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万葉集その二百四十三(高いなぁ!税金)

税務署と坂口安吾(作家)の問答

 税務署: 「 税金を払って下さい 」
 坂口:  「 金を全然持っていないのに課税するのは不当だ 」
 税務署: 「 持っている金に税がかかるのではなく 
         あなたが受け取られた金に課税するのです」
 坂口:  「 むちゃ言うな。 取った金など右から左に使ってしまった。
        金がないのに何から払い金をひねりだすのだ 」

                  ( 市川 深 「万葉の心 生きる心より:税務経理協会発行」)

古代、律令制度下では「一家族を戸」とし、その主を「戸主」といいました。
そして「50戸を里」として里長を置き、戸主の監督と税の取立て役を兼務させます。

各戸主に負担を義務付けられていたのは 租、調、庸、の税金と役民、兵役でした。

与えられた田畑にかかる人頭税の「租」、各地の特産物を納める「調」だけでも
大きな負担であった上、働き手の男子は役民や兵役で徴収され、庶民の生活は
言語に絶するほど過酷なものであったようです。

                          ( 末尾の「古代の税」をご参照下さい)

「 風交じり雨降る夜(よ)の 雨交じり雪降る夜は すべもなく寒しくあれば
    堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ)うちすすろひて- -

  - かまどには火気(ほけ)吹き立てず  甑(こしき)には蜘蛛の巣かきて
  飯炊く(いひかしく) ことも忘れて - 

  - - しもと取る 里長(さとをさ)の声は
     寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばいぬ
     かくばかり すべなきものか 世の中の道」 巻5-892 山上憶良


 ( 風に交じって雨の降る夜、その雨にまじって雪の降る夜は 寒くて仕方がないので
  保存用の固い塩をかじったり酒粕の汁を熱くしてすすったりして -

  - かまどには火の気を吹きたてることも出来ず、米を蒸す甑(こしき:土器)には
  蜘蛛が巣をかけて、飯を炊く事などとっくに忘れてしまい -

 笞(むち:しもと)をかざす里長の声は、寝屋までやってきてわめきたてている。
  こんなにも辛く処置のないものか、世の中を生きてゆく道は )

教科書にも引用される有名な「貧窮問答歌」の一部です。

働いても働いても追いかけてくるものは貧窮でしかない一般農民のあえぎ。
窮乏を極限にまでせり上げていくすさまじい描写(伊藤博)は当時の庶民の生活を
赤裸々に伝えてくれています。

「法師らが 髭の剃り杭(くひ) 馬つなぎ
    いたくな引きそ 法師は泣かむ 」 巻16-3846 作者未詳


「 檀越(だにをち)や しかもな言ひそ 里長(さとをさ)が
     課役(えだち)徴(はた)らば 汝(いまし)も泣かむ 」 巻16-3847  法師


 檀越(だにをち): 仏に供物を布施する檀家の人々

檀家の一人が、坊さんの顔に剃り残した髭を見てからかいました。

「 その剃り損ないのひげに馬なんかを繋いで手荒に引張るなよ。
坊さんが泣きべそかくのに決まっているからな 」と

小さな髭と大きな馬とを取り合わせた取り留めのない冷やかしの戯れ歌ですが、
「馬を持ち出したのは檀家衆が馬で運ぶ布施物を、嬉々として取り込む僧侶の姿を
揶揄(伊藤博)」したり、やっかむ気持もあったのでしょう。

ところが法師の反撃が凄まじい。

「 檀家衆や、そんなひどいことを言いなさんな。
里長が課役に駆り立ててきたら、泣きべそをかくのはお前さんたちだろうからな。」

僧侶の収入は非課税の上、課役も免除されていました。
当時、課役の辛さに耐えかねて逃亡者が続出し、浮浪者が巷に満ち溢れていた世の中です。
庶民の一番の泣き所である課(みつぎ)と役(えだち)をすかさず持ち出して、しっぺ返しを
した法師。当時の世情の一端を物語ってくれている一首です。

 法律というものは   骨身にしまない連中が
   いつもこしらえて   おしつけるものだ

   税金などはとくにそうだ  ことしは収入が激減したのに
   税金だけは激増し   市民税など一万数千円もふえ
   来年はその倍になるという

   庶民のための政治なんて   あったためしはないが
   いつそんな時代がくるのか   - - 」 

                    坂村真民 税金より一部抜粋


「ご参考:古代律令制下の税制概略」

 ① 「租」: 各戸全員に与えられた田地にかけられるもので、個人全員一律に
        課される人頭税。
        収穫予想量の概ね3%と推定され、軽いようにみえるが、田の良し悪し、
        家からの遠近、気候変動による収穫の有無、働き手の老若男女に
        関係なく、一律に課されるため、極めて不公平なものであった。

        それ以外に義倉という救荒用穀物を強制的に拠出させられる。

② 「調」:  各地の特産物を所有する田畑の割合で付加
        都に運ぶ費用はすべて自弁、この負担が極めて重かった。

③ 「庸」   イ.労役(歳役) : 1年に10日、都で土木工事に従う規定だが調で
           代替出来た。
        ロ.雑徭(ぞうよう) : 国や都の土木工事や雑用に従事する。年間60日

④ 「役民(えきみん)」
       イ.庸役: 国家が必要に応じて半強制的に雇い入れる労働 (食料、労賃支給) 
       ロ.仕丁役:  1里ごとに正丁2名を出す。3年交代で都に出て中央の役所の
                雑役や造営事業に従事。費用は里の各戸で負担

        註:
            正丁: 21~60歳までの健全な男子 
            次丁: 61~65歳と不具者の男子  ( 正丁の50%の労役)
            少丁: 17~20歳男子 (正丁の25%の労役)

⑤ 「兵役」 :   各戸の正丁3人に1人の割合で兵士を徴発 

            イ.衛士(えじ) : 宮城の警護 任期1年
            ロ.防人 :  任期3年
                                        以上です。
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by uqrx74fd | 2009-11-29 08:47 | 生活

万葉集その二百四十二(貝の色々)

「 底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては小皿へ取り、
  柚子をかけて食べる。
  小鍋ゆえ火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。
 これが小鍋だてのよいところだ。- - 
  湯豆腐に蛤を入れるという、当節としてはまことに贅沢な小鍋立てもある。

          ( 池波正太郎の食卓より 佐藤隆介ほか共著 新潮文庫 )


日本書紀によると『 景行天皇(71~130年?) が上総国に旅された折、安房の湊で
入江に棲む「覚賀鳥:かくかの鳥=ミサゴか?」の声が聞こえました。
その鳥の形を見たいと仰せられたので、近習が海の中に入ると、そこには沢山の蛤が!
早速、膾(なます)にして献じたところ、大変な美味で、天皇は大いに喜ばれた 』 との
記述があります。

ハマグリはこのように膾で食べたほか 「 汁椀に 大蛤の一つかな   内藤鳴雪 」
ということもよく見られたことでしょう。

万葉集にみられる貝はアワビ、蜆、巻貝、田螺、等ですが、単に貝と詠われているものも
あり、また、縄文時代の貝塚から蛤、牡蠣、浅利、青柳などの貝殻が多数出土している
ことから、万葉人たちの食卓にも豊富な貝類が供されていたものと想像されます。

「 妹がため 貝を拾(ひり)ふと 茅淳(ちぬ)の海に
    濡れにし袖は 干せど乾かず 」 巻7-1145 作者未詳


( 愛しい人のためにと貝を夢中で拾っているうちに衣の袖がすっかり濡れてしまったよ。
  干しても一向に乾かないなぁ。 )

「茅淳の海」は現在の堺市から岸和田にかけての住吉の浜続きの海岸で、
蛤やバカガイ、アサリなどが豊富に獲れたそうです。
愛する人に食べさせようと一生懸命、砂から貝を掘り出している様子が偲ばれる一首です。
    
「 堀江より 朝潮満ちに 寄る木屑(こつみ)
    貝にありせば つとにせましを 」 巻20-4396 大伴家持


( 堀江に朝の海波が満ち満ちて、木の屑がこちらに寄せられてきました
  これが美しい貝であったら家への土産にもしょうに )

堀江は大阪湾に通じる天満川(大川とも)付近とされています。
755年、作者は難波に単身赴任し、東国の防人達を迎える業務などに
忙殺されていました。

仕事がひと段落したところで、ふと都に残した妻を懐かしく思い出したのでしょう。
海から寄せくる木屑が花びらに見え、美しい桜貝を想像したのかもしれません。

「つと」は「包みもの」すなわち土産のことです。

「 手に取るが からに忘ると 海人(あま)の言ひし
   恋忘れ貝 言(こと)にしありけり 」 巻7-1197 作者未詳


( 手に取ればすぐさま憂いを忘れてしまうと海人が言った恋忘れ貝
 この貝はただ言葉だけのものにすぎなかったよ。
 なんの効き目もなく、恋はますます募るばかり )

からに: ただ~するだけで

古代、「辛いことを」忘れるために「忘れ草(カンゾウ)」を身につけたり、
庭に植えたりしましたが、海岸地方では「忘れ貝」なるものがあったようです。

「忘れ貝」とは特定の種類の名称ではなく、「海岸に打ち棄てられた二枚介が、
離ればなれの一片となり互いに対手の一片を忘れてしまったという意味で
名付けられたのではないか。( 東 光治 :万葉動物考) 」とされています。

作者は初めて海を見たのでしょうか。
「 折角身につけたのに、何の効き目もないではないか!いい加減な話だなぁ」と
苦笑している姿が目に見えるようです。

「 海人娘子(あまをとめ) 潜(かづ)き採(と)るといふ 忘れ貝
   よにも忘れじ 妹が姿は 」     巻12-3084 作者未詳


( 海人の娘が海に潜って採るという忘れ貝。その貝は恋を忘れさせるというが
 俺は決して忘れないぞ。あんな可愛い子の姿を忘れられるものか )

「よにも」は「わが生涯で」の意ですが、打ち消しの「じ」と呼応して
「決して」という意になります。

ここで詠われている「忘れ貝」は「海人が海に潜って採る」とあるので
「鮑(アワビ)」と思われます。
アワビは二枚の貝を持って生まれますが、生後十五日ほどで透き通った片方の稚貝を
捨ててしまうため「磯のあわびの片思い」といわれていました。

片思いにもかかわらず恋する人の面影を一途に思い浮かべている純情な若人です。

 「 貝拾ふ 子らも帰りぬ夕霞
         鶴飛びわたる住吉の方(かた)に 」 正岡子規

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by uqrx74fd | 2009-11-23 17:06 | 動物

万葉集その二百四十一(いい湯だなぁ!)

「天然の岩にしたしみ ひたる湯に
      とどろきふるふ 荒磯のなみ 」   中村憲吉


日本人の温泉、風呂好きは世界の中でも際立つ風俗といわれています。

単なる清潔好き? いやいや、これは我が民族が古代から連綿と受け継いでいる
何ものかが私達の意識の深層に刷り込まれているのではないか? そして
その秘密解明の鍵は『「ゆ」という一字にあり』、と思われるのです。

風土記によると、道後(伊予国)、牟婁(むろ:紀伊国)、
湯本、湯河原
(伊豆国)、有馬(摂津)などは、古代からすでに著名な湯治場として
知られていたようです。

歴代の天皇も温泉地に行幸されることが多く、とりわけ舒明天皇と皇后(のち斉明天皇)は
「639年、伊予に仮宮を造り、12月からなんと!翌年の4月まで4ヶ月間逗留された」
との記録があります。(日本書紀)

「 - こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 
  岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし 

  み湯の上の 木群(こむら)を見れば 
  臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり

  鳴く鳥の 声も変(かは)らず 
  遠き代に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しところ 」
 
               巻3-322(長歌の一部)   山部赤人


( 険しく聳え立つ伊予の高嶺  
 その嶺に続く射狭庭の岡(いさにわのおか:道後温泉一帯)に立たれて
  歌の想いを練り 詞(言葉)を色々と選ばれておられた

 その貴い出湯(いでゆ)の上を覆う林をみると
 臣の木も昔のままに絶えないで生い茂っている
 鳴く鳥の声も変わっていない

 これからも、末代まで、ますます神々しくなってゆくことだろう
 古に行幸(いでまし)された この跡所(あとどころ)は )

この歌は作者が道後温泉に公用で旅した時に詠われたものと思われます。(年月不明)

かって、舒明天皇と皇后(のち斉明)が行幸されたことや、また新羅遠征の途次にも
斉明天皇がこの地に長く滞在された古を偲んで往時と変わらぬ繁栄のさまを述べ、
併せて自ら一行の永遠の栄を祈ったものです。

「臣の木」とは「樅(モミ)」説あるも不詳。この部分は639年舒明天皇行幸の折、
この木に稲穂をかけて小鳥を飼った故事をさしています。

「 とほつ世の 女帝(をみなみかど)を なぐさめし
         紀伊の行幸(みゆき)は この湯にありき 」 中村憲吉


天皇の「入浴」について興味深い記述があります。折口信夫、柳田国男両氏の説を
下敷きにした、荒木博之氏の一文です。

『 古代宮廷における天皇の日常起居の生活において、湯を奉る時間が最も神聖とされた。
「御湯殿日記」という日々録が、途方もない長年月の間、時には天皇自らが筆を執って
 書き続けられたのは、この御湯殿で何か神聖にして特別な秘儀を行っていたからである。

その秘儀をとりしきっていたのが「壬生部、乳部」などと表記される「ミブ」と
いわれる人々で「ミブ」は産室を意味するとともに、稲をある期間穂のついたまま
蔵置きする場所も示している。

御湯殿は産室と同じように産神の来臨するところであった。
ミブ部の役割は人間あるいは穀物に再生の力、生命力を与える神霊の祭事の管理である。

このような神霊は五穀を豊かに実らせ、人に不老不死の力を与え、ひいては共同体の
繁栄をもたらす生命力そのものといってよいものであった。』
                     (やまとことばの人類学:朝日選書から要約)

かように物々しい入浴では、帝もゆっくりと寛ぐことも出来ないのではないかと、
いささかご同情申し上げたくもなりますが、一方、庶民たちは天真爛漫。
数少ない息抜きの場として温泉を楽しんでいたことが下記の歌に伺えます。

「 足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の
    よにも たよらに 子ろが言はなくに 」  巻14-3368 作者未詳


( ここ足柄の河内でお湯が勢いよく湧き出て、ゆらゆらと揺れています。
  私の心もあの湯と同じ。いつも不安で揺らいでいるのです。
  あの子は「迷っている」などと少しも言っていないのに、やっぱり心配だなぁ。)

「湯が湧き出ている」と表現した唯一の歌ですが、元々は民謡であったとも。
「足柄の河内」は現在の神奈川県湯河原町とされ、梅の産地であることから「小梅湯」
「こごめ湯」ともよばれ、「こごめ」には「子産め」という意味も含まれているそうです。

「 ゆ種(だね)蒔く あらき小田を求めむと
     足結(あゆ)ひ出(い)で濡れぬ この川の瀬に 」巻7-1110 作者未詳


( 豊穣を祈って斎(い)み清めた籾(もみ)を蒔く新しい田んぼを探すために、袴を膝の下で
  しっかり結んで(足結ひ)出かけたが、その足結を川の瀬で濡らしてしまったよ )

「初々しい女性を求めに旅仕度して出かけたが、邪魔が入ってなかなか思うように
いかないという歌(伊藤博)」、あるいは「水が豊富なことを褒めた農耕儀礼の歌
(万葉集全注)」ともされている一首ですが、問題はこの歌の「ゆ種」の「ゆ」です。

「ゆ」は一般には「斎(ゆ)」つまり「神聖な」意とされていますが、
この歌の原文表記が「湯」となっているのです。

この歌について「日本古典文学全集:小学館」によると、
『 「実際に種蒔に際して「種籾」を数日間「ぬるま湯」に浸して籾の発芽を早め」、
さらに「湯の再生力を付与して豊穣を祈った農耕儀礼」』
との指摘がなされています。

「ゆ」には「熱くなった水」「温泉」のほか「薬湯(くすりゆ)」「せんじ薬」「薬湯(やくとう)」の
意があり(広辞苑)、さらに、万葉集での「薬」は「若返り、不死、再生の霊薬」と
されています。

そのようなことから、古代の人達は「ゆ」という言葉の中に霊的な意味を持った
特別な思い、すなわち「日々再生の願い」を籠めていたことが
数々の文献から伺われるのです。

「 滑(なめ)らなる 岩はだに触(ふ)りて 吾がひたる
     御湯は古りにし 玉湯とぞおもふ」  中村憲吉

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by uqrx74fd | 2009-11-15 13:23 | 生活

万葉集その二百四十(杉のいろいろ)

杉は今から数百万年前に日本列島に生まれ、氷河時代を生き抜いた我国固有の植物です。
自然林としては1993年、世界遺産に登録された屋久杉をはじめ、秋田杉、四国の魚梁瀬
(やなせ)杉などがよく知られていますが、古くから建築用材として各地で植栽されたため、
北は東北から南は九州まで広く分布しています。

古代の人々は樹齢が長く鬱蒼と茂る杉の巨木に神の息吹を感じ、
神の憑依(ひょうい)する木として崇め、その周りを神域として保護してきました。 
                               (註・憑依: 寄り付く)

中でも奈良県桜井市の三輪山は「御むろの神なび山」といわれるように山そのものが
ご神体とされ、古くから特別な存在とされております。 (註・御むろ:神が住む)

「 味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 斎(いは)ふ杉

         手触れし罪か 君に逢ひかたき 」

            巻4-712   丹波大女娘子 (たにはのおほめ をとめ)


( 三輪のお社には神官さまが崇め祭る立派な杉がございます。
その神木に手を触れた祟りなのでしょうか。
私があなたさまにお会いできないのは)

「 でも私には触れたという記憶が無いのですか、どうしたことでしょう」という
  気持が感じられる一首です。

ここでの三輪は、山麓の大神(おほみわ)神社で、祝(はふり)とは神官のことです。
「味酒(うまさけ)」は「味酒(ミワ)」とも訓み、神酒として神に供えることから、
同音の三輪山に掛かる枕詞とされています。

『 こんにち見る「うまさけを三輪の祝(はふり)がいつきまつる老杉」は拝殿の前に
亭々と茂っていて、空洞の中には神蛇「巳(みい)さん」がいますという。

わたくしはまだ巳さんを見たことはないが、信仰は大変さかんである。
大物主神をまつるといえば、ものものしく、山の霊力の象徴のような巳さんを
まつるといえば、記紀にみえる有名な三輪山神婚説も思われて、
古来の民間信仰の根深い実態を見るようである。』 (犬養孝 万葉の旅(上) 平凡社)

「三輪山神婚説」とは

「三輪山の神が絶世の美女、イクタマヨリ姫に惚れて通い、ついに口説き落として
神の子をもうけた。ところが姫は夫がどこの誰とも身分を明かされていなかったので
不審に思い、ある夜、ひそかに男の衣の裾に麻糸を縫い付けておき、男が去った後
その糸をたどると、三輪山の社で止まっていた。そこで、姫は初めて相手は人間ではなく、
神の化身(蛇)であることを知った」というものです。

「 新醸の神酒を捧げて杉の舞 」  白芽

三輪山の主神「大物主(オオモノヌシ)」は酒の神でもあられます。
毎年新酒が出回る季節がくると、大神神社境内の杉の葉で「杉玉」を作ります。

「杉玉」とは竹で丸い籠を編み、その隙間に杉の葉をぎっしり差し込んで丸く刈り込んだもので、
出来上がった玉は緑も鮮やかな大形のマリモのようです。

11月14日は新酒仕込みにあたって安全祈願を祈る大祭、「酒祭り」です。
神社拝殿向背の天井から吊リ下げられている特大の杉玉 (直径1.4m、重さ150kg)は
前日に作ったばかりの新しいものに取替えられ、瑞々しい色と香りを漂わせています。

神前には、お神酒が供えられ、四人の乙女が杉の小枝を手に雅やかな「杉の舞」を奉納
いたします。

祭りの後、神社から小さな杉玉が全国の主要な酒屋に送られ、酒屋はそれを軒先に飾って
お守りとし、また、木の香豊かな杉樽の新酒が出来た事を人々に知らせるのです。

「 杉の穂の高きを見れば月澄める  
       空をわたりてゆく風のあり 」   土田耕平


杉には天竜杉、秋田杉、吉野杉、魚簗瀬(やなせ)杉、山武杉などの地域品種がありますが、
特に京都の「北山杉」は「冬の花」として知られています。

「冬の花」とは川端康成の短編小説「古都」にみえる
「千恵子には、木末に少しまるく残した葉が、青い地味な冬の花と見えた」

に由来し、東山魁夷画伯も同名の幻想的な美しい絵を描いておられます。

『 北山杉は清滝川の谷間に点在する中川、小野、梅畑の村で、岸辺からあまり
高くもない山の頂まで、杉の木が立ち並んでいる。
枝打ちして、梢に近い部分だけを丸く残して、あとの不要な枝は払い落としてあり、
皮をむいた真っ直ぐの幹の白い膚(はだ)が、頂の緑と共に鮮やかである。』

                     ( 山本健吉 古都解説より:新潮文庫)

北山杉は「台杉」といわれる造林法で育てられます。
一本の株に数本の幹を立てるというやり方で、幹を伐ってもその台から新しい芽が
伸びてくるので、伐るたびに苗を植える手間が省ける上、成長が早く、日本建築の
床柱など特別なところに使われます。

その歴史は古く784年ころにはじまり、茶の湯の流行と共に茶室建築の装飾材として
重んじられるようになったそうです。

    「 鰯雲 北山杉の秀(ほ)が揃ふ 」 ( 田淵定人)
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by uqrx74fd | 2009-11-09 07:06 | 植物

万葉集その二百三十九(馬の涙)

「 祖父はまもなく脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。
  葬儀のとき馬小屋から祖父の愛馬が悲しそうな声で啼き続けていた。
  私が一人で馬小屋に入り、祖父を真似て馬の首を軽く叩くと静かになった。
  だが馬の目には涙が浮かんでいた。その涙が目尻に貯まっていた。
  馬がこれほど感情をもつ生き物なのか。改めて感に堪えなかった。」
                    ( 保阪 正康 「祖父の馬の涙」 木炭日和所収 文春文庫)

万葉集にも主人が亡くなると同時に飼馬が一斉に鳴きだし、主人の死を悼んだという
不思議な歌があります。
馬は人間の心を推し量る事ができるのでしょうか。

 「 百小竹(ももしの)の 三野の王(おほきみ)
   西の馬屋  立てて飼ふ駒   
   東(ひむがし)の馬屋 立てて飼ふ駒

  草こそば 取りて飼へ   水こそば 汲みて飼へ
  何しかも 葦毛(あしげ)の馬の   いばえ立てつる 」 
                        巻13-3327 作者未詳
 「 衣手(ころもで) 葦毛の馬の いばゆ声
      心あれかも 常ゆ 異(け)に鳴く 」    巻13-3328  同上


( あれほどご清栄であられた三野王がお亡くなりになりました。
  生前、王が西の厩、東の厩で飼っていた馬たちには
  草もどっさり与え、水もたっぷり飲ませているのに
  何でまぁ。このように鳴きたてるのか )      13-3327

( 葦毛の馬の いななく声 。
  主(あるじ)を慕って悲しんでいるのであろうか。
  いつもとは違う声で鳴いていることよ )      13-3328

まずは語句の説明です。

「百小竹(ももしの)」:三野の枕詞 たくさんの篠の茂る御野(みの)の意で三野王を誉める
「立てて飼ふ駒」: 馬を大切にするさまをいう。立てては区域に囲んで立たせるの意
「飼ふ」:「飼ひし」の意に近く、生前のさまを思い浮かべて恒常の状態としていったもの 
「葦毛の馬」:灰色を主体とした毛の馬
「いばえ」:「い」は馬の鳴き声を表す擬声語 「イー」と吠えるの意
「衣手」: 枕詞なるも掛かり方未詳  「心あれかも」: 心あればかも

馬たちは屋敷内の雰囲気がいつもと違うことを察知し、顔を見せない主人に
異変があったと感じて鳴きたてたようです。
恐らく主人は朝夕、馬の頭や首を撫でて可愛がっていたのでしょう。
『簡素な言葉づかいと古樸な調べの中に真情が溢れる』(伊藤博) 一首です。

馬が人の死を悲しむ話はギリシャ、ローマ文学や中国の漢詩文にもみられますが、
「カエサル伝」(スエトニウス著) には『カエサル(シーザ)の死が迫った頃、馬たちが
秣(まぐさ)を食わず、涙を流し続けたとある (柳沼重剛、 伊藤博) 』 そうで、
東西共よく似た描写には驚かされます。

亡くなった「三野王」は橘諸兄の父、美努王とされていますが、
(他に壬申の乱の活躍者、小柴美濃王説あるも大半は前者説 ) 

中西進氏は以下のように述べておられます。( 「古代往還」 中公新書より引用)

『 三野王とは大宰府の長官をつとめた役人として歴史書に名がでてくる。
 のちに政界に活躍した県(あがた)犬養三千代という女性の夫でもある。
 ところで三千代は橘諸兄の母だが、諸兄の誕生をしらべてみると、
 三野王が九州へ行っているあいだのこととなる。

 一方、三千代は三野王の死後、藤原不比等と結婚する。
 さきに政界で活躍したといったのは、不比等という政界の大物と
 結婚したからにほかならない。

 つまり、三千代は三野王の生前から不比等と関係があり、三野王不在中に
 諸兄をみごもっていたらしい。

 こうした事情があってこそ、三野王には世間のひそかな同情も
 よせられていたのであろう。
 推測をたくましくすると、事を知った三野王は自害したのかもしれない。

 そうした死なら、なおのこと、死は人びとから悼まれ、愛馬の悲しみがいっそう
 真実味をもって世間に伝えられたであろう。
 妻に絶望した三野王が愛をそそぐものは、馴れ親しんだ愛馬しかなかった
 という秘話を万葉集のこの一首は後世に語っているのかもしれない。』
                              
いささか大胆すぎる推測かと思われますが、興味惹かれる一文です。

この様な不倫が政界トップの間で堂々と行われていたことについて
直木孝次郎氏は 『 三千代は夫の留守中に不比等のもとに嫁した、しかし
「貞女は二夫にまみえず」式の貞操を女に求める思想、慣習は、妻問い婚が
一般的であったこの時代にはまだ成立していなかったであろう 』
とされています。
             ( 「万葉集と歌人たち」  直木孝次郎古代を語る12 吉川弘文館 )

県犬養三千代はさらに娘を出産します。
光明子(こうみょうし)、後の聖武天皇の正妻、光明皇后です。
かくして、文武、聖武二代の天皇に念願の皇后を送り込んだ藤原不比等は、
政界に確固たる勢力を築いてゆきます。

(註:文武天皇と不比等の娘、宮子の間に生まれたのが聖武天皇。文武は25歳で急逝)

         「おく露は 馬の涙か 秋の山 」  一茶
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by uqrx74fd | 2009-11-02 09:40 | 動物