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万葉集その五百十七 (人麻呂歌塚)

( 和邇下神社 奈良県櫟本市(いちのもとし) )
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( 同上本殿 )
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( 和邇下神社境内 この道の奥に柿本寺跡(しほんじあと)がある )
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( 柿本寺跡 )
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( 同上説明板  画面をクリックすると拡大出来ます)
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( 人麻呂歌塚 )
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( 人麻呂像 )
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( 巻向山 中央  山の辺の道で )
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数ある万葉歌人の中でもひときわ聳え立つ柿本人麻呂。
後に、歌の聖(ひじり)とよばれて人丸神社の祭神や柿本寺の本尊となり今や歌の世界に
無縁の人にも あまねく知られている存在です。
にもかかわらず、出自、生没は全く不明。
歴史上の記録はほとんど残らず、詠まれた数々の歌を通してのみ彼の生涯を
推察するしか術がありません。
多く専門家は言うに及ばず、歌人の斎藤茂吉も生涯をかけて「柿本人麻呂」(全5巻)と
いう大著を著わして人麻呂の終焉の地を鴨山(島根県)と断定し得た喜びを

「 人麻呂が ついのいのちを をわりたる
         鴨山をしも ここか定めむ 」      斉藤茂吉


と詠いましたが、それすら定説を得ておらず、研究文献は膨大なものになっています。

なぜこれほどの偉人の記録が残らなかったのか?
当時の定めで官人の足跡を正式な記録に残すのは身分が5位下以上となっており、
人麻呂の身分は低く、6位以下の下級官人であったためと推定されています。

官人にとって立身出世するには政治的手腕、官僚的事務的能力、家柄、上司の贔屓が
必要で歌はあくまで教養の一部。
歌のみに生きた人麻呂にとって出世は無縁の世界だったのでしょう。
彼の朝廷での主な役割は天皇、皇族に従事して歌を奉ることでしたが、それすら
宮廷歌人という身分が確立されていたわけではなく、地方勤務もしていたことも
歌から窺えます。

何処にいようと、ひたすら新しい境地を求め続けていた人麻呂。
歌人としての類い稀なる才能は持統天皇の時代に開花し、我国和歌史上最大の足跡を
残す不滅の存在となったのです。
残した歌は長歌19首、短歌75首。
それ以外に柿本人麻呂歌集に370首見られ、そのうち人麻呂作と指摘されているものも
多くあります。
天皇の近くにあって多くの賛歌、亡き人を偲ぶ挽歌などを声高らかに詠い上げた
人麻呂は個人の世界でも、独特の美しい世界を創造しており正に夢見る詩人とでも
言えましょうか。

「玉衣(たまきぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹に
   物言はず来にて 思ひかねつも 」 
                          巻4-503 柿本人麻呂

( 玉衣のさわめきではないが 門出のざわめきが鎮まってみると
  家に残したあの子に何も言わないできたようだ。
  どうも、心残りでたまらない )

(さゐさゐ しづみ)  潮騒の騒の重複、旅立ちの物せわしいざわめきが鎮まって
(思ひかねつも)    思う心を抑えようにも抑えきれない

玉衣は衣の美称。
絹の衣がサラサラと音を立てている。
女性が着物を脱いだり着たりする姿を連想させる後朝の別れの場面です。
妻と一夜心ゆくまで過ごした後、慌ただしい出立。
長旅になるのでしょうか?
途中まで来て、「あぁ、優しい声の一つもかけてやらなんだ」と悔やむ作者。
濃厚な愛の営みを感じさせる一首です。


「 淡路の 野島の崎の 浜風に
     妹が結びし 紐吹き返す 」
                      巻 3-251 柿本人麻呂

( 淡路の野島の崎の浜風、
 その風が愛しい子が結んでくれた着物の紐をいたずらに吹きかえらせている )

別れの時に妻が安全を祈り、「私を偲ぶよすがに」と着物に結んでくれた紐。
風と紐のもつれの彼方に愛しい妻を幻視し、いつまでも立ち尽くしている。
公用で主人の伴をしながら瀬戸内海を旅している作者。
近くに妻がいない寂しさが籠っている一首です。

「 子らが手を 巻向山は常にあれど
    過ぎにし人に 行きまかめやも 」 
                       巻7-1268 柿本人麻呂歌集

( いとしい子の手を巻くという巻向山は昔と変わらずに聳えているけれども
 この世をあとにした人を訪れても、その手を枕にすることはもうできない。)

人麻呂の妻は巻向山麓に住んでいたようです。
山というぬくもりを感じさせる自然を用い、先立たれた侘びしさを
一層引き立てています。
窪田空穂は「 過ぎにし人に 行きまかめやも 」は人麻呂独自の表現で
他の人には真似出来ないものとされ、伊藤博氏は人麻呂作とみて誤まらないであろうと
確信されています。
亡き人を通して普遍的な人生の無常観を述べた歌です。

「 巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
   水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは 」 
                    巻7-1269 柿本人麻呂歌集

( 巻向の山辺を鳴り響かせて流れゆく川。
  その川面の水泡のようなものだ。 
  うつせみの世の中の人であるわれらは。)

前歌の山に対して「水」によせて人の世の無常観を述べた歌。
「世の人我れは」原文で「世人吾等者」となっており複数の人に
呼びかけたものと思われます。
この歌も人麻呂作と推定され、
「前の歌と共に深い無常の裏に常住への願いを秘めたもの」(伊藤博)で、
単なる妻を亡くした嘆きというよりは、人麻呂の深い人生の無常観を示したものと
いえましょうか。

  「 人麻呂の 墓は何処と 歌塚へ 」 筆者

JR奈良駅から桜井線で3つ目の駅、櫟本(いちのもと)で下車し約15分位歩くと、
和邇下神社 (わにしたじんじゃ) という式内社があります。
平安時代初期に編まれた延喜式人名帳(年中行事や制度を記載)に載せられ、
古代この地方一帯を支配していた和邇氏の始祖、天押帯巳子命
(あめの おしたらひこの みこと) を祀っている由緒ある社です。

柿本人麻呂は和邇氏から分岐した支族、柿本氏の出身と推定されていますが、
それを裏付けるかのように、神社の境内に氏寺とされた柿本寺(しほんじ)の跡が残り、
さらに人麻呂の墓?と伝えられる石碑が建てられています。

平安末期の歌人藤原清輔が墓標を立て、江戸時代の享保年間に再興し、
宝暦12年(1762年)、後西天皇の皇女、宝鏡尼の筆になる「歌塚」の文字を記した
大きな碑石です。
ここを訪れた鴨長明は
「 人麻呂の墓と言ひて尋ぬるに知れる人もなし」(無名抄)と述べていますが、
鎌倉前期には既に伝承の場所となっており、ここが人麻呂の墓かどうか、
神のみが知るようです。
石碑の横は児童公園になっており、幼い子が母親と砂遊びをしていました。

訪れる人もなし。
静寂な雰囲気の中で人麻呂の像が「ここだ、ここだよ」と私に示しているように
感じ、色々な文献を調べてみましたが残念ながら断定されたものは一冊もなく、
やはり伝承地とするほかありません。

   「 人麻呂の歌 
     しみじみ読めるとき
     汗となり
     春の日は 
     背(せな)をながるる 」
                   ( 若山牧水  みなかみ )

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by uqrx74fd | 2015-02-27 06:39 | 生活

万葉集その五百九 (新しき年)

( あけましておめでとうございます  干支文字切手とお年玉袋)
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( 朝焼け富士     精進湖 )
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( 富士山   十国峠 )
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( 鶴   丹頂鶴のタンゴ  学友M.Iさん提供 )
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( 鶴   日比谷公園 )
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( 凍て鶴  同上 )
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( 亀   亀と鴨のダンス  三溪園 )
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( 松  旧芝離宮庭園 )
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( 竹  京都嵯峨野 )
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( 梅  蘇我梅林 )
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2015年の干支は未、動物は羊があてられています。
「未」は木がまだ伸びきらない部分を描いた象形文字で、未完成、未知、
未定、未熟、未来などと使われ、やがて大きく成長する可能性を秘めたもの。

羊という字は「祥」という文字の古体とされ(諸橋轍次)、吉祥、瑞祥などのほか、
翔、義、美、羨、善など良い意味を持つものに使われているのは古代、羊が
神聖、目出度いものとされ性格もよいことによるそうです。

十二干支辞典によると未年生まれの人は、

「 穏健正直、慈善心に富み、信仰心が厚く、苦労性で涙もろく気弱、用心深い。
  50歳前後は苦労するが、晩年は安楽な余生が送れる。
  天性知恵深く、人のためになる相 」

とあります。

さてさて、今年は未来を拓(ひら)きながらも穏やかな1年になるのでしょうか。

「 新(あらた)しき 年の初めに 豊(とよ)の年
    しるすとならし 雪の降れるは 」 
                   巻17-3925 葛井連諸会(ふじゐの むらじ もろあひ)

( 新しい年の初めに このように雪が降り積もるとは、
  何と幸先がよいことでありましょうか。
  今年の国の繁栄と豊穣を示す瑞兆ですね )

746年正月、大雪が降り、時の左大臣橘諸兄が諸王諸臣を参集して元正太政天皇御所の
雪掻きに馳せ参じたところ、上皇大いに喜ばれて酒席を設けられ、各々に歌を詠むよう
仰せられた時の一首です。
古代、大雪は豊作の瑞祥とされていました。

「しるすとならし」の「しるす」は「兆」で、はっきりとしめす 
「ならし」は、「なるらし」  ~であるらしい


「 わが君は 千代に八千代に さざれ石の
    いわほとなりて 苔の生すまで」 
                      よみ人しらず 古今和歌集 

( あなたさまは 千代に八千代に 長寿を保ちご繁栄されますよう。
 小さな砂利が悠久の年を経て巌となり苔が生えるようになるほどに )

「君が代」の原歌。
「わが君」は自分が敬愛する人をいい、主君、父母、親族、配偶者、友人など
誰でもよく、賀の祝宴において祝われる人をいいます。
万人の長寿と繁栄を祈り寿ぐ歌、それが我国の国歌です。

「 新(あらた)しき 年の初めに 思ふどち
   い群(む)れて居れば 嬉しくもあるか 」 
                       巻19-4284  道祖王(ふなどの おほきみ)  (既出) 


    「思ふどち」 : 親しいもの同士
    「い群れておれば」 : 集う 
                  「群」という字の原義は
                  「大勢が一緒になって共同して物事を成し遂げる」の意で
                  「君」と「羊」から成っています。

( 新しい年の初めにこうやって打ち解けたもの同士が集うのは
  何よりも嬉しいことですね ) 

 さぁさぁ、今年も楽しくやりましょう。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

   「 日の春を さすがに鶴の 歩みかな 」    榎本其角

   『 「日の春」は元旦の朝日をさす季語
      元旦の朝日を浴びて高々と鶴が歩む 
     「さすがに」の一語に鶴の美しさへの感嘆をこめる。』
                               (大岡信 名句 歌ごよみ 角川文庫より)
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by uqrx74fd | 2015-01-01 14:25 | 生活

万葉集その五百七 (万葉イルミ)

( 鹿の親子  春日大社神苑 万葉植物園 奈良市 )
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( 青の世界  同上 )
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( 御所車    同上 )
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( お花畑 ?  同上 )
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( 稲架:はさ   同上)
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( 大宮びと あるいは 彦星と織女?  同上 )
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( 飛火野のよう   同上 )
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( 藤   同上 )
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( 藤棚  同上 )
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(  中央は奈良のマスコットキャラクター せんとくん )
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我国最古の万葉植物園「春日大社神苑」は昭和7年、昭和天皇の御下賜金によって
開園され、約9000坪の敷地に300種余の草木が植栽されています。

山野の植物になるべく人的な手を加えず、自然のままに生かすという考えのもと、
万葉園、五穀の里、椿園、藤の園と4つのテーマーによってエリアが分けられ、
四季折々の植物の生態を鑑賞することが出来ますが、なんといっても見どころは
200本、20種類の藤。
巨大な木に蔓が絡み合い、高い梢の上から見事な房を風に靡かせている様は
遠い古を思い起こさせます。

春日大社は古代藤原家の氏神であり、神域とされる御蓋山周辺には野生の藤が多く
存在していました。
藤原一族は家紋でもある藤を代々大切に保護したので、社の内外いたるところに
驚くほど多くの老巨木が残され、花の季節になると圧倒的な存在感を誇っています。

さて、その植物園で今年から奇想天外な試みが始まりました。
客足が少なくなる夏と冬にLED(発光ダイオード)100万個を使用して
夜の万葉イルミネーションの世界を現出させようというのです。

早速、夜の帳が降りるころに参上。
まず春日大社、一の鳥居から進みます。
漆黒の闇の中、植物園への道筋をしめす二条の光が鮮やかです。
歩くこと10分足らずで会場に到着。
まずは奈良のシンボル、鹿さんが出迎えてくれました。

「 夜を長み 寐(い)の寝(ね)らえぬに あしひきの
      山彦響(とよ)め さを鹿鳴くも 」 
                         巻15-3680 作者未詳

( 秋の夜長なのに 寝もやらずにいる折も折、山を響かせて妻呼ぶ雄鹿が
 鳴き立てているよ )

こちらの鹿さんは親子4頭。
鳴きもせず静かにイルミの草を食んでいます。
園内に10頭おかれているとか。

広大な敷地一面色鮮やかな幻想の世界に驚嘆しながら歩いてゆくと
やがて刈り上げられた稲穂が架けられていました。
こちらは本物。
粳米(うるちまい)ですが現代の稲穂に比べてかなり長い。
まわりに光の玉が輝いています。

古代の人達は干した稲穂で蘰(かづら:頭飾り)を作りその生命力を
身に付けようとしていました。

「 我が蒔ける 早稲田(わさだ)の穂立 作りたる
   かづらぞ見つつ 偲はせ我が背 」 
                       巻8-1624 大伴大嬢(おほいらつめ)

( 私が蒔いた早稲田の穂立、立ち揃ったその稲穂でこしらえた蘰です。
  これをご覧になりながら私のことを偲んでくださいませね )

作者は大伴坂上郎女の娘で17歳位、従兄妹の家持と婚約中。
花嫁修業のため明日香、耳成山の麓,竹田の庄へ母の稲の収穫作業の手伝いに
行っていたようです。
当時の貴族は使用人に手伝わせながら自らも農作業に携わっていたことを窺わせる
一首で、作者は自ら蒔いた稲を刈り取り、その穂を干して蘰に編み家持に贈ったもの。
「鬘を私と思って下さいね」と甘えています。

少し高台を上ってゆくと光の衣装で飾られた男と女の人形。
後背から星がきらめきながら流れ落ちてゆきます。
このきらびやかな衣装から想像できるのは都大路を歩く大宮人と女官。
そして天の川。

「 ももしきの 大宮人は さはにあれど
     心に乗りて 思ほゆる妹 」  巻4-691 大伴家持

( 大宮仕えの女官はたくさんいるけれども、私の心にしっかり乗りかかっている人
     それはあなたですよ )

名も知らない高貴な美人女官に憧れた作者の青春時代の恋歌です。
その女性は想像上の人かもしれません。

「織女(たなばた)の 五百機(いほはた)立てて 織る布の
    秋さり衣 誰(た)れか取り見む 」
                               巻10-2034 作者未詳

( 織姫がたくさんの機(はた)を据えて織っている布、
   その布で仕立てる初秋の着物はいったいどなたが取り上げて見るのでしょうか)

「秋さり衣」は秋になって着る着物、
ここでは七夕の夜牽牛が初めて袖を通す晴れ着のことです。
1年ぶりに出会い、後朝の別れに着せて帰らせたいという思いで
織っているのでしょう。

「 彦星以外に着る人はいないんだ。
  早く行ってやればよいのに。
  だがなぁ、天の定めでままならずかぁ」

と詠っているところをみると、七夕前の歌でしょうか。
天を仰ぎながらやきもきしている地上の男です。

光の世界を巡りながら見えてきたのは豪華絢爛の藤の棚。
足許には蓄光石が撒かれており、道もキラキラ光ります。

「 藤波の 花は盛りになりにけり
     奈良の都を 思ほすや君 」 
                  巻3-330 大伴四綱 (既出)

( ここ大宰府では藤の花が真っ盛りになりました。
 奈良の都、 あの都の藤が懐かしく思われませんか あなた様 )

大宰府長官 大伴旅人宅での歌。
盛りの藤を見ながら、故郷の藤を思い出し望郷の念に駆られた一首です。

こちらは晩秋イルミの藤、皓々と輝いています。
藤棚の下を行きつ戻りつしながらその美しさに嘆声しきり。

遠くを見渡すと赤白の世界。
お花畑のイメージなのでしょうか。
広大な敷地一面、光で彩られている万葉夢の世界でありました。

    「 万灯籠 うしろの闇に 鹿うごく 」 西脇妙子
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by uqrx74fd | 2014-12-18 17:32 | 生活

万葉集その五百三 (晩年の額田王)

( 明日香の春の額田王  安田靭彦画伯  ) 
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(  額田王  平山郁夫画伯 )
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( 額田王   上村松篁画伯 )
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( 粟原寺跡:おうばらでらあと 額田王終焉の地か?   奈良県桜井市 )
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( 同上  画面をクリックすると拡大出来ます ) 
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( 同上  いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より鳴き渡りゆく 弓削皇子
       いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと 額田王) 
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(  同上 )
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( 額田王の念持仏か?  石位寺 奈良県桜井市  朝日新聞2013,10,10 )
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万葉女流歌人の中で圧倒的な人気を誇る額田王(ぬかだのおほきみ)。
1300年を経た今も多くの人を引きつける魅力の秘密は何なのでしょうか。

彼女の生涯について文献に残る記録は極めて少なく、日本書記の
 「 額田王の出自は鏡王という人物の娘であり姫王とよばれる身分であった。 
その経歴は、初めて天武に娶られて十市皇女を生んだ。」という記述と
額田王作とされる歌12首のみです。( 長歌3首 短歌10首うち1首重複)

父親の「鏡王」とはいかなる人物か? 母親は? 生没年は? 容姿は? 
すべて謎。
残された歌や添え書きから読み取ることができるのは

1、天智、天武天皇に寵愛されるほど魅力のある女性であった。
2、詠まれた歌はスケールが大きく、色彩感、表現の彩りが豊かであり、
  一種の神秘性が感じられる。
3、斉明、天智、天武に近侍し、天皇の御心を歌にして伝える、御言持ちの役割を
  果たしていた。
4、天武と娘まで生(な)したのに、のち天智の後宮に入った。
5、壬申の乱後、天智の子、大友皇子(戦死)の后となっていた娘十市皇女と共に
  天武天皇の下で静かに余生を過ごし歌の世界からも離れていた。
6、娘十市皇女に先立たれたが、孫、葛野王は健やかに成長した。
7、63~64歳の時に最後となる歌2首を詠い、その後生涯を終えた?

などでしょうか。

678年、余生を静かに過ごしていた額田王のもとに歌が届けられました。
贈り人は持統天皇吉野御幸にお供していた弓削皇子(ゆげのみこ)です。
( 天武天皇第6皇子、当時24歳 )

「 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の
     御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                  巻2-111 弓削皇子 (既出)

  ( 古(いにしへ)を恋い慕う鳥でしょうか。
        目の前の鳥が弓絃葉茂る泉の上を今、あなたさまの方に向かって
        鳴き渡っていきましたよ )

調べ美しく格調高い名歌です。
「御井」は 聖なる泉

弓削は天武と大江皇女との間に生まれた皇子。
持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、他の諸皇子に厳しくあたる
治世下にあって、人一倍不安と哀愁を感じて生きなければならない運命でした。

彼は天武在世中、天皇が額田王と共に吉野を訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより時代の移り変わり、新旧交代する
自然のあり方に感慨を示したものと思われます。
従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

ちなみに「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれたトウダイグサ科の常緑高木で、
春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名があります。

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
     けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                     巻2-112 額田王 (既出)

  ( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
    丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう )

ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があり、弓削皇子の気持ちを
理解したことを伝えるとともに、第三者に誤解されないよう、十分に配慮が
なされている返歌です。
弓削皇子が現世を悲観し天武帝華やかなりし頃を懐かんでいると持統天皇の
耳に入ったらと為にならないと用心に用心を重ねたのでしょう。

弓削は歌に添えて苔生した松の枝を切り取って贈っていたので
王はさらに一首、お礼の歌を詠みました。

「 み吉野の 玉松が枝は はしきかも
   君が御言(みこと)を  持ちて通(かよ)はく 」 
                           巻2-113 額田王

 ( み吉野の玉松の枝は まぁなんといとしいこと。
      あなたのお言葉を持って通ってくるとは )

「玉松」は松の美称、「はしきかも」は「愛しきかも」で いとおしい。

玉松が枝を弓削の皇子にみたて、孫のように愛おしんだ気持ちを表しています。
しばらく歌の世界から遠ざかっていたにもかかわらず、その力量は衰えず
流石と感心させられる二首の歌です。

そして、残念ながらこの歌を以て額田王は万葉から姿を消すことになります。
まことに余韻を持った退場。
まだまだ詠って欲しかったのに!

伊藤博氏は
「 額田王は時に悲しみにくれることがあっても、晩年、悠然と心静かに
  日を送っていたのではなかろうか。
  それは,かっての時代、一世を代表する女流歌人であったことからの
  自信と満足に由来するのであろう」と述べておられます。 (万葉集釋注)

彼女は一体いつ、どこで生涯を終えたのでしょうか?

JR、近鉄桜井駅から「かぎろひの丘」で有名な大宇陀の方に向かい、舒明天皇陵、
鏡王女の墓を通り過ぎて約10㎞。
小高い丘の上に粟原寺跡(おうばらでらあと)があります。
神武天皇東征神話の地とも伝えられている由緒あるところです。

この寺には、
「中臣大島(なかとみのおおしま)という人物が草壁皇子(天武、持統の皇子)追悼のために建立を発願し、それを実行したのは比売額田(ひめ ぬかた)」
という記録が残ります。
それ故、この場所こそ額田王が晩年を過ごし、生涯を終えたと唱える人もおり、
弓削皇子と取り交わした歌の碑が立てられています。
また近くの石位寺(住職不在、仏像を保存する建物のみ)の仏像が額田王の
念持仏であったとも。

いずれも真偽のほどは定かではありませんが、人ひとりいない廃墟跡に立つと
往年の額田王の姿が目に浮かぶようです。

どのような顔をしていたのか?
眼を閉じると安田靭彦の「飛鳥の春」上村松篁、平山郁夫の「額田王」が
次々と目に浮かび、遠くから聞こえてくる会話は井上靖の「額田女王」の場面。
これらの方々が後世に与えた影響は大なるものがありますが、
一人で想像の翼を膨らませ、自分なりのイメージを頭に描くことも楽しいものです。

   「 天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
        もちろん ぼくにはその朝の深さを知るすべはない
        だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
        ぼくはきみに逢うことはなかっただろう
        その時
        きみは 髪にムラサキの花をさして立っていた  - - 」
                                  ( 秋谷豊 額田王より )

       「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
                   野守は見ずや 君が袖振る 」 
                              巻1-20  額田王

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by uqrx74fd | 2014-11-21 07:18 | 生活

万葉集その五百二 「熟田津(にぎたづ)の船乗り」

( 額田女王  井上靖  新潮文庫  挿絵 上村松篁 )
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( 古代の船  国立歴史民俗博物館の暖簾 )
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(  同上 )
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 熟田津 堀江湾 後方 興居島(こごしま)  愛媛県松山市
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( 道後温泉    同上 )
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  額田王  熟田津  小山 硬(かたし)  奈良県立万葉文化館蔵 
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 祈り  石川 義(ただし)  同上 
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(  月と海  yahoo画像検索 )
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661年正月6日のことです。
長年親交があった百済が唐、新羅の連合軍に首都を占領され我国に援軍を求めてきました。
大和朝廷はその要請に応じ、68歳の斉明女帝を総帥とする士官、兵士,水主を含む
乗員総数27000人といわれる空前の規模の軍隊とそれを運ぶ400隻の船を
難波津から出航させます。

まさに国を挙げての戦い。
中大兄皇子をはじめ実弟大海人皇子、さらに後宮の女性も引き連れての旅は
さながら朝廷が移動した感があります。

筑紫に向かう途中の1月14日、一行は伊予の熟田津(現在の道後温泉あたり)に
到着し約2カ月余り滞在しました。
老齢の女帝の疲れを癒し、大海人皇子の妃、大田皇女が船上で大伯皇女を
出産したことによる療養、さらに不足していた兵士、水主を募集し船団を整えるなどに
時間を費やしたようです。

温泉でゆっくり英気を養っている間に万端の準備が整い、いよいよ出軍。
全軍勢揃いの中、額田王が天皇の意を汲んで詠います。

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」   1-8 額田王 

( 熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り
 月も出、潮の流れも丁度良い具合になった。
 さぁ、今こそ漕ぎ出そうぞ )

月光のもと、波風に黒髪を靡かせながら朗々と詠いあげる額田王。
威厳と力強さ、そして気品あふれる万葉屈指の名歌です。

数々の賛辞が呈されていますが、代表的なものを列挙してみます。
まずは直木孝次郎氏の簡易にして的確な評からです。

『 港の奥深く、帆に風をはらませて粛然と控えている多くの軍船。
「熟田津に船乗りせむと」と情景の描写にはじまり、
「月待てば」と星のきらめく空を仰ぐ。 
そこで一転して「潮もかなひぬ」と視線を足元の海に移し、
最後は斉明をはじめ乗り組みの人々に向かって「いまは漕ぎいでな」と詠いおさめる。
起、承、転、結の骨法にかなった見事な構成である。
空から海への転換がすばらしく、歌の格と幅を大きくしている 』
                            (額田王:吉川弘文館より)

伊藤博氏 (万葉集釋注 集英社文庫)

『 船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団の心のはずみの上に
  発せられたこの歌には、息をのんで勢揃いをする宮廷集団を一声のもとに
  動かす王者の貫録がみなぎっている。
  人々は、これを天皇の声と聞いたであろう 』

下田 忠 氏  (瀬戸内の万葉,桜楓社)

『 結句の「今は漕ぎ出でな」の「な」という強い勧誘の意が、全軍に向かって
 呼びかけるような大きな語気をもち、待ちに待って遂に出航の時を迎えた時に
 発した強い声調に、堂々たる風格が感じられる。
 東方には満月、月光にきらめく満潮の海原には黒々とした大船団。
 その出航の様は言語に絶する壮観だったであろう.』

変わったところでは折口信夫氏の説

『 船乗りと言うのは、何も実際の出航ではありません。
  船御遊(ふなぎょいう)というといってよいでしょうが、
 宮廷の聖なる行事の一つで船を水に浮かべて行われる神事なのです。- -
 女帝陛下には聖なる淡水、海水を求めての行幸がたびたび行われていたのです。』
                 
( この説については土屋文明、山本健吉、池田弥三郎、多田一臣が賛意を示しているが
  現在では受け入れられていない )

さて、このように高い評価を得ている歌ですが、思わぬところで論争が起きます。
潮の干潮は1日に2度あり、潮流の方向も2度変わる。
それなのに何故昼間の満潮と潮流の西への流れのときに出航しないのか?
という議論です。

梅原 猛氏は次のように述べています。

『 漁夫といえども夜の海は避ける。漁夫は朝、海へ行き、夜、海から帰る。
  船の旅も同じである。
  海の旅はもちろん昼、夜は港に泊まって船は休むのである。
  遠洋航路以外の旅は最近までそうであり、ディーゼル機関を備えた今でさえそうである。
  まして昔、光のない暗い夜に、何を好んで航海に出るのか 』
                                  ( さまよえる歌集 集英社 )

『 昔の航海に夜船は絶対不可能 』  ( 金子元臣 万葉集評釈)

『 古代の船は船底が扁平だったので、潮が引くとそのまま千潟の上に固定される。
 出発は月が出て潮が満ちて来るまで、つまり、船が浮上するまで不可能だった。』
                                  ( 日本古典文学全集 万葉集 小学館)
その他

『古代の人間の活動するのは昼間、夜は神の世界で魑魅魍魎が活動するので
恐れられていた。従って夜の航海は不可能 』 などの意見があります。

それに対して直木孝次郎は下記のように述べておられます。(夜の船出,塙書房要約)

『 「S・H・ブチャー著 ギリシヤ文明の特質」にギリシャの多島海(エーゲ海)では
  海の微風は毎朝10時におこり、日没におよんで凪ぎ、午後11時頃に陸から微風がおこる
  「オディッセイア」のなかには、この陸風を利用した夜の船出の話がある
  と記されていた。
  エーゲ海で陸風海風が交替して吹くなら瀬戸内海でもそうかもしれないと思って、
  それからは夜吹く風の方向を注意するようになり、どうやら夜は陸風が海の方向に
  吹くらしいことに気が付いた。

  夜の船出のすべてが多島海の夜の陸風によるのではないが、帆を使用するように
  なってから船人にとって大事なのは風で、風向きさえよければ夜を恐れず船出する。
  わが瀬戸内海の船人が、夜の陸風を利用しなかったとは思われない。
  清らかな陸風を帆いっぱい受けた船が、つぎつぎにしずしずと港を乗り出してゆく
  光景を、わたしは思い描くのである。 』

更に益田勝美氏は詳細な科学データーで直木論文の裏付けします。

 『 直木さんが注目した海陸風というのは、昼間は海から陸へ向けて風(海風)が吹き
   夜はそれと逆に陸から海へ風(陸風)という特殊地形の局地風のことです。
   日本気候環境図表によると冬季、日中に三津浜で帆を上げて出航し西進しようと
   しても季節風というべき西北西か西風が吹いていて、まともでは船は吹き戻されてしまうでしょう。

   出港地三津浜とその前面の興居島(ごごしま)の間には、この陸風という特別な風があり
   夜になると海に向けて吹きます。
   この海域の潮流、気象を知悉していた古代の海人部にとっては、いまさらという
   ほかない知識だったかもしれません。
   但し、この風は季節風なので正月から3月までの時期を限定して直木説を支持したい。
   さらに、興居島の線に出ると、そこまでの追い風航法から、この季節の
   西北風か西風を用いて横風帆走法に転じて進むのがよいでしょう。』
                                 (「記紀歌謡」ちくま学芸文庫)

多くの議論がなされた夜の船出。
現在では直木、益田説が主流となりました。
それにしてもこの歌1首のために分量にして数冊にも及ぶ研究がなされていることに
ただただ驚くばかりです。

     「 道後の湯 浸りて偲ぶ 額田王 」 筆者

ご参考1.

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば --」 の歌に下記のような
  注記があります。

『 山上憶良の「類聚歌林」によると、
  舒明天皇の9年12月、天皇と皇后(斉明)は伊予の温泉の離宮に行幸されたことがある。
  天皇崩御後、天皇に即位された斉明は時を経て新羅遠征の為海路西へ出発、
  伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の離宮に停泊した。
  女帝は往時夫、舒明天皇と共に見た風物がまだ残っているのをご覧になり
  たちまち懐旧の思いにうたれ、御歌を詠んで哀傷(かなしみ)を新たにされた。
  つまり、この歌は斉明天皇の御製である。
  額田王の歌は別に4首ある。』

  然しながらこの歌はどう読んでも哀傷(かなしみ)を詠ったものとはいえません。
  山上憶良が指摘している天皇が詠まれた歌は別にあり消失したのではないか? 
  と考えられており、作者が斉明天皇であるという説は現在少数派となっています。

ご参考2. 

熟田津とはどこか

 松山市三津湊、松山北部の和気の浜、堀江など諸説あります。
 昔は海が今日よりずっと内陸まで続いていたと考えられており、
 道後に近い堀江説が有力です。

                            以上















                            
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by uqrx74fd | 2014-11-14 07:10 | 生活

万葉集その五百 (遣唐使と鑑真)

( 遣唐使船 山の辺の道出発点 海柘榴市(つばいち)の川のほとりで 奈良、桜井市)
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( 遣唐使の航路  同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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( 万葉の遣唐使船  高木隆著  教育出版センター刊 )
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( 復元された遣唐使船  ウイキペディアより )
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( 唐招提寺  奈良市 )
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( 鑑真和上像  唐招提寺 )
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( 御影堂(みえいどう)の襖絵 山雲涛声 東山魁夷画伯  唐招提寺 )
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( 同上  揚州薫風 黄山暁雲 )
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( 東大寺戒壇堂 )
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( 遣唐使船切手 )
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遣唐使は630年、舒明天皇の時代に始まり894年菅原道真の建議によって
廃止されるまで264年間の間に16回派遣されています。(回数については諸説あり)
推古天皇600年に始まった遣隋使を引き継ぐもので、当初は船2艘、乗員240~320人の
編成とされましたが奈良時代に入ると船4艘、最大600人近くの規模に膨れ上がり
費用も莫大なものになったようです。

また、長安への道は遠く、海路から陸路へと続く中で暴風雨や疫病による死者も頻出し
生還率50%以下という多大な犠牲を伴う命懸けの旅でもありました。
それでも派遣を続けたのは高度の文明や先進技術並びに仏教の経典、文物等の収集が
我国の発展に大きく寄与すると期待されたからです。

派遣された人材は将来国を背負う優秀な者たちが選ばれ、多くの学問や技術を
身に付けて帰国した人達は建国の礎となって多大な貢献をしました。
また、もたらされた制度や文化を盲目的に採り入れるのではなく、国情に応じて
取捨選択し、我国独特の文化、精神に適合できるものを作り上げる工夫もなされています。

留学生の中では僧旻(そうみん)、高向玄理(たかむこのげんり)、山上憶良、吉備真備、
南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、玄昉(げんぼう)、さらに遣唐使人と共に
来日した鑑真などは教科書でも採りあげられ良く知られていますが、歴史に残らない
多くの留学生の活躍も大なるものがあったことは言うまでもありません。

万葉集でも遣唐使に関する歌が多く残されていますが、ここでは752年に
第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の波乱万丈の生涯を辿ってみたいと思います。
主人公、清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
まずは、遣唐使出発に先立ち旅の無事を祈って皇太后が主催された神祭りの時の歌です。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                              巻19-4240  光明皇太后

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

皇后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠る力強い歌です。
当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なものであったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

それに対して清河は次のような歌を返します。

「 春日野に 斎(いつ)く みもろの 梅の花
     さきて あり待て 帰り来るまで 」 
                           巻19-4241 藤原清河

( 春日野にお祭りしている みもろの梅の花よ
 このまま咲き栄えてずっと守っていて下さい。
 私が帰ってくるその時まで )

「斎(いつ)く」: 神を祀るために盛り土をして祭壇を置くこと。
「みもろ」は: 木を植えて神を招きおろす場所で藤原氏の守護神、春日大社の前身。

皇后、藤原一族の繁栄を祈ったもので梅の花は皇后を暗示しており、
「さきて(咲きて)」 は 「 栄えて」の意を掛けています。

さらに、孝謙天皇は大使が出航するにあたって無事任務を果たして帰還することを願い
歌と酒肴を携えた使者を難波に遣わされました。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                          巻19-4264 孝謙天皇(既出)

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

  そなたたちの 四つの船 
  その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
  すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
  この霊妙な美酒は
  その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「 ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに) 」と云われたことによるそうです。

この歌は宣命形式となっています。
宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言い、
使者、高麗福信(こまの ふくしん)に口頭で読みあげさせ次の反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」      
                         巻19-4265 同上

( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛(へいはく)の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る気持ちと共に、大なる期待をこめた歌です。

このように多くの人に祝福されて無事唐に到着した清河は容姿端麗、礼儀正しく
その優雅な振る舞いは唐の玄宗にいたく愛されたそうです。
2年間の滞在を経て任務を終え、753年、先任の阿倍仲麻呂と共に帰路につきますが
運命の神は清河に過酷な試練を与えられ人生が反転します。
航海の途中暴風雨に遭い、何と! 安南(ベトナム)まで流されてしまったのです。
必死の思いでようやく陸地に辿りついたものの乗員はすべて原住民に殺害され、
無事逃げおおせたのは清河一人のみ。
艱難の末2年掛かりで再び長安に辿りつきます。

一時は死亡したとの情報を受けていた大和朝廷の首脳は痛く心痛し、759年に
迎えの船を送りますが、折悪く安禄山の乱に遭い唐の国内が戦火で混乱していたため
またもや帰国はかないません。
遂に唐土で骨を埋める決心した清河は玄宗に仕え、現地の女性と結婚して
喜娘(きじょう)という娘をもうけ、73歳で生涯を終えました。

まさに波乱万丈の人生でしたが、その後、娘は父の故郷に帰ることを熱望し、
15歳の時、遣唐使と共に帰国するも、これまた暴風雨で難破、命からがら天草へ
流れ着いたとのことです。
そして、無事念願の都に到着したようですが、その後の生涯は不明。
恐らく藤原一族に引き取られたものと思われます。

「 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも 」   阿倍仲麻呂 古今和歌集

( 大空はるかに振り仰いで見ると月が皓々と照っている。
  その昔、春日の三笠の山に出た月と同じ月が )

「天の原」 広大な天空 
「ふりさけみれば」 はるかに みはるかすと

717年吉備真備、玄昉と共に入唐した仲麻呂も玄宗皇帝に仕えたのち
藤原清河と同時に帰国しますが途中で暴風雨に遭い難破、已む無く長安に戻り
在唐54年でかの地に没するという清河と同じ運命を辿りました。

遥か離れた唐で見る月。
「私が奈良を出発した時に春日の三笠山で振り仰いだ月もこのように美しかった」
と切なる望郷の想いに駆られた1首です。

 「 鑑真の 寺に来ている 夏つばめ 」   西畠 匙(さじ)

6世紀の初めに伝来した仏教は、奈良時代、国家鎮護のための学問として
大なる発展を遂げましたが、2世紀を経た後も僧尼を正式に認定する受戒者が
存在せず、その確保が急務とされていました。
受戒とは師3名と7人の証明師からなる「3師7証」とよばれる試験と資格認定の儀式で、
古代東アジアでは受戒の手続きを経た人しか正式な僧と認められなかったのです。
そのため日本で僧と認定されていても唐では正式な僧と認められず、学識を
得ようとしても色々な不都合が生じていました。

加えて我国では8世紀初めに公地公民制が崩れ、重税に耐えられない農民が安易に
出家したため僧尼が急増します。
納税や兵役を免除されていたため仏門は駆け込み寺となってしまったのです。

仏教者としての基本的な生活作法を身に付けていない僧尼の増大は
堕落した目にあまる行為を頻出させ大きな社会問題となります。

そのような背景から733年、国は僧の人員を制限する必要に迫られ、
興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照を唐に派遣し受戒師を招聘することにしました。
両僧は唐で戒を受けたのち中国各地に律師を求めて歩き、入唐以来実に9年後の742年
遂に揚州、大明寺で高僧、鑑真に出会います。

二人の僧の懇請と熱意に渡航を決意した鑑真。
然しながら唐国は貴重な人材の流失を惜しみ許可しません。
それでも鑑真の布教の決意は固く遂に密航。
何度も航海を試みるも難破に見舞われ遂に63歳で失明。
にもかかわらず、強固な意志は揺るがず藤原清河が帰京する4隻のうちの1つに乗船し
遂に754年奈良の都に辿りつくことが出来ました。
初出航以来、実に12年目、6度の試みの末の筆舌に尽くしがたい苦難の道でありました。

鑑真和上は受戒に十分な14人の僧、3人の尼に加えて様々な技能を持つ者
24名を一緒に引き連れてきました。
寺院建築、仏師、室内装飾品、画師などもいなければ寺は成り立たないのです。

入京後、東大寺に住み、聖武太上天皇,光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け
初めて大仏殿の西に常設の戒壇院を作り、日本の受戒制度を確立したのち
新田部親王(にいたべのみこ)の旧宅を賜って寺とし、唐招提寺と名付けて
戒律の道場としました。
日本という国は、国家宗教制度の根幹にかかわる僧侶資格に欠かせない受戒と云う
制度を鑑真という一人の僧にすべてを委ね、和上もそれに応えて制度を確立すると共に
豪華絢爛たる仏教文化の華を咲かせてくれました。

今日、鑑真和上の像の前に立つと、穏やかな顔の内に何物にもゆるがない鋼鉄のような
強い意思が込められているように感じられます。
唐国内に留まりさえしておれば名僧として遇され、国家と人々の手厚い敬慕の中で
何の不安もなく一生涯を終えることが出来たのにもかかわらず、
「空しく過ぐるなし」の言葉通り、あえて死以上の悲惨な運命を選んだ和上。
その高邁な使命感と高潔な人格にただただ頭を垂れるばかりです。

  「 若葉して 御目の雫 ぬぐはばや 」 芭蕉

                              ( 雫(しづく) は涙の意)
唐招提寺を訪れた芭蕉が 「盲(し)ひさせ給う鑑真和尚の尊像を拝して」
辛苦の歴史に思いをいたし奉げた句。
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by uqrx74fd | 2014-10-31 06:34 | 生活

万葉集その四百九十 (住吉)

(住吉神社正面鳥居)
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( 同上 第三、第四本宮(右)
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( 同上 第二本宮 )
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( 同上本宮 折しも結婚式の真っ最中 )
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( 同上 反橋 昔はこの辺りまで海が入りこんでいた )
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( 万葉歌碑 )
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( 万葉当時の地形図  画面をクリックすると拡大できます )
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( 神輿船 )
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住吉は古くは「すみのえ」とよばれ、現在の大阪市住吉区一帯とされています。
今や住宅、コンビナート、コンテナ港が立ち並び、見る影もありませんが、
昔は海が内陸の住吉神社あたりまで入りこみ、海岸線に沿って白砂青松がうち続く
景勝の地であったようです。
また鯨が見られたのか「鯨魚(いさな)取り」という枕詞が使われている歌があり、
浜では蜆(しじみ)、高台では染料となる黄土が豊富であったことも伝えられています。

近くに難波宮、住吉大社があり、また遣唐使、遣隋使、防人の出発点として
栄えた難波津(港)を控えて歓楽街も多かったと思われ、都の官人たちはこの地を
訪れることを心待ちにしていたことでしょう。

住吉と言えばまず住吉大社。
海を支配する神様で、底筒男命(そこつつの をの みこと)、中筒男命、
表筒男命(うわつつの おの みこと)の三海神と神功皇后が祀られています。
「筒」とは星のこと。
夜の航海は星を頼りにしていたことにより、守り神と崇めたことによる名前で、
神功皇后の合祀は三韓征討の折、住吉の神様が加護し給うた伝説に由来するものと
されています。

「 住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
      行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 」
                      巻19-4243 多治比 真人 土作(たぢひの まひと はにし) 


( 住吉の社で神祭りしている神主のお告げによると、貴殿の船は
 行きも帰りも何の支障もなくすいすいと進むとのことでございます。 )

751年、遣唐使派遣にあたり藤原仲麻呂邸で送別の宴が催された折の歌で、
作者が航海の安全を祈願したところ、恙なく旅を終える旨の御神託が出たというのです。
遣唐使、遣隋使はまず住吉大社で航海の安全を祈願し、現在の反橋辺りから出航するのが
当時の習いでした。

「 白波の 千重(ちへ)に来寄する 住吉(すみのえ)の
   岸の黄土(はにふ)に にほひて行かな 」
                     巻6-932 車持千年(くるまもちのちとせ)


( 素晴らしい景色で去りがたいなぁ。
 せめて、白波が幾重にも寄せる住吉の岸の黄土に衣を染めて
 この地の記念といたしましょう。)

725年、聖武天皇難波行幸の折、お供した作者が住吉を去るに当たって詠ったもの。
昔、この地で衣を染めるための黄土を大量に採掘していたことが窺われます。

「岸」は原文で「崖」という字が当てられているものがあり「岸の黄土」は
「崖の台地から採れる黄土」という意味のようですが、その黄土に
わざわざ「にほひて行く」(染めて行く)とはどういうことでしょうか?

実は、当時の住吉は唐津、博多と共に文化のレベルが高い港町で遊女も大勢いました。
男たちは競って麗人に会いたがっていたのです。
「住吉の黄土」を「美しい女性」と解すれば、都の官人たちが大いに羽を
伸ばしたがったのも肯けようというものです。

なお、「住吉の黄土」は砂と粘土との中間の細かさを有する土、即ち「シルト」で
微細に砕いた粉末を浸し染めにした絹は絢爛たる黄金色になるそうです。
( 金子 晋著 古代の色 学生社) 

「 暇(いとま)あらば 拾ひに行かむ 住吉の
   岸に寄るといふ  恋忘れ貝 」   
                           巻7-1147 作者未詳


( 暇があったら拾いに行きたいものだ。
 住吉の岸に打ち寄せられるという恋忘れの貝を)

作者は、ならぬ恋をしてしまったのでしょうか?
恋忘れ貝とは片貝と思われます。
すなわち閉じることが出来ない片想いです。

「住吉の 粉浜(こはま)のしじみ 開けもみず
    隠(こも)りてのみや 恋ひわたりなむ 」  
                                 巻6-997 作者未詳(既出)


( 住吉の粉浜のシジミは蓋を閉じたままじっと籠ってばかりいます。
私も自分の想いを誰にも打ち明けないまま胸に秘めてあの方をこれからも
ずっと想い続けることになるのでしょうか。 )

粉浜:大阪市帝塚山の西 

この歌は734年聖武天皇が難波宮に行幸された時、休みのひとときに御供の人が
詠ったものです。
当時の難波宮近くは粉のような美しい砂をもつ浜辺で、そこで採れるシジミの旨さは
都まで広く知れ渡っていました。
住吉の景勝の美しさ、名産のシジミを褒めると共に自身の恋の苦しみを重ね合わせたものですが、
恋と蜆を取り合わせた歌は珍しく万葉集にはこの一首しか見られません。                             

「 悔(くや)しくも 満ちぬる潮(しほ)か 住吉(すみのえ)の
     岸の浦みゆ 行かましものを 」 
                          巻7-1144 作者未詳


( あぁ残念 潮が満ちてしまった。
 この住吉の岸辺を浦伝いに歩いて行きたかったのに )

美しい砂浜を歩きたかったのに、いつの間にか満潮になってしまった。
あぁ、残念! 

現在は埋め立てられ満潮どころか海も見えません。
時代の流れとはいえ地名だけで40首も詠われた住吉。
住吉大社の反橋とその近辺に昔の面影をかすかに残すのみです。

「 住吉の 男声なる 田植歌」  小柳津民子

    住吉の神様は歌の神、田植えの神としても知られる 
     御田植神事は6月14日。
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by uqrx74fd | 2014-08-21 22:28 | 生活

万葉集その四百八十八 (憶良の天の川)

( 仙台七夕祭り )
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( 同上 )
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( 着物のような絵柄 上品にして繊細 )
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( 同上 )
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( 音楽の上達を願って )
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( 芸術的な飾り付け )
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( 護国神社の七夕祭り  青葉城址公園内 )
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( 渦巻銀河  宇宙博  幕張メッセ )
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(  天の川  同上 )
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「七夕」はなぜ「たなばた」と読むのでしょうか?
  折口信夫氏は
『 太古の昔、季節が夏から秋に変わる頃になると、
一人の少女が選ばれて人里離れた水辺に作り架けられた「棚(たな)」の中で
「機(はた)」を織りながら神を迎えるという風習があった。
この「棚」と「機」が「たなばた」の語源である 』 と説いています。

 この風習と奈良時代に渡来した中国の裁縫の上達を願う「乞功奠(きつこうでん)」とが
 結び付き、さらに牽牛、織女の恋の物語が結合して壮大な「天の川伝説」が生まれた
 そうです。

 日本書紀の記述に 「692年7月7日、持統天皇が公卿を集めて宴を催した」、
 「734年7月、聖武天皇が相撲をご覧になったあと文人に命じて
  七夕(しちせき)の詩を詠ませ、禄を賜った」とあり、当初は宮中の行事であったことが窺われます。

万葉集には132首もの七夕歌が残されていますが、型破りなのは山上憶良。
天の川を天地創造の時から説き起こし、締めくくりは
「年に1度とは言わず毎晩寝たいものだ」と、まるで自分事のように詠っています。

まずは訳文から

「 天と地とが別れた遠い昔から  彦星は織女と
  天の川で 離れ離れになって 向かい立ち
 想う心の中は いつも安らかでなく
 嘆く心のうちも 苦しくてならないのに 
  広々と漂う青波に隔てられて 姿は見えはしない
  はるかに棚引く白雲に仲を遮られて 嘆く涙は涸れてしまった

  あぁ、こんなにして溜息ばかりついておられようか
  こんなにして 恋焦がれてばかりおられようか
  赤く塗った舟でもあればなぁ
  玉をちりばめた櫂でもあったらなぁ

  朝凪に水を掻いて渡り
  夕方の満ち潮に乗って漕ぎ渡り
  天の川原に あの子の領巾を敷き
  玉のような腕をさし交わして
  幾夜も幾夜も寝たいものだ

  七夕の秋ではなくても 」    
                        巻8-1520 山上憶良

(訓み下し文)

「 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ
  いなむしろ 川に向き立ち 
  思ふそら  安けくなくに  
  嘆くそら  安けくなくに  
  青波に 望みは絶えぬ
  白雲に 涙は尽きぬ

  かくのみや 息づき居(を)らむ
  かくのみや 恋ひつつあらむ

  さ丹塗りの  小舟もがも
  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

  朝凪に い掻きわたり
  夕潮に い漕ぎわたり

  ひさかたの 天の川原に
  天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

  真玉手(またまで)の 玉手さし交へ
  あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

  秋にあらずとも  」      
                      巻8-1520  山上憶良


( 反歌 )

「 風雲は 二つの岸に 通へども
      我が遠妻の 言ぞ通はぬ 」   巻8-1521 同


( 風や雲は天の川の両岸に自由自在に行き来するけれども
  遠くにいる我妻からは 何の便りもない )

長歌を1行づつ訓みくだいてまいりましょう。 (内は訳文)

 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ 

       ( 彦星は織女と 天地が別れた時から )

        彦星=牽牛

  いなむしろ 川に向き立ち 

       ( 天の川をへだてて向き合って )

「いなむしろ」は川の枕詞であるが掛かり方は未詳

思ふそら  安けくなくに  

      ( 心中 安らかでないのに )

          「思ふそら」の「そら」は空と同根で心の内
          「安けくなくに」 安らかでないのに

嘆くそら  安けくなくに

      ( 嘆くこころのうちも 苦しくてならないのに ) 
 
青波に 望みは絶えぬ

    ( 天の川の青波に隔てられて 眺望は絶えた)

    「望」は希望ではなく眺望、

  白雲に 涙は尽きぬ

   ( 白雲に遮られて 涙も涸れてしまった )

ここまでが第3者の立場、以下から牽牛の立場で詠う。

  かくのみや 息づき居(を)らむ

   ( このまま 溜息ばかりついておられようか )

    「かくのみや」    このようにして 
    「息づき」      溜息をついて

  かくのみや 恋ひつつあらむ

   ( このようにして 恋焦がれてばかりおれようか )

  さ丹塗りの  小舟もがも

   ( 朱く塗った 舟でもないものか )

     「さ丹塗の舟」    美しく立派な舟
     「もがも」       ~が欲しいものだ

  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

          ( 珠玉をちりばめた 左右の立派な櫂も欲しい )

 朝凪に い掻きわたり


         (朝凪に 水をかき渡り )

  夕潮に い漕ぎわたり

     ( 夕の満ち潮に乗って 漕ぎ渡り )

  ひさかたの 天の川原に

         ( 天の川原に)

         「ひさかた」は天の枕詞
 
 天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

   ( 空を飛ぶという 領巾(ひれ)を敷いて )

    「領巾」   頸から肩にかける装身用の布

真玉手(またまで)の 玉手さし交へ

     ( 玉のような美しい腕を 枕にして )

 あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

     ( 一夜といわず 幾夜も幾夜も 共寝したいものだ )

 秋にあらずとも        

( 七夕の秋でなくても )     巻8-1520  山上憶良

        
729年7月7日 大宰府長官大伴旅人邸での宴で披露されたもの。
作者は当時70歳、老いてもまだまだ意気盛ん。
お若いことです。

裁縫の上達を願って行われた中国の行事「乞功奠(きつこうでん)」では
織女星を望む庭に五色の糸や針を供えていましたが、我国では
拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事になりました。
さらに、江戸時代、庶民の間で手習いが広まると色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり、現在に至っております。
七夕祭は7月7日に行う地方も多いようですが、本来は陰暦7月7日(8月上旬)
秋の行事です。

今年の立秋は8月7日。
この時期になると夜空が澄みはじめ、星も清(さや)かに見えることでしょう。

「 七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ) 」 芭蕉
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by uqrx74fd | 2014-08-08 06:49 | 生活

万葉集その四百八十五 (月夜の船出)

( 春日なる三笠の山に いでし月かも )
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( 古代の船  海の博物館 )
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( 霧の立つ  北野治男 星を頼りに波濤を越えて  奈良万葉文化館収蔵 )
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( 日本丸 )
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( 同上 )
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( 日本丸の天井絵 )
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( 海王丸 後方日本丸  帆船日本丸記念財団刊 日本丸より)
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( 日本丸  同上 )
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( 海王丸  同上 )
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日本書紀、続日本紀によると我国は646年から779年までの130余年の間に新羅へ
27回の使者を遣わし、相互の交流に努めながら新しい文物や技術を採り入れていたそうです。

当時の新羅は唐からもたらされる文明を背景にした先進国。
四方を海に囲まれた我国にとっては貴重な情報源であり、新羅も唐との関係が
悪化した場合に備えて後盾を確保するという思惑もあったのでしょう。

難波津を出航した使者は瀬戸内海の沿岸を辿って九州に出、壱岐、対馬から
目的地を目指しましたが、何しろ木造帆船の上、海図は不完全、航海術も未熟。
潮の流れや風向きを読む水主(かこ)の手腕に頼らざるをえません。
昼は経験と勘を頼りにし、漆黒の闇の夜は船首に篝火を掲げて潮の流れと追い風に乗り、
星の位置で方向を確認しながら進んで行くのです。
よほどの胆力の持ち主ならいざ知らず、初めて夜船を経験する人達は恐怖で
身もよだつような心持だったことでしょう。

次の3首の歌は736年、遣新羅使が瀬戸内海を経て長門に停泊した後、九州に向けて
出航する際に詠われたもので、長門は現在の広島県呉市南の倉橋島とされています。

「 月読みの 光を清み 夕なぎに
   水手(かこ)の声呼び 浦み漕ぐかも 」  巻15-3622 作者未詳


( 月の光が清らかなので 夕なぎの中 水子たちが声かけあって
 浦伝いを漕ぎ進めている
 さぁ、出発だ )

月光の中、夕凪の海に乗って船が走り始めている
声を掛け合いながら忙しそうに動き回る水手。
月夜の船出の幻想的な場面が彷彿され、歌の詠み手もまだ風情を愛でる気持ちの
余裕があったことが窺われます。

「 山の端(は)に 月傾(かたぶ)けば 漁(いざ)りする
   海人の燈火(ともしび)  沖になづさふ 」 
                       巻15-3623 作者未詳


( 山の端に月が傾いてゆくと 魚を捕る海人の漁火が
  沖の波間にちらちらと 漂っているのが見えるなぁ )

月が山の端に傾いてゆくにつれて、光が次第に乏しくなってゆく。
皓皓とした光の中で今まで目立たなかった漁火が、ちらちらと浮きだってくる。
暗闇の中で次第に心細くなってきた作者。
中西進氏は
『「なずさふ」は本来「難渋する」の意だが、たゆとう波浪の中で漁火のゆらめきが
 明滅しつつ見えていると表現した点価値がある。』と評されています。 (鑑賞日本古典文学 万葉集)

「 我のみや 夜船は漕ぐと 思へれば
     沖辺(おきへ)の方に 楫(かぢ)の音すなり 」 
                       巻15-3624 作者未詳


( 夜船を漕いでいるのは我々だけかと思っていたら
 沖の辺りでも櫓を漕ぐ音がしているよ )

心細さが募ってくる中、闇に包まれた辺り一帯櫓を漕ぐ音
ほっと一安心する心持。

この3首の連作は
清らかな月の光を浴びながら岸を離れて行く船。
漆黒の闇の中を点滅する漁火。
遠くから聞こえてくる楫音。
視覚と聴覚を交えて時間と情景の推移を美しく詠い、旅行く者の旅情と
哀感を感じさせる秀歌です。

それにしても何故危険を冒してでも夜に出航したのでしょうか。
当時、夜は神の世界であり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈するものと
畏れられていました。
そうしたタブーを破っての船出について直木孝次郎氏はその著「夜の船出」で
「 瀬戸内海は季節により船出に適した陸からの順風が夜にしか吹かない時期が
あったためだろう」
とされていますが専門家の間では侃々諤々の議論がなされています。
ともあれ生還率50%と推定される危険な外洋の船旅を厭わず、貪欲なまでに
我国の向上を目指した古代の政治家。
その努力と勇気が建国の礎になったことは疑うべくもありません。

「 真帆(まほ)片帆 瀬戸に重なる 月夜哉 」 正岡子規

7月21日は海の日。
行き交う船を眺めながら古き時代に思いを馳せるのも楽しいことです。
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by uqrx74fd | 2014-07-18 07:27 | 生活

万葉集その四百八十四 ( 天の川伝説 )

( 平塚七夕祭り )
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( 同上 )
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( 同上)
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( 短冊に願いをこめて )
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( 可愛いい牽牛、織女 )
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( 歌舞伎 )
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( 切り絵 )
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( 竹取物語 )
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( 猿蟹合戦 )
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( ゆるキャラもあります )
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夏の夜に繰り広げられる壮大なロマンス-天の川伝説は中国伝来のものでありますが、
銀河にまつわる神話は世界各地でも多く伝えられています。
例えばフインランドでは
「 昔、ズラミスとサラミという相愛の夫婦がいた。
  ところが死後別々の星になってしまった。
  二人は再会しょうと天上界のかすかな光の靄(もや)を集め、千年もかけて
  天の橋を完成し、両端から渡ってシリウス星のところで出会い、
  永遠に星空の中で添い遂げているのです 」 と。

また、ギリシヤ神話は
『 女神ヘラの乳房を赤児のヘラクレスが強く吸ったので、
ヘラが赤児を引き離すと乳がほとばしって「ガラクシアス」(乳の川)ができた。
天文学上は銀河、英語ではミルキィーウエイ(milky way) とよばれる 』とか。

天の川を天の道とみる国々もあります。

エジプト神話は悪神セトに追われた女神イシスが逃げる時に落としていった「麦の穂の道」 
北欧神話は戦死した勇者が神々の住む天国へ向かう「馬車の道」
スウェーデンは冬の夜に亡魂が行く「冬の道」、
フィンランドでは亡霊が鳥となって飛ぶ「鳥の道」、
アメリカ・インディアンは「魂の道」  等々。

翻って我国で万葉集に詠われている天の川は132首もありますが、
それは遠い遠い星の国のお話ではなく、自分たちの恋を天の川に託して詠う
現実の世界の物語なのです。

「 天の川 瀬を早みかも ぬばたまの
   夜は更けにつつ  逢はぬ彦星 」
                   巻10-2076 作者未詳


( 夜がもう更けてゆくというのに、彦星(牽牛)はまだ織女に逢えないでいるらしい。
  天の川の川瀬の流れが早いためだろうか  )

天の川に雲がかかり彦星(牽牛)が見えないのでしょうか。
詠う作者の恋人も今日は必ず訪れるはずなのにいまだに姿が見えない。
雨で川の水かさが増え、流れが早くなっているので渡る船が行きなずんで
いるのだろうか。
あぁ、夜も更けてゆく。
天の川を仰ぎながら溜息をついている女。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
           織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                           巻10-2029  柿本人麻呂歌集


( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

雲が晴れて牽牛が見えるようになった。
やっぱり牽牛と織女は今夜逢うんだ。 よかった!

地上の世界でも楫漕ぐ音が聞こえてきた。
「 私の恋しい人も間もなく」と胸を弾ませる女。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
    君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                      巻8-1518 山上憶良(既出)


( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
 ようやく、愛しいあの方がお出でになったようです。
 さぁ、さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

この歌は万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
「 紐解き設けな 」とは、なんと直截な!
天上の物語を一気に現実ものとして詠う憶良です。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                      巻10-2031  柿本人麻呂歌集


( 1年のうち逢えるのは7月7日の1夜だけ。
  待ち続けた恋の苦しさもまだ晴れないうちに
  夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく逢えた二人。
恋の時間はあっという間に過ぎてゆきます。
時よ止まれ!

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                        巻10-2050 作者未詳


( 明日からはこの私たちの寝床を払い清めたとしても
 あなたと共寝することができずに 
ひとり寂しく寝ることになるのだろうか )

別れの時がきました。
あぁ、また一人寝の寂しさを味わうことになるのかと女を抱きしめる男。
もう天の川も眼中にありません。
ただただ少しでも長く一緒にいたい二人です。

諸外国の夢の伝説に比べ我が七夕物語は正しく現実の世界。
だからこそ万葉人は思いの丈を心ゆくまで吐露することが出来たのでしょう。

「 きらめきて 銀河に流れ ある如し 」  高濱年尾
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by uqrx74fd | 2014-07-11 06:34 | 生活