カテゴリ:生活( 145 )

万葉集その四百八十八 (憶良の天の川)

( 仙台七夕祭り )
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( 同上 )
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( 着物のような絵柄 上品にして繊細 )
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( 同上 )
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( 音楽の上達を願って )
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( 芸術的な飾り付け )
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( 護国神社の七夕祭り  青葉城址公園内 )
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( 渦巻銀河  宇宙博  幕張メッセ )
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(  天の川  同上 )
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「七夕」はなぜ「たなばた」と読むのでしょうか?
  折口信夫氏は
『 太古の昔、季節が夏から秋に変わる頃になると、
一人の少女が選ばれて人里離れた水辺に作り架けられた「棚(たな)」の中で
「機(はた)」を織りながら神を迎えるという風習があった。
この「棚」と「機」が「たなばた」の語源である 』 と説いています。

 この風習と奈良時代に渡来した中国の裁縫の上達を願う「乞功奠(きつこうでん)」とが
 結び付き、さらに牽牛、織女の恋の物語が結合して壮大な「天の川伝説」が生まれた
 そうです。

 日本書紀の記述に 「692年7月7日、持統天皇が公卿を集めて宴を催した」、
 「734年7月、聖武天皇が相撲をご覧になったあと文人に命じて
  七夕(しちせき)の詩を詠ませ、禄を賜った」とあり、当初は宮中の行事であったことが窺われます。

万葉集には132首もの七夕歌が残されていますが、型破りなのは山上憶良。
天の川を天地創造の時から説き起こし、締めくくりは
「年に1度とは言わず毎晩寝たいものだ」と、まるで自分事のように詠っています。

まずは訳文から

「 天と地とが別れた遠い昔から  彦星は織女と
  天の川で 離れ離れになって 向かい立ち
 想う心の中は いつも安らかでなく
 嘆く心のうちも 苦しくてならないのに 
  広々と漂う青波に隔てられて 姿は見えはしない
  はるかに棚引く白雲に仲を遮られて 嘆く涙は涸れてしまった

  あぁ、こんなにして溜息ばかりついておられようか
  こんなにして 恋焦がれてばかりおられようか
  赤く塗った舟でもあればなぁ
  玉をちりばめた櫂でもあったらなぁ

  朝凪に水を掻いて渡り
  夕方の満ち潮に乗って漕ぎ渡り
  天の川原に あの子の領巾を敷き
  玉のような腕をさし交わして
  幾夜も幾夜も寝たいものだ

  七夕の秋ではなくても 」    
                        巻8-1520 山上憶良

(訓み下し文)

「 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ
  いなむしろ 川に向き立ち 
  思ふそら  安けくなくに  
  嘆くそら  安けくなくに  
  青波に 望みは絶えぬ
  白雲に 涙は尽きぬ

  かくのみや 息づき居(を)らむ
  かくのみや 恋ひつつあらむ

  さ丹塗りの  小舟もがも
  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

  朝凪に い掻きわたり
  夕潮に い漕ぎわたり

  ひさかたの 天の川原に
  天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

  真玉手(またまで)の 玉手さし交へ
  あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

  秋にあらずとも  」      
                      巻8-1520  山上憶良


( 反歌 )

「 風雲は 二つの岸に 通へども
      我が遠妻の 言ぞ通はぬ 」   巻8-1521 同


( 風や雲は天の川の両岸に自由自在に行き来するけれども
  遠くにいる我妻からは 何の便りもない )

長歌を1行づつ訓みくだいてまいりましょう。 (内は訳文)

 彦星は織女(たなばたつめ)と 天地の別れし時ゆ 

       ( 彦星は織女と 天地が別れた時から )

        彦星=牽牛

  いなむしろ 川に向き立ち 

       ( 天の川をへだてて向き合って )

「いなむしろ」は川の枕詞であるが掛かり方は未詳

思ふそら  安けくなくに  

      ( 心中 安らかでないのに )

          「思ふそら」の「そら」は空と同根で心の内
          「安けくなくに」 安らかでないのに

嘆くそら  安けくなくに

      ( 嘆くこころのうちも 苦しくてならないのに ) 
 
青波に 望みは絶えぬ

    ( 天の川の青波に隔てられて 眺望は絶えた)

    「望」は希望ではなく眺望、

  白雲に 涙は尽きぬ

   ( 白雲に遮られて 涙も涸れてしまった )

ここまでが第3者の立場、以下から牽牛の立場で詠う。

  かくのみや 息づき居(を)らむ

   ( このまま 溜息ばかりついておられようか )

    「かくのみや」    このようにして 
    「息づき」      溜息をついて

  かくのみや 恋ひつつあらむ

   ( このようにして 恋焦がれてばかりおれようか )

  さ丹塗りの  小舟もがも

   ( 朱く塗った 舟でもないものか )

     「さ丹塗の舟」    美しく立派な舟
     「もがも」       ~が欲しいものだ

  玉巻の  真櫂(まかい)もがも

          ( 珠玉をちりばめた 左右の立派な櫂も欲しい )

 朝凪に い掻きわたり


         (朝凪に 水をかき渡り )

  夕潮に い漕ぎわたり

     ( 夕の満ち潮に乗って 漕ぎ渡り )

  ひさかたの 天の川原に

         ( 天の川原に)

         「ひさかた」は天の枕詞
 
 天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き

   ( 空を飛ぶという 領巾(ひれ)を敷いて )

    「領巾」   頸から肩にかける装身用の布

真玉手(またまで)の 玉手さし交へ

     ( 玉のような美しい腕を 枕にして )

 あまた夜も 寐(い)も寝てしかも

     ( 一夜といわず 幾夜も幾夜も 共寝したいものだ )

 秋にあらずとも        

( 七夕の秋でなくても )     巻8-1520  山上憶良

        
729年7月7日 大宰府長官大伴旅人邸での宴で披露されたもの。
作者は当時70歳、老いてもまだまだ意気盛ん。
お若いことです。

裁縫の上達を願って行われた中国の行事「乞功奠(きつこうでん)」では
織女星を望む庭に五色の糸や針を供えていましたが、我国では
拡大解釈されて様々な願い事を星に祈る行事になりました。
さらに、江戸時代、庶民の間で手習いが広まると色とりどりの短冊に願い事を書いて
笹竹に飾るようになり、現在に至っております。
七夕祭は7月7日に行う地方も多いようですが、本来は陰暦7月7日(8月上旬)
秋の行事です。

今年の立秋は8月7日。
この時期になると夜空が澄みはじめ、星も清(さや)かに見えることでしょう。

「 七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ) 」 芭蕉
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by uqrx74fd | 2014-08-08 06:49 | 生活

万葉集その四百八十五 (月夜の船出)

( 春日なる三笠の山に いでし月かも )
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( 古代の船  海の博物館 )
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( 霧の立つ  北野治男 星を頼りに波濤を越えて  奈良万葉文化館収蔵 )
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( 日本丸 )
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( 同上 )
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( 日本丸の天井絵 )
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( 海王丸 後方日本丸  帆船日本丸記念財団刊 日本丸より)
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( 日本丸  同上 )
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( 海王丸  同上 )
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日本書紀、続日本紀によると我国は646年から779年までの130余年の間に新羅へ
27回の使者を遣わし、相互の交流に努めながら新しい文物や技術を採り入れていたそうです。

当時の新羅は唐からもたらされる文明を背景にした先進国。
四方を海に囲まれた我国にとっては貴重な情報源であり、新羅も唐との関係が
悪化した場合に備えて後盾を確保するという思惑もあったのでしょう。

難波津を出航した使者は瀬戸内海の沿岸を辿って九州に出、壱岐、対馬から
目的地を目指しましたが、何しろ木造帆船の上、海図は不完全、航海術も未熟。
潮の流れや風向きを読む水主(かこ)の手腕に頼らざるをえません。
昼は経験と勘を頼りにし、漆黒の闇の夜は船首に篝火を掲げて潮の流れと追い風に乗り、
星の位置で方向を確認しながら進んで行くのです。
よほどの胆力の持ち主ならいざ知らず、初めて夜船を経験する人達は恐怖で
身もよだつような心持だったことでしょう。

次の3首の歌は736年、遣新羅使が瀬戸内海を経て長門に停泊した後、九州に向けて
出航する際に詠われたもので、長門は現在の広島県呉市南の倉橋島とされています。

「 月読みの 光を清み 夕なぎに
   水手(かこ)の声呼び 浦み漕ぐかも 」  巻15-3622 作者未詳


( 月の光が清らかなので 夕なぎの中 水子たちが声かけあって
 浦伝いを漕ぎ進めている
 さぁ、出発だ )

月光の中、夕凪の海に乗って船が走り始めている
声を掛け合いながら忙しそうに動き回る水手。
月夜の船出の幻想的な場面が彷彿され、歌の詠み手もまだ風情を愛でる気持ちの
余裕があったことが窺われます。

「 山の端(は)に 月傾(かたぶ)けば 漁(いざ)りする
   海人の燈火(ともしび)  沖になづさふ 」 
                       巻15-3623 作者未詳


( 山の端に月が傾いてゆくと 魚を捕る海人の漁火が
  沖の波間にちらちらと 漂っているのが見えるなぁ )

月が山の端に傾いてゆくにつれて、光が次第に乏しくなってゆく。
皓皓とした光の中で今まで目立たなかった漁火が、ちらちらと浮きだってくる。
暗闇の中で次第に心細くなってきた作者。
中西進氏は
『「なずさふ」は本来「難渋する」の意だが、たゆとう波浪の中で漁火のゆらめきが
 明滅しつつ見えていると表現した点価値がある。』と評されています。 (鑑賞日本古典文学 万葉集)

「 我のみや 夜船は漕ぐと 思へれば
     沖辺(おきへ)の方に 楫(かぢ)の音すなり 」 
                       巻15-3624 作者未詳


( 夜船を漕いでいるのは我々だけかと思っていたら
 沖の辺りでも櫓を漕ぐ音がしているよ )

心細さが募ってくる中、闇に包まれた辺り一帯櫓を漕ぐ音
ほっと一安心する心持。

この3首の連作は
清らかな月の光を浴びながら岸を離れて行く船。
漆黒の闇の中を点滅する漁火。
遠くから聞こえてくる楫音。
視覚と聴覚を交えて時間と情景の推移を美しく詠い、旅行く者の旅情と
哀感を感じさせる秀歌です。

それにしても何故危険を冒してでも夜に出航したのでしょうか。
当時、夜は神の世界であり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈するものと
畏れられていました。
そうしたタブーを破っての船出について直木孝次郎氏はその著「夜の船出」で
「 瀬戸内海は季節により船出に適した陸からの順風が夜にしか吹かない時期が
あったためだろう」
とされていますが専門家の間では侃々諤々の議論がなされています。
ともあれ生還率50%と推定される危険な外洋の船旅を厭わず、貪欲なまでに
我国の向上を目指した古代の政治家。
その努力と勇気が建国の礎になったことは疑うべくもありません。

「 真帆(まほ)片帆 瀬戸に重なる 月夜哉 」 正岡子規

7月21日は海の日。
行き交う船を眺めながら古き時代に思いを馳せるのも楽しいことです。
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by uqrx74fd | 2014-07-18 07:27 | 生活

万葉集その四百八十四 ( 天の川伝説 )

( 平塚七夕祭り )
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( 同上 )
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( 同上)
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( 短冊に願いをこめて )
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( 可愛いい牽牛、織女 )
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( 歌舞伎 )
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( 切り絵 )
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( 竹取物語 )
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( 猿蟹合戦 )
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( ゆるキャラもあります )
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夏の夜に繰り広げられる壮大なロマンス-天の川伝説は中国伝来のものでありますが、
銀河にまつわる神話は世界各地でも多く伝えられています。
例えばフインランドでは
「 昔、ズラミスとサラミという相愛の夫婦がいた。
  ところが死後別々の星になってしまった。
  二人は再会しょうと天上界のかすかな光の靄(もや)を集め、千年もかけて
  天の橋を完成し、両端から渡ってシリウス星のところで出会い、
  永遠に星空の中で添い遂げているのです 」 と。

また、ギリシヤ神話は
『 女神ヘラの乳房を赤児のヘラクレスが強く吸ったので、
ヘラが赤児を引き離すと乳がほとばしって「ガラクシアス」(乳の川)ができた。
天文学上は銀河、英語ではミルキィーウエイ(milky way) とよばれる 』とか。

天の川を天の道とみる国々もあります。

エジプト神話は悪神セトに追われた女神イシスが逃げる時に落としていった「麦の穂の道」 
北欧神話は戦死した勇者が神々の住む天国へ向かう「馬車の道」
スウェーデンは冬の夜に亡魂が行く「冬の道」、
フィンランドでは亡霊が鳥となって飛ぶ「鳥の道」、
アメリカ・インディアンは「魂の道」  等々。

翻って我国で万葉集に詠われている天の川は132首もありますが、
それは遠い遠い星の国のお話ではなく、自分たちの恋を天の川に託して詠う
現実の世界の物語なのです。

「 天の川 瀬を早みかも ぬばたまの
   夜は更けにつつ  逢はぬ彦星 」
                   巻10-2076 作者未詳


( 夜がもう更けてゆくというのに、彦星(牽牛)はまだ織女に逢えないでいるらしい。
  天の川の川瀬の流れが早いためだろうか  )

天の川に雲がかかり彦星(牽牛)が見えないのでしょうか。
詠う作者の恋人も今日は必ず訪れるはずなのにいまだに姿が見えない。
雨で川の水かさが増え、流れが早くなっているので渡る船が行きなずんで
いるのだろうか。
あぁ、夜も更けてゆく。
天の川を仰ぎながら溜息をついている女。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
           織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                           巻10-2029  柿本人麻呂歌集


( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

雲が晴れて牽牛が見えるようになった。
やっぱり牽牛と織女は今夜逢うんだ。 よかった!

地上の世界でも楫漕ぐ音が聞こえてきた。
「 私の恋しい人も間もなく」と胸を弾ませる女。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
    君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                      巻8-1518 山上憶良(既出)


( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
 ようやく、愛しいあの方がお出でになったようです。
 さぁ、さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

この歌は万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
「 紐解き設けな 」とは、なんと直截な!
天上の物語を一気に現実ものとして詠う憶良です。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                      巻10-2031  柿本人麻呂歌集


( 1年のうち逢えるのは7月7日の1夜だけ。
  待ち続けた恋の苦しさもまだ晴れないうちに
  夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく逢えた二人。
恋の時間はあっという間に過ぎてゆきます。
時よ止まれ!

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                        巻10-2050 作者未詳


( 明日からはこの私たちの寝床を払い清めたとしても
 あなたと共寝することができずに 
ひとり寂しく寝ることになるのだろうか )

別れの時がきました。
あぁ、また一人寝の寂しさを味わうことになるのかと女を抱きしめる男。
もう天の川も眼中にありません。
ただただ少しでも長く一緒にいたい二人です。

諸外国の夢の伝説に比べ我が七夕物語は正しく現実の世界。
だからこそ万葉人は思いの丈を心ゆくまで吐露することが出来たのでしょう。

「 きらめきて 銀河に流れ ある如し 」  高濱年尾
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by uqrx74fd | 2014-07-11 06:34 | 生活

万葉集その四百七十八(能登の国の歌2)

( 能登の海 )

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(義経船隠しの入江  松本清張 ゼロの焦点の舞台にもなったヤセの断崖に続いている)
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( 巌門 )
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(同上 海側から )
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( 機貝岩 )
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(  見附島、軍艦島とも )
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( 輪島 白米千枚田 )
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( 同上 )
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古代の能登半島は大和から山背(山城)、琵琶湖上水路を経て朝鮮半島に至る
交通の要衝地であり新羅からの渡来人もかなり移り住んでいたようです。

748年、越中国司大伴家持は支配地の実情調査の為、高岡の国庁を出発し
約300㎞に及ぶ巡行の旅に出掛けました。
約1か月をかけ各地の状況を把握しながら民謡など地元に伝わる歌を多く収録し、
また自らの歌も残したことから能登は都から遠く離れた鄙の地であったにもかかわらず、
当時の庶民の生活ぶりが1260余年経た後も知ることが出来ます。

万葉集は単なる歌集ではなく文化生活誌的な側面もあったのです。

「 能登の海に 釣りする海人の 漁(いざ)り火の
    光にい行く 月待ちがてり 」
                       巻12- 3169 作者未詳


( 能登の海で 夜釣りしている海人の漁火
 その光をたよりに 私は旅をして行きます 
 月の光が射してくるのを待ちながら ) 

「い行く」の「い」は強意の接頭語
「月待ちがてり」の「がてり」は 「~をしながら」

しみじみとした旅愁を感じる一首です。
漁火を目にしながら、夜道を辿る男はどこに向かっているのでしょうか。
当時の能登は中国、朝鮮、渤海国との貿易や文化の窓口で筑紫とならぶ先進国。
人の往来も多かったことでしょう。

夜釣りする海人は烏賊漁か。

「 ハ-ァ 沖で揺れてるよ
  あぁ あの漁火は
  好きなあなたの 好きなあなたの
  イカ釣る 小舟ェーヨ 」

と「漁火恋歌」を歌った小柳ルミ子さん。

いやいやこれは余談です。

次の歌は以下のような註が付されています。

「 右の歌にこんな伝えがある。 
あるとき愚かな人がいた。
持っていた斧が海に落ちてしまったが、鉄が沈んだら 
どう見ても浮かぶはずがないのに分からずにいた。
そこでまわりの者が慰みにこの歌をつくって口ずさんであてこすりに
諭したという。 」

「 はしたて 熊来(くまき)のやらに 
  新羅斧(しらきをの) 落し入れ
  わし 
  かけて かけて 
  な泣(な)かしそね 
  浮き出づるやと見む 
  わし 」 
                        巻16-3878 能登の国の歌

( 訳文)

( はしたて 熊来の海底(やら)に 新羅斧 
  そんな大事な斧を落としてしまって
  わっしょい 。 
  気にかけすぎて、
  泣きべそ かかっしゃるな。
  浮き出てくるかもしれんぞ。 
  見ていてやろう。
  わっしょい。)

 「はしたて」「熊来」(くまき)の枕詞。
 「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり。
       「はしたて」は邪神の侵入を遮るため樹枝を立ててしつらえた呪力あるもの(ひもろぎ)。
        それを道の隅(くま)、土地の境界に立てたので「熊来」に掛かるという。

「やら」  アイヌ語「ヤチ」(沼沢)に関係あるという説もあるがここでは「海の底」
「 落とし入れ 」  深くに落としこんだ
「わし」は 「わっし」と発し、「わっしょい」のような囃言葉
「かけて かけて」  心にかけて懸けて
「な泣かしそね」   「な」「そ」「~しなさるな」の禁止用語 「泣きなさるな」

 斧を海に落として浮き上がってくるのをじっと待っている男。
 周りが囃すのを真に受けてますます水面を見続けていたとは、
 なんとも滑稽な歌です。

伊藤博氏は 
「 実際には皆が必死になって探した結果ついに求め得た歓びを背景としている
のではないか?」と述べておられますが(万葉集釋注)
宴会の時に歌われた民謡だったかもしれません。

新羅斧は舶来のかけがえのない斧、
斧を落とした男は船材を伐る仕事に従事していたものと思われます。
一介の木こりが新羅風の斧を持っている。
これは家宝に等しい貴重なものだったことでしょう。


「 鳥総(とぶさ)立て 船木伐(か)るといふ 能登の島山
      今日見れば 木立茂しも   幾代 神(かむ)びぞ 」
                           巻17-4026 (旋頭歌)  大伴家持

( 鳥総を立てて神に捧げ、船木を伐り出すという能登の島山。
  今日見ると木々が茂りに繁っています。
  幾代も経たその神々しさよ。 )

「鳥総」とは枝葉がついたままの梢の部分をいいます。
人々は木を伐採した後、「鳥総」の切っ先を切り株に突きたてて
木の再生を神に祈りました。
この歌から能登は造船が盛んだったことが窺われます。

山で伐採した丸木をその場で刳りぬき、刳り船として川に流し
海辺で舷側などをつける作業をしていたようです。

なお「鳥総立て」は 「ことばの鳥総を立てる」 即ち
「言葉の再生を願う」
などのような形で現在でも使われております。

「 ほがらかに 唄ひ奥能登 遅田植 」   中山純子


ご参照

 万葉集遊楽324 「しただみのレシピ」 (カテゴリ- 動物)
  同    478 「能登の酒屋」    ( 同   生活)
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by uqrx74fd | 2014-06-01 05:49 | 生活

万葉集その四百七十七(能登の国の歌:酒屋)

( 越中五箇山菅沼集落 )
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( 同上、食事処 )
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( 輪島 白米千枚田 )
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( 輪島朝市 )
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( 同上 )
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( よしが浦温泉 下の建物はランプの宿 )
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( 能登の酒 )
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( 同上 )
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「 粕湯酒(かすゆざけ) わづかに体あたためて
       まだ六十(むつとせ)に ならぬ憶良か 」   土屋文明

古代の庶民の酒といえば粕湯酒、即ち酒の粕を湯で薄めたものでした。
山上憶良の貧窮問答歌(巻5-892) にも冬の寒い日、「粕湯酒うちすすろひて」
体を温めていたことが詠われていますが、アルコール分は近年の清酒粕(平均8%)から
推定すると湯で割って1%位でしょうか。
とても酒とは言えない代物ですが、貴族や官人、金持ちが愛飲していた濁り酒や
清酒(すみ酒)は高価で庶民には高根の花。
とりわけ清酒は濁り酒を絹布で何度も漉したものですから、さしづめ現在の
超高級大吟醸といったところか。
濁り酒や酒粕は金さえあれば容易に手に入れることが出来たようですが、
都から遠く離れた能登の片田舎にも酒屋があったようです。
どのような酒を売っていたのか不明ですが、次の歌は酒を盗もうとして
とっ捕まり,怒鳴られているドジな男を周りの者が囃したてているというものです。

(長歌訓み下し文)

「 はしたて  熊木酒屋に      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)    
  わし                
  誘(さす)ひ立て           
  率(ゐ)て来(き)なましを      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)   
  わし 」             
                   巻16-3879 能登の国の歌

(訳文)

    ( はしたて 熊来の酒蔵で 
      どやされている どじな奴(やつ)
     わっしょい
     引っ張り出して
     連れてきてやりたいんだけどなぁ。
     もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴 ) 
     わっしょい 
                              巻16-3879 能登の国の歌
(一行ごとの訓み下しと語句解釈)

「 はしたて 」 
  「はし立て」の「はし」は榊や杉、檜など霊力があるとされた木の枝のことで、
  土地の境界に立てると邪神の侵入を遮ると信じられていた一種のお呪(まじな)いです。
  当時土地の境界を「隈(くま)」といったので「熊木(くまき)」に掛かる枕詞と
  されています。

「 熊木酒屋に 」

  「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり
  「酒屋」は酒蔵 ここでは酒造りをしている店

「 真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」

    「まぬらる」 罵(ののし)ると関係がある言葉といわれ「怒鳴り倒されている」
    「奴」   どじな奴(やつ)

「 わし 」         囃言葉   (わっしょい)


「誘(さす)ひ立て」       こちらへ来るように誘い 
   
「率(ゐ)て来(き)なましを」 
   
   「率(ゐ)て」は連れてくる
   連れてきてやりたいんだけどなぁ。

「真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」  

   もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴よ

「 わし 」         わっしょい 

何人かの若者がふざけて酒を盗みに入り、店番に見つかった。
一人だけ逃げ遅れて捕まったが、店番は女だったか。
女に捕まるようではますますドジ。
と仲間で囃しています。

「 実際は仲間の若者たちが平謝りに謝って連れ出したあとの騒ぎの中での歌で
  あるかもしれない。
  昔はこの種の行為には寛大であったらしい。」( 伊藤博 万葉集釋注) 」

万葉唯一の酒屋という言葉。
当時、能登半島一帯は朝鮮と密接な関係があったので大陸の進んだ酒造技術も
伝わっていたと思われ、村人も折りにつけ酒を飲むことがあったのでしょう。

この歌は囃言葉の合いの手が二度も入り、陽気なお祭り騒ぎ。
能登に伝わる民謡だったのかもしれません。

「 いさざ網 積みて船出る 熊木川 」 南恵子

               「いざさ」はシロウオ、踊り喰いが有名
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by uqrx74fd | 2014-05-23 07:10 | 生活

万葉集その四百七十五(荒れたる都)

(平城京第二次大極殿跡)
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( 同 礎石 )
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( 大極殿鴟尾 )
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( 大極殿から朱雀門をのぞむ )
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( 大極殿前で整列する宮人 )
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(  朱雀門説明板   )
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( 復元された宮内省 )
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( 同 説明板 画面をクリックすると拡大できます )
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( 大極殿壁画  )
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740年、恭仁京遷都の詔が出された翌年、早々と平城京の大極殿解体移設、
東西の市移転、五位以上の貴族全員に対する移住命令と慌ただしく動き、
平城京は瞬く間に荒廃してしまいました。
古代、都や寺社が移転する際には、資材の有効活用と費用節約のため
建物を解体、再使用していたので、その跡地は草茫々、荒れ放題となったのです。

旧都には東大寺、興福寺、元興寺、春日大社などの大寺社。
住人は僧侶、神官、農民、そして官人たちの女子供、老人。
居住施設が整わないので官人たちは単身赴任だったようです。
恭仁京は奈良と京都の境目にあり、徒歩で日帰りが可能な距離でしたが、
宮仕えの悲しさ、そう簡単に帰宅する訳にもいかなかったことでしょう。

「 紅(くれなひ)に 深く染みにし 心かも
   奈良の都に 年の経ぬべき 」
                       巻6-1044 作者未詳


( 紅に色深く染まるように深く馴染んだ気持ちのままで、私はこれから先
 この奈良の都で歳月を過ごせるのであろうか )

都振りの朱色の建物。
颯爽とした貴公子や官人の佇(たたず)まい。 
華やかな衣装をまとった女官たち。
喧噪たる市の賑わい。
職人たちの槌打つ音。
どれもこれもみな消えてしまった。
深く染みこんだ昔の面影を抱いたまま、これから先を生きてゆかなくてはならないのか。

残された老人のしみじみとした感慨です。

「世間(よのなか)は 常なきものと 今ぞ知る 
  奈良の都の 移ろふ見れば 」  巻6-1045 作者未詳

( 世の中は何と無常なものかということを、今こそ思い知った。
 この奈良の都が日ごとにさびれてゆくのを見ると。)

仏教的無常観が生まれていたことを窺うことが出来る一首です。
新都建設のために徴用された労働者は5500人とも言われ、庶民に新たな負担を
強いることにもなりました。
日常の生活でさえ苦しいのに働き手を取られ一体どうすればよいのだろう。
人々の怨嗟の声も強かったようです。

「 岩つなの またをちかへり あをによし
     奈良の都を またも見むかも 」
                    巻6-1046 作者未詳

( また若返って 大いに栄えたあの奈良の都を再びこの目で見ることが
  出来るのであろうか。
  いやいやそんなことはありえないことだ )

「岩つな」は蔓性の植物で蔓が這い上がりまた元のところに戻ってくる習性があるので
「またをちかへり」の枕詞となっています。 

「 人間若返ることなど出来っこない。
  都を元に戻すことも同じこと。
  あり得ない、あり得ない。」
と諦めの気持ちが強くこもります。

ところが、現実にはあり得たのです。
無計画に事を急いだため資金と人員が不足し、1年経過した後も大極殿はおろか
宮垣すら完成させることが出来ず、ついに744年、恭仁京の造営を中止。
翌745年再び奈良の都に戻ることになりました。

740年に伊勢、美濃など彷徨の旅にはじまり、恭仁、紫香楽、難波とさまよい続けた5年間。
天皇の自律神経失調のため、あるいは父、天武の壬申の乱の足跡を辿り、
新しい生命力を得ようとした、など色々な憶測がなされていますが、
その行動は未だに謎とされています。

そして752年、人力と財物の限りを尽くした大仏開眼。
壮大な文化の華が開き、悲願を果たした聖武天皇は孝謙女帝に譲位(756年)。
僧、道鏡が実権を握った政治は乱れに乱れました。
それでも28年間、平城京は存続しましたが、遂に桓武天皇の時代の784年に長岡京、
続いて794年平安京遷都となり再び奈良に都が戻ることがありませんでした。
それから1220年を経た現在、平城京の復元工事が続けられておりますが、
大極殿、朱雀門、宮内省のみ完成。
都全体を復元するには途方もない年月と資金が必要なようです。

   「 揚雲雀(あげひばり) 折しも平城宮址かな 」 勝又一透
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by uqrx74fd | 2014-05-09 07:43 | 生活

万葉集その四百七十四(恭仁京 :くにきょう)

( 恭仁京大極殿跡  京都府 )
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( 大極殿周辺 )
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( 山城国国分寺跡 )
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( 同 想像図 )
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( 木津川 : 泉川)
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( 恭仁大橋の脇に立つ大伴家持万葉歌碑 )
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( 釣り人 木津川 )
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( 大極殿の隣 恭仁小学校 万葉時代朝廷の建物があったと思われる )
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( 説明文   画面をクリックすると拡大出来ます )
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740年、聖武天皇は突然、都を平城京から山背(やましろ)に遷す詔を出されました。
恭仁京(くにきょう)。
当時、瓶原(みかのはら)離宮が営まれていたところで、山々に囲まれた盆地の中心部に
木津川が流れている風光明媚かつ物資輸送に至便の要衝地です。

(現、京都府木津川市加茂町、JR関西本線加茂駅から約2㎞)

時は天平の爛熟期から退廃期に移り、朝廷の中枢を占めていた藤原4兄弟が
天然痘で全員死亡、農民の逃亡は後を絶たず、九州大宰府で藤原広嗣が
反乱を起こすなど、社会、政治とも極めて不安定な情勢でした。

天皇は橘諸兄を右大臣に登用し、さらに20年ぶりに帰国した遣唐使、
玄昉(げんぼう)と吉備真備を重用するなど、局面の打開をはかり、
遷都も橘諸兄の進言によるものであったといわれています。

この地域を勢力圏とする諸兄は藤原氏の影響が強く残る平城京から天皇を
離したかったのかもしれません。

都造りに先立ち、朝廷は馬の管理全般を取り仕切る軍人司令官を派遣し
諸工事を指揮させ、さらに近辺の防備など行わせました。
この長官、歌の素養があったらしく、早速土地を讃える歌を奉納します。

まずは「長歌」の訳文からです。

「 山城の恭仁の都は 
  春ともなると 花が枝もたわわに咲き誇り
  秋には黄葉が まばゆく照り映えている
  恭仁の都を帯のように囲んでいる泉川
  その川の上流に 打橋を渡し
  下の淀みには 浮橋を渡しました。
  この新しい都に ずっと通い続けましょう
  万代の後いつまでも 」 
     
             巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

(訓み下し文                       右 語句解釈)

『 山背(やましろ)の 久爾(くに)の都は
   春されば  花咲きををり  
                            春されば:春になると
                            花咲きををり: 「ををり」はたわみ曲がる
  秋されば 黄葉(もみちば) にほひ
  帯(お)ばせる 泉の川の  
                            帯ばせる:新都をとりまく川を帯に見立てたもの
  上(かみ)つ瀬に  打橋渡し
  淀瀬には  浮橋渡し
  あり通(がよ)ひ 仕へまつらむ
                          あり通ひ:「あり」は存続の意でずっと通い続けて
  万代(よろづよ)までに  』 

                  巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

「反歌」

「 楯(たた)並(な)めて 泉の川の 水脈(みを)絶えず
    仕へまつらむ 大宮ところ 」  
                           巻17- 3908 同上


( 滔々と流れ続く泉川の 流れが絶えないように
  いついつまでも絶えることなく この大宮所にお仕えしたいと
  思っていいます )

「楯並めて」は「楯を並べて射(イ)る」の意から「泉」のイに掛けた枕詞で、
 如何にも軍人らしい武骨な用語。

泉川は現在の木津川。
打橋、浮橋はいずれも板や小舟、筏を渡した簡易の橋で造営中の様子を物語っています。

翌741年、平城京の大極殿や歩廊を解体し移設の準備。
東西の市も移し、恭仁京を「大養徳 恭仁大宮 (おおやまと くにのおおみや)」と命名し、
5位以上の貴族全員移住を命じられました。
急な命令とあって取り急ぎ単身赴任をした大伴家持が着任してみると、槌の音も高く
造営の真っ最中、準備不足の慌ただしい工事は遅々として進んでいなかったのです。

「 今造る 久爾の都は 山川の
    さやけき見れば うべ知らすらし 」 
                           巻6-1037 大伴家持 (既出)


( 今新たに造営している恭仁の都は 山も川も清々しい。
 ここに都を定めたのは なるほど尤もなことと 思われる )

「うべ」は事態を肯定する副詞 なるほどもっとも
「知らすらし」 天皇の行為、心情を推し量ったもの

家持は頼みとする橘諸兄が政治の実権を握り、前途に愁眉を開いていたらしく、
この歌にも明るさが見えます。

ところが、1年経過した後の正月、天皇の朝賀の時でさえ大極殿おろか
宮の垣すら成らず、帷幄(いあく=幕)をめぐらした中で行われる有様。
資金、人員不足が甚だしく、遷都さえ危ぶまれる事態です。

にもかかわらず、742年、天皇はさらに甲賀郡紫香楽(しがらき:滋賀県信楽町)に
離宮を造営し、大仏建立を宣言する支離滅裂な詔を出す始末。

そして、とうとう恭仁京の造営を中止して難波を皇都と定めます。(744年)
わずか4年余の短命の都。
天皇自身は紫香楽の宮に移り、大仏建立の指揮を執るつもりでしたが、
放火による火災や地震が頻発し、ついに745年、朝廷の百官や四大寺
(薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺)に、いずれを都とすべきかを計り、
全員が平城京と答え、奈良の都に戻ることになったのです。

この平城京復都は光明皇后を後ろ楯にした藤原仲麻呂の画策ともいわれ、
再び藤原氏の復権がはじまります。

「 三香の原 久爾の都は 荒れにけり
     大宮人の うつろひぬれば 」 
                   巻6-1060 田辺福麻呂歌集


 ( 三香の原の恭仁の都は 大宮人が 次々と移り去ってしまったので
  すっかり荒れ果ててしまったことだ )

恭仁京の大極殿は国分寺の金堂に編入され、882年に炎上。
その後、興福寺の末寺として再興されましたが、現在は塔跡に昔の面影を
とどめているのみです。
膨大な財と人力を傾け、多くの人々に塗炭の苦しみを味あわせた恭仁京遷都とは
一体何だったのでしょうか。

  「 石碑立つ 恭仁京跡や 揚雲雀」  筆者

JR加茂駅からゆっくり歩いて30分。
恭仁大橋の上に立つと、美しい山々の裾を木津川が滔々と流れています。
欄干から下を眺めると底が見えるほどに澄んだ水。
昔は川幅が今の倍以上あったことでしょう。
遠くで水遊びをする子供達、鮎釣りを楽しんでいる人。

さらに歩くこと30分。
恭仁京、国分寺の跡は礎石が残るのみです。
隣接する木造の小学校、この辺りも都の建物が立ち並んでいたことが彷彿されます。

人一人いない広場に立つと、せせらぎの涼しげな音が聞こえてきました。
家持もこの場所で美しい山並みを眺めていたのでしょうか・

  「 恭仁京の 跡とて草の 芳(かぐは)しき 」 上山紫牛
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by uqrx74fd | 2014-05-02 08:34 | 生活

万葉集その四百七十二(桜、すみれ、乙女)

( ニオイスミレ  学友N.Fさん提供)
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( 桜の木の洞に咲いたスミレ  新宿御苑で)
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( 長谷寺  奈良 )
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( 同上 )
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( 大美和の杜から大和三山をのぞむ  山辺の道  )
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(  大美和の杜  満開の桜)
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( 同上 後方、三輪山)
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( 石庭に埋め込まれた桜の花びら  玄賓庵 山辺の道)
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( 万葉の春 上村松篁  絵葉書 )
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747年頃のことです。
越中国司 大伴家持が生死をさまよう大病を患いました。
慣れない北国の寒さで風邪をこじらせ肺炎になったのではないかと推察されています。
床に臥すこと約2カ月、ようやく起き上れるまでに回復しましたが、いまだに
外出は困難な状態。
それでも手紙を書く気力が出てきたのか、年来の友、大伴池主に見舞いの礼状を
書きはじめ、何通ものやり取りをするうちに、お互いに作文作歌に熱中し、
とうとう漢文交じりの膨大なものになってしまいました。
二人は歌を通じた心友といった関係。
家持も心を許して真情を吐露することができたのでしょう。

以下池主の歌のごく一部ですが、
「 一日も早く回復され、美しい春の景色を共に愛でに行きましょう 」
と手を尽くして励ましている部分です。
先ずは訳文から

( 訳文 )

( ― 里の人が 私に教えてくれるには
   山辺に 桜の花が咲き散り
   貌鳥(かほどり)がひきもきらずに 鳴き立てているということです。

  その春の野で すみれを摘みましょうと
   真っ白な袖を折り返し
   色鮮やかな赤裳の裾を引きながら
   乙女たちは
   思い乱れつつ
   あなたのお出ましを心待ちに 待ち焦がれているというのです

  そう聞くと心が切なくなるでしょう。
  さぁ 早く一緒に見にゆきましょう
  その事は、しっかと お約束しましたぞ。 ) 

                           巻17-3973 大伴池主

( 訓み下し文 )              ( 右 語句解釈)

「 - 里人の 我(あ)れに告ぐらく 
    山びには 桜花散り            「山び」: 山辺

   貌鳥(かほどり)の 間なくしば鳴く    「貌鳥(かほどり)」:  
                             カッコウ、カワセミなど諸説あるも定まらず。
                             「カオ」と鳴く鳥の総称ともされる。
  春の野の すみれを摘むと
  白栲(しろたへ)の 袖折り返(かへ)し   
                            「袖折り返し」: 袖口が汚れないように折り返し

  紅の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 
  娘子(をとめ)らは 思ひ乱れて 

  君待つと うら恋(ごひ)すなり    「うら恋」: 心の中で秘かに恋焦がれること
 
  心ぐし いざ見にゆかな     
                        「心ぐし」: (乙女らが待っていると聞くと) 心が切なくなる

   ことは たなゆひ 」 
                           「こと(事)はたなゆひ」 : 
                           「指切りげんまん 約束ですぞ」の意で
                           約束をしたときの慣用句らしい。

                               巻17-3973  大伴池主
 
 
 長かった北国の冬が去り、待望の春到来。
 桜咲き、散る山辺、
 絶え間なく、しきりに鳴く貌鳥(かほどり)、
 野原一面のスミレ、
 美しい乙女の艶(あで)やかな衣装。
 浮き浮きとした気持ちが感じられる一節で、「春の野のすみれ摘む」は

 山辺赤人の「 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ
             野をなつかしみ 一夜寝にける 」 巻8の1424  
を踏まえたものです。
女性の赤い裳裾は男心をそそり、幻想的な世界を想像させています。
今にでもすぐに飛び立ちたい!
池主もその効果を十分意識して家持を奮い立たせたものと思われます。

持つべきは友。
この見舞いを受けた家持は、ほどなく全快。
早速、うら若き乙女と共に行く春を楽しんだことでしょう。

 「 桜花 ちりしく野べの つぼすみれ
     色うちはへて 摘(つみ)なむも をし 」 田安宗武

               色うちはえて :色うち映えて
               をし:惜しい 
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by uqrx74fd | 2014-04-18 06:59 | 生活

万葉集その四百七十(あをによし 奈良)

( 大極殿  平城宮跡 )
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(  同上 )
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( 朱雀門  同上 )
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( 高御座:たかみくら 大極殿内部  同上 )
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( 咲く花にほふ 大仏殿 )
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( 春日大社の青丹 )
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( 氷室神社の枝垂桜 )
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( 東大寺湯屋の近くで )
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( 二月堂 )
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「 あをによし 奈良の都は 咲く花の
   にほふがごとく 今盛りなり 」 
              巻3-328 小野 老(おゆ) (既出) 
 

この著名な歌は奈良で詠われたものではなく、叙勲の為に都へ赴いた作者が大宰府に
帰任し祝宴が設けられた折、豪華絢爛たる首都の様子を列席の人たちに語ったものです。

作者が得意げに報告している都は、大極殿、朱雀門に代表される瓦葺の大屋根、
丹塗りの太い柱に白壁といった豪壮かつ美しい建物や緑に彩られた連子格子。
さらに、幅74mにもおよぶ朱雀大路を中心に碁盤目のように整然と区画された
街の様子なのでしょう。

「咲く花」は一般的には花の総称とされますが、この歌にはやはり桜が相応しく、
満開の花が照り映える中、微かな芳香さえ漂っているイメージを醸し出している
ように思われます。

枕詞「あをによし」の「あをに」は「青丹」で彩色に用いられる土。
「よ」「し」は本来、文章の語句の切れ目で語勢を加え、語調を整えて余情を添える
間頭助詞ですが、原文表記の半数が「吉(よし)」とされていることから
「青や丹が吉(よ)い」の意を含むものとされています。
従って「あをによし 奈良」は「良質の青丹土の産地として名高い奈良」の意を含み、
青緑や朱色で彩られた華やかな都の様子を彷彿させています。

四方を山々に囲まれた奈良の都。
目を野山に転ずれば次のような風景が見られたようです。

「- 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば
春日山 御笠の野辺(のへ)に
桜花 木(こ)の暗(くれ) 隠(がく)り  
貌鳥(かほどり)は 間なくしば鳴く - -
山見れば 山を見が欲し 
里見れば 里も住みよし - 」 
            巻6-1047  田辺福麻呂(たのべのさきまろ)歌集


( 奈良の都は 陽炎の燃える春ともなると 
 春日山の麓 御笠の野辺で
 桜の花の木陰に隠れて 
 貌鳥(かほどり)が絶え間なく鳴きたてる。- -

 山を見れば見飽きることがないし、
 里を見れば里も住み心地が良い- )

この歌は春秋対になっており、そのあとに、

「 露が冷たく置く秋ともなると、
  生駒山の飛び火が岳で、
  萩の枝をからませ散らして
  雄鹿が妻を呼び求めて 声高く鳴く 」と詠われ、

花咲き、鳥や鹿が鳴く美しい自然の移り変わりを人々が謳歌していた様が
窺われます。
貌鳥(かほどり)は「カッコウ」「カワセミ」など諸説あり定まっておりませんが
この歌には美しいカワセミを登場させたいところです。

「 あをによし 奈良の大道(おほち)は 行(ゆ)きよけど
      この山道は 行(ゆ)き悪(あ)し かりけり 」
                        巻15-3728 中臣宅守(やかもり)


( あをによし奈良、あの都大路は行きやすいけれど、
 遠い国へのこの山道はなんとまぁ、行きづらいことか )

740年、勅勘の身となって越前の国府武生に配流された作者。
罪を得た原因は不明ですが政治事件に巻き込まれたものと想像されています。

東宮に所属する女官と結婚したばかりの宅守。
悲しみにくれながらトボトボと山道を越えてゆきます。
険しい急坂の上、岩がゴロゴロ。
あの華やかな都大路と比べて何という違いなのだろう。
場所は畿内と北の国との境、逢阪山あたりにさしかかったあたり。
故郷を見納めつつ若妻との別れを悲しんだ1首です。

「 あをによし 奈良の都は 古りぬれど
    もとほととぎす 鳴かずあらなくに 」
                    巻17-3919 大伴家持

( ここ青土の奈良の都は、いまやもの古りてしまった。
 でも、昔馴染みのほととぎす、この鳥だけは鳴きたてないまま
 飛び去ったりしないでやってきてくれるのに。
 人の心はあてにならないものよ )

都が平城京から山背(やましろ)の国(京都)、恭仁京に遷された後、
休暇を賜った作者が奈良の邸宅に戻った時の歌です。
荒れ果てて、誰も見向きもしなくなった旧都。
ホトトギズでさえ戻って鳴いてくれているのに、と嘆きながら、
過ぎにし華やかな日々を懐かしんでいる作者。

「 あをによし 奈良の都に たなびける
     天の白雲 見れど飽かぬかも 」
               巻15-3602 作者未詳

新羅に派遣された官人が故郷を懐かしんで口ずさんだ歌ですが、
どの場所でも通用する1首です。

都に住んでいた人たちは遠くへ旅したり、遷都になった後でも
美しい奈良の自然と建物を懐かしみ「あをによし 奈良」と詠い続けました。
一つの場所でこれほど多く枕詞を使われた例は他にありません。(27例)
万葉人にとっての奈良は心の故郷だったのでしょう。

    「 青丹よし 奈良の都の 連子窓 」  筆者
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by uqrx74fd | 2014-04-05 20:29 | 生活

万葉集その四百六十七(酒ほがひ)

(万葉列車 JR奈良駅で)
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( 長谷寺への参道の途中で  奈良 )
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( 吉野宮滝への道の途中で  奈良)
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( 明治神宮で )
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( 讃酒 大伴旅人  吉井東人作  県立奈良万葉文化館蔵 )
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「 わがが胸の 鼓(つづみ)のひびき たうたらたり
       たうたらたり 酔へば楽しき 」    吉井勇 「酒ほがひ」より


「酒祝」「酒寿」。
いずれも「酒ほがひ」と訓み「酒を賛える」意とされています。
「たふたらり」は祝詞や謡曲「翁」にも見られる囃言葉ですが、この歌は
「た」を一字追加して「たうたらたり」としたことにより「酔うた、酔うたぞ」と
美酒にに陶酔している様が彷彿されます。
作者は万葉きっての大酒飲み、大伴旅人の影響を受けたのでしょうか。

 「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
        人をよく見ば 猿にかも似む 」
                           巻3-344 大伴旅人(既出)

( あぁ、みっともない。
 酒も飲まずに賢そうにしている奴の顔をよ-く見たら
 ほらほら、猿に似ているぞ )

酒好きな上司が催す度々の酒宴。
「あぁ、迷惑だなぁ」と感じている酒嫌いの部下。
「まぁ、付き合えよ」と無理やり陪席させられたものの、素面(しらふ)で
理屈ばかりこねて周りを白けさせることおびただしい。
そんな人物を揶揄、風刺したものと思われますが、それは酒飲みの勝手な理屈。

永井路子さんは
『 なんですって!
  イケル口でない私としては、聞きずてにならぬ一言だ。
  じゃ、私は猿似人(さるにひと)だっていうの? 
  シツレイな!
  しかし怒る気になれないのは、彼の酒好きが あまりにも徹底しているからだ。』 

と苦笑しながらも楽しそう。(よみがえる万葉人 読売新聞社より)

「 博(ばく)うたず うま酒酌まず 汝等(なじら)みな
    日をいただけど 愚かなるかな 」      吉井 勇 酒ほがひ


( 刻苦勉励、学問、社業に身を入れ出世してもそれが何ほどのことがあろう。
  日頃の行いも真面目一筋。
  酒も飲まず、博打もせず、日々賢しらに人生を重ねる愚かなる君よ。)

旅人の歌を本歌取りしたような詠いっぷりです。
対する正岡子規は皮肉たっぷり。

「 世の人は さかしらをすと 酒飲みぬ
    あ(我)れは柿食ひて 猿にかも似る 」  正岡子規

 まぁ、こうやって酒飲みも、下戸もワイワイやりながら楽しんでいるのですね。

「酒を賛める歌13首」を詠んだ大伴旅人は当時、大宰府の帥(そち:長官)として
都から遠く離れた鄙の地にありました。
藤原氏の策謀で天皇から遠ざけられたともいわれています。
後ろ盾と期待した長屋王が謀反というあらぬ疑いで自刃に追い込まれ、
孤立無援の大伴一族は衰退の一途。
寄る年波と衰弱、堪えがたいまでの奈良への望郷、加えて同伴した妻の急死。

このような環境の中で詠われた讃酒の歌。
それは、寂しさや苦しさを酒で一時紛らわすといった女々しい気持ちというより
「よ-し、それならば世俗を離れた世界で徹底的に生きよう」
と開き直った心境が感じられるのです。

「 黙居(もだを)りて 賢しらするは 酒飲みて
    酔ひ泣きするに なほ及(し)かずけり 」 
                       巻3-350 大伴旅人

( 黙りこくって分別くさく振る舞うなんてつまらない。
  悲しい時は、酒を飲んで酔い泣きするにかぎるよ )

旅人が残りの人生のすべてをかけたのは酒、歌、女。
酔い泣きするほどに痛飲を楽しみ、人生を謳歌しょうと腹を決めた旅人に
新たな作品が生まれはじめました。
中國詩文や伝説を下地にしたもの、花鳥風月の世界、画期的な歌会梅花の宴、等々。
後世、筑紫文壇とよばれる文藝の世界を築き上げていったのです。

次の歌は夢の中で出会った梅の精に話しかけられたという幻想的な一首です。

「 梅の花 夢(いめ)に語らく いたづらに
     我(あ)れを散らすな  酒に浮かべこそ 」 巻5-852 大伴旅人

( 梅の花が夢の中で私にこう語ったのです。
  「 私を空しく散らさないで下さい。 
    どうかあなたさまがお飲みになる酒杯の上に浮かべて下さいね」と )

文学の世界に陶酔している作者。
梅の花を女性に置き換えるとさらに濃艶なものになります。
同じ酒の歌ながら なんという明るさなのでしょうか。

なお、この歌は同番号の
「 梅の花 夢(いめ)に語らく みやびたる
       花と我(あ)れ思(も)ふ 酒に浮かべこそ 」
の別歌として付記されているものです。

63歳の旅人。
人生50年の時代では既に後期高齢者の仲間入りでしょうが、益々意気盛んです。
女性関係も抜かりなく、歌に秀でた若くて美しい女性を友(愛人?)として
優雅な生活を送り、3年後に目出度く念願の都に栄転することになります。

「 老の頬に 紅潮(くれなひ さ)すや 濁り酒 」  高濱虚子
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by uqrx74fd | 2014-03-13 08:03 | 生活