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万葉集その三百十二(関:せき)

646年、孝徳天皇は道路の整備、駅馬、関設置の詔を下しました。(大化の改新の詔)
中央集権政治体制を強力に押し進めるには、物資の大量移動、情報の迅速化、
叛乱の防止などを図ること急務であったためです。
直ちに東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道の建設が着手され、
各地に関所が設けられます。
中でも、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)は三関といわれ、兵士が常駐し、
軍需物資を備蓄して東国地方の叛乱に備えるという物々しさで、通行には過所(かそ)と
よばれる手形がなければ行く手を阻まれ、来た道を引き返すほかありませんでした。
764年、太政大臣にまで昇った藤原仲麻呂が朝廷に叛乱を起こし、越前で挙兵しようとして海津、敦賀の街道をたどる途中、官軍によって直ちに愛発(あらち)の関を閉ざされました。
やむなく引き返したところ捕らえられ、その関の固めが強固であったことは良く知られております。

「 過所(かそ)なしに 関飛び越ゆる ほととぎす
        都が子にも やまず通はむ 」
                      巻15-3754 中臣宅守


( 手形なしに気ままに関所を飛び越えられるホトトギスよ。
 お前はこの地から都のあの子の所にも自由に通えて羨ましいなぁ。
 私もお前のように、ここと都とを絶えず行き来したいものだ。)

 越前に配流される途中、愛発(あらち)の関あたりで詠んだものと思われます。
 作者がどのような罪に問われたのかは定かではありませんが、新婚早々に愛する人、
狭野芽上娘子(さのの おとかみの をとめ)と別々に暮らすことを余儀なくされ、
愛と別離の悲しみの歌63首取り交わした圧巻の歌物語の中の一首です。
 フリ-パスポート(過所なし)のホトトギスが羨ましいとは、実にユニークな発想。

註: 「都が子にも」の訓みは諸説あり定まっていませんが、
ここでは伊藤博説に従います。

「 遠き山 関も越え来ぬ 今さらに
       逢ふべきよしの なきがさぶしさ 」    巻15-3734 同上


( 遠い山々、そして関所さえも越えて私はやってきました。
  今となっては、もう、あなたと逢う手立てが何もないのは寂しくまた辛いことです。 )

配流先に到着した作者はもはや罪が許されるまで都に戻る事が出来ません。
切々と寂しさを詠っていますが、意外にも2年後に許されて都に戻り、
昇進さえも認められているので罪は軽かったのでしょう。
一説によると政治的陰謀説もあり、真偽のほどは闇に中です。

「 ぬばたまの 夜渡る月を 留(とど)めむと
    西の山辺(やまへ)に 関もあらぬかも 」      巻7-1077 作者未詳


( 夜空の月が美しい。 移ってゆく月を押しとどめるような関所が
  西の山辺にないものかなぁ )

桓武天皇の789年、140年余の長きに設けられていた関所がついに廃止されました。
天皇の勅に曰く
『 関を設置したのは、もともと非常事態に備えるためであったが、
今は天子の支配が行き届き、天下に外患がなくなった。
いたずらに険阻な関を設けているだけで防御に用いることもなく、
畿内外を隔絶して流通の便宜を失い、公私ともに往来には常に滞留の苦を
生じさせている。
今の政務に益なく、人民の憂いは切実である。
今までの弊害を改めて、臨機応変に対応したいと思う。
そこで三関を廃止し、関の保有する兵器、兵糧は国府に運んで倉に収め、
その他の関司らの館舎は便の良い都に移築せよ 』
       ( 石田則明訳 「奈良時代にこんなことが」栄光出版社より )

三関はいずれも交通の要衝にあったため、その廃止は人や物の流通に大きく
寄与し、その後の経済発展の大きな力となったのです。

そして1300年後の今、「関」ならぬ「堰(せき)」が我々の生活に甚大な影響を
及ぼしています。
瓦礫の山々、海の漂流物、陥没した道路、曲がりくねった線路、そして最も恐ろしい
原発事故による放射性物資の拡散。
寝食を忘れて日夜闘い続けておられる方々に手をあわせて感謝しつつ、
無事を祈る日はまだまだ続きそうです。
あぁ、
「 雨風の 空渡る塵を 留(とど)めむと
       西の山辺に 関もあらむかも 」      筆者

              ※ 塵は放射性物資をさす 万葉歌7-1077の本歌取り

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by uqrx74fd | 2011-03-28 14:43 | 生活

万葉集その三百十一(鎮魂)

( 芝、増上寺にて )
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( 奈良 明日香稲淵の棚田にて )
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平安時代も終わりにさしかかる1185年、都で大地震が発生しました。
鴨長明はその凄惨な様子を「ゆく河の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず」の
名文ではじまる「方丈記」で詳細に述べています。
以下はその一部を抜粋したものです。

「 おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍(はべ)りき。
  そのさま、よのつねならず。
  山はくずれて河を埋(うづ)み、 海は傾(かたぶ)きて陸地(ろくじ)をひたせり。
  土裂け水湧き出で、巌割れて谷にまろびいる。

  なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどわす。
  都のほとりには在々所々、堂舎塔廟(どうしゃたふめふ)一つとして全(また)からず。
  或はくずれ、或はたふれぬ。
  塵灰(ちりはい)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。

  地の動き、家のやぶるる音、雷(いかづち)にことならず。
  家の内におれば、たちまちひしげなんとす。
  走り出づれば地割れ裂く。
  恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚えはべりしか。」

(語句解釈)

「海は傾きて」: 津波がおしよせて 
「巌割れて谷にまろび入る」:がけ崩れがおきる
「馬の足の立ちどをまどはす」:馬が足の踏み場に迷った
「堂舎塔廟(どうしゃたふめふ)」: 堂や塔 
「ひしげなんとす」:押しつぶされそうになる

なんと今回の東北大地震と似た様相であることか。
その死者4万2千万3百余であったと伝えています。
万葉の時代にも天変地異が多くあり、安否の判断を空模様に頼るしかない
人々にとって地震や津波の恐ろしさは切実なものであったことでしょう。

「 沖つ波 来寄する荒磯(ありそ)を 敷袴(しきたへ)の
    枕とまきて 寝(な)せる君かも 」
              巻2-222 柿本人麻呂


( 沖つ波がしきりに寄せてくる荒磯。
 なんと! まぁ、お気の毒に!
 磯を枕にして横たわっておられることよ )

作者は讃岐の国、那珂(なか)の港(丸亀市)を出てから間もなく突風に襲われ、
  命からがら沙弥(さみ)島に漕ぎついたところ、岩床に臥す死人に出会ったようです。
航海中、沖の方で津波とも思われる「うねり波」が立ち、その恐ろしさに
おののいて、櫂も折れんばかりに漕ぎまくって、ようやく湊にたどり着いたところに
遭難者。

行き倒れが多かった古代、亡き人に遭遇した時は、懇ろにその魂を鎮めて
その死を悼み、あわせて自らの行路の安全を祈ることを習いとしていました。
この場合も長歌と短歌二首で構成されており、作者の深い悲しみと弔意を
格調高く詠っております。

「 母父(おもちち)も 妻も子どもも 高々に
   来むと待つらむ 人の悲しさ 」
            巻13-3340 調使首(つきのおみのおびと)


( 母も父も子どもも 今頃はもう帰ってくるだろうと、首を長くして
 待っていることだろうに。
このように亡くなられて! そんな姿を見ると悲しくてなりません )

作者は渡来系の官人で、課税、徴収、運送、管理などに従事していたようです。
備後の国、神島(福山市西部)で遭難した死人に出会い、その家郷や家族のことを詠い
せめてその魂を鎮めて家郷に帰すべく祈った挽歌です。
挽歌とは葬儀のときに柩(ひつぎ)を挽く人が歌った歌の意です。

「あなた!お前!父さん!母さん!!子どもたち!祖父母!兄弟姉妹!愛する人!友人!」よ。
不慮の死に出会った方たちの嘆きと悲しみが切実に伝わってまいります。
今回の「東日本巨大地震」について山折哲雄氏は次のように述べておられます。
 
「 山はさけ 海はあせなむ 世なりとも
          君にふた心 わがあらめやも 」   

『 源実朝の歌だ。
鴨長明の同時代者でもあるが、政治のあつれきのなかで苦しみ
もがきぬいた若き将軍、その魂の憂悶のなかからしぼりだされた歌である。
いま私はあらためてこの和歌の調べを思いおこし、
この国に「二心わがあらめやも」と口ずさまずにはいられない。
たとえ、山は裂け、海はあせても、この国だけは残り続けてほしいと
願わずにはいられないのである。
         ( 筆者註:「海はあせなむ」=海が干し上がる
               「君」は直接的には後鳥羽上皇をさす  )
それにしても、こんどの惨事が引き起こした大量死と自然の猛威を前にして
ただ首(こうべ)を垂れるほかはない。
時々刻々の切迫した報道がまだつづく。
海に流された無数の「水漬く屍(かばね)」、山野に投げ出された無数の
 「草生す屍」から、その一人ひとりの魂が遊離し、飛翔して、
この国の山や森に鎮まることを祈らずにはいられないのである 』
              (2011年3月17日 読売新聞より一部抜粋)

「 山はさけ 海はあせなむ 世なりとも
        国にふた心 わがあらめやも 」 


「君」を「国」に置き換えたものです。
あるいは「民」と言い代えた方が良いかもしれません。
第二次大戦以来の未曾有の国難に際して、国のリーダは今こそ私心を捨て、
身命を賭して、この苦難に立ち向かうべき時であります。
間違っても「政権延命」などの「ふた心」があっては、亡国の道を歩むことに
なりましょう。
人命を救い、人々を苦難から解放し、世界に対して安全を約束し、
国家再建のビジョンを示す。

「ふた心」を持っていてはこのような大事業はなしえません。
そのためには、多くの人を信頼し、助けを借り、そして任せる。
決して自身のパフオーマンスであってはなりません。
「国破れて山河あり」
そして、一日も早く復興事業を成し遂げ、亡きひとたちの魂を
それぞれの美しい故郷に戻してあげようではありませんか。


    万葉集311( 鎮魂)  完 
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by uqrx74fd | 2011-03-20 17:11 | 生活

万葉集その三百十(象山:きさやま)

( 象山)
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『 静寂そのものの吉野の里に象山を求めて歩き廻った。
  万葉の歌の世界が今もそのままじっと、そこにあった。--
  象山はよくみるとアチコチの山全部が象の形に見えてきてしまったが、
  飛鳥の人達が象の山を愛した素直な童心が漂ってくるようで嬉しかった。
 小鳥達のさえずりも明るく、いきいきと心豊かな飛鳥時代の生活が
 目の前に大きく拡がってきた。 』
        ( 川崎春彦(画家) 万葉日本画の世界所収 奈良県立万葉文化館より)

「 み吉野の 象山の際(ま)の 木末(こぬれ)には
   ここだも騒ぐ 鳥の声かも 」    
                     巻6-924 山部赤人


( み吉野の象山の谷あいの梢では あぁ、こんなにもたくさんの鳥が
 鳴き騒いでいる )

象山(きさやま)は奈良県吉野町宮滝の南正面にあり、稜線が象の形に見えるところから
その名があります。
「きさ」は象の古名で象牙の横断面に橒(キサ)すなわち木目に似た文様が
見えることに由来するそうです。
象の渡来は江戸時代とされていますが、万葉人は正倉院御物に描かれた絵や
象にまたがる普賢菩薩像を見てその姿形を知っていたのでしょう。

この歌は725年聖武天皇が吉野離宮へ行幸された折に詠われたもので、
長短歌3首で構成されています。
長歌で柿本人麻呂以来の土地褒めの伝統を踏まえて天皇を讃え、短歌二首では
朝廷賛歌より自然の叙景を前面に打ち出しており、従来の行幸歌の殻を破った
万葉傑作の詠とされています。

以下は犬養孝氏の「万葉の旅:平凡社」からの要約です。

『 吉野川の谷は渡り鳥の通路でもあって、しぜん鳥の声も多く、
宮滝付近の歌にはホトトギス、呼子鳥、千鳥、鴨など、鳥の声が多くよまれている。
  この歌は大きな景から小さい一焦点「木末:こぬれ=枝先」へと「の」の音で
重ねてしぼっていって、そこに たくさんに騒いでいる鳥の声を描く。
そのしぼってゆく呼吸に応じて、作者の心も自然の静寂の中に歩一歩ひそまって
ゆくようで、そのはてに四三、三四音(ここだも騒ぐ 鳥の声かも)の律動に乗って
描かれてゆく鳥の声に、作者の心はもう自然にとけこんでいって、
大自然の鼓動をじかにきいているようである。
この歌一首でも自然詠の絶唱としてたたえられるのに値する。 』

「 ぬばたまの 夜の更(ふ)けゆけば 久木(ひさき)生ふる
      清き川原に 千鳥しば鳴く )  
                     巻6-925 同上


( 夜が更けてゆくにつれて、久木の生い茂る清らかな川原で
 千鳥がチチ チチと鳴きたてている )

久木は「ノウゼンカズラ科のキササゲ」または「トウダイグサ科のアカメガシワ」
(共に落葉高木)とされ、川は象川(きさかわ)です。

深々(しんしん)と更けゆく夜。
静寂(しじま)の間から鳥の声が聞こえてくる。
耳をすますと玲瓏と響く川の音と千鳥の澄んだ声。

瞑想することしばし。

昼間に見た清々しい川原と緑鮮やかな木々。
そして飛び交う様々な鳥たちの姿が目に浮かぶ。
それはあたかも眼前でその情景を見ているようだ。

やがて口元から朗々とした調べが。
「 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる - -」
かくして1300年後に絶賛される名歌が誕生しました。
それは、心の集中から生まれた鮮やかな写生とも言える静寂の極致です。

「 橡(とち)の実を晒(さら)せる象の小川かな 」   水野露草
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by uqrx74fd | 2011-03-14 08:11 | 自然

万葉集その三百九(はねず:ニワウメ)

「はねず」は中国原産のバラ科の落葉低木で現在の庭梅(ニワウメ)とされています。
(他にモクレン、ざくろ、芙蓉、ニワザクラ説あり)
古代に渡来し、鑑賞を目的として栽培されている庭木で、高さは2m前後、
多くの枝を分枝し、こんもりとした感じの樹形です。
4月頃、新葉の芽吹きに先駆けて淡紅色(まれに白色)の小さな五弁の花を
密生して咲かせ、初夏には1、5cm位の赤い実をつけ、食用、または薬用(利尿、虫歯)として
採取されています。

「 山吹の にほへる妹が はねず色の
   赤裳(あかも)の姿 夢にみえつつ 」 
               巻11-2786 作者未詳(既出)


輝くばかりに美しい女性が赤い裳(スカートのようなもの)を翻しながら颯爽と
歩いている姿を夢に見ている男。
赤裳は当時の男性にとって憧れの衣裳でした。
山吹の黄色そして華やかで明るいはねず色。色彩感あふれる美しい歌です。

「 思はじと 言ひてしものを はねず色の
   うつろひやすき 我(あ)が心かも 」 
                 巻4-657 大伴坂上郎女


( もうあんな人のことなど思うまいと、きっぱりと口に出して言ったのに- -。
  なんと変りやすい私の心なのだろう。
  またあの人のことが恋しくてたまらなくなってしまうなんて- -。
  私は、はねず色のように移り気なのかしら 。 )

はねず色は紅花と梔子(くちなし)で染めた赤黄色で「朱華色」と書かれます。
685年に制定された服色規定では親王以上の皇族の色とされ、さらに701年の
大宝律令で黄丹(おうに)と呼ばれて皇太子の服色となり今日に至っています。
極めて上品な色ですが褪色しやすいので、万葉人は移ろいやすい恋の比喩に用いたのです。

「 はねず色の うつろひやすき 心あれば
   年をぞ 来経(きふ)る 言(こと)は絶えずて 」 
                        巻12-3074 作者未詳

( あなたさまは、はねず色のような移り気な心をお持ちなので、お会いできないまま
  年月を過ごしてまいりました。
  ただお便りだけは絶やさずに下さいますので何時かは私を訪ねてくださるものと
  期待しておりましたが- - )

次から次へと相手を変える移り気な男。
それなのに気をもたせるような便りは絶やさない。
もしやと淡い期待を持ち続ける純情な女。
結局男は戻ってこなかった?

「 夏まけて 咲きたるはねず ひさかたの
    雨うち降らば うつろひなむか 」 
                    巻8-1485 大伴家持

( 夏を待ち受けてやっと咲いたハネズ。
 そのハネズの花は雨でも降ると色が褪せてしまいそうだ。
 どうか雨よ降ってくれるなよ )

折角咲いた花をいたわっている歌ですが、恋の障害が起こらぬことを
願っているようにも思えます。
「 夏まけて 」: 夏が来ると

「 春落葉 浮けり小町の 化粧井戸 」 龍頭美紀子

京都山科、はねずの里、随心院での詠。
絶世の美女、小野小町が里の子供たちと遊び住んでいたと伝えられているお寺です。

その昔、深草に住む少将が小町に惚れて口説いたところ、
「 百日休まずに通ってくれたら意に添いましょう」と応えられた少将。
 雨の日も嵐の日も山を越えて訪れ、いよいよ最後の九十九日目。
 なんという運命のいたずらでしょうか。
 大雪に行く手を阻まれて志を果たせなかったのです。
 この故事に因んで毎年3月の終りに「はねず祭り」が催されます。
 小学生の女の子が美しいハネズ色の衣裳を着て踊りを披露いたします。

  「 曙や 郁李の匂ふ 家の前 」 青木月斗

           「郁李」(いくり):庭梅の別名 
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by uqrx74fd | 2011-03-07 20:14 | 植物