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万葉集その三百四(国栖の里)

国栖(くず)の里は奈良県吉野川上流の山奥にあり古代は秘境ともいうべきところでした。
人々は今でも昔ながらの方法で楮の繊維を吉野川の水に晒して手漉きの紙を作ったり、
山から切り出した木を製材して生業を立てており、また「昆布」という変わった姓の人が
多いことでも知られています。

この地を訪れた谷崎潤一郎は、その著「吉野葛」(岩波文庫)で、

「史実による豊富な題材のうえロケーションが素敵で、渓流、茅屋(ぼうおく)があり
春の櫻、秋の紅葉、それらを取り取りにして面白い読み物を作れる」と述べています。

日本書紀によると
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、
歌舞を奏して歓迎した。
  その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の
食物としている 』とあり、

天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の所作をするものであったらしく、それは、のちに
「国栖奏」(くずそう)とよばれました。
 
「 国栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の
       しばしば君を 思ふこのころ 」 
                            巻10-1919 作者未詳


( 国栖人たちが 春の若菜を摘むという司馬の野。
  その名のように しばしば貴方のことを想うこのごろです )

 古代、国栖は「くす」または「くにす」とよばれていたようです。
 うら若き乙女は男に一目ぼれしたのでしょうか?
 眼(まなこ)を閉じ、うっとりと夢見ているような感じのロマンティックな一首です。
 司馬」の野は国栖付近の地と思われますが所在は不明。

 「 みよし野の 山のあなたに やどもがも
      世のうき時の かくれがにせむ 」 
                    読み人しらず 古今和歌集


( あの遠い吉野の山の なお向こうに宿るところが欲しいものだ。
 この世が厭になったら隠れ家にしょうと思うので- 。)

以下は 白州正子著 かくれ里 (新潮社)からです。

『 吉野は古くから伝統的な「かくれ里」であった。
  天武天皇が壬申の乱にいちはやく籠られたのは有名だが、西行も義経も
 南朝の天子方も、近くは天誅組の落人に至るまで「世のうき時」に
 足が向かうのはいつも吉野の山奥であった。
 いうまでもなく地理的な理由によるものだろう。
 大和へも河内へも伊勢へも近く、南は熊野へ通じる山つづきで、
 しかも険阻なことこの上もない。
 攻めるに難く、守るに易い要害の地であった。 』
                  

大海人皇子(おおあまのみこ)が近江で兄、天智天皇と決別し
吉野の浄見原(きよみがはら)に籠ったとき、国栖の翁たちは栗やウグイ(鯉科の魚)を持ち寄り、
舞を奏して皇子を慰めました。
皇子は大いに喜び、戦い勝利の暁には宮中に招待すると約束します。
壬申の乱ののち、即位して天武天皇となった皇子はその約束を果たし、都に招かれた
国栖の翁たちは宮中で舞を奉納し、その後も宮中の大嘗祭と元旦の節会の儀式に
毎年奏せられるという栄誉を担いました。

国栖奏は今なお引き継がれて、毎年旧正月の14日(本年は2月16日)に吉野川上流、
天武天皇を祀る「浄見原神社」で奉納されています。

『 舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導かれてあらわれる。
 桐竹鳳凰の紋を青摺りにした装束は川風になびき、冠、木沓(きぐつ)、
 芍(しやく)もここでは特別な気がしない。
 淵の上の細い石段をのぼると拝殿の屋形が作られ、その奥の岸壁に高く
 天武天皇がまつられ、岩の上に神饌物たる生きたカエルやウグイが
 供えられているのだ。
 右手に鈴、左手にサカキを持った二人の舞翁がこの岩陰の屋形に舞い始めると、
 笛の音、太鼓は岸壁に反響し、単純にして素朴な時間が古代のかなしみと
 歓喜をはらんでくる。

「 すずのねに しらきのふえの おとするは
           くずのおきなの まゐるものかは 」


歌翁たちの大らかな歌いぶりとともに舞はいよいよ白熱し笛は冴えわたる 』
                            ( 前 登志夫  吉野紀行 角川選書 )

「 国栖の野に 翁の笛や梅三分 」        中川晴美
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by uqrx74fd | 2011-01-31 20:19 | 万葉の旅

万葉集その三百三(武蔵野)

(武蔵野冬景色)
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(武蔵野晩秋)
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( 手塚治虫 鉄腕アトム 赤いネコの巻 1953年 )
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「 むさし野の 冬めき来る 木立かな」 高木晴子

「 昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景をもって絶頂の美を
  ならしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。
  林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。
  すなわち木はおもに楢(なら)の類(たぐい)で、冬はことごとく落葉し、
  春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺(ちちぶね)以東
  十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に
  雪に緑陰に紅葉に、さまざまの光景を呈する- 」
                           ( 国木田独歩 武蔵野 岩波文庫より)

天地創造の時代、武蔵野は海の底にあったそうです。
そして、気が遠くなるような長い間、海底の隆起運動が繰り返された結果、
海の丘陵地が次第にせり上がり、地上に高い山脈が出現しました。

その頃、地上では激しい風雨が吹き荒れていて山の岩肌を打ち続け、
脆くなった巨岩が崩れ落ちて砂礫の層を形成していきます。
周囲には盛んに火を噴く日光、浅間、八ヶ岳、富士、箱根などの活火山。
その降灰が関東平野一面を埋め尽くしていきました。

やがて、悠久の時を経て地型が安定すると、羊歯類などの植物が繁茂して原始林が出現。
谷間からこんこんと湧き出る水は川や池そして沼地を造り、その周りに色々な動物や
人間が集まり住んで、高度な縄文文化が形づくられていったと推定されています。

「 ゆく末(すえ)は 空もひとつの 武蔵野に
     草の原より 出づる月影 」 
                   ( 藤原良経(よしつね)  新古今和歌集)


( はるかかなたは空も地も一つになっている広々とした武蔵野を分け行くと
  草原の中から大きな月が出てきたよ )

豊かな原始林は度々の大火で焼失し、奈良、平安時代にはすでに一面見渡す限りの
荒野となり、ススキや萱(かや)が生い茂っていたことが詠われています。
律令時代の武蔵国は、現在の東京都、埼玉県、神奈川県の横浜市、川崎市を含む
広大な地でムザシ(武蔵)とよばれていました。

「 武蔵野(むざしの)の をぐきが雉(きぎし) 立ち別れ
    去(い)にし宵より 背ろに逢はなふよ 」     巻14-3375 作者未詳


( 武蔵野の山ふところに潜む雉がぱっと飛び立つように、
あの方も突然出立してしまいました。
それ以来まったくの音沙汰なしでお逢いしていません。)

「をぐき」:「ぐき」は山洞(やまほら)を示す「岫(くき)の意 「背ろ」:背子

雉は平地や山地の草原に一雄多雌の小さい群れを作りますが、秋から冬にかけて
雄同士、雌同士別れて暮らすので、これを立ち別れといったようです。
男は防人か雑役として西方に徴集されたのでしょうか。
別れの言葉を交わす間もなく慌しく出立した夫。
残された妻の悲しみと寂しさを朴訥な方言で詠う一首です。

「 武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも
   君がまにまに 我(あ)は寄りにしを 」 巻14-3377 作者未詳


 ( 武蔵野の草葉があちら、こちらへと風にまかせて靡くように
  私はあなた様のおっしゃるまま、自分としてはどうかと思われることでさえ
  ただただ、お言葉に従ってまいりましたのに、どうして今になって
  冷たくなさいますの )

心変わりをした男に恨みを込めながらも、自身の変わらぬ思いを込めている女。
一途に愛を捧げている心情をひたむきに詠っています。

「 埼玉(さきたま)の 津に居(を)る舟の 風をいたみ
    綱は絶ゆとも 言な絶えそね 」      巻14-3380 作者未詳


( 埼玉の船着場に繋がれている舟のもやい綱が、風の激しさで切れてしまうことが
あろとも、あなたのお便りは絶やさないでね )

埼玉は現在の行田市、羽生市あたりで利根川の船着場で詠まれたものらしく
遊女達が唄った歌(伊藤博)ともされています。
埼玉という地名ははサキタマ(幸魂)が転じたもので幸いの霊をあらわし、利根川や
荒川などがもたらす幸魂が宿るところとしてその名を伝えています。

「風をいたみ」: 風が激しく吹く

武蔵野が雑木林になったのは江戸時代からだそうです。
農家が薪炭用の材木を植林して10年~20年毎に伐採し、さらにその切り株から出る
新芽を育てて繁茂させました。
樹種は薪炭に適した櫟(くぬぎ)、コナラ、欅、エゴ、などが多く、整然と一定の間隔を
残して植えられたので、明治時代には美しい雑木林になり、また観賞用に梅、櫻、竹、
松などが加えられたそうです。
また道端には百花繚乱。

徳富蘆花はその美しさを次のように書き残しています。

「 野はすみれ、たんぽぽ、春竜胆(はるりんどう)、草木瓜(くさぼけ)、薊(あざみ)が
  咲き乱れ、大欅が春の空を摩(な)でて淡褐色に煙りそめ、雑木林の楢が逸早く、
  櫟(くぬぎ) やや晩(おく)れて芽を吐(ふ)きそめる。
  やがて落葉木は若葉から漸次青葉となり林には金襴銀襴の花が咲き、
  畑の境には雪のように卯の花が咲きこぼれ、林端には白いエゴの花がこぼれ、
  田川の畔(くろ)には花茨が芳しく咲き乱れる- -」
                            (  「みみずのたはこと」  岩波文庫 より )

わが国経済が高度成長期にさしかかると、武蔵野周辺は開発のため見るも無残な姿に
なりつつあり、その荒廃のさまを観察していた手塚治虫は「鉄腕アトム」を通して
警鐘を打ち鳴らしました。
それは、いち早く環境問題に取り組んだ画期的なコミックとして今もなお高く
評価され続けています。

「 紫にほひし 武蔵の野辺に
  日本の文化の 華(はな)さきみだれ
  月影いるべき 山の端(は)もなき
  むかしの廣野の おもかげいずこ 」
           ( 旧東京市歌 山田耕筰作曲 高田耕甫作曲 )


   註.「紫にほひし」:武蔵野はその昔、染料となる「紫草」が多く繁殖していた
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by uqrx74fd | 2011-01-24 20:57 | 自然

万葉集その三百二 (冬野、冬木立)

(冬木立:武蔵野公園)
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『 粉雪ちらちら 止(や)みて日(ひ)出(い)でたれど 底寒きこと甚だしく、
  北風終日膚(はだ)を刺す。
  日落ちて 天(てん)紫(むらさき)なり。
  葉落ち盡(つく)したる欅の大樹、幹は老将の如くに硬く、
  節高(ふしだか)なる梢頭(しょうとう)より 
  針の如く、糸の如き千万枝 縦横に射し出で、紫の空を揶揄す。
  一枝々骨を刺して寒きを覚ふ。
  上に蒼ざめたる月あり。 空に氷つきたる様なり。 』
                         ( 徳富蘆花  自然と人生:寒樹より 岩波文庫)

「 草も木も かれはてしより 冬の野の
         月はくまなく成にけるかな  」 樋口一葉


葉が落ちて裸になった木々。雪や枯れ草に覆われた地面。
冬の野は見渡す限り寒々とした光景のように見えます。
しかしながら草も木も枯れ果ててしまったのではなく、ただ静かに眠っているだけ。
地面の下で膨大なエネルギーを蓄えながら来るべき生命の復活を
今や遅しと待ち構えているのです。

「 道の辺(へ)の 草を冬野に 踏み枯らし
     我(あ)れ立ち待つと 妹に告げこそ 」 
                         巻11-2776 作者未詳


( 道端の草が枯れてしまうほど何度も踏みつけながら、立ちつくしているこの冬野。
  誰かお願い!
  「あなたを待ちあぐんで凍えている」とあの子に伝えてくれませんか?)

恋人の家の近くで逢う約束をした男。
何らかの事情で家を出られない女。
母親の監視が厳しいせいでしょうか。

逢引といえば夕方から夜にかけてが当時の習い。
身を切るような寒さの原っぱの中を行ったり来たりしながら、ため息をつき、
かじかんだ手に白い息を吹きかけている男の姿が目に浮かぶようです。

万葉唯一の「冬野」という言葉。
貝原益軒によると「ふゆ」は古語「冷ゆ」と同義語だそうです。

「冬野」という古いたたずまいの村落が奈良県明日香村にあります。
その名の通り冬は積雪を見ることが多い寒冷の地です。
竜在峠を越えて吉野に向かう道筋にあり、古くは芭蕉や本居宣長が
峠の茶屋で休息したらしく
「 雲雀より 空にやすらふ 峠かな 」(芭蕉) と詠まれたり
「 はるかに山蹄をのぼりゆきて、手向に茶屋あり。
やまとの国中見えわたる所也」(本居宣長)
などと記されています。
また、近くに冬野川(古代の細川)が流れ、石舞台の付近、祝戸で
飛鳥川と合流するなど、実在の冬野もまた万葉ゆかりの土地です。

「 玉川の 一筋光る 冬野かな」  内藤鳴雪

その昔、正岡子規は20歳年上の門下生、鳴雪と高尾山へ吟行に行き
「 (日野、松蓮寺:百草観音堂の)石段を上れば堂宇あり- 
玉川(多摩川)は眼の下に流れ、武蔵野は雲の際に広がる」と高尾紀行に記しています。
上記の句はその折に詠まれたものです。

「- - 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に 
  つむじかも い巻き渡ると 思ふまで - -」
                    巻2-199 柿本人麻呂


(  - 取りかざす弓弭(ゆはず:弓と弦をつなぐところ)の 
  どよめきは雪降り積もる冬の林に つむじ風が渦巻き渡るかと
  思うほど - -。)

天武天皇の長子、高市皇子への挽歌。壬申の乱の奮闘の場面です。
この歌での「冬の林」は枯木の林をいい、そこに強い風が吹けば、
枝が風を切り、細枝が折れて、さまざまな音を立てる。
それは丁度弓弭(ゆはず)が鳴るのと同じようだと詠っています。

「冬木立」とは立ちならんでいる冬木の枝が「すきすき」となり、
寒々としたさまをいうそうです。
この歌での「冬の林」はそのような情景なのでしょう。

「 斧入れて 香におどろくや 冬木立 」 蕪村 

 枯れているようでもやはり木は生きているのです。
柏餅で良く知られている「カシワ」というブナ科の落葉樹があります。

以下は山本健吉氏の解説です。
『 この木の葉は冬になって褐色に枯れても、落ちないで冬を越す不思議な
 性質がある。
  だから昔から、柏木には葉守(はもり)の神が宿るといわれ、「柏木の葉守の神」
  などと詠われた。
  春になって新芽が出はじめてから、やっと役目が終わったかというかのように
  枯葉を落とす。
  だから冬の間、からからと からびた葉音を立てながら年を越す姿は
  周囲の雑木がすべて葉を落とした冬木立の中に置いてみると特異な風景である。
  柏の群生地などで、あの大きな枯葉をつけている冬景色は、また美しいものだ。
  ― その大きな葉が色もあざやかな枯色を見せて、冬日に映えている美しさは
  国木田独歩以降の武蔵野人種には知られていたのだろう。』
                               ( 「言葉の季節」より 文芸春秋社 )

枯葉となりながらも厳しい風雪に耐えて落ちず。
それどころか、ますます輝きを増して美しくなり人々を楽しませる。
そして、自分の役目である世代交代を終えるや否や、何の未練もなく
淡々と去ってゆく。
その自然の摂理の偉大さは、私たちに生き様のお手本を示してくれているようです。

「 武蔵野の 雀と親し 冬柏 」 蕪村

( 註 : 四季を通じて色を変えない樹木である松と柏を「松柏」いい、
      「人間の節操が堅い」例えとされていますが、
      ここでの「柏」は「ヒノキ科の常緑樹 コノテガシワ」とされ
      柏餅のカシワとは別物です)
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by uqrx74fd | 2011-01-17 19:55 | 自然

万葉集その三百一(大仏開眼)

『 聖武天皇というひとは、われわれに東大寺と大仏を遺したひとである。
 奈良朝三代目のこの天皇はその後の日本の天皇からみるといかにも王者にふさわしい
 専制権をもち、即位した早々は累代つづいた律令体制の生産力が充実して、国家が
 富んでいた。 この富を一代で傾けるのである。

 しきりに土木を興し、都を奈良だけでは満足せず、生涯に何度も変えた。
 山城の木津川のほとりに恭仁京(くにきょう)を造営し、それが完成しないうちに
 近江甲賀の地に紫香楽宮(しがらきのみや)の造営を命じ、さらに難波京に移り、
 最後は奈良に帰ってくる。
 また諸国に命じて、国分寺と国分尼寺をそれぞれ造営させるという、気の遠くなる
 ような土木事業をつぎつぎおこす。
「唐の長安というのは大変なにぎわいです」と唐から帰ってきた僧玄昉(げんぼう)や
 吉備真備(きびのまきび)からその様子を聞き、唐文明のきらびやかさに眩惑されるところが
 あったのだろう。』 
                      ( 司馬遼太郎 街道をゆく: 甲賀と伊賀の道 朝日文庫)

743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。
曰く、「 天下の富と権勢を保有する者は天皇である自分である。
この富と権勢をもって尊像を作ることなどたやすいことであるが、大仏の御心に
かなう真の魂を注入するには、個々の集団のささやかではあるが自発的、平等的な
物心両面にわたる無償の奉仕が必要と考える。
よって、一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも、これを捧げてこの事業に
協力したいと願うものがあれば心から歓迎する。
ただし、国司や郡司はこの事業のために民衆の生活を侵害したり、強制的に物を
徴収するような事があってはならない。」 (主旨要約)

日本書紀によると天皇がこの様な心境に至ったのは詔を発する3年前の難波宮行幸の折
河内の智識寺に立ち寄り、盧舎那仏を拝して大きな感銘をうけた事によるとされています。
智識とは仏に結縁(けちえん)するために田畑、穀物、銭貨、労働力などと差し出す
行為や同信の仲間、団体をさします。

「 あまたらす おおきほとけを きづかむと
    こぞりたちけむ いにしへのひと 」  会津八一


(宇宙に広く満ち広がる大いなる仏を造り上げようと、こぞり立ったであろう。
古えの人は)

聖武天皇は即位後次第に烈しくなってゆく政界の対立に悩まされていました。
藤原不比等死後、天皇親政を支持する橘諸兄と中心とする勢力と権力確立を狙う
藤原氏との対立。
藤原派による親天皇派長屋王謀殺。
天皇側近、玄昉、吉備真備に対する敵意と藤原広嗣の叛乱。
その最大の原因は皇嗣として娘の阿倍内親王を皇太子に立てたのに対して、
諸氏族は認めようとせず、政情が不安定だったことです。

権力をめぐる争いは次第に律令国家の存立にかかわる深刻な状態になりつつありました。
加えて農村にうち続く疫病と飢饉、戦乱、相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃。
逃亡という形をとった農民の抵抗。
社会のあらゆる面で対立が激化する一方です。

天皇は世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかりたかったものと思われます。

この困難な工事に大いに力を発揮したのが市井の僧、行基でした。
当時、朝廷から迫害を受けていた行基は数千人の衆生を率いて道路をつくり、橋を掛け、
堤を築き、墾田をすすめ、更に孤児や病人を養う布施屋も作って人々を救済していました。
天皇は吉備真備の助言により行基に従う人の中から400人の出家を認め、全面的な助力を
求めたのです。
このことは大仏建立を成功に導く大きな鍵となりました。

「 ひんがしの やまべをけづり やまをさへ
    しぬぎてたてし これのおほてら 」  会津八一


( 平城京の東方の山のほとりを削り、山をさえ押しふせる様に建てたこの大寺よ)

744年、甲賀寺(滋賀県 紫香宮:しがらきのみや)初めて大仏の像体骨柱建つ
745年、放火による火災、地震、水害続発し遂に都を平城京に戻すことに決定
     同年金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で原型組み立て本格的な造立を
     はじめる。

大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生していました。
像に塗るべき金がないのです。
海外からの輸入も検討していた矢先、749年、陸奥の国から金が産出したとの
報告があり、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにしき きょうふく)が管内の
小田郡から産した黄金が献上されました。
今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が発揮されたものと
思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた用意周到な人事が功を奏したのです。 
( 現在、宮城県遠田郡:黄金山産金遺跡として遺されている。)

天皇は狂喜します。
産金は神仏が大仏を造立を祝って表出してくれたものと受け止めたのです。
そのことを寿ぎ、長大な詔を発せられました。
その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、感激した大伴家持は
長歌と短歌を詠み感謝の意を捧げます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                        巻18-4097 大伴家持 


(天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

大仏がようやく完成を迎えたのは造立の詔から9年経った752年のことでした。
塗金はまだ首から下は未完成でしたが天皇の健康状態が思わしくなく開眼供養を急ぎます。

その年の4月9日。
既に譲位していた聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇(阿倍内親王)をはじめ
百官が居並び、参集した僧尼は1万人。
開眼師はインド僧の菩提遷那(ぼだいせんな)。
春の麗らかな気候の中、美しい造花が無数に撒かれ、色とりどりの華やかな旗(幡:ばん)が風にはためく。
多くの鳥が放され、門前には数万の大衆。
さらに、シルクロードの国々の舞楽や音楽が奏せられるという国際色豊かな儀式で
「仏教伝来以来かかる盛儀はかってあらず」(続日本紀)と伝えられています。

「 東(ひんがし)の山人清み 新鋳(にひゐ)せる
    廬舎那仏(るしゃなぶつ)に 花たてまつる 」 (東大寺要録)

「 法(のり)の下 花咲きにたり 今日より
    仏の御法(みのり) 栄えたまはむ 」   (同)


開眼供養を詠った歌は残念ながら万葉集には残されておりません。
東大寺に保存されている上記の歌(他に一首あり)と漢詩のみ。
一体何があったのか? 万葉集の謎の一つとされています。

平城京で大仏造立と開眼供養を取り仕切ったのは藤原仲麻呂。
本来ならば歌を詠むべき大伴家持が詠わなかったのは、光明皇太后の庇護のもとで
専制甚だしかった仲麻呂に対する無言の抵抗だったのでしょうか?

今はただ、何事もなかったように御仏が静かに座っておられるのみです。

「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
    おほきほとけは あまたらしたり 」 会津八一


 ( 大きく豊かに両手の指をお開きになって
  この大仏は宇宙に広く満ちひろがっておられるのです。)
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by uqrx74fd | 2011-01-10 08:54 | 生活

万葉集その三百(やまと、倭、日本)

( 大和心 )
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古代、「やまと」は「山跡」「山常」などと漢字表記され、山があるところ、
山に囲まれたところ、を意味していました。
やがて王権の支配領域が拡大されてゆくにつれ、王宮がある三輪山の麓の地域、さらに
奈良県全域、近畿の呼称となり、ついには国生み神話の大八州、つまり日本全体の称に
なります。
大八州とは古事記や日本書紀にあるイザナギとイザナミによる国生みに由来する
「本州、四国、九州、淡路、壱岐、対馬、隠岐、佐渡」のことで、当時の王権の
支配領域をさしています。(北海道、東北は含まれていない)

一方中国ではわが国のことを「倭」(わ)とよんでいました。
「倭」が最も早くあらわれるのは神話地理の書である山海経(せんがいきょう:戦国時代
BC403-BC221年)での「倭は燕に属す」、ついで1世紀成立の歴史書「漢書」の
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為し歳時を以って来たりて献じ見ゆと云う」と
倭人が朝貢していた事が記録されています。

「倭人」とはもともと種族名をさしていたそうですが「倭」の字の意味そのものは
定かではありません。
ただ、「倭」の語のもととなる「委」には「おとろえる」や「したがう」の意味が
あるとされ(直木孝次郎)、決して良い意味の漢字ではなかったようです。

我国では「倭」を「やまと」と訓みならわし、漢字に意味担わせない借字、つまり
単なる「やまと王朝の地」を表示するものとして使用しました。

それでは、「日本」という字はどのようにして生まれたのでしょうか。
「日の本」の「本」は本来根元を意味し「日の出る処」「日のあるところ」を
さすそうです。

「 日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙(つつが)無きや 」

推古天皇時代(在位592年~628年)に遣隋使、小野妹子が持参した国書で、
日本国号の淵源となったとも主張されている一文です。
東の蛮夷国とされていた王が「天子」を称したことで隋皇帝の不興を買ったと
伝えられていますが、自主独立の気概を示し、対等の立場を強く打ち出した
堂々たる文章で、古代人の高い志がひしひしと感じられます。

かって倭の五王(5世紀頃)は中国の宋(南朝)の皇帝から「倭王」として
柵封(さくほう:任命)されることを願い国印まで受領して臣従を誓っていました。
それに対して推古天皇は終始一貫して柵封を受けようとせず、外来文化や文物を
取り入れるための朝貢は続けるが隋の皇帝の臣下になることはかたくなに拒んだのです。

さて、この「日出づる」は仏典「大智度論」に由来しています。

「 経の中に説く如くんば 日出づる処は是れ東方
  日没する処は是れ西方
  日行く処は是れ南方
  日行かざる処は是れ北方なり 」

従って、国書に引用された「日出づる処」は単なる「東」つまり方角を示す言葉と
されているため、日本国号の成立とは直接の関係はないと考えられていますが、
その知識が大きな下地となっていたようです。

以下は「吉田孝 日本の誕生:岩波新書」からの要約です。

『  国号を改称したのは、「倭」という字を避けるというよりも、小さいながらも
唐帝国に対して自立した国であることを明示する国号、王朝名を明示したかった。
そして「日」の字を含む新しい国号を積極的に採用した。
何故ならば、そこには「日」のイデオロギーが想定されるからである。

水耕栽培を主な生業とする我国では稲の実りをもたらす太陽神への信仰が強く、
特に日が昇る東の海に面した伊勢の地の天照大神はヤマト王権の守護神と
されていた。
とくに天武、持統期は「日」のイデオロギーの昂揚を基礎としており、
日本という国号は「日の御子(天皇)が治めたまう日の出の国、やまと王朝」の
名として成立されたと思われるのである。
もし壬申の乱の勝敗が逆であったなら「日本」という国号は生まれなかったかも
しれない。 
何故ならば近江朝は中国の儒教的な「天」即ち「天が有徳者に天命を下して
天子とする」という観念への憧れが強かったからである。 』

「日本」という国号が正式に制定されたのは「天皇」号と同時期である
689年施行の「飛鳥浄御原令(あすか きみよみがはら りょう)」(吉田孝 同)と
推定されています。 日本書紀には
『 日本、これをば やまとという 下(しも)みなこれにならえ』とあり、
「日本」を「やまと」と訓ませました。

註:国号制定の時期については「701年の大宝律令前後」説もあり。 
(神野志 隆光:日本とは何か 講談社現代新書)

702年粟田真人を主席とする遣唐使が派遣され、中国に対して初めて
国号「日本」を用いました。
当時、唐は則天武后のもとにあり国号は周に変っています。
遣唐使は「日本国」を名乗り、則天武后はそれを承認したのです。
もし当時の「やまと王朝」が唐から柵封を受け、臣従を誓っていたら国号を勝手に
変更するなどはとても認められなかったことでしょう。


「 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の
    御津の浜松 待ち恋ひぬらむ 」   巻1-63 山上憶良


( さぁ、者どもよ 早く日の本の国、日本へ帰ろう。
大伴の御津の浜辺の松もわれらを待ち焦がれていることであろう )

この歌は遣唐使の任を終え、長安を去る最後の宴席で主席粟田真人に従っていた作者が
主人の立場となって詠ったものと思われます。
「大伴の御津」は難波津のことで、大和朝廷の外港かつ大伴氏の所轄であったので
敬称されたものです。
         
「日本」という国号を認めさせるために留学経験があり中国語に堪能な粟田真人を選任し、
周到な用意を重ねたものの、そこまでたどり着くには数々の困難もあったことでしょう。
則天武后は真人の唐朝廷での堂々たる振る舞いについて最大限の賛辞を呈しており、
使節主席の人選も大いに功を奏したものと思われます。

長年の苦労が報われ、交渉が成功裏に終わった喜びがあふれている宴席。
作者はおそらく「日本」を「やまと」ではなく「にっぽん」あるいは「じっぽん」と
声高らかに詠ったのではないでしょうか。

それ以降、我国の国号は対外的にすべて「倭」から「日本」に変ります。
然しながら「倭:やまと」は依然として国内で使用され続け、古事記は
すべて「倭」と表記されています。
万葉人は「倭」という字を「やまと」と訓んでいたため、決して嫌っては
いなかったのです。

「倭」という字の使用が少なくなるのは、「倭」(やまと)が雅やかな「大和」と表記され
「日本」が「ひのもと」と和訓された平安時代以降と思われます。

註:「日の本」は万葉集で一例のみながら既に枕詞として使用されている。:巻3-319 )

アジア全域を支配する唐大帝国に対し断固として臣従を拒み、自主独立を貫いた
我国古代の朝廷。
その姿勢はやがて仮名文字を生み出し、我国独自の精神構造と文化の華を咲かせて
真の独立国への道を歩んでいきます。
国号を「倭」から「日本」に変えるべく国力をあげて奮闘した古代政治家の不撓不屈の姿勢は
明治維新後、不平等条約改正に渾身の力を振り絞った明治政府の悲願に
重なるものがありましょう。

「 日本、うつくしい国だ
  葦(あし)の葉っぱの
  朝露がぽたりと
  落ちてこぼれてひとしづく
  それが
  この国となったのだとも言ひたいやうな日本

  大海(たいかい)のうへに浮いてゐる
  かあいらしい日本
  うつくしい日本
  小さな国だ
  小さいけれど
  その強さは
  鋼鉄のような精神である
  - -

  静かな国 日本
  小さな国 日本
  つよくあれ
  すこやかであれ
  奢(おご)るな
  日本よ、真実であれ
  馬鹿にされるな    」 
                      ( 山村暮鳥 日本より)
  

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by uqrx74fd | 2011-01-03 21:21 | 心象