかるみ、なんのその。
明け方近く、ようやく、息も絶え絶えになりながら女の許に辿りつく。
烈しく戸を叩く音に驚く女。

「 ただひとり 寝(ぬ)れど 寝(ね)かねて 白袴(しろたへ)の
    袖を笠に着(き)  濡れつつぞ来(こ)し 」
               巻12-3123 作者未詳

( たった一人で寝てはみたが 恋しくて恋しくて寝られない。
 とうとう袖を笠代わりにかざして ずぶ濡れになつてやってきたよ)

場面3.

男の顔を見て狂喜する女。
全身ずぶ濡れの男は疲れ切って動けません。
先ずは酒を飲んで体を温めます。

濡れた衣服は部屋に干され、女の着物をまとっている男。
着いたのがあまりに遅かったので間もなく夜が明けていきそうです。

当時お互いに着ていた衣を敷いて共寝するのが決まり事。
「 俺の衣は濡れている、一目逢えたし今夜はそのまま帰ろうか 」
と迷う男。
その気配を察した女がたまりかねて詠う。

「 雨も降る 夜も更けにけり 今さらに
    君去(い)なめやも 紐解き設(ま)めな 」 
                    巻12-3124  作者未詳


( 雨も降るし夜も更けてしまっているのです。
 それを今さらあなた! 
 お帰りになるなんていうことはないでしょうね。
 さぁ、さぁ、紐を解いて共寝の支度をいたしましょう )

しきたりなんて関係ない、あなたが着ている私の衣を脱ぎ
裸になって早くいらっしゃいと誘う女。
何のためにここまで来たのかと気を取り直す男。
いざいざ。
―――。
めでたく合体。

万葉版「雨に唄えば」でありました。

ご参考:

ジ-ン・ケリ-の「雨に唄えば」の歌詞和訳

「 僕は雨の中で唄っている
ただ雨の中で唄っているだけさ
なんて素敵な気分なんだろう
また幸せになれたんだ
僕は雨雲に笑いかける
空は暗く曇っているけれど
僕の心にはお日様が照ってる
新しい恋にはぴったりだ

嵐はそのまま吹かせよう
みんなはあわてて逃げている
けれど雨が降っても
僕は笑顔を浮かべている
道をずっと歩きながら
口から出るのは楽しいメロディ
僕はただ雨の中で唄っているだけさ

雨の中で踊っている
ラララ・・・
また幸せになれたんだ
僕は雨の中で唄ったり、踊ったりしてるのさ
僕は雨の中で踊ったり,唄ったりしているのさ 」

                      おわり
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by uqrx74fd | 2015-07-09 07:06 | 生活

万葉集その五百三十五 (紅の衣 )

( 長福寿寺の紅花畑  約7万本が咲き誇る  千葉県茂原市 2015.6.17撮影)
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( 紅花  同上 )
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( 蝶がいっぱい舞っていました   同上 )
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( 紅花   同上 )
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( 紅花は 黄色→赤色へ変化し、散らずにそのまま枯れる  同上 )
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( 乾燥した紅花  国立歴史博物館  千葉県佐倉市 )
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( 紅餅   同上 )
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( 紅染の実演  長福寿寺で )
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( 古代の人は男も女も赤い衣がお好き  女性の長い下衣を裳裾という 天平祭ポスター 奈良)
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エジプト、中近東原産の紅花は3世紀末頃、シルクロードから中国を経由して
我国に渡来したといわれています。

灼熱の太陽を思わせる神秘の赤。
目も覚めるような鮮やかな色に初めて接した人々はその美しさに驚嘆し、
たちまち魅了されたことでしょう。

紅花の栽培と染色技術は瞬く間に近畿を中心に山陰、関東甲信越などに広がり、
平安初期には全国68国中24国が朝廷に貢納していたとの記録も残ります。

植物染色は根茎や葉を利用することが多い中、花弁の黄色を洗い流して赤だけを残す
新しい技術は極めて美しい色を生み出し、衣服は勿論のこと、敷布、座具、
幡、経典の覆いなどに利用が拡大され、正倉院宝物にも多く残されています。
さらに頬紅や口紅は女性を美しく飾り、種は油、葉は漢方薬など現在に至るまで
用いられ続けている植物です。

万葉集での紅は34首。
紅の衣をまとう女性はよほど男を魅了したのでしょう。
恋の歌がずらりと並びます。

「 立ちて思ひ 居てもぞ思ふ 紅の
    赤裳(あかも)裾(すそ)引き 去(い)にし姿を 」 
                              巻11-2550 作者未詳

( 立っても思われ 座っても思われてならない。
  紅染めの赤裳の裾を引きながら 歩み去って行ったあの子の姿が )

赤裳は赤色のロングスカートのようなもので、当時の男性の心を奪う
美しい姿の一つでした。

美しい乙女が静々と歩いてくる。
鮮やかな赤裳が日に映え、まばゆいばかりの艶やかさ。
すれ違いざま、あとを振り返り姿が見えなくなるまで眺めている。
あぁ、一体どこの娘なのだろう。
たちまち一目惚れした男は、夜も昼もその姿が目に焼き付いて離れない。
といった光景でしょうか。

「 紅の 薄染めの衣(きぬ) 浅らかに
          相見し人に 恋ふるころかも 」 
                         巻12-2966 作者未詳


( 紅の薄染めの着物の色のように ほんの軽い気持ちで逢った人。
 それなのに 恋焦がれてしまっている今日この頃。)

本格的な紅色は何度も重ねて染めるので大変手間がかかりますが、
薄色に染めるだけなら一回ですみます。
手軽なので、ここでは「安易に」という意味で使われています。

「 軽い気持ちで付き合ったのに、いつのまにか本気になってしまったわ」と
初々しい詠いぶりのうら若き乙女。
 
「 紅の八汐(やしほ)の衣 朝な朝な 
           なれはすれども  いやめづらしも 」
                          巻11-2623 作者未詳


( いくども染めた八汐の衣 
 その衣のような美しいお前
 毎朝見なれているけれども幾度見てもますますいとおしいことよ )

「八汐の衣」は何度も重ね染めした真紅の衣。
ここでは古女房とは言わないまでも、長く馴染んでいる女と思われます。

「 何度も何度も抱いているのに一向に飽きない。
それどころかますます愛しい 」

と惚気る男。

   「 百姓の娘顔よし 紅藍(べに)の花 」 高濱虚子

古代の紅染めは乾燥させた紅花を麻袋に入れて手で揉(も)み、
色素を取り出して普通の水温で染めていたため、退色しやすかったようです。

次第に触媒剤などを使い色を定着させていきましたが、生産を一気に向上させたのは
紅の色素を凝縮させた紅餅。
東北、出羽の紅花が最盛期を迎えるのは江戸時代からで、全国の出荷量の
4割を占めたと伝えられています。

紅花と言えば最上というのが通り相場ですが、そのルーツは意外や意外、
千葉県という説があります。

JR千葉駅から外房線で約40分、茂原駅で下車。
バスに乗り継いで20分ばかり、長南町というところに長福寿寺という古刹があります。
798年、桓武天皇の勅願により最澄によって創建され、中世、房総における
天台宗の大本山として末寺308寺院を有していたとされる大寺院です。

広い広い境内、ここで何と!7万本もの紅花が植栽され今を盛りと咲き乱れています。
み寺と紅花の結び付きは、その昔、この地に菅原道真の子孫、長南次郎なる人物が
住みつき、地元の名門千葉氏と外戚関係を結んで紅花の栽培を始めたことに
由来するそうです。

紅花は成長する春から夏にかけて朝霧が立ち、直接日光が当たる時間が短い場所が
栽培の最適地とされていますが、この地もその条件に合致していたのでしょう。
ほどなく房総の特産品となり都に送って大いに栄えました。
ところが、1456年、武田氏が長南に攻め込んで占領し、一族は長野、岩手、山形に
散り散りになり、紅花栽培も衰退してしまったのです。

そして、山形に移住した長南の人々は、紅花の種を持参して植え、最上紅花隆盛の
礎になったと伝えられています。(お寺の説明文による)

そのような歴史から地元の有志の方々が紅花復活運動を長年続けて
見事な紅花畑を再現させ多くの人たちを楽しませてくれているのです。

   「 紅摘みに 露の干ぬ間と いふ時間 」 田畑美穂女
    
    紅花は棘があるので露が消えぬ早朝、柔らかいうちに摘み取ります。
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by uqrx74fd | 2015-07-02 19:52 | 生活

万葉集その五百三十四 (ゆり祭り)

( カサブランカ  国営昭和記念公園   東京都 )
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( ウバユリ :姥百合  神代植物公園  同上  )
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(  オニユリ 東大小石川植物園  同上)
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(  ヤマユリ  源氏山公園  鎌倉 )
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(  カノコユリ 東大小石川植物園  東京都 )
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(  三枝祭:さいぐさのまつり  奈良市内を練り歩く   ポスターから  )
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( 率川神社:いさかわじんじゃ  奈良市  )
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(  ササユリ  大神神社ササユリ園  奈良県 )
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(  同上     )
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(  三枝祭の説明文   同上   画面をクリックすると拡大できます  )
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毎年6月17日、奈良の率川神社(いさかわじんじゃ)で古式豊かな
三枝祭(さいぐさのまつり:通称、ゆり祭り)が行われます。
七世紀の大宝神祇令に国家の祭祀として規定され、罇(そん)、缶(かん)とよばれる酒樽を
ササユリで飾ってお供えし、四人の巫女が舞を奉納する由緒ある神事です。

御祭神は神武天皇の皇后 「 媛  蹈鞴  五十鈴 姫命」
(ひめ たたら  いすず ひめのみこと) 。

五十鈴姫は結婚前、三輪山の西の麓、ササユリが咲く狭井川(さいがわ)のほとりに
住んでおられ、古事記に

「 その川を佐韋川(さいかわ)という故は、その川の辺に山ユリ草 多(さわ)にあり。
  故(か)れ、その山ゆり草の名をとり、佐韋川と号(なづ)けき。
  山ゆり草の本(もと)の名は「さゐ」と云ひき 」
とあります。

東征を果たされた神武天皇は百合の花咲く川のほとりで美しい娘に巡り合い
一目惚れして一夜を共にされたのです。

星が輝く夏の夜、乙女と愛を語り、共寝をする。
清流の涼しげな音、川風と共に百合の香りが部屋に満ちみちる。
むせ返るような官能。

ロマンティックなお話ですねぇ。

三枝祭に用いられる百合の花は三輪山の麓から運ばれ、その数3,000本~5000本。
大神神社、狭井神社の花鎮め祭り(薬祭り 4月18日)と共に、民の無病息災、
疫病退散を祈り,五十鈴姫命の霊を慰めます。
 
卒川神社の歴史も古く、推古天皇の593年、三輪山周辺の豪族、大神氏奉斎で
創建されたと伝えられており、現在は大神神社と縁故が深い摂社の一つ。
三輪山から遠く離れた春日山の麓に社が設けられたのは、広く国民の
無病息災を願われたのでしょうか。
その昔、開花天皇の時代、この地で率川宮が営まれたという記録も残ります。

万葉集で率川が詠われているのは次の二首、百合の歌は見えません。

 「 はねかづら 今する妹を うら若み
     いざ 率川(いざかは)の 音のさやけさ 」
                  巻7-1112 作者未詳 


( はねかずらを 今付けたばかりの子の初々しいこと
  さぁ おいでと誘ってみたい。
  その、いざと云う名の率川の川音の何と清々しいことよ )

「はねかづら」は羽毛で作った髪飾りで女性が成人式につけたもの。

卒川は春日山に発し猿沢池の南を西流して佐保川に注ぐ川ですが、
今はほとんど暗渠になっており、猿沢池脇の小川にその面影を残すのみです。

「 この小川 霧ぞ結べる たぎちたる
    走井(はしりい)の上(へ)に 言挙(ことあ)げせねども 」
                                  巻7-1113 作者未詳

 ( この小川に 白い霧が一面に立ちこめている。
  たぎり落ちる走井のほとりで 言挙げしたわけでもないのだが )

古代、自分の思っていることを口に出して発声すると、霧がかかり
思いが成就しないと信じられていました。
本来、邪神を鎮めるための呪的発声儀礼でしたが、自己主張の見苦しさを
示す忌むべき行為ともされていたのです。

この歌は「 言挙げしていないのに霧が立ち上った。
あの子を誘ってみたいと心に思っただけで
神様に御見通しされたか 」と嘆いています。

走井は勢いよく噴出する泉の意ですが、ここでは勢いよく流れる川の水を
堰き止めて囲った水汲み場です。

万葉集で詠われたユリは11首。
そのうち「さ百合」が8首、「草深百合」が2首、「姫百合」が1首。
「さ百合」の「さ」は神聖なものをあらわす言葉です。

「 筑波嶺の さ百合(さゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも
      愛(かな)しけ) 妹そ  昼も愛しけ 」  
                     巻20の4369 大舎人部千人(おおとねりべのちふみ) 既出

(  筑波嶺に咲く美しいさ百合。
  我が妻は花のように美しく素晴らしい。
  夜、共寝している時は可愛いし、昼は昼でいとおしい。
  今ごろどうしているのだろう。
  あぁ、逢って抱きしめたい! )

防人として出発した男が旅先で新妻を思慕する歌です。
旅立ちの前に共寝した妻。
初夜だったのでしょうか。
「あぁ、いとおしい、可愛い」と昼も夜も思い出す。
寝室に飾られていた百合の花。

関東常陸筑波では百合を訛って(ユル)と発音していました。
朴訥な詠いぶりの中に、ほとばしるような純情が溢れ出ている一首。

「さ百合」は神武天皇以来、夜の寝床を飾る花だったのでしょうか。

「 うつむいて 何を思案の 百合の花 」 正岡子規
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by uqrx74fd | 2015-06-25 18:20 | 生活

万葉集その五百三十一 (大津皇子 2)

( 大津皇子が眠る二上山  当麻寺から  奈良県 )
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( 磐余の池跡  現在は農地  藤原宮から徒歩15分 橿原市 )
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( 同上説明文  画面をクリックすると拡大できます )
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( 吉備の池  磐余の池から約600m 
          二上山が見えるので磐余の池に仮託されている  桜井市)
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( 大津皇子  水谷桑丘作 )
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( 大伯皇女   篠崎美保子作  )
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( 落日の二上山  甘樫の丘から撮影された案内プレート  山の辺の道 檜原神社近くで)
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(  同上  yahoo画像検索 )
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天智天皇崩御後の672年、壬申の乱が勃発しました。
天智天皇の実子大友皇子と天皇の弟大海人皇子、甥叔父の戦いです。
短期間で圧倒的な勝利をおさめた大海人皇子は近江から飛鳥浄御原に都を遷して即位(673年)。
天武天皇が誕生し、鸕野讃良皇女(うののささらひめみこ)が皇后に。

皇后は実子草壁を次期天皇にすべく強力に支えますが、皇子は生来体が弱い上
凡庸であったらしく周囲の大津皇子待望論が絶えません。
大津皇子は皇后の姉大田皇女と天武の間に生まれた子で持統の甥。
有能かつ剛毅な性格ゆえ、再び兄弟相争う第2の壬申の乱が起きるのでは
ないかという危惧もあります。
祖父天智天皇と母、大田皇女という大きな後ろ盾を失った大津が頼るべき人は
父、天武天皇のみ。
「万一の時は」という不安が頭をもたげたことでしょう。

679年天皇、皇后は草壁、大津、高市、河嶋(天智の皇子)、忍壁、芝基(天智の皇子)
を吉野離宮に引き連れ、兄弟仲良く助け合うよう仰せになり、草壁が全皇子を代表して
その旨に従うことを誓約しました。
そして、681年、皇后の強力な説得が功を奏し、天武天皇は遂に草壁を皇太子に
立てたのです。

朝廷内の主導は皇后と皇太子に移りましたが、制度を唐風に改めるなど
急激な改革を進めたため宮廷内に不満や批判が湧き起ります。
そこで天武は大津皇子21歳のとき政治に参画させ、軌道修正を図りましたが、
このことが大津皇子の悲劇を引き起こす遠因になります。
何しろ天武天皇の後楯があっての大津。
万一の時は皇后、皇太子の巻き返し必至という危険がはらむ人事です。

686年、天武崩御。
何を思ったのか、大津皇子は天皇が没して15日目の忌中の最中、秘かに
伊勢神宮斎王として神に仕えている姉大伯皇女(おおくのひめみこ) に会いに
行ったのです。
当時国家の守護神である伊勢神宮に勝手に参ることは厳禁されており、
これだけでも叛乱罪に問われても仕方がない重大な行動です。
死を覚悟の上で、最愛の姉に今生の別れを告げに行ったのでしょうか。
久しぶりの再会。
感無量で語りあかした姉弟は涙ながらに別れを告げます。

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
    暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」
                       巻2-105 大伯皇女(おおくのひめみこ)


( わが弟を大和へ送り帰さなければならないと 夜も更け朝方まで
  立ちつくし暁の露にしとどに濡れてしまった。)

送り帰せば恐らく死が待っている。
しかし今のわが身は天皇の代理で斎王を務める立場。
神と天皇を裏切ることは出来ない。
肉親の愛を押し殺して苦悩にあえぐ大伯皇女。

それから約1週間あまりのち、大津が親友と頼んでいた川島皇子が朝廷に
「大津に反逆の畏れあり」と密告したのです。
朝廷側がそのように仕向けたのかもしれません。

密告を受けた持統は、「待ってました」とばかりに逮捕、何と!
その翌日に住み慣れた磐余の池の近くで処刑を命じます。
天武崩御後わずか24日後のことでした。

弱冠24歳でこの世を去らなければならなかった皇子。
文武両道に秀で、容姿すぐれ、慕われる人柄。
完全無欠と言ってもよいほどの人間であるが故に招いた悲劇です。

「 百(もも)伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を
    今日のみ見てや 雲隠りなむ 」
                           巻3-416 大津皇子


( あぁ この磐余の池に鳴く鴨の声を聞くのも今日かぎり。
  私は雲のかなたに去っていくのか )

「百伝ふ」は磐余の枕詞。

鴨は鴛鳥に代表されるように仲が良い象徴、
最愛の妃、山辺皇女を暗喩しているのかもしれません。
大津が処刑された時、妃は裸足で駆け寄り殉死したと伝えられています。

「 金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に 臨(て)らひ
  鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す
  泉路(せんろ) 賓主(ひんしゅ)なし
  此の夕(ゆふべ) 家を離(さか)りて向かう 」  大津皇子


( 太陽は西に傾き家々を照らし
  短命を急がすように 夕刻を告げる太鼓の音が聞こえる
  黄泉の道には客も主人もなくただ一人
  夕べに家を離れて 死出の旅に出るのか )

歌、漢詩共すぐれた才能の持ち主であったことが窺われる悲痛きわまる絶唱です。

姉、大伯皇女は弟が反逆罪で処刑されたため斎王を解かれ都に戻りました。

「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                  何しか来けむ 馬疲るるに 」 
                            巻2-164  大伯皇女


( 私が逢いたいと願う弟もいないのに、どうして大和などに帰ってきたのだろう。
 いたずらに馬が疲れるだけだったのに )

絶望感に打たれる皇女。
切々たる悲しみとやり場がない怒りが ひしひしと伝わって参ります。

「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」
                                   巻2-165 大伯皇女


( 現世の人であるこの私、
  私は明日からは二上山を弟としてずっと見続けよう)

687年 磐余の宮に営まれていた大津の殯宮(ひんぐう:もがりのみや)は
二上山山頂に移されて葬られました。
金剛、葛城山系に連なる山です。
朝廷が祟り(たたり)を恐れ、丁重に葬ったと想像されますが、後ろめたい
気持ちがあったのでしょうか。

それから15年後、二上山を見守り続けていた大伯皇女が他界(701年)。
享年41歳。生涯独身を通し、弟に生き、弟に殉じた一生でした。

伊藤博氏は心こもる言葉を二人に捧げています。(万葉集釋注1)

『 大津皇子はこの時まで姉大伯の中で生きていた。
  そして大伯が死んでも、六首の歌によって、大津は勿論大伯も永遠に
  生き続けることになった。
  六首に歌が存在する限り、二人は死ぬことがない。
  言語の力、文学の底力におののかずにはいられない 。
  人は、秋10月下旬か11月初旬、明日香東方の岡寺と大原をつなぐ山懐に
  佇んで、二上山の落日を見るがよい。
  そして、当面二首の歌を静かに吟(くちづさ)むがよい。
  涙が頬をとどめなく伝わる時、二上山は沈む夕日にくっきり押し出されながら
  大津と大伯の霊魂をのせたまま、ぐんぐんと近づいてくるに違いない 」

持統が執念を燃やして皇太子に押し上げた草壁は3年後の689年に没。
弱冠28歳の若さでした。

絶大な権力を誇った持統女帝。
唯一ままならなかったのは最愛の息子の命でした。

    「 茜空 裾まで染まる 二上山 」  筆者


ご参考 

  大伯皇女の歌は6首 すべて大津のために詠ったものです

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
        暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」  2-105 

「ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を 
               いかにか君が ひとり越ゆらむ」  2-106

「神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ  君もあらなくに 」  2-163 
 
「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                      何しか来けむ 馬疲るるに 」  2-164 
 
「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」 2-165 

「 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
        見すべき君が 在りと言はなくに 」    2-166
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by uqrx74fd | 2015-06-04 17:19 | 生活

万葉集その五百三十 ( 大津皇子 1)

( 大津皇子像  薬師寺蔵 )
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(  皇室系図 天武天皇系 )
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( 大津皇子が眠る 二上山  当麻寺付近から 奈良県 )
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( 同上  天香久山付近から )
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( 同上  檜原神社から )
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 ( 山のしづく  高橋秀年   奈良万葉文化会館蔵  )
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( 万葉の春  上村松篁   松柏美術館蔵 )
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斉明天皇の時代、661年頃のことです。
大海人皇子は兄、中大兄皇子の二人の娘を妃として迎えます。
娘の名は姉の大田皇女、妹、鸕野讃良皇女(うのの ささら ひめみこ)のちの持統天皇です。

大海人は二人の妃を寵愛し、大田皇女は大伯皇女(おおくのひめみこ:大来皇女とも) と大津皇子、
鸕野讃良皇女は草壁皇子を出産しました。

中大兄は後の天智、大海人は天武天皇。
大津と草壁は共に祖父と父が天皇という抜群の血統を誇る従兄弟です。

大田皇女は大伯、大津姉弟が幼い頃に早世しましたが(667年)、二人とも祖父や父に
可愛がられ、長じて姉は伊勢神宮の斎王に、弟、大津は文武両道に秀で、
器が大きく人望ある貴公子に成長したと伝えられています。

一方、鸕野讃良皇女は天武天皇即位と同時に皇后の地位に付きましたが、
草壁皇子は体が弱く、能力も普通であったようです。

当時、天皇の後継者は天皇皇后の子が皇太子になるとは決められておらず、
天皇の意思で決定されるので、大津、草壁共に有力な後継者と目されていました。
天武としても頭が痛いことだったでしょう。
皇后は何としても実子の草壁を皇太子に指名させるべく執念を燃やします。

そんな時に、女性をめぐるある事件が起きました。
大津皇子が禁断の女性に魅かれ「逢い引きしたい」と文を渡したのです。

  「 あしひきの 山のしづくに 妹待つと
         我れ立ち濡れぬ 山のしづくに 」  
                          巻2-107 大津皇子

( 山であなたを待ちながらずっと佇んでいて、とうとう雫にしっぽりと濡れて
      しまいましたよ )

文を出した相手が待てど暮らせど現れなかったので恨みごとの歌を送ったのです。
通い婚の時代、女性が男のもとを訪れるなど考えられません。
しかも相手は手を出してはならない女性、采女か人妻らしい?

ところが意外や、相手から艶なる返歌が届きました。

「 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの
       山のしづくに ならましものを 」     
                           巻2-108 石川郎女

( 長い間私をお待ちになって雫に濡れてしまわれたとのこと。
  私はその雫になりたかったですわ )

この返事を受け取った皇子は欣喜雀躍。
そして、猛烈な求婚の末、とうとう結ばれました。

ところが、この秘め事を朝廷の占い師、津守連通(つもりのむらじとほる)という
男が暴露し噂が飛びかいました。
剛毅な大津は動ぜず次のような歌を詠います。

「 大船の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは
     まさしに知りて  我がふたり寝し 」 
                              巻2-109 大津皇子

( 大船の停泊する津、その津の名をもつ津守め。
 そやつの占いによって暴かれるなど大したことはない。
 こちらはもっと確かな占いで公になることを承知の上で
 あの女性と寝たのだ )

なんとも大胆不敵な宣言です。
さて、秘密の女性、石川郎女とは一体どのような女性なのか?
次の歌で明らかになります。

「 大名児(おほなご) 彼方野辺 ( をちかた のへ)に 刈る草(かや)の
    束の間(あいだ)も 我れ忘れめや 」  
                                       巻2-110 草壁皇子


( 大名児よ 彼方の野辺で刈る萱(かや)の その一束(ひとつか)。
 その束の間も私はお前を忘れかねているんだよ )

大名児(おほなご)とは石川郎女の字(あざな)であると注にあります。
何と! 大津皇子はライバル草壁皇子が熱愛している女性を寝取ったのです。
草壁の恋歌は純情、一本気な若者を連想させますが、これでは女性は靡きますまい。
さぁ、大変、お坊ちゃまは母親の皇后に泣きついたのでしょうか?

伊藤博氏は
「石川郎女は草壁の妃の一人だったのではないか 」
と推定されていますが、もしそうなら朝廷中大騒ぎになったことで
ありましょう。

    「 龍の玉 大津皇子に 供へたる 」   辻 恵美子
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by uqrx74fd | 2015-05-30 15:12 | 生活