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万葉集その二百八(馬酔木は神と聖女の花)


「 みもろは人の守(も)る山 本辺(もとへ)は 馬酔木(あしび)花咲く
  末辺(すゑへ)は 椿 花咲く 
  うらぐはし山ぞ 泣く子守(も)る山 」      巻13-3222 作者未詳


( みもろの山は人が大切に守っている山。
麓の方では馬酔木の花が咲き、頂(いただき)のあたりで椿が花咲く。
心ひかれる美しい山よ。泣く子をいたわるようにして人々が守っている山。 )

「みもろ」とは「御室」または「御森」で神が降臨して籠る場所といわれ、
転じて丘のような盛り上がった場所をさすようになりました。

ここでは奈良県明日香橘寺近くの「ミハ」山と推定されています。( 諸説あり)
 
民謡風の愛すべき歌で、人々には聖なる山を大切に守ろうという意識がみられ、
また、馬酔木、椿は神の山の木と認識されていたことが伺われます。

「 この春も春日野の馬酔木の花ざかりをみて美しいものだとおもったが、それから
  二、三日後、室生川の崖の上にそれと同じ花が真っ白にさきみだれているのを
  おやと思って見上げて、このほうがよっぽど美しい気がした。
  大来(大伯:作者註)皇女の挽歌にある馬酔木はこれでなくてはと思った 」
                           (堀辰雄 : 大和路 信濃路より)


「 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
  見すべき君がありと云はなくに 」 巻2-166 大伯皇女(おおくのひめみこ)


作者は天武天皇の皇女。
伊勢神宮の斎王(さいおう)の任を解かれて都に戻る途中で詠んだ歌とされています。
斉王とは天皇の名代となって神に奉仕する未婚の内親王または女王をいい、
天皇一代の間に一人だけしか選ばれない神の霊を身につけた特別な女性と
されていました。

皇女には大津皇子という最愛の弟(天武天皇第三皇子)がおり、文献(懐風藻)によると
身体強健、容姿秀麗、文武両道に秀で、その将来を嘱望されていた人物で
あったようです。

686年、天武天皇が崩御されました。
後を継ぐべき草壁皇太子は病弱で凡庸な人物であったらしく、大津皇子次期天皇待望論
が出る中、何としても実子草壁を天皇にしたいと願う母親はのちの持統女帝でした。
( 大伯、大津姉弟の母太田皇女と持統は姉妹。つまり持統と大津は叔母、甥の関係 ) 

まだ忌中の15日目、何を思ったのか皇子は不用意にも密かに姉大伯が斉王と
なっている伊勢神宮に下りました。
当時、国家の守護神である伊勢神宮に勝手に参ることは固く禁じられており、重大な罪と
されても致し方がない行為で、持統側が失脚の機会をじっと狙っていた矢先のことです。
密告により捕らえられた皇子は謀反のかどで処刑され、僅か24年の生を終えました。

( 神霊をもつ馬酔木を手折って弟に見せ、その身の幸いを祈りたい。
 それなのにあの子はもうこの世にいないのです。
 ついこの間、元気な顔を見せたばかりなのにそんなこと信じられるでしょうか。 
 信じたくもない!
 でも、「彼はまだ生きているよ」と世間の人は誰一人言ってくれないの。  
 もはや諦めるしかないのでしょうか。あぁ-。 )

母親に早世され 肩を寄せ合うようにして生きてきた仲の良い姉と弟。
この挽歌は不遇な死をとげた弟への万感の想いが哀切極まりなく私達に
迫ってまいります。
皇女はその後14年間に亘り41歳で他界するまで弟が葬られた二上山を仰ぎ見ながら
冥福を祈り続けました。
斉王なるゆえに恋することも禁じられていた美しい乙女はその生涯のすべてを神と弟に
捧げたのです。

「 馬酔木はどこか犯し難い気品がある。それでいて手折ってみせたい
 いじらしい風情の花 」  ( 同 大和路、信濃路) 


堀辰雄はよほど大伯皇女と馬酔木に魅せられていたようです。
上の文章は「斎王の犯し難い気品」と「白い聖なる花」のイメージをを重ね合わせ、
さらに、「馬酔木を手折らめど」と皇女が詠ったのを受け、「手折ってみせたい」と
万葉の女性に対する憧れの気持を表現したものでしょうか。

「 友人の手紙から」
『 むかしむかし、あせびを庭に植える時、文学少女だった母が
「あしびはあせびとも言い、万葉花なのよ」と言って漢字を教えてくれたのを
思い出します。

漢字が面白いのと、明治の雑誌の名前を日本文学史の時間に習った事もあって
覚えており、母も懐かしかろうと思い、この家に持ってきたのですが、
君が紹介してくれる迄は、正直言って
「なんとも冴えない灌木だなあ、なんでこんな木を植えたのだろう」と思っていました。

よく見るとなるほど可憐な花ですねえ。「いじらしい」という言葉がぴったりな花です。
「犯しがたい気品」も良く見ると「なあるほど」と理解できます。

こういう一見目立たない花の良さを見つけ愛でるのも日本人心情の、否、宮廷文化の
特徴なのでしょうか。
風情を愛でる「わび・さび」の原点の一つかもしれませんね。 (Ⅰ.N君より) 』

                             
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by uqrx74fd | 2009-03-29 19:55 | 植物

万葉集その二百七(にほふ)

「 敷島の大和心を人問(と)はば
         朝日ににほふ山櫻花 」   本居宣長


『 この歌の「大和心」には「国粋主義的なニュアンスはなく生まれたままの素直な
人間らしい心」という感じが込められている。』 (“名歌名句辞典 三省堂”) 

今日、「匂う」という動詞は嗅覚に関する語として使用されていますが、元々は
内面の奥に隠れているものが何かに触発されて表面に美しく映え出たさまをいいました。

その語源は「丹」(に) 「穂」(ほ) 「生」(ふ)で丹土の朱色が秀でて(穂は秀でるの意がある)
生成することにあるとされています。

鉄分を多く含む黄赤土は高熱で焼くと鮮やかな赤色に変身しますが、古代の人達は
その変化に驚異を感じたことでしょう。

土から生まれたこの言葉は後に転じて自然や乙女の美しさを讃え、さらに女性との関係を
「にほわせる」など多様な意味を持つ語句に変わりました。

 「 朝日影 にほへる山に照る月の
    飽かざる君を山越(やまごし)に置きて 」 巻4-495 舎人吉年(とねりのえとし
)

( 朝日に映える山の端にまだ月が残っています。
好きで好きでたまらないあのお方をはるか遠い山の彼方に置いてしまって。
残月のようにまだまだ未練が一杯の私なのに-。)

その昔、田部櫟子(たべいちひ)という官人が大宰府に派遣されることになり
夫が旅立った後、残された妻が詠った一首です。

遠くかなたに向かった夫を「山の向こうに置いて行く」という言い方はいささか
不自然ですが、山を越えると異郷、その異郷に夫を「在らしめて」(澤潟久孝)という
意味に解釈すると分かりやすいようです。

朝日に映えている山、有明の月、一人寂しく佇む妻がシルエットのように浮かび上がる
 美しくも切々たる情景の歌です。

「 草枕 旅行く君と知らませば
   岸の埴生に にほはさましを 」 巻1-69 清江娘子(すみのえのをとめ)


(あなた様が旅をされる方と存じておりましたならば、記念にこの住吉の岸の黄土で
お召し物を染め、美しく映えさせましたものを。それも出来ず残念なことでございます)

699年文武天皇難波行幸の折、従事した長皇子(ながのみこ:天武天皇第4子)主催の
宴席での一首。
「清江娘子」とは住吉に住む娘という意味ですが一説には遊女とも伝えられています。

「岸の埴生」は住吉の台地の崖から採れる黄赤色の土のことで顔料や染料に用いられて
いましたがここでは娘子を寓意しているかもしれません。
「あなた様と情を交わしたかったのに残念ですわ」と。

当時の住吉は白砂青松の地で近くに難波離宮や海の都を守護する住吉神社があり、
美しい遊女も多数いたことでしょう。
都の人々は競って訪れ、浜遊びをしながら新鮮な魚介類に舌鼓をうち、市場で買い物を
楽しんでいたようです。

( お-い!馬を止めようぞ。
この美しい住吉の埴土(女)に存分に染まって行こうではないか。) 

「 馬の歩み 抑(おさ)へ留めよ 住吉(すみのえ)の
   岸の埴生に にほひて行(ゆ)かむ 」   巻6-1002 安部豊継


                                   
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by uqrx74fd | 2009-03-22 19:37 | 心象

万葉集その二百六(千の風になって)    


「 私のお墓の前で 泣かないで下さい
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています 」  
      
                        ( 英詩作者不明 日本語訳 新井満)

古代の人々は「人間の肉体と魂とは別のもの」と信じていたようです。                        
「生きている」とは「肉体に魂がみなぎっている状態」、「死ぬ」とは「萎える」即ち
「魂が肉体から決定的に抜け出た状態」と認識し、「肉体は魂を保管する器」であると
考えていたことが数々の歌から伺われます。

『 ちなみに魂は肉体を離れた後はどうなるのか?
  古来、鳥になると考えられてきた。では鳥が死ぬと何になる?
  風になる。そのようにして魂は永続する。 』


                   (中西進 「美しい日本語の風景 玉の緒:要約抜粋」)

「 青旗の木幡(こはた)の上を通ふとは
    目には見れども直(ただ)に逢はぬかも 」  巻2-148 倭(やまと)姫大后


( ここ木幡(京都山科)では山の木々が風に吹かれて揺れています。
まるで青い旗が翻(ひるがえ)っているようです。
その山の上をあなたさまの御魂が行き来している様子が私の目にははっきりと
見えるのに、もう、じかにお会いすることが出来ません。
でも、いつも私の近くにいらっしゃるのですね )

この歌は671年、天智天皇が崩御され、山科に葬られたときに亡き夫を偲んで
詠われたものです。

魂が風に吹かれて行き来しているのか、魂そのものが風になったのか?

「青旗」「木幡」の「はた、はた」と続く音調は魂が遊行しているさまをも想像させます。

作者は父(古人大皇子)が亡き天皇により死に追いやられるという複雑な過去を
持つ女性ですが、妻として誠心誠意、夫に仕えた心優しい女性だったようです。

「 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る 」          ( 新井満 千の風になって)

「 天翔(あまがけ)り あり通ひつつ 見らめども
    人こそ知らね 松は知るらむ 」 巻2-145 山上憶良


「(有間皇子の) 御魂は鳥になって天空を飛び通い何時も松をご覧になっている
でしょうが、普通の人にはそれがわかりません。
ただただ松の木が知るのみです )


658年孝徳天皇の子、有間皇子は謀反の罪で処刑されました。皇位承継にからみ
中大兄皇子と蘇我赤兄が仕組んだ罠だったともされている事件です。
捕えられた有間皇子は紀伊への護送の途中

「 岩代の浜松が枝を引き結び ま幸くあればまた還り見む 」  巻2-141 と

松の枝を結び合わせて無事帰還することを祈りましたが、再び戻ることが
出来ませんでした。

山上憶良の歌(2-145)は、後世、悲運の皇子を悼んで詠われたものですが
「天翔り」の原文が「鳥翔成」となっているところから作者は皇子の御魂が鳥となって
翔けていると感じていたようです。

新井満氏は次のように述べておられます。
『「千の風になって」は自然界のあらゆる事物に霊魂や聖霊が宿るとする信仰即ち
「アニミズム」の香りがただよい、原作者はネイティブ・アメリカンの誰かではないか? 
そして「いのちは永遠に不滅であると歌った詩であろう」 』 と。

まさにそれは古代万葉の人々が感じ、詠った世界と合い通じるものでありましょう。

「 死者の道連れは   赤土のうつくしい埴輪たち
たましいは透明な風になって  そこを通りぬける
ひっそりと 笑みすら浮かべて 」         工藤弘子
   
                                             
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by uqrx74fd | 2009-03-16 19:18 | 心象

万葉集その二百五(春雨)

『 春雨の名所はなんといっても京都である。
私はちょうど今ごろの季節、京都をおとずれたことがあったが、それまでは
一面に霧がたちこめているのかと思っていた。
それが ふと賀茂大橋を渡りかけて賀茂川の水面を見ると糸のような波紋が
無数に描かれては消えてゆく。
気がつくと、なるほど雨とは見えないような細かい水滴が、空中を舞い上がり
舞い降りして、しっぽりと京の町をぬらしているので「降るとは見えじ春の雨」と
歌われたのはこのことだったかと感じたことがあった。 』


( 金田一春彦 月形半平太:ことばの歳時記所収:新潮文庫)

「 春雨に衣はいたく通らめや

  七日(なぬか)し降らば七日来(こ)じとや 」 巻10-1917 作者未詳


( 春雨ってそんなに濡れるものかしら。
肌着までびっしょり濡れ通るはずがないでしょ。
 七日も続けて雨が降ったら七日ともお出でにならないおつもり?)

古代の人達も春雨は大して濡れないものだと自覚していたようです。
作者は「男はもう自分に飽きたのかもしれない」と感じているのでしょうか。
内心では諦めの気持を持ちながらも、ひたすら訪れを待ち続ける儚(はかな)い女心。

「 我が背子に恋ひてすべなみ春雨の
            降るわき知らず出でて来しかも 」 巻10-1915 作者未詳 


( あの方が恋しくて恋しくて-。
とうとう気持を抑えきれなくなって見境もなく家を飛び出してしまいました。
春雨が降っているのにも気が付かないで-。 )

霧のような雨。無意識のまま外に飛び出した女。されど恋人の姿はなし。
道に立ち尽くして、しっとり濡れてゆく。
春雨という言葉は何となく艶なる趣を添えるようです。 

「 春雨のしくしく降るに高円(たかまど)の
             山の櫻はいかにあるらむ 」   巻8-1440 河辺東人


( 春雨がしきりに降り続いているなぁ。
高円山(奈良市)の櫻はもう蕾も膨らんだだろうか。いや、もう咲き出したかな)

櫻の開花に思いを馳せている作者。
春雨は木の芽を張り、花の開花を促すものと考えられていたのでしょう。


『 新国劇の芝居でみると、月形半平太が、三條の宿を出るとき
「春雨じゃ、ぬれて参ろう」というが、今思うと、彼は春雨が風流だからぬれて
行こうといったのではなく、横から降りこんでくる霧雨のような雨ではしょせん
傘をさしてもムダだから、傘なしで行こうと言ったものらしい。
そこへゆくと、東京の春雨は「侠客春雨傘」という芝居の外題(げだい)でも知られる
ように、傘を必要とする散文的な雨である。』 
(金田一春彦 : 月形半平太 同 )

「  春雨や 蓬(よもぎ)をのばす 草の道 」  芭蕉 
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by uqrx74fd | 2009-03-08 18:28 | 自然

万葉集その二百四(空騒ぎ)

      
昔も今も結婚適齢期を迎えた我が子に「良縁を」と願う親心は変わらないもの。
今回は、母親が「これと目をつけた相手に体よく断られたが、なんと! 肝心の娘は
縁談を進めていた当の相手と既に肉体関係を持ちながらも別の男と婚約をしていた」と
いう現代っ子顔負けのドタバタ劇のお話です。

主役は、万葉の才女「大伴坂上郎女」と「藤原八束(やつか)」(藤原房前左大臣の三男
のち、大納言) 助演、「大伴駿河麻呂」(名門、大伴御行の孫、のち、鎮守府将軍) 
脇役、坂上郎女の二女、大伴二嬢(ふたいらつめ) という豪華な顔ぶれです。

「 風交じり 雪は降るとも 実にならぬ
      我家(わぎへ)の梅を 花に散らすな 」 巻8-1445 大伴坂上郎女


( 風に交じって雪までも降っています。
そんな風雪に耐えてようやく咲いたばかりの まだ実を結んでいない我家の大切な梅。
どうかその美しい花が実をつけるまで散らさないで下さい。)

この歌は梅を娘に譬え「わが家の娘はまだ成人しきっていない少女なのだから、悪戯に
口説き落とすなと暗に警告した」(伊藤 博)ものとされていますが、山本健吉氏は

『 二嬢のもとへ八束の忍び通いがすでに始まっているのではないかと思う。
  何故ならば、まだ公に承認されていない段階の肉体関係はすなわち「花」の段階で、
 まだ「実」になっていない状態なのだ。
いくら美しくても少女なら「花」ではなく「荅」(かん:作者註 固い蕾) なのである。
結婚が公に成立した時に花は実と成る。
それは娘の家で公式に男を婿として承認する宴をやって成立する。

つまりこの歌は「娘を仇花にしないで、早く正式な結婚を成立させてほしい」という催促なのである 』
 とされています。 (「詩の自覚の歴史 筑摩書房」より要約抜粋) 

さてさてそれでは、相手の八束はどう応えたのでしょうか?

「 妹が家に 咲きたる梅の いつもいつも
       なりなむ時に 事は定めむ 」 
巻3-398 藤原八束


( あなたさま(妹)の家に咲いている梅、その花が立派な実となる暁には
いつでも事の次第を決めることにいたしょう )

『 ぬらりくらりと身をかわして逃げようとしている。本当の心は無期延期ということだ。
  何か八束に心変わりさせる事情があったのだろう 』    ( 山本健吉 同)

「二嬢が他の男と交際している」という噂が八束の耳に入ったのかもしれません。
さぁ、困った坂上郎女。ところが思いがけない展開になります。


「坂上の娘が婚約?」との噂を聞いた大伴駿河麻呂はびっくり仰天します。
それもそのはず、彼は母親(郎女)に内緒で二嬢と結婚の約束をしていたのです。

「梅の花 咲きて散りぬと 人は云えど
   我が標(しめ)結(ゆ)ひし 枝ならめやも 」 
巻3-400 大伴駿河麻呂


( 人の噂ではお嬢さんはもう結婚が決まったといっているようですが
まさか二嬢さんではありますまいね。
私は彼女とはもうとっくに婚約をしているのですよ )

今度は母親が驚く番です。が、「八束がだめなら渡りに船」と思ったのでしょう。
二人の気持が変わらないうちにと早速親族一同を招いての披露宴、つまり実とします。
そこでの母親の挨拶

「 山守の ありける知らに その山に
    標結ひ立てて 結ひの恥しつ 」 
巻3-401 大伴坂上郎女


( あなたのような立派な婿殿がいたのに、他の男にちょっかいを出しに行ったとは
私は何と間抜けた頓馬な母親だったのでしょう )

内心では権勢並びなき藤原家の御曹司に娘を嫁がせたかった郎女ですが、
ここでは婿どのを大いに持ち上げ、目出度く結婚披露宴はお開きとなりました。

梅に因んだ優雅な万葉貴族サロンの一幕。
実はこの劇を演出したのは土居光知氏 (英文、古典学者 日本学士院会員)です。

冒頭の歌「風交じり雪は降るとも実にならぬ-」は「巻八、春の雑歌」に組み入れられており、
一見他の歌と関係がない体裁になっています。
「何故ここに組み入れられたか?」 多くの解説では不明とされていますが、土居光知氏は

『 歌を並べて万葉集中の適当な場所に配置すれば誰でも事件を察し興味を持つだろう。
これは坂上の大伴家の私事であるが、公表されると恥をかくのは郎女ではなくて
八束であり、藤原氏の怒りは恐ろしい。
大伴家はこれを公表して八束の怒りを招くようなことはしなかった。

そこで、万葉集の編集者である大伴家持は坂上郎女が書写して秘めて置いた数首の
比喩歌の連続性を曖昧にするために「風交まじり」の歌を巻八の春の雑歌の中へ
さりげなく入れた』 と推理されたのです。
(「古代伝説と文学」岩波書店より要約抜粋)

まさに卓見。
かくして、これら一連の歌は通説を覆す楽しい物語に生まれ変わりました。

  「箱入りを 隣の息子 封を切り 」  (川柳 :柳多留45)
























                            
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by uqrx74fd | 2009-03-08 18:22 | 心象

万葉集その二百三(椿は照葉樹林の華)

日本列島に人々がまだ住んでいなかった時代、この島の南の大部分を覆っていたのは
照葉樹林であったといわれています。

即ち、広い葉の表面に光沢をもった常緑の樹種、例えばシイ、カシ、クスノキ、
ヤブツバキが主となっている林で、椿はそれらの木々代表するものの一つとされています。

我国原産の椿は古くから聖樹として大切にされ、品種改良を重ねた結果、積雪地帯でも
育つユキツバキが生まれ、今や北海道を除く全国各地で見られるようになりました。
なお、「椿」の歴史については「万葉集その四十六 つらつら椿から椿姫へ」(植物)を
ご参照下さい。

「 奥山の八つ峰(を)の椿 つばらかに
   今日は暮らさね ますらをの伴(とも) 」 巻19-4152 大伴家持


( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、その名のようにつばらかに(ゆったりと)
 今日一日をお過ごし下さい。 お集まりの皆さん )

越中国守の館で催された宴での主人(作者)の挨拶。
射水川(現小矢部川)の流れを取り込み、さらに二上山東麓の河岸段丘の上に
位置していた館(犬養孝 万葉の旅) から眺める椿の群生、さらには櫻も同時に
開花していたと思われ、さぞ見事な景色であったことでしょう。

「つばき」「つばらかに」と同音韻律が美しく響く一首です。

「 我が門(かど)の片山椿 まこと汝(な)れ
    我が手触れなな 地に落ちもかも 」 巻20-4418 物部広足 (防人)


( 我家の門口に咲いている片山椿。その美しい椿のようなお前さんよ。
俺が出征してしまうと留守の間に椿のように地に落ちてしまうかな? 
手を触れないで清純無垢のままにしておきたいのだが、どうしょう? )

片山椿とは山の傾斜地や平地の一方が盛り上がっているところに咲いている椿を
いいます。
作者は防人として武蔵国を出立するにあたり、思いを寄せている女性が
「自分が手を触れないうちに他人のものになってしまうのか?」と懸念し
「それならいっそのこと手を出そうか」と悩んでいます。

山の傾斜面は男の不安定な心情を、また、椿は萎れていない瑞々しさを保ったまま
ポトリと落ちるので、相手の女性の清純さをイメージしているような一首です。

椿は首が落ちることを連想させるため、庭木としては忌み嫌われましたがチリツバキは
花片がばらばらになって散るので桜同様武士にも愛され、庭にも多く植えられたようです。

特に突然変異によって生まれた「五色散り椿」は枝ごとに白い花や紅色、白地に紅の斑
等様々に咲き分け、花びらは八重、しかも深く裂けているので、満開をすぎると一枚ずつ
落ちてゆき、苔の上に散り敷かれたその美しさはまさに豪華絢爛たるものです。

速水御舟画伯の「名樹散椿」(めいじゅちりつばき:山種美術館蔵 重要文化財) は
その様子を見事に描かれた名作としてつとに知られております。

「 椿落ちて昨日の雨をこぼしけり」 蕪村
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by uqrx74fd | 2009-03-08 18:17 | 植物

万葉集その二百二(梅の香り)

 
「 眼がさめたやうに  
 梅にも梅自身の気持がわかって来て
  そう思ってゐるうちに花がさいたのだらう
  そして
  寒い朝霜がでるように
 梅自からの気持がそのまま香にもなるのだらう 」
                        
                                      ( 八木重吉  梅より )
 
寒気がまだ残る中、凛とした佇まいを見せ、ほのかな甘い香りを漂わせてくれる梅。
万葉人はその気品と美しさを愛で、およそ120首の歌を残しました。
ところが、不思議なことに馥郁(ふくいく)とした梅の香を詠んだものはたった一首しか
ありません。
野にも山にも芳香が満ち溢れていたでしょうに、それを文学的に表現するには
まだ時代が早かったようです。

758年2月(旧暦)のことです。
式部省次官である中臣清麻呂宅で主人の生誕を祝う宴が催されました。

「 梅の花 香をかぐはしみ遠けれど
       心もしのに 君をしぞ思ふ 」 巻20-4500 市原王 


( あなた様のお庭の梅の香が芳しく、遠く離れたところまで漂って参ります。
 その香り同様に高いあなた様の人徳。私はいつも心からお慕い申しております。)

主人の誕生日を寿ぎ、その人徳を慕う気持を梅の香に託し、且つ女性の立場からの
恋歌仕立てにした一首です。
天智天皇の玄孫(やしゃご)でもある作者は

「 一つ松  幾代を経ぬる吹く風の
   声の清きは 年深みかも 」  巻6-1042  ( 第144回「松風」参照 )


という万葉集中屈指の名歌を詠んだ人としても知られ、聴覚の音を「声の清き」と
表現するなど独創的なセンスの持主であったようです。
この歌も香りがもてはやされた平安時代の先駆をなすものとされています。

「 君ならで誰(たれ)にか見せむ 梅の花
    色をも香をも しる人ぞしる 」    紀友則 古今和歌集


( あなたでなくて一体誰に見せましょうか。 その梅の花を。
 色の素晴らしさも、香りの素晴らしさも分る人だけが分るのですから )

題詞によると梅の花を折って人に贈った時に添えた歌のようです。

梅の花を讃えつつ、相手の心の深さを讃えた一首で、前掲の市原王の歌に相通じるものがあります。
なお
『 「しる人ぞしる」という表現はこの古歌によって日本語に根づいたのではないか 』
とも指摘されております。( 大岡 信 「名句、歌ごよみ 春」 角川文庫 ) 

    「 日の匂ひ 風の匂ひで 野梅咲く 」 中村芳子

    

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by uqrx74fd | 2009-03-08 16:38 | 植物

万葉集その二百一(君が代のルーツ)

古代での「君」は「自分が敬愛する人」をいい「主君、父母、親族、配偶者、友人」など
誰に対しても尊敬と親愛をこめて使われていた言葉です。
また、「代」の原義は「竹の一節」をいい、転じて「齢(よわい)」あるいは「一代」を
さすものとされています。

万葉集では「君」「千代」「八千代」「細石」(さざれいし)「巌」「苔むす」という語彙は
多く見られますが国歌「君が代」の思想即ち万人の繁栄と長寿を寿ぎ、
その永からんことを祈る歌は次の一首と考えられています。

「 花散らふ この向つ嶺(を)の 乎那(をな)の嶺の
     州(ひじ)につくまで 君が齢(よ)もがも 」      巻14-3448 作者未詳


( 花が散り舞う向こうの山の尾奈(静岡県)の嶺が、長い長い年月を経て磨耗し
川の中州に漬かるまで、あなたさまの寿命が何時いつまでも長からんことを! )

「劫」(こう)という仏教用語があり、「一辺四十里 (160㎞) の岩を三年に一度 
(百年に一度という説も) 天女が舞い降りて羽衣で撫で、その岩が擦り切れて
なくなってしまうまでの時間 」とされ、ヒンドゥー教では43億2000万年と
定義されております。

「山が州になるまで」と詠うこの歌はまさに「劫」の思想。
国歌「君が代」の「さざれ石の巌となりて」と表裏一体をなすものです。

市井の万葉研究家 田中一徳氏は「江戸時代の賀茂真淵門下の逸材、橘千陰が
このことを既に万葉集略解(りゃくげ)で指摘しており、
「これこそ君が代の元の姿、源姿」と確信したと述べておられます。

学者の中には

「 妹が名は 千代に流れむ姫島の 
小松がうれに 苔むすまでに 」      巻2-228 河辺宮人


( この娘子の名は万代まで語り継がれるであろう。娘にふさわしい姫という名を
持つ島の小さな松が成長して苔がむすようになるまで未来永劫に )

を「これこそ君が代のル-ツ」と主張される方もおられますが、このような
乙女の入水を悼む挽歌が「国歌」の源泉となるはずもありません。

「 わが君は 千代に八千代に さざれ石の
    巌となりて苔のむすまで 」         古今和歌集 巻七  読み人しらず


( あなた様!いついつまでも長生きされますように。小さな小石が悠久の年月を経て
巌となりさらにそれに苔が生えるようになるほどまでに )

この歌の「わが君」が「君が代」になったのは平安末期と推定されています。
国歌の原型とされるこの歌は古くは平安以前から多くの民衆に「祝い歌」として
朗詠されてきたと推定され、白拍子、神楽歌に採り入れられているところから
元々は「神遊び」即ち舞を付けて朗詠された「鎮魂(たましずめ)」や「再生(たまふり)」儀礼の性格を
帯びていたものと考えられています。
 
以下は 山田孝雄著 「君が代の歴史」 から要約抜粋です。

『  近世に到ってこの歌は極めて広く利用され、物語、御伽草紙、謡曲、小唄、浄瑠璃、
   仮名草子、箏歌、長唄、盆踊り歌、琵琶歌、祭礼歌からはては乞食の門付けにまで及び、
   日本全国津々浦々で歌われたもので、およそ日本国の歌謡としてこれほど遠く広く深く
   行き渡ったものはなく、国歌となったのは自然の勢いであった  』



「 我春の 若水汲みに昼起きて 」  越人
 「 餅をくひつヽ 祝ふ君が代 」   旦藁(たんこう)」
                   

                             (芭蕉七部集 春の日 付合の一部)
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by uqrx74fd | 2009-03-08 15:02 | 心象

万葉集その二百(龍馬)

              
「 龍(たつ)の馬も 今も得てしか あをによし
      奈良の都に行(ゆ)きて来むため 」  巻5-806 大伴旅人
 

(  龍の馬というものを何とか手に入れたいものです。
   それさえあれば奈良の都まであっという間の一ッ飛び。
あなたにお会いして、たちまち戻ってくることもできましょう。 )

この歌の序文に「天の川を隔てた牽牛織姫にも似る嘆きを覚え、一日も早くお目に
かかれることを願う」(要約) とあり、大宰府長官、旅人が都の親しい女性
(丹生女王:伝未詳 ともいわれる)に贈ったものとされています。

では、「龍の馬」とは一体何でしょうか?

龍の起源説は東西にあり、東はインドと中国、西方はシュメールに発します。
インド産のものはナ-ガ即ちコブラから生まれた神です。
竜という字はコブラが獲物を狙っているようにみえますね。

中国産は龍(ロン)とよばれる鱗(うろこ)に覆われた蛇状の胴体で、2本の角と髭、
鋭い爪をもつ4本足の想像上の怪獣です。

仏伝によると釈迦が豪雨と洪水に遭遇した時に救ってくれたのがナ-ガと言われ
以来インドでは仏教の守護神に加えられました。

仏教がインドから中国に伝えられた時、中国人はナ-ガを中国土着の龍と理解して
寺院にその造形や絵を祀(まつ)り、さらに王権のシンボルとします。
一方、インドではナ-ガ即ちコブラのままの姿をとどめました。

西方の龍は有翼、2本足でドラゴンとよばれますが、キリスト教の敵とされ天使や
使徒に退治される悪魔の化身となります。

同じ龍でも東方は守護神、王権のシンボル、ヨーロッパでは悪魔で敵役と
善悪分かれているのは興味深いことです。

仏教守護神である龍は水の神である八大龍王をも兼ね、普段は水中に棲み、
翼がなくても天に駆け上がり、雨や雪なども司ります。
龍という字の右半分は躍動飛行するさまを示しているそうです。

「 時により すぐれば民のなげきなり
    八大龍王 雨やめたまえ 」         源実朝


「すぐれば」は「度がすぎると」


この歌は1211年7月、大雨で洪水が発生し土民達がひどく難儀している時、
仏像に向って真摯な祈りを捧げた折のものとされています。
民を守る為なら龍王をも叱咤する為政者のこの気迫。

我国では仏教と共に龍も伝来しましたが、固有の文化と一線を画したのでしょうか、
王権のシンボルにはなりませんでした。
その代わり、寺院などの天井裏、柱、壁、襖などいたるところに龍の絵が描かれたり、
彫り物がなされ守護神としての役割を果たすことになります。

さて、つぎは「馬」。
ギリシャ神話に太陽神を運ぶ天馬ペガサスが登場します。
この天馬が遠くシルクロードの西の端ギリシャ、ローマから遥々と砂漠を越え
高山をわたり中国にたどり着きました。
そして中国固有の龍と交わって生まれたのが龍馬です。

かくして冒頭の万葉歌は
東西文化融合のシンボルである「龍馬」がシルクロードの終着点である我国に
到着したことを教えてくれているのです。

「 金色の 龍の鱗か 笛の音の
   しみいる波に うきてはしずむ 」     森鴎外

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by uqrx74fd | 2009-03-08 13:05 | 動物

万葉集その百九十九(冬籠り春さりくれば)

木々や花々の芽が「時節にはまだ早いかなぁ」とはじらうように顔を出し、
軒の氷柱(つらら)から、一滴また一滴と落ちる雫。
 
吹く風にも心なしか温かさが感じられ、春はもう目の前です。
古代の人はこのような情景を「冬籠り春さり来れば」という美しい言葉で表現しました。

「 冬こもり春さりくれば 朝(あした)には白露置き 夕(ゆうへ)には霞たなびく
  風の吹く木末(こぬれ)が下(した)に 鶯鳴くも 」  巻13-3221 作者未詳


(  朝の太陽に映えて輝く白露、そして夕べには棚引く霞。
  風がそよと吹いては木々を揺らせ、梢の下で鳴く鶯。
 いよいよ待ちに待った春 ! )

「冬籠り(隠りとも書く)」は春に掛かる枕詞とされていますが、その奥には
「冬が隠れて見えなくなる」(winter is over) 、あるいは、原文が「冬木成」
(成は盛と同義)であるところから「冬の間 落葉していた木々が芽を出し、
盛んに茂るようになる」という意味が込められているようです。

「春さりくれば」の「さる」は「去る」ではなく「移動」「進行」を表わす言葉で、
「春がやってくると」。

 「 冬過ぎて 春来(きた)るらし朝日さす
    春日(かすが)の山に 霞たなびく 」 巻10-1844 作者未詳


( どうやら冬も終り春がきたらしいなぁ。 朝日に輝く春日山に霞がたなびいているよ)

古代の人々は霞が棚引く空に春の到来を感じ取っていました。
陰陽五行説によると東は春をさし、春日山も文字通り東の方向に位置しています。
暖かい朝日、春の山の名を持つ春日山、そして棚引く霞。春到来の喜びの歌です。

757年12月18日(太陽暦2月1日頃)、三形王(みかたのおほきみ:天武系か?)の
屋敷で宴会が催されました。
まず主人が「 雪が降る冬は今日限り、いよいよ明日から春到来」と詠い、次に続きます。

「 うち靡く春を近みか ぬばたまの
     今夜(こよひ)の月夜 霞たるらむ 」 巻20-4489

              甘南備伊香真人(かむなびの いかごのまひと:官人)


( 暦の上での春も真近に迫っているせいでしょうか。
今宵は霞が一面に広がり月空が薄ぼんやりとしていますね。
寒気も緩み春到来の兆しが感じられ、おめでたいことです。 )


「うち靡く」は辺りの景色が朦朧と霞に包まれるさまを表します。
朧月夜を愛でながら一献また一献と盃を傾けている優雅な万葉貴族の方々よ。

二月四日は立春

『 「立つ」というのは今までに存在しなかったもの - 
一般に神秘的なものが忽然と姿をあらわした言葉であり、
 竜を「タツ」というのも常に隠れているものが現れる意味だろうと推定される 』

                    ( 金田一春彦 ことばの歳時記 新潮文庫 )

   「 颯爽と歩いてみれば春近し 」    千原叡子
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by uqrx74fd | 2009-03-08 13:03 | 自然