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万葉集その二百九十五(鶉:うずら)

「 後に鳴き 又先に鳴き 鶉かな 」   夏目漱石

『 鶉といえば、今はもっぱら焼鳥などにして食べるものだ。
またウズラの卵も食べている。
だが私たちの口にはいるものは、おおかた養殖のウズラである。
自然にウズラの姿を見、ウズラの声をきくことは、非常に少なくなった。
繁殖地は、東北と北海道で、秋になると関東以南の地へ渡ってくる。
秋の山野に、グッグックルルと鳴いている。 』
                           ( 山本健吉 ことばの歳時記 文芸春秋社 )

ウズラは尾が短く丸みを帯び、褐色に黒の斑紋や縞模様が入っているキジ科の鳥です。
草深い野に棲み、人が近づいても滅多に飛び立たつことなく草の中を這い回って逃げます。

歌の世界では「鶉」そのものより、「鶉鳴く古びた里や家」といった物寂しい景色を
表現する枕詞として多用されております。

「 鶉鳴く 古しと人は思へれど
    花橘の にほふこのやど 」    巻17-3920 大伴家持


( 人は、この古びた里の我が家を鶉が鳴く物寂しい処と思っているだろうけれど、
 花橘が馥郁(ふくいく)とした香りを漂わせ、趣きがあることですよ。 )

作者は慰労の休暇を与えられ久し振りに奈良の自宅で寛いでいたようです。
当時、聖武天皇は近江、紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸中。
側近でありながら、お供に加えられなかったのは、皇族に不幸があり、その葬儀を
取り仕切ったあとの忌中かと思われますが、一抹の寂しさが感じられる一首です。

「 人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉鳴く
    人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ 」 
                                 巻11-2799 作者未詳

( 人の噂がうるさいので鶉がわびしく鳴く他人のあばら家であの方と
 こっそり会い、ゆっくりと語り合わないままに帰してしまったことです。 )

「語らひて」は共寝して睦言を交わしたことをいう(伊藤博)そうです。
人目がうるさいので空き家になっている粗末な小屋であたふたと男女の営みを終え、
男はさっさと帰ってしまった。
夜が明けるまで誰にも気兼ねなく語り合い、何度も体を交えたかったという
思いがこもる女です。

「 鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を
    思ふ人どち 相見つるかも 」 
                   巻8-1558  沙弥尼等(さみにたち)


( 鶉の鳴く古びた里に咲く萩。 
その萩を気心合った者同士で共に眺める事ができ、とても嬉しゅうございます。)

秋のある日、官人、丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)という人物が尼寺を訪れました。
どのような用件かは分かりませんが、尼僧たちは大いに喜び歓待したようです。
沙弥尼とは仏門に入ったばかりの尼僧のことで、俗人とほとんど変らない生活を
していたので宴会を設けることもできたのでしょう。
場所は明日香の豊浦寺、もと推古天皇の宮があったといわれる由緒ある寺です。
明日香が廃都になってすでに40年。文字通りの古りにし里の一隅で薄や萩を
愛でながら、尼僧と語り合い一献を傾けた様子が目に浮かびます。
おりからの鶉の鳴き声。そして空には皓々と輝く月。

「 夕されば 野辺の秋風身にしみて
   うづら鳴くなり  深草の里 」        藤原俊成 千載和歌集


この歌は次の伊勢物語を本歌取りにした名歌とされているものです。

『  昔男ありけり。 深草に住みける女と やうやう飽き方(がた)にや思ひけむ。
   かかる歌をよみけり。

「 年を経て住み来(こ)し里を いでていなば
       いとど深草 野とやなりなむ 」

女返し
「 野とならば 鶉となりて鳴きをらむ
       狩にだにやは 君は来ざらむ 」


とよめりけるをめでて行かむと思ふ心なくなりにけり。 』  (伊勢物語123段)

( 昔、男が長年一緒に暮らした女に飽き、
「 私がこの里を出て行ったら、今でさえその名の通り草ぼうぼうのところなのに、
ますます草深くなってしまうだろうなぁ。」
と言ったところ、女は
「もしそうなりましたら私は鶉に化身して鳴いて、泣いておりましょう。
あなたさま、せめて狩なりだけでも、また短い仮の時間だけでも来てくださいませ) 
と詠った。
男は感心して出て行く気がなくなってしまった。 』とさ。 (意訳)

「深草野」 深く生い茂った野と地名(京都府伏見区深草)を掛ける
「鳴き」鳴き、泣きを 「狩」 狩 仮をそれぞれ掛けている。

「向きあふて 鳴くや鶉の 籠二つ 」 正岡子規

江戸時代、底力のある鶉の鳴き声は大いにもてはやされ、その鳴き声を競わせる
「鶉合わせ」が行われました。
中には金銀、象牙をちりばめた鳥かごに鶉を飼い、江戸中の愛好者が一同に会して
互いにその泣き声を競い、横綱、大関というような番付表まで作ったといわれています。

「 桐の木に 鶉鳴くなる 堀の内 」芭蕉

『 かって栄えた邸の、今は見るかげもなく荒れ果てた堀の内に、鶉が住みつくまでに
草が生えた荒廃の感を句にしたもので「桐の木」だけがかっての栄えの名残として
立っているのである。 』 
                         (山本健吉 基本季語500選 講談社学術文庫)
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by uqrx74fd | 2010-11-28 20:29 | 動物

万葉集その二百九十四(葎:むぐら)

                              (カナムグラ: 万葉の植物、偕成社より)
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                              (カナムグラの花: 同上)
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                                  (廃屋の屋根に絡まる蔦)
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「 初茸(はつたけ)に 豆腐恋しや 八重葎 」  白猿

古代の歌や文学に登場する「葎」(むぐら)はクワ科の「カナムグラ」とされています。
道端や荒地に生える蔓性の一年草で茎と葉に下向きの棘があり、他のものに
絡みつきながら地面に広がり、大きいものは数メートルにも伸びます。
茎が鉄(カネ)のように強いのでカナムグラ(鉄葎)の名がありますが、その名に似ず、
秋には芳香がある淡緑の可憐な小花を咲かせます。

「 思ふ人 来(こ)むと知りせば 八重葎(やへむぐら)
    覆へる庭に 玉敷かましを 」 巻11-2824 作者未詳


( 思い焦がれている人 そんなお方がお見えになると予め知っていたなら
  葎の覆い茂るこのむさ苦しい庭に 玉を敷きつめておくのでしたのに )

八重は幾重にも重なって生えている状態をいいます。

「 玉敷ける 家も何せむ八重葎  
   覆へる小屋も 妹と居りてば 」   巻11-2825 作者未詳


( 玉を敷き詰めた立派な家など何になろうか。
 たとえ八重葎の生い茂るあばら屋であっても、いとしいお前と一緒に
居られるのであれば、これだけで十分だよ。 )

久し振りに訪れた男に歓喜の気持を抑えつつ、
「貴方が長い間お出でにならないので、庭もすっかり荒れ果てるままにして
しまいました」とさりげなく恨み言を述べる女。
言葉に込められた恨みごとを無視して殺し文句で切り返す男。

『 素直な恋歌の応酬ですが、もし第三者の前で歌われたとしたら、
そのいじらしさによって聞く人々の心に大いに好感を持って迎えられ、
愛唱されたに違いありません。』(大岡信 私の万葉集 講談社現代新書)
との評もある一首です。 

平安時代になると「むぐら」は荒れた屋敷の風情を形容するものとして
詠われるようになります。

「 葎這う 門(かど)は木の葉に うづもれて
    人もさしこぬ 大原の里 」    寂然 山家集


( 葎が這いまつわり 荒れ果てた門のあたりは すっかり木の葉に埋もれて- -。
 人もやってこない大原の里でございます。 )

この歌は高野山にこもった西行と京都大原に住む寂然との贈答歌群(各十首)の一つです。
西行の初句がすべて「山深み」ではじまるのに対し、寂然の歌は五句目がすべて
「大原の里」で揃えています。
「さしこぬ」の「さし(鎖し)は強意の接頭語かつ「門」の縁語です。

色とりどりの落葉が散り敷く大原の里。
質素な萱葺きの古屋に柴垣と簡素な門。そして屋根にまで達する葎。
しみじみとした情感を誘う一首です。

「 八重葎 茂れる宿の さびしきに
     人こそ見えね 秋は来にけり 」
               恵慶(えぎょう)法師  百人一首、拾遺和歌集


( むぐらが幾重にも生い茂っている荒れ果てたこの屋敷。
訪れる人もなく寂しいのに、秋だけは確実にやって来たのだなぁ )

この歌の添え書きに
『 河原院に人々が集まって「荒れたる宿に秋来たる」という題を詠んだ 』とあります。

河原院は嵯峨天皇の皇子で左大臣の源 融(みなもと とおる)が賀茂川六条河原近くで
営んだ豪壮な邸宅。
鴨川の水を引き、陸奥の塩竈(しおがま)に似せた庭園を造り、難波から海水を運ばせて
塩焼きをして楽しんだと伝えられています。

融が亡くなってから100年後、邸は寺となって曾孫の安法法師が住み、文人、墨客が
集まるサロンとなりましたが、昔日の華やかな面影はもはやなく荒れ果てるままに
なっていたようです。

この歌は、かって栄華を極めた主人、源融の死後訪れる人もなく荒廃した庭にも
忘れることなく訪れる秋。
移ろいやすい人の心と不変の自然の摂理といったものを対比させながら
しみじみとした哀感を詠った一首です。


「 あはれなるもの、
  荒れたる家に 葎 はひかかり、蓬(よもぎ)など高く生ひたる庭に、
  月の隈(くま)なき明(あか)き。
  いと荒うはあらぬ 風の吹きたる。」   (枕草子:百一段)

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by uqrx74fd | 2010-11-21 13:51 | 植物

万葉集その二百九十三(とかくに人の世は)

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( 奈良明日香、稲淵の棚田)

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( ぞうきょう:カワラフジ :万葉の華 入江泰吉 雄飛企画より)

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( クソカズラ 庄司信州作 万葉の茶花 講談社より)

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               (コノテカシハ 赤い小花は河原撫子  同上 )
 

「 山路(やまみち)を登りながら こう考えた。
  智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。
  意地を通せば窮屈だ。
  とかくに人の世は住みにくい。」 
                       ( 夏目漱石 草枕より )


人の世は今も昔も変らぬもの。

かって、平城京には10万人の人が住み、約1万人の役人がいました。
その中で貴族と称せられる位階五位以上のエリートは約150人。たったの1.5%です。

選ばれた人たちは天皇の勅によって叙せられ、史書に生涯の動向が記録される上、
さまざまな特権が与えられます。
まず、宅地、田畑、絹布などを分け与えられ、租税、力役は免除。
さらに、罪を犯した時は減刑、その上、子や孫が21歳になると一定の位が与えられる
蔭位(おんい)といわれる制度、つまり世襲制です。

エリートになり損ねた大半の官吏は愚痴の一つも言いたくなることでしょう。

「 このころの 我が恋力(こいぢから)記(しる)し集め
    功(くう)に申さば 五位の冠(かがふり) 」 
                   巻16-3858  作者未詳


( このところ恋に捧げた俺様の労力は大変なものよ。
  その苦労を記録してお上に差し出したら、軽く五位の冠を戴けようぞ。)

五位の身分に程遠い官人の恋の苦しみと冠に対する憧れ。
高嶺の花にたいする羨望の気持が滲み出ているようです。

官人たちは年1回勤務評定を受け人事考課として記録、公表されていました。
それは相当厳しいもので、「功」:功績 「過」:過ち、失敗、「行」:素行の良否、
「能」:能力の4項目に分けて会議に諮られ、それぞれ9段階に分けて評価が
なされたのです。

我国の官僚国家の起源ともいえる制度です。

「 菎莢(ざふけふ)に 延(は)ひおほとれる 屎葛(くそかづら)
     絶ゆることなく 宮仕へせむ 」
             巻16-3855 高宮王(たかみやのおほきみ)


菎莢(ざうけふ)は「かわらふじ」とも訓まれ マメ科の落葉高木「さいかち」
または「ジャケツイバラ」とされています。
幼葉は食用、実は薬用、莢(さや)は煮汁にして洗濯に用いました。
屎葛(くそかずら:へくそかずら)はアカネ科の蔓草で朝顔を小さくしたような
白い花を咲かせ真ん中に紅をさしています。

揉むと独特の悪臭を発するので、なんとも可哀想な名を付けられていますが、
田植の頃に咲くので「サオトメバナ」とよんでいる地方もあるそうです。

この歌は、菎莢(ぞうけふ)を朝廷、「屎葛」(クソカズラ)を自分に喩え、

「カワラフジの木にいたずらに這いまつわるクソカズラ。
  その蔓さながらに不肖私めは何時何時までも宮仕えしたいものです」(巻16-3855)

と「どんなことがあっても役所を辞めないでしがみ付いていよう」と詠ったものです。
作者はあまり能力がなかったのでしょうか。
鋭い棘のある菎莢:ジャケツイバラ は権謀術数が渦巻く朝廷をさしているとも
いえなくもありません。

「 奈良山の 児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)に
    かにもかくにも 佞人(こびひと)が伴(とも)」
              巻16-3836 消奈行文(せなのかうぶん)


( まるで奈良山にあるコノテカシハのようだな。
 表の顔と裏の顔であちこち使い分けして。
 始末の悪いおべっか使いの輩(やから)よ、あいつは。)

「コノテカシハ」はヒノキ科の常緑高木で葉は子供の掌(てのひら)のような形を
しているのでその名があり、裏表の区別がありません。

この歌の前書きに「おべっか使いを謗(そし)る歌」とあります。
作者は高名な博士ですが、よほど腹に据えかねる人間がいたのでしょう。

佞人(ねいじん)は「面従腹背の徒」で、まさに論語の「巧言令色少なし仁」という
言葉を思い起こさせる一首です。
媚びへつらう人間が多いのは今も昔も変りません。

「 白玉は 人に知らえず 知らずともよし
  知らずとも 我れし知れらば
  知らずともよし」
             巻6-1018 元興寺の僧 (旋頭歌:577、577を基調とする)


( 白玉、すなわち自分の真価を人は知らない。
  しかし知らなくてもよい。 
人が知らなくても自分さえ知っていたらそれでよい。 )

 この歌の前書きに「738年、元興寺の僧が自身を嘆いた歌」とあります。

 元興寺は588年に飛鳥の地に創建。もと法興寺といい、のちに平城京に移設され、
 朝廷の保護を受けた大寺です。
 この僧は恐らく博識で修行も十分受けた人物ながら一癖もふた癖もあったので
 世間から認められず、もやもやした気持だったのでしょう。
 「知られなくてもよい」といいながら、諦めても諦め切れない無念さ。
 情実が入り込むはずがない実力主義の寺といえども、現実には「えこひいき」があり、
 要領のよい僧が取り立てられていたことが伺われる一首です。

 能力、学識がありながら要領が悪く、人間関係が上手くいかない。
 いわゆる世渡り下手は、いずれの世の中にも多く存在しており、
 そのような人々の鬱憤を代弁しているようにも感じられます。

「 気の変わる人に仕へて
  つくづくと
  わが世がいやになりにけるかな 」  
                        (石川啄木 一握の砂)

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by uqrx74fd | 2010-11-14 13:13 | 心象

万葉集その二百九十二(山越え:生駒と龍田)

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                           (龍田越えの古道:万葉風土記大和編 偕成社より)

                               
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                                ( 紅葉 もみじ )

古代、平城京から河内、難波へ行くには生駒山をまっすぐ越えていく「生駒越え」と
山を迂回する「龍田越え」がありました。
「生駒越え」は現在「暗峠」(くらやみとうげ:標高455m)と呼ばれる石畳の道が
残されていますが、最短距離ながら険阻な山道の上、平野部も湿地帯が多く、
よほどの急用でなければ利用することがなかったようです。

 「 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山
     越えてぞ我(あ)が来る 妹が目を欲(ほ)り 」
              巻15-3589  秦 間満 (はだのはしまろ)


736年、大和朝廷は総勢80人からなる新羅使節団を派遣することになり
難波に集結します。
作者は渡来系の人物で医者か通訳として使節団に加わったものと思われます。
生還を期しがたい海外への長旅。出発待ちの間に休暇を与えられた作者は
家に残してきた妻が恋しくてたまらず、とうとう夜道朝駆けで険阻な生駒山を
ものともせず越えて行きました。
現在、近鉄奈良駅から電車で生駒トンネルを潜って難波まで約45分。
それを山越えするのですから大変な健脚の持ち主です。

一方「龍田越え」は生駒山を迂回して平坦な道を斑鳩、龍田本宮まで歩き、
ここから200mあまりの高さの丘陵を行く楽な旅。
急がない人はほとんど龍田越えを選んでいたようです。
龍田山は今日その山名はありませんが、奈良県生駒郡三郷(さんごう)町立野の
龍田本宮西方の山と推定されています。
春は桜や桃、秋は紅葉が美しい里山で山裾を流れる大和川(当時龍田川といわれた)は
平安時代歌枕として大いにもてはやされました。

「 海(わた)の底 沖つ白波 龍田山
    いつか越えなむ 妹があたり見む 」 巻1-83 作者未詳(古歌)


( 沖の白波が立つ その立つという名の龍田山。
 あの山をいつ越えられるのであろうか。早くいとしいあの子の家のあたりを見たい。)

この歌はその昔、長田王という風流侍従が伊勢に遣わされた時、連れ添った一行と
山辺の地で旅の宴を行い古くから伝わる歌を披露したものと思われます。
現在の三重県鈴鹿市(松坂市説もあり)あたりで、紅葉の名所だったようです。
紅葉ゆかりの瀧田山の古歌を引用して土地褒めと望郷の念を歌い、旅の安全を
祈念したものです。

『 序の「海の底」には神話的な想像力が働く。日本の神話には遠い海の底には
海神(わたつみの神)がおり、その神は潮の干満を自在にあやつる「珠」を
もっていると語っている。
したがって海辺に打ち寄せてくる波は海の神の力の現れとみているのである。 』 
                       ( 近藤信義 音感万葉集 はなわ新書)

「 風吹けば 沖つ白波 龍田山
   夜半にや君がひとり 越ゆらむ 」   伊勢物語 二十三段


上記万葉歌(巻1-83)を本歌取りしたものです。

幼馴染みの男女が念願かなって結婚したにも拘らず、夫が恋人を作って通い出した。
貞淑な妻は嫉妬もせず、かえって夫の夜旅の身の安全を案じてこの歌を詠った。
物陰で聞いていた夫は涙を流して感激。
改心して浮気をピタリと止めたというお話です。

「 我が行きは 七日(なぬか)に過ぎじ龍田彦
     ゆめこの花を風にな散らし 」   巻9-1748 高橋虫麻呂歌集


( 我々の旅はいくら日数が掛かっても七日を過ぎることはなかろう。
 龍田彦さま、どうかこの花を決して散らさないで下さいませ。)

宮人が難波に下る時、龍田山の小按(おぐら)の嶺に盛んに咲く桜の花が風に吹かれて
散っているのを惜しみ、帰路まで咲かせておいて下さいと風の神に祈ったものです。

龍田彦は元々『 製鉄技術集団が精練のために必要なフイゴを司る風の神、すなわち
職業神であったものが、のちに農耕の神になった』(米田勝 万葉を行く 奈良新聞社)
とされています。
瀧田大社山間の渓谷は台風が大和に入る通り路と考えられており、農村にとって
収穫を守ってくれる大切な神であったのです。

「 夕されば 雁の越えゆく龍田山
    しぐれに競(きほ)ひ 色づきにけり 」
               巻10-2214  作者未詳


( 夕方になると雁が飛び越えてゆく龍田山。
 時雨と先を争うように木々が色づいてきました。)

時雨は紅葉(こうよう)を「促すもの」、「散らすもの」とされ、歌の世界で多く
詠われています。
暮れなずむ夕、雁の声、紅葉、時雨、優雅な情景の一首です。

「 ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 龍田川
   からくれないに 水くくるとは 」 
                         在原業平 : 古今集、百人一首 伊勢物語


( あの不思議な事も多かった神代にも聞いたことがありません。
 この龍田川に紅葉が散り敷いて水を真っ赤に括り染めにするとは )

「からくれない」は韓の国から渡来した紅の意で鮮やかな紅色。
「水くくる」は 「水を括り染めにする」意。

「くくり染め」とは絞り染めのことで、布地のところどころを糸でくくり、
文様が出来るように染め残しを作る染め方をいいます。

紅葉が川一面を覆って流れるのではなく、一群一群となって流れ、水も合間から見え、
まるでくくり染めのようだという歌意で、それは造物主がそのようになさっている
のだとスケール大きく詠っています。
多くの人に持てはやされた歌ですが、百人一首、古今和歌集は屏風の絵を題にして詠み、
伊勢物語は実景とされています。

「 紅葉山 抜け来し色に 龍田川 」 菅原くに子
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by uqrx74fd | 2010-11-07 20:44 | 生活