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万葉集その二百四十七(若水)

 「 寒けれど すがすがしけれ 井の端に
     いでてことしの 若水汲めば 」  岡 麓


元旦早朝に初めて汲む若水。
古くから邪気を払い幸せを招く力があると信じられてきました。
汲んだ水は年神に供え、沸かして福茶などといって飲んだり、雑煮などの
煮炊きに用いて新年を祝います。

若水を汲む行事は元々立春に行われていたもので、平安時代には前もって封じておいた
生気のある井戸から、主水司(いもとりのつかさ)が天皇の朝餉(あさげ)に奉っていましたが、
次第に朝儀が廃れ、元旦に汲む習慣に変化していったようです。

万葉時代には「若水」の語はありませんが、「変若水(をちみず)」として詠われ、
「をち」は「若返る」の意です。
「若水」という言葉には、邪気を払うと同時に、不老長寿への期待も込められて
いるのでしょう。

「 いにしへゆ 人の言ひける 老人(おいひと)の
     若変(をつ)といふ水ぞ 名に負ふ瀧の瀬 」  
           巻6-1034 大伴東人(あづまひと)


( これが遠い昔から「老いた人を若返えらせる」と言い伝えられている
 聖水ですぞ。
 さすがに名にそむかぬ清々しい滝の瀬であることよ!)

740年、聖武天皇が美濃の国(現岐阜県)に行幸された時、お供した作者が
この地に伝わる美泉と養老の滝にまつわる故事を踏まえて詠ったものです。

その昔、この地に住む木こりが山奥で酒の匂いがする水を見つけました。
早速、家に持ち帰って老いた父親に飲ませたところ、
なんと! 白かった頭髪が黒くなり、顔つやも若々しくなったのです。

その話を聞いた元正天皇は、早速当地を訪れて水を浴びたところ、
伝説通り肌が滑らかになり、痛むところも直ったので大いに喜ばれ、
勅を発して元号を「養老」と改めました。(717年)

続日本紀によると養老の滝の近くに「菊水泉」とよばれる美泉があり
江戸時代、国学者の間で元正天皇が浴びたのは「滝の水か、菊水泉か」
との論争があったそうですが、そのような難しい話?は さておき
古代の女帝を狂喜させた若返りの滝と泉は、1300年経た今も
涸れることなく、清冽な水を流し続けております。

「 くめど つきせぬ わかみづを
  きみと くままし かのいずみ

  かわきもしらぬ わかみづを
  きみと くままし かのいづみ 」  
                   島崎藤村 「若水より」


『 農耕をなりわいとする民族にとっては、田畑をうるおす水ほど大切なものはない。
そこに水の神を祀る信仰が芽生え、井戸を神聖なものとして崇める習慣が生まれた。
稲作が一般化されるようになると、苗代を作る春に先がけて、若水を汲んで神に捧げ、
豊穣を祈願するようになっていった。

そうでなくても早春の頃は、長い冬籠りから目ざめて、草も木も人間も、
溌剌とした生命力にあふれる季節である。  
太陰暦の正月・二月はちょうどそういう時期にあたる。

太古から民衆の間で行われた祭りに、仏教が結びついて出来たのが
正月に行う修正会(しゅうしょうえ)であり二月に行う修二会(しゅうにえ)であって、
「二月堂」の名もそこから出ている。』 

(白州正子: 私の古寺巡礼より要約 法蔵館) 

毎年3月13日の未明、奈良東大寺の二月堂で「お水取り」の行が行われます。
3月1日から2週間にわたって行われる修二会(2月に行われる法会)の一環で、
「若狭の井」とよばれる井戸から香水(こうずい)を汲み上げて本尊に供えます。
この聖水は若狭の国と地中でつながっており、万病に効果ありといわれてきました。

その由来は
 『 752年、二月堂の神様が修二会を行うにあたり、日本中の神々を勧請した。
ところが、若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが釣りに夢中になっているうちに、
うっかり遅参。
平謝りに謝った明神は、お詫びの印として今後二月堂の本尊に霊水を献上することを
誓ったところ、白黒二羽の鵜が飛び立ち、その跡から清泉が湧き出した。
それ故、その泉を若狭井とよび、毎年3月12日真夜中に聖なる水を汲み、本尊に
捧げるようになった 』   (東大寺要録) と 伝えられています。

   「 水取りや こもりの僧の 沓(くつ)の音 」 芭蕉
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by uqrx74fd | 2009-12-27 07:50 | 生活

万葉集その二百四十六(虎)

『 ・・ 一行が丘の上についた時、彼らは言われた通りに振り返って
 先ほどの林間の草地を眺めた。

 たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に跳り出たのを彼らは見た。
 虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮(ほうこう)したかと思うと、
 また、元の叢(くさむら)に躍り入って、再びその姿を見なかった。 』

                 ( 中島敦  山月記より 岩波文庫 )

僅か十数ページの短編ながら、秀作の誉れ高い作品終章の一部です。

虎は古代、インド、ジャバ、スマトラ、シベリヤから中国、旧満州、朝鮮、にかけて
棲息していたアジア大陸特産の猛獣で、獅子と共に百獣の王とされてきました。

我国に生きた虎が渡来したのは桃山時代の1574年、中国の明から象と共に
もたらされたものが最初とされていますが、日本書紀に

「 545年、膳臣巴堤便(かしはでのおみ はでひ) が百済に使いして
虎の皮を携えて帰った。
686年に新羅、739年には渤海国から、それぞれ天武、聖武天皇に、虎、豹、
熊の皮などが贈られた」 との記述があり、人々は古くから虎の存在を知っていて、
その皮を最高の敷物として重宝していたようです。

また、「高松塚古墳」、「薬師寺本尊台座」、「正倉院の十二支八卦文鏡」等に
「青龍、朱雀、白虎、玄武」四神の姿があり、万葉集にも「韓国(からくに)の虎とふ神」
(巻16-3885長歌) と詠われていることから、古代の人たちは書物や絵などを通じて
「虎は神」であると認識していたことが伺われます。

「 虎に乗り 古屋(ふるや)を越えて 青淵(あおふち)に
          蛟龍(みつち)捕り来(こ)む 剣太刀もが 」

               巻16-3833 境部王 (さかひべの おほきみ)


( 虎にまたがり古ぼけた家の屋根を飛び越え、青々とした水の深淵に棲んでいる
  蛟龍(みつち)を退治できるような剣太刀が欲しいものだな )

作者は宴の座興として、種々の畏(おそろ)しいもの、即ち、虎、古い家、青淵、蛟龍、
剣太刀を詠みこんだ歌を披露したものです。


「古い家」が何故恐ろしいのか、いささか奇異に思えますが、昔は
「人が住まない古家や廃屋に鬼が住む」などと云われて近づくことを
 恐がっていたことと、歌舞伎の台詞に

「 サアサア 漏ってきた、漏ってきた。
  誠に虎狼より漏るが怖いとはこのことだ」 (浮世柄比翼稲妻)


 とあるように、「虎や狼よりも古屋の雨漏りのほうが怖い」という、
 よく知られていた諺があったことにもよるようです。

蛟龍(みつち)は龍に似た想像上の水棲動物で、「水(ミ)ツ霊(チ)のこと。
雷(イカズチ)と同じく神霊の意」(伊藤博)。

青淵は「名おそろしきもの、あをふち云々」と枕草子にも書かれており、
魅入られるばかりに蒼く淀む深淵のことです。

「 夜の明くる 待ちて山路は 行けよかし
      こよひはいたく 虎の吼ゆるに 」    与謝野 寛


その昔、孔子が泰山のふもとの墓で泣き崩れている婦人に出会い、
そのわけを尋ねると、
「 舅と夫が虎に食い殺され、その嘆きが絶えないうちに今度は大切な
  子供まで虎に食われてしまった」と言います。
  驚いた孔子は、「それなら何故この地から出てゆかぬのか」 と尋ねると
  「この国では苛酷な政治が行われていませんから」と答えました。

 その話に感じた孔子は、弟子たちに、「お前達もよく覚えておくがよい」
「 苛政は虎よりも猛(たけ)し 」 であると教えたそうです。(礼記)

 苛政も愚政も同じこと。
 現代の政治家にも心して耳を傾けてもらいたい言葉です。

「 虎 嘯(うそぶ)けば 谷風(こくふう) 至る 
     龍 挙がりて 景雲 属(あつ)まる 」     淮南子(えなんじ)


嘯く (うそぶく):吼える 
谷風 (こくふう): 万物を成長させるという東風
景雲 (けいうん)  太平のきざしがみえる目出度い雲
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by uqrx74fd | 2009-12-19 19:52 | 動物

万葉集その二百四十五(檜:ひのき)

「 長く良材ばかりを手がけ、いまは各国の木材をも扱っている木材業の人に聞くと
言下に、良質の檜はどこの国へ出してもヒケはとりませんねという。

質と美しさは抜群だといって、ずらずらと強度が強い、湿気に強い、腐敗しない、
通直である、木目が美しい、香気がある、色沢が柔らかいという。
いいとこずくめですねといえば、そうですと笑う。

 - 思わず聖書で習った“持てるものは持てる上に与えられ”という句を思い出した。
たっぷりと、いい性格をもって生まれる木なのだ。」 
                               ( 幸田文 木 ;新潮文庫)

日本書紀に『 スサオノミコトが胸毛を抜くと 「これ檜(ひ)なる..
檜を以って瑞宮(みつのみや)をつくる材(き)にすべし」 』という記述がみられ、
古代の人々も檜が優れた建築用材であることを十分認識していたようです。

694年、我国最初の本格的な都、藤原宮造営のために近江から大量の檜が
伐り出されました。

「 ...石(いは)走る 近江の国の 衣手の 田上山(たなかみやま)の
 真木(まき)さく 檜(ひ)のつまでを  もののふの八十(やそ)宇治川に
  玉藻なす 浮かべ流せれ ...

  泉の川に 持ち越せる 真木(まき)の つまでを  百(もも)足らず
  筏に作り  のぼすらむ ... 」  巻1-50(長歌の一部) 藤原宮の役民


( 近江の国の田上山の檜の丸太を宇治川に浮かべて流している。- -
 - - 泉川に持ち運んだその檜を筏に組んで上流へ運ぼうというのであろう )

「枕詞」のそれぞれに掛かる意味は以下の通りです。

石走る(いはばしる) : 溢水(あふみ:あふれる水)の意で近江(あふみ)に掛かる
衣手: 手を「た」と訓み「田」に掛かる
真木さく: 立派な木(真木)が栄える 意で檜、杉などに掛かる 
もののふの八十(やそ):宮廷に仕える文武百官の氏(うじ)が多いところから宇治に掛かる
百足らず(ももたらず) : 百に足りない五十(い)で筏(いかだ) に掛かる。

語句の訳:
  「玉藻なす」: 美しい藻の様に軽々と
  「真木のつまで」 :  檜を立派な木という意味で真木といい、
             「つまで」は「角材(つま)の材料(て)」で丸太
    
この歌は、造営のための木材運搬作業の模様を役民が詠ったものとされています。
(実際には貴族が役民に成り代わって作歌したものらしい)

人々は、近江の田上山で伐った檜の丸太を瀬田川へ落として、その下流の宇治川に流し、
木津川との合流地点、巨椋池(おおくらいけ)とよばれるところで、筏に組みました。
さらにその筏を、木津川(泉川)、佐保川、飛鳥川へ流したり遡らせたりしながら
藤原の地へ運んだものと推定され、その作業は困難を極めたことでしょう。


「 峡(かひ)の雲 はれ行く見れば 檜木山
     黒々として 重なりけり 」   島木赤彦


法隆寺、薬師寺、唐招提寺などの巨大寺院の堂塔の主要な部分はすべて檜で造られ、
千数百年経過した今でも腐敗することなく微塵も揺るいでおりません。
檜は何故このような強靭な生命力をもっているのでしょうか。

宮大工、西岡常一氏は次のように語っておられます。

『 樹齢千年の木は堂塔として千年以上は持ちます。
  ただし、木の癖、性質を生かしてそれを組み合わせて初めて長生きするのです。
  そのために山を丸ごと買い、南に向いていた木は南に使い、北の木は北にと
それぞれの育った環境にあわせて使います。
  
  ヒノキ林は地面に太陽がほとんど届かないので、実が落ちてもすぐには
芽出ししません。何百年も芽はじっと我慢しているのです。
そして時期が来て、林が切り開かれるか、周囲の木が倒れるかして大きな間が
出来ると一斉に芽を出します。

  ここから猛烈な生存競争がはじまるのです。
木は日に当たって合成して栄養を作って大きくなるので、少しでも早く大きく
ならないと、となりの木の日陰になってしまいます。
日陰になったらもうおしまいです。

  そして何百年ものあいだ競走を続け、勝ち残るのだから残った木は強い。
  だが競走はそれだけでは終りません。
少し離れたところの木とも競走し、さらに風、雪、雨とも戦わなくてはならない。

千年経った木は千年の激烈な競走を勝ち抜いた木なのだから
強いのは当然なのです。 』    ( 「木に学べ」:小学館 要約引用 )

「 木はその癖、性質、育った環境に合わせて使う。
長い間芽が出なくても、じっと我慢し、時が来たら一気に開花する。」

という言葉は、そのまま人間にも通じるものと肝に銘じたことです。

  「 義仲が 兎を狩りて 遊びけん
      木曾の深山(みやま)に 檜生ひたり」 正岡子規

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by uqrx74fd | 2009-12-13 19:51 | 植物

万葉集その二百四十四「香椎潟(かしひがた)」

『 鹿児島本線で門司方面から行くと、博多に着く三つ手前に香椎という小さな駅がある。
この駅をおりて山の方へ行くと、もとの官幣大社 香椎宮(かしいのみや)、海の方に行くと
博多湾を見わたす海岸に出る。

前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島(しかのしま)の山が
海に浮かび、その左の方には残の島(のこのしま)がかすむ眺望のきれいなところである。
この海岸を香椎潟といった。昔の「橿日(かしい)の浦」である。

大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人はここに遊んで

「 いざ子ども 香椎(かしひ)の潟(かた)に 白袴(しろたへ)の
   袖さへ濡(ぬ)れて 朝菜摘みてむ    万葉集巻6-957 」 
と詠んだ 』
           
( 松本清張 「点と線」 新潮文庫より)

728年11月(旧暦)、大宰府長官大伴旅人は官人たちと香椎廟に参拝しました。

香椎廟とは博多湾に臨む今の香椎宮のことで、皇室の祖先、仲哀天皇と神功皇后を
合祀しているところから官幣大社とよばれ、古くは神祇官、明治以降は宮内省が幣帛
(へいはく:神に奉献する物の総称)を捧げたのでその名があります。(第2次大戦後廃止)

香椎宮の本殿は、内陣、中陣、外陣に分かれ、入母屋、切妻造りの屋根に様々な装飾
(破風)を配した華麗かつ変化に富む独特の様式をもち、「香椎造」と称されています。
樫や楠の巨木に囲まれた境内は森厳な雰囲気を漂わせており、遠(とう)の朝廷(みかど)
大宰府でも尊崇厚く、官人がしばしば訪れていたようです。

さて、長い参拝が終わった旅人一行は清々しい気分で背後を振り返ります。

そこには湖を思わせるような朝凪の香椎潟が眼前に大きく開け、白い作業衣をまとった
海女たちが、忙しげに海藻を摘んでいます。

紺碧の空に映えるマリンブルーの海。点在する白い海女の姿。遥か彼方には博多湾。
人々はその美しい光景に歓声を上げたことでしょう。 
大伴旅人は
「 おおーい!皆のものたちよ。 我々も海女に混じって、この香椎の海で
 袖が濡れるのも忘れて朝餉の海藻を摘もうではないか 」と声をかけます。

部下の一人、小野 老(おゆ)が早速応じます。

「 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟(かしひがた)
      潮干(しほひ)の浦に 玉藻刈りてな 」 巻6-958 小野 老(おゆ)


( 海からの風が吹き出しそうな気配になってきました。
  潮がひいているこの入江。今のうちに海藻を刈ってしまいたいものです )

「時つ風」は潮が満潮、干潮に変わるときに、一時的に時を定めて吹く風です。
香椎潟は博多湾の奥深いところにありますが、玄界灘の影響を受け、気象状況が
変化しやすく、老(おゆ)はそのことをよく知っていたのでしょう。

それにしても、お偉方が海藻摘みに興じる? 
「玉藻」には「地元の美しい女」という意味が隠されているかもしれません。

この風光明媚な景色はその後も長く残されていたらしく、昭和の初め頃、鉄道路線の
一部は波打ち際近くにあり、海岸に沿って列車が颯爽と走っていたと伝えられています。

その美しい海岸線も今や埋め立てられて種々の家屋や団地が立ち並び、昔日の面影も
ないくらいに変貌してしまいました。

香椎宮参道入口の右側に頓宮(とんぐう)とよばれる台地があり、そこに
万葉歌碑が建てられています。

そのかたわらに立ち、遥か博多湾を見晴らしながら目を閉じて古を想うと、
清らかな浜辺に打ち寄せる白波や海女たちの姿が髣髴としてよみがえり、万葉人の
さんざめきまで聞こえてきそうです。

目をひらくと海上には帆掛船。
そして、一陣の浜風が頭上を吹き抜けてゆきました。

「 時雨霽(は)れ 香椎の宮で 見る帆かな 」     飯田蛇笏
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by uqrx74fd | 2009-12-06 09:36 | 万葉の旅