<   2010年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その二百六十九(橘の花)

「 君睡(ぬ)れば 灯(ひ)の照るかぎり しづやかに
        夜は匂ふなり たちばなの花 」    若山牧水


新緑から初夏へと移る頃、橘は白い五弁の花を咲かせます。
花の間から流れでる芳しい香りはあたりを漂い、「それは昔の人の匂い」と詠った
古の人を思い起こさせるようです。

万葉集に詠われる橘は69首、そのうち62首までが花橘。
万葉人はこの花を純潔の象徴として愛し、冬でも枯れない常緑の葉と輝くような
大粒の実に永遠の生命力を見出していました。

「 橘のにほへる香かも ほととぎす
   鳴く夜の雨に うつろひぬらむ 」    巻17-3916 大伴家持


( 雨の中をホトトギスが鳴いています。都の橘は今が盛りなのに、
 あの芳しい香りはもう消え失せてしまっていることであろうか)

この歌が詠まれた当時(744年)、都は久邇(京都府相楽郡加茂町)にあり、
橘が多く植えられていたようです。

作者は休暇で家族が住む奈良に戻っており、都の橘の香りは雨に打たれて
盛りを過ぎてしまっただろうかと思いやっています。
花ではなく香りを詠った万葉集の中でも希少な一首。

「 五月山(さつきやま) 花橘にほととぎす
   隠(こも)らふ時に 逢へる君かも 」 巻10-1980 作者未詳


( 時は五月。山に咲く橘にホトトギスが隠れて鳴いています。
 そのホトトギスのように私も家に引きこもっている時、思いがけなく
 貴方様が私に逢いに来て下さいました。うれしい! )

恋する女性が相手のことを想いながら、家でふさいでいました。
その時を見計らったように、ひょっこりと来てくれた男。
思わず嬉しさがこみ上げ、歓声を上げる初心(うぶ)な乙女です。
万葉人の美しい造語「花橘」。

「 橘の花散る里に通ひなば
    山ほととぎす 響(とよ)もさむかも 」 巻10-1978 作者未詳


( 橘の花が散る里に私が通ったならば、山のホトトギスが声高に鳴きたてるだろうか)

ホトトギスの声を聞きながら花橘を愛でる宴会の席での歌と思われますが、
「女のもと(花散る里)に頻繁に通ったら、世間の噂(山ホトトギス)が
うるさかろう(響もす)なぁ」との意がこもる歌です。

この「花散る里」という言葉はその後多くの人に好まれ、源氏物語さらには
近代にまで引き継がれてゆきます。

「 橘の香をなつかしみ ほととぎす
   花散る里をたずねてぞ訪(と)ふ 」   源氏物語 (花散る里)


( 橘の香りが懐かしいとホトトギスガ訪れています、
  私も過ぎにし日を懐かしく想い、この花散る里、あなたのお屋敷を
  探し訪ねてまいりました。)

「 夏はなほ 哀(あわれ)はふかし橘の
    花散る里に 家居(いえい)せしより 」    藤原俊成


『 ( 春は花、秋は月、冬は雪というが夏は暑くて何のとりえもないと
   思っていた。
   でも橘の花散る里にしばらく住んでから夏もいいものに思える。)

  花散る里は光源氏の恋人、花散る里の君の邸(やしき)。
  源氏物語の世界に迷い込んだ気分 』
                    (訳文、解説共 長谷川櫂 四季の歌2 中公新書)

「 都辺は 埃(ちり)立ちさわぐ 橘の
     花散る里に いざ行きて寝む 」      正岡子規

[PR]

by uqrx74fd | 2010-05-30 09:22 | 植物

万葉集その二百六十八(光いろいろ)

「あらたうと青葉若葉の日の光」 芭蕉

この句は「奥の細道」への旅の途中、日光で詠まれたものです。
目のさめるような濃淡模様の青葉若葉。木々の葉に残った前日の雨の水滴が
降りそそぐ日の光にきらきらと輝いている。
自然の美しさへの感動とともに日光という土地、さらには東照権現の威光への挨拶が
籠っているともされている一首です。

746年の正月、奈良の都に大雪が降りました。
左大臣橘諸兄は諸王諸臣を率いて元正太上天皇のご在所に馳せ参じ、雪掻きの奉仕を
したところ、大いに喜ばれた上皇は酒宴を催されて労をねぎらいました。
宴もたけなわになり、上皇は「みなのもの、歌を奏上せよ」と仰せられます。

「 天(あめ)の下 すでに覆ひて 降る雪の
     光をみれば 貴(たふと)くもあるか 」 
                巻17-3923 紀朝臣清人


( 天の下をあまねく覆いつくして降り積もる雪。
 このまばゆいばかりの雪を見ると、お上の威光の何と貴くももったいないことか)

自然の美しさの中にお上への賛美を込めた一首ながら、なんと芭蕉の句と
発想が似ているのでしょう。
芭蕉も万葉集を勉強していたのでしょうか。

「 あしひきの 山さへ光り 咲く花の
   散りぬるごとき 我が大君かも 」   巻3-477 大伴家持


( われらの皇子が逝ってしまわれました。
 それは山の隅々まで照り輝かせて咲き盛っていたその花がにわかに散って
 しまったようです。)

744年聖武天皇のたった1人の皇子、安積皇子急逝。17歳の短い生涯でした。
橘諸兄をはじめ大伴家持も将来を嘱望していた優秀な人物だっただけに人々の
ショックは大きかったようです。
徳高い皇子を光り輝くばかりの花にたとえ、周囲は一挙に暗黒化したと悼んでいます。

「 ひさかたの光のどけき春の日に
     しず心なく花の散るらむ 」 紀 友則 古今和歌集


百人一首でもよく知られている歌です。
風のそよぎも全くない爛漫たる春の日。
音もなく静まり返っている中を桜の花びらが一枚また一枚と散ってゆく。
桜よ!どうしてそんなに散り急ぐのか。我が心を乱さないでおくれ!

「 山もとの 鳥の声より明けそめて
    花もむらむら 色ぞみえ行く 」 永福門院 (伏見天皇の中宮)


光という言葉を用いないで朝の光を詠った名歌。
大岡 信氏は次のように解説されています。

『 「山もとの」は山のふもとの意。 
山麓一帯にさえずり始める小鳥どもの声から夜は明けそめる。
そして射し始めた淡い日差しの中で、ある場所の花はいち早く日をあび、
別の場所の花はまだ影に沈みながら、むらのあるさまでしだいにはっきり
色を呈してくる。
ここで単に「花」といわれているのは、平安朝時代の言い方のならいで、
桜の花をさしている。
「花もむらむら」に漢字をあてれば聚々、群々でところどころに群れをつくって
あちこちまだらに、という意味の副詞である。
そんな意味よりも先に「花もむらむら」という言葉の響きが、なんというか
あちらこちらでムックリ、モッコリ身じろぎしはじめる花の感じを伝えてくる。

夜明け方、刻々光が移り変わる物の表面の生き生きした表情。
それが「花もむらむら色ぞみえ行く」にぴたりととらえられているところが
たかが三十一文字(みそひともじ)の短い詩の、長い生命の秘密である。 』
                ( 「うたのある風景」日本経済新聞社 )

「 たかんなの 光りて 竹となりにけり 」   小林康治

光はまた生命力の強さをあらわす言葉としても使われます。
「たかんな」とは漢字で「笋」と書き筍(たけのこ)のこと。
 雨後の筍という諺通り、盛んな生命力を「光りて」の4文字に託しています。

「 風光り 雲また光り 草千里 」   門松 阿里子

「風光る」はうららかな春の日にまばゆい陽光のなかを吹き渡る風が、
あたかも光っているように感じられるさまをいう感覚的な季語です。

 そして最後は誰かさんの親の七光り

「 親はこの世の油の光
          親がござらにゃ光ない 」   摂津古歌

[PR]

by uqrx74fd | 2010-05-23 08:25 | 自然

万葉集その二百六十七(エゴの花)

「 道も狭(さ)に 散り敷く白き ゑごの花
     踏むは痛々し 踏まねば行けず 」   泉 幸吉


『  ある年の初夏の頃、立川市内を流れている玉川上水を歩いたことがあった。
 - - 両岸は雑木林が緑の帯をつくっている。
 クヌギやコナラにまじってエゴノキがわりあい多く、シャンデリアのような純白の
 花房が、緑のトンネルの天井を飾っている。
 その白い花冠が、赤土のがけに、ほろほろと散り落ちていく。
 舗装もされない両岸の歩道にも、花びらの白が一面に散り敷いている。 』
               ( 足田 輝一 樹の文化誌 朝日選書 )

「エゴノキ」は小川のほとりなどに多く自生しているエゴノキ科の落葉高木です。
初夏になると小枝の先に5弁の白い花が塊になって下向きに咲き、花後、
ラグビーボールのような形をした小さい緑色の果実が無数に実り、熟すと
果皮がさけて褐色の堅い卵形の種子が落下します。

昔はその種から油をとり洗濯に使っていたので石鹸の木ともよばれていました。
「エゴノキ」の「エゴ」は果皮にエグ味があるのでその名があり、古代では
「ちさ」とよばれていました。

「 息の緒に 思へる我れを 山ぢさの
    花にか君が うつろひぬらむ 」 巻7-1360 作者未詳


( 命がけで思っている私なのに あなたは山ぢさの花のよう。
  もう気持が変わったの? )

エゴノキの花は美しい純白。
然しながら盛りは短く、すぐに茶色に変色して萎んでしまいます。
花のうつろいやすさにかけて男の心変わりを嘆いている可憐な乙女です。

「息の緒」とは、「苦しさのあまり死を思う状況の中で、僅かな生を意識した時に
用いられ、命の極限状態をあらわす言葉(伊藤博)」です。

「 山ぢさの 白露重み うらぶれて
    心も深く 我(あ)が恋やまず 」 巻11-2469 柿本人麻呂歌集


( 山ぢさが白露の重さでうなだれているように、しょんぼりしています。
  でも私の恋心は益々深く、決してやむことはありません )

ちさの花は下を向いて咲くのでうなだれているように見えます。
白露は相手の心の冷たさを表現したものでしょうか。
「露の重さが私の心にのしかかる。でも負けないわよ」と健気な女性です。

なお、この歌の「山ぢさ」は「イワタバコ」、菊科の「ちさ」など草花説があり、
定まっておりません。

「- - ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子と  
   朝夕(あさよひ)に 笑(ゑ)みみ笑まずも - -」
               巻18-4106 (長歌の一部)  大伴家持


(  えごの花が美しく咲く真っ盛りの頃に、あぁ、愛しい奥さんと朝に夕に
   時には微笑み、時には真面目な顔で-  」

「はしきよし」は「愛(は)しきよし」で感動をあらわす

この歌は、家持が越中(富山県)の国守であったころ、単身赴任していた部下が
左夫流児(さぶるこ)という遊女に夢中になり妻を顧みなかった事件があったとき
その部下を教え諭した歌の一部です。
「ちさ」のやさしい白花のイメージを引き合いにだして、夫婦が貧しいながらも
将来を楽しみにしていた満ち足りた生活をしていた頃をさしています。

「 えごの花 ながれ溜れば にほひけり 」 中村 草田男

えごの花は五片の花びらを付けたまま散ってゆきます。
川に浮かんだ白い花はくるりくるりと回転しながら流れ下り、
やがて花筏となってゆきました。
[PR]

by uqrx74fd | 2010-05-16 20:16 | 植物

万葉集その二百六十六(初鰹)

「目には青葉 山ほととぎす はつ鰹 」   山口素堂

日本列島の山野が新緑で彩られるころ、鰹は黒潮に乗って沖縄、九州、紀州、
小笠原諸島、伊豆、房総、東北は金華山沖辺りまで北上し、秋にはフィイリピン、
遠くは赤道方面まで南下して生まれ故郷に戻ってゆきます。(季節的回遊魚)

古代から鰹は貴重な栄養源とされてきましたが痛みやすく、冷凍などの保存技術が
なかった時代は干したものを食べていたので「堅魚(かたうお)」とよばれていました。
それが「かつお」に変わり、漢字も「堅+魚」から一字の「鰹」になったと
いわれています。

万葉集での鰹は一首、それも浦島伝説の一部にしか詠われていません。
浦島物語については後の機会に譲るとして、今回は鰹の部分だけを抽出します。

「 - - 水江(みずのえ)の 浦の島子が 鰹釣り鯛釣りほこり
  七日まで 家に来(こ)ずて - - )   巻9-1740 高橋虫麻呂歌集


( あの水江の浦の島子が鰹や鯛を釣っていて夢中になり、七日経っても家に帰らず-)

「釣りほこり」とは、次から次へといくらでも釣れるので夢中になり調子に乗ることで、
当時は鯛も鰹も豊富に獲れたのでしょう。
鰹は蛋白質、ビタミン類、鉄分が豊富な上、うまみ成分であるグルタミン酸が多く
大和朝廷でも重要な食料として各地から貢納させていました。

「 伊良胡崎に 鰹釣り舟 並び浮きて
    西北風(はがち)の波に 浮かびつつぞ寄る 」 西行 山家集


( 伊良胡崎の沖の方からの風向きが良くないというので、鰹を釣る舟が一斉に並んで
 西北からの風に立つ波に揺られながら浜辺をさして近寄ってくることだよ )

沖の風に暴風雨の気配があったのか、鰹釣り船が慌てて浜に引き揚げてくるさまを
詠ったようですが、平安時代でも鰹漁が盛んであったことを窺がわせてくれる一首です。
伊良胡崎は三河国(愛知)渥美郡。
西行は晩年に伊勢の二見が浦に庵を結んでいました。


「 鎌倉を 生きて出(いで)けむ 初鰹 )  芭蕉

江戸時代になると鰹は現在のように刺身として生食され、また鰹節に焙乾されるよう
になります。
芭蕉の句は鎌倉で採れた鰹を生きたまま早飛脚で江戸に運ばれ人々に初鰹として
もてはやされたさまを詠んだものです。
当時鎌倉を旅していた貝原益軒は

「 江島を出て腰越を通る。- 鎌倉の海、今は鰹といふ魚をとるとて
海に浮かべたるおほくの漁舟有。生なる鰹おびただしく持ちはこぶ 」と
その活況のさまを書いております。(壬申紀行  筆者注: 江島=江の島)

「 まな板に 小判一枚 初鰹」 (宝井其角) 

江戸っ子は女房、子供を質においてでも初鰹を食えと粋がり、数少ない鮮魚の値段は
高騰しました。
小判一枚は今の値段で7万円くらいでしょうか。
歌舞伎役者、中村歌右衛門は鰹一本3両(20万円位か)で買ったとの記録も残されています。
    
「 初鰹 銭とからしで 二度なみだ 」

当時鰹の刺身は生姜ではなく、芥子(からし)醤油を付けて食べていたようです。
 無理して買った人は後の支払いにやり繰り算段したことでしょう。

狂歌の大家、蜀山人はこの初鰹狂騒曲のさまを大いに皮肉っています。
「 鎌倉の海よりいでし初かつお
       みな武蔵野の はらにこそいれ 」


 註:「はら」 原と腹を掛ける

明治時代、若山牧水は和歌山に旅し、
「 熊野勝浦港は奥広く、水深く小島多く景色はなはだ秀れたり。
港口に赤島温泉あり滞在三日」と述べ、初鰹を満喫しました。

「 したたかに われに喰(くは)せよ 名にし負う
        熊野が浦は いま鰹時 」       若山牧水

「 今ははや とぼしき銭のことも思はず
         いっしんに喰へ これの鰹を 」  若山牧水)


食通に言わせると初鰹より秋の鰹の方が美味とのことですが、秋の季語に
戻り鰹がないところをみるとやはり若葉の頃の鰹のほうが粋なのでしょうか。

「 生鰹節(なまり)は鰹節にするときの未乾燥品だが、それを野菜と煮合わせたり
  ことに、割いたのを胡瓜や瓜と合わせて甘酢をかけまわしたものは私の大好物だ。
  - - 鰹のタタキも悪くないが私にはやはり刺身がよい。
  そして鰹の刺身ほど 初夏の匂いを運んでくれる魚はない 」

         ( 池波正太郎 味と映画の歳時記 新潮文庫)

「 ふじ咲(さき)て 松魚(かつお)くふ日を かぞへけり 」 宝井其角 
[PR]

by uqrx74fd | 2010-05-09 19:49 | 動物

万葉集その二百六十五(鞆の浦)

 「春の海 ひねもすのたり のたりかな」 蕪村

『 私の家(うち)は先祖から広島県の鞆(とも)であった。- -
  筝曲「春の海」は瀬戸内海の島々の綺麗な感じを描いたもので、
  長閑(のどか)な波の音とか、船の櫓(ろ)を漕ぐ音とか、また鳥の声と
  いうようなものをおり込んだ。
  曲の途中で少しテンポが速くなるところは舟歌を歌いながら、
  櫓を勇ましく漕ぐというような感じをだしたものである。』 
                     ( 宮城道雄 「春の海」より要約 岩波文庫)

「 海人小舟(あまおぶね) 帆かも張れると見るまでに
      鞆の浦みに 波立てり見ゆ 」 
              巻7-1182  作者未詳 (173:古代の船 既出) 


( 鞆の浦の海が荒れてきたようだ。
 海人が小舟の帆を張っていると思われるほどに白波が立っているよ)

普段は穏やかな鞆の海上に風が出てきて、白帆のような波が立っているさまを
詠った一首です。

鞆の浦(広島県福山市)は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西の潮流の分岐点、
すなわち、東は紀伊水道、鳴門海峡、西は豊後水道、関門海峡から瀬戸内海に
流れ込む潮がちようど鞆の浦あたりでぶつかり合うため、古くから潮待ちの
要港として栄えました。

「鞆」とは弓を射るときに使う皮製の防具のことで、その昔、神功皇后が
征韓のとき往路ここに寄港し、海の守護神、大綿津見(おおわたつみ)に戦勝と
海路の平穏を祈り、凱旋の時に鞆を奉納したことに由来すると伝えられています。

( 他に「トマ」転訛説あり。「ト」は瀬戸と同じ水道、「マ」は対馬と同じ島の意)

「 ま幸(さき)くて またかへり見む ますらをの
      手に巻き持てる 鞆の浦みを 」  巻7-1183 作者未詳


( 無事に戻ってまた見よう。
 ますらをが手に巻き持つ鞆と同じ名前を持つこの美しい鞆の浦を )

作者はここに寄航してさらに西へ船旅を続けていくようです。
地名起源の伝説を読み込み、かって神功皇后が旅の平穏を祈ったように、
自身の前途の幸運を願ったのでしょう。

   「鞆の津の 古りし雁木(がんぎ)や 鳥雲に」 亀井朝子

雁木とは江戸時代に築かれた船着場の石段で、潮の順位を見せ、満ち引きに
関係なく荷物の積み下ろしが出来るようにしたものです。
( 現在、200mにわたって残されている)

「山紫水明」 この言葉は中国のものではなく
頼山陽、鞆滞在の時の造語とされています。
「山水の景色は清麗、朝暮の眺望はことによい」の字義通り鞆の浦は
古くから景勝の地として知られており、江戸時代、朝鮮通信使(使節)は
「日東第一形勝」(日本で一番美しい景勝地)と褒め称えています。

鞆の浦は景観だけではなく昔から話題に事欠かない土地柄で
幕末には坂本竜馬が率いる海援隊の「いろは丸」(170トン)と紀州藩の軍艦、
明光丸(880トン)とが衝突し、竜馬が巨額の賠償金を大藩からせしめた事件、
最近では、映画「崖の上のポニヨ」製作にあたって宮崎駿監督がここに滞在して
構想を練り一躍有名になり、さらには港の一部を埋め立てるという景観を
破壊しかねない計画が裁判になり差し止め判決が出るなど- -。

そして鞆の浦の食の名物はなんといっても鯛。

『 春、魚島の季節になると、鯛は産卵のため外洋から三つの関門を潜って
瀬戸内に入ってくる。 
みんな燧灘(ひうちなだ)の走島を目がけて来て、走島の近くの岩礁に卵を産み、
それがすむと一方的に西の関門から外界に出る。
どういふものか鯛は瀬戸内に入ってくるときには三つの関門から入ってくるが、
ことごとく長門の関門から出て行って、豊予、紀淡の関門から出て行く鯛は一つもない。
これは瀬戸内の七不思議の一つだと思っておる。』 

(井伏鱒二 [ 鞆ノ津茶会記]より要約 福武文庫)

筆者註:魚島の季節=鯛が多く取れる陰暦三月から四月の頃をいい
魚島時(うおじまどき)ともいう。

  「 燧灘(ひうちなだ)目差し鯛網 船続く 」  岡田一峰
[PR]

by uqrx74fd | 2010-05-03 07:38 | 万葉の旅