カテゴリ:生活( 146 )

万葉集その五百三十 ( 大津皇子 1)

( 大津皇子像  薬師寺蔵 )
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(  皇室系図 天武天皇系 )
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( 大津皇子が眠る 二上山  当麻寺付近から 奈良県 )
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( 同上  天香久山付近から )
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( 同上  檜原神社から )
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 ( 山のしづく  高橋秀年   奈良万葉文化会館蔵  )
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( 万葉の春  上村松篁   松柏美術館蔵 )
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斉明天皇の時代、661年頃のことです。
大海人皇子は兄、中大兄皇子の二人の娘を妃として迎えます。
娘の名は姉の大田皇女、妹、鸕野讃良皇女(うのの ささら ひめみこ)のちの持統天皇です。

大海人は二人の妃を寵愛し、大田皇女は大伯皇女(おおくのひめみこ:大来皇女とも) と大津皇子、
鸕野讃良皇女は草壁皇子を出産しました。

中大兄は後の天智、大海人は天武天皇。
大津と草壁は共に祖父と父が天皇という抜群の血統を誇る従兄弟です。

大田皇女は大伯、大津姉弟が幼い頃に早世しましたが(667年)、二人とも祖父や父に
可愛がられ、長じて姉は伊勢神宮の斎王に、弟、大津は文武両道に秀で、
器が大きく人望ある貴公子に成長したと伝えられています。

一方、鸕野讃良皇女は天武天皇即位と同時に皇后の地位に付きましたが、
草壁皇子は体が弱く、能力も普通であったようです。

当時、天皇の後継者は天皇皇后の子が皇太子になるとは決められておらず、
天皇の意思で決定されるので、大津、草壁共に有力な後継者と目されていました。
天武としても頭が痛いことだったでしょう。
皇后は何としても実子の草壁を皇太子に指名させるべく執念を燃やします。

そんな時に、女性をめぐるある事件が起きました。
大津皇子が禁断の女性に魅かれ「逢い引きしたい」と文を渡したのです。

  「 あしひきの 山のしづくに 妹待つと
         我れ立ち濡れぬ 山のしづくに 」  
                          巻2-107 大津皇子

( 山であなたを待ちながらずっと佇んでいて、とうとう雫にしっぽりと濡れて
      しまいましたよ )

文を出した相手が待てど暮らせど現れなかったので恨みごとの歌を送ったのです。
通い婚の時代、女性が男のもとを訪れるなど考えられません。
しかも相手は手を出してはならない女性、采女か人妻らしい?

ところが意外や、相手から艶なる返歌が届きました。

「 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの
       山のしづくに ならましものを 」     
                           巻2-108 石川郎女

( 長い間私をお待ちになって雫に濡れてしまわれたとのこと。
  私はその雫になりたかったですわ )

この返事を受け取った皇子は欣喜雀躍。
そして、猛烈な求婚の末、とうとう結ばれました。

ところが、この秘め事を朝廷の占い師、津守連通(つもりのむらじとほる)という
男が暴露し噂が飛びかいました。
剛毅な大津は動ぜず次のような歌を詠います。

「 大船の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは
     まさしに知りて  我がふたり寝し 」 
                              巻2-109 大津皇子

( 大船の停泊する津、その津の名をもつ津守め。
 そやつの占いによって暴かれるなど大したことはない。
 こちらはもっと確かな占いで公になることを承知の上で
 あの女性と寝たのだ )

なんとも大胆不敵な宣言です。
さて、秘密の女性、石川郎女とは一体どのような女性なのか?
次の歌で明らかになります。

「 大名児(おほなご) 彼方野辺 ( をちかた のへ)に 刈る草(かや)の
    束の間(あいだ)も 我れ忘れめや 」  
                                       巻2-110 草壁皇子


( 大名児よ 彼方の野辺で刈る萱(かや)の その一束(ひとつか)。
 その束の間も私はお前を忘れかねているんだよ )

大名児(おほなご)とは石川郎女の字(あざな)であると注にあります。
何と! 大津皇子はライバル草壁皇子が熱愛している女性を寝取ったのです。
草壁の恋歌は純情、一本気な若者を連想させますが、これでは女性は靡きますまい。
さぁ、大変、お坊ちゃまは母親の皇后に泣きついたのでしょうか?

伊藤博氏は
「石川郎女は草壁の妃の一人だったのではないか 」
と推定されていますが、もしそうなら朝廷中大騒ぎになったことで
ありましょう。

    「 龍の玉 大津皇子に 供へたる 」   辻 恵美子
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by uqrx74fd | 2015-05-30 15:12 | 生活

万葉集その五百二十八 (湖上の藤見 )

( 藤波  春日大社境内  奈良 )
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( 万葉植物園  奈良 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 同上 )
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( 山辺の道  奈良 )
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( 亀戸天神  東京都 )
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( サツマサツコウフジ   東大小石川植物園 )
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(  十二町潟  氷見市  yahoo画像検索 )
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748年 初夏の爽やかな気候の頃、左大臣橘諸兄の使者 田辺福麻呂が都から遥々、
越中国司の大伴家持を訪ねてきました。
用向きは不明ですが、万葉集の編纂に助力を惜しまなかった元明上皇の健康が
思わしくないので都の様子を報告することと、橘氏直轄の支配地の視察を兼ねての
ことと思われます。

橘諸兄を後ろ盾と頼む家持にとって歌心がある福麻呂は旧知の仲。
来訪を大いに喜び、至りつくせりのおもてなしで遠来の客をねぎらいました。

連日の宴会が続いたのち「そろそろ都へ戻らねば」という福麻呂を引きとめ
「明日は布勢の海に繰り出し、船上から藤をご覧にいれましょう 」と
粋な計らいを演出しする家持。
布勢の海は国府から北へ8㎞、富山湾から奥に入った内陸湖です。

「 いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに
   君が見せむと 我れを留(とど)むる 」 
                    巻18-4036 田辺福麻呂( たなべ さきまろ)

( どんなところなのでしょう。布勢の海というのは。
  これほど熱心に あなたが私に見せようと お引き留めになるとは )

最初は「たかが田舎の鄙びた湖、大したことはあるまい 」と
高をくくっていたかもしれない作者。
それでも興味津々です。

翌朝、晴天に恵まれ遊女も伴っての賑やかな船遊び。
大型の屋形船だったのでしょうか?
家持は得意げに案内します。

「 乎布(をふ)の崎 漕ぎた廻(もとほ)り ひねもすに
     見とも飽くべき 浦にあらなくに 」
                          巻18-4037  大伴家持

( 乎布(をふ)の崎 その崎を漕ぎ巡って 日がな一日見ても 
  見飽きるというような浦ではないのですぞ。そこは。)

乎布の崎は布勢の浦の1地点、当時景勝の場として知られていたのでしょう。
やがて水辺に山なりの見事な房を垂らしている巨大な藤の木が見えてきました。

「 藤波の 咲きゆく見れば ほととぎす
     鳴くべき時に 近づきにけり 」 
                         巻18-4042 田辺福麻呂

( 藤の花房が次々と咲いているのを見ると、季節はいよいよホトトギスが
  鳴く時にいよいよ近づいたのですね )

見事な藤を褒めるとともに、家持がホトトギスを特に好んでいることを
知っていた福麻呂の返し歌。

藤の長い房が風に吹かれてゆらゆら揺れている。
万葉人の美しい造語「藤波」です。

「神さぶる 垂姫の崎 漕ぎ廻(めぐ)り
      見れども飽かず いかに我れせむ 」
                           巻18-4046 田辺福麻呂

( 何とも神々しいまでの垂姫の崎 この崎を漕ぎ廻って 
見ても見ても見飽きることがありません。
あぁ、素晴らしい!
私はどうしたらよいのか。 感激のあまり言葉もありません。)

垂姫も布勢の浦の1地点。
現在の氷見市大浦、堀田付近とされています。
御世辞ではなく心の底から感嘆している様子が窺われ、雅な宴を設けてくれた
家持への感謝の気持ちも籠ります。

同席していた遊行女婦(うかれめ)も座を取り持ちます。


「 垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は
    楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ 」
            巻18-4047  土師(はにし)

( 今日は大いに楽しく遊びましょう。
私も色々お話し、歌わせて戴き、後々までこのことを伝えてまいりましょう。)

遊行婦女は単なる遊女ではなく、高い教養の持主。
天皇や貴族の席に侍っていた才色兼備の人もおり、万葉集に多くの歌が残されています。

歌えや飲めや。
大いに盛り上がる宴席。
賑やかな笛や太鼓、琴の音も湖上に響きます。

すっかり満足した福麻呂。
都に戻り布勢の海の美しさ、至りつくせりの楽しい歓待の模様を
周囲の人々に何度も語り聞かせたことでしょう。

家持がこよなく愛したその景観は今から300年前に埋め立てられ、
十二町潟(じゅうにちょうがた)とよばれる水面をわずかに残すのみ。
万葉集に歌が残されていなかったら、往時の風光明媚な布勢の海は完全に
忘れ去られていたことでしょう。

   「 稲雀 十二町潟 越えて来し 」  岩切貞子
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by uqrx74fd | 2015-05-14 17:05 | 生活

万葉集その五百二十六 (藤原広嗣の恋桜)

( 藤原広嗣を祀る鏡神社  奈良市 新薬師寺の隣 )
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(  同上 )
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( この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ 隠(こも)れる おろほかにすな  藤原広嗣 )
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(  一枝の桜に恋歌を付けて捧げた  長谷寺 奈良 )
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( 大美和の杜  奈良山辺の道   )
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( 同上  後方 三輪山 )
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( 同上 )
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( 氷室神社  奈良 )
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( 新宿御苑  東京 )
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聖武天皇の時代、藤原不比等は娘、光明子を皇后に擁立することに成功して絶大な
権力を握りました。
朝廷の人事は思いのまま、息子の武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかひ)、麻呂の 
四兄弟をそれぞれ要職につけ、まさに我が世の春。

宇合(うまかひ)の長男、広嗣も今や皇后の甥、大和守として将来を嘱望され、
前途洋々たる人生を送るはずでした。

ところが人生有為転変、不比等亡きあと都で天然痘が流行し、何と!
藤原四兄弟全員が罹病し次々と死亡するという大厄災が勃発したのです。

この事件を受け、反藤原派の右大臣、橘諸兄が実権を握り、さらに唐から帰国した
吉備真備、僧 玄昉(げんぼう)が重きをなすようになると、藤原一族は衰退、
広嗣は太宰少弐として九州に転任させられます。

国防上重要な拠点とはいえ、花の都から遠く離れた鄙の地。
栄光を目の前にしていた広嗣の内心は忸怩たるものであったことでしょう。

万葉集に「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子(をとめ)に贈る歌」と題され、
心憎からず思っていた娘に満開の桜の一枝を手折り、歌を添えて渡したという
粋な求愛の一幕があります。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ隠(こも)れる おろほかにすな 」
                               巻8-1456 藤原広嗣

( この桜の一枝の中には、わしの言いたいことが一杯詰まっている。
 だから、おろそかに取り扱ってはならんぞ )

作者の性格の一端が垣間見える万葉唯一の歌です。

「花の一枝をおろそかにしてはならんぞ」というのは
「 お前さんを想う気持ちがぎっしりと詰まっている。
  俺様の好意を無碍にしてはならんぞ 」と
風流を気取りながら、高飛車に出ています。

今まで熱心に口説いてきたが、相手はのらりくらり。
一向に靡かない。
とうとう痺れを切らして
「これでだめなら これまでか」と覚悟を決め遂に強権発動の様相。

それに対して相手の女性はやんわりと次のように返します。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちは 百種(ももくさ)の
    言(こと)持ちかねて 折らえけらずや 」
                             巻8-1457 娘子(をとめ)

( そうおっしゃっても あまりにも沢山の言葉がこの花の一枝に込められているので
 支えきれなくなって、このように簡単に折れてしまったではありませんか。)

「 百種の言葉といっても私には信じられません。
私が花を受け取る前に折れてしまった(心変わりした)ではありませんか」
とからかっています。

お互い親しいもの同士。
言葉遊びを交えながらの恋歌の応酬ですが、娘は内心
「 うれしい! もう折れてもいいわ 」
と思っているのかもしれません。

素性不明ながら美貌と聡明さを連想させる女性です。

広嗣の歌から生まれつき権力者の家庭のもとで育った気位の高さ、
我がままなお坊ちゃん的な性格が見て取れますが、果たせるかな
九州に転任させられたことを左遷と感じ不満を募らせました。

格下と思っていた吉備真備、玄昉が重用されていることも気に入らない。
それが高じて
「 天地による厄災の元凶は二人に起因する。吉備真備、玄昉を排除せよ」
という激烈な上奏文を朝廷に送ります。

これは為政者、聖武天皇と橘諸兄に対する誹謗とも受け取れ、驚いた天皇は
広嗣を召喚する詔勅を出しましたが従いません。
それどころか、大宰府で1万余人の兵を集め反乱を起こしたのです。
世にいう「藤原広嗣の乱」です。(740年)

朝廷は大野東人(おおの あずまひと)を大将軍とする追討軍を派遣し、
2か月後に鎮圧、
広嗣は肥前松浦郡で捕えられ唐津で処刑。
あっけない幕切れとなります。

それから5年後の745年、玄昉が失脚し、筑紫観世音寺の別当に左遷され翌年没。
続いて750年吉備真備が肥前国司に左遷。

幼き頃より文武の才に秀で、管弦歌舞、天文陰陽に精(くわ)しく偉才とされた広嗣。
左遷されたとしても耐えて時期を待つということが出来たならば、謀反人という
汚名を着せられず栄光の道を歩むことが出来たかもしれません。
何しろ玄昉、吉備真備は10年を経ず失脚し、伯父、藤原武智麻呂の次男仲麻呂が
目覚ましい台頭を果たしたのですから。

司馬遼太郎は短編「朱盗」で次のように書いています。

『 「 大野東人が? 」 
  広嗣は、複雑な表情をした。
  東人といえば神亀元年、父藤原宇合(うまかい)に従って、東方の蝦夷を討って
  大功をたてた軍人なのである。
  その旧部下が、広嗣討伐の司令官になって西下するという。
  奇妙なことだが、広嗣はこのときになってはじめて戦意をもった。
  もたざるをえなかった。
  大宰府に全九州の軍団を集結せしめていた段階までは、広嗣の気持ちの中に
  多分に遊びがあったのだ。
  官符を乱発して兵を集め、蝟集(いしゅう)してくる頭かずをながめて自分の実力を
  たのしむのは、楽しい権力遊びだった。
  それに中央に対して甘えてもいた。
  まさか中央は、藤家(とうけ)の長男が軍兵(ぐんぴょう)を集めているとしても、
  反乱を起こすとまでは考えていまい。
  不穏の消息が聞こえれば、駄々をこねているとみて、奈良の官廷はなんらかの
  慰撫(いぶ)の手をうってくるだろう。
  そのときに自分の政治的要求を出せばよい。
  と考えていたのが、あてがはずれたのである.』
                                  (新潮文庫 果心居士の幻術 所収)

広嗣は自分の父親や伯父たちが,政敵「長屋王」を無実にもかかわらず謀反の噂を
立てさせ抹殺した事実を忘れていたのでしょうか?
藤原嫌いの橘諸兄にとって政敵を潰す千載一遇のチャンスだったのです。

肥前の国に左遷された真備は広嗣の祟りを恐れ、神功皇后を祀っていた
松浦鎮守府鏡神社に二の宮に造営し霊を鎮めようとしました。
また、広嗣の居宅があったとされる奈良の新薬師寺の西隣にも鏡神社が勧請されています。

新薬師寺を訪れる人は多いですが、隣接する鏡神社で広嗣を祀っていることを知る人は
少なく人影もほとんど見当りません。
神社の脇に1枚の板が立てかけられており、広嗣の恋歌が書かれていましたが、
なんとなく侘びしい風情でした。

「 桜散り 広嗣いずこ 鎮まりたまへ 」  筆者













 
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by uqrx74fd | 2015-05-01 00:00 | 生活

万葉集その五百二十一 〈花咲かば〉

( 山の辺の道  奈良県 )
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( 同上  桜、梅、椿、菜の花など咲き乱れている )
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( 同上 桃と桜 )
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(  同上 )
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( 大美和の杜  山辺の道 )
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( 同上 大和三山 左から香久山、畝傍山、耳成山 )
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( 甘樫の丘  飛鳥  )
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( 又兵衛桜  奈良県  )
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( 長谷寺   奈良県 )
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(  三春滝桜  福島県  )
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彼岸の中日を過ぎると桜の開花が待ちどうしくなり、「今年の花見は何処へ行こうかなぁ」
と、浮き浮き、そわそわいたします。
国民総花見という風雅にして、いささか騒がしいお祭り騒ぎは世界広しと言えども
我国だけのものでありましょう。

古代稲作農民生活において山から田の神を迎える季節に咲くサクラは稲の神として
信仰の対象とされていました。
花が多く咲き、散るのが遅ければ豊作のしるし。
「サ」は田の神、稲の神、「クラ」は神座を表すゆえにその名があるそうですが、
崇められた桜が、楽しみ愛でられるようになったのは何時の頃からなのでしょうか?

今を遡ること1600年、履中天皇の時代、秋の船上での宴の最中に
時ならぬ桜の花びらが風に吹かれ来て酒杯に浮かんだという故事(日本書記)が
記録に残る花見の始まりと伝えられていますが、この櫻は十月桜だったのか?
あるいは創作?
よしんば創作としても桜の文学の始まりであり、4世紀頃に我が国民の桜好きの遺伝子が
植えつけられ、花見の文化が芽生えたとでもいえましょう。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(し)めし あしひきの
       峰(を)の上の桜 かく咲きにけり 」
                 巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜がこんなに見事に咲きましたよ )

作者は自分で山に登り花見にふさわしい木に目印を付け、開花したのを確かめ、
親しい人たちに「さぁさぁお花見に」とお誘いをしたようです。
用意万端を整え、得意満面の笑みを浮かべている様子が目に浮かびます。

それにしても、万葉時代に早くも場所取り習慣があった?

「 春日にある 御蓋(みかさ)の山に 月も出でぬかも
     佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく 」 
                       巻 10-1887 作者未詳 (既出)
                         旋頭歌(577 577を基調とする歌体)

( 三笠山から月が早く出てくれないかなぁ。
  西の佐紀山はもう桜が満開だよ。
  夜桜と洒落てみたいものだね )

朧月と桜。
三笠山は奈良東方の山、月が上ると西の佐紀山全山の夜桜が輝きます。
豪華かつ妖艶なまでの美しい光景。
万葉人の素晴らしい美意識です。

「 足代(あて)過ぎて 糸鹿(いとか)の山の 桜花
     散らずもあらなむ 帰り来るまで 」
                             巻7-1212 作者未詳

( 足代を通り過ぎてさしかかった糸鹿の山
      この山の桜花よ 私が帰ってくるまで散らないでくれよ )

「足代」は和歌山県有田市 糸鹿の山はその地の東南の山 

作者は何らかの用事で紀伊方面に向う途中、見事な山桜に出会ったようです。
「 帰りは仕事を終えてゆっくり愛でるから、それまで散るなよ」と
願いつつ足を進めているように思えますが、ひよっとしたらこの櫻は美しい女性かも?
そのように想像した方が楽しいですね。

「 花咲かば 告げよと云ひし 山守の 
      来る音すなり  馬に鞍おけ 」     源頼政


( 桜の花が咲いたら真っ先に知らせよと申し付けていたあの山守の来る足音がする。
  おのおのがた鞍の用意をいたせ。)

我こそ花見の一番乗り。
はやる心を見事に歌い上げた傑作で、まだ雪深い頃から山守に
「 咲いたらすぐさま知らせよ」と命じておいた作者。

開花宣言でわっと人が集まるのは昔も今も同じようです。

この歌は多くの人に愛唱され、謡曲にも採り入れられています。

「 花咲かば 告げんといひし 山里の
  告げんといひし 山里の 
  使いは来たり 馬に鞍 
  鞍馬の山の うづ桜
  手折り 枝折をしるべにて
  奥も迷わじ咲き続く 
  木陰に並みいて 
  いざいざ 花をながめん- 」              謡曲「鞍馬天狗」


     注:  「うづ桜」 八重のサトサクラの一種で京都鞍馬山に咲く桜の総称。
          「うづ」は雲珠(うんじゅ)とよばれる馬具の飾り。
          桜花の形が雲珠と似ており、地名の鞍馬との縁で
          「うづ桜」とよばれるようになった。

ここまで誘われてはじっとしている訳には参りません。
それでは、いざいざ、古の都へ花見に参るといたしましょうか。

   「 謡本 静かにとぢぬ 朝桜 」 田畑比古
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by uqrx74fd | 2015-03-26 16:39 | 生活

万葉集その五百十七 (人麻呂歌塚)

( 和邇下神社 奈良県櫟本市(いちのもとし) )
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( 同上本殿 )
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( 和邇下神社境内 この道の奥に柿本寺跡(しほんじあと)がある )
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( 柿本寺跡 )
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( 同上説明板  画面をクリックすると拡大出来ます)
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( 人麻呂歌塚 )
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( 人麻呂像 )
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( 巻向山 中央  山の辺の道で )
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数ある万葉歌人の中でもひときわ聳え立つ柿本人麻呂。
後に、歌の聖(ひじり)とよばれて人丸神社の祭神や柿本寺の本尊となり今や歌の世界に
無縁の人にも あまねく知られている存在です。
にもかかわらず、出自、生没は全く不明。
歴史上の記録はほとんど残らず、詠まれた数々の歌を通してのみ彼の生涯を
推察するしか術がありません。
多く専門家は言うに及ばず、歌人の斎藤茂吉も生涯をかけて「柿本人麻呂」(全5巻)と
いう大著を著わして人麻呂の終焉の地を鴨山(島根県)と断定し得た喜びを

「 人麻呂が ついのいのちを をわりたる
         鴨山をしも ここか定めむ 」      斉藤茂吉


と詠いましたが、それすら定説を得ておらず、研究文献は膨大なものになっています。

なぜこれほどの偉人の記録が残らなかったのか?
当時の定めで官人の足跡を正式な記録に残すのは身分が5位下以上となっており、
人麻呂の身分は低く、6位以下の下級官人であったためと推定されています。

官人にとって立身出世するには政治的手腕、官僚的事務的能力、家柄、上司の贔屓が
必要で歌はあくまで教養の一部。
歌のみに生きた人麻呂にとって出世は無縁の世界だったのでしょう。
彼の朝廷での主な役割は天皇、皇族に従事して歌を奉ることでしたが、それすら
宮廷歌人という身分が確立されていたわけではなく、地方勤務もしていたことも
歌から窺えます。

何処にいようと、ひたすら新しい境地を求め続けていた人麻呂。
歌人としての類い稀なる才能は持統天皇の時代に開花し、我国和歌史上最大の足跡を
残す不滅の存在となったのです。
残した歌は長歌19首、短歌75首。
それ以外に柿本人麻呂歌集に370首見られ、そのうち人麻呂作と指摘されているものも
多くあります。
天皇の近くにあって多くの賛歌、亡き人を偲ぶ挽歌などを声高らかに詠い上げた
人麻呂は個人の世界でも、独特の美しい世界を創造しており正に夢見る詩人とでも
言えましょうか。

「玉衣(たまきぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹に
   物言はず来にて 思ひかねつも 」 
                          巻4-503 柿本人麻呂

( 玉衣のさわめきではないが 門出のざわめきが鎮まってみると
  家に残したあの子に何も言わないできたようだ。
  どうも、心残りでたまらない )

(さゐさゐ しづみ)  潮騒の騒の重複、旅立ちの物せわしいざわめきが鎮まって
(思ひかねつも)    思う心を抑えようにも抑えきれない

玉衣は衣の美称。
絹の衣がサラサラと音を立てている。
女性が着物を脱いだり着たりする姿を連想させる後朝の別れの場面です。
妻と一夜心ゆくまで過ごした後、慌ただしい出立。
長旅になるのでしょうか?
途中まで来て、「あぁ、優しい声の一つもかけてやらなんだ」と悔やむ作者。
濃厚な愛の営みを感じさせる一首です。


「 淡路の 野島の崎の 浜風に
     妹が結びし 紐吹き返す 」
                      巻 3-251 柿本人麻呂

( 淡路の野島の崎の浜風、
 その風が愛しい子が結んでくれた着物の紐をいたずらに吹きかえらせている )

別れの時に妻が安全を祈り、「私を偲ぶよすがに」と着物に結んでくれた紐。
風と紐のもつれの彼方に愛しい妻を幻視し、いつまでも立ち尽くしている。
公用で主人の伴をしながら瀬戸内海を旅している作者。
近くに妻がいない寂しさが籠っている一首です。

「 子らが手を 巻向山は常にあれど
    過ぎにし人に 行きまかめやも 」 
                       巻7-1268 柿本人麻呂歌集

( いとしい子の手を巻くという巻向山は昔と変わらずに聳えているけれども
 この世をあとにした人を訪れても、その手を枕にすることはもうできない。)

人麻呂の妻は巻向山麓に住んでいたようです。
山というぬくもりを感じさせる自然を用い、先立たれた侘びしさを
一層引き立てています。
窪田空穂は「 過ぎにし人に 行きまかめやも 」は人麻呂独自の表現で
他の人には真似出来ないものとされ、伊藤博氏は人麻呂作とみて誤まらないであろうと
確信されています。
亡き人を通して普遍的な人生の無常観を述べた歌です。

「 巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
   水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは 」 
                    巻7-1269 柿本人麻呂歌集

( 巻向の山辺を鳴り響かせて流れゆく川。
  その川面の水泡のようなものだ。 
  うつせみの世の中の人であるわれらは。)

前歌の山に対して「水」によせて人の世の無常観を述べた歌。
「世の人我れは」原文で「世人吾等者」となっており複数の人に
呼びかけたものと思われます。
この歌も人麻呂作と推定され、
「前の歌と共に深い無常の裏に常住への願いを秘めたもの」(伊藤博)で、
単なる妻を亡くした嘆きというよりは、人麻呂の深い人生の無常観を示したものと
いえましょうか。

  「 人麻呂の 墓は何処と 歌塚へ 」 筆者

JR奈良駅から桜井線で3つ目の駅、櫟本(いちのもと)で下車し約15分位歩くと、
和邇下神社 (わにしたじんじゃ) という式内社があります。
平安時代初期に編まれた延喜式人名帳(年中行事や制度を記載)に載せられ、
古代この地方一帯を支配していた和邇氏の始祖、天押帯巳子命
(あめの おしたらひこの みこと) を祀っている由緒ある社です。

柿本人麻呂は和邇氏から分岐した支族、柿本氏の出身と推定されていますが、
それを裏付けるかのように、神社の境内に氏寺とされた柿本寺(しほんじ)の跡が残り、
さらに人麻呂の墓?と伝えられる石碑が建てられています。

平安末期の歌人藤原清輔が墓標を立て、江戸時代の享保年間に再興し、
宝暦12年(1762年)、後西天皇の皇女、宝鏡尼の筆になる「歌塚」の文字を記した
大きな碑石です。
ここを訪れた鴨長明は
「 人麻呂の墓と言ひて尋ぬるに知れる人もなし」(無名抄)と述べていますが、
鎌倉前期には既に伝承の場所となっており、ここが人麻呂の墓かどうか、
神のみが知るようです。
石碑の横は児童公園になっており、幼い子が母親と砂遊びをしていました。

訪れる人もなし。
静寂な雰囲気の中で人麻呂の像が「ここだ、ここだよ」と私に示しているように
感じ、色々な文献を調べてみましたが残念ながら断定されたものは一冊もなく、
やはり伝承地とするほかありません。

   「 人麻呂の歌 
     しみじみ読めるとき
     汗となり
     春の日は 
     背(せな)をながるる 」
                   ( 若山牧水  みなかみ )

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by uqrx74fd | 2015-02-27 06:39 | 生活

万葉集その五百九 (新しき年)

( あけましておめでとうございます  干支文字切手とお年玉袋)
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( 朝焼け富士     精進湖 )
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( 富士山   十国峠 )
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( 鶴   丹頂鶴のタンゴ  学友M.Iさん提供 )
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( 鶴   日比谷公園 )
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( 凍て鶴  同上 )
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( 亀   亀と鴨のダンス  三溪園 )
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( 松  旧芝離宮庭園 )
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( 竹  京都嵯峨野 )
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( 梅  蘇我梅林 )
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2015年の干支は未、動物は羊があてられています。
「未」は木がまだ伸びきらない部分を描いた象形文字で、未完成、未知、
未定、未熟、未来などと使われ、やがて大きく成長する可能性を秘めたもの。

羊という字は「祥」という文字の古体とされ(諸橋轍次)、吉祥、瑞祥などのほか、
翔、義、美、羨、善など良い意味を持つものに使われているのは古代、羊が
神聖、目出度いものとされ性格もよいことによるそうです。

十二干支辞典によると未年生まれの人は、

「 穏健正直、慈善心に富み、信仰心が厚く、苦労性で涙もろく気弱、用心深い。
  50歳前後は苦労するが、晩年は安楽な余生が送れる。
  天性知恵深く、人のためになる相 」

とあります。

さてさて、今年は未来を拓(ひら)きながらも穏やかな1年になるのでしょうか。

「 新(あらた)しき 年の初めに 豊(とよ)の年
    しるすとならし 雪の降れるは 」 
                   巻17-3925 葛井連諸会(ふじゐの むらじ もろあひ)

( 新しい年の初めに このように雪が降り積もるとは、
  何と幸先がよいことでありましょうか。
  今年の国の繁栄と豊穣を示す瑞兆ですね )

746年正月、大雪が降り、時の左大臣橘諸兄が諸王諸臣を参集して元正太政天皇御所の
雪掻きに馳せ参じたところ、上皇大いに喜ばれて酒席を設けられ、各々に歌を詠むよう
仰せられた時の一首です。
古代、大雪は豊作の瑞祥とされていました。

「しるすとならし」の「しるす」は「兆」で、はっきりとしめす 
「ならし」は、「なるらし」  ~であるらしい


「 わが君は 千代に八千代に さざれ石の
    いわほとなりて 苔の生すまで」 
                      よみ人しらず 古今和歌集 

( あなたさまは 千代に八千代に 長寿を保ちご繁栄されますよう。
 小さな砂利が悠久の年を経て巌となり苔が生えるようになるほどに )

「君が代」の原歌。
「わが君」は自分が敬愛する人をいい、主君、父母、親族、配偶者、友人など
誰でもよく、賀の祝宴において祝われる人をいいます。
万人の長寿と繁栄を祈り寿ぐ歌、それが我国の国歌です。

「 新(あらた)しき 年の初めに 思ふどち
   い群(む)れて居れば 嬉しくもあるか 」 
                       巻19-4284  道祖王(ふなどの おほきみ)  (既出) 


    「思ふどち」 : 親しいもの同士
    「い群れておれば」 : 集う 
                  「群」という字の原義は
                  「大勢が一緒になって共同して物事を成し遂げる」の意で
                  「君」と「羊」から成っています。

( 新しい年の初めにこうやって打ち解けたもの同士が集うのは
  何よりも嬉しいことですね ) 

 さぁさぁ、今年も楽しくやりましょう。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

   「 日の春を さすがに鶴の 歩みかな 」    榎本其角

   『 「日の春」は元旦の朝日をさす季語
      元旦の朝日を浴びて高々と鶴が歩む 
     「さすがに」の一語に鶴の美しさへの感嘆をこめる。』
                               (大岡信 名句 歌ごよみ 角川文庫より)
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by uqrx74fd | 2015-01-01 14:25 | 生活

万葉集その五百七 (万葉イルミ)

( 鹿の親子  春日大社神苑 万葉植物園 奈良市 )
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( 青の世界  同上 )
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( 御所車    同上 )
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( お花畑 ?  同上 )
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( 稲架:はさ   同上)
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( 大宮びと あるいは 彦星と織女?  同上 )
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( 飛火野のよう   同上 )
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( 藤   同上 )
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( 藤棚  同上 )
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(  中央は奈良のマスコットキャラクター せんとくん )
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我国最古の万葉植物園「春日大社神苑」は昭和7年、昭和天皇の御下賜金によって
開園され、約9000坪の敷地に300種余の草木が植栽されています。

山野の植物になるべく人的な手を加えず、自然のままに生かすという考えのもと、
万葉園、五穀の里、椿園、藤の園と4つのテーマーによってエリアが分けられ、
四季折々の植物の生態を鑑賞することが出来ますが、なんといっても見どころは
200本、20種類の藤。
巨大な木に蔓が絡み合い、高い梢の上から見事な房を風に靡かせている様は
遠い古を思い起こさせます。

春日大社は古代藤原家の氏神であり、神域とされる御蓋山周辺には野生の藤が多く
存在していました。
藤原一族は家紋でもある藤を代々大切に保護したので、社の内外いたるところに
驚くほど多くの老巨木が残され、花の季節になると圧倒的な存在感を誇っています。

さて、その植物園で今年から奇想天外な試みが始まりました。
客足が少なくなる夏と冬にLED(発光ダイオード)100万個を使用して
夜の万葉イルミネーションの世界を現出させようというのです。

早速、夜の帳が降りるころに参上。
まず春日大社、一の鳥居から進みます。
漆黒の闇の中、植物園への道筋をしめす二条の光が鮮やかです。
歩くこと10分足らずで会場に到着。
まずは奈良のシンボル、鹿さんが出迎えてくれました。

「 夜を長み 寐(い)の寝(ね)らえぬに あしひきの
      山彦響(とよ)め さを鹿鳴くも 」 
                         巻15-3680 作者未詳

( 秋の夜長なのに 寝もやらずにいる折も折、山を響かせて妻呼ぶ雄鹿が
 鳴き立てているよ )

こちらの鹿さんは親子4頭。
鳴きもせず静かにイルミの草を食んでいます。
園内に10頭おかれているとか。

広大な敷地一面色鮮やかな幻想の世界に驚嘆しながら歩いてゆくと
やがて刈り上げられた稲穂が架けられていました。
こちらは本物。
粳米(うるちまい)ですが現代の稲穂に比べてかなり長い。
まわりに光の玉が輝いています。

古代の人達は干した稲穂で蘰(かづら:頭飾り)を作りその生命力を
身に付けようとしていました。

「 我が蒔ける 早稲田(わさだ)の穂立 作りたる
   かづらぞ見つつ 偲はせ我が背 」 
                       巻8-1624 大伴大嬢(おほいらつめ)

( 私が蒔いた早稲田の穂立、立ち揃ったその稲穂でこしらえた蘰です。
  これをご覧になりながら私のことを偲んでくださいませね )

作者は大伴坂上郎女の娘で17歳位、従兄妹の家持と婚約中。
花嫁修業のため明日香、耳成山の麓,竹田の庄へ母の稲の収穫作業の手伝いに
行っていたようです。
当時の貴族は使用人に手伝わせながら自らも農作業に携わっていたことを窺わせる
一首で、作者は自ら蒔いた稲を刈り取り、その穂を干して蘰に編み家持に贈ったもの。
「鬘を私と思って下さいね」と甘えています。

少し高台を上ってゆくと光の衣装で飾られた男と女の人形。
後背から星がきらめきながら流れ落ちてゆきます。
このきらびやかな衣装から想像できるのは都大路を歩く大宮人と女官。
そして天の川。

「 ももしきの 大宮人は さはにあれど
     心に乗りて 思ほゆる妹 」  巻4-691 大伴家持

( 大宮仕えの女官はたくさんいるけれども、私の心にしっかり乗りかかっている人
     それはあなたですよ )

名も知らない高貴な美人女官に憧れた作者の青春時代の恋歌です。
その女性は想像上の人かもしれません。

「織女(たなばた)の 五百機(いほはた)立てて 織る布の
    秋さり衣 誰(た)れか取り見む 」
                               巻10-2034 作者未詳

( 織姫がたくさんの機(はた)を据えて織っている布、
   その布で仕立てる初秋の着物はいったいどなたが取り上げて見るのでしょうか)

「秋さり衣」は秋になって着る着物、
ここでは七夕の夜牽牛が初めて袖を通す晴れ着のことです。
1年ぶりに出会い、後朝の別れに着せて帰らせたいという思いで
織っているのでしょう。

「 彦星以外に着る人はいないんだ。
  早く行ってやればよいのに。
  だがなぁ、天の定めでままならずかぁ」

と詠っているところをみると、七夕前の歌でしょうか。
天を仰ぎながらやきもきしている地上の男です。

光の世界を巡りながら見えてきたのは豪華絢爛の藤の棚。
足許には蓄光石が撒かれており、道もキラキラ光ります。

「 藤波の 花は盛りになりにけり
     奈良の都を 思ほすや君 」 
                  巻3-330 大伴四綱 (既出)

( ここ大宰府では藤の花が真っ盛りになりました。
 奈良の都、 あの都の藤が懐かしく思われませんか あなた様 )

大宰府長官 大伴旅人宅での歌。
盛りの藤を見ながら、故郷の藤を思い出し望郷の念に駆られた一首です。

こちらは晩秋イルミの藤、皓々と輝いています。
藤棚の下を行きつ戻りつしながらその美しさに嘆声しきり。

遠くを見渡すと赤白の世界。
お花畑のイメージなのでしょうか。
広大な敷地一面、光で彩られている万葉夢の世界でありました。

    「 万灯籠 うしろの闇に 鹿うごく 」 西脇妙子
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by uqrx74fd | 2014-12-18 17:32 | 生活

万葉集その五百三 (晩年の額田王)

( 明日香の春の額田王  安田靭彦画伯  ) 
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(  額田王  平山郁夫画伯 )
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( 額田王   上村松篁画伯 )
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( 粟原寺跡:おうばらでらあと 額田王終焉の地か?   奈良県桜井市 )
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( 同上  画面をクリックすると拡大出来ます ) 
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( 同上  いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より鳴き渡りゆく 弓削皇子
       いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと 額田王) 
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(  同上 )
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( 額田王の念持仏か?  石位寺 奈良県桜井市  朝日新聞2013,10,10 )
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万葉女流歌人の中で圧倒的な人気を誇る額田王(ぬかだのおほきみ)。
1300年を経た今も多くの人を引きつける魅力の秘密は何なのでしょうか。

彼女の生涯について文献に残る記録は極めて少なく、日本書記の
 「 額田王の出自は鏡王という人物の娘であり姫王とよばれる身分であった。 
その経歴は、初めて天武に娶られて十市皇女を生んだ。」という記述と
額田王作とされる歌12首のみです。( 長歌3首 短歌10首うち1首重複)

父親の「鏡王」とはいかなる人物か? 母親は? 生没年は? 容姿は? 
すべて謎。
残された歌や添え書きから読み取ることができるのは

1、天智、天武天皇に寵愛されるほど魅力のある女性であった。
2、詠まれた歌はスケールが大きく、色彩感、表現の彩りが豊かであり、
  一種の神秘性が感じられる。
3、斉明、天智、天武に近侍し、天皇の御心を歌にして伝える、御言持ちの役割を
  果たしていた。
4、天武と娘まで生(な)したのに、のち天智の後宮に入った。
5、壬申の乱後、天智の子、大友皇子(戦死)の后となっていた娘十市皇女と共に
  天武天皇の下で静かに余生を過ごし歌の世界からも離れていた。
6、娘十市皇女に先立たれたが、孫、葛野王は健やかに成長した。
7、63~64歳の時に最後となる歌2首を詠い、その後生涯を終えた?

などでしょうか。

678年、余生を静かに過ごしていた額田王のもとに歌が届けられました。
贈り人は持統天皇吉野御幸にお供していた弓削皇子(ゆげのみこ)です。
( 天武天皇第6皇子、当時24歳 )

「 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の
     御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                  巻2-111 弓削皇子 (既出)

  ( 古(いにしへ)を恋い慕う鳥でしょうか。
        目の前の鳥が弓絃葉茂る泉の上を今、あなたさまの方に向かって
        鳴き渡っていきましたよ )

調べ美しく格調高い名歌です。
「御井」は 聖なる泉

弓削は天武と大江皇女との間に生まれた皇子。
持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、他の諸皇子に厳しくあたる
治世下にあって、人一倍不安と哀愁を感じて生きなければならない運命でした。

彼は天武在世中、天皇が額田王と共に吉野を訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより時代の移り変わり、新旧交代する
自然のあり方に感慨を示したものと思われます。
従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

ちなみに「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれたトウダイグサ科の常緑高木で、
春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名があります。

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
     けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                     巻2-112 額田王 (既出)

  ( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
    丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう )

ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があり、弓削皇子の気持ちを
理解したことを伝えるとともに、第三者に誤解されないよう、十分に配慮が
なされている返歌です。
弓削皇子が現世を悲観し天武帝華やかなりし頃を懐かんでいると持統天皇の
耳に入ったらと為にならないと用心に用心を重ねたのでしょう。

弓削は歌に添えて苔生した松の枝を切り取って贈っていたので
王はさらに一首、お礼の歌を詠みました。

「 み吉野の 玉松が枝は はしきかも
   君が御言(みこと)を  持ちて通(かよ)はく 」 
                           巻2-113 額田王

 ( み吉野の玉松の枝は まぁなんといとしいこと。
      あなたのお言葉を持って通ってくるとは )

「玉松」は松の美称、「はしきかも」は「愛しきかも」で いとおしい。

玉松が枝を弓削の皇子にみたて、孫のように愛おしんだ気持ちを表しています。
しばらく歌の世界から遠ざかっていたにもかかわらず、その力量は衰えず
流石と感心させられる二首の歌です。

そして、残念ながらこの歌を以て額田王は万葉から姿を消すことになります。
まことに余韻を持った退場。
まだまだ詠って欲しかったのに!

伊藤博氏は
「 額田王は時に悲しみにくれることがあっても、晩年、悠然と心静かに
  日を送っていたのではなかろうか。
  それは,かっての時代、一世を代表する女流歌人であったことからの
  自信と満足に由来するのであろう」と述べておられます。 (万葉集釋注)

彼女は一体いつ、どこで生涯を終えたのでしょうか?

JR、近鉄桜井駅から「かぎろひの丘」で有名な大宇陀の方に向かい、舒明天皇陵、
鏡王女の墓を通り過ぎて約10㎞。
小高い丘の上に粟原寺跡(おうばらでらあと)があります。
神武天皇東征神話の地とも伝えられている由緒あるところです。

この寺には、
「中臣大島(なかとみのおおしま)という人物が草壁皇子(天武、持統の皇子)追悼のために建立を発願し、それを実行したのは比売額田(ひめ ぬかた)」
という記録が残ります。
それ故、この場所こそ額田王が晩年を過ごし、生涯を終えたと唱える人もおり、
弓削皇子と取り交わした歌の碑が立てられています。
また近くの石位寺(住職不在、仏像を保存する建物のみ)の仏像が額田王の
念持仏であったとも。

いずれも真偽のほどは定かではありませんが、人ひとりいない廃墟跡に立つと
往年の額田王の姿が目に浮かぶようです。

どのような顔をしていたのか?
眼を閉じると安田靭彦の「飛鳥の春」上村松篁、平山郁夫の「額田王」が
次々と目に浮かび、遠くから聞こえてくる会話は井上靖の「額田女王」の場面。
これらの方々が後世に与えた影響は大なるものがありますが、
一人で想像の翼を膨らませ、自分なりのイメージを頭に描くことも楽しいものです。

   「 天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
        もちろん ぼくにはその朝の深さを知るすべはない
        だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
        ぼくはきみに逢うことはなかっただろう
        その時
        きみは 髪にムラサキの花をさして立っていた  - - 」
                                  ( 秋谷豊 額田王より )

       「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
                   野守は見ずや 君が袖振る 」 
                              巻1-20  額田王

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by uqrx74fd | 2014-11-21 07:18 | 生活

万葉集その五百二 「熟田津(にぎたづ)の船乗り」

( 額田女王  井上靖  新潮文庫  挿絵 上村松篁 )
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( 古代の船  国立歴史民俗博物館の暖簾 )
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(  同上 )
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 熟田津 堀江湾 後方 興居島(こごしま)  愛媛県松山市
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( 道後温泉    同上 )
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  額田王  熟田津  小山 硬(かたし)  奈良県立万葉文化館蔵 
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 祈り  石川 義(ただし)  同上 
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(  月と海  yahoo画像検索 )
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661年正月6日のことです。
長年親交があった百済が唐、新羅の連合軍に首都を占領され我国に援軍を求めてきました。
大和朝廷はその要請に応じ、68歳の斉明女帝を総帥とする士官、兵士,水主を含む
乗員総数27000人といわれる空前の規模の軍隊とそれを運ぶ400隻の船を
難波津から出航させます。

まさに国を挙げての戦い。
中大兄皇子をはじめ実弟大海人皇子、さらに後宮の女性も引き連れての旅は
さながら朝廷が移動した感があります。

筑紫に向かう途中の1月14日、一行は伊予の熟田津(現在の道後温泉あたり)に
到着し約2カ月余り滞在しました。
老齢の女帝の疲れを癒し、大海人皇子の妃、大田皇女が船上で大伯皇女を
出産したことによる療養、さらに不足していた兵士、水主を募集し船団を整えるなどに
時間を費やしたようです。

温泉でゆっくり英気を養っている間に万端の準備が整い、いよいよ出軍。
全軍勢揃いの中、額田王が天皇の意を汲んで詠います。

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」   1-8 額田王 

( 熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り
 月も出、潮の流れも丁度良い具合になった。
 さぁ、今こそ漕ぎ出そうぞ )

月光のもと、波風に黒髪を靡かせながら朗々と詠いあげる額田王。
威厳と力強さ、そして気品あふれる万葉屈指の名歌です。

数々の賛辞が呈されていますが、代表的なものを列挙してみます。
まずは直木孝次郎氏の簡易にして的確な評からです。

『 港の奥深く、帆に風をはらませて粛然と控えている多くの軍船。
「熟田津に船乗りせむと」と情景の描写にはじまり、
「月待てば」と星のきらめく空を仰ぐ。 
そこで一転して「潮もかなひぬ」と視線を足元の海に移し、
最後は斉明をはじめ乗り組みの人々に向かって「いまは漕ぎいでな」と詠いおさめる。
起、承、転、結の骨法にかなった見事な構成である。
空から海への転換がすばらしく、歌の格と幅を大きくしている 』
                            (額田王:吉川弘文館より)

伊藤博氏 (万葉集釋注 集英社文庫)

『 船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団の心のはずみの上に
  発せられたこの歌には、息をのんで勢揃いをする宮廷集団を一声のもとに
  動かす王者の貫録がみなぎっている。
  人々は、これを天皇の声と聞いたであろう 』

下田 忠 氏  (瀬戸内の万葉,桜楓社)

『 結句の「今は漕ぎ出でな」の「な」という強い勧誘の意が、全軍に向かって
 呼びかけるような大きな語気をもち、待ちに待って遂に出航の時を迎えた時に
 発した強い声調に、堂々たる風格が感じられる。
 東方には満月、月光にきらめく満潮の海原には黒々とした大船団。
 その出航の様は言語に絶する壮観だったであろう.』

変わったところでは折口信夫氏の説

『 船乗りと言うのは、何も実際の出航ではありません。
  船御遊(ふなぎょいう)というといってよいでしょうが、
 宮廷の聖なる行事の一つで船を水に浮かべて行われる神事なのです。- -
 女帝陛下には聖なる淡水、海水を求めての行幸がたびたび行われていたのです。』
                 
( この説については土屋文明、山本健吉、池田弥三郎、多田一臣が賛意を示しているが
  現在では受け入れられていない )

さて、このように高い評価を得ている歌ですが、思わぬところで論争が起きます。
潮の干潮は1日に2度あり、潮流の方向も2度変わる。
それなのに何故昼間の満潮と潮流の西への流れのときに出航しないのか?
という議論です。

梅原 猛氏は次のように述べています。

『 漁夫といえども夜の海は避ける。漁夫は朝、海へ行き、夜、海から帰る。
  船の旅も同じである。
  海の旅はもちろん昼、夜は港に泊まって船は休むのである。
  遠洋航路以外の旅は最近までそうであり、ディーゼル機関を備えた今でさえそうである。
  まして昔、光のない暗い夜に、何を好んで航海に出るのか 』
                                  ( さまよえる歌集 集英社 )

『 昔の航海に夜船は絶対不可能 』  ( 金子元臣 万葉集評釈)

『 古代の船は船底が扁平だったので、潮が引くとそのまま千潟の上に固定される。
 出発は月が出て潮が満ちて来るまで、つまり、船が浮上するまで不可能だった。』
                                  ( 日本古典文学全集 万葉集 小学館)
その他

『古代の人間の活動するのは昼間、夜は神の世界で魑魅魍魎が活動するので
恐れられていた。従って夜の航海は不可能 』 などの意見があります。

それに対して直木孝次郎は下記のように述べておられます。(夜の船出,塙書房要約)

『 「S・H・ブチャー著 ギリシヤ文明の特質」にギリシャの多島海(エーゲ海)では
  海の微風は毎朝10時におこり、日没におよんで凪ぎ、午後11時頃に陸から微風がおこる
  「オディッセイア」のなかには、この陸風を利用した夜の船出の話がある
  と記されていた。
  エーゲ海で陸風海風が交替して吹くなら瀬戸内海でもそうかもしれないと思って、
  それからは夜吹く風の方向を注意するようになり、どうやら夜は陸風が海の方向に
  吹くらしいことに気が付いた。

  夜の船出のすべてが多島海の夜の陸風によるのではないが、帆を使用するように
  なってから船人にとって大事なのは風で、風向きさえよければ夜を恐れず船出する。
  わが瀬戸内海の船人が、夜の陸風を利用しなかったとは思われない。
  清らかな陸風を帆いっぱい受けた船が、つぎつぎにしずしずと港を乗り出してゆく
  光景を、わたしは思い描くのである。 』

更に益田勝美氏は詳細な科学データーで直木論文の裏付けします。

 『 直木さんが注目した海陸風というのは、昼間は海から陸へ向けて風(海風)が吹き
   夜はそれと逆に陸から海へ風(陸風)という特殊地形の局地風のことです。
   日本気候環境図表によると冬季、日中に三津浜で帆を上げて出航し西進しようと
   しても季節風というべき西北西か西風が吹いていて、まともでは船は吹き戻されてしまうでしょう。

   出港地三津浜とその前面の興居島(ごごしま)の間には、この陸風という特別な風があり
   夜になると海に向けて吹きます。
   この海域の潮流、気象を知悉していた古代の海人部にとっては、いまさらという
   ほかない知識だったかもしれません。
   但し、この風は季節風なので正月から3月までの時期を限定して直木説を支持したい。
   さらに、興居島の線に出ると、そこまでの追い風航法から、この季節の
   西北風か西風を用いて横風帆走法に転じて進むのがよいでしょう。』
                                 (「記紀歌謡」ちくま学芸文庫)

多くの議論がなされた夜の船出。
現在では直木、益田説が主流となりました。
それにしてもこの歌1首のために分量にして数冊にも及ぶ研究がなされていることに
ただただ驚くばかりです。

     「 道後の湯 浸りて偲ぶ 額田王 」 筆者

ご参考1.

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば --」 の歌に下記のような
  注記があります。

『 山上憶良の「類聚歌林」によると、
  舒明天皇の9年12月、天皇と皇后(斉明)は伊予の温泉の離宮に行幸されたことがある。
  天皇崩御後、天皇に即位された斉明は時を経て新羅遠征の為海路西へ出発、
  伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の離宮に停泊した。
  女帝は往時夫、舒明天皇と共に見た風物がまだ残っているのをご覧になり
  たちまち懐旧の思いにうたれ、御歌を詠んで哀傷(かなしみ)を新たにされた。
  つまり、この歌は斉明天皇の御製である。
  額田王の歌は別に4首ある。』

  然しながらこの歌はどう読んでも哀傷(かなしみ)を詠ったものとはいえません。
  山上憶良が指摘している天皇が詠まれた歌は別にあり消失したのではないか? 
  と考えられており、作者が斉明天皇であるという説は現在少数派となっています。

ご参考2. 

熟田津とはどこか

 松山市三津湊、松山北部の和気の浜、堀江など諸説あります。
 昔は海が今日よりずっと内陸まで続いていたと考えられており、
 道後に近い堀江説が有力です。

                            以上















                            
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by uqrx74fd | 2014-11-14 07:10 | 生活

万葉集その五百 (遣唐使と鑑真)

( 遣唐使船 山の辺の道出発点 海柘榴市(つばいち)の川のほとりで 奈良、桜井市)
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( 遣唐使の航路  同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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( 万葉の遣唐使船  高木隆著  教育出版センター刊 )
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( 復元された遣唐使船  ウイキペディアより )
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( 唐招提寺  奈良市 )
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( 鑑真和上像  唐招提寺 )
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( 御影堂(みえいどう)の襖絵 山雲涛声 東山魁夷画伯  唐招提寺 )
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( 同上  揚州薫風 黄山暁雲 )
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( 東大寺戒壇堂 )
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( 遣唐使船切手 )
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遣唐使は630年、舒明天皇の時代に始まり894年菅原道真の建議によって
廃止されるまで264年間の間に16回派遣されています。(回数については諸説あり)
推古天皇600年に始まった遣隋使を引き継ぐもので、当初は船2艘、乗員240~320人の
編成とされましたが奈良時代に入ると船4艘、最大600人近くの規模に膨れ上がり
費用も莫大なものになったようです。

また、長安への道は遠く、海路から陸路へと続く中で暴風雨や疫病による死者も頻出し
生還率50%以下という多大な犠牲を伴う命懸けの旅でもありました。
それでも派遣を続けたのは高度の文明や先進技術並びに仏教の経典、文物等の収集が
我国の発展に大きく寄与すると期待されたからです。

派遣された人材は将来国を背負う優秀な者たちが選ばれ、多くの学問や技術を
身に付けて帰国した人達は建国の礎となって多大な貢献をしました。
また、もたらされた制度や文化を盲目的に採り入れるのではなく、国情に応じて
取捨選択し、我国独特の文化、精神に適合できるものを作り上げる工夫もなされています。

留学生の中では僧旻(そうみん)、高向玄理(たかむこのげんり)、山上憶良、吉備真備、
南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、玄昉(げんぼう)、さらに遣唐使人と共に
来日した鑑真などは教科書でも採りあげられ良く知られていますが、歴史に残らない
多くの留学生の活躍も大なるものがあったことは言うまでもありません。

万葉集でも遣唐使に関する歌が多く残されていますが、ここでは752年に
第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の波乱万丈の生涯を辿ってみたいと思います。
主人公、清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
まずは、遣唐使出発に先立ち旅の無事を祈って皇太后が主催された神祭りの時の歌です。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                              巻19-4240  光明皇太后

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

皇后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠る力強い歌です。
当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なものであったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

それに対して清河は次のような歌を返します。

「 春日野に 斎(いつ)く みもろの 梅の花
     さきて あり待て 帰り来るまで 」 
                           巻19-4241 藤原清河

( 春日野にお祭りしている みもろの梅の花よ
 このまま咲き栄えてずっと守っていて下さい。
 私が帰ってくるその時まで )

「斎(いつ)く」: 神を祀るために盛り土をして祭壇を置くこと。
「みもろ」は: 木を植えて神を招きおろす場所で藤原氏の守護神、春日大社の前身。

皇后、藤原一族の繁栄を祈ったもので梅の花は皇后を暗示しており、
「さきて(咲きて)」 は 「 栄えて」の意を掛けています。

さらに、孝謙天皇は大使が出航するにあたって無事任務を果たして帰還することを願い
歌と酒肴を携えた使者を難波に遣わされました。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                          巻19-4264 孝謙天皇(既出)

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

  そなたたちの 四つの船 
  その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
  すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
  この霊妙な美酒は
  その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「 ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに) 」と云われたことによるそうです。

この歌は宣命形式となっています。
宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言い、
使者、高麗福信(こまの ふくしん)に口頭で読みあげさせ次の反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」      
                         巻19-4265 同上

( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛(へいはく)の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る気持ちと共に、大なる期待をこめた歌です。

このように多くの人に祝福されて無事唐に到着した清河は容姿端麗、礼儀正しく
その優雅な振る舞いは唐の玄宗にいたく愛されたそうです。
2年間の滞在を経て任務を終え、753年、先任の阿倍仲麻呂と共に帰路につきますが
運命の神は清河に過酷な試練を与えられ人生が反転します。
航海の途中暴風雨に遭い、何と! 安南(ベトナム)まで流されてしまったのです。
必死の思いでようやく陸地に辿りついたものの乗員はすべて原住民に殺害され、
無事逃げおおせたのは清河一人のみ。
艱難の末2年掛かりで再び長安に辿りつきます。

一時は死亡したとの情報を受けていた大和朝廷の首脳は痛く心痛し、759年に
迎えの船を送りますが、折悪く安禄山の乱に遭い唐の国内が戦火で混乱していたため
またもや帰国はかないません。
遂に唐土で骨を埋める決心した清河は玄宗に仕え、現地の女性と結婚して
喜娘(きじょう)という娘をもうけ、73歳で生涯を終えました。

まさに波乱万丈の人生でしたが、その後、娘は父の故郷に帰ることを熱望し、
15歳の時、遣唐使と共に帰国するも、これまた暴風雨で難破、命からがら天草へ
流れ着いたとのことです。
そして、無事念願の都に到着したようですが、その後の生涯は不明。
恐らく藤原一族に引き取られたものと思われます。

「 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも 」   阿倍仲麻呂 古今和歌集

( 大空はるかに振り仰いで見ると月が皓々と照っている。
  その昔、春日の三笠の山に出た月と同じ月が )

「天の原」 広大な天空 
「ふりさけみれば」 はるかに みはるかすと

717年吉備真備、玄昉と共に入唐した仲麻呂も玄宗皇帝に仕えたのち
藤原清河と同時に帰国しますが途中で暴風雨に遭い難破、已む無く長安に戻り
在唐54年でかの地に没するという清河と同じ運命を辿りました。

遥か離れた唐で見る月。
「私が奈良を出発した時に春日の三笠山で振り仰いだ月もこのように美しかった」
と切なる望郷の想いに駆られた1首です。

 「 鑑真の 寺に来ている 夏つばめ 」   西畠 匙(さじ)

6世紀の初めに伝来した仏教は、奈良時代、国家鎮護のための学問として
大なる発展を遂げましたが、2世紀を経た後も僧尼を正式に認定する受戒者が
存在せず、その確保が急務とされていました。
受戒とは師3名と7人の証明師からなる「3師7証」とよばれる試験と資格認定の儀式で、
古代東アジアでは受戒の手続きを経た人しか正式な僧と認められなかったのです。
そのため日本で僧と認定されていても唐では正式な僧と認められず、学識を
得ようとしても色々な不都合が生じていました。

加えて我国では8世紀初めに公地公民制が崩れ、重税に耐えられない農民が安易に
出家したため僧尼が急増します。
納税や兵役を免除されていたため仏門は駆け込み寺となってしまったのです。

仏教者としての基本的な生活作法を身に付けていない僧尼の増大は
堕落した目にあまる行為を頻出させ大きな社会問題となります。

そのような背景から733年、国は僧の人員を制限する必要に迫られ、
興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照を唐に派遣し受戒師を招聘することにしました。
両僧は唐で戒を受けたのち中国各地に律師を求めて歩き、入唐以来実に9年後の742年
遂に揚州、大明寺で高僧、鑑真に出会います。

二人の僧の懇請と熱意に渡航を決意した鑑真。
然しながら唐国は貴重な人材の流失を惜しみ許可しません。
それでも鑑真の布教の決意は固く遂に密航。
何度も航海を試みるも難破に見舞われ遂に63歳で失明。
にもかかわらず、強固な意志は揺るがず藤原清河が帰京する4隻のうちの1つに乗船し
遂に754年奈良の都に辿りつくことが出来ました。
初出航以来、実に12年目、6度の試みの末の筆舌に尽くしがたい苦難の道でありました。

鑑真和上は受戒に十分な14人の僧、3人の尼に加えて様々な技能を持つ者
24名を一緒に引き連れてきました。
寺院建築、仏師、室内装飾品、画師などもいなければ寺は成り立たないのです。

入京後、東大寺に住み、聖武太上天皇,光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け
初めて大仏殿の西に常設の戒壇院を作り、日本の受戒制度を確立したのち
新田部親王(にいたべのみこ)の旧宅を賜って寺とし、唐招提寺と名付けて
戒律の道場としました。
日本という国は、国家宗教制度の根幹にかかわる僧侶資格に欠かせない受戒と云う
制度を鑑真という一人の僧にすべてを委ね、和上もそれに応えて制度を確立すると共に
豪華絢爛たる仏教文化の華を咲かせてくれました。

今日、鑑真和上の像の前に立つと、穏やかな顔の内に何物にもゆるがない鋼鉄のような
強い意思が込められているように感じられます。
唐国内に留まりさえしておれば名僧として遇され、国家と人々の手厚い敬慕の中で
何の不安もなく一生涯を終えることが出来たのにもかかわらず、
「空しく過ぐるなし」の言葉通り、あえて死以上の悲惨な運命を選んだ和上。
その高邁な使命感と高潔な人格にただただ頭を垂れるばかりです。

  「 若葉して 御目の雫 ぬぐはばや 」 芭蕉

                              ( 雫(しづく) は涙の意)
唐招提寺を訪れた芭蕉が 「盲(し)ひさせ給う鑑真和尚の尊像を拝して」
辛苦の歴史に思いをいたし奉げた句。
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by uqrx74fd | 2014-10-31 06:34 | 生活