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万葉集その二百七十七(立つ波、騒く波)

「 海恋し 潮の遠鳴りかぞへては
    をとめとなりし 父母の家 」   与謝野晶子 恋衣


            ※ 晶子の生家は堺市甲斐町にあった菓子商「駿河屋」

「 ゴロ ゴロ.ゴー.ゴゴゴゴ 」
海辺は穏やかなのに遠くから雷のような音。
彼方の空は雲が垂れ込みはじめているようです。
沖合いでは風が吹き、波も高くなっているのでしょう。

古来から海鳴りは台風や津波が押し寄せてくる前兆とされてきました。
海辺を磯伝いに歩いていた旅人は慌てて険しい山路に進路を変更します。

「 あしひきの山道(やまじ)は行かむ 風吹けば
    波の塞(ささ)ふる 海道(うみぢ)は行かじ」 

                      巻13-3338 作者未詳


( 山道を行こう。 
  風が吹き波が前途に立ちはだかる海の道は怖いよ )

作者は海の恐ろしさを身にしみて経験してきたのでしょう。
磯伝いに歩く海辺の道は津波のほか崖崩れの危険も多くありました。

漁師達も慌てて船を引き返し、岸に向かって必死に櫂を漕ぎます。

「 風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の
   舟人騒く 波立つらしも 」 巻7-1228 作者未詳


(  風早の三穂の浦あたりを漕いでいる舟、その舟人たちが大声を上げて
  動き回っている。
  どうやら波が立ち始めたらしい。)

三穂の浦:和歌山県日高郡美浜町三尾付近。 
一見穏やかに見える海も、沖では荒々しい力をみなぎらせています。
このあたりは、一旦風が吹き出せばその激しさは凄まじいところ。
舟人のきびきびした動きが目に浮かぶような一首です。

旅人を乗せた船は近くの港に避難し、天候が回復するまで動けません。

「 粟島(あはしま)へ 漕ぎわたらむと 思へども
      明石の門波(となみ) いまだ騒(さわ)けり 」 

                     巻7-1207 作者未詳


( 粟島に漕ぎ渡ろうと思うけれど、明石の瀬戸の波は行く手を阻んで
  いまだに立ち騒いでいる。)

「粟島」は淡路島付近にあった島と思われます。
「明石の門波」は明石海峡に立つ波 「門」はここでは狭い通路の意。

難波から明石海峡まで30㎞。瀬戸内海、九州への旅の最初の関門です。
当時の船は底の浅い木造船で、人力あるいは帆走によって時速10㎞の
海峡を越えなければなりません。
穏やかな時でさえ潮流が早く危険な海峡。
荒天ではなすすべもなく、天候が回復するまで何日も滞在することになります。

 当時の港には遊女も多く、「滞在もまた楽しからずや」だったようです。

「 また湊(みなと)へ舟が入るやろう 
  空櫓(からろ)の音がころりからりと」  (閑吟集)


『 櫓を水に浅く入れて漕ぐのが空櫓。
  「ころりからり」とは涼しげな音
 港に入ってくる船には男たちが乗っている。
 その男たちがまた舟で去ってゆくだろう。
 「ころりからり」の音を残して。
 その音を聞きながら、もの思いにふける遠い昔の女』
                      (長谷川 櫂)

「 紀伊の海の 名高の浦に寄する波
     音高(おとだか)きかも 逢はぬ子ゆゑに 」 
                       巻11-2730 作者未詳


( 紀伊の「名高」(和歌山県海南市)海岸にうち寄せる波。
 その波音が高いように、俺達の噂が何と高いことか。
 相手はまだ大して逢ってもいない子なのに )

「名高の浦」はきめ細かな美しい白砂で都にも知られていたようです。
その名のように自分の浮名も高いとぼやいた歌ですが、言葉遊びをしながら
楽しんでいる余裕の作者です。

「潮騒、白波、さざれ波、沖つ波、荒波、夕波、千重波(ちえなみ)、
五百波(いおえなみ) たゆたふ波、雲の波、浦波、風波、騒く波、等々。」

万葉集に使われている波の名前です。
静かな心地よい波、美しい波、そして恐ろしい波。
その表現の豊かさ、観察の細やかさ。
古代の人にとっては文学的な表現というよりも生活に密着した言葉だったのでしょう。

「 ふるさとの 潮の遠音(とおね)のわが胸に 
    ひびくをおぼゆ 初夏(はつなつ)の雲 」  与謝野晶子 舞姫


                                 遠音:遠鳴り
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by uqrx74fd | 2010-07-24 19:58 | 自然

万葉集その二百七十六(鰻の祖先は深海魚)

『 かの万葉集に

「石麻呂(いしまろ)に 我れ物申す 夏痩せに
  よしといふものぞ 鰻(むなぎ)捕りめせ 」 大伴家持 巻16-3853(既出) 


という一首がある。 大伴家持の歌だ。
そのころから、すでに鰻の豊かな滋養が知られていたことになる。

この歌で鰻のことをムナギといっているのは、鰻の胸のあたりの淡黄色からついた名で、
それが転じてウナギとよばれるようになったそうな 』 
                             ( 池波正太郎 むかしの味  新潮文庫 )

「 痩す痩すも 生(い)けらばあらむを はたやはた
    鰻を捕ると 川に流るな 」      巻16-3854  大伴家持
 

( しかしなぁ、痩せているとはいっても、命あってのものだよねぇ。 
 鰻を捕りに行って川に流されてしまったら元も子もないもんなぁ。)

石麻呂は百済から渡来した医師、吉田連宜(よしだのむらじよろし)の息子で
生まれつき体がひどく痩せていたようです。
作者は父、旅人とともに二代にわたり親交があった仲なので遠慮なく
からかったのでしょう。

石麻呂の父は世間で「仁敬先生」と敬われた名医。
「名医の子なのにガリガリに痩せているのかい」という思いもこもる一首です。

鰻の生態については古代から長い間謎とされてきました。
ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384~322)はその著 動物誌で
「 ウナギは泥や湿った土の中に生ずる“大地のはらわた”と称する物から生ずる」と
述べ、皮膚呼吸をし地面を這い回るウナギはミミズと同種のものと誤解していたようです。

それから1800年後、ウナギの卵巣が発見されました。世紀の発見です。
精神分析の大家フロイトはそれに刺激されて雄ウナギの精巣探しに躍起になりますが、
残念ながら遂に確たる発見に至らず(本人は発見したと勘違いしていた)、その発見者は
ポーランドの学者、シモンシルスキーであるとされています。(1880年)

その後、多くの学者の研究や調査によりヨーロッパウナギとアメリカウナギは
バーミューダー諸島近くのサルガッソー海周辺で産卵することが突き止められました。

ニホンウナギの産卵場所が確認されたのは何とそれから120年以上も経った
2006年のことで、日本列島から南2千km離れたフイリピン東方マリアナ諸島、
スルガ海山と特定されました。

さらに東京大学塚本勝巳教授、西田睦教授らの研究でDNA変異分析の結果、
ウナギの祖先はアナゴやハモなどと同種ではなく、シギウナギやフクロウナギなどの
深海魚と近縁であることが分ったと発表されています。(2010年1月6日読売新聞)

ニホンウナギはマリアナ諸島の深海で産卵し、数十時間後に柳の葉のような形をした
レプトセファルスに変身します。
ほとんど泳ぐことができないレプトセファルスは海流に乗って移動し、
フイリピン東側の沖で黒潮乗り換え、その間に徐々に泳げるように姿を変えて、
シラスウナギとなります。

黒潮にのりながら遡上する川を探し、汽水域で新月の日を待って川を遡ります。
そして、長い時間をかけて棲みやすい場所を探して50~100㎞、長いものは
200kmも遡上したという記録もあるそうです。

住処を見つけた、雄は3~5年、雌は10年掛けて成熟し、クロコ、黄ウナギ、
銀ウナギと成長しした後、故郷の海へ産卵のために戻るのです。

「日本列島から数千㎞離れた深海の海山で産卵、柳の葉のようなピラピラの泳げない
幼魚が潮に流されて黒潮にのる、ゆらゆら揺れながらシラスウナギに変身、
棲むべき川を探して何百km、ダムなどの障害物をものともせず、うなぎ登りに
遡上して住処を見つけ、そこで苦節5年~10年かけて成長し、再び産卵のために
数千㎞の旅をしながら生まれ故郷に戻ってゆく」

ウナギとはなんと壮大なロマンをもつ魚なのでしょうか。

そのウナギが絶滅の危機に瀕しているのです。
私達が食べている国産のウナギは日本の河口などで捕まえた稚魚(シラスウナギ)を
養殖で成魚まで育てたものです。
ところが乱獲と気候変化などによりその捕獲量が40年前の15分の1に激減しています。

2010年4月8日、独立行政法人水産総合研究センターは世界で初めてウナギを
親まで成長させて子世代、孫世代の稚魚を誕生させる、いわゆる「完全養殖」に
成功したと発表しました。朗報、快挙です。

しかしながら、水質管理やエサ、さらには費用が掛かりすぎるなど商業的な
採算に乗るにはかなりの時間が掛かるそうです。

世界一ウナギ好きな日本人。今年の土用丑の日は7月26日。
末永く楽しめるよう、天然のシラスウナギを大切にし節度ある捕獲が望まれます。

『 なみいる魚族のうち、ただひとつ、うなぎには旬がない。
このうなぎに旬を設けるとすればそれは9月下旬から10月にかけての
ころではないだろうか。

黄金色の婚姻色を呈す頃で、いわゆる「下りうなぎ」とよばれている
時期のものである。
産卵のために古来、謎とされている深い海をめざして、これから長い旅路に
つこうとしているだけに、たっぷり栄養をたくわえて、脂も実によくのっている。
「下りうなぎ」こそ、まさしくうなぎのなかのうなぎである。』

                 (楠本憲吉 たべもの歳時記 夏 要約抜粋 おうふう社) 

  「 蒲焼屋 隣は尾石惣座衛門 」    柳多留

              註: 尾石惣は 「おいしそう」 の洒
ご参考
          万葉集その十六 (鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤18日間を言います。

冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で健康上用心が必要な時期と
されていました。

丑というのがこれまた危ない。方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」
「丑三つ時」と言えばお化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。そこで
「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。

鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

   「石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに
        よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」
                    巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で痩せの
大食い老人でした。
痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。


( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
 夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤油で味付けしたものを
山椒や味噌などを付けて食べていました。

現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。
俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
握り飯をがっついていました。
それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
請求書を突きつける。
しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 

「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」

といって鰻屋を追い返したそうであります。

さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。
彼は会食するする時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
齊藤茂太さんなどが書いています。

「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

        鰻を食ふは 楽しかりけり 」 
                   齊藤茂吉 (ともしび)より

                                             以上
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by uqrx74fd | 2010-07-18 09:29 | 動物

万葉集その二百七十五(万葉仮名の謎: 義之、大王)

万葉集の原文はすべて漢字で表記されています。
我国固有の文字がなかった時代、漢字を借りて日本語を書きあらわしていたのです。
それは、漢字そのものの意味を生かして用いたものではなく、日本語の言葉の
音に近い漢字を選び出して当てたもの、例えば「あいうえお」を「阿井宇江尾」と
表記するいわゆる「万葉仮名」とよばれる独特の応用法です。

 註:例外的に ① 漢字の意味を汲み取って日本語の言葉と同じものを当てる 
                  例: 咲花(さくはな) 薫(にほふ)
            ②  和語に翻訳できない仏教用語はそのまま使う 
                  例:布施、餓鬼) などもある。  

然しながら、万葉仮名は驚くばかりの多種多様な漢字が使われ、さらに特殊な
使われ方をされたものも多く、平安時代の終わり頃になると、万葉集は世にも難解な
古歌集と成り果ててしまっていたようです。

そのため、951年、村上天皇の詔がくだり、清原元輔をはじめとする
5人の歌人、学者が宮中の梨壷で万葉集に訓点を施す解読作業がなされました。

現在私達が読んでいる漢字、仮名まじりの57577の整然たる表記は、この五人を
はじめ、それ以降の多くの歌人、学者達によって何世紀もの間の苦闘を積み重ねて
創造された努力の結晶なのです。

今回は一千年の間読み解くことが出来なかった超難解歌を明晰な頭脳と直観力、
推理力で見事に訓み解いた江戸時代の古典学者、本居宣長の物語です、

「 標(しめ)結ひて 我が定め義之(てし) 住吉(すみのえ)の
    浜の小松は 後も我が松 」
               巻3-394 余 明軍 (よの みょうぐん


( 締を張って我がものと定めた住吉の浜の小松。
  この松は将来とも私の松なのですよ )

評判の遊女を今後とも占有する気持を述べた歌のようです。
古代、住吉には遊女が多くいて、都の男たちを魅了していました。
作者は百済の王孫系の人で、大伴旅人の従者でしたが、故郷に約束をする
美しい女がいたのかもしれません。

「 黒髪の 白髪までと結び大王(てし)
     心ひとつと 今解かめやも 」  巻11-2602 作者未詳


( 黒髪が白い髪になるまで、ずっと心変わりすまいとしっかり結び固めた私の心。
  それを今更、どうしてゆるめたりすることがありましょうか )

女の浮気心を咎めてきた男に対する女性の歌。 それとも
一途に一人の男に尽くしてきた女が他の男に言い寄られて、はねつけた歌でしょうか。

作者未詳歌ながら「大王」という万葉仮名を用いたこの女性は極めて才智豊かな
教養人だった思われます。

さて、この二つの歌の「義之」「大王」はどのようにして「てし」と訓み解かれた
のでしょうか。

本居宣長曰く

『 「義之」は「てし」と訓むべきである。
   何故ならば「義」は「羲」間違いであって、かの中国の「王羲之:おうぎし」の
   ことである。
   王羲之の書の名高いこと、古今にならぶものがない。
   わが国でも古くからこの人の書を重んじ、賞賛するがゆえに、この人のことを
   「手師」(てし)と書いた。
   書のことを手というのは、古くは日本書紀にも書博士を手博士、手書きとも
   云っている。

   また、「結大王」の「大王」も「てし」と訓むべきである。
   何故ならば大王は「王羲之」のことであるからである。
   その故は、王羲之の子に王献之という、これも一流の書家がおるゆえに
   親子を区別するために父を大王、子を小王といい、大王は王羲之のこと、
   すなわち「手師(てし)」であるからだ。 』(筆者意訳)
 

『 義之→羲之→書家→手師→大王→てし。この一連の見事な推理。
「羲之、大王」を「てし」と訓まねばならない理由の説明には一分の隙もない。

義之の字を見つめているうち「羲之」の名が透けてみえてくるところは
ある種の学者や読書人にとって不可能ではあるまい。

しかし王羲之をはじめとする書家のことを、上代、中古の人々が
「手師」と呼ぶ習慣があったという事実を思い起こすことは連想の飛躍が
なければならないと同時に、すでに「日本書紀」にそのような例があった
ことを知っているという知識の裏付けが必要である。

このような推理の全過程は学者における、いわゆる「雑学」的知識の重要性を
物語るものにほかならない。

「大王」というもう一つの、一見突飛な用字法も王羲之の名に結びつけられる
ことが想起されるに及んで、万葉歌人たちがいかに王羲之に関する知識を
広く持っているかも証明された 』
                       ( 大岡信 万葉集より要約 岩波現代文庫 )

万葉人の文字遊びに後世の人たちが一千年も頭を悩ませた王羲之(東晋307~365年頃)は
一流の書道家であると共に、武人としても重鎮、その人柄は穏健で気品が高く、
貴族としての風格を備えた人格者であったと伝えられています。

書として最も有名なのは行書学習の必習書とされる「蘭亭叙(らんていじょ)」。
また、楷書としては「楽毅論(がっきろん)」が第一にあげられており、これは子の
王献之に与えて秘法を子孫に伝えようとしたものとされています。

我国では天平時代に光明皇后が「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)されたものが、
正倉院に収められており、その書は
『 筆力勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない美しさがあり
 皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)
との最高級の評価がなされています。

万葉集に収録されている4516首の歌の殆どが多くの先人の努力によって
解読されていますが、まだ読み解けない歌が19首残っています。
これからも、まだまだ夢にまでうなされる研究が続けられてゆくことでしょう。

「 万葉集 巻二十五見いでたる
    夢さめて 胸のとどろきやまず 」 佐佐木信綱


全20巻の万葉集。ところが何と巻25を見つけた。世紀の大発見!
はっと目覚めたあとの胸のとどろき。


ご参考: 本居宣長の原文

『 「義之」は「てし」と訓(よむ)べし。
これを「てし」とよむのは「義」の字を「て」の仮字に用いたるにあらず。
「義」はみな「羲」の謝りにて、から国の王羲之という人のことなり。
この人、書に名高きこと古今にならびなし。

御国にも古へよりこの人の手跡をば殊にとふとみ、賞する故に
手師(てし)の意にて書(かく)る也。
書のことを手といふは、いと古きことにて、日本紀にも書博士を
手のはかせ共、てかき共訓(よみ)たり」

「結大王(むすびてし)」これらの「大王」も
「てし」と訓(よみ)て義理明らか也。
これもかの王羲之のことにて同じくて手師の意也。

この故は羲之が子の王献之といへるも手かきにてあれば父子を
大王、小王といひて大王は羲之のことなればなり- -』

                                以上
読者の皆さんへ
  以下はブログ運営者側が挿入したコマーシャルです。
  どのような内容か筆者も判りかねますので、開かないで下さい。
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by uqrx74fd | 2010-07-11 13:09 | 生活

万葉集その二百七十四(六義園は紀の国の箱庭)

「六義園 元禄の亀 鳴けりけり」 鈴木栄子

六義園(りくぎえん;東京都文京区) は徳川五代将軍綱吉の側用人として寵愛された
川越藩主、柳沢吉保が1702年に築造した回遊式築山泉水庭園です。

古典文学に造詣が深かった吉保は、「万葉集」や「古今集」などの歌の世界から
ゆかりの名勝を選び、園内に八十八景をちりばめて作庭したもので、完成までに
7年の歳月を要したそうです。

約2万7千坪の広大な庭の中心部は紀州の景勝である和歌の浦、藤白峠、妹背の山、
紀ノ川が配置されており、さながら和歌の庭 。

枝垂れ桜の大木が立つ六義園の入口、内庭大門を通り、少し歩くと大泉水(池)。
そこには海や川を想定した和歌の浦、紀ノ川が映し出され、左手に蓬莱島が浮かび、
右手の築山には妹山、背山が可愛らしく乗っています。

「 我妹子(わぎもこ)に 我が恋ひ行けば羨(とも)しくも
    並び居るかも 妹と背の山 」  巻7-1210 作者未詳


(家に残してきた いとしいあの子に恋焦がれながら旅していくと、
 羨ましくも妹の山、背の山が仲良く並び立っていることよ。 )


「人にあらば 母が愛子(まなご)ぞ あさもよし
   紀の川の辺の 妹と背の山 」 巻7-1209 作者未詳


( あの紀の川辺に立つ妹山と背中の山がもし人ならば、
  母にとっては最愛の子供たちだよな。  )

あさもよし:枕詞 麻裳(あさも:麻の衣類)で有名な の意を含む
妹の山、背の山を夫婦とみた前の歌に対し、これは兄妹と解しています。
作者は独身だったのでしょうか。

紀の国は大和の人の憧れの海の国、湯の国でした。
浮き立つような気分で旅する人たち。妹山、背山のおだやかな山容。
その脇を滔々と流れる紀ノ川は奈良県の大台ケ原山と吉野の山地を水源とする
吉野川で、和歌山県に入って紀ノ川とよばれます。

庭園を回遊しながら瀧見の茶屋、千鳥橋、吹山茶屋、つつじ茶屋、藤浪橋と
優雅な名前の名所を巡り、やがて蛛道(ささかにのみち)に至ります。

「 わが背子が来べき宵なり ささがにの
   蜘蛛のふるまひ かねてしるしも 」 
                 衣通姫(そとおりひめ)   古今和歌集
 

( 今宵はきっとわが背の君がいらして下さいますよ。ほら御覧なさい。
  蜘蛛がこんなにせわしげに動いて、そのことを教えてくれているんですもの。)

作者は允恭(いんぎょう)天皇の妃で、その美しさが光となって衣を通すというので
その名があるそうです。
「ささがに」は蜘蛛の古名で、古代では蜘蛛が活発に動くのは待ち人が来る前兆と
考えられていました。
「 細長いこの道が蜘蛛の糸に似ているので、和歌の道の長く続くことを
 思い合わせて名付られた」そうです。

森で囲まれた涼やかな道を歩いてゆくとやがて小高い丘。
標高35mの藤代峠です。
頂は富士見山とよばれ、そこから素晴らしい庭園の全景を眺望することができます。

「 藤白の 御坂(みさか)を越ゆと白袴(しろたへ)の
   我が衣手は 濡れにけるかも 」 
                      巻9-1675 柿本人麻呂歌集


( 藤白の坂を越えているうちに、私の着物の袖は山の雫に
すっかり濡れてしまったよ。)

紀の国から大和への帰路での歌です。
一行は坂の草露にも汗にも濡れたのでしょう。

この峠は659年謀反の罪に問われた有馬皇子が絞殺された所でもありました。
『 40年前のその悲しい事件を「わが衣手」が「雫」に「濡れる」ことを背後に
意識しながら作者は山を越えているのであろう』 (伊藤博)
『表面は単なる旅情の形にし、皇子を悲しむ心をその旅情の溶かし込んでいる』
(窪田空穂)  一首です。

「 藤白の 落花を敷きて 皇子の墓 」   山口 超心鬼

紀伊本線海南駅から1㎞ほど南にある藤白神社の近くに藤白峠へ登り口があり、
その途中に皇子の墓と歌碑があります。
藤白坂はかなり急な山道で古の人たちもさぞ大変だったことと偲ばれます。
やがて頂上。黒牛潟、名高の浦、和歌の浦の眺望はまさに絶景。
古人の歓喜の声が聞こえてくるようです。

「 浜木綿(はまゆふ)や 南紀の海に 落つる日を」   黒米松 青子

ご参考:

「六義」とは中国の詩経に由来する詩の分類法です。
紀貫之はそれを和歌の分類に転用し、古今和歌集の「かな序文」に
「そもそも歌のさま六つなり。漢詩(からうた)にもかくぞあるべき」と述べ、
次のように分類しました。なお、漢字の部分は詩経のものです。

「風」 そへ歌:地方の民謡ともいうべきもの
「賦」 数え歌:心に感じたことをそのまま述べるもの
「比」 なずらえ歌:類似のものを取り立てそれにたとえるもの
「興」 たとえ歌:外物にふれて感想を歌うもの
「雅」 ただごと歌:朝廷の雅歌のようなもの
「頌」 いはひ歌:祭祀に用いる壽詞に類するもの
                                         以上
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by uqrx74fd | 2010-07-04 20:11 | 万葉の旅