<   2010年 10月 ( 5 )   > この月の画像一覧

万葉集その二百九十一(ちちの木は銀杏)

b0162728_916195.jpg

                     (奈良二月堂近くの大湯屋の銀杏)

b0162728_9165957.jpg

             ( 奈良県御所市 一言主神社の乳銀杏 樹齢1200年)

夏の終わりまで青々としていた銀杏の葉は、秋の深まりとともに黄緑色となり、
やがて輝くような黄金色に包まれます。
夕日にあたる黄葉は華やかで明るく、その散り敷いたさまは豪華絢爛。
この世のものとは思われない夢の絨毯のです。

「 金色の ちひさき鳥のかたちして
    銀杏(いてふ)散るなり 夕日の岡に 」 与謝野晶子


イチョウが地上に出現したのは中生代ジュラ紀(1億5000万年前)の初期とされて
いますが何らかの理由により絶滅し、その後長い年月を経て再び出現したものと
推定されています。
イチョウは中国が原産とされていますが、わが国でも石川県能美郡の手取層、
北海道の石炭層、岩手県久慈市の地層などから「イチョウ葉の化石」が発見されて
おり、有史以前から存在していたようです。

現在、わが国では樹齢1200年以上のものが現存し、中でも仙台市宮城区銀杏町大銀杏
(樹齢1200年)、青森県西津軽郡深浦町の「垂乳根の銀杏」(樹齢1000年以上:
幹周り22m、高さ31mは国内最大とされている)は共に国の天然記念物に
指定されています。

大イチヨウが他の樹木と著しく違う点は、幹や枝から垂れ下がった「乳」とよばれる
突起があることで、それは乳銀杏とよばれ古代から霊力があり生命力を宿すものとして
崇められてきました。

古代の人たちは「イチョウ」を「ちち(乳)の木」とよび、乳が十分に出ない母親は
子供が健やかに育つよう、この木に祈ったのです。

「 ちちの実の 父の命(みこと)  ははそ葉の 母の命(みこと)
  おほろかに 心尽くして 思ふらむ
  その子なれやも ますらをや 空しくあるべき

  梓弓 末(すゑ)振り起こし 投矢持ち 千尋(ちひろ)射わたし
  剣太刀 腰に取り佩(は)き あしひきの八つ峰(を)踏み越え
  さしまくる 心障(さや)らず

  後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも 」 
                                   巻19-4164 大伴家持

「 ますらをは 名をし立つべし 後の世に
   聞き継ぐ人も 語り継ぐがね 」    巻19-4165 大伴家持


「ははそ」葉:「コナラ」の葉 「おほろかに」:いいかげんに
「さしまくる」指し任くる:任命する 「心障らず」:心に背くことなく

「 チチの実、ははそ葉 。
  それはわが尊敬する父上、母上の名。
  その「ちち」「はは」は、私を懸命に育てて下さいました。
  そのような私はそんなに不甲斐ない子でしょうか。
  いやいや、そんなことがあろうはずはありません。
  ますらをたる者 日々空しくこの世をすごしてよいものでしょうか。
  いやいや、そんなことが許されるはずもありません。

  私は、梓弓の弓末を振り起こして千尋のかなたへ矢を射かけ
  剣太刀をしっかり帯びて、あまたの嶺を踏破しながら
  信頼して任命して下さったお上の期待に応えるべく懸命に働くのです。
  そして後の世に語り継がれるよう名を立てるべきなのです。   ( 巻19-4164)

「 ますらをたるものは名を立てねばならない。
 後の世に聞き継ぐ人も、ずっと語り伝えてくれるように 」 (巻19-4165)

この歌の詞書に「勇士の名を振はむことを慕(ねが)ふ歌」とあり、山上憶良の
立志の歌(末尾ご参照)を参考にして、衰退していく大伴家の再起を願い自らを
奮い立たせたものと思われます。

藤原氏の台頭とともに衰えてゆく家運。最大の後ろ盾、聖武天皇、橘諸兄亡き後、
孤軍奮闘空しく昔日の栄光は望むべくもありません。
作者はもはや「プライドを保つだけが精一杯」という心境であったことでしょう
残された道は「武家の棟梁」ではなく「歌人」の道しかありませんでした。

この歌の「ちちの実」はイチジク、イヌビワほか諸説ありますが
イチョウが有力との推定がなされています。
万葉時代の銀杏に関する文献がなく、当時まだ存在していなかったのでは?
といわれていましたが、
『 樹齢1200年以上ののイチヨウが多く確認され、その存在が
確実視できことと、銀杏には“ちちの木”の別名もある 』ことが根拠です。

 ( 万葉植物事典  大貫茂 クレオ社、: 花の歳時記:淡交社 )

   「 明るさの 銀杏紅葉を 夕景に 」   稲畑汀子

「ご参考」

万葉集その百一(名を立てる)

「 互いに 睦みし 日頃の恩  
 別るる後にも やよ忘るな
  身を立て 名をあげ やよ励めよ 
  今こそ別れめ いざさらば 」       (仰げば尊し 2番)

今や卒業式のシーズンです。
この歌や「蛍の光」を聞くたびに幼き頃の師や友が懐かしく思い出されます。

今から1270年前、山上憶良は「身を立て 名をあげ」を「名を立てる」という言葉で
表現しました。

「 士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に
    語り継ぐべき 名は立てずして 」 巻6-978 山上憶良


733年、当時74歳の憶良は重病に陥ります。
藤原八束(やつか:藤原房前左大臣の第3子)にとって憶良は親しく指導を受けている
師匠とも言うべき人でした。
早速お見舞いの使いを遣ります。
八束の見舞いの言葉を聞き、憶良は涙が溢れ出て止まりません。 ややあって涙をぬぐい、

( 自分の74年間の生涯を振り返ってみて、これといったことを何も
していないではないか。
  後世に語り継がれるような名を残すことが出来ずに、むなしく終わってしまって
よいものだろうか。誠に残念だ )  と言うのです。

これは自分自身に対する言葉であると同時に門弟八束に対する訓戒(伊藤博)でも
あったようです。
憶良は701年に遣唐使の書記に任命されて大陸に渡り、帰国後、鳥取伯耆国守、
聖武天皇東宮の家庭教師、筑前国守を歴任し、歌の世界でも万葉集を代表する
歌人の一人でありかつ当時の漢籍の素養の第一人者でもありました。

これだけの人物にしてこの言葉、いかに憶良の志が高かったか、その気概のほどを
ひしひしと感じさせられます。

当時19歳であった藤原八束は公明正大にして明晰な人物でした。
やがて上下の信望を一身に集めた立派な政治家に成長し、後の摂関家はすべて
この門流から輩出します。
憶良の立名の志は藤原八束によって受け継がれ、見事な花を咲かせたといえましょう。

明治35年、石川啄木は盛岡中学を中退した後に

「 友はみな 或る日 四方に 散りゆきぬ
     その後八年(やとせ) 名挙げしもなし 」
  
と嘆きます。
しかしながら、彼の名は没後に揚がり、後世不滅のものとなりました。
[PR]

by uqrx74fd | 2010-10-31 09:25 | 植物

万葉集その二百九十(梨)

b0162728_22573516.jpg
b0162728_22582621.jpg

                                       (梨と梨の花)


梨は我国最古の果物の一つで弥生時代に稲作と共に中国から渡来したと推定されています。
その水分が多く、さっぱりした口当たりは日本人の嗜好に合っていたのでしょうか、
登呂遺跡から種が多数発掘されており盛んに食されていたことがことが伺われます。

693年、持統天皇は「桑、からむし、梨、栗、青菜などの草木を植え、五穀の助けとせよ」との
詔を下し全国に栽培をすすめたとの記録(日本書紀)もみえますが、古代の梨は
ヤマナシとよばれ、私たちが今日目にする梨の4分の一程度の大きさで、
やや渋みがあったようです。

(註;からむし:イラクサ科の多年草、繊維から糸を採り布の原料とする。苧麻:マオ)

「 黄葉(もみぢば)の にほひは繁し しかれども
    妻梨の木を 手折りかざさむ」 巻10-2188 作者未詳


( あの山のもみじは色とりどりで美しいですね。
 私はまだ独り身なのですよ。
 色も地味な梨の木を手折って挿頭(かざし)にしましょうかね。)

作者は「まだ、愛する人もいない俺は秋の夜長の一人寝かぁ。
仕方が無い、せめて梨の木でも愛でることにするか」と「妻なし」と「梨(なし)」を
掛けて戯れた宴会の席での歌のようです。

「にほひ」は映えるさま。

「 霜露の 寒き夕(ゆうへ)の秋風に
   もみちにけらし 妻梨の木は 」 巻10-2189 作者未詳


( 露が置き、秋風もひとしお寒く感じられるこの夕べです。
 この寒さで妻なしという梨の木もどうやら色づいたようですね。)

前の歌を受け、
「寒い秋の夕べともなれば一人身にはその侘しさも格別に身にしみることでしょう」と
女は作者に同情を寄せ、「でも木々が色づいたようだし、あなたも色づく、すなわち、
お相手が出来る期が熟したのではないでしょうか」と秋波を送ったものと思われます。

「 十月(かむなづき) しぐれの常か 我が背子が
     やどの黄葉(もみちば) 散りぬべく見ゆ 」 巻19-4259 大伴家持


( 十月の時雨はこの時期の習いなのでしょうか。
  あなたさまの庭のもみじは美しく色づき、今にも散りそうに見えます。)

この歌の後書きに「 時に当たりて梨の黄葉を見てこの歌を作る」とあり、
紀飯麻呂(きのいまろ)という官人宅での宴席で梨の黄葉の盛りを褒め、主人を
讃えた一首です。
「しぐれ」は紅葉を促し、かつ散ることを早めるものとされていました。
作者は盛りの梨の黄葉が雨に濡れて、今にも散りそうな様子に風趣を感じたようです。
主人を褒めるのに「散る」という表現はそぐわないような気がしますが、
気楽な宴席だったからでしょうか。

「 甲斐が嶺に 雲こそかかれ梨の花 」  蕪村

中国文学では梨の花の白さを美女に形容した詩が多く、特に白楽天は楊貴妃を
「梨色一枝」と讃えたことが良く知られています。

『  楊貴妃 帝の御使(おんつかひ)にあひて泣ける顔に似せて
「梨花一枝 春の雨を 帯たり」など云ひたるは、おぼろげならじと思ふに、
なほいみじうめでたきことは類(たぐひ)あらじと覚えたり。 』 
                   ( 清少納言 枕草子 三十三段)


( 楊貴妃が唐の玄宗帝のお使いに会って泣いた顔をたとえて白楽天が
「梨花一枝 春の雨を帯たり」などと言ったのは、一通りなどのことではなく、
やはり梨の花は結構なこと類(たぐい)なしと思われました。)

また玄宗帝は梨の木が多く植えられているので梨園と称されていた長安の内苑で
芸人達を集め、直々に音楽や芸を教えていたと伝えられています。
よほど世間の評判になったのでしょうか。
わが国の歌舞伎界が梨園とよばれているのはこの故事に由来しているそうです。

「 妹が歯を さくと当てたる 梨白し 」 清水基吉

「梨」の「なし」という言葉が「無し」に通じることからそれを忌み、
梨は「ありの実」ともいわれました。

屋敷に梨を植えるのは財産、幸運がなくなる、あるいは人が亡くなると忌避し、
逆に梨材を家の建材に使うのは、災害なしと好まれたそうです。
勝手なものですねぇ。

梨は体の熱を下げ、血圧を下げる効果があり病人にもよいとされ、小林一茶が
父の終焉の看病の時、「病中の父がしきりに“ありの実”を食べたいとむずかり、
近所の家々を探し求めたがどの家にもなく、やむなく22㎞離れた善光寺まで
探しもとめたが見つからず、泣く泣く家に戻った」と日記に書いています。

「 梨の実の 黄色に垂るる梨畑
    木下に居れば 曇日あつし 」  佐藤佐太郎


梨の栽培技術が急速に発達したのは江戸時代からで、特に千葉県の市川から
船橋にかけて盛んだったようです。
明治時代千葉県松戸市で二十世紀、神奈川県川崎市で長十郎がそれぞれ発見され
それぞれ梨の代表格として盛んに生産されるようになりました。

現在では、果皮の色から黄褐色の赤梨、淡黄緑色の青梨に大別され、赤梨系が
主流となっており、その代表銘柄は幸水、豊水、新高、長十郎。 
青梨の代表格二十世紀。 産地のベスト3は千葉、茨城、鳥取県とされています。

  「 こほろぎの しとどに鳴ける真夜中に
       喰ふ梨の実の つゆは垂りつつ 」  若山牧水

[PR]

by uqrx74fd | 2010-10-24 23:04 | 植物

万葉集その二百八十九(しがらみ)

b0162728_63523.jpg

                                   (奈良大仏池)
b0162728_6355693.jpg

                              ( 日本歴史図録:柏書房より)

「 今朝(けさ)は昨日より一段と紅(くれない)が濃くなった。 
  奥山を分け入ってゆくと、谷川に紅葉がはらはらと散り、「しがらみ」を
  なしている。
  川の流れを淀ませている紅葉の何と雅やかなことよ!
  馬を乗り入れて渡れば折角の美しい錦も台無しになってしまうだろう。
  急ぐ事は無い。各々がた。まずはこの木蔭の下で一服。
  この素晴らしい風景を愛でながら一献傾けようぞ。 」

  「 朝(あした)の原は昨日より 色深き紅を 分け行く方の山深み
    げにや谷川に 風のかけたるしがらみは 流れもやらぬもみじ葉を
    渡らば錦中絶えんと まずは木(こ)の本に立ち寄りて 四方の梢を眺めて
    暫く休みたまへや 」      ( 謡曲 紅葉狩より)


「しがらみ」とは「からみつかせる」という意の動詞「しがらむ」が変化した
言葉とされています。
今日では、「あいつとは色々しがらみがあってね」などと使われていますが、
元々は「川の流れを塞き止めるための装置」をいいました。

昔の人々は川の中に杭を打ち、横に竹や柴を渡して結んで水を塞き止め、
生活用水を汲み、洗濯、あるいは畑や田の灌漑用に分流させたりしていました。
水道などない時代「しがらみ」は生活に欠かせない必需の設備だったのです。

 歌の世界では恋の障害になる物として多く詠われています。

「 明日香川 瀬々の玉藻は生ひたれど
    しがらみあれば 靡きあはなくに 」 巻7-1380 作者未詳


( 明日香の瀬ごとに美しい藻が生えているけれど、しがらみが設けてあるので
 靡きあう様子が見られないなぁ。)

川の流れが淀んでいて藻が靡いている美しい光景が見られないと嘆いた歌ですが
相思相愛の仲なのに結ばれない男女を第三者が同情したものという解釈もあります。

すなわち、 「瀬々に玉藻は生ふ」は相思相愛の関係にある男女、
「しがらみ」その男女の仲をさえぎるもの(世間、親)、
「靡きあう」男女が一緒になること

を譬えているとするものです。なお、玉藻は藻の美称。

「 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは 水ならば
   しがらみ越えて 行くべくぞ思う 」 巻11-2709 作者未詳


( もし俺が水であったならば、しがらみさえも乗り越えていくように
 万難を排してあの子を得るまで求め続けるぞ。 )
 
水が「しがらみ」で塞がれて淀み、越えてゆくのを見て、男はどのような妨害も
乗り越えて突き進むぞという決意を詠っています。
この歌には『 ある本に「相思はぬ 人を思はく」の発句あり』と記されているので、
「片思いの恋。でも、乗り越えてゆくぞ」という意も含まれているようです。

「 玉藻刈る ゐでのしがらみ 薄みかも
    恋の淀める 我(あ)が心かも 」  
               巻11-2721 作者未詳


( 井堰(いぜき)のしがらみが薄くて水を塞き止める力が弱いように、
自分達の恋の妨げになるものはないのに一向に燃え上がらない。
一体どうしたことだろう。俺はあの子を好きではないのかなぁ。

「二人の間に大きな障害物があればもっと心が沸き立つのに」という贅沢な悩み。
「相聞でこのように醒めた心境を詠うものは珍しい(伊藤博)」一首です

「しがらみ」という言葉は後に大いに好まれ、風、雲、袖、花などと組み合わせて
詠われるようになります。

冒頭の謡曲「紅葉狩」は下記の歌を元にして作曲されています。

「 山川(やまがわ)に 風のかけたるしがらみは
     流れもあへぬ 紅葉なりけり 」
                 春道列樹(はるみちのつらき)  古今和歌集 、百人一首


( 山の中を流れる川に人ならぬ風が掛けたしがらみは
 流れようとしても流れきれないで、とどこおっている紅葉であることよ)

京都市北白川から滋賀県へ越える山道で詠まれた一首です。
紅葉が重なり落ち、自然にしがらみの役割を果たしているという意で
紅葉が多いことを暗示するとともに川の白波との色彩の配合まで考えた歌とされています。

『 山中の細く速い流れ、所々にあがる白い飛沫がより澄み切った水の清さを伝え、
散り落ちたもみじ葉は洗われて、紅く濃くその色を鮮やかに浮かび上がらせる。
時折吹き抜けてゆく山風の乾いた音と、せかれては行く水音が紅葉の色彩とともに、
晩秋の山の静けさをより一層深める。 』
                       ( 井上宗雄 百人一首を楽しくよむ 笠間書院)

「 咽喉(のど)すじに 骨のかけたるしがらみは
     のみこそあへぬ 紅葉ぶなかな 」    狂歌 


 秋にひれが赤くなる琵琶湖名産の鮒を食べたところ小骨が喉に引っかかり
 目を白黒しているさまを、おどけと自嘲混じりに詠ったもの。
[PR]

by uqrx74fd | 2010-10-18 06:36 | 生活

万葉集その二百八十八(澪標:みをつくし)

b0162728_1052677.jpg
b0162728_1055397.jpg

( 写真上 近江琵琶湖  下 大阪市の市章 難波の澪標 )

「 しみじみと 澪(みお)がわかるる 
  これがわかれか。
  光りてながるる みをのすじ、 
  光りてゆらめく みをつくし。」
                       ( 北原白秋 澪より)


澪標とは「水脈(みを)つ串」の意で、船が安全に通過できる水深を示すための
標識として立てられた杭のことです。
歌の世界では澪標そのもの風情よりも「我が身のすべてを投じる」、すなわち「身を尽くし」の意に
掛けられて愛用され、源氏物語54帳の巻名の1つにもなっております。

「 みをつくし 心尽して 思へかも
     ここにも もとな 夢(いめ)にし見ゆる 」    巻12-3162 作者未詳


( みをつくし、その名のように故郷に残してきた妻が身も心も尽くして私のことを
 思っていてくれているせいか、旅先でもむやみやたらに妻の姿が夢に浮かんでくるよ。 )

もとな:やたらに、わけもなく 

古代、夢に人が出てくるのは相手がこちらの事を切に思ってくれているからだと
されていました。
野宿の寂しい一人旅です。妻恋しさがますます募る男。
妻の夢にも夫の姿が現れていることでしょう。

この歌の「みをつくし」の原文表記は「水咫衛石」となっています。
「咫:あた」は中国の尺度を表し、1咫は約8寸 (約24cm) 。
八咫烏(ヤタガラス)は大きいカラスだったのですねぇ。 

「 遠近(とほつあふみ) 引佐細江(いなさほそえ)の みをつくし
   我(あれ)を頼めて あさましものを 」     巻14-3429 作者未詳


( 遠江の引佐細江(いなさほそえ:浜松市、浜名湖の入江)の みをつくし。
 その澪標のように私をあてにさせておいて、やがて疎ましくするのでしょう。)

澪標は深い水脈(みお)を示すものなのに、「細江」という名の瀬ゆえ浅く当てにならない
標識として知られていたのでしょう。
男の心を計りかね深入りしてもよいかどうか迷っている女です。

「 わびぬれば 今はた同じ 難波なる
    みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 」

                  元良(もとよし)親王 後撰集 百人一首


( 噂が立ってこのように苦しんでいるからには、もう身を慎んでいても同じこと。
 あの難波の澪標という言葉のように、身を滅ぼしてでもあの人に逢おう )

作者は陽成天皇第一皇子。本来なら次の天皇になる立場ながら、天皇になれず、
鬱屈した気持を女性に向け、天皇の愛する女御、京極の御息所(みやすどころ)との
禁断の恋に走り、その秘め事が露見したときに詠んだ歌です。

『 元良親王は京極御息所ばかりでなく多くの女性と交渉があり、
 好色の貴公子として知られたのは、うっぷんを晴らすためもあったに違いない。
 「わびぬれば」という言葉も、そう思ってよめば重々しく聞こえる。
 「今はた同じなる」は少々無理な言葉遣いだが、今となっては、澪標のように
  みじめな姿になったということと、命がけの恋とその両方に解していいと思う。』

                   (白州正子 私の百人一首 新潮選書 )

「難波の澪標」は杭の上に三角形のしるしをつけたもので、後の人々に多く詠われ、
現在大阪市の市章にもなっています。

   「 神帰り 澪に月光 流れ込む」 若泉真樹

『 陰暦の神無月(10月)は全国の神様が出雲に集まり、国中の神様がいなくなる月。
  それを過ぎると神様が国々に帰ってくる。
  11月のある月夜。眩いばかりの月の光が煌々と深い海を一点照らしている。
  それは、神様がお帰りになる道を示す澪標のよう 』
  という作句者の感慨です。
[PR]

by uqrx74fd | 2010-10-10 10:12 | 生活

万葉集その二百八十七(木綿:ゆふ)

b0162728_1304560.jpg

                                ( 由布岳 由布の里 )
b0162728_131481.jpg

                          ( 翼を持つ土偶模写図 弘前市教育委員会)

「 柚富(ゆふ)の郷(さと)- -。 
  郷の中(うち)に 栲(たく)の樹(き) 多(さは)に生(お)ひたり。
  常に栲の皮を取りて 木綿(ゆふ)をつくる。
  よりて柚富の郷といふ 」     (豊後風土記)


 註: 柚富郷(ゆふのさと):現在の大分県湯布院町
    栲(たく):楮(こうぞ)の古名とされている

「 楮は自由に採取できるほどに山野に充満していなかった為に、
  その生産地は多少之を注意し且つ保護していたらしく思われる。
  下総の結城を筆頭にしてユフの産地を意味する地名は東西に分布する。
  たとえば大分県の別府温泉の西に聳え立つ由布岳は豊後風土記の逸文にも
  ユフの採取地である故にこの名が付いたと記している。 』 

               ( 柳田國男 木綿以前の事 角川文庫 明治44年発行より)

その昔 阿波の国におられた天日鷲命(アメノヒワシノミコト)という神様が東国を
経営されるにあたり、穀(カヂ)の木の普及を図られ、まず最初に栽えられた地が
下総の結城(現在の茨城県)であったと伝えられています。

穀(カジ)の木は楮(こうぞ)ともいわれ、その木の皮を蒸して水にさらし、
細かく裂いて布に織ります。
出来上がった布は「ゆふ」とよばれ主として神事に用いられました。

ゆふは漢字で「木綿」と書きますが綿から採れる、木綿「もめん」とは
全く別のものです。
楮から作った布に「木綿」という字を当てたのは、中国に布の原料となる
「杜仲(とちゅう)」という植物があり、別名「木緜(もめん)」とよばれていたことに
由来します。
現在、お茶でよく知られている植物です。

下記の歌は刀自(とじ:主婦)が木綿(ゆふ)を用いて神事を行う様子が
詠われており、当時の祭祀を知る上で貴重な一首です。

「 ひさかたの 天の原より 
 生(あ)れ来(きた)る 神の命(みこと)
 奥山の賢木(さかき)の枝に
 白香(しらか)付け 木綿(ゆふ)取り付けて
 斎瓮(いはいへ)を 斎(いは)ひ掘り据え
 竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ
 鹿(しし)じもの 膝折伏して
 たわやめの 襲(おすひ)取り懸け
 かくだにも 我れは祈(こ)ひなむ
 君に逢はじかも 」         
                 巻3-379 大伴坂上郎女


(  天上の天の原で生まれて
   この国に降(くだ)ってこられた代々の先祖の神様!
  奥山のサカキの枝に
  白香(しらか)を付け、木綿(ゆふ)を取り付け、
  我が身を斎(い)み清めて斎瓮(いはいへ)を土間に掘り据え、
  竹玉を緒にいっぱい貫き垂らします。

  そして、たをやめである私は鹿のように膝を折り曲げ 神前にひれ伏し
  襲(おすひ)を肩に掛け、懸命にお祈りいたします。
  ですから、我が君にお会いできないものでしょうか。
  なんとか逢わせて下さいませ。 )

作者は神を祭る時、まずツバキ科の常緑樹とされるサカキを深山から採り、
その枝に細かく切った木綿(白香)と太い木綿と取り付け
清めた甕(かめ)のような土器(斎瓮:いはいへ)を土間に据え、
竹の輪切りに似た小円筒状の管玉(くだたま)をたくさん垂らしました。
その上で精進潔斎した我が身を鹿のように膝を折り曲げ、打掛のような
浄衣(襲:おすひ)を肩に掛けて祈ったのです。

大伴氏の始祖は天照大御神の孫ニニギノミコトが降臨のとき、その先導役をつとめた
と伝えられています。(古事記)
この歌の冒頭二句はそのことを詠い、「君」とは祖神をさすと共に、
大伴家一族の家系につながる人々、とくに折につけて恋しく思われる亡き夫にも
逢いたいという願望を込めたものです。
  
木綿(ゆふ)はサカキの枝に取り付けるほか、「腕(かいな)に懸ける(3-420)」
「斎瓮(いはいへ)に懸けて垂らす(9-1790)」などの表現も見られ、古代の神事では
重要な役割を果たしていました。

以下は 山口博著 「縄文発掘」(小学館)からの要約引用です。

『 青森県立郷土館で見た土偶が私の足を引きとめた。翼がある!
  弘前市の砂沢遺跡出土の土偶だ。
  左右に大きく延びた腕は縦長で、腰の辺りにまで広がっている。
  どう見ても鳥が翼を広げた格好だ。
 それにしても縄文石の土偶がなぜ翼をもつのだろう。
 木綿を肩や腕に懸ける万葉歌がある。
 神事スタイルと説明されているが、なぜ神事では木綿を体に垂らすのだろう。
 これこそ、腰蓑線刻(こしみのせんこく:下半身に腰蓑状の線刻が施された土偶)の
 縄文石以来のスタイルであって、鳥の羽に見立てたテープ状の布を腕や腰に垂らして
 鳥に変身するための方法が簡略化され変貌した姿なのだ。

 しかも、変身のための具を作る神の名はそのものずばり鳥の名を持つ神で
 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)という。

 木綿は、肩や腕から垂らすことにより鳥の翼をイメージさせ、
 その人が鳥に変身するためのものであったのだ。
 それだからこそ、それを作る神は鳥の名をもっていなければならなかった。 』

それでは、なぜ鳥に変身しなければならなかったのでしょうか? それは

『 古代では天上の者はすべて鳥の形になって、地上世界と往復すると考えたらしく
それは地上の王までも含む思想(中西進) 』 だったのです。


 「 楮(こうぞ)蒸す 湯気を吸ひゐる 夜空かな 」 里村麻葉


ご参考:

万葉集その百三十六(木綿の山)    (2007、11、12 掲載文)

九州別府市と大分郡湯布院町との境に聳え立つ由布岳(標高1,584m)は、その昔
「木綿の山(ゆふのやま)」とよばれていました。
木綿(ゆふ)とは楮(こうぞ)のことで、麓の村に楮の木が多数生育しており、その皮を
採り衣料や和紙にしたことが山名の由来とされております。(豊後風土記)

二峰の山頂をもつその端麗な姿は「豊後富士」ともよばれ古くから歌枕とされて
きました。

「 娘子(をとめ)らが 放(はな)りの髪を 木綿の山
       雲なたなびき 家のあたり見む 」  巻7-1244 作者未詳


( 愛する人を残して山を越えて旅を続けてきました。
 向こうをみると乙女のお下げ髪のような形をした木綿の山がみえます。
 雲よ、妻の家のあたりを見たいから山の周りにたなびかないでおくれ )

「放りの髪」とは頭髪に二つのこぶを作りそこから垂らしたお下げ髪のことです。
 8歳から15歳位の少女の髪型で結婚適齢期になると髪の後ろの裾を束ねて
 結います。

 この歌では「木綿」と「結う(結婚する)」を掛けており作者は新婚早々と思われます。
 木綿山の東西二つの峰が「放り髪」に見え、少女時代の妻を思い出したのでしょう。

「 思ひ出づる時はすべなみ豊国の
            木綿山雪の消ぬべく思ほゆ 」 巻10-2341


( あなたのことを思い出すと、これはもう、どうしょうもありません。
  豊国(豊後)木綿山の雪と同じで自分も消え入らんばかりにあなたの事が思われます)

「すべなみ」;「すべなし」で「どうしょうもない」の意

南国木綿山の雪は降ってもすぐに消えてしまいます。
その「消えやすい雪」と「この世から消え死んでしまいそうなくらいに思いつめた」
気持を重ね合わせた一首です。

伝説によると由布岳、祖母山(1757m)は男性の山、鶴見岳(1375m)は女性の山で
三山はもともとお互いにくっつき合っていたそうです。
ところが由布岳と祖母山が同時に鶴見岳に恋をして、お互いに譲らぬ鞘当のはて、
地震、山崩れが起きました。
そこで鶴見岳は由布岳を容れて夫婦の契りをなしたところ突然熱いお湯を
噴出させたのが湯布院温泉はじまりと言い伝えられております。
熱いお湯は祖母山の涙だったのでしょうか?

万葉時代の湯布院は大分から大宰府に至る官道の重要な宿駅でもありました。

   「 豊後富士おぼろの月をかかげたり 」 森山暁湖
[PR]

by uqrx74fd | 2010-10-03 13:01 | 植物