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万葉集その二百三十八「百代草(ももよぐさ)は菊?」


私達が今日、品評会や菊人形などで鑑賞する大輪の菊は、野生の原種から気が遠くなる
ほどの長い年月を掛けて栽培されたもので、「家菊(イエギク)」とよばれます。

植物学上の分類では野生、栽培種とも同一のものとされ、牧野富太郎博士は、
「日本原産の野地菊が中国に渡り、長年改良されたものが「イエギク」になった」と
推定されています。(牧野新日本植物図鑑)

「家菊」は8世紀中頃の天平期、あるいは同世紀後半の平安初期に薬用植物として
中国から渡来したといわれていますが、文学の世界に登場するのは、
751年に編纂された我国最古の漢詩集「懐風藻」においてでした。

そこには、「菊風 (註:秋風のこと)」、「菊気 芳し」、「菊浦(きくほ) 註:水辺の菊」、
「浮菊(ふきく) 註:酒に浮かべた菊」など雅やかな言葉がみられ、これ等の漢詩は
長屋王が新羅の使節を招いて催された宴席で吟じられたものです。

ところが万葉集には「菊」という言葉が見当たりません。
ほとんどの解説書では、菊の渡来は平安時代なので、万葉人は菊の存在を
知らなかったと記されていますが、もしそうならば同時代の懐風藻になぜ菊という語が
多くみられるのでしょうか?

色々な文献を調べてみると、唯一下記のような記述がみられました。

「 ふしぎなことに万葉集には菊をよんだ歌が見あたりません。
  それは菊がなかったわけではなく菊のことをそのころは百代草(ももよぐさ)と
いっていたからなのです 」

              ( 万葉集物語 :森岡 美子 富山房インターナショナル刊)

ここまで断定してもよいか、いささか躊躇いたしますが、まずは該当歌です。

「 父母が 殿(との)の後方(しりへ)の 百代草
          百代いでませ 我(わ)が来るまで 」
 
  巻20-4326 生壬部足国( みぶべのたりくに);静岡県掛川市の防人


( 父さん、母さんが住む母屋の裏手の百代草。その「ももよ」ではないが、
  私が帰ってくるまで、どうか百歳(ももよ)までお達者でお過ごし下さい。  )

「壬生部(みぶべ)」とは本来、皇子を哺育するとともに、その警護を任とする
職のものをいうそうですが、作者は防人として赴任したようです。

「いざ出発」という時にあたって両親の息災を祈った歌ですが、親を思う真情に
あふれており、作者の優しい性格が伺われます。
両親が住んでいる建物(殿)の裏手には野菊が植えられていたのでしょうか。

豊田八千代氏はその著「万葉植物考」で「百代草」は未詳であるが 
『 「莫傳抄(バクデンショウ:平安時代)」に菊なりとし、
「本草啓蒙」には「鴨跖草(つきくさ):つゆくさ」とす。
なお、昔よもぎとする説もあれど確かならず 』とされ、

最新の説 (藤原茂樹 日めくり万葉集2009年10月号)では、

「ノギク、ヨモギ、ツユクサ、マツ、などの中、一説のリュウノウギクか。
その年の山野花の中で最後に咲く花であることも父母の長寿を祈る草として
ふさわしい」 ともあります。

以上の諸説を総合すると

「 古代、わが国に野生の小さな菊があり、「百代草」とよばれていた。
それが中国に渡り、長い年月をかけて今日のような大輪の菊に改良され、
平安時代に我が国に里帰りした。
懐風藻に歌われた「菊」は野生の菊ではなく「家菊」であり、万葉人は中国で
描かれた絵画や漢詩から学び、実物はまだ知らなかったのではなかろうか?」
と推定されるのです。

「 菊を東籬(とうり)の下(もと)に採り 
  悠然として南山を見る
  山気、日夕に佳く 
  飛鳥、相与(あいとも)に還(かえ)る 」     陶淵明「飲酒」


 『 一茶に「悠然として山を見る蛙かな」という句がある。
  陶淵明のこの詩句のパロディである。
  一茶には、悠然として山を見る蛙の境遇が羨ましかったのだろう。
  高逸の詩人を蛙といったのは、むしろ彼の自嘲である。
  彼は死ぬまで、そのような清閑の境遇には恵まれなかった。

 酒というと陶淵明を思い出す。また菊というと陶淵明を思い出す。
 東のまがきに、その菊は植えてあった。菊を見ては独酌で酒をくむ。
 客がないので、自分の影法師をかえりみて、ひとりで飲みほし、
 たちまち酔を発する。

 時に目をやって、悠然として南山を見る。南山とは盧山である。
 秋深い山のけはいは、夕暮れになってますますさわやかである。
 鳥があい連れて、山のねぐらへ帰って行く。

 「飲酒」の歌のこの二行が、どうしてこうもひとびとを深い思いに
 さそいつづけてきたのだろう。
 これは平凡な詩句なのだ。

 だがこの二行には多くの人の願ってもかなえられない姿が深い彫りで
 描かれていたのだ。

  あくせくと忙しい日夜を送っているわれわれは、せめて一度でも、
 こういう境遇にあって、菊を東籬(とうり)のもとに採ってみたいのである。
 一度でも悠然として南山を見てみたいのである。 』 
                  ( 山本健吉 ことばの季節:文芸春秋社)

「 菊干すや 東籬の菊も 摘みそへて 」 杉田久女

 菊酒をぐいと飲み干す艶やかな女姿を髣髴させる一句です。
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by uqrx74fd | 2009-10-26 07:23 | 植物

万葉集その二百三十七(倭琴:やまとごと)

古代、神楽や雅楽で用いられていた「倭琴」(やまとごと)は「あずま琴」ともよばれ、
縄文、弥生の遺跡から出土する「へら状の突起形木製品」や、古墳遺跡にみられる
「埴輪の弾琴像」などにその原型が認められるそうです。

元々は、五弦の小さなものでしたが、奈良朝以降、六弦の長大なものになり、
柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で音程を調節し、指にはめた爪:(ピック)で弾きました。

その後、改良を加えられて「和琴(わごん)」と呼ばれるようになり、現在でも
宮中の雅楽演奏などで用いられていますが、正倉院遺物にそのル-ツと推定される琴が
残されているそうです。 ( なお、琴と箏の違いについては末尾をご参照下さい)

「 琴取れば 嘆き先立つ けだしくも
       琴の下樋(したび)に 妻や隠(こも)れる 」   巻7-1129 作者未詳


( 琴を手に取るとまず嘆きが先立ってきます。
 もしかしたら琴の空ろの中に亡き妻の魂が籠もっているのだろうか )

「けだしくも」ひよっとして 

「下樋」琴の表板、裏板の間のうつろになっている部分
    元来の意味は地下に設けた木製の水路、すなわち暗渠(あんきょ)のこと

古代、物が空洞になっているところには霊的なものが宿ると信じられており、作者は
亡き妻の愛用の琴を弾き出す前から、妙なる音色が聴こえてきたと感じたようです。

『 「嘆き」は単に悲嘆、哀傷の意ではあるまい。その心情をもこめつつ、
音色にいたく引かれてしまう切実な感動をいうのであろう。

格別に気高い音色をだす琴なのだが、妻との思い出がこもるので弾く前に
いっそう感極まってしまうという心。つまりは、きわめて複雑微妙な形で
琴をほめるのがこの一首 』(伊藤博) とされています。

さらに、大岡 信氏はこの歌の大意が「妻を偲ぶ」ものであるにもかかわらず
題詞が「倭琴を詠む」となっていることについて次のような指摘をされています。

「 題材別に古今の歌を集成することに主眼がおかれ、歌を別の角度から
取り上げて新しい編集者意識、方法論を示そうとした。
これこそ古今和歌集以降もっとも際立った特徴で、和歌の歴史全体を通じて
編集者がどれほど重大な存在であったかを示すものであり、
読者の関心をうながしておきたい。」とされ、この歌の作者は
大伴旅人、編集者は大伴家持であろうと推定されています。  
           (「私の万葉集」講談社現代新書より要約抜粋 )

「 我が背子が 琴取るなへに 常人(つねひと)の
    言ふ嘆きしも いや重(し)き増すも 」 巻18-4135 大伴家持


( あなたさまが琴を手にとってお弾きになるにつれて、世間の人が「琴の音で
悲しみがわく」という、その嘆きが次から次へとこみあげてまいります。)

作者、越中在任中「秦伊美吉 石竹 (はだのいみき いわたけ)」の館で催された
宴での歌で、琴を演奏しているのは主人、石竹と思われます。

「琴を取れば嘆きがこみ上げる」と詠ったのは「あなたさまの演奏があまりにも
見事なので感動のあまり泣きたいくらいの気持でございます」と言いたかったようです。

「よい音楽のゆえに、憂愁を感ずるといふのは大陸の文学思想によって開かれた情趣
(武田祐吉)」であり、「自然の風雅の象徴“雪月花”に対応する人事の風雅の象徴
“琴詩酒”が想起される」(伊藤博)一首です。

この「琴とれば嘆き先立つ」という語句は後々の歌人たちに大いに好まれ、微妙な
変化を加えながら常套の文学的表現となって平安時代へと受け継がれてゆきます。

「 わび人の 住むべきやどと 見るなへに
    嘆き加はる 琴の音ぞする 」    古今和歌集 雑歌下

(よしみねのむねさだ 良岑宗定:僧正遍照の俗名)


( 「世をいとう人が住んでいるような住まいだな」、と思って見ていると、
私の気持に合わせるように、住む人の嘆きがいっそう加わるような
琴の音がしてきたことです。 )

作者が奈良へ旅したときに荒れた家で女性が琴を弾いているのを聞いて
詠んだ歌とされています。
「世をいとう人」とは俗世を捨ててわび住まいする人を言いますが、ここでは
女が何かの事情で京から離れて住んでいることをさすようです。
美しい女性を見ると放ってはおけない遍照さん!

「 この明るさのなかへ
  ひとつの素朴な琴をおけば
  秋の美しさに耐へかね
  琴はしづかに鳴りいだすだらう 」   ( 素朴な琴 :八木重吉)


『 素朴な琴は作者自身の心の象徴。
琴の調べに誘われるように詩人の心が鳴っている。
あるいは琴と心が同時に鳴りいだそうとしている。

それは秋の日のように単純で素朴な自然にあこがれながら、
みずからは ついに単純にも素朴にもなりきれなかった悩み多き
近代人の心のときめきである。 』

( 八木重吉詩集 「素朴な琴はなぜ鳴り出したか」 郷原 宏より )

ご参考:「琴について」

「 琴(きん、こと) という言葉は我国では弦楽器を総称するもの」とされ

①琴 ② 箏(そう) ③和琴(わごん) に大別されます。

「琴」 は大正琴、一弦琴、二弦琴、七弦琴 などをいい、音程は絃を押える場所で
    決めます。

「箏」 は奈良時代に中国から渡来し、現在普通に「こと」とよばれているもので
    柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で音程を調節します。(和琴と同じ)

 厳密な区別が必要な場合は「琴(きん)の琴」「筝(そう)の琴」というそうです。
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by uqrx74fd | 2009-10-19 20:08 | 生活

万葉集その二百三十六「斑鳩(いかるが) 散歩」

「 いかるがの さとのをとめは よもすがら
    きぬはた おれり あきちかみかも 」    会津 八一


「斑鳩」という地名は聖徳太子ゆかりの法隆寺を中心とする一帯をいい、その地に
「イカルガ」という小鳥(スズメ目アトリ科)が棲息していたことに因むといわれています。

「きぬはた」は絹ではなく、衣類を織るための機。
古き良き時代の長閑な田園風景が彷彿され、しみじみとした旅情が感じられる
一首です。

昭和20年代頃、最寄の鉄道駅から法隆寺に続く道は、春になると田畑一面に菜の花、
レンゲ、タンポポが咲き乱れ、秋にはコスモスや桔梗、女郎花、彼岸花、薄などが
田園を美しく彩っていました。
ところどころに点在する藁葺き屋根の美しい民家や崩れかかった土塀。
ゆっくりと歩いてゆくと、やがて緑も鮮やかな杉木立が迎えてくれます。

「しぐるるや 松美しき 法隆寺 」 阿久津 都子

『 はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく
胸の躍りだすような刻々と幸福の高まって行くような愉快な心持であった。

南大門の前に立つと、もう古寺の気分が全心を浸してしまう。
門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだときには、また法隆寺独特の
気分が力強く心を捕える。
そろそろ陶酔がはじまって体が浮動している気持ちになる。』(和辻哲郎 古寺巡礼)

この本を片手に寺々を巡った若き頃が懐かしく思い出される一文です。

堂々たる世界最古の木造建築、胴太のエンタシスの柱、連子格子の美しい回廊、
金堂の極楽浄土の壁画、五重塔初層の真迫の表情の塑像、アルカイック・スマイル
(古拙の微笑み)の み仏たち、夢殿に佇むモナ・リザの微笑に擬せられた
太子等身の像等々を巡ると、万葉ゆかりの池の跡(現在非公開)に出てまいります。

「 斑鳩の 因可(よるか)の池の よろしくも
       君を言はねば 思ひぞ我(あ)がする 」 巻12-3020 作者未詳


( 斑鳩の「よるかの池」は、よい池、好ましい池といわれています。
 ところが、世間ではあなたのことを、その池の名のように「よい人」と
 誰も言ってくれないのです。 一体どうしてでしょうか。
 それが今の私の物思い、悩みの種なのです。)

どうやら恋人はあちらこちらで浮名を流し、よからぬ噂が立っているようです。
親から付き合いを止められているのでしょうか?
あれやこれやと悩みながらもその男を忘れられない純情な乙女です。

「因可の池」については所在未詳とされていますが、法隆寺管長、大野玄妙師は

「 法隆寺境内にある聖徳会館の南側の湿地帯が因可の池の跡であり、
昔は地域の人々を大変潤(うるお)し、また頼りにされていた池であったと思われる」
と述べられておられます。

「 家ならば 妹が手(て)まかむ 草枕
       旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと) あはれ 」

       巻3-415 聖徳太子

             (万葉集その11:聖徳太子とマザーテレサ既出)

( 家にいたなら 妻の腕(かいな)で支えてもらって篤い看病を受けていたであろうに。
この旅先で草を枕に一人倒れ臥しておられるとは。 あぁ、なんと いたわしいことよ!)

万葉集唯一の太子の歌で、行き倒れの旅人を悼んだものです。
日本書紀によると、そのあと太子は自分の衣裳を脱いで旅人にかけてやり、
「安らかに眠れ」と言われたと伝えられています。

552年(538年説もあり)百済から仏教が伝来し、釈迦像、仏具、仏典が献上されます。
時の天皇(欽明)は仏教を受け入れるかどうか朝廷の意見を求めますが、
崇仏(すうぶつ)派の蘇我氏、排仏派の物部氏との間で政権を争う具とされ、
以来35年にわたる熾烈な内乱となりました。

用明天皇2年(587)、ついに蘇我氏が物部氏を滅ぼし我国最初の本格的な仏教寺院
飛鳥寺(法興寺)、次いで聖徳太子の手で四天王寺、さらに607年には法隆寺が
建立され本格的な仏教導入がはじまりました。

新しい国作りの理想に燃えた太子は仏教思想を基底にした中央集権統一国家の
建設を目指すために「遣隋使」を派遣して先進文化や仏教の経典を積極的に
取り入れました。

そして、「冠位十二階」の制定による氏族の世襲禁止と、有能な人材の登用、
「十七条憲法」の制定による「和と平等の政治」、「天皇の詔の遵守」(王権の確立)、
「三法(仏 法、僧)を敬うこと」などの政策を推し進めます。

然しながら、血を血で洗う同族の凄惨な戦い、皇位継承をめぐる争いとそれを操る
蘇我氏の横暴はとどまるところを知らず、ついに太子は仏教の真理を求道するために
斑鳩宮の道場(夢殿)に籠り瞑想の世界に入られました。

太子理想の政治体制の実現は雄図むなしく後代に持ち越されましたが、
日本文明黎明期に異質文明を積極的に採り入れ、それを取捨選択しながら、
有益な知識と技術を自家薬籠のものとして、新しい日本文化を創造し、
それを高度な水準にまで引き上げた功績は大きく、
後々、我国の多様な時代精神を生み出す原動力になったと言えましょう。

『 私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺にかけて巡拝するたびことに
この斑鳩里のかって太子の歩まれたことを思い、一木一草すらなつかしく、
ありし日の面影を慕いつつたたずむのを常とする。

春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を
訪れると、そのすぐ後ろには、もういちめんの畑地である。
法輪寺と法起寺の塔が眼前に見えるかげろうのたちのぼる野辺にすわって
雲雀の空高くさえずるのをきいたこともあった。

かってここに飛鳥びとがさまざまな生活を営んでいたのであろうが、
彼らの風貌や言葉や粧(よそお)いはどのようなものであったろうか。 』

( 亀井勝一郎 大和古寺風物誌 :旺文社文庫)

「 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 」   正岡子規   
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by uqrx74fd | 2009-10-12 10:21 | 万葉の旅

万葉集その二百三十五(かえで)

『 「カエデ」の古名を「かへるで(蛙手)」という。
葉の形が蛙の手に似ているからである。

ふつうは「もみじ」とよんでいるが「万葉集」では主に「黄葉」の字を
宛てており紅葉と書くようになったのは平安期以後のことらしい。

本来「もみじ」は動詞であり草木が秋になって変色することを
「もみつ、もみつる」などといったが、カエデが一番美しく紅葉するので、
その別名詞となったのであろう。 』

( 白州正子 木より:平凡社 。 筆者註:「紅葉」という字は万葉集に一首あり)


「 我がやどに もみつかへるて 見るごとに

     妹を懸(か)けつつ  恋ひぬ日はなし 」

        巻8-1623  大伴田村 大嬢(おほいらつめ)


( わが庭のカエデも日に日に色づいてきました。
 その美しい紅葉を見るたびに、あなたのことが気に掛かり、
 恋しいと思わない日はありません。

万葉集では男女間の恋歌のほか、肉親や親しい人との歌のやり取りも
相聞に分類され、この歌も作者が異母妹、大伴坂上郎女に贈ったもの
とされています。

二人は大伴旅人の弟である宿奈麻呂の子で、姉の田村大嬢は
父とともに平城京近くの田村の里に、妹の坂上郎女は
明日香、竹田の庄に母、大伴郎女と住んでいました。

二人はとても仲がよかったらしく、妹を想う優しい姉の真情あふれる一首です。

「 児毛知山(こもちやま) 若かへるでの もみつまで

     寝もと我(わ)は思(も)ふ 汝(な)はあどか思(も)ふ 」

                      巻14-3494 作者未詳


( 児毛知山 この山のカエデの若葉がもみじするまでずっと寝ていたいと俺は思う。
 お前さんはどう思うかね )

山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう、即ち結婚しよう」と
匂わせています。

児毛知山は群馬県渋川市北方にある「子持山(海抜1,296m)」で、
古代から性崇拝の神山として名高かったようです。
山の麓または中腹で歌垣も行われており、そこでの口説き歌ともいわれています。

『 「寝もと我は思ふ」以下のもぐもぐした幼稚っぽい口調を私は特に愛する。
  この朴実な口説きの言葉は、後世にはどうしても生まれえぬものであろう。

  「寝も」は、まるで純真な響きを発している。
  息づきもせず力みもせず明るくほほえましく
  この「寝も」が自然にでてくるところ、ここに原始の香りが
 いまだ多少は漂っている山間部の村々のよさがある」 

 ( 田辺幸雄 万葉集東歌 塙書房 ) 』

「カエデ」は我国に自生する落葉高木の総称で「楓」という字があてられています。

然しながら、中国の「楓」は日本にはなく、日本の「カエデ」は中国で産しません。
従って「カエデ」に「楓」を当てるのは誤りであると、多くの方が指摘されています。

「楓」は中国原産の「マンサク」科の大樹で聖なる木とされているそうです。
一種の芳香を漂わせ、丸みを帯びた葉は三つの大きな裂け目があり秋には紅葉し、
風に吹き当てられると葉むらがいっせいに揺れ動くところから「楓(フウ)」という
会意文字になったという説もあります。

その「楓」に日本の「カエデ」という字が当てられたのは唐風一辺倒、国風軽視の
思潮が高まっていた平安時代でした。

『 中国の古典文献に出ている事柄はすべて正しく、なにごとによらず典拠を
漢籍の中に求むるべきであると考えていた平安王朝知識人が以前から実物未見、
正体不明のままになっていた“楓”なる霊木をいよいよ文学素材のうちに
取り込まなければならなくなったとき、かれらは、とくに「説文解字」などの説く

「 漢宮殿中多植之 、至霜後 葉丹可愛 」の連関から

「宮中の庭園に植えられている樹木の中で、晩秋になって葉が真っ赤に変わる
種属として日本のカエデをもって「楓」にあてた』 

( 斎藤正二 植物と日本文化 八坂書房 )

こういった指摘にもかかわらず、現在、「広辞苑」ほか、どの辞書を引いても
「かえで=楓」とされています。
ここに至っての訂正はもう不可能でしょう。

したがって「楓」は誤用ではなく「代用漢字」というべきでしょうか。

「打ち晴れて 野山の錦 明日も旅 」 北川左人
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by uqrx74fd | 2009-10-04 08:47 | 植物