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万葉集その二百九十九(兎)

(野兎)
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(奈良:春日大社の縁起物)
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「 霜枯(しもがれ)の 垣根に赤き 木の実は何(な)ぞ
   雪ふらば 雪の兎の 眼(まなこ)にはめな 」 正岡子規


兎といえば赤い目に白毛、そして長い耳が想像されます。
ところが、これは家畜用に改良されたもので、野生の兎の目は黒く体毛はほとんど茶色。
ただし、雪国の兎は夏は茶、冬は白と保護色用の毛に生え変わります。

昼間は日当たりのよい笹の葉陰などに安眠し、夕方から草の葉、木の皮、
若芽など食を求めて動きはじめますが筍、甘藷が好物なので時々山野の作物を
荒らすいたずらものです。

前足に比べては後足が長いので「脱兎のごとく」早く走りますが、山を下るのが
苦手でよく転倒するそうです。
車の「ダットサン」は「脱兎のごとく早い」から命名されたと言われていますが、
その出典は孫子の「始めは処女の如く、後には脱兎の如し」すなわち、
「まず処女の如くよそおって敵を油断させ、後に脱兎のように敏速に敵を破れ」と
いうのが本来の意だそうです。

「 等夜(とや)の野に 兎(をさぎ)狙はり をさをさも
   寝なへ子ゆゑに 母に嘖(ころ)はえ」
               巻14-3529 作者未詳


( 等夜の野で兎を狙い定めると言うではないが、よばひをしたら
あいつのおつ母さんに、こっぴどく怒られてしまったわい。
ろくすっぽ寝もしていないあの子なのになぁ。)

 「をさをさも」:「ろくに」「ろくすっぽ」

万葉集唯一の兎の歌です。
「等夜」は所在未詳ですが下総国印旛郡の鳥矢郷ともいわれています。
 
『 「をさぎ(うさぎ)」の「ヲサ」から「をさをさ」を起こす同音の序で
ありながら、狙いを定めて女に近づく男の姿を連想させており、そこがおもしろい。
近づく折の息づかいや表情が見えてくるようだ 』(伊藤博)

自嘲を込めながらも、からっとした明るい歌で若者達が兎狩の酒席などで
詠ったものと思われます。

「 待ちぼうけ 待ちぼうけ   ある日せっせと野良かせぎ、
  そこへ兎が飛んで出て  ころりころげた  木のねっこ 。

  待ちぼうけ 待ちぼうけ  しめた これから寝て待とうか、
  待てば獲物が駆けてくる。  兎ぶつかれ  木のねっこ。 」 

                         (待ちぼうけ :北原白秋作詞 山田耕作作曲)


その昔、中国の戦国時代に宋という国があり、百姓が野良仕事をしていたところ、
畑の中の木の切り株に兎が衝突して倒れ、難なく捕る事が出来た。
そこで、この百姓、耕作をやめて毎日株を見守りながら兎を手に入れようとしたが
兎は再び表れず、作物もサボっていた為、収穫は皆無となり国中の物笑いになった。
このことから「株(くいせ)を守って兎を待つ」という諺が生まれ、転じて
「古臭いやり方を固守して融通が利かない」の意となりました。

北原白秋の歌はこの故事を題材にしたものですが、さらに大正9年にベストセラーと
なった菊池寛の小説にも。

『 彼女はその途端、 ふと学校で習った『株(くいぜ)を守って兎を待つ』という
  熟語を思い出した。
  約束もしない人が、どうして一定の日時に、一定の場所に来ることがあるだろう。』
                                    ( 菊池寛 真珠夫人より)


清純な乙女、美奈子が一目見た長身白皙の美青年に惹かれ、何日も思い悩んだ末
同じ時間、同じ場所に再び現れることを期待してその場所で待ち続けるという場面です。

 「草の上に まるまるとして飼はれたる
   兎の冬の ぬくみをおもふ 」      岡 稲里 


1869年我国で初めて飼育用の兎が輸入されます。
ヨーロッパ原産のアナウサギを家畜化したものでアンゴラ、チンチラ、日本白色種など
があり、愛玩、毛皮、食肉用とされました。

古代から人々にとって身近な存在であった兎は、「因幡の白兎」、「月で餅を搗く兎」、
「兎と亀」、「カチカチ山」、など多くの昔話が創作され、今もなお語り継がれていますが、
とりわけ、太宰治の「カチカチ山」は異色の大人の物語として知られています。
以下はその冒頭部です。

『 カチカチ山の物語における兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は
その少女を恋している醜男(ぶおとこ)。
これはもう疑いを容れぬ厳然たる事実のように私には思われる。
これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行われた
事件であるという。 甲州の人情は荒っぽい。
そのせいか、この物語も他の御伽噺に比べていくぶん荒っぽく出来ている 』
                                   ( 御伽草紙所収:岩波文庫)

2011年の干支は卯。
卯年生まれ一代の運勢は「心美しく、人に愛され、性格温和で、世渡り交際も
たくみなので信頼を受けて望外の出世をすることもある」そうです。

まもなく お正月。
郷里で新年を迎えられる方も多いことでしょう。
皆様、よき新年をお迎えください。

「うさぎ追いし かの山
  小鮒つりし かの川
  夢はいまも めぐりて
  忘れがたき 故郷(ふるさと) 」 

( 故郷より 高野辰之作詞 岡野貞一作曲)


本年のご愛読どうもありがとうございました。
  新年は1月4日出稿の予定です。
  明年もどうぞよろしくお願いいたします。
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by uqrx74fd | 2010-12-26 18:10 | 動物

万葉集その二百九十八(竹のいろいろ)

(京都嵯峨野の竹林)
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(同上)
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(万葉の茶花 講談社より 庄司信州作 青竹の器 枝垂れ柳、梅、椿)
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『 母方の故郷の丹波には、かぐや姫の生まれてきそうな竹林が随所にある。
  朝日が斜めに差し入る竹林には鋭い光が美しいが、中天に太陽がある時の竹林は
  青い虫籠の中にいるように閑雅なさびしさに満ちている。
  さわさわという風の囁き(ささやき)が高い所にあって、踏む土には
  落ちた枯れ葉がしわしわと鳴っていた。
  青い竹の天地は、それだけで故郷感が呼びさまされる。』

               ( 馬場あき子著 花のうた紀行 新書館より)

「 白雪は降りかくせども千代までに
     竹の緑はかはらざりけり 」   紀貫之 拾遺和歌集


竹は生長が早く冬でも青々としており、その旺盛な生命力は繁栄長寿、子孫繁栄の
シンボル、めでたいものとされてきました。
厳寒に真っ直ぐに凛として立つ姿は松、梅とともに「歳寒の三友」とよばれ、
節操の高い人にも例えられています。
雄雌の区別がなく、いきなり無から芽を出し、節ごとに中空がある不思議さは
神霊が宿るものとして竹取物語などの伝説も生み出されました。
そうした竹の力強さ、清潔さ、神秘性は今もなお多くの日本人の心を惹きつけて
やみません。

「 梅の花 散らまく惜しみ わが園の
    竹の林に うぐひす鳴くも 」
                      巻5-824  阿氏奥島(あじのおきしま)


( 梅の花の散るのを惜しんで この我らが園の竹の林で
  鶯がしきりに鳴いているよ )

730年2月 大宰府の大伴旅人邸で催された梅花の宴での歌三十二首のうちの一。
散る梅、竹、鶯を取り合わせた幻想的な世界を詠ったものですが、この時代に
早くも観賞用の竹が屋敷に植えられていたことを伺わせています。

「 御園生(みそのふ)の 竹の林に うぐひすは
    しば鳴きにしを 雪はふりつつ 」 
                     巻19-4286 大伴家持


( 御苑の竹の林で鶯がひっきりなしに鳴いていたのに。
  雪はなおも降り続いていて - 春はまだ遠いのだなぁ-)

春冬の交錯に感慨をこめた歌。
竹に鶯の声、そして、しんしんと降る雪。                              
静寂さと音と動きがリアルに感じられる一首です。

御園生(みそのふ):貴人の庭園の植込み。
しば鳴きにしを:「しば」は「しきりに」

平安時代、清少納言も竹に興趣をしめし
「 あはれなるもの --
  川竹の風に吹かれたる 夕暮、暁に目さまして聞きたる 」 (枕草子101段)


と、風にさやぐ竹林の情景を聴覚を通して印象深く書いています。

竹はイネ科の中でタケ亜科を構成し、いわゆる竹と笹類がこの群に属しています。
竹と笹の違いは、成長すると若い芽を包んでいる皮(稈鞘:かんしょう)が脱落するものを
竹(マダケ、ハチク、孟宗竹)、皮が枯れるまで付いているものが笹(メダケ、ヤダケ)と
されていますが、古代では厳密な区別はなされていませんでした。

現在良く見られる孟宗竹は江戸時代(1736年)に中国から琉球を経て薩摩藩に
渡来したもので、江戸城に献上されたのち、目黒の農家に栽培を目的として分け与えられ、
その後急速に繁殖したようです。

成長が早く加工しやすい竹は古代から生活になくてはならない有用の植物で、
その用途は驚くほど広範囲にわたっています。(末尾をご参照下さい)
また、桃山時代の茶道の隆盛とともに竹の道具にも芸術性、精神性が求められ
侘び、寂びの世界を演出してきました。

「 琴の音も 竹も千歳の声するは
    人の思ひにかよふなりけり 」   紀貫之  後撰和歌集


力強い生命力、凛とした気品、簡潔で直線的ながら時には美しい曲線を描く応用自在の竹、
その数々の優れた特性の中に、今や失われつつある武士「もののふ」の心や、
後世に伝えるべき日本的精神が集約されているように思われてなりません。

「かたき地面に竹が生え
 地上にするどく竹が生え 
 まっしぐらに竹がはえ
 凍れる節節りんりんと
 青空のもとに竹が生え
 
 竹、竹、竹が生え 」  
                     萩原朔太郎 竹(月に吠える所収)


ご参考 : 「竹の用途」

神事: 竹玉(竹を輪切りにして紐で貫く) 、結界、標、七夕の笹
食用:
薬用: 寒熱、吐血、清涼に効あり。 葉、根を用いる
日常用品:竿、杖、桶、筒、竹箒、物差し、扇、玩具、民芸品、竹炭、竹紙
楽器: 笛、笙、尺八
茶道具:茶器(茶筅、茶托)、花器、竹篭、
武器:弓、矢、旗竿
建築用材:壁の補助材、柱、垣根、水道竹管、
    (桂離宮は使える場所にほとんど竹を使用)
その他: 漁具、農耕用具、運搬用具、貯蓄用具、護岸用に植樹
                                              (以上)
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by uqrx74fd | 2010-12-18 18:01 | 植物

万葉集その二百九十七「鵲(カササギ)の渡せる橋」

「 わが尖りたる矢よ 速やかに 翼を縫ふて 
  地の上(へ)に落とせ。
  恋の畑の 畝(うね)をひろげむ。

   わが放ちたる 音なき矢に
   翼 縫はれて地に落ちたる
   恋の使いは鵲なり。

   天の河原に星を渡す
   橋をつくりては何処に行く 
   御階(みはし)の下(もと)か 筑(ちく)の山か。

   わが矢は折らむ。
   飛び去るなかれ 鵲よ。」      
                  ( 河井酔茗 鵲より)


鵲は光沢がある瑠璃色を含んだ黒い体をしており、肩、腹、翼の一部が白い
カラス科の鳥です。
尾が長く、しわがれた声でカシャカシャと鳴き、それがカチカチと聞こえるため
勝カラスとも呼ばれ、また、朝鮮半島から持ち込まれた鳥とされているため、
高麗鴉(こうらいがらす)の異名もあります。

河井酔茗の詩で「筑の山か」と詠われているのは、北九州地方に多く
棲息していることによるものです。

 古く中国ではこの鳥を「烏鵲(うじゃく)」とよんで、悪賢い人にたとえ、
ヨーロッパではカラスと共に不吉な鳥、魔女の化身ともいわれましたが、
東アジア北部では逆に吉兆の鳥とされ、韓国では国鳥に指定されています。

 鵲が七夕の夜、天の川に翼を広げて橋を作り織姫を牽牛のもとに渡したという
「アジア東北発祥したとされる伝説(白川静)」は中国を経由して我が国にも伝わり、
多くの人達のロマンティックな想像をかきたててきました。

「 かささぎの 渡せる橋におく露の
   白きをみれば 夜ぞふけにける 」 
                    大伴家持 家持集 新古今和歌集、百人一首


大伴家持の歌ながら、なぜ万葉集に所収されなかったのかは定かではありません。
家持作ではない?という説もありますが、多くの人に好まれ選歌されたのでしょうか。

この歌は新古今和歌集では冬の歌に分類されており、「カササギの橋」を
天上の想像の橋とするか、地上の現実の橋とするかで解釈が大きく違ってきます。

以下は白州正子さんの解説です。

『 カササギの橋は牽牛、織姫のために天帝が鵲に命じて天の川に橋を
かけさせたという中国の伝承に起こった。
それより天の川のことを「かささぎの橋」と呼ぶようになったが、
日本に渡ってから織姫は神の衣を織る棚機女(たなばたつめ)に変身し
七夕の祭りと結びついた。
以来、鵲の橋は男女の仲をとりもつ橋、また神と人とのかけ橋ともみられる
ようになり、天上にかかる橋は次第に殿上へ登るきざはし(筆者註:階段)に
変わっていった。

この歌の場合も、夜更けて宮中に伺候した大伴家持が御所のきざはしに置く霜を見て、
夜が更けたことを知ったという賀茂真淵の説が有力になっている。
- - 歌はそこで終わったのではなく夜も更けたから女のもとへ通いたいという
そこはかとない願望が秘められているように見えなくともない。
私も最初のうちはそう考えた方が面白いと思っていたが、
やはり天の川と見た方が自然であり景色も大きく広がるような気がする。 』 
                            (私の百人一首: 新潮選書より要約)
 
「 ほのぼの明(あか)りて  流るる銀河
  オリオン舞い立ち   スバルはさざめく
  無窮(むきゅう)をゆびさす  北斗の針と
  きらめき揺れつつ    星座はめぐる 」

      ( 冬の星座、二番より  堀内敬三作詞 ヘイス作曲 )
 
澄み切った冬の夜空
無数の星屑は天の川の泡立つ波。
黒く、青い天空を じっと見つめると
それは、カササギの大きく広げた羽。

「 鵲の丸太の先にあまの川 」    其角
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by uqrx74fd | 2010-12-12 17:59 | 動物

万葉集その二百九十六(神風)

(神風展パンフレットより :靖国神社遊就館)
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「 神風が吹いた!」
今日、思わぬ僥倖が発生した時に使われているこの言葉は、古代「伊勢」という
地名に関連してのみ用いられていました。

「伊勢国風土記(逸文)」によると、
その昔、神武天皇の命によって天日別命(あめひわけのみこと)が伊勢国を平定した時、
土地の神・伊勢津彦は恭順の意を示すため国土を献上し、大風を起こして波浪に乗り
東方へ去って行ったので、この地を「神風の伊勢」と呼ぶようになったといわれています。

この伝説は、伊勢は暴風の国であり、伊勢神宮鎮座以前に土着の神・伊勢津彦が
存在していた事を物語っていますが、壬申の乱を契機として伊勢神宮と密接に
結びつけられていきます。

672年6月近江朝との戦いを決意した大海人皇子(おおあまのみこ)は吉野を出て
伊勢に向かいました。壬申の乱勃発です。
翌日、伊賀を経て四日市市北部の朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)に到着した
皇子は遥か南方の伊勢の天照御大神を遥拝し戦勝と武運長久を祈願しました。
その霊験はあらたかで、戦闘中に暴風雨が吹き荒れて敵を惑わせ、
長子、高市皇子(たけちのみこ)を総司令官とする吉野軍は近江軍に大勝します。

大海人皇子は若い頃から天文、遁甲(とんこう:身を隠す術)をよくしたといわれ、吉野を
脱出したその日の夜、名張(三重県)の横河で大きな黒雲が天に立ち上がるのを見て
自ら式占を行い、自分が天下を得ると占ったそうです。

戦いに勝利した大海人は即位し天武天皇誕生。
天皇は伊勢神宮からの神功の風に感謝の意を捧げるため大伯皇女(おおくのひめみこ)を
斎宮として天照御大神に奉仕させることに決定し伊勢に向かわせます。(673年)
ここに、天皇個人の守護神という性格を持つ伊勢神宮は天照御大神を皇祖神とする
国家第一の神社とされ、国により維持されることになりました。
そして、「神風は天照御大神の神意によって国家の危急を救うために吹く」という
思想をたどってゆきます。

「 神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ 君もあらなくに 」
           巻2-163 大伯皇女(おほくのひめみこ)


( 激しい風が吹く神の国伊勢にでもいたほうがよかった。
 どうして私は大和などに帰ってきたのだろう。
 わが愛する弟はもうこの世にいないのに ) 巻2-163

686年、天武天皇崩御され持統女帝が誕生。
女帝は天武との間に生まれたわが子草壁皇子を後継者にすべく腐心します。
そして最大のライバルであった甥の大津皇子を謀反の罪で処刑したのです。
仕組まれた冤罪とも言われている事件です。
大伯皇女は弟大津皇子が処刑されたことに伴い斎宮の任を解かれ明日香に戻ってきました。
ただ一人の弟を無残にも失った皇女の心中は察するに余りあります。
こみ上げる慟哭、やりどころない怒りが「何しか来けむ」にこもっているようです。

大津皇子が持統天皇に謀反という口実を与えてしまったのは、姉に会うため無断で
伊勢神宮へ行ったことでした。
国家と天皇の守護神である伊勢神宮に参拝する時は皇后、皇太子といえども
奏上して許可を得る必要がありました。
それを突然無断で訪れたのですから失脚を狙っていた持統側としては絶好の機会で
あったことでしょう。

なお、万葉集で「神風の伊勢の国」と詠われたのは、この歌が最初とされていますが、
単なる枕詞として使用され、そこにはまだ政治的な意味合いは含まれておりません。

「 - - 日の御子(みこ) いかさまに思ほしめせか
  神風の伊勢の国は 沖つ藻(も)も 靡(な)みたる波に
  潮気(しほけ)のみ 香(かほ)れる国に 
  味凝(うまこ)り あやにともしき 
  高照らす 日の御子 」
                   巻2-162 持統天皇 


( - 天下をあまねく支配されたわが大君
     大君はどのように思し召されて
    神風の吹く伊勢の国においであそばすのでしょうか。
    沖の藻が靡いて 波の上に潮の香りばかりけぶっている国に。
    私はただただあなた様を慕わしゅうございます。
    私の日の御子よ!   ) 巻2-162

この歌は693年9月天武天皇の命日に冥福を祈る供養が行われたとき
持統天皇が夢の中で詠み覚えた歌とされています。

壬申の乱で行動を共にし伊勢を廻って美濃に入ったときの難渋した忘れがたい思い出。
その際に天武が伊勢神宮を遥拝し、その加護あって勝利をえたことを持統天皇は
誰よりも強く認識していたことでしょう。

持統天皇にとって伊勢神宮は天武と一体となって苦渋を乗り越えさせた給うた
偉大な太陽の神のいますところ。
その神に誘われるごとく天武の霊魂は「神風の伊勢」にいますという。
しかしそれでも愛するわが夫(つま)はこの明日香、わが側にいて欲しいと
切々と詠っています。

「- - 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に い吹き惑(まと)はし
  天雲を日の目見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷(ふとし)きまして - - 」

               巻2-199 (長歌 一部抜粋) 柿本人麻呂


渡会(わたらひ) : 伊勢の国の郡名 伊勢神宮の所在地

696年、天武天皇の長子高市皇子が43歳をもって生涯を閉じました。
壬申の乱の折、父、天武天皇の下で吉野軍の総司令官となり獅子奮迅の働きをし
勝利に導いた功労者です。
皇子は母が卑しい身分であったため長子でありながら天皇になることが
出来ませんでしたが、天武天皇亡き後、持統女帝の信任厚く太政大臣として
活躍した温厚篤実な人物です。

万葉集の中で最長かつ格調高い名歌とされる人麻呂の挽歌は壬申の乱の
大海人皇子(のちの天武天皇)の活躍の部分でクライマックスを迎えます。                    

( 渡会に斎き奉る伊勢の神宮(かみみや)から吹き起こった神風の力で敵を惑わせ、
  その風が呼ぶ天雲は敵を日の目も見せずに真っ暗に覆い隠して混乱させ
  ついに平定なさった瑞穂の神の国。 
  この国をわが天皇(天武、持統)が神のままに統治あそばされ -) 巻2-199

かくして、伊勢地方の土着神は国家神である天照大御神と習合され、さらに伊勢を
度々襲う暴風の観念とが結び合わされて「神風の伊勢」すなわち
「国家存亡の時の神助の風」として固定されるに至ったといえましょう。
(注:習合=異なる神仏を折衷、調和すること)

このことは、近江朝に反旗を翻し本来ならば逆賊とされるべき天武の皇位継承の正当性を
補填すべく皇祖神天照御大神、さらには現人神を創作した思想と軌道を一にしており、
その演出には柿本人麻呂の力が大いに与っていました。
そして、朝廷の権威が確立した聖武天皇の時代以降、「伊勢の神風」と「現人神」は
共にその用例を見なくなったのです。

「 大海人の 駆けぬけし道 花大根 」 藤本安騎生

(  壬申の乱 大海人皇子(天武天皇)が吉野に蜂起。
  伊勢を経て不破から近江を南下した道を詠う )
 
エピローグ:

『 「元寇」とよばれる蒙古襲来は二度あった。
  二度とも同じ台風にあうわけだが、一度目は文永11年10月20日、
  二度目は弘安4年閏7月1日である。
  これを現行暦に直すと、弘安のほうは8月23日で台風シーズンだが、
  文永のそれは11月26日となりこの時期の台風はきわめて珍しい。
  当時の人も後世の人も、だからこそ「神風」と呼んだのである。

 「 神風もわが日本の武器のうち 」(柳143)

という川柳は天保年間(1830~44)の作かと思われるが、百数十年後これを
特攻という形で実行に移したのは頂けない。 』
                       ( 阿部達二 歳時記くずし 文芸春秋社 )
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by uqrx74fd | 2010-12-05 08:53 | 自然