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万葉集その二百五十五(つらつら椿つらつらに)

 「 ふりかへる 秋篠寺のやぶかげの
     椿の花は みなもの言へり 」     小野 興二郎


 『 古都の椿のゆかしさは、その幹のくねりにも、暗い葉の繁りにも、
   ひっそりと溜まる年月の気配があるからだろう。
   まるで、その年月の深い時間の中から咲きだしたような
   真紅の椿を見る時、それは見る者の心に眠るはるかな時間まで
   開いてみせてくれるようだ。
   ふと見て歩み過ぎ、また振りかえって見てしまう花の貌(かお)、
   それは心なく過ぎてゆく旅の人に、いかにも物言いたげに
   唇を開いているようにみえる。』
                        ( 馬場 あき子 花のうた紀行 新書館 )

今は昔の701年、文武天皇と持統太上天皇が揃って紀伊国に行幸されました。
大和から出発して紀道(きじ)に進むと、飛鳥、高取と続いた平野部が次第に山路に
さしかかります。
このあたり一帯は巨勢(こせ)とよばれ、古代の豪族、巨勢氏の本拠があったので
その名があります。(現在の御所市(ごせし)古瀬、近鉄線吉野口駅の近く)

時は椿の季節にはまだ早い10月の終り頃です。
お供の一人が詠いました。

「 巨勢山の つらつら椿 つらつらに
          見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を 」 
             巻1-54 坂門人足(さかとの ひとたり)


( 巨勢山のつらつら椿 この椿をつらつらと見ながら偲ぼうではありませんか。
  椿の花満開の春野のありさまを。)

「つらつら椿」:列なって咲いている椿、 「つらつらに」:「じっくり」

さらに坂門人足は一同に声をかけます。

「  皆さん、目を閉じて!
   そして、良くご存知の歌を私と一緒に続けて歌って下さい。
  そうすれば丘一面に咲き誇っている椿の花が目の前に浮かぶことでしょう。
  さぁ、はじめますよ! 」 

「 川の上(うへ)の つらつら椿 つらつらに
          見れども飽かず 巨勢の春野は 」 
                  巻1-56(既出)  春日 老(おゆ) 


行幸とはいえ今回は牟婁(むろ)の湯(白浜温泉)への慰安の旅です。
まだ見ぬ黒潮の躍る海、いで湯の楽しみ、そして眼前には色とりどりの秋の花
目を閉じると浮かび上がる幻想の椿。

ツラツラツバキ ツラツラニと「ツ」の連続がはずむ心をかき立てています。
まさに歌は音楽です。

人足(ひとたり)の歌(1-54)は、良く言えば本歌取りの萌芽、悪く言えば盗作とも
言われかねないものですが、古代では良く知られた歌を同じような形で繰り返し
詠えば、元の歌の価値が高くなると考えられていたので、作者としては
古歌を引用するのはごく自然の成り行きであったことでしょう。

巨勢道は都から紀伊に至る幹線道路であるとともに紀伊水門から瀬戸内海や
朝鮮にも通じる海上の道への出発点でもありました。
都の人々は異郷への入口で、その土地の神に幣(ぬさ)を捧げて地霊を鎮め、
旅の安全を祈ったものと思われます。

「 あしひきの 八つ峰(を)の椿 つらつらに
          見とも飽かめや 植ゑてける君 」
                      巻20-4481 大伴家持


( 山の尾根に幾重にも重なるように咲く椿。 
その椿を貴方さまは庭にお植えになったのですね。何と見事なこと!
つくづく見ても見飽きることがありません。
そして、貴方さまとも飽きることなく、いつまでもお会いしていたいものです。)

757年、作者が兵部大丞 大原真人の館の宴に招かれた折、館の庭に植えられた
見事な椿を愛でながら主人を讃えた歌です。
当時の椿はすべて山野に咲くヤブツバキと思われますが、草木を自宅に移し替え、
好みの庭作りをしていたことを伺わせてくれている一首です。

「つらつらに」は現在でも「つらつら思うに」などと使われている言葉ですね。

「あしひきに」は山や峰などに掛かる枕詞で、万葉集に110余例見られますが、
その語源は1.山の足すなわち裾野を引く意で山に掛かる
     2.足を引きずりながら登る意で山に掛かる
     3.「あしひき」の原文表記が「足病」「足疾」であるところから
        足のやまひと解釈し、同音のやまに掛かる
など諸説あり定まっておりません。

「 島山の つらつら椿 緋(ひ)に咲きて
     をとめは われに寄ると なげきぬ 」   岡野 弘彦


うららかな春、潮騒の心地よい音、流れくる微かな潮の香り、
椿また椿の島の山、 たたずむ可憐な乙女、ふと見上げると丘の上に恋人の姿、
慌てて駆け寄るが、一瞬、心に微妙な揺れが。
それは、「寄ると」別れの嘆きに変わるかもしれないという懼(おそ)れの心でしょうか。

   「 松は緑に 砂白き  
     雄松が里の をとめ子は
     赤い椿の 森かげに
     はかない恋に 泣くとかや 」 
                  琵琶湖周航の歌 小口太郎作詞

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by uqrx74fd | 2010-02-21 11:32 | 植物

万葉集その二百五十四(荒ぶる)

日本神話で天の岩屋戸事件を起こしたスサノオノミコトという神様がおられます。
アマテラスオオミカミの弟で、生まれもっての暴れものです。
その名前の「スサ」は「スサブ」という言葉からきており、漢字で「荒(スサ)ぶ」と
書かれます。
すなわち「荒ぶる」という言葉の原義は「荒れすさぶ」の意なのです。

記紀、祝詞では「荒ぶる神」という用例で、未開の土地の恐ろしい神や
自然の猛威など表現し、万葉集での「荒ぶる」は主として人と自然、あるいは
人と人との親密な関係に亀裂が生じて疎遠になる場面で用いられています。

「 筑紫船(つくしふね) いまだも来(こ)ねば あらかじめ
                荒ぶる君を 見るが悲しさ 」 
          巻4-556 賀茂 王(かものおほきみ:長屋王の女(むすめ)


( あなたを乗せてゆく筑紫通いの船 その船がまだ来もしないうちから、
もう気持がすさんでいるあなた。そんな様子を見ているのは本当に悲しいですわ。)

この歌は529年、大伴三依(みより)が筑紫赴任を命ぜられたときに詠われたものです。
作者の父、左大臣長屋王は同年、左道(さどう;不正な道)を学んだ罪に問われ自刃に
追いやられました。
藤原家の政治上の陰謀ともいわれています、
大伴三依はそのような人物の娘と親しくする身の危険性を覚え、遠ざかろうとした
のかもしれません。

「あなたは私から早く離れたいのでしょうか。
長いお別れなのだから少しは優しい言葉をかけてくださってもよいのに」と
嘆いている不憫な女性の姿が目に浮かぶようです。

「 栲領布(たくひれ)の 白浜波の寄りもあへず
              荒ぶる妹に 恋ひつつぞ居(を)る 」
                    巻11-2822 作者未詳


( 波。その白さはまるで栲領布(たくひれ:楮で織ったスカーフ)のようだ。
激しくうち寄せているのでとても近寄れないなぁ。
お前のつっけんどんさ加減はまるでこの波のようだよ。
なぁ、いい加減に機嫌を直してくれんかいな。
そんな愛想がないお前でも俺は惚れているんだから。)

女は男に不満を感じて拗ねているのでしょう。
男の大げさな詠いぶりに余裕、戯れが感じられる一首です。

 以下は 松岡正剛著 「花鳥風月の科学」(中公文庫) から要約抜粋です

『 やがて「スサブ」あるいは「スサビ」という言葉は「口ずさみ」とか
「手すさび」という使い方になってゆき、「口遊び」「手遊び」と綴って
「スサミ(遊み)」と訓ませている。
すなわち、最初の「荒ぶ」の感覚はどこかで「遊ぶ(すさぶ)」に変化して
いったのです。
どのような変移が起こっているかというと、もともとは荒れていくさまに
風情が感じられた時期があり、その感覚がしだいに遊びの対象になる。
つまりわれわれの遊びの文化史では、アソビの背後には必ずスサビの感覚が
控えており、その後も日本の芸能場面の多くに再生してきます。

たとえば歌舞伎には和事(わごと)と荒事(あらごと)とがありますが、
荒ぶる神スサノオのイメージはそのうちの荒事にあたっています。

歌舞伎の荒事の主人公、たとえば曽我五郎、助六、鎌倉権五郎、弁慶、
などはいずれもスサノオの傍若無人のふるまいに似ている。
荒ぶこと、それは人々を遊ばせる大いなる仕掛けとなったのです。 』
  
   「 荒ぶる吹雪の 逆巻くなかに
      球蹴る我等は 銀塊くだく ― ―」
   
          
       (早稲田大学蹴球〔しゅうきゅう:ラグビー〕部部歌 
           小野田康一作詞)
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by uqrx74fd | 2010-02-15 08:39 | 心象

万葉集その二百五十三(栲:たく=楮:こうぞ)

栲(たく)は楮の古名とされ、その繊維が丈夫なので、古くから衣類、網、縄、
衾(ふすま:寝具)、領布(ひれ)、さらには木綿(ゆふ)や和紙などの材料とされてきました。

木綿(ゆふ)とは神事のときに用いる白い襷(たすき)や幣(ぬさ)のことで、綿から作る
「もめん」とは全く別物。 字は同じでも「ゆふ」と訓みます。
また、領巾(ひれ)は古代の女性が首から肩にかけていた布で、当初は咒的儀式に用いて
いましたが、のちには装飾用の白いスカーフのようなものになりました。

「 栲領巾(たくひれ)の 懸けまく欲しき 妹の名を
   この背の山に 懸けばいかにあらむ」
          巻3-285 丹比真人笠麻呂 (たじひの まひと かさまろ)


( 栲領巾(たくひれ)を肩に懸けるといいますが、口に懸けて呼んでみたい妹という名。
  この山の名前をいっそのこと「妹の山」に変えてみたらどうだろうか。)

701年文武天皇紀伊行幸のおり、お供の作者が背の山(和歌山県紀ノ川北岸)を
越えるときに詠んだ一首です。

「背の山」という名前から故郷に残してきた妻(=妹)を思い出し、
「この山の名前を妹(いも)に変えたらどうかな」と言葉遊びをしながら
望郷の念を込めたものですが、

「故郷の奥方が折角“背の君 背の君”とあなたを愛(いと)しんでいるのに
山の名を変えるなど、とんでもないよ」と同行人に言い返されています。

「 荒栲(あらたへ)の 布衣(ぬのきぬ)をだに 着せかてに
       かくや嘆かむ  為(せ)むすべをなみ 」   
                            巻5-901 山上憶良


( 粗末な着物すら着せてやれなくて、このように嘆かなくてはならぬのか。
どうしてよいのか、手のほどこしようがないままに- -。)

「荒栲の布衣」とは粗末な衣類のことです。
作者は当時、老身(74歳)の上、長年の病で苦しんでいました。

「 いっそのこと死んでしまいたいが、いじらしい子供を置いて死ぬにも死ねない。
この貧しい子供を守ってやれるのは親である自分しかいないではないか。」
という悲愴な気持がひしひしと伝わってくる一首です。


楮は三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)と共に和紙の材料に用いられ、
奈良時代、既に製紙が行われていましたが紙漉きの歌は残されておらず、
江戸時代の橘 曙覧の登場まで待たねばなりませんでした。

「 流れくる 岩間の水に 浸しおきて
    打敲(うちたたく)草の  紙になるとぞ 」 橘 曙覧


楮の木の皮を剥ぐために水に浸して叩く作業を詠っています。

「 翁ゐて 楮ならべる 雪晒(さら)し」 伊藤敬子

 さらに、蒸して皮をはがし、包丁で薄く削いで雪に晒します。

「 手に水を 冬も打(うち)ひたし 漉(す)きたてて
     紙の白雪  窓高く積む 」 橘 曙覧


寒い冬でも手を水に入れて紙をすき、乾かすために板に貼って立て、
白雪のような紙を窓のそばに高く積んでいる情景です。

歌での紙作りは簡単そうに見えますが、実際には四十以上もの複雑な
工程を経て作られ、美しい紙を漉くまでには長年の修練が必要だそうです。

楮の繊維は、絡みやすく強靭なので最高級の文書用紙として用いられ、中でも
土佐、石州(島根)、西の内(茨城)、美濃、越前紙などが昔からよく知られています。

『 紙と言うものは支那人の発明であると聞くが、われわれは西洋紙に対すると単なる
実用品という以外に何の感じも起こらないけれども、唐紙や和紙の肌理(きめ)を見ると、
そこに一種の温かみを感じ心が落ち着くようになる。

同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。
西洋紙の肌は光線を撥(は)ね返すような趣があるが、奉書や唐紙の肌は
柔らかい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。

そうして手ざわりがしなかやであり、折っても畳んでも音を立てない。
それは木の葉に触れているのと同じように物静かでしっとりしている。』

                  ( 谷崎潤一郎 陰翳礼賛 中公文庫)

「すたれゆく業を守りて紙を漉く」     藤丸東雲子

以下ご参考
( 三椏(みつまた)の歌と製紙の歴史について)

万葉集その百五十五(さきくさ:三枝)

「さきくさ」はその枝が三つに分かれているところから「三枝」と表記され
「三椏」(ミツマタ)のこととされています。( 沈丁花、ヤマユリなどの説もあり)

 古くから楮、雁皮と並んで重要な和紙の原料とされ、丈夫で栽培しやすい上
精巧な印刷や透かし入れが可能なため現在では主として紙幣、証券、印紙などに
用いられています。

「 春されば まずさきくさの 幸(さき)くあらば
           後にも逢はむ な恋ひそ我妹(わぎも)」   
             巻10-1895 柿本人麻呂歌集


( 春になるとまず咲くさきくさ。その言葉のように幸く無事であったら必ず
  また会えるでしょう。そんなに恋焦がれて苦しまないで下さい。いとしい人よ)

作者はこれから長い旅に出かけるのでしょうか?
当時の旅は野宿、食料持参が原則。
途中の山道で迷い狼や熊に襲われたり、また食が尽きて行き倒れる人も多く、
無事生還の保証がありませんでした。「幸くあらば」に実感がこもる一首です。

三椏は十二月頃蜂の巣のような蕾を生じ、そのまま越冬します。
早春になると薄い黄色の花をつけ周囲にほのかな芳香を漂わせてくれます。

「 枝ごとに三つまた成せる三椏の
         つぼみをみれば蜂の巣の如 」  長塚 節


紙の発明は105年中国の蔡倫(さいりん)が「樹皮、麻、ぼろきれ、魚網から紙を
つくった」(後漢書)のが最初のものとされています。

我国では奈良時代に独自の製紙法を開発していましたが610年高句麗の僧曇微
(どんちょう)が最新の技術をもたらしたそうです。(日本書紀)

現存最古の紙は聖徳太子筆といわれる法華義疏(ほっけぎしょ)で産地は不明。
最古の和紙は701年の美濃、筑前、豊前各国の戸籍に用いられたものとされ、
いずれも正倉院文書として保存されております。

奈良時代の正倉院文書は約1万点保存されていますが、その多くに産地が記されており
紙漉きを行っていた国は20カ国に及びました。
各国府で政庁の指導の下に製紙場が設けられて各地で消費する紙をまかない、
上質のものは中央に貢納されたそうです。

平安時代には和紙を貢納する国が42カ国にもなり京都の官営の紙屋院では
大量の反故紙を漉きなおしてリサイクルし、再生した紙は墨色が残るので
薄墨紙とよばれました。

  「みつまたや みな首たれて花盛り」 前田普羅
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by uqrx74fd | 2010-02-08 05:16 | 植物

万葉集その二百五十二(鶯)

「うぐひすの 肝つぶしたる 寒さかな」  支考

『 初音は、ウグイスやホトトギスがその年はじめて鳴く声をいったもので
清少納言は、ホトトギスの初音に対して「いかで人より先に聞かん」と
待たれると言って執心ぶりを示している。

「初音」といえば、ウグイスのそれをさす方が普通で、「源氏物語」の巻の名
「初音」もウグイスだし、浄瑠璃の「千本桜」の「道行初音旅」の「初音」も
ウグイスだ。

ウグイスの初音を特に重んじるのは、これは単に声が美しいだけでなく、
春を告げる鳴き声でもあるからだ。
立春を過ぎても異常低温のこともあるが、もうしばらくで
「待っていました」と叫ぶことができる日が訪れる。』

          ( 金田一春彦 ことばの歳時記 初音より 新潮文庫 )

「 百済野の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと
    居(お)りしうぐひす 鳴きにけむかも 」
                      巻8-1431 山部赤人


( 百済野の枯れた萩の枝の上に止まって、春の到来を待っていた鶯。
 あの鶯はもう鳴きはじめたであろうか )

百済野は奈良県桜井市吉備の地とされ、かって百済びとが住みついて集落を営んで
いたのでその名があります。
「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」によると舒明天皇の時代(640年頃)、この地に
百済大寺が建てられたそうです。
帰化人の最新技術を用いて造られたものと思われ、九重塔を持つ壮大な伽藍で
あったと伝えられています。

ところがこの寺は、天武天皇の時代に飛鳥の都近くに移されて高市大寺となり、
さらに平城遷都とともに再度、都近くに移転し、大安寺になる(現存)という、
めまぐるしい転変の運命をたどりました。

山辺赤人がこの歌を詠った時、百済大寺は既に打ち捨てられ、荒廃とした地に
変わり果てていたことでしょう。

「 威容を誇った大寺の地が廃墟となった悲しみと無常の気持」
そのような背景を考えるとこの歌は

「 春がめぐってくるとともに、あの百済野では今年も鶯が囀っていることだろう。
しかし大寺の栄えはもう百済の原にはもどってこない。
春を告げる鳥のいきいきとした声が、いっそう廃寺のもの悲しさをかきたてる 」
(直木孝次郎訳を一部訂正) との意が深く籠るものであると思われます。

( 註: 直木訳(夜の船出:塙書房)では 
「大寺→都 廃寺→廃都」とされるが、1998年の発掘調査により
都跡ではなく百済大寺跡の可能性が高いとされているので筆者が訂正した )

「 霞立つ 野の上の方(かた)に 行(ゆ)きしかば
    うぐひす鳴きつ 春になるらし 」
           巻8―1443 丹比真人(たじひのまひと)乙麻呂


( 霞かかっている野山のほうに出かけると、お-っ鶯が鳴いた。
もうすぐ待ちに待った春が来るらしいなぁ。 )

鳴きはじめた山の鶯の声を聞いて春の訪れが近いと喜んでいる作者です。

今年の立春は2月4日
日ごとに暖かくなり、梅の蕾も膨らんできました。
鶯はまもなく山から里に出て、本格的な春の到来を告げてくれることでしょう。

「 霞立つ 永き春日に鶯の
       鳴く声きけば 心は和(な)ぎぬ 」  良寛

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by uqrx74fd | 2010-02-01 08:00 | 動物