<   2009年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その二百二十一(紅花)

「 3世紀のベニバナ花粉  邪馬台国と同時期  
  奈良纏向遺跡   卑弥呼の織物と関係か 」 
 
                          ( 読売新聞見出し:2007年10月3日)

エジプトや西アジア原産のベニバナはシルクロードを経由して中国から渡来したと
いわれています。
我国でこれまでに確認されていた最古のベニバナの花粉は6世紀後半の藤ノ木古墳
(奈良県斑鳩)のものとされており、それを300年以上も遡る画期的な発見です。

纏向(まきむく)遺跡は大和王朝の初期に発展した集落跡と考えられており、邪馬台国の
有力候補地とされていることから、「卑弥呼の衣裳や化粧用にベニバナが使われていたと
想像してもよいわけで」(吉岡幸雄 日本人の愛した色:新潮選書) 時空を越えた
遥かなるロマンの世界へと私達を誘(いざな)ってくれます。

 「 紅(くれなゐ)の 深染めの衣(きぬ) 色深く
       染(し)みにしかばか 忘れかねつる 」 
                    巻11-2624 作者未詳


( 念入りに染め上げた紅の深染の衣。
その着物のように私の心の中にあの人への想いが深く染み込んでしまいました。
もはや忘れようとしても忘れられないことです )

紅は紫とともに最高の色とされ着用は上流社会の人たちに限られていました。
美しい女性が紅の衣をまとって優雅に歩く姿は都の男達をたまらないほどに
魅了したようです。

中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に「倭国の女王卑弥呼が魏に赤と青の
織物を献上した」との記述があり「発掘された構跡のまわりに紅花の染工房あるいは
化粧品を造る工房があったと考えてもよく(同氏 同著)、その後400年を経過した
万葉時代の染色技術はかなり高度なものであったと思われます。

紅花から染料や口紅を作るのは大変な作業が必要とされました。
農民は花を摘み、水洗いをして黄色い色素を洗い流し、発酵させて餅のように搗いた後、
筵に並べてせんべい状にしてから乾燥させ紅餅といわれるものをつくります。
出来上がった紅餅は、紅花商人を経て都の紅屋売られ、それぞれの秘伝の技術や
灰汁などを加えてようやく染料や口紅になったのです。

「 黒牛潟(くろうしがた) 潮干(しほひ)の浦を紅の
    玉裳(たまも)裾引き 行くは誰(た)が妻 」  
                    巻9-1672 柿本人麻呂歌集


( 黒牛潟の潮の引いた海辺、その水際を紅染めのあでやかな裳裾を引きながら
  麗人が歩いてゆきます。 あれは一体誰の妻なのだろう )

701年持統太上天皇、文武天皇が紀伊の国 牟婁(むろ)の湯に行幸されたときの
宴席での歌で、黒牛潟は現在の和歌山県海南市黒江とされています。

紅の裳裾(ロングスカート)をたくし上げ、白い素足を見せながら浜辺を逍遥している
美しい女たち。男たちは大いに官能をそそられたことでしょう。
作者はその優雅な姿を目の当たりにしながら都に残してきた妻を思い浮かべて
いるのかもしれません。

『 農家の主人がいった。「紅は昔から染料よりもクスリに重宝されたんです。
  お侍さんの印籠の中にかならず固紅が入っていました。キズ薬だったんですね。
  女の人が赤い腰巻を重宝したのも虫がつかぬからで、またこの真っ赤な色だと
  寒い国では裾が温こうございました 」
  私は女性が真紅の布で裾を巻きつけたのは温まりたいとする本能からきていた
  ことに気付いた。
  - 男性にとって多少は毒々しくても、身を温めてくれそうな女性は永遠に魅力
  なのである。 』 
                  ( 水上 勉 日本のべに 日本の名随筆「色」:作品社)

「 紅の浅葉の野良に刈る草(かや)の
        束の間(あいだ)も我(あ)を忘らすな 」 
                     巻11-2763 作者未詳


( 紅色が浅いという その浅羽の野原で刈る萱。
 その一束を刈る短い時間でも私を忘れないで下さいね )

「浅葉」は「色が薄い葉」という意味のほか「地名」を掛けており現在の
「埼玉県坂戸市浅羽」または「静岡県磐田郡浅羽町(現、袋井市) 説があります。
また「紅」は「紅色」と解釈するのが定説ですが強引に「紅花であると」する説も。

『 埼玉県では浅羽を「万葉集のゆかりの地」として指定し歌碑を建て説明板もある。
また「紅」は「紅花」であると解釈している地元の歌人もいるが、どちらも
我田引水の感があるがその土地の者として当然の心境と思う。 』
(武州桶川紅の花:加藤貴一著より)

江戸時代、武州桶川は出羽最上地方に次ぐ紅花の産地として大いに栄えました。
明治維新以降、化学合成染料の登場により衰退し、ついに消滅してしまいましたが、
近年、街のシンボルとして小規模ながらもその栽培を復活させており、
街づくりの目玉に何としても「浅羽」を「万葉伝来の紅花発祥の地」と
したかったのでしょう。

ただし、古代、紅花は税として貢納され、平安時代には全国で20余国栽培されていた
との記録があるので武州も産地の一つであったことは十分に考えられることと
思われます。

「 眉刷(まゆかき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花 」 
                                    芭蕉 (奥の細道)


芭蕉が最上地方、尾花沢を訪れたとき、紅花畑は一面の花盛りだったようです。
この一句は花のさまを眉掃き、すなわち女たちが白粉をつけたあと眉を払う化粧用具に
見立てたものとされています。
さらに芭蕉の幻想はどんどん広がり、紅花から採れた口紅をつけた艶かしい
女の姿をも思い浮かべていたようです。たった一字の言葉「俤」の深さです。
[PR]

by uqrx74fd | 2009-06-29 19:24 | 植物

万葉集その二百二十(娘の結婚)

「 はるの夜の女とは我(わが)むすめ哉 」 ( 榎本其角 )

まだ少女といってよい年齢のわが娘。
なにかのきっかけで、ふと女を感じた父親の驚きと複雑な心境。
春の夜の艶なる一句です。

人生50年といわれていた昔、結婚が許される年齢は早く、男が15歳女は13歳と
定められていました。

夫が妻のもとに通う「妻問い婚」の時代では子は母親のもとで躾や教育を受け、
恋の指南役もまた母親の大切な役目でした。

「 たらちねの 母が手離(はな)れ かくばかり

     すべなきことは いまだせなくに 」 

          巻11-2368 柿本人麻呂歌集


( お母さんの手を離れて物心がついてから、こんなにやるせない思いは
  いまだかってしたことがありません。一体どうしたらいいの? )

    「せなくに」は「為(せ)なくに)」で「未だ経験したことがない」の意。

ようやく一人前になった乙女の初恋です。母親にはまだ内緒なのでしょう。
どうしたらよいのか分らず、戸惑いながらも激しく燃えてゆく恋心。

「 早川の瀬に居る鳥の よしをなみ

   思ひてありし 我(あ)が子はもあはれ 」 

                   巻4-761 大伴坂上郎女


( 流れの速い川瀬に降り立つ鳥が足をとられそうになるように、
  頼りどころがなく心細げに沈みこんでいた我が子。可哀想に!)

「よしをなみ」は「縁(よし)を無み」で頼るところがないの意

題詞によると作者は農耕作業の采配を執るために大伴家荘園、竹田庄(奈良県橿原市)に
赴いていたようです。
都で留守を預かる長女、大嬢(おほいらつめ)は心細そうな顔をしていたのでしょう。

思い悩んでいる娘の姿を思い浮かべて、あれやこれやと遠くから気をもんでいる母親です。

大嬢の初恋の相手は大伴家持でした。
732年頃二人は婚約しますが家持十五歳、大嬢はまだ十歳といわれ、お互いに
幼すぎたため正式な結婚は5年後になります。

その間しばらく疎遠になり、家持は他の女性と数々の浮名を流していたので母親としては
さぞヤキモキしていたことでしょう。

「 玉守に玉は授けてかつがつも

         枕と我は いざふたり寝む 」 

                巻4-652 大伴坂上郎女


( 大切に守り育ててきた玉は玉守に授けたことだし、やれやれ一安心。
私は枕と二人で寝るしかないわね。 さぁ枕を抱いて寝ましょう。寝ましょう。)

この歌の「玉」は次女の二嬢(おといらつめ)「玉守」は一族の大伴駿河麻呂とされています。
結婚式も無事に終わり、賑やかな披露宴のあと二人は新居へ移り、一人残された作者。

相手は幼少の頃からよく知っている男であっても、手塩にかけて育ててきた娘が
いざ手元から離れてしまうと喜びとも寂しさともつかないやるせない気持の母親です。

「かつがつも」は「不本意な心持は残るけれどもやれやれ終わった」という感情。

6月に結婚する花嫁は「ジューン・ブライド」とよばれます。
ローマ神話のジュピターの妻「ジュノー」(女性と家庭の守護神)」の祭典が6月に
行われることに由来し、女神に守られた花嫁は幸せな家庭を築くことが出来ると
いわれています。
   

「長き夜の 寝覚め語るや 父と母」 召波
[PR]

by uqrx74fd | 2009-06-21 17:17 | 生活

万葉集その二百十九(植樹)

原始の時代、我国ではカシ、クス、シイ、ツバキなどの照葉樹が豊富に茂り、
人々はこれらの木々から日常生活に必要なものを賄っていました。
即ち住居(竪穴式)や船を造るをための材、弓矢、食料としての木の実、燃料などです。

やがて社会制度が整い集落が形成されると社(やしろ)や支配者の屋敷などを造るために
大きな用材が必要になり、人々は杉、檜、栗などの木を選別して育てるようになります。

植樹の歴史は縄文時代にまで遡り、三内丸山遺跡(青森)から出土された柱のDNAから
栗の優良種を選んで植えていたことも判明しているそうです。

さらに古代人は木材の特性を正確に把握し、その用途を熟知していたことが下記の
一文からも窺われます。

「 はじめ 五十猛神 (いたけるのかみ)が 天降られるときに、
  たくさんの樹の種をもって下られた。 - - 。

 杉と樟(クス)は船、 檜は宮殿、 槙(マキ)は棺 にしなさいといって
  それを育てる沢山の種を播いた 」  (日本書紀 神代上)


植林の文献上の記録は「日本三代実録」の「866年茨城県鹿島神宮で造営用の木材を
備蓄するため杉4万本(?) 栗5700本を植えた」という記述が初見とされていますが
次の歌はそれ以前に植樹がなされていた事を示すものです。

「 いにしへの 人の植ゑけむ杉が枝に

      霞たなびく春は来(き)ぬらし 」 

                   巻10-1814 柿本人麻呂歌集


( 古の人が植えて育てたというこの杉木立の枝に霞がたなびいている。
 もう間違いなく春がきているのだなぁ。 )

杉は間伐をし、枝打ちをしなければ真っ直ぐに、また大きく育ちません。

作者は鬱蒼と茂る見事な杉木立を眺めながら古人が植樹をしたものだろうと、
その遺徳を讃えながら春の来訪を寿いだものです。

なお、伊藤博氏はこの一首は前後の歌との関連から天皇の国見の場で
詠まれたものと推定されています。

「 橘の 陰踏む道の 八衢(やちまた)に

     物をぞ思ふ 妹に逢はずして 」 

             巻2-125 三方 沙弥(さみ):伝未詳


( 四方八方に枝分かれした道には橘の木が木蔭を作っています。
 長い間あの子に逢っていないので、あれやこれやと思い悩むことです。
 私の心はまるで道が幾様にも分かれているように、
 あちらへ行ったりこちらへ行ったり。

題詞に 「作者が園臣生羽(そののおみ いくは)という人の娘と結婚して
      まだ幾日も経っていないのに病床に臥し、しばらく女のもとに
      通うことが出来なかったときの歌」 とあります。

八衢(やちまた)という語句は重要な幹線道路をさすところから、
ここでの橘は街路樹とされています。
 愛する妻のもとに通うのにふさわしい恋の通い路(武田祐吉)です。

710年、都が藤原京から平城京に移されました。
新都は東西約4,2㎞、南北約4,8㎞、藤原京の3倍半の広さをもつ
本格的な計画都市で唐の長安を範としたといわれています。

大路、小路で碁盤目に整然と区画され、メインストリートの朱雀大路は3,8㎞、
道幅は75mという巨大なもので、路の両端に柳の街路樹を植えて国家的な儀式、
パレード、海外使節一行を迎える場としての美観を整えました。

「 東(ひむがし)の 市の植木の木垂(こだ)るまで

    逢はず久しみ うべ恋ひにけり 」

              巻3-310 門部 王 (かどへのおほきみ)


( 東の市の並木の枝が成長してこんなに垂れ下がるようになるまで貴女に長らく
  お逢いしていないので、恋しくなるのも尤もなことです )

作者は奈良朝で風流侍従とよばれた人物で後に臣籍に移り大原真人と称しました。

平城京では東西の市が置かれましたがここでは杏(中西進)を植えたようです。
また各地でも椿、桑、橘、ケヤキ、杏など様々な樹木が植えられ、それぞれの市の
シンボルとされる共に人々は木蔭で暑さを避け、果実で喉の渇きを癒したそうです。

759年から朝廷は東大寺の僧普照(ふしょう)の献策により、畿内七道諸国の駅路に
果樹並木を植え始めました。

当時、防人や諸国からの税 (調、庸) を都に運搬する人々がその往還に大変な苦労を
重ねており、それらの人々の辛苦を救うためといわれています。

普照は遣唐使に従って渡唐し、20年間かの地で学び754年に帰国するときに
鑑真を日本に招いたといわれる人物です。

古代の人々は木を切ったのち鳥総立(とぶさたて)、つまり木の梢や枝葉の穂先を切り株に
立てて神に感謝の意を捧げるとともに樹木の再生を祈りました。
このような木に対する愛情と敬虔な気持が時代を超えて脈々と受け継がれ
今日の全国的な植樹祭に至っているのでしょう。

      「 吹き上げてくる瀧風や杉を植う 」 野生月 冷子
[PR]

by uqrx74fd | 2009-06-15 19:51 | 生活

万葉集その二百十八(梅の実、梅干)

まもなく梅雨入り、梅の実が熟する季節です。

中国原産である梅は元々「梅酢」を作るために栽培されたといわれています。

梅酢とは梅を塩漬けにして出た汁から得られる調味料で「塩梅」(えんばい)
と呼ばれました。

作り方は簡単なようで難しく塩加減が決め手だそうです。
塩が多いと鹹(から)く、塩が少ないと酸っぱい。

このことから「塩梅」(えんばい)という言葉は
 按配(あんばい:程よく調和している)
さらに転じて「臣下がうまく君主の政治を助ける」(広辞苑) 
という意味にもなりました。

塩梅は肉類などの生食に欠くことが出来ない調味料であると共に、
クエン酸を主成分とするところから器具や人体の消毒、金属の鍍金や
はんだ付け、青銅器、鉄器の酸化皮膜処理、また、化粧や
染色に使う「紅」(べに)の色素の精製、油にまぜて黒の染料にするなど、
近代に至るまで多様な方面に用いられていました。

 「 妹が家に咲きたる花の 梅の花

           実にしなりなば かもかくもせむ 」 

                   巻3-399 藤原八束


( あなた様の家に咲く美しい梅の花。
その梅の花が実になったらその時は私の思い通りにさせて
いただきたいのです)

「かもかくもせむ」:「望み通りにさせていただきたいのですが」

「実にしなりなば」に「梅の実が成熟すること」と「娘の結婚適齢期」とを掛け
娘の母親から縁談を暗に持ちかけられた作者が
「時期がきたらその時に考えましょう」といささか腰が引けた態度で
応じた一首です。

( その経緯については万葉集その204「空騒ぎ」心象編をご参照下さい)


万葉集で梅の歌は120首前後ありますが梅の実を詠ったものは少なく、
それもすべて「実になる=女性の結婚適齢期」という比喩に使われています。

一つ「梅」に関して興味深いことは、その原文表記の多くが「烏梅」となっており
それを「ウメ」と訓ませていることです。


当時、烏梅(うばい)という黒い梅がありました。
半熟の梅を藁の煙で燻(いぶ)して燻製状にした漢方薬のことで、解熱、腹痛に効ありと
され現在でも和歌山県で細々と作られているそうです。

万葉人もその「烏梅」を常用していたのでこのような原文表記になったのでしょう。
それにしても中国渡来とはいえ、「烏(カラス)のような黒い梅」とは面白い表現ですね。



「 拾ひつる うす赤らみし 梅の実に
    木の間ゆきつつ 歯をあてにけり 」 若山牧水



青い梅は酸味が強く生食には適さないものですが作者は
そのまま食べたのでしょうか?

梅干の作り方については6世紀の「斉民要術(せいみんようじつ):中国)に
「青梅を夜の間 塩汁に浸し、昼は天日に曝す。
これを10昼夜続けると白梅が出来る」との記述があり現在の梅干作りと
全く同じ方法だといわれております。

我国でも奈良時代にはその製法が伝えられていたと推定されていますが、
紫蘇の葉を用いて赤い梅を作るようになったのは江戸時代からだそうです。

「 梅漬の紅は日本の色なりし 」     粟津 松彩子
[PR]

by uqrx74fd | 2009-06-10 08:28 | 植物

万葉集その二百十七(泉、清水)


「 湧きいずる泉の水の盛り上がり

     くずるとすれや なほ盛り上がる 」     窪田空穂


 「泉」という字は
     「丸い穴から水が湧き出るさまを描いた象形文字」とされ、
     訓の「いづみ」は「出水(いづみ)」に由来するそうです。
 

万葉集で「泉」という文字は数多く見られますが、いずれも「水が豊かな場所」
または「地名」として用いられ、湧き水の清冽なさまは「ま清水」「山清水」「井」
「走り井」などと表現されています。

 「 - 水こそば とこしへにあらめ 御井(みゐ)のま清水」

                   巻1-52 長歌の一部 作者未詳


この歌は我国最初の本格的な都城とされる 「藤原京」(694~710) を
讃えたものです。

都を造営するにあたって尽きることがない湧き水がある場所を探し求め、
掘られた井戸は都の繁栄と永続のシンボルとされました。

  「 家人に恋ひ過ぎめやも かはず鳴く

         泉の里に 年の経(へ)ぬれば 」 

                        巻4-696 石川広成
 

( ここ、河鹿(かじか:蛙)が鳴く美しい泉の里に 仕事で赴いてきました。
  ところが、予想外の長逗留になってしまい、何時帰ることが出来るか
  わかりません。
  家に残した家族への恋しさが募るばかりの日々。早く帰りたいなぁ。)

740年前後、泉の里は新しい都、久邇京(くにきょう:京都木津近辺) 造営で
大童でした。
作者はこの遷都に携わる官人だったのでしょう。

自然の素晴らしい環境も望郷の念には勝てなかったようです。

「恋ひ過ぎる」は「恋しくなくなる」という意ですが、否定の「めやも」が続いて
いるので「恋しくなくなるなんてあり得ない」という意味になります。

 「 落ちたぎつ 走井水(はしりゐみず)の 清くあれば

              置きては我は 行(ゆ)きかてぬかも 」 

                        巻7-1127  作者未詳


( 激しく流れ落ちる水が余りにも清らかなので旅の途中で先を急ぐのに
  立ち去りにくいことです。)

古代では水が勢いよく流れ出ることを「走る」と表現しました。

喉の渇きを覚えつつ、一歩一歩山を登ってゆく。
やがて岩間から流れ出る湧き水を発見し思わず駆け寄ります。

胃が痛くなるほどの冷たい水で喉を潤し、心身ともに生き返った心地の作者。
澄み切った美しい水に命の根源を見出し、感謝の気持を込めて
旅の安全を祈ります。

「 馬酔木なす 栄えし君が掘りし井の

        石井の水は 飲めど飽かぬかも 」   

                  巻7-1128 作者未詳


( 馬酔木の花のように栄えたあなたさまが掘られた石で囲った井戸。
 その水は飲んでも飲んでも飽きることなく美味しいものです 。)

石で囲った井戸は裕福な人でなければ造ることが出来ませんでした。
その井戸を惜しげもなく開放し、後々まで多くの人々に慕われ、
感謝されている亡き先人。

 「 道のべに清水ながるる柳かげ

       しばしとてこそ立ちとまりつれ 」  西行 ( 新古今和歌集)


( 道のほとりに清水が湧き流れていて、そこに柳が涼しそうに木蔭をつくっています。
 しばらく休ませてもらおうと立ちよったのですが、あまりにも気持がよいので
 ついつい長居してしまったことです)

西行63~73歳のころ、旅の途中あるいは屏風に書いたものともいわれている歌です。
夏の暑い日に清水と木蔭を見つけた喜びと清涼感、作者の淡々として
澄み切った心境が感じられます。

後年、芭蕉は奥の細道の旅の途中、西行が立ち寄ったと伝えられる
この歌ゆかりの那須野で

「 田一枚うゑてたちさる柳かな 」     の名句を詠みました。

西行を深く尊敬し思慕していた芭蕉。
遠い昔を偲んで長い間瞑想に耽っていたようです。

句の解釈については諸説ありますが、山本健吉氏は

『 西行の歌の「しばしとてこそ」の具象化が「田一枚」なのであり
暫しと立ちどまったところ思わずときをすごしてしまってその間に田一枚
植えられたのである 』
   と適切な解説をなされています。

「 西行の 詠みたる清水 掬(く)めど澄む 」 森田 峠
[PR]

by uqrx74fd | 2009-06-01 19:46 | 自然