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万葉集その二百六十四(蓬:よもぎ)

「 いざ出でて 蓬摘もうよ 和(にこ)ぐさの
    香に立つ摘めば 心和まむ 」    若山 喜志子


山々の雪消の水が大地にしみこむ頃、早春の野の摘み草はまず蓬から始まります。
古代の人々は、その芳香が邪気を払うものと信じて食用にし、五月五日の節句には
屋根に葺いたり、鬘(かづら:髪飾り)にしていました。

清少納言は菖蒲や蓬の香りが大好きだったらしく、

「 節は五月にしく月はなし。 菖蒲、蓬などの
 かをりあひたる、いみじうをかし 」   (枕草子)


( 色々な節句の中でも五月の節句が一番だ。
 菖蒲や蓬など、家々の屋根に葺き、物にとりつけて、しきりによい香りを
 漂わせているのは実に趣が深い) 


と書いております。

これらの風習は万葉時代にも見られますが、歌に詠まれた蓬は一首のみです。

「- ほととぎす 来鳴く五月(さつき)のあやめ草  蓬(よもぎ)鬘(かづら)き 
酒宴(さかみづき) 遊び和(な)ぐれど 射水川(いみづかわ) 
雪消(ゆきげ) 溢(はふ)りて 行く水の いや増しにのみ  - -」
               (巻18-4116 長歌の一部 大伴家持)


( 時鳥が来鳴く五月には、菖蒲(しょうぶ)や蓬を鬘(かづら)にしました。
そして、酒盛りなどをして遊び、気を紛らわせようとしましたが、
あなたが不在の酒宴では少しも楽しめません。
射水川の雪解け水が 溢れるように あなた様への恋しさが
いよいよ募るばかりでした。 - - )

748年、越中国の官吏、久米広縄は「朝集使」という役目を帯びて上京しました。
朝集使とは「国司や郡司などの勤務成績や神社、僧尼の状況、さらに土木、交通、
建築など国政全般に関する年間報告書(朝集帳)を朝廷に持参する」ものをいいます。

それから約8ヶ月後のことです。
無事役目を果たして帰任した広縄を上司である家持が慰労の宴を催します。
「 遠いところ誠にご苦労であった。無事任を果たされ誠に喜ばしい。」と労い、
引用の歌の部分では、「貴殿の留守中は実に寂しかった」と述べています。

『 広縄という人は愚直なほど真面目な人物であったらしい。
家持はこの広縄の人柄をこよなく好ましく思っていたことが推察できる』(伊藤博)
心が籠った歓迎の一首です。

平安時代になると蓬は香りを楽しむ風情のある野草というよりは
「葎(むぐら)」や「浅茅」などと共に荒廃した邸宅に生える雑草としてのイメージが強くなります。

「これや見し 昔住みけむ跡ならむ
     蓬が露に月のかかれる 」   西行 新古今和歌集


( これがその昔私が住んでいた家の跡なのだろうか。
  蓬に置いた露に月が宿っているばかりだ )

蓬は栄養価が高いので古くから食用とされてきましたが、蓬餅などが
詠まれるようになるのは近世からのようです。

「 おらが世や そこらの草も 餅になる 」  一茶

さて、ここまで「蓬」という漢字を使ってきましたが、「これは間違いである」と
牧野富太郎博士は声を大にして主張されています。

『 そもそも平安時代の歌人源順(みなもとのしたごう)が「和名類聚鈔」
(略称 和名抄)に蓬を与毛木(ヨモギ)としたのが間違いの元である。
それ以来、今日にいたるも人々はヨモギを蓬と書いて怪しまないが、
私はそのように書く人々の頭を怪しまずにはいられない。
古より、とんでもない間違いをしてくれたもんだ。

  ヨモギは艾(ガイ)と書くのが本当だ。
元来これはモグサ(燃え草の省略せられたもの)に製する草である。
横文字でもMoxaと書くのは面白い。

蓬は元来日本には絶対ない草であるから、もとより日本名のあろうはずはない。
では蓬とはなんだ。
 
蓬とはアカザ科のハハキギ(ホウキギ)すなわち地膚(ジフ)のような植物で、
必ずしも一種のみに限られたものではない。
そして蒙古辺りの砂漠地方に盛んに繁殖していて、秋が深まり冬が近づくと
その草が老いて次第に枯れ、北風に吹かれて根が抜ける。
さらに、たくさんある枝が撓(たわ)んで円くなり、それに吹き当たる風のために
転々と、あたかも車のように広い砂漠を転がり飛びゆくのである。

そこで、それを転蓬(てんほう)とも飛蓬(ひほう)ともいっている。
すなわち蓬の正体はまさにかくの如きものである 』 

(牧野富太郎 植物一日一題 要約抜粋 ちくま学芸文庫)

 牧野博士説にもかかわらず、蓬はいまだに誤用のまま使われており、
 もはや訂正は不可能なことでしょう。( 広辞苑は蓬、艾 併記)

     「 蓬萌ゆ 憶良旅人に 亦(また)吾に 」  竹下しづの女
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by uqrx74fd | 2010-04-25 08:59 | 植物

万葉集その二百六十三(面影)

 「 まながひに 立ちくる君が おもかげの
    たまゆらにして 消ゆる寂しさ 」   (斉藤茂吉 あらたま)
  

 まながいに:目の前に   玉響(たまゆら):ほんのしばらくの間

『 「おもかげ」は漢字では「面影」あるいは「俤」と綴ります。
  とても美しい文字ですが、そこに「おも」という言葉が使われていることに
  重要な意味があります。

 「おも」は「面」とも「主」とも綴り、また「母」と綴って「おも」とも読む -。
 今日でも「おもむく(赴く)」「おもむき(趣き)」「おもしろい(面白い)」という言葉が
 使われていますが、そこにも「おも」が動こうとするニュアンスがよく出ています。

 吉田兼好が「徒然草」に
「名を聞くより やがて面影は推しはからるる心地する」

と書いて、名前を聞くだけでも、その人の顔や形が浮かぶものだと
言っているように、その事やその人のことを「思えば見える」というものであって、
突然何かが幻想として出現したとか、イリュージョンとして空中に
現出したということではないのです。 』
            (松岡正剛著 「日本という方法」より要約 日本放送出版協会)

「 夕されば 物思(ものも)ひまさる 見し人の
    言(こと)とふ姿 面影にして」  巻4-602 笠 郎女


( 夕方になるとひとしお物思いが募ってきます。
 以前お目にかかったとき、あなた様が話しかけて下さった姿が目の前に現れて。)

薄暮の中、かって逢った人の面影を思い浮かべながら、一人しみじみと味わう孤独感。
作者は大伴家持に熱烈な恋歌を29首贈りますが返歌はたったの2首。
片思いで終っただけに一層の寂寥感を誘う一首です。

「 夜のほどろ 我(わ)が出でくれば 我妹子(わぎもこ)が
    思へりしくし 面影に見ゆ 」 
                  巻4-754 大伴家持


( 夜がほのぼのと明けそめる頃、私が別れて出てくるとあなたが名残惜しそうに
思い沈んでいた姿が面影に浮かんで見えるのです)

共に一夜を過ごした作者の婚約者、大伴坂上大嬢に贈った歌で、別れの朝を
後朝(きぬぎぬ)といいます。
着ていた衣を互いに交換し合って名残を惜しむところから生まれた言葉ですが、
男は帰宅後相手の女性に歌を贈るのがエチケットとされていました。

「夜のほどろ」は「空が白みはじめる時間」をいい「ほどろ」は密なる物が拡散して
粗になるさまをいう言葉(伊藤博)とされています。
「思へりしくし」は「思へりき」を強調した用語で思い沈んでいた姿の意。

「 遠くあれば 姿は見えず常のごと
   妹が笑(ゑ)まひは 面影にして 」 巻12-3137 作者未詳


( 遠く離れているので姿を見ることが出来ないが あの子の笑顔はいつも
目の前に浮かんでくるよ )

旅の途中で家に残した妻の面影を思い浮かべながら望郷の念に駆られている作者。
そうそう、「忘れじの面影」という題名の映画(1948年製作;アメリカ)もありました。

「日影」、「月影」、「星影」、「火影」。

ここでの「影」はシャドウではなく、「物を照らして明暗をつける光」つまり
本体の光そのものを意味しています。
即ち、日の光、月の光、星の光、火の光 。

かの有名な「荒城の月」の一節「めぐる盃 かげさして」(一番) 
「天上 影は かわらねど」(四番)の「かげ、影」も「光」そのものなのです。
(滝廉太郎作曲・土井晩翠作詞)

面影の「影」にも「光輝くばかりの美しさ」という思いが込められて
いるのでしょうか。

   「万葉の 野をおもかげに 菜飯かな」    館野 真沙子
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by uqrx74fd | 2010-04-18 07:51 | 心象

万葉集その二百六十二(弥彦山:やひこさん)

「 いやひこの 杉のかげ道 ふみわけて
       われ来にけらし そのかげ道を 」  良寛


弥彦山は昔、「いやひこ」とよばれ、新潟県弥彦村の海沿いにあります。
我国で最も古い由緒をもつ山の一つで、県の中央部に位置し、南北に連なる
長い山容を誇り、西に海を隔てて佐渡島、東に蒲原(かんばら)平野を一望しています。

  「 弥彦(いやひこ) おのれ神(かむ)さび 青雲の
     たなびく日すら 小雨(こさめ)そほ降る 」 
                       巻16-3883 作者未詳


( 弥彦のお山 このお山は おのずと神々しく 青雲の美しく棚引く
 こんな晴れた日でさえ、小雨を、ぱらぱらと降らせている ) 

古代では山そのものを神と崇めていました。
晴れた日でさえ、田畑に恵みの雨を降らせてくれる山神に対して畏敬と感謝の
気持を込めて詠われた古謡と思われる一首です。

『 高さ638mに過ぎない弥彦山が、そんなに古い時代から崇められてきた理由は
その地へ行ってみるとわかる。
越後の穀倉といわれる蒲原の広い平野のどこからでも、野の果てに
この山が眺められる。

主峰から多宝に続くゆったりした尾根が、一つの独立峰の形で、麗しく眺められた。
田畑に勤労する農夫たちは、朝な夕なその麗しく気高い眺めに接して
畏敬と親愛の情を抱くようになったのは当然であろう。

そしてその山へお参りしょうという気がおきたのも当然だろう。
そして麓に山神を象徴する宮が出来、門前町がひらけた 』

          ( 深田久弥 百名山以外の名山50 河出書房新社)

なお、この歌の詞書に「越中(富山県)の歌」とあるのは、大宝2年(702)まで信濃川以西は
越中に属していたことによるもので、配置換え後も旧地の名称を用いているのは、
「縄張り意識などの古い地理観念が持続されていたもの(藤原茂樹)」
との指摘がなされています。

「 弥彦(いやひこ) 神の麓(ふもと)に 今日(けふ)らもか
    鹿の伏すらむ 裘(かはごろも)着て 角つきながら 」
               巻16-3884 作者未詳 仏足石歌体


( 弥彦の山の麓では 今日もまた、鹿が畏(かしこ)まって、ひれ伏しているだろうか。
 毛皮の着物を身に付け、角を頭に戴きながら ) 
 
この歌は575777を基調とする仏足石歌体といわれる万葉集唯一のものです。

奈良の薬師寺に仏さまの足跡を石に彫った我国最古の仏足石があります。
さらにその隣に仏の教えを刻んだ歌碑があり、その歌21首すべてが575777という
独特の形式で詠われているのでその名があります。

弥彦山の麓に越後最大の宮である弥彦神社があり、天照大神の曾孫である天香山命
(あめのかごやまみこと)が祀られています。
伝説によると命は住民に漁撈、製塩、農耕、酒造りなどの術を授け、この地方の
文化産業の基礎を築いたとされていますが、「古代何者かの偉人が海に面したこの地方に
上陸し越後を開いた可能性もある」(柳田国男:海上の道)との推定もなされています。

古代オリエントで鹿は聖なる動物とされ、それをもとにして中国で麒麟という
想像上の聖獣が生まれました。

我国でも古くから鹿は神の使いとして大切にされ、特に奈良、春日大社の神鹿は
よく知られていますが、古代、弥彦山の麓でも鹿が生息し、神に鹿踊りも奉納されて
いたものと思われます。

この歌は鹿でさえ威儀を正して神を敬っていると詠っていますが、
人間が鹿の扮装をしていることも示唆されているようです。

東北地方では現在でも鹿踊りが行われていますが、この歴史は古く、
仏教伝来以前に中国から伎楽が伝わった時にもたらされたとされ、柳田国男氏は
『 当初雄鹿の象徴として鹿の角をつけていたものが、伎楽の中の獅子舞の影響を受け
今のような異様な扮装になったのでは? 』と推定されています。

さらに、山口博氏によると『 その源は太古の狩猟時代、獲物に近づくために動物の
毛皮を着込み、角を頭につけて仮装して猟をしていたものが、やがて専門の模倣者が
生まれて豊猟を祈る儀式の呪術者すなわちシャーマンに変化していった』
(古代発掘、小学館) とも考えられています。

    「 初ざくら 髪にかざせり 弥彦巫女 」 石鍋みさよ
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by uqrx74fd | 2010-04-11 20:16 | 万葉の旅

万葉集その二百六十一(夜桜)

『 桜は月に引かれるというのか、自然の営みには月が大きくかかわっている
  みたいですな。
  ですから桜がいつごろ咲くかは暦をみていたらわかります。
  満月に向かって咲きよるんです。
  北の方へいくとまた変わりますけど、京都あたりだとだいたい満月に向かって
  咲いていきますわね。
  平成7年は4月1日が十五夜でしたな。ここを目指してぐう-っと咲いて、
  それで一気に春になりました。- -
  わしは月が咲かせるんやと思いますわ 』

( 佐野 藤右衛門:桜守、植藤造園16代目 
         「桜のいのち 庭のこころ」より要約抜粋 草思社)
 
    「 春日にある 御笠(みかさ)の山に 月も出でぬかも
         佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく 」 

           旋頭歌(577577を基調とする歌体)
                巻 10-1887 作者未詳 


( 三笠山から月が早く出てくれないかなぁ。西の佐紀山はもう桜が満開だよ。
  夜桜と洒落てみたいものだね )

古代でも夜桜を愛でる習慣があったようです。
三笠山は奈良東方の山で月が上ると西の佐紀山全山の夜桜が輝きます。
満月と桜。豪華かつ妖艶なまでの美しい光景です。

  『 二月、三月、四月、
  - 四月に入ると花が咲くやうに京都の町全体が咲き賑はった。
  祇園の夜桜、嵯峨の桜、その次に御室の八重桜が咲いた 』
                   (志賀直哉 暗夜行路より)


祇園の夜桜は篝火に照らされた円山公園の大枝垂桜。御室は仁和寺です。

  「 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜
     こよひ逢ふ人 みなうつくしき 」 ( 与謝野晶子 みだれ髪 )


「 清水寺へ行こうと祇園をよぎる若い女の華やいだ身のこなし。
月に白く照らされた桜。宵の刻の薄闇。ぼんやりと浮き上がるすれ違う人たち。
京都の名所、桜、月夜が次々と眼前に展開する映像性が巧み。
優美さと柔らかく浮き立つ情感がみずみずしい」 (名歌名句辞典:三省堂)

桜月夜は晶子の造語、作者代表作の一つです。

「 花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ
   あたら桜の とがにはありける 」   西行 山家集


( 花見の客が大勢押し寄せてきて騒々しいな!
 これもこの寺の桜のせいだよ )

西行は出家したのち、しばらく京都の大原院勝持寺に居たと伝えられています。
全山桜で覆われた花の寺です。

「 ひとり静かに暮らそうとしているのに、大勢の花見客が来てうるさいなぁ。
これも桜のせいだ」と苛立たしい気持を詠っています。
まだ若い頃なので修行が至らなかったのでしょうか。
 
後に世阿弥はこの西行の歌を主題にした能を作曲しました。

『 「西行桜」の能は、老木の精が現れて、「あたら桜の科(とが)」とは心ない仰せである。
 「無心に咲いている花には罪はないものを」と恨みを述べる。
 シテは桜の精、ワキが西行で、花見の人々(ワキズレ)が庵室をおとずれ、
迷惑に思った西行が上の歌を口ずさむ場面にはじまる。

やがて夜になって一同が寝静まった後、山の中から老木の桜の精が現れ、
しきりに怨みごとをいうが、最後に西行の知遇を得たことに感謝して
暁の光とともに消えてゆく。』  
  ( 白州正子 西行 新潮社より要約抜粋)

  「 待てしばし 待てしばし 夜(よ)はまだ深きぞ 
  白むは花の影なり
  よそはまだ小倉の  山陰に残る夜桜の 
  花の枕の夢は覚めにけり 
  夢は覚めにけり 」       ( 西行桜 )


( しばらくお待ちなさい。しばらくお待ちなさい。夜はまだ深いですよ。
 夜が白んだと見たのは、桜の花の姿だったのだ。
よそはまだ暗いのに、小倉山の山陰に咲き残る夜桜の花のもとでの
仮寝の夢は覚めてしまった)

『 春の夜の夢の中に桜の精と西行が一つにとけあって花の賛美を奏でている
ように見える。
(世阿弥は西行が) 桜の花を愛し、桜の中に没入しきった人間の、無我の境地を
描きたかったのではあるまいか。』    ( 白州正子 同上 )

「 夜桜や うらわかき月 本郷に 」   石田波郷
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by uqrx74fd | 2010-04-04 20:09 | 生活