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万葉集その二百七十三(真珠は六月の誕生石)


『 チパングは東海にある大きな島で、大陸から2,400㎞の距離にある。
  住民は色が白く、文化的で物資にめぐまれている。
  偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。
  黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。
  - 宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、その価格はとても評価できない。-

  バラ色の真珠も多量に産する。
  美しく、大きく、円く、白真珠と同様、高価なものである。 』

            ( マルコ・ポーロ:東方見聞録 青木富太郎訳 教養文庫より )

上記の黄金に関する記述は兎も角、我国では古代から真珠が豊富に採取され、
装飾品やお守りなどに用いられていたことは次の事実からも伺えます。
すなわち、法隆寺五重塔の舎利容器周辺から627個、
興福寺中金堂須弥壇から160個、東大寺金堂鎮魂具から13個の真珠が検出された等々、
枚挙に暇がありません。

さらに1979年に発掘された太安万侶(おおのやすまろ:古事記編者)の墓から
出土した4個の天然真珠は理化学的な検査により、アコヤガイであることも
明らかにされました。

万葉集での真珠は主として白玉と詠われ、水晶をも含む白い玉の総称と
されていますが、アワビのみは別格でした。
アワビ真珠が特に重んじられたのは、希少であることと、ピンクや青色の色彩が
極めて美しく、まさに珠玉であったのでしょう。

「 伊勢の海の 海人の島津が鰒玉(あはびたま)
     採りて後もか 恋の繁けむ」 巻7-1322 作者未詳


( 伊勢の海人が、志摩のアワビ真珠を採っています。
 もし私がそのような貴重な真珠、すなわちあの女性を得ることができたならば、
 後々まで変わることなく心を引かれ、思いは益々つのるでしょうか。)

  困難であった恋がまさに成ろうとしているのですが、男はその前途に
 不安を抱いているようです。
  相手は身分違いの高貴な女性であったのでしょうか。

 「島津」は人名説(伊藤博)もありますが、この歌での人名は必ずしも必要と思われない
(澤潟久孝)ので「島津の津」すなわち「志摩」の地名説を採りました。
伊勢志摩は当時から鮑、真珠の名産地として聞こえていたようです。

「 父母え 斎(いは)ひて待たね 筑紫なる
   水漬(みづ)く白玉 取りて来(く)までに 」
                     巻20-4340 川原虫麻呂 (駿河国防人)


  ( お父さん お母さん 精進潔斎して私の無事を祈って待っていてください。
    筑紫の海の底にあるという真珠、その白玉を採って帰ってくるまで )

 「父母え」は「とちははえ」「ちちははえ」二つ訓み方があり、
 「え」は「よ」の訛ったもの、つまり「父母よ!」
 「水漬く白玉」とは海に沈む貝の中にある真珠と言う意味です。
   
「海には真珠 空には星 
 わが胸 わが胸  されどわが胸には恋

 広きかな 海と空
 はるかに広きはわが胸
 真珠より 星より美しく
 輝き光る わが胸の恋  」 
                     (ハイネ:夜の船室にて 井上正蔵訳)


白玉は大切な女性にも例えられています。
  
その昔、ある女に惚れた男がいましたが、その女は別の男と結婚してしまいました。
ところが、数年のち女は旦那に捨てられ、離婚したと言う噂が男のもとに届きます。
女を忘れられず、独身を通していた男は欣喜雀躍。
早速、女の両親に結婚を切望する旨の歌を送りました。

 「 白玉は 緒絶(おだ)えしにきと 聞きしゆゑに
    その緒また貫(ぬ)き 我(わ)が玉にせむ 」   巻16-3814 作者未詳


  ( 真珠の首飾りの緒が切れたと聞きましたので、その切れた緒をまた新しく
   貫き通して私の玉にしたいと思います )

ところが女はいち早くまた別の男と再婚してしまっていたのです。
女の両親はこの男が詳しい経緯を何も聞いていないのだと察し、
「誠に申し訳なきことながらと」返事をしたためました。

「 白玉の 緒絶えはまこと しかれども
    その緒また貫き 人持ち去(い)にけり 」巻16-3815 作者未詳
 

 ( 真珠の緒が切れたのは本当です。けれども生憎、その切れた緒を、
   また新しく貫き通して、別の人が持っていってしまいました。 )

  誠に間の抜けた話ですが、情報が伝わりにくい古代です。
  この話を聞いた人たちは「おのおの方、気をつけられい」と笑いあった事でしょう。

「あこや貝」が歌に出てくるのは平安時代からです。

「 阿古屋(あこや)とる いがひの殻を 積みおきて
   宝の跡を 見するなりけり 」     西行 山家集


( あこや真珠を採ったあとの胎貝の殻が沢山積んである。
  それは宝の跡を見せているのであろうなぁ )

伊良湖は愛知県渥美郡:志摩の対岸。 「いがい」:胎貝

永年育てられたのち、真珠が取り去られたアコヤの貝殻。
それを無用なものとしてうず高く積み上げられたのを見て、
感慨をもよおしたようですが、西行は栄枯盛衰、諸行無常のさまを
云いたかったのでしょうか。

6月の誕生石は真珠、その石言葉は「長寿、健康、富」。
東西古今を問わず、あらゆる厄災から人間を守る珠です。

「月の雫」「人魚の涙」という美しい言葉も真珠の別名です。

  妖精: 「 これから露をさがしに行かなければ
        そうして桜草という桜草の耳たぶに
        真珠の玉をかけてやらなければ- -

        さようならお茶目さん もう行きます 」

             (シエイクスピア 夏の夜の夢 福田恒存訳 )

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by uqrx74fd | 2010-06-27 09:10 | 生活

万葉集その二百七十二(但馬皇女:不滅の恋)

691年持統天皇治世の時代、一大スキャンダルが発生しました。
今を時めく太政大臣、高市皇子(たけちのみこ)の妻妾で共にその宮に同居していた
但馬皇女(たじまのひめみこ)が義弟の穂積皇子を熱愛してしまったのです。
しかも、この三人の皇子皇女は今は亡き天武天皇を父とする異母兄妹という
複雑な関係です。
母が違えば婚姻が許された当時であっても、政界トップの妃でかつ皇女が
不倫を犯すなどとは口さがない宮廷人にとって願ってもない話題であったことでしょう。

万葉集は次のように語っています。

「但馬皇女、高市(たけち)皇子の宮にいます時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首」

  「 秋の田の 穂向きの寄れる片寄りに
       君に寄りなな言(こち)痛くありとも 」 
                             巻2-114 但馬皇女


( 秋の田の稲穂が風に吹かれて一斉に同じ方向に片寄っています。
 その靡き伏した稲穂のように私は身も心もあのお方に寄り添いたいものです。
 どんなに人の噂が高くなろうとも。)

「穂向き」の「穂」は穂積皇子を示唆しているようです。

当時、高市の年齢は38歳、穂積25歳、但馬は22~23歳位と推定されます。
幼くして母(藤原鎌足の娘、氷上娘:ひがみのいらつめ)を亡くし、同母の兄弟を持たない
但馬は年齢が離れた父親のような高市よりも若い穂積に引かれたようです。

異母兄妹といっても通い婚の時代、子供はそれぞれの母親の手元で育てられるので
きょうだい意識はほとんどなかったのでしょう。
まして穂積は但馬が初めて接した男性です。

片や高市皇子は壬申の乱の功労者で持統天皇の信任厚く度量も大きい人物。
噂は耳に入っていても、すべて自分の腹の中におさめていたようです。

「但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接(あ)ひ
    事すでに形(あら)はれて作らす歌一首」


但馬はひそかに穂積に逢い、関係をもったことを誰かに見られたようです。
もう人の口に戸は立てられません。本人に諫言する人もいたのでしょう。

「 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に
   いまだ渡らぬ 朝川(あさかわ)を渡る 」
                            巻2-116 但馬皇女


( 世間の噂が激しくて仕方がないが、たとえ何と言われようが私は
  この恋を貫き通します。
  そして今、生まれて初めて朝の光を浴びながら冷たい川を渡ろうとしているのです。)

通い婚の時代、女性が逆に男のもとに行くという行為でさえ尋常な事ではありません。
まして人目を避けての暗い明け方ではなく、明るい中を堂々と顔をさらして
穂積のもとに行こうというのです。

「言痛み」は胸に突き刺さるような痛みを表していますが、
「もう人の噂など気にしない」と敢然たる心境。
恐らく二度と高市の宮には戻るまいと決心したのでしょう。

穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣わす時に
    但馬皇女の作らす歌一首


噂はさらに高くなりついに持統天皇の耳に達します。
事態を憂慮された天皇は「もうこれ以上ほっても置けない」と勅を発し、法事などに
事寄せて、穂積を一時天智天皇ゆかりの志賀の山寺、崇福寺(すうふくじ)に閑居させました。
三人を可愛がっていた女帝はそれぞれの立場を考慮して穏便な処置をとったものでしょう。

「 後(おく)れ居て 恋ひつつあらずは追ひしかむ
   道の隈(くま)みに 標(しめ)結へ我が背 」 巻2-115 但馬皇女


( 後に一人残って恋焦がれているなんてとても耐えられません。
 あなたの後を追って行きたい! でも、もうとても無理です。
 あなた! どうか道々の隈(曲がり角)に、結界の標を結んで
 私が進めなくなるようにして下さい
 私が後を追うのを諦めさせるために。)

万が一天皇の意向に反して後を追えば、二人共々流罪遠島は免れません。
但馬は若い穂積の将来を考え身を引く決心をしたようです。
さりとて今更、高市のもとにも戻れない。
已む無く寓居を求めて籠り、二度と穂積に会うことはありませんでした。
しかしながら、生まれて初めて心から愛した男への思慕は生涯持ち続け、変らぬ恋を
貫き通したのでしょう。

1988年藤原宮址で木簡が発掘され、但馬皇女の財産管理をする役所があり、
役人もいたことがわかりました。
余生を送る但馬に対する持統天皇、高市皇子の配慮だったのでしょうか。

一方、山寺に遣わされた穂積皇子です。

「 今朝(けさ)の朝明(あさけ) 雁が音聞きつ春日山
    もみちにけらし 我(あ)が心痛し 」 巻8-1513 穂積皇子


( 明け方に雁の鳴き声が聞こえたがもう秋なのだなぁ。
 春日山も紅葉して美しいことだろう。
 それにつけても但馬とはあの時以来だが元気だろうか。
 彼女を思い出すと胸が痛むことだ。 )

句々切れ切れになっており、ポキリ、ポキリと骨が折れるような痛みが
「我が心痛し」に込められているようです。

穂積は太政大臣という権力者の愛人を寝取った以上、左遷、流罪などの報復を
覚悟していたことでしょう。
しかしながら持統天皇の温情ある配慮により事なきを得、後年、
知太上官事(ちだいじょうかんじ)という別格の最高位の大臣に昇進します。

時は流れ17年後。穂積は但馬皇女がひっそりと亡くなり、吉隠(よなばり)に
葬られたことを知ります。

但馬皇女の薨(こう)ぜし後に穂積皇子冬の日に雪の降る御墓を遥望(ようぼう)し
悲傷流涕(ひしやうりうてい)して作らす一首

「 降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の
   猪養(いかひ)の岡の 寒くあらまくに 」 巻2-203 穂積皇子


( 雪よ! もうこれ以上降ってくれるな。
吉隠の岡に眠っている皇女が寒いであろうから)

「あはに」: 沢山   
「吉隠の猪飼の岡」 ;奈良県桜井市初瀬の東あたり

滂沱(ぼうだ)として流れる涙。
別れて17年経過してもなお穂積は但馬に対する思慕の念を持ち続けていたのです。
「 但馬よ!許してくれ。 お前のひたむきな気持に応えてやれなくて。
  私の為にお前の生涯を寂しいものしてしまったなぁ。 」

「 いつなりけむ 
  夢にふと聴きてうれしかりし
  その声もあはれ 長く聴かざり

  世の中の明るさのみを吸ふごとき
  黒き瞳の
  今も目にあり
  
  死ぬまでに一度会はむと
  云いやらば
  君もかすかにうなずくらむか

  わかれ来て年を重ねて
  年ごとに恋しくなれる
  君にしあるかな  」
               石川啄木:忘れがたき人人(一握の砂、所収)


ご参考:

1、但馬皇女の歌三首は元々バラバラになっていたものを編集者がドラマチイック・
  ストーリ効果を狙って3連首とし、さらに題詞を付したものと推定されています。

2、本稿は通説から離れて、稲岡耕二、浅見徹両氏の語句解釈の新説をもとに
  一連のストーリを組み立てなおしました。

3、 「朝川を渡る」 (巻2-116)

    通説: 人目を避けてまだ暗いうちに未明の川を渡る

    稲岡説: 「朝」は昼を中心とした言い方であるがゆえに、
    すでに明け放たれた時という意識が強かったらしい。
    従って人目を避けるべくもない朝の光の中で川を渡ったと
    解釈する。                   
                (万葉の歌ことば辞典 有斐閣選書他 )

、「標(しめ)結へわが背」(巻2-115)

    通説: 相手を追いかけてゆくための目印を付けて欲しい

    浅見説: 「標はその標識より先へ進入を拒絶するもの。従ってこの歌は
          私が追いつけないように標を張っておいて下さい」と解する。
          つまり、但馬皇女は穂積を追って行ってはいけなかったのである。
          ( 万葉集論攷、セミナー万葉の歌人と作品第1巻)
                                                以上
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by uqrx74fd | 2010-06-20 20:38 | 心象

万葉集その二百七十一(吉備の国)

 「まほろばの吉備津の神の青嵐」      倉田紘文 

         ※青嵐(あおあらし:青葉の頃に吹くやや強い風)

吉備の国は古代有数の地方国家の一つで、その支配地は現在の岡山県全域、
広島県東部、香川県の島々の一部、兵庫県西部にまたがる広大なものでした。
北九州とともに真っ先に稲作が始まった地とされ、さらに鉄の生産、塩田の経営、
瀬戸内海の制海権掌握による海上貿易、造船技術を持つ強大かつ豊かな王国です。

歴代の天皇とも婚姻関係を結び大和朝廷とは政治的な同盟を結んでいましたが、
強大になり過ぎることを恐れた雄略天皇は国の解体をもくろみます。
そして、7世紀から8世紀のはじめ、度々の反乱にもかかわらず、ことごとく制圧され、
ついに備前、備中、備後、美作(みまさか)の4国に分国されました。

現在では上記4国のほか吉備路、作州(美作)ともよばれ、歌や文学、観光案内などに
その名をとどめております。

「 大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば
    筑紫の児島 思ほえむかも 」    巻6-967 大伴旅人


( 都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんの
 ことを思い出して辛い気持になるだろうなぁ )

吉備の児島は現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島で、古代は独立した
大きな島でした。
付近の海流が早く、潮待ちの港として栄えたところです。

730年大伴旅人は3年間の大宰府長官の任を終え、帰途の旅につきます。
筑紫を去る日、多くの見送り人の中にまじって児島という遊行女婦(うかれめ)の姿が
みられました。
貴族の宴会に招かれ歌を詠んだり、民謡を歌ったりして座を取り持つ教養のある地元の
女性です。
大宰府赴任直後に妻を亡くした63歳の旅人にとって児島のような歌才と優しさを持つ
女性の存在は大きな慰めであったことでしょう。
別れに際して袖を振る児島。

袖振るという行為は古代人にとって相手の魂を鎮め、その魂を招く事を意味していました。
「身分違いの自分なのに無礼とは知りつつ、ついつい我慢が出来なくなり、
はしたないことをいたしました。お許し下さい」と涙ながらに詠う児島。

衆目が注視する中、「ますらをと思っていた私もつい涙が流れでたことよ」と
情の断ちがたい心のうちを打ち明け、「児島を通過する時、お前を思い出すのは辛い事だ」と
応えた心優しい旅人です。

「 牛窓の波の潮騒 島響(とよ)み
   寄(よ)そりし君に 逢はずかもあらむ 」 巻11-2731 作者未詳


牛窓は現在の岡山県瀬戸内市にあり、日本のエーゲ海と讃えられている美しい港町です。
小高い丘にはオリーブ園が広がり、そこから眺める紺碧の海と島々はまさに風光絶佳。
とりわけ夕日が次第に落ちていくさまは幻想的ですらあります。

潮流が早く、満潮時に逆風が強く吹き付けるとサワサワと音を立て、静かな夜などは
島中に鳴り響いていたのでしょう。

( このように港中に噂されたあなたと私との間柄なのに、もう逢いにきて下さらない
  のでしょうか ) と嘆く乙女。

明治から大正にかけて活躍した竹久夢二は牛窓の生まれです。
代表作「宵待草:よいまちぐさ」の一節「待てど 暮らせど 来ぬ人を」を
思い出させるような一首です
 
   「夏来ると 備前の窯の 焔(ほ)むら立つ」 平岡真木子
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by uqrx74fd | 2010-06-13 18:14 | 万葉の旅

万葉集その二百七十(とき)

『 古くは「とき」は常とは違う日のことを意味した。
流れる時間ではなく、特別な時点である。
法事の際、お坊さんにあげる食事を斎(とき)というのも、同根であるらしい。
古代中国でも「時」の文字は「止」と同義と白川静「字統」にある。
だが万葉の時代にはもう「時」は時刻も意味し多様だった。

時間というもの自体一筋縄ではいかない。
流れて止まぬとき、循環するとき。
大事なとき、長いとき、短いとき、暦のとき、一日のとき。 』
               (天文歳時記、海部宣男 角川選書)

「 時々(ときどき)の花は咲けども 何すれぞ
   母とふ花の 咲き出来(でこ)ずけむ 」 巻20-4323 丈部真麻呂


(はせつかべの ままろ: 静岡県磐田市から袋井市にかけての山名の郡の防人)

( 旅の間、四季折々の花は美しく咲いて目を楽しませてくれたのに、
  どうして母と言う花が咲き出てこなかったのだろう )

作者は防人として徴集され、陸路、集合地である難波に向かいました。
徒歩での長い旅です。
野宿をしながらようやく目的地に到着し、これからさらに海路、筑紫あるいは
壱岐、対馬に向かいます。
「再び故郷の地を踏む事が出来るのだろうか」という不安。
そして瞼に浮かぶ懐かしい母親の面影。

「 来(こ)むと云ふも 来ぬ時あるを 来じと云ふを
   来むとは待たじ 来じと云ふものを 」
                     巻4-527 大伴坂上郎女


( あなたさまは、来るといって来ない時があるのに、
 まして来ないとおっしゃっているのに、もしや万一いらっしゃるなんて
 思いもしますまい。
 だって来ないとおっしゃっているのだから。)
 
才色兼備の作者は、恋多き女性でもありました。
うら若き乙女の時代には天武天皇の子、穂積皇子の寵愛を受け、715年20歳位の時に
死別します。
その後、藤原不比等の第4子藤原麻呂に愛され、721年には異母兄大伴宿禰麻呂と結婚。
この歌は藤原麻呂に求愛された時の戯れ歌ですが、待ちきれない想い、男に甘えて
拗ねている女心が秘められているようです。

「時分の花、誠の花」

能の奥義を説く世阿弥の「花伝書」での言葉です。

曰く、『 「花」とは能の命、舞台で一番のみせどころ、観客に感動を与えるところである。
しかしながらその花には時分の花と誠の花がある。
「時分の花」は若いときに容姿が美しく可愛い、あるいは声が良いことなどで、
未熟なものでも人を感動させることができる。
しかしそれは一時的なもので、やがては衰える。

それに比して「誠の花」は長年鍛え上げられた本物の花。
中年になっても、老年になっても消えない花、
芸の底から出てくる奥に秘められ自然に匂い出てくる花である 』

継続は力なり。
何事も本物を目指して日々鍛錬せよと叱咤奨励されているようです。

「 時の日の 鐘鳴らしゐる野寺かな 」 青木 月斗

6月10日は時の記念日。
昔の時刻については下記をご参照下さい。

ご参考:  万葉集その六十一(時の記念日)

671年、我国最初の公式時刻を告げる太鼓の音が都中に響き渡りました。
天智天皇が漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、役人の時間管理を徹底されたのです。
日本書紀によると4月25日のことで今の暦では6月10日にあたることから大正9年、
この日が「時の記念日」と定められました。

時刻を司る役所は陰陽寮といい、二人の漏刻博士が二十人の時守を率いて
二十四時間体制で水時計の管理をしていたそうです。
当時は一日を十二等分して一単位を時とし(今の二時間)、さらに時を四等分して
刻と呼び、時間の経過と共にそれぞれ定められた数の太鼓や鐘を打ち鳴らしたのです。

「 時守が 打ち鳴(な)す鼓(つづみ) 数(よ)みみれば
   時にはなりぬ 逢はなくもあやし 」 巻11の2641 (作者未詳)


( 時守が打ち鳴らす太鼓の音を数えてみると、あの方が見えるという時間がとっくに
 過ぎてしまっています。もうあの方はいらっしゃらないのでしょうか。
 おかしいですね。一体どうなさったのでしょう )

当時はお寺でも「時香盤」という用具を用いて香の燃え具合で時刻を測り、役所とは 
異なる音色の鐘を撞いていました。

「 皆人(みなひと)は 寝よとの鐘を打つなれど
    君おし思へば 寝(い)ねかてぬかも 」 巻4の607 笠郎女 


( もう亥の刻(午後十時)。「お休みの時間ですよ」と鐘の打つ音が聞こえます。
でも、あなたのことを想うと眠ろうにも益々目が冴えてとても眠れませんわ)

それにしても二十四時中、三十分ごとに太鼓や鐘の音が鳴り響き、さらに寺の鐘まで
加わるのですから、都の人達はさぞかし大変だったことでしょう。
まして「大伴家持との恋に悩む笠郎女は」と人ごとながらも同情いたしたくなります。

  「 時の記念日 知らずに咲いて 時計草 」 轡田 進

註:「漏刻」
階段状の箱の最上段に水を貯め、その箱の小穴から序々に下の箱に水を漏らして
最後の箱の水が一定の量に到達した時、目盛りが持ち上がって時刻を知らせる仕組み
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by uqrx74fd | 2010-06-06 20:01 | 生活