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万葉集その二百八十二 (明石海峡)

『 私は海峡がせばまって くろぐろとした潮流が滝つ瀬のように流れていると
胸がおどってしまう。- -
どうも海峡がよほど好きであるらしい。

海峡という文字をながめているだけでも気持がさざなみだってしまう。
日本の島のなかの海峡では壇の浦と明石海峡が好きである。

明石海峡の場合、須磨や舞子の松原ごしにながめてもよく、また明石の宿の浜側の
障子をあけてながめてもいい。

目の前の淡路島の北端が単純な山のかたちをなしてせまっている。
そのあいだを、青黒い潮が奔(はし)り、ときには九ノットで
はしりすぎてゆくのである。』 

                (司馬遼太郎 街道をゆく 明石海峡と淡路みち)
                 「甲賀と伊賀のみち砂鉄のみちほか」所収 朝日文庫 )



 「 燈火(ともしび)の 明石大門(あかしおほと)に入らむ日や
     漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず 」 
                                  巻3-254 柿本人麻呂


(  船が明石海峡にさしかかる日には家族が住む家そして山々が見えなくなり、
   そのまま故郷から漕ぎ別れてゆくことになるのであろうか )

暮色に浸された海の彼方に大和の山々がまだうっすらと見えている。
それもやがて視界から消え、いよいよ異郷の世界へと踏み込んでゆく。
「燈火」は明るいことから「明し」を引き出し、同音の地名「明石」に掛る枕詞ながら、
ここでは海人の漁火がチラチラと波間に見えるのでしょう。

当時「畿内」と「畿外」の陸地の境界は「赤石の櫛淵(くしふち)」とされていました。
現在の神戸市垂水区塩屋町と須磨区西須磨との間を流れる境川あたりです。
そして海の境界が明石海峡だったのです。

境界は地理的、自然的な区分にとどまらず、行政人為的な意味合いを強く帯びていました。
即ち、中央官人は畿内から登用され、さらに畿内の民衆は中央特区住人として
税(調庸)を免除されていたのです。

都から地方に旅する人たちにとっての明石海峡は、異質の世界へ踏み込む
不安感があったことでしょう。

 「 わが舟は 明石の水門(みと)に 漕ぎ泊(は)てむ
    沖へな離(さか)り さ夜更(ふ)けにけり」  巻7-1229 作者未詳


( 船頭さんよ、我々の船は岸へ向かい明石の港に停泊しましょう。
  沖の方へ離れていかないようにしておくれよ。
  夜も更けてきたことだしねぇ。)

明石海峡の最短部は幅4㎞。その潮流は凄まじく、西流の最高速度は7,1ノット
(時速13㎞)東流5、6ノット(同10㎞)の難所で、手漕ぎの木造船では
潮に逆らって進むことはできません。
まして遭難の危険性もある夜。 早々と港に寄港することになります。

「 ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
       島隠れゆく 舟おしぞ思ふ 」 
                     古今和歌集 柿本人麻呂の歌なり



( ほのぼのと明るくなってゆく明石の浦の朝霧のなか、島陰に次第に姿を消してゆく
  舟を見ていると、しみじみとした気分になってゆくことだ )

港で一夜明かして英気を養った旅人。
次第に明るくなってゆく海に舟が漕ぎ隠れていくのを眺めながら、これから先の旅に
想いを馳せています。

やがて出発。船は一路筑紫に向かいます。

「 - 天さかる 鄙(ひな)の国辺(くにへ)に 直(ただ)向ふ 淡路を過ぎ 
粟島(あはしま)を そがひに見つつ 朝なぎに水手(かこ)の声呼び
夕なぎに 楫(かじ)の音しつつ 波の上をい行(ゆ)き- -」
      巻4-509 丹比真人笠麻呂 (たぢひのまひと かさまろ)


( 都遠く離れた田舎の国、筑紫へと真正面に見える淡路島を通り過ぎ、
  粟島をも背後に見やりながら、朝凪に水夫(かこ)が声高に呼びかわし、
  夕凪には櫓の音を響かせつつ、波を押し分けて進み- ) ました。

粟島:淡路島もしくは阿波の近くか? 未詳
そがひ:背後   声呼び: 掛け声を発し  

それから数ヵ月後、公用を終えた旅人は再び明石海峡にさしかかります。

「 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば
   明石の門(と)より 大和島見ゆ 」    
                          巻3-255 柿本人麻呂


( 遠い田舎の長い道のりをひたすら都恋しさに上ってくると
  明石海峡から大和の山々が見える )

遠い異郷からの長い船旅。潮と波の怖さに耐え抜き、やっと最後の関門に到着です。
はるか彼方にうっすらと懐かしい大和の山々。目に浮かぶ故郷の山川、そして妻の顔。
あぁ、やっと帰ってきた。もう一息だ。
往路の悲壮感とは打って変わった歓喜と安堵の表現です。

「 人麻呂の神も淡路も朧かな」   小田眺生

              ※ 「人麻呂の神」:  「明石市人丸町 柿本神社」
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by uqrx74fd | 2010-08-29 19:50 | 万葉の旅

万葉集その二百八十一(かほばな=昼顔)

カオバナは容花、貌花とも書かれます。
「言海」によると「かほ」とは「形秀:かたほ」が略されたもので、もともとは
目鼻立ちの整った表面(おもてずら)を意味するそうです。

古代の人たちは「かほばな」の可憐な美しさに引かれてその名を与えたのでしょうが、
今日のどの花に当たるかについては諸説あり、現在では「昼顔」説が有力です。
( 他に、カキツバタ、オモダカ、ムクゲ、キキョウ説 )

昼顔は全国各地の野原、道端など日当たりの良い所ならどこにでも生える
つる性の多年生草本で、夏になると付け根から花柄を出し、その先端に5cmほどの
朝顔に似た紅紫色の花を咲かせます。

「 船大工 小屋の戸口にあらはれて
     われらを笑ふ 昼顔の花 」  (吉井勇) 


海辺などの砂地で群生している花は「ハマヒルガオ」ともよばれます。

「 高円(たかまと)の 野辺(のへ)の 容花(かほばな) 面影に
   見えつつ妹は 忘れかねつも 」     
                           巻8-1630 大伴家持


( 高円の野辺に咲き匂う容花。この花のように面影がちらついて- -。
 あなたを忘れようにも忘れられません )

作者は聖武天皇の行幸にお供しており、伊勢から山城への途にありました。
高円(たかまど)は奈良市の高円山。その麓に住む妻の坂上大嬢(おおいらつめ)に
贈った一首です。
面影に見える花としてはいささか華やかさを欠き、寂しげな感じがします。

「 美夜自呂(みやじろ)の 砂丘(すかへ)に立てる かほが花
   な咲き出(い)でそね こめて偲はむ 」 
                           巻14-3575 作者未詳


( 美夜自呂の砂丘に生い立っている「かほ花」よ。
 花がぱっと咲いて人目に付くように、お前さんも派手な振る舞いをしないでおくれ。
 こっそりと愛でたいのだから。)

美しい女を一人占めにしたい?それとも人に知られたくない籠り妻を持つ男でしょうか。
浜昼顔は群生し花も一斉に開くので目立つのです。

「美夜自呂(みやじろ)」は長野県安曇郡有明山麓の宮城(みやじろ)とする説あり。

「 うちひさつ 美夜能瀬川(みやのせがわ)の かほ花の
   恋ひてか寝(ぬ)らむ 昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も 」 
                             巻14-3505 作者未詳


( 美夜能瀬川の川辺に咲くかお花のように、あの子は私に恋焦がれて昨夜も今夜も
一人寂しく寝ていることであろう。)

昼顔は夜になると花を閉じます。
その花のように一人寂しく寝ている乙女の眼には涙。
訪ねると約束したのに何かの事情で行けなくなった男。
電話もメールもない時代、可哀想ですが、すっぽかすしかありません。

「うちひさつ」は「うち日さす」の訛ったもので宮の枕詞。
美夜能瀬川は長野県諏訪湖に注ぐ宮川との説あり。

「 石橋の 間々(まま)に生ひたる かほ花の
    花にしありけり ありつつ見れば 」
                  巻10-2288 作者未詳


( 川を渡るために置いた飛び石の合間に生えているかお花。
 その花は美しいけど実を付けない仇花だったのだな。
 やっぱり一時の浮気心だったのか。 こちらは真剣に付き合ってきたのに。)

 実のない女に失望している男。

この歌での「かほ花は」川の飛び石の間に咲く花、つまり水中や湿地に生える
カキツバタと解釈する説があり尤もなことです。

然しながら「石橋」を「ま」の音に掛かる枕詞とし、「間々」を「崖」の意とする説に
よるならば、昼顔でも差し支えないことになります。
崖を「間々:ママ」という地方は中部、関東、東北地方に多いとされ(日本古典文学大系)
関東でも市川真間という地名もあります。

どちらも一応の説得力はありますが、やや強引な感じも致し、この歌の「かほ花」は
未詳とするしかありません。

「 雑草の 茂みに蔓(つた)をからませて
     昼顔わずか 崖下に咲く」  山口みよ子  
 

目立たないところにも咲き、強靭な生命力を持つヒルガオ。
その葉を乾燥させ、煎じて飲むと糖尿病、膀胱炎、利尿に薬効ありとされ、
古代の人々にとっては生活に密着した有用の草木だったのでしょう。

「 昼顔は酒をのむべきさかりかな 」  暁台
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by uqrx74fd | 2010-08-22 20:51 | 植物

万葉集その二百八十 (防人:さきもり)

防人とはその名の通り「み崎を守る人」、沿岸警備兵のことです。

663年、百済救援のために派遣した日本軍が朝鮮、白村江(はくすきのえ)の海戦で
唐、新羅の連合軍に空前の敗北を喫しました。

危機感を抱いた大和朝廷は唐軍侵攻に備え、北九州沿岸、壱岐、対馬に
防人と烽火(のろし)台を配置し、内陸には水城(みずき:水を貯えた堤防)や山城を築いて
防備を固めます。

防人は東国の農民の中から派遣され、中央政府が割り当てた人数を国司が指名し、
選ばれた者は自前で武具を調達、道中の食料を持参し、部領使(ことりつかい)
という役人に引率され、野宿をしながら遠く難波津まで連れていかれました。

難波で中央政府官人の検閲を受けた後、官船で瀬戸内海を経て
那大津(なのおおつ:博多)に到着。直ちに北九州、壱岐、対馬に配置。

そして、平時は人気のない海浜や離島で自給自足生活を送り、万が一敵侵攻の場合は、
援軍もない状態で全員戦死の覚悟で臨んでいたのです。
任期は3年。玄界灘の強風の中での生活はさぞ辛かったことでしょう。

755年、兵部省の高官であった大伴家持は防人が東国から難波津に向かったとき、
これを検閲することになり、国府に対して防人歌を提出する事を命じました。
提出された歌は166首にのぼりそのうち82首が拙劣歌として切り捨てられ、
84首が万葉集巻20におさめられています。( 別巻にも防人歌があり、総数98首)

こうした家持の配慮がなければこの様に多くの防人の歌とそれによって明らかになった
歴史の実態を我々は知ることが出来なかったことでしょう。

防人の階級は上から 国造(くにのみやっこ)、助丁(すけよぼろ)、帳帳主、火長、
上丁(かみつよぼろ)、防人、とよばれ、万葉集巻20の防人歌にはすべて出身国と
階級が付されています。

「 ふたほがみ 悪(あし)け人なり あたゆまひ
    我がするときに 防人にさす 」

    巻20-4382 大伴部広成(おほともべのひろなり) 下野の国那須の防人


( 布多富「ふたほ」の里長はたちの悪い人だ。
  急病でおれが苦しんでいるのに防人に指名しやがって )

「ふたほ(布多富)」は地名、 那須の郡の村落(里)  「かみ」は上:その村の長 
 「あた」:急 「ゆまひ」:やまひ(病)が訛ったもの

作者は日頃、里長と折り合いが悪かったのでしょうか。
個人的な腹いせから不公平な人選も行われていたことを伺わせる一首です。

「 韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
    置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして 」

  巻20-4401 他田舎人大島(をさたのとねりおほしま) 信濃の国造


( 韓衣の裾に取りすがって泣きじゃくる子ら、母親もいないのに
その子供たちを置き去りにして出てきてしまった。あぁ。)

妻に死なれ男手一つで子供を育てているにも係わらず、出征を強いられた男。
集団の最高責任者、国造(くにのみやっこ)という立場から已む無く泣き叫ぶ子を
振り切って旅立つ断腸の思いがひしひしと伝わってくる一首です。

韓衣;大陸風または外出用の衣服。ここでは兵士の官服か。

防人はなぜ近くの西国から徴発しないでわざわざ東国に求めたのでしょうか?
その理由は、① 武勇にすぐれていたこと ②地域が広く人口が多いこと 
③ 逃亡の恐れがない、万が一逃亡しても東国訛りが強いのですぐ発見できる。
などが挙げられています。

「 我(わ)ろ旅は 旅と思(おめ)ほど 家にして
    子持ち痩すらむ 我が妻(み) 愛(かな)しも 」
           巻20-4343 玉作部広目  駿河の防人


( 自分の旅は辛くともこれが旅だと諦めているけれども、家に残って
 子供を育てている妻は苦労で痩せてしまっていることだろうなぁ。 
 あぁ-。 いとおしいお前。)

「貧しくとも誠実な中年農民の姿がありありと眼前に浮かんでくる」(佐佐木信綱)
一首で自分の境遇を率直に詠いあげています。

「 国々の防人集い 船(ふな)乗りて 
    別るを見れば いともしべなし 」

    巻20-4381  神麻続部島麻呂(かむをみべのしままろ)  河内の国上丁


( 国々の防人たちが集まり、船に乗って遠く別れてゆくのを見ると
 なんともやりきれない思いがするよ )

難波津から船で出てしまえばもはや運命は自然に任せるしかありません。
権力の前に如何ともしがたい言いようのない絶望感がひしひしと伝わってきます。

「 今日(けふ)よりは かへり見なくて 大君の
   醜(しこ)の 御楯(みたて)と 出で立つ我れは 」

  巻20-4373 今奉部与曾布(いままつりべのよそふ) 下野の国の火長


( 今日からは後ろなど振り返ったりすることなく、つたないながらも
 大君の御楯となって出立してゆくのだ。おれは!)


防人歌のほとんどは肉親との別れの悲しみ、望郷の想いを詠い、出征に前向きの
心意気を示すものはほとんどありません。

この歌は数少ない中の一首ですが、作者は火長という立場上、出立の儀式の宣誓式で
音頭を取ったものと考えられ、「かへり見なくて」には深刻な悲壮感が漂って
いる(伊藤博)ようです。

註. 火長:兵士10人の長。火は同じ釜の飯の意か。

先の戦争で「現人神」「皇御軍士」(すめらみくさ:天皇の兵士)と詠われている歌
とともにこの歌は忠君愛国の士気を鼓舞するため軍部に大いに利用されました。
万葉集の作者の真の心情をまげて誤用、悪用されたのです。
そのため戦後万葉集を忌避する人たちが多く出てしまったことは実に残念なことです。

「 防人の 妻恋ふ歌や 磯菜摘む 」    杉田久女

家持が防人歌の提出を命じた目的は

『 効率が悪く、諸方面において疲弊が甚だしい、しかも怨嗟の声が多い
東国防人制に固執するよりも、徴兵交代が容易であり、機動性も増す
西海道七国からの徴兵策への軍備再編制にあった。そのための実情把握
であったのではないか』との指摘もなされています。
                    (山口博:万葉集の誕生と大陸文化 角川選書)

「 海原(うなはら)に霞たなびき 鶴(たづ)が音(ね)の
    悲しき宵(よひ)は 国辺(くにへ)し思ほゆ 」 
                    巻20-4399 大伴家持


( 海原一面に霞がたなびき 鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は
 ひとしお故郷が思い出されることだ。 )

家持は苦しむ防人に同情し、自ら防人の立場に立ってその悲しみを詠いました。
そして757年。100年以上続けられた東国徴兵は廃止されます。
家持が防人の歌を集めてから2年後のことでした。

「 兵隊とは地の果ての人間だ。
  兵隊とは、光栄ある囚人の世界に過ぎない。」

田辺利宏 ( きけ わだつみのこえ 岩波文庫より)


以下はご参考; 本稿関連作品(既出) 「現人神の登場」、「住吉の神様は現人神」

万葉集その百五十(現人神の登場) 

672年、古代最大の内戦「壬申の乱」が勃発しました。
天智天皇の後継者である大友皇子と天智の弟大海人(おおあま)皇子との甥叔父間の
皇位継承争いです。
近江朝から見れば大海人は賊軍。大義名分が不可欠となった大海人は
「我こそ皇祖天照大御神の直系の正統なり。我軍は神に守られた軍団であるぞ」
と声高に味方の士気を鼓舞します。

当時、兄弟間の皇位相続が多かったことに加え、大友皇子の母が身分が低い采女であった
ため(大海人の母親は斉明女帝)このキヤッチフレーズに多くの豪族が共感し
大海人軍は圧倒的な勝利をおさめます。

乱平定後、天武天皇として即位した大海人は、声高らかに次のように讃えられます。

「 大君は神にしませば赤駒の
     腹ばう田居を都と成しつ 」 巻19-4260 大伴御行(家持の祖先)


( わが大君は神であり、超人的なお方であるぞ! 強靭とされている赤馬でさえも
 動くのに難儀していた泥沼の湿原地を都に造り変えられた。)

この歌が天皇を神と詠った最初のもの(他に一首あり)で現人神登場の序章です。
天武天皇はさらに「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
「天照大神の子孫が日本の国の王となるべきものである」という天照大神のお告げ、
いわゆる「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとします。

「 ちはやふる 神の御坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り
         斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため 」
        巻 20-4402 神人部子忍男(みのひとべのこおしを)


( 神のいますこの御坂に幣を捧げ奉ります。どうぞ無事に国境をお通し下さい。
ほかでもない母父のためにも大切な私の命なのです)

   註:幣=五色の紙や布を細かく切ったもので紙吹雪のように撒く

天武天皇は政治基盤をより強固にするために律令制度を中心とした中央集権国家を
めざし天皇親政としました。

然しながらもう一つの大きな障害を乗り越えなければなりません。
それは「国つ神」とよばれるそれぞれの土地の神々の存在です。当時、土地を通行する
旅人の半数を殺したという恐ろしい神もいたのです。(播磨風土記)
人々は国境を越えるたびに幣を供えて旅の安全を祈り恐れ慄きながら旅をしていました。

中央集権国家の確立のために迅速な情報の伝達が不可欠です。そのために幹線道路を
整備し駅馬、駅舎を備えましたが通行する肝心の官吏が土地の神々を怖がっていたの
では話になりません。
そこで考え出されたのが神々の中央集権、つまり
「天皇が天つ神として地方の国つ神に君臨する」 という考え方です。

「 山川も依りて仕ふる神(かむ)ながら
     たぎつ河内に舟出せすかも 」 巻1-39 柿本人麻呂


( 山の神も川の神も天皇に御仕えする時代になりました。
  天上の神であられる天皇は今ここに吉野川の激流に船出なさろうとしています)

ここに至って天皇は、国つ神に君臨する絶対神へと昇華します。
時の天皇は持統女帝。自身を天つ神である天照大神(女神)に重ね合わせています。
その後、宮中儀礼行事のたびに群臣が列席する中「天皇は神」と詠われ、宮廷歌人
柿本人麻呂が大きな役割をはたしました。

それから30年後。律令国家としての政治基盤も安定し天平時代は最盛期を迎えます。
聖武天皇吉野行幸の折の山部赤人の歌からは「天皇は神」という言葉が消え、
自然の美しさを讃えながら皇室の繁栄を暗喩する内容に変化していきます。

更に藤原貴族の台頭による天皇の力を牽制する動きや仏教の興隆などにより現人神は
「三宝(仏法僧)に仕える奴」に転落し、完全に消滅するに至りました。
「現人神」は乱世における古代国家統一の手段として創造された産物であったのです。
 

                                          「完」
万葉集その二百十二(住吉の神様は現人神)

739年のことです。
名門貴族、石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ:父は元左大臣石上麻呂)が
不倫の罪で土佐に配流されました。
相手の女性は参議式部卿 藤原宇合(うまかい)の未亡人、久米連若売( くめむらじの わかめ)。
この事件は宇合死後一年半経過しており、本来ならば罪に問わるはずがないもの
ですが生前から噂があり、何かと世間を騒がせていたようです。
ただ、事の真相は不明で人望ある乙麻呂の失脚を図ったという陰謀説もあります。

「 大君の 命(みこと)畏(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます
  はしきやし 我が背の君を
  かけまくも ゆゆし畏し  住吉(すみのえ)の現人神
  船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ
  着きたまはむ  島の崎々   寄りたまはむ 磯の崎々
  荒き波 風にあはせず  障(つつ)みなく  病(やまひ)あらせず
  速(すみや)けく 帰したまはね    もとの国辺(くにへ)に 」
                        巻6-1020 1021 作者未詳


( 勅命をかしこんで承り、私の愛しい夫が海を隔てて並んでいる国(土佐)に
 配流されます。
  言葉にして申すのも憚(はばか)られ恐れ多いことでありますが
 人となって姿を現し給う住吉の神様!
 どうか船の舳先(へさき)に鎮座され、わが夫をお守り下さい。
 これからの船旅で到着する島々、寄航する崎々で荒波にも暴風にも遭遇せず、
 また不測の事故や病気にもなることがないよう。
 そして一日も早くこの国へお帰へし下さいませ )

さし並ぶ:土佐と紀伊は同じ南海道に属しかつ海を隔てて並んでいるという意味。
     四国へは和歌山市加太の港から出発したのでこのような表現となっている。
はしきやし:愛(はしき)やし、  かけまく:口に出す 
うしはき: 「領(うしは)きで占有する。 ここでは鎮座するの意」 
住吉の現人神:住吉の神は人の姿となって現れ舳先に立って航海を守るとされていた。

この真摯な祈りが届いたのでしょうか、
乙麻呂は2年後に赦免され、以降順調に累進を遂げたといわれております。

なお、この歌は第三者が歌物語風に仕立てたものと推定され、
歌番号が1020、1021となっているのは、当初「はしきやし 我が背の君を」までを
独立した短歌と見なされていた為とされています。

現在の住吉一帯は大規模な埋め立てにより昔の面影がありませんが、当時は
大社の前から遣唐使船などが出港し、わが国最古の国際港にしてシルクロードの
玄関口でもありました。

住吉神社は海神である上筒之男(うわつつのお)、中筒之男(なかつつのお)、
底筒之男(そこつつのお)の三神と神功(じんぐう)皇后を合祀しており、
四座の神殿はすべて西の海の方向に向かって鎮座されています。

男神三神の名の真ん中の「筒」は星の古語「星(つづ)」で古代航海は夜空の星を
頼りにし星を神と崇めていたことによるものだそうです。

住吉の神は古代から現在にいたるまで「航海の守護神」であると共に
「住吉に歌の神あり初詣」(大橋桜披子)と詠まれているように「和歌の神」
さらには「田植の神」(住吉のお田植神事)としても知られております。

さて、その住吉の現人神が後年思わぬ人助けをなさいます。

昭和10年、一木喜徳郎、美濃部達吉の天皇機関説に端を発する軍部による
言論弾圧は日ごとに激しさを増していました。
(註:「天皇機関説」:国家の統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関で
あるとする憲法学説)

そのような時、作家の久米正雄が新聞に満州国皇帝 溥儀(ふぎ)を
「アラヒトガミ」と形容した記事を掲載し不敬罪に問われそうになる事件が発生します。

『 久米は文学報国会の現職の事務局長なので不敬を問われて辞任したとなれば
  どこまで累が及ぶか分らない。
  そのとき口を開いたのが折口信夫だった。

「 私どもの方から申しますとアラヒトガミという言葉は決してカミゴイチニン
だけを申し上げるのではございません。」
( 作者註:カミゴイチニンの「カミ」は「お上:天皇」)


このあと折口はアラヒトガミというのは生き神で今では天子さま(天皇:作者註)
お一人指すというのが普通だが古代においては違う。
神性を表す一つの言葉に過ぎないから固定的に天皇のみに用いるわけではない。
住吉の神という例が万葉集にもある。と述べたのである。
事態はこの折口の発言により沈静化した。 』 


              (上野誠 魂の古代学より要約抜粋 新潮選書)

  泣く子も黙る軍部を沈黙させた万葉集と住吉の神様恐るべしです。

                                              以上
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by uqrx74fd | 2010-08-15 07:47 | 生活

万葉集その二百七十九(初秋風)

『 暦の上の立秋の後先、まだ夏が衰へ初めたとも見えない とある八月の日の、
 朝か夕の思はぬ時に、ふと、その年の初の秋風を肌が感ずる。 - -

 まだ夏のさかりに早くも一息吹いて来る その秋風。
ぬれた髪のやうな冷やかな手で、つと頬を撫で去るのみで
後はまた夏らしい微風が渡ってゐる その秋風。

しかし 私の心が 今のひと吹きは今年最初の秋風だった。- -

夏にやうやく萎へそめた青草の呼吸の感じられる そのひと吹き。
今宵より野にすだく虫の やうやくしげく、
夜露やうやう深まさるだらうと思はれる そのひと息。- - 』

                ( 堀口大学 初の秋風 作品社:「日本の名随筆所収」)

「 初秋風 涼しき夕(ゆうへ) 解かむとぞ
   紐は結びし 妹に逢はむため 」   巻20-4306 大伴家持


( 初秋風、涼しい風が吹く来年の七夕に再び逢い、着物の紐を解こうと
 誓いながらお互いに結びあったのだったなぁ。
 ようやく一年が経ちその日がやってきたよ )

難波に単身赴任中の作者が天の川を仰いで詠んだ一首です。

当時の人々は別れの際にお互いの衣服の紐をしっかり結び合っておけば
再び思う人に逢えると信じていました。
牽牛の待ちに待った喜びを詠ったものですが、作者自身、妻にまもなく逢えるという
気持も込めているのでしょう。

「初秋風」は大伴家持の造語。万葉集中この一例のみ。

「 我がやどの 萩の末(うれ)長し 秋風の
   吹きなむ時に 咲かむと思ひて 』      巻10-2109 作者未詳


( 我家の庭先の萩が枝先を伸ばしています。
 秋風が吹いたら早速咲こうと思って待っているのだろう。 )

「萩の末(うれ)」の原文は「若末」で、若く伸びた枝先。
萩が咲くのを待ちかねている思いを初秋風に託している作者です。

「 古衣 打棄(うつ)る人は 秋風の
    立ちくるときに 物思(ものも)うふものぞ 」  
                      巻11-2626 作者未詳


( 古い衣をうち捨てるように恋人を捨てた人は、秋風が吹きはじめる時に
 わびしい思いをするものですよ )

つれなくなった男を咎める女の歌のようです。
古衣は長らく連れ添った糟糠の妻をさしているのかもしれません。
とすれば男に新しい愛人が出来たのでしょうか?

秋風が立つ時期は、物思う、ひたぶるに うら悲しい季節という感覚を
万葉人が既に持っていたことを窺わせる一首です。

「 人の心の 秋の初風 
  告げ顔の
  軒端(のきば)の萩も 恨めし 」     閑吟集


( あの人はわたしに飽きたのか、姿も見せない。
 軒端の萩が「秋の初風が吹いたよ」と知らせるように
 揺れているのも恨めしいこと )

「秋風の秋」に「飽き」を、「軒端」の「軒」に(男が)「退き」を掛けた女の心。

「 明日香風、浜風、朝風、神風、港風、伊香保風、川風、浦風、春風、山風、
時つ風、佐保風、花風、港風、沖つ風、松風、比良山風、家風、朝東風(あさこち)、
泊瀬風(はつせかぜ)、あらしの風、そして秋風。」

万葉集使われている風の名前です。
万葉人は何故このように風の名前を使い分けたのでしょうか。
単なる詩的興趣からなのでしょうか。

大岡信氏は日本人の風に対する感覚について以下のように述べておられます。

『 秋の最初の使者としての風。そこにゆらいでいる時間の流れ。- -
 日本人は秋季に限らず、季節の節目節目をまず敏感に感じ取らせるものとして
 風をたえず意識してきた。
 おそらくこれは四方を海で囲まれ、気象条件によって支配されている島国に住む
 民族として、日本人が農耕、漁撈いずれにせよ、風雨によって生活を根本的に
 左右されてきたということと無縁ではあるまい。

 春風によって芽ぶいた植物も、収穫期に嵐に遭(あ)えば一年の苦労は無と化してしまう。
 一見単純なリズムを刻んでいるかのような季節の中にも、人間の生命をおびやかす
 要素はさまざまにあった。

 古来の日本の詩人たちはそれらの最も微妙なあらわれとして、風に注目した
 ものだともいえるだろう。
 「初風」という一語をとってみても、風が吹きはじめるその瞬間に対して
 心をとぎすましている人々の、心の姿勢を見ることができるのである。 』

              ( 大岡信 名句歌ごよみ:秋 より要約抜粋  角川文庫 )

「 山聳え 川流れたり 秋の風 」   蓼太(りょうた:江戸中期の俳人)
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by uqrx74fd | 2010-08-08 08:09 | 自然

万葉集その二百七十八(天の川ロマンス)

『 七月の月は「たなばたつき」と呼ばれた。
また「ふみづき(文月)とも呼ばれたが、それは七月七日には天上の恋人たちを
称える歌が至るところで詠まれたからである。

牽牛と織姫の出会う様子は目のよい者なら誰でも見ることができるといわれている。
それが起こるときに決まって、この二つの星が五色の色に燃え立つからだ。
「たなばた」の神々に五色の供物をあげるのも、また五色の色紙に星を讃える短歌を
書くのもこのためである。

七日の晩に空が晴れればこれら二人の恋人たちは幸運である。
― 牽牛星がたいそう明るく輝くならその年の秋の実りは豊かになる。
織姫星が例年より明るく見えるならば機織やその他もろもろの女の手仕事が
繁盛するといわれる。 』  (筆者註:七月は旧暦)

           ( 小泉八雲:天の川幻想  船木裕一訳 集英社 )
      
「 天の川 水蔭草の秋風に  
    靡かふ見れば 時は来にけり 」 巻10-2013 柿本人麻呂歌集


( 天の川を見やると、水蔭に生えている草が秋風に靡いている。
  あぁ、ついにその時がやってきたのだ。)

水辺の草が秋風にそよそよと靡きだすころ、ようやく待ちに待った二人の逢瀬が
はじまると心をときめかせている牽牛。
「時は来にけり」に弾むような気持があふれています。

水蔭草は水に影を映している草で万葉人の美しい造語。

「 君が船 今漕ぎ来らし 天の川
   霧立ち渡るこの川の瀬に 」 巻10-2045 作者未詳


( いとしい方の船は今こそ漕いでこちらに来るらしい。
  天の川に霧が立ち込めてきた。この川の瀬一面に ) 

 渡河の気配を知る織姫の胸のときめき。
 牽牛の船が漕ぎ進むにつれ、櫂(かい)の雫が霧となる幻想的な場面です。

「 天の川 相向き立ちて 我(あ)が恋ひし
  君来ますなり 紐解き設(ま)けな 」 巻8-1518 山上憶良


( 天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
 いよいよ、愛しいあの方がお出でになるらしい。
 さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。 )

この歌は万葉集で年代がはっきりしている最初の七夕歌とされています。
「紐解き設けな」天上の物語を一気に現実の庶民のものとして詠う憶良です。

「 相見(あひみ)らく 飽き足(だ)らねども 稲(いな)の目の
   明けさりにけり 舟出せむ妻 」  
                            巻10-2022 作者未詳


( 逢ってからずっと抱き合っているのにまだまだ飽き足りないなぁ。
 でもお前、窓の隙間から光が漏れてきているよ。
 もう夜が明けてしまったようだ。
 名残惜しいがそろそろ船を出して戻らねばなるまい。 )

「稲の目」は「明け」の枕詞です。
窓がない古代、「明かり取り」や「煙出し」の部所に藁(わら)で編んだ網目の
ようなものを取り付けており、その隙間から光が漏れてきていたのです。
牽牛は「そろそろ帰り支度を」と織姫に促しています。

「 さ寝そめて いくだにあらねば 白袴(しろたへ)の
   帯乞ふべしや 恋も過ぎねば 」   
                        巻10-2023  作者未詳


( いやよ!あなた。 
床についてからまだいくらも経っていないのに、「もう着物の帯をよこせ」と
おっしゃるなんてひどいわ。 もっと満足させて! )

「 一年(ひととせ)に 七日(なぬか)の夜のみ 逢ふ人の
   恋も過ぎねば 夜は更けゆくも 」 
                         巻10-2032  柿本人麻呂歌集

( 1年のうちこの7月7日の一夜だけ逢う人の恋の苦しさもまだ晴れないうちに
  夜はいたずらに更けてゆくのだなぁ。 )

 あぁ、「とき」は止まってくれないのか。

「 年の恋 今夜(こよひ)尽くして 明日よりは
   常のごとくや 我(あ)が恋ひ居(を)らむ 」 
                          巻10-2037 作者未詳

( たった一夜の共寝。別れは切ない!
また明日から恋の苦しみが始まるのか。

年に一度の逢瀬と定められた運命でも互いに変ることなき恋。
待ちに待った日が来たる! 心のおののきと期待。
はやる心をおさえつつ船を漕ぎ織姫のもとに向かう牽牛、
今か今かと川辺に立ち心をときめかせながら待つ織姫。

ようやく逢えた歓喜。
会話もそこそこに抱き合う二人、もう言葉は不要です。

至上のときはあっという間に流れ行き、
夜の帳(とばり)が明けそめるころ、
あふれる涙を流しつつ断腸の想の二人は
再会を約して別れてゆきます。

そうです。万葉人は天の川という舞台を借りながら自らの恋を美しく
ロマンティックに詠っているのです。
だからこそ万葉集には天の川の歌が132首も残されているのでしょう。

まもなく仙台七夕、青森ねぶた、弘前ねぷた。
秋祭りの季節です。

「 天の川 かたむきかけて おほぞらの
     西の果てより秋はきにけり 」      大田水穂

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by uqrx74fd | 2010-08-01 17:50 | 生活