カテゴリ:生活( 143 )

万葉集その四百八十四 ( 天の川伝説 )

( 平塚七夕祭り )
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( 同上 )
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( 同上)
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( 短冊に願いをこめて )
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( 可愛いい牽牛、織女 )
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( 歌舞伎 )
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( 切り絵 )
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( 竹取物語 )
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( 猿蟹合戦 )
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( ゆるキャラもあります )
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夏の夜に繰り広げられる壮大なロマンス-天の川伝説は中国伝来のものでありますが、
銀河にまつわる神話は世界各地でも多く伝えられています。
例えばフインランドでは
「 昔、ズラミスとサラミという相愛の夫婦がいた。
  ところが死後別々の星になってしまった。
  二人は再会しょうと天上界のかすかな光の靄(もや)を集め、千年もかけて
  天の橋を完成し、両端から渡ってシリウス星のところで出会い、
  永遠に星空の中で添い遂げているのです 」 と。

また、ギリシヤ神話は
『 女神ヘラの乳房を赤児のヘラクレスが強く吸ったので、
ヘラが赤児を引き離すと乳がほとばしって「ガラクシアス」(乳の川)ができた。
天文学上は銀河、英語ではミルキィーウエイ(milky way) とよばれる 』とか。

天の川を天の道とみる国々もあります。

エジプト神話は悪神セトに追われた女神イシスが逃げる時に落としていった「麦の穂の道」 
北欧神話は戦死した勇者が神々の住む天国へ向かう「馬車の道」
スウェーデンは冬の夜に亡魂が行く「冬の道」、
フィンランドでは亡霊が鳥となって飛ぶ「鳥の道」、
アメリカ・インディアンは「魂の道」  等々。

翻って我国で万葉集に詠われている天の川は132首もありますが、
それは遠い遠い星の国のお話ではなく、自分たちの恋を天の川に託して詠う
現実の世界の物語なのです。

「 天の川 瀬を早みかも ぬばたまの
   夜は更けにつつ  逢はぬ彦星 」
                   巻10-2076 作者未詳


( 夜がもう更けてゆくというのに、彦星(牽牛)はまだ織女に逢えないでいるらしい。
  天の川の川瀬の流れが早いためだろうか  )

天の川に雲がかかり彦星(牽牛)が見えないのでしょうか。
詠う作者の恋人も今日は必ず訪れるはずなのにいまだに姿が見えない。
雨で川の水かさが増え、流れが早くなっているので渡る船が行きなずんで
いるのだろうか。
あぁ、夜も更けてゆく。
天の川を仰ぎながら溜息をついている女。

「 天の川 楫(かじ)の音聞こゆ 彦星と
           織女(たなばたつめ)と 今夜(こよひ)逢ふらしも 」
                           巻10-2029  柿本人麻呂歌集


( 天の川に櫓を漕ぐ音が聞こえる。
 彦星と織姫が 今宵いよいよ逢って共寝するのであるらしい )

雲が晴れて牽牛が見えるようになった。
やっぱり牽牛と織女は今夜逢うんだ。 よかった!

地上の世界でも楫漕ぐ音が聞こえてきた。
「 私の恋しい人も間もなく」と胸を弾ませる女。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
    君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 
                      巻8-1518 山上憶良(既出)


( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
 ようやく、愛しいあの方がお出でになったようです。
 さぁ、さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

この歌は万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
「 紐解き設けな 」とは、なんと直截な!
天上の物語を一気に現実ものとして詠う憶良です。

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
    恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」
                      巻10-2031  柿本人麻呂歌集


( 1年のうち逢えるのは7月7日の1夜だけ。
  待ち続けた恋の苦しさもまだ晴れないうちに
  夜はいたずらに更けてゆく )

ようやく逢えた二人。
恋の時間はあっという間に過ぎてゆきます。
時よ止まれ!

「 明日よりは 我が玉床を うち掃(はら)ひ
    君と寐寝(いね)ずて ひとりかも寝む 」
                        巻10-2050 作者未詳


( 明日からはこの私たちの寝床を払い清めたとしても
 あなたと共寝することができずに 
ひとり寂しく寝ることになるのだろうか )

別れの時がきました。
あぁ、また一人寝の寂しさを味わうことになるのかと女を抱きしめる男。
もう天の川も眼中にありません。
ただただ少しでも長く一緒にいたい二人です。

諸外国の夢の伝説に比べ我が七夕物語は正しく現実の世界。
だからこそ万葉人は思いの丈を心ゆくまで吐露することが出来たのでしょう。

「 きらめきて 銀河に流れ ある如し 」  高濱年尾
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by uqrx74fd | 2014-07-11 06:34 | 生活

万葉集その四百七十八(能登の国の歌2)

( 能登の海 )

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(義経船隠しの入江  松本清張 ゼロの焦点の舞台にもなったヤセの断崖に続いている)
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( 巌門 )
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(同上 海側から )
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( 機貝岩 )
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(  見附島、軍艦島とも )
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( 輪島 白米千枚田 )
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( 同上 )
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古代の能登半島は大和から山背(山城)、琵琶湖上水路を経て朝鮮半島に至る
交通の要衝地であり新羅からの渡来人もかなり移り住んでいたようです。

748年、越中国司大伴家持は支配地の実情調査の為、高岡の国庁を出発し
約300㎞に及ぶ巡行の旅に出掛けました。
約1か月をかけ各地の状況を把握しながら民謡など地元に伝わる歌を多く収録し、
また自らの歌も残したことから能登は都から遠く離れた鄙の地であったにもかかわらず、
当時の庶民の生活ぶりが1260余年経た後も知ることが出来ます。

万葉集は単なる歌集ではなく文化生活誌的な側面もあったのです。

「 能登の海に 釣りする海人の 漁(いざ)り火の
    光にい行く 月待ちがてり 」
                       巻12- 3169 作者未詳


( 能登の海で 夜釣りしている海人の漁火
 その光をたよりに 私は旅をして行きます 
 月の光が射してくるのを待ちながら ) 

「い行く」の「い」は強意の接頭語
「月待ちがてり」の「がてり」は 「~をしながら」

しみじみとした旅愁を感じる一首です。
漁火を目にしながら、夜道を辿る男はどこに向かっているのでしょうか。
当時の能登は中国、朝鮮、渤海国との貿易や文化の窓口で筑紫とならぶ先進国。
人の往来も多かったことでしょう。

夜釣りする海人は烏賊漁か。

「 ハ-ァ 沖で揺れてるよ
  あぁ あの漁火は
  好きなあなたの 好きなあなたの
  イカ釣る 小舟ェーヨ 」

と「漁火恋歌」を歌った小柳ルミ子さん。

いやいやこれは余談です。

次の歌は以下のような註が付されています。

「 右の歌にこんな伝えがある。 
あるとき愚かな人がいた。
持っていた斧が海に落ちてしまったが、鉄が沈んだら 
どう見ても浮かぶはずがないのに分からずにいた。
そこでまわりの者が慰みにこの歌をつくって口ずさんであてこすりに
諭したという。 」

「 はしたて 熊来(くまき)のやらに 
  新羅斧(しらきをの) 落し入れ
  わし 
  かけて かけて 
  な泣(な)かしそね 
  浮き出づるやと見む 
  わし 」 
                        巻16-3878 能登の国の歌

( 訳文)

( はしたて 熊来の海底(やら)に 新羅斧 
  そんな大事な斧を落としてしまって
  わっしょい 。 
  気にかけすぎて、
  泣きべそ かかっしゃるな。
  浮き出てくるかもしれんぞ。 
  見ていてやろう。
  わっしょい。)

 「はしたて」「熊来」(くまき)の枕詞。
 「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり。
       「はしたて」は邪神の侵入を遮るため樹枝を立ててしつらえた呪力あるもの(ひもろぎ)。
        それを道の隅(くま)、土地の境界に立てたので「熊来」に掛かるという。

「やら」  アイヌ語「ヤチ」(沼沢)に関係あるという説もあるがここでは「海の底」
「 落とし入れ 」  深くに落としこんだ
「わし」は 「わっし」と発し、「わっしょい」のような囃言葉
「かけて かけて」  心にかけて懸けて
「な泣かしそね」   「な」「そ」「~しなさるな」の禁止用語 「泣きなさるな」

 斧を海に落として浮き上がってくるのをじっと待っている男。
 周りが囃すのを真に受けてますます水面を見続けていたとは、
 なんとも滑稽な歌です。

伊藤博氏は 
「 実際には皆が必死になって探した結果ついに求め得た歓びを背景としている
のではないか?」と述べておられますが(万葉集釋注)
宴会の時に歌われた民謡だったかもしれません。

新羅斧は舶来のかけがえのない斧、
斧を落とした男は船材を伐る仕事に従事していたものと思われます。
一介の木こりが新羅風の斧を持っている。
これは家宝に等しい貴重なものだったことでしょう。


「 鳥総(とぶさ)立て 船木伐(か)るといふ 能登の島山
      今日見れば 木立茂しも   幾代 神(かむ)びぞ 」
                           巻17-4026 (旋頭歌)  大伴家持

( 鳥総を立てて神に捧げ、船木を伐り出すという能登の島山。
  今日見ると木々が茂りに繁っています。
  幾代も経たその神々しさよ。 )

「鳥総」とは枝葉がついたままの梢の部分をいいます。
人々は木を伐採した後、「鳥総」の切っ先を切り株に突きたてて
木の再生を神に祈りました。
この歌から能登は造船が盛んだったことが窺われます。

山で伐採した丸木をその場で刳りぬき、刳り船として川に流し
海辺で舷側などをつける作業をしていたようです。

なお「鳥総立て」は 「ことばの鳥総を立てる」 即ち
「言葉の再生を願う」
などのような形で現在でも使われております。

「 ほがらかに 唄ひ奥能登 遅田植 」   中山純子


ご参照

 万葉集遊楽324 「しただみのレシピ」 (カテゴリ- 動物)
  同    478 「能登の酒屋」    ( 同   生活)
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by uqrx74fd | 2014-06-01 05:49 | 生活

万葉集その四百七十七(能登の国の歌:酒屋)

( 越中五箇山菅沼集落 )
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( 同上、食事処 )
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( 輪島 白米千枚田 )
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( 輪島朝市 )
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( 同上 )
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( よしが浦温泉 下の建物はランプの宿 )
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( 能登の酒 )
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( 同上 )
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「 粕湯酒(かすゆざけ) わづかに体あたためて
       まだ六十(むつとせ)に ならぬ憶良か 」   土屋文明

古代の庶民の酒といえば粕湯酒、即ち酒の粕を湯で薄めたものでした。
山上憶良の貧窮問答歌(巻5-892) にも冬の寒い日、「粕湯酒うちすすろひて」
体を温めていたことが詠われていますが、アルコール分は近年の清酒粕(平均8%)から
推定すると湯で割って1%位でしょうか。
とても酒とは言えない代物ですが、貴族や官人、金持ちが愛飲していた濁り酒や
清酒(すみ酒)は高価で庶民には高根の花。
とりわけ清酒は濁り酒を絹布で何度も漉したものですから、さしづめ現在の
超高級大吟醸といったところか。
濁り酒や酒粕は金さえあれば容易に手に入れることが出来たようですが、
都から遠く離れた能登の片田舎にも酒屋があったようです。
どのような酒を売っていたのか不明ですが、次の歌は酒を盗もうとして
とっ捕まり,怒鳴られているドジな男を周りの者が囃したてているというものです。

(長歌訓み下し文)

「 はしたて  熊木酒屋に      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)    
  わし                
  誘(さす)ひ立て           
  率(ゐ)て来(き)なましを      
  真罵(まぬ)らる 奴(やっこ)   
  わし 」             
                   巻16-3879 能登の国の歌

(訳文)

    ( はしたて 熊来の酒蔵で 
      どやされている どじな奴(やつ)
     わっしょい
     引っ張り出して
     連れてきてやりたいんだけどなぁ。
     もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴 ) 
     わっしょい 
                              巻16-3879 能登の国の歌
(一行ごとの訓み下しと語句解釈)

「 はしたて 」 
  「はし立て」の「はし」は榊や杉、檜など霊力があるとされた木の枝のことで、
  土地の境界に立てると邪神の侵入を遮ると信じられていた一種のお呪(まじな)いです。
  当時土地の境界を「隈(くま)」といったので「熊木(くまき)」に掛かる枕詞と
  されています。

「 熊木酒屋に 」

  「熊来」は能登湾西岸の石川県鹿島郡中島町あたり
  「酒屋」は酒蔵 ここでは酒造りをしている店

「 真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」

    「まぬらる」 罵(ののし)ると関係がある言葉といわれ「怒鳴り倒されている」
    「奴」   どじな奴(やつ)

「 わし 」         囃言葉   (わっしょい)


「誘(さす)ひ立て」       こちらへ来るように誘い 
   
「率(ゐ)て来(き)なましを」 
   
   「率(ゐ)て」は連れてくる
   連れてきてやりたいんだけどなぁ。

「真罵(まぬ)らる 奴(やっこ) 」  

   もたもたして、まだ怒鳴られている間抜けな奴よ

「 わし 」         わっしょい 

何人かの若者がふざけて酒を盗みに入り、店番に見つかった。
一人だけ逃げ遅れて捕まったが、店番は女だったか。
女に捕まるようではますますドジ。
と仲間で囃しています。

「 実際は仲間の若者たちが平謝りに謝って連れ出したあとの騒ぎの中での歌で
  あるかもしれない。
  昔はこの種の行為には寛大であったらしい。」( 伊藤博 万葉集釋注) 」

万葉唯一の酒屋という言葉。
当時、能登半島一帯は朝鮮と密接な関係があったので大陸の進んだ酒造技術も
伝わっていたと思われ、村人も折りにつけ酒を飲むことがあったのでしょう。

この歌は囃言葉の合いの手が二度も入り、陽気なお祭り騒ぎ。
能登に伝わる民謡だったのかもしれません。

「 いさざ網 積みて船出る 熊木川 」 南恵子

               「いざさ」はシロウオ、踊り喰いが有名
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by uqrx74fd | 2014-05-23 07:10 | 生活

万葉集その四百七十五(荒れたる都)

(平城京第二次大極殿跡)
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( 同 礎石 )
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( 大極殿鴟尾 )
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( 大極殿から朱雀門をのぞむ )
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( 大極殿前で整列する宮人 )
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(  朱雀門説明板   )
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( 復元された宮内省 )
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( 同 説明板 画面をクリックすると拡大できます )
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( 大極殿壁画  )
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740年、恭仁京遷都の詔が出された翌年、早々と平城京の大極殿解体移設、
東西の市移転、五位以上の貴族全員に対する移住命令と慌ただしく動き、
平城京は瞬く間に荒廃してしまいました。
古代、都や寺社が移転する際には、資材の有効活用と費用節約のため
建物を解体、再使用していたので、その跡地は草茫々、荒れ放題となったのです。

旧都には東大寺、興福寺、元興寺、春日大社などの大寺社。
住人は僧侶、神官、農民、そして官人たちの女子供、老人。
居住施設が整わないので官人たちは単身赴任だったようです。
恭仁京は奈良と京都の境目にあり、徒歩で日帰りが可能な距離でしたが、
宮仕えの悲しさ、そう簡単に帰宅する訳にもいかなかったことでしょう。

「 紅(くれなひ)に 深く染みにし 心かも
   奈良の都に 年の経ぬべき 」
                       巻6-1044 作者未詳


( 紅に色深く染まるように深く馴染んだ気持ちのままで、私はこれから先
 この奈良の都で歳月を過ごせるのであろうか )

都振りの朱色の建物。
颯爽とした貴公子や官人の佇(たたず)まい。 
華やかな衣装をまとった女官たち。
喧噪たる市の賑わい。
職人たちの槌打つ音。
どれもこれもみな消えてしまった。
深く染みこんだ昔の面影を抱いたまま、これから先を生きてゆかなくてはならないのか。

残された老人のしみじみとした感慨です。

「世間(よのなか)は 常なきものと 今ぞ知る 
  奈良の都の 移ろふ見れば 」  巻6-1045 作者未詳

( 世の中は何と無常なものかということを、今こそ思い知った。
 この奈良の都が日ごとにさびれてゆくのを見ると。)

仏教的無常観が生まれていたことを窺うことが出来る一首です。
新都建設のために徴用された労働者は5500人とも言われ、庶民に新たな負担を
強いることにもなりました。
日常の生活でさえ苦しいのに働き手を取られ一体どうすればよいのだろう。
人々の怨嗟の声も強かったようです。

「 岩つなの またをちかへり あをによし
     奈良の都を またも見むかも 」
                    巻6-1046 作者未詳

( また若返って 大いに栄えたあの奈良の都を再びこの目で見ることが
  出来るのであろうか。
  いやいやそんなことはありえないことだ )

「岩つな」は蔓性の植物で蔓が這い上がりまた元のところに戻ってくる習性があるので
「またをちかへり」の枕詞となっています。 

「 人間若返ることなど出来っこない。
  都を元に戻すことも同じこと。
  あり得ない、あり得ない。」
と諦めの気持ちが強くこもります。

ところが、現実にはあり得たのです。
無計画に事を急いだため資金と人員が不足し、1年経過した後も大極殿はおろか
宮垣すら完成させることが出来ず、ついに744年、恭仁京の造営を中止。
翌745年再び奈良の都に戻ることになりました。

740年に伊勢、美濃など彷徨の旅にはじまり、恭仁、紫香楽、難波とさまよい続けた5年間。
天皇の自律神経失調のため、あるいは父、天武の壬申の乱の足跡を辿り、
新しい生命力を得ようとした、など色々な憶測がなされていますが、
その行動は未だに謎とされています。

そして752年、人力と財物の限りを尽くした大仏開眼。
壮大な文化の華が開き、悲願を果たした聖武天皇は孝謙女帝に譲位(756年)。
僧、道鏡が実権を握った政治は乱れに乱れました。
それでも28年間、平城京は存続しましたが、遂に桓武天皇の時代の784年に長岡京、
続いて794年平安京遷都となり再び奈良に都が戻ることがありませんでした。
それから1220年を経た現在、平城京の復元工事が続けられておりますが、
大極殿、朱雀門、宮内省のみ完成。
都全体を復元するには途方もない年月と資金が必要なようです。

   「 揚雲雀(あげひばり) 折しも平城宮址かな 」 勝又一透
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by uqrx74fd | 2014-05-09 07:43 | 生活

万葉集その四百七十四(恭仁京 :くにきょう)

( 恭仁京大極殿跡  京都府 )
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( 大極殿周辺 )
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( 山城国国分寺跡 )
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( 同 想像図 )
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( 木津川 : 泉川)
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( 恭仁大橋の脇に立つ大伴家持万葉歌碑 )
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( 釣り人 木津川 )
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( 大極殿の隣 恭仁小学校 万葉時代朝廷の建物があったと思われる )
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( 説明文   画面をクリックすると拡大出来ます )
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740年、聖武天皇は突然、都を平城京から山背(やましろ)に遷す詔を出されました。
恭仁京(くにきょう)。
当時、瓶原(みかのはら)離宮が営まれていたところで、山々に囲まれた盆地の中心部に
木津川が流れている風光明媚かつ物資輸送に至便の要衝地です。

(現、京都府木津川市加茂町、JR関西本線加茂駅から約2㎞)

時は天平の爛熟期から退廃期に移り、朝廷の中枢を占めていた藤原4兄弟が
天然痘で全員死亡、農民の逃亡は後を絶たず、九州大宰府で藤原広嗣が
反乱を起こすなど、社会、政治とも極めて不安定な情勢でした。

天皇は橘諸兄を右大臣に登用し、さらに20年ぶりに帰国した遣唐使、
玄昉(げんぼう)と吉備真備を重用するなど、局面の打開をはかり、
遷都も橘諸兄の進言によるものであったといわれています。

この地域を勢力圏とする諸兄は藤原氏の影響が強く残る平城京から天皇を
離したかったのかもしれません。

都造りに先立ち、朝廷は馬の管理全般を取り仕切る軍人司令官を派遣し
諸工事を指揮させ、さらに近辺の防備など行わせました。
この長官、歌の素養があったらしく、早速土地を讃える歌を奉納します。

まずは「長歌」の訳文からです。

「 山城の恭仁の都は 
  春ともなると 花が枝もたわわに咲き誇り
  秋には黄葉が まばゆく照り映えている
  恭仁の都を帯のように囲んでいる泉川
  その川の上流に 打橋を渡し
  下の淀みには 浮橋を渡しました。
  この新しい都に ずっと通い続けましょう
  万代の後いつまでも 」 
     
             巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

(訓み下し文                       右 語句解釈)

『 山背(やましろ)の 久爾(くに)の都は
   春されば  花咲きををり  
                            春されば:春になると
                            花咲きををり: 「ををり」はたわみ曲がる
  秋されば 黄葉(もみちば) にほひ
  帯(お)ばせる 泉の川の  
                            帯ばせる:新都をとりまく川を帯に見立てたもの
  上(かみ)つ瀬に  打橋渡し
  淀瀬には  浮橋渡し
  あり通(がよ)ひ 仕へまつらむ
                          あり通ひ:「あり」は存続の意でずっと通い続けて
  万代(よろづよ)までに  』 

                  巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

「反歌」

「 楯(たた)並(な)めて 泉の川の 水脈(みを)絶えず
    仕へまつらむ 大宮ところ 」  
                           巻17- 3908 同上


( 滔々と流れ続く泉川の 流れが絶えないように
  いついつまでも絶えることなく この大宮所にお仕えしたいと
  思っていいます )

「楯並めて」は「楯を並べて射(イ)る」の意から「泉」のイに掛けた枕詞で、
 如何にも軍人らしい武骨な用語。

泉川は現在の木津川。
打橋、浮橋はいずれも板や小舟、筏を渡した簡易の橋で造営中の様子を物語っています。

翌741年、平城京の大極殿や歩廊を解体し移設の準備。
東西の市も移し、恭仁京を「大養徳 恭仁大宮 (おおやまと くにのおおみや)」と命名し、
5位以上の貴族全員移住を命じられました。
急な命令とあって取り急ぎ単身赴任をした大伴家持が着任してみると、槌の音も高く
造営の真っ最中、準備不足の慌ただしい工事は遅々として進んでいなかったのです。

「 今造る 久爾の都は 山川の
    さやけき見れば うべ知らすらし 」 
                           巻6-1037 大伴家持 (既出)


( 今新たに造営している恭仁の都は 山も川も清々しい。
 ここに都を定めたのは なるほど尤もなことと 思われる )

「うべ」は事態を肯定する副詞 なるほどもっとも
「知らすらし」 天皇の行為、心情を推し量ったもの

家持は頼みとする橘諸兄が政治の実権を握り、前途に愁眉を開いていたらしく、
この歌にも明るさが見えます。

ところが、1年経過した後の正月、天皇の朝賀の時でさえ大極殿おろか
宮の垣すら成らず、帷幄(いあく=幕)をめぐらした中で行われる有様。
資金、人員不足が甚だしく、遷都さえ危ぶまれる事態です。

にもかかわらず、742年、天皇はさらに甲賀郡紫香楽(しがらき:滋賀県信楽町)に
離宮を造営し、大仏建立を宣言する支離滅裂な詔を出す始末。

そして、とうとう恭仁京の造営を中止して難波を皇都と定めます。(744年)
わずか4年余の短命の都。
天皇自身は紫香楽の宮に移り、大仏建立の指揮を執るつもりでしたが、
放火による火災や地震が頻発し、ついに745年、朝廷の百官や四大寺
(薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺)に、いずれを都とすべきかを計り、
全員が平城京と答え、奈良の都に戻ることになったのです。

この平城京復都は光明皇后を後ろ楯にした藤原仲麻呂の画策ともいわれ、
再び藤原氏の復権がはじまります。

「 三香の原 久爾の都は 荒れにけり
     大宮人の うつろひぬれば 」 
                   巻6-1060 田辺福麻呂歌集


 ( 三香の原の恭仁の都は 大宮人が 次々と移り去ってしまったので
  すっかり荒れ果ててしまったことだ )

恭仁京の大極殿は国分寺の金堂に編入され、882年に炎上。
その後、興福寺の末寺として再興されましたが、現在は塔跡に昔の面影を
とどめているのみです。
膨大な財と人力を傾け、多くの人々に塗炭の苦しみを味あわせた恭仁京遷都とは
一体何だったのでしょうか。

  「 石碑立つ 恭仁京跡や 揚雲雀」  筆者

JR加茂駅からゆっくり歩いて30分。
恭仁大橋の上に立つと、美しい山々の裾を木津川が滔々と流れています。
欄干から下を眺めると底が見えるほどに澄んだ水。
昔は川幅が今の倍以上あったことでしょう。
遠くで水遊びをする子供達、鮎釣りを楽しんでいる人。

さらに歩くこと30分。
恭仁京、国分寺の跡は礎石が残るのみです。
隣接する木造の小学校、この辺りも都の建物が立ち並んでいたことが彷彿されます。

人一人いない広場に立つと、せせらぎの涼しげな音が聞こえてきました。
家持もこの場所で美しい山並みを眺めていたのでしょうか・

  「 恭仁京の 跡とて草の 芳(かぐは)しき 」 上山紫牛
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by uqrx74fd | 2014-05-02 08:34 | 生活

万葉集その四百七十二(桜、すみれ、乙女)

( ニオイスミレ  学友N.Fさん提供)
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( 桜の木の洞に咲いたスミレ  新宿御苑で)
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( 長谷寺  奈良 )
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( 同上 )
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( 大美和の杜から大和三山をのぞむ  山辺の道  )
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(  大美和の杜  満開の桜)
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( 同上 後方、三輪山)
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( 石庭に埋め込まれた桜の花びら  玄賓庵 山辺の道)
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( 万葉の春 上村松篁  絵葉書 )
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747年頃のことです。
越中国司 大伴家持が生死をさまよう大病を患いました。
慣れない北国の寒さで風邪をこじらせ肺炎になったのではないかと推察されています。
床に臥すこと約2カ月、ようやく起き上れるまでに回復しましたが、いまだに
外出は困難な状態。
それでも手紙を書く気力が出てきたのか、年来の友、大伴池主に見舞いの礼状を
書きはじめ、何通ものやり取りをするうちに、お互いに作文作歌に熱中し、
とうとう漢文交じりの膨大なものになってしまいました。
二人は歌を通じた心友といった関係。
家持も心を許して真情を吐露することができたのでしょう。

以下池主の歌のごく一部ですが、
「 一日も早く回復され、美しい春の景色を共に愛でに行きましょう 」
と手を尽くして励ましている部分です。
先ずは訳文から

( 訳文 )

( ― 里の人が 私に教えてくれるには
   山辺に 桜の花が咲き散り
   貌鳥(かほどり)がひきもきらずに 鳴き立てているということです。

  その春の野で すみれを摘みましょうと
   真っ白な袖を折り返し
   色鮮やかな赤裳の裾を引きながら
   乙女たちは
   思い乱れつつ
   あなたのお出ましを心待ちに 待ち焦がれているというのです

  そう聞くと心が切なくなるでしょう。
  さぁ 早く一緒に見にゆきましょう
  その事は、しっかと お約束しましたぞ。 ) 

                           巻17-3973 大伴池主

( 訓み下し文 )              ( 右 語句解釈)

「 - 里人の 我(あ)れに告ぐらく 
    山びには 桜花散り            「山び」: 山辺

   貌鳥(かほどり)の 間なくしば鳴く    「貌鳥(かほどり)」:  
                             カッコウ、カワセミなど諸説あるも定まらず。
                             「カオ」と鳴く鳥の総称ともされる。
  春の野の すみれを摘むと
  白栲(しろたへ)の 袖折り返(かへ)し   
                            「袖折り返し」: 袖口が汚れないように折り返し

  紅の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 
  娘子(をとめ)らは 思ひ乱れて 

  君待つと うら恋(ごひ)すなり    「うら恋」: 心の中で秘かに恋焦がれること
 
  心ぐし いざ見にゆかな     
                        「心ぐし」: (乙女らが待っていると聞くと) 心が切なくなる

   ことは たなゆひ 」 
                           「こと(事)はたなゆひ」 : 
                           「指切りげんまん 約束ですぞ」の意で
                           約束をしたときの慣用句らしい。

                               巻17-3973  大伴池主
 
 
 長かった北国の冬が去り、待望の春到来。
 桜咲き、散る山辺、
 絶え間なく、しきりに鳴く貌鳥(かほどり)、
 野原一面のスミレ、
 美しい乙女の艶(あで)やかな衣装。
 浮き浮きとした気持ちが感じられる一節で、「春の野のすみれ摘む」は

 山辺赤人の「 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ
             野をなつかしみ 一夜寝にける 」 巻8の1424  
を踏まえたものです。
女性の赤い裳裾は男心をそそり、幻想的な世界を想像させています。
今にでもすぐに飛び立ちたい!
池主もその効果を十分意識して家持を奮い立たせたものと思われます。

持つべきは友。
この見舞いを受けた家持は、ほどなく全快。
早速、うら若き乙女と共に行く春を楽しんだことでしょう。

 「 桜花 ちりしく野べの つぼすみれ
     色うちはへて 摘(つみ)なむも をし 」 田安宗武

               色うちはえて :色うち映えて
               をし:惜しい 
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by uqrx74fd | 2014-04-18 06:59 | 生活

万葉集その四百七十(あをによし 奈良)

( 大極殿  平城宮跡 )
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(  同上 )
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( 朱雀門  同上 )
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( 高御座:たかみくら 大極殿内部  同上 )
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( 咲く花にほふ 大仏殿 )
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( 春日大社の青丹 )
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( 氷室神社の枝垂桜 )
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( 東大寺湯屋の近くで )
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( 二月堂 )
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「 あをによし 奈良の都は 咲く花の
   にほふがごとく 今盛りなり 」 
              巻3-328 小野 老(おゆ) (既出) 
 

この著名な歌は奈良で詠われたものではなく、叙勲の為に都へ赴いた作者が大宰府に
帰任し祝宴が設けられた折、豪華絢爛たる首都の様子を列席の人たちに語ったものです。

作者が得意げに報告している都は、大極殿、朱雀門に代表される瓦葺の大屋根、
丹塗りの太い柱に白壁といった豪壮かつ美しい建物や緑に彩られた連子格子。
さらに、幅74mにもおよぶ朱雀大路を中心に碁盤目のように整然と区画された
街の様子なのでしょう。

「咲く花」は一般的には花の総称とされますが、この歌にはやはり桜が相応しく、
満開の花が照り映える中、微かな芳香さえ漂っているイメージを醸し出している
ように思われます。

枕詞「あをによし」の「あをに」は「青丹」で彩色に用いられる土。
「よ」「し」は本来、文章の語句の切れ目で語勢を加え、語調を整えて余情を添える
間頭助詞ですが、原文表記の半数が「吉(よし)」とされていることから
「青や丹が吉(よ)い」の意を含むものとされています。
従って「あをによし 奈良」は「良質の青丹土の産地として名高い奈良」の意を含み、
青緑や朱色で彩られた華やかな都の様子を彷彿させています。

四方を山々に囲まれた奈良の都。
目を野山に転ずれば次のような風景が見られたようです。

「- 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば
春日山 御笠の野辺(のへ)に
桜花 木(こ)の暗(くれ) 隠(がく)り  
貌鳥(かほどり)は 間なくしば鳴く - -
山見れば 山を見が欲し 
里見れば 里も住みよし - 」 
            巻6-1047  田辺福麻呂(たのべのさきまろ)歌集


( 奈良の都は 陽炎の燃える春ともなると 
 春日山の麓 御笠の野辺で
 桜の花の木陰に隠れて 
 貌鳥(かほどり)が絶え間なく鳴きたてる。- -

 山を見れば見飽きることがないし、
 里を見れば里も住み心地が良い- )

この歌は春秋対になっており、そのあとに、

「 露が冷たく置く秋ともなると、
  生駒山の飛び火が岳で、
  萩の枝をからませ散らして
  雄鹿が妻を呼び求めて 声高く鳴く 」と詠われ、

花咲き、鳥や鹿が鳴く美しい自然の移り変わりを人々が謳歌していた様が
窺われます。
貌鳥(かほどり)は「カッコウ」「カワセミ」など諸説あり定まっておりませんが
この歌には美しいカワセミを登場させたいところです。

「 あをによし 奈良の大道(おほち)は 行(ゆ)きよけど
      この山道は 行(ゆ)き悪(あ)し かりけり 」
                        巻15-3728 中臣宅守(やかもり)


( あをによし奈良、あの都大路は行きやすいけれど、
 遠い国へのこの山道はなんとまぁ、行きづらいことか )

740年、勅勘の身となって越前の国府武生に配流された作者。
罪を得た原因は不明ですが政治事件に巻き込まれたものと想像されています。

東宮に所属する女官と結婚したばかりの宅守。
悲しみにくれながらトボトボと山道を越えてゆきます。
険しい急坂の上、岩がゴロゴロ。
あの華やかな都大路と比べて何という違いなのだろう。
場所は畿内と北の国との境、逢阪山あたりにさしかかったあたり。
故郷を見納めつつ若妻との別れを悲しんだ1首です。

「 あをによし 奈良の都は 古りぬれど
    もとほととぎす 鳴かずあらなくに 」
                    巻17-3919 大伴家持

( ここ青土の奈良の都は、いまやもの古りてしまった。
 でも、昔馴染みのほととぎす、この鳥だけは鳴きたてないまま
 飛び去ったりしないでやってきてくれるのに。
 人の心はあてにならないものよ )

都が平城京から山背(やましろ)の国(京都)、恭仁京に遷された後、
休暇を賜った作者が奈良の邸宅に戻った時の歌です。
荒れ果てて、誰も見向きもしなくなった旧都。
ホトトギズでさえ戻って鳴いてくれているのに、と嘆きながら、
過ぎにし華やかな日々を懐かしんでいる作者。

「 あをによし 奈良の都に たなびける
     天の白雲 見れど飽かぬかも 」
               巻15-3602 作者未詳

新羅に派遣された官人が故郷を懐かしんで口ずさんだ歌ですが、
どの場所でも通用する1首です。

都に住んでいた人たちは遠くへ旅したり、遷都になった後でも
美しい奈良の自然と建物を懐かしみ「あをによし 奈良」と詠い続けました。
一つの場所でこれほど多く枕詞を使われた例は他にありません。(27例)
万葉人にとっての奈良は心の故郷だったのでしょう。

    「 青丹よし 奈良の都の 連子窓 」  筆者
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by uqrx74fd | 2014-04-05 20:29 | 生活

万葉集その四百六十七(酒ほがひ)

(万葉列車 JR奈良駅で)
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( 長谷寺への参道の途中で  奈良 )
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( 吉野宮滝への道の途中で  奈良)
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( 明治神宮で )
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( 讃酒 大伴旅人  吉井東人作  県立奈良万葉文化館蔵 )
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「 わがが胸の 鼓(つづみ)のひびき たうたらたり
       たうたらたり 酔へば楽しき 」    吉井勇 「酒ほがひ」より


「酒祝」「酒寿」。
いずれも「酒ほがひ」と訓み「酒を賛える」意とされています。
「たふたらり」は祝詞や謡曲「翁」にも見られる囃言葉ですが、この歌は
「た」を一字追加して「たうたらたり」としたことにより「酔うた、酔うたぞ」と
美酒にに陶酔している様が彷彿されます。
作者は万葉きっての大酒飲み、大伴旅人の影響を受けたのでしょうか。

 「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
        人をよく見ば 猿にかも似む 」
                           巻3-344 大伴旅人(既出)

( あぁ、みっともない。
 酒も飲まずに賢そうにしている奴の顔をよ-く見たら
 ほらほら、猿に似ているぞ )

酒好きな上司が催す度々の酒宴。
「あぁ、迷惑だなぁ」と感じている酒嫌いの部下。
「まぁ、付き合えよ」と無理やり陪席させられたものの、素面(しらふ)で
理屈ばかりこねて周りを白けさせることおびただしい。
そんな人物を揶揄、風刺したものと思われますが、それは酒飲みの勝手な理屈。

永井路子さんは
『 なんですって!
  イケル口でない私としては、聞きずてにならぬ一言だ。
  じゃ、私は猿似人(さるにひと)だっていうの? 
  シツレイな!
  しかし怒る気になれないのは、彼の酒好きが あまりにも徹底しているからだ。』 

と苦笑しながらも楽しそう。(よみがえる万葉人 読売新聞社より)

「 博(ばく)うたず うま酒酌まず 汝等(なじら)みな
    日をいただけど 愚かなるかな 」      吉井 勇 酒ほがひ


( 刻苦勉励、学問、社業に身を入れ出世してもそれが何ほどのことがあろう。
  日頃の行いも真面目一筋。
  酒も飲まず、博打もせず、日々賢しらに人生を重ねる愚かなる君よ。)

旅人の歌を本歌取りしたような詠いっぷりです。
対する正岡子規は皮肉たっぷり。

「 世の人は さかしらをすと 酒飲みぬ
    あ(我)れは柿食ひて 猿にかも似る 」  正岡子規

 まぁ、こうやって酒飲みも、下戸もワイワイやりながら楽しんでいるのですね。

「酒を賛める歌13首」を詠んだ大伴旅人は当時、大宰府の帥(そち:長官)として
都から遠く離れた鄙の地にありました。
藤原氏の策謀で天皇から遠ざけられたともいわれています。
後ろ盾と期待した長屋王が謀反というあらぬ疑いで自刃に追い込まれ、
孤立無援の大伴一族は衰退の一途。
寄る年波と衰弱、堪えがたいまでの奈良への望郷、加えて同伴した妻の急死。

このような環境の中で詠われた讃酒の歌。
それは、寂しさや苦しさを酒で一時紛らわすといった女々しい気持ちというより
「よ-し、それならば世俗を離れた世界で徹底的に生きよう」
と開き直った心境が感じられるのです。

「 黙居(もだを)りて 賢しらするは 酒飲みて
    酔ひ泣きするに なほ及(し)かずけり 」 
                       巻3-350 大伴旅人

( 黙りこくって分別くさく振る舞うなんてつまらない。
  悲しい時は、酒を飲んで酔い泣きするにかぎるよ )

旅人が残りの人生のすべてをかけたのは酒、歌、女。
酔い泣きするほどに痛飲を楽しみ、人生を謳歌しょうと腹を決めた旅人に
新たな作品が生まれはじめました。
中國詩文や伝説を下地にしたもの、花鳥風月の世界、画期的な歌会梅花の宴、等々。
後世、筑紫文壇とよばれる文藝の世界を築き上げていったのです。

次の歌は夢の中で出会った梅の精に話しかけられたという幻想的な一首です。

「 梅の花 夢(いめ)に語らく いたづらに
     我(あ)れを散らすな  酒に浮かべこそ 」 巻5-852 大伴旅人

( 梅の花が夢の中で私にこう語ったのです。
  「 私を空しく散らさないで下さい。 
    どうかあなたさまがお飲みになる酒杯の上に浮かべて下さいね」と )

文学の世界に陶酔している作者。
梅の花を女性に置き換えるとさらに濃艶なものになります。
同じ酒の歌ながら なんという明るさなのでしょうか。

なお、この歌は同番号の
「 梅の花 夢(いめ)に語らく みやびたる
       花と我(あ)れ思(も)ふ 酒に浮かべこそ 」
の別歌として付記されているものです。

63歳の旅人。
人生50年の時代では既に後期高齢者の仲間入りでしょうが、益々意気盛んです。
女性関係も抜かりなく、歌に秀でた若くて美しい女性を友(愛人?)として
優雅な生活を送り、3年後に目出度く念願の都に栄転することになります。

「 老の頬に 紅潮(くれなひ さ)すや 濁り酒 」  高濱虚子
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by uqrx74fd | 2014-03-13 08:03 | 生活

万葉集その四百五十八(春菜摘む)

( セリ 奈良万葉植物園 )
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( ナズナ 向島百花園 )
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( ハコベラ  同上 )
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( ゴギョウ  同上 )
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( ホトケノザ  同上 )
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( スズナ  同上 )
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( スズシロ  正歴寺の近くの出店で 奈良)
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( ワラビとカタクリ  森野旧薬園 奈良 )
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( ヨメナの花  浄瑠璃寺 京都 )
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( スミレ 山の辺の道 奈良 )
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「 明日よりは 春菜(はるな)摘まむと 標(し)めし野に 
             昨日も今日も 雪は降リつつ 」  
                     巻8-1427   山部赤人(既出)


( 明日から春菜を摘もうと野原に「標(し)め縄」を張り巡らせて楽しみにしていたのに。
  昨日も今日も雪ばかり。) 

      
標め縄: 自分の領分を示す縄   
春菜; はるな、わかな、両方の訓みあり

「春はもう、そこまで来ているはずなのになぁ」とため息をつきながら
一日千秋の思いで待ち続ける春菜摘み。
新鮮な食糧を長期保存する術がなかった古代の人たちは、秋に収穫した野菜を
塩漬けにしたり、乾燥させて水で戻すなどして一冬を凌いでいました。
雪が長引くと貯蔵食も底をついてしまうという切迫感。
「あぁ、新鮮な野菜が食べたい!」
人々か心からそう思ったことでしょう。

そして水が温んでくると

「 (正月) 七日は 雪間の若菜 青やかに摘み出でつつ--」  (枕草子第3段)

と晴れやかな気持ちで野に繰り出し、雪間から萌え出てきた生命力旺盛な若菜を摘んで
食べることにより、その生気が自分達の身に浸透し厄災や万病を取り除いてくれる
ものと信じていたのです。

「 春日野に 煙立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし
   春野の うはぎ摘みて煮らしも 」 
                  巻10-1879  作者未詳(既出)


「うはぎ」は 嫁菜(よめな)で秋に紫色の野菊のような花を咲かせます。
野で煮炊きするのは、成人になった女性に母親や年上の女が食べることが出来る
野草を教える行事でもあったようです。

「 難波辺(なにはへ)に 人の行ければ 後(おく)れ居て
    春菜摘む子を 見るが悲しさ 」 
                巻8-1442 丹比屋主 真人(たぢひのやぬしのまひと)


( 難波の方へ夫が出掛けているので、ひとり後に残って春菜を摘んでいる子
 その寂しそうな様子を見ると、いとおしくてならないよ。 )

賑やかに語らいながら菜摘を楽しんでいる女性の中で一人集団から離れている
若妻がいたのでしょうか。
夫は防人として任地に旅立ち何時帰るとも分からない。
作者は知人なのかそれとも人妻に恋をしてしまった?のか。

「 川上に洗ふ若菜の 流れ来て
    妹があたりの 瀬にこそ寄らめ 」  巻11-2838 作者未詳


(この川上で洗っている若菜、これが流れて行ってあの子の住む家のそばの川の瀬に
寄ってくれればよいのになぁ )

思う女に寄り添いたい男、自身を若菜に譬えています。
川で乙女が若菜を洗っている。
その一葉が洩れて みるみる流れ去ってゆく。
これが自分で、下流に住む彼女の家に行きつけばよいのにと願う純情な男

「 春山の 咲きのををりに 春菜摘む
   妹が白紐 見らくしよしも 」  
                   巻8-1421 尾張 連(おはりのむらじ)


( 春山の花の咲き乱れているあたりで春菜を摘んでいる子、その子のくっきりした
 白紐を見るのはなかなかいい気持だ )

春は盛り、花は山桜と思われます。
満開の桜を背景に野原で青菜を摘む乙女。
一面緑萌える中で、色華やかな衣装をまとい長い白紐で腰を結んだ恋人が
歌を詠いながら菜を摘んでいる。
突然、春風が野を吹き抜け、青空を舞う紐。
「 人間に焦点をすえながら春山の躍動を讃えた」(伊藤博) 一首です。

「咲きのををりに」は 「花が枝も撓むほどに咲いている辺りに」の意で 
「ををり」撓み曲がる。

春菜や若菜は春の野菜の総称ですが、当時の人たちはどのような草を摘んで
食べていたのでしょうか。
歌に出てくるのは、せり、うはぎ(ヨメナ)、みら(ニラ) 野蒜(のびる)、よもぎ、
すみれ、たで、茅(ちがや)、カタクリ、わらび、など。
栽培種では青菜 (蕪、大根の総称、葉を食べたのでその名がある)。
歌にないもので当時の木簡などで確認されているのは 蕗、土筆、ワサビなど。
ほとんど現在でも食されているものばかりです。

 「 紫を 俤(おもかげ)にして 嫁菜かな 」  松根 東洋城

「春の七草」が文献で初めて確認されるのは南北朝時代、四辻善成が「河海抄」で
七種の草を選んだのが最初とされ、その後、歌道師範家として名高い冷泉家に
次のような歌が伝えられました。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ 
     すずな すずしろ 春の七草 」


また、平安時代の七種(ななくさ)粥は
「米 粟(あわ) 黍(きび) 稗(ひえ) 篁子(みの=水田に生える野草の実) 小豆 胡麻」
など七種類の穀類などで炊かれ、正月15日(小正月)に食し、のちに小豆粥として
継承され、正月7日の朝に食べる七草粥の姿になるのは鎌倉時代からだそうです。

   「 七草に さらに嫁菜を 加へけり 」 高濱虚子

( ご参考 )

芹(せり)    一つのところで競り合って生えるので「せり」
薺(なずな)    ぺんぺん草ともいう 
         果実の形が三角形で三味線の撥に似ており
         又、茎を口にくわえて引張って弾くとペンペンと音がする
繁縷(はこべら)  茎が長く連なって箆(へら)のように繁殖する
御形(ごぎょう)  母子草ともいう。茎の端に小さな頭花が球状に集まって
         咲くので子が母にまつわりつく様子を例えた。 
         御形は人形のこと。餅に入れ母子餅と称し
         後に蓬(よもぎ)に変わり現在の草餅となる
仏の座(ほとけのざ) 田平子(たびらこ)ともいい仏の座布団(蓮華)のような
          形をしている
菘(すずな)    蕪  根が球の形をしているので「かぶ」という かぶは頭のこと
清白(すずしろ)  大根 菘の代わり(菘代)ともいう 

ご参照

万葉集遊楽  40 芹―春の七草
同     94 蔓菜 (あをな) 
同     196 若菜摘み (嫁菜) 
同     264  蓬(よもぎ)
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by uqrx74fd | 2014-01-10 08:06 | 生活

万葉集その四百五十五 (鏡王女)

( 舒明天皇陵 右の道の奥に鏡女王の墓がある 奈良県桜井市忍坂)
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( 道脇を流れる清流 )
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( 鏡女王の墓 )
    注: 鏡王女の氏名表記は鏡女王、鏡姫王もありますが
        本文では王女に統一、写真説明は表示のまま女王としました。
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( 同説明板:画面の上をクリックし、右下に表示される虫眼鏡(+印)をクリッックすると拡大出来ます)
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( 談山神社 鏡女王の夫藤原鎌足を祀る  奈良県桜井市 )
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( 同上 )
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( 同 )
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( 恋神社  鏡女王を祀る 談山神社内 )
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鏡王女(かがみの おほきみ) は舒明天皇陵の隣近くに葬られていることにより
天皇の皇女もしくは皇孫とする説、あるいは鏡王(伝未詳)の娘で
額田王の姉とする説があります。
もし、皇女であれば中大兄皇子(のち天智天皇)の異母妹にあたりますが、
残念ながら詳しい記録がなく確たることは不明です。

容姿端麗の才媛であったらしく、額田王と共に皇極女帝の宮廷に出仕して
中大兄皇子にみそめられ、後に藤原鎌足の正妻になって不比等を産むという
数奇な運命を辿りました。
また、鎌足の許に降嫁するとき既に身籠っており、それが不比等だともいわれ、
奈良の興福寺(当初は山階寺:やましなでら)の開基は鎌足が病気のとき
王女が発願された、など藤原氏栄華の礎になった女性です。

万葉集中、王女の歌は5首(うち1首は重複しているので実質4首)。
いずれも名歌とされているものばかりで、次の歌のやり取りは
万葉最古の相聞(恋歌)とされています。

「 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる
    大島の嶺(ね)に 家もあらましを 」
                     巻2-91 中大兄皇子(後の天智天皇)


( せめてあなたの家だけでも毎日見ることができたらなぁ。
 大和のあの大島の嶺に我家でもあればいいのに )

中大兄皇子が難波の都にいた頃、大和に住む鏡王女に送った歌です。
大島の嶺は大和生駒郡三郷町の高安山とされ、ここから王女の家が見下ろせたらしく、
いつもお前さんの家を眺めたいものだと若者らしい率直な詠いぶりです。
この歌を受け取った王女は次のような歌を返します。

「 秋山の 木(こ)の下隠(がく)り 行く水の
     我こそまさめ 思ほすよりは 」  巻2-92 鏡王女


 ( 秋山の木の葉の蔭をひっそりと隠れるように流れる水。
  その水かさが増しても表だってそれと分からないでしょうが、
  そんなふうにあなたより私の方がずっと深くお慕いしていますのよ )

落葉に埋もれた隠水(こもりみず)に控えめな恋慕の情を暗示し、
「行く水」の「まさめ」に「水が増す」と「慕う思いが増す」の意が
込められている細やかな女心。
さらに、「思ほすよりは」と止めることで優雅にして無限の含み持たせています。

なお、結句は「み思(おもひ)よりは」という訓み方もあり、こちらの方が
上品な響きを感じさせるようです。

「清く、つつましく、ひそやかな気持ちの人にはまことにふさわしい」名歌。
                     ( 犬養孝 万葉の旅上 平凡社) 

「 君待つと 我(あ)が恋ひ居れば 我がやどの
     簾(すだれ)動かし 秋の風吹く 」   巻8-1606 額田王


( 愛しい方のおいでを恋い焦がれてお待ちしておりますと
 戸口の簾(すだれ)をさやさやと動かして秋風が吹いてまいりました。
 もしや,と思ったのに- -。 )

この歌が詠まれた頃、天智天皇の心は既に鏡王女から大海人皇子(のち天武天皇)と別れて
後宮に入っていた額田王に移っていたようです。

訪れる人(天智)を今か今かと待ち続け、足音が聞こえないかとじっと耳をすませている。
緊張が張りつめている中、一陣の風がさっと吹き抜け、すだれが揺れ動く微かな音が。
もしや、と胸をはずませたものの、待ち人来たらず。
あとは静寂あるのみ。
恋人を待つ微妙な女心のふるえるような揺らぎを見事に歌い上げている万葉屈指の歌です。

「 風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに
   来むとし 待たば 何か嘆かむ 」 
                      巻8-1607  鏡王女


( あぁ、秋の風 その風の音にさえ恋心がゆさぶられるとは羨ましいこと。
 風にさえ胸をときめかせて、もしやおいでかと 待つことが出来るなら
 何を嘆くことがありましょう。)

どうにもならない侘びしい気持ち。
天皇と疎遠になり、鎌足も逝ってしまった。
「風をだに」と「し」を二度重ねてリズムよく心に響く歌です。

なお、この8-1606,1607の2首は巻4-488、489に同様の歌が置かれていますが、
名歌ゆえ古歌として再登場させたのではないかと推定(伊藤博)され、また別々の歌を
編者が意図的に結びつけたとも。

「 忍坂(おつさか)の 陵(みささぎ)どころ 芋の露」  大星たかし

近鉄桜井駅から大宇陀行のバスで約10分、忍坂(おつさか)で下車し
東の小高い丘のほうに向かって歩くと舒明天皇陵があります。
万葉集巻1-2 「大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ天の香久山- -」と
国見の歌を明るく、大らかに詠われた天皇です。
その御陵の前を流れる小川の脇に犬養孝氏揮毫の歌碑が木陰の下に建っていました。

暗くて字がよく見えませんが説明板によると原文で

「 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者 」と書かれている由。
( 秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは)

清らかなせせらぎと松籟の音が重なり合って心地よく耳に響き、この歌を
奏でているようです。

畑の畦道をさらに約5分ばかり上ると急に視界が広がり、杉に囲まれた
鏡王女の墓がひっそりと佇んでいます。
舒明天皇の陵が宮内庁の管轄、こちらは多武峰の談山神社保存会の所有。
王女が藤原氏に降嫁されたことによるものと思われますが、
その談山神社境内にも「恋神社」、縁結びの神として祀られています。
藤原鎌足との夫婦仲がよく、氏母としても大切にされたのでしょう。

歌のようにつつましく、清らかな生涯を終えた女性だったようです。
  
「 あがりきて 忍坂の凧  峰を ちかみ 」 山口誓子             
                               ちかみ: 近く
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by uqrx74fd | 2013-12-20 09:16 | 生活