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万葉集その三百十六( あかねさす紫野)


『 袖を振るというのは恋のしぐさだったそうで、万葉集にも、集中第一の才女額田王の
  歌が出ている。
「 あかねさす紫野行(ゆ)き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 巻1-20 

 恋歌ながら、景観が大きく、吹きわたる野風まで感じられる。
 紫野とは、染料の紫をとる紫草がはえている野をいう。
 標野の“しめ”は、しめ縄の“しめ”と同義で、“しめの”とは“占められている野”を
 言い、古代の皇室や貴族が猟をする禁野をさす。紫野とは接続していたらしい。
 紫野もまた禁野なのである。
 ここで貴族たちが野あそびをし、紫草をみつけては根を掘る。
 根とは染料をとるだけでなく、干して軟膏をつくり、やけどや湿疹の治療に
 つかうのである。
 このため、紫草をさがす野遊びのことを薬猟(くすりがり)といった。
 標野が男どもの遊猟の場であったのに対し、薬猟はおそらく女性たちのあそび
 だったろう。 』
     (司馬遼太郎 街道をゆく:大徳寺散歩中津宇佐のみち:朝日文庫より)

668年5月5日。天智天皇は近江の蒲生野で遊猟を催されました。
皇太弟大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)をはじめ諸皇族、群臣
ことごとく従い、華やかな衣裳をまとった女性は紫草を、男性は生えかけたばかりの
鹿の袋角(鹿茸:ろくじょう:強壮剤に用いる)を採集する行楽色の強い儀式です。
風薫る野原の中でのピクニックを満喫し、黄昏こめるころ待望の酒宴がはじまりました。

皓皓と輝く月光の下での賑やかな酒盛り、今日の猟の成果に弾む会話。
心地よい音楽と艶やかな美女の踊り。夢のようなひとときが過ぎてゆきます。
やがて宴が佳境に達したとき、周りから声があがりました。

「おーい 額田王さま、歌を一首所望いたす! 」

額田王は大海人皇子と十市皇女までなした元愛人同士ながら、今は天智天皇の後宮に
召されている女性です。
満場の人々は息をのんで王を凝視します。
やがて朗々たる美声が響き渡りました。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                    巻1-20  額田王


( 美しい茜色に照り映える紫野を行きつ戻りつしながら袖を振るあなた。
 そんなにあからさまに振ると標野の番人(野守)に見つかってしまいますよ) 

人々は楽しかった昼間のひと時を思い起こしたことでしょう。
標野を行きつ戻りつしたのはすべての男に当てはまることでした。
誰が返歌をしても良い状況です。額田王はじっと反響を見守ります。
突然、大海人皇子が立ち上がり詠いだしました。

「 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば
     人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも 」  
                  巻1-21 大海人皇子


( 紫草のように色あでやかな妹よ。そなたをどうして憎く思えるでしょうか。
  今は人妻になったあなたですが、わたしはなお一層恋しくてならないのです。)

額田は今や天皇の愛人。
別れたとはいえ大海人はきわどい告白したのです。

一同シーンと静まりかえり天智天皇の顔色を伺います。

ややあって、天皇は破顔一笑。
やがて並居る満座も賑やかな笑いに包まれ拍手喝采です。
真迫の演技だったのでしょう。

人々は二人が今でもひよっとしたら密かに思いあっているのではないかと
疑ったかもしれません。
とはいえ、美人の誉れ高い額田王も当時すでに齢(よわい)四十前後。
大海人は姥桜といってもよいその容貌を紫のように艶で麗しいと褒め称えたのです。
さらに「人妻ゆえに」は「人妻なのに」と受け取れるほか
「触れてはならない人妻だから一層心をそそる」とも取れます。

美しく、張りがあり、格調高い額田の歌、男らしい堂々たる大海人の歌。
特に額田王はこの一首で万葉不朽の歌人になったといえましょう。

この歌は、古くから
「子までなした二人から天智天皇は額田王を強引に奪い取った。
そして、この薬獵の場で久しく会わなかった二人が再会し、
恋情いまだに燃え続けている」ロマンティックな歌として
多くの人々を魅了してきました。

野守を天智天皇に擬す解釈あるいは、額田王は天智天皇に惹かれて自らの意思で
大海人のもとを去ったとの説もあります。

しかしながらこの歌は相聞歌ではなく雑歌に分類されており、朝廷の儀式的行事に
付随して詠われた公的なもの、つまり、遊猟が終わったあとの天皇臨席宴会の歌なのです。
だからこそ酒席を最大限に盛り上げる必要がありました。
額田王と大海人皇子は、若々しい恋情の時代が過ぎ去ったにもかかわらず、
今もなお恋して止まぬ恋人同士を見事に演じきりました。

とはいえ、二人の胸の中には初恋の甘酸っぱい幸せな思い出が満ち満ちて
いたことでありましょう。
二人の歌には過ぎ去りし「紫のゆかり」の想いを胸に秘め、老いたりといえども、
今なお茜色に輝くばかりの美しさを讃えあっているように思われるのです。

『 ぼくの中にきみが入ってきたのは どこであったか
  花散る五月の紫草の野で
  あまりに長くきみは待っていた
  なぜなら すでにながいあいだ
  ぼくは暗闇のなかを歩いてきたのだから

  男たちは潮が満ちるのを待っていた
  深い夜は遠い山々のかなたにあったが
  あの夜が明けたら
  男たちは原野を進まねばならぬのだ

  天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
  もちろん ぼくにはその朝の深さをしるすべはない
  だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
  ぼくはきみに遭うことはなかっただろう
  その時
  きみは髪にムラサキの花をさして立っていた 』
  --   
       ( 秋谷 豊 額田王より 花の詩集 筑摩書房所収)

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by uqrx74fd | 2011-04-24 20:02 | 心象

万葉集その三百十五〈紫草:ムラサキ)

紫草はムラサキ科の多年草で日当たりのよい草地に自生し、初夏に五弁の白い花を
咲かせます。
根が赤紫色をしているのでその名がありますが、古代から紫染めの重要な染料とされ
また乾燥させて皮膚病、解熱、火傷、などの薬用にも用いられていました。

気品と艶やかさを併せもつ紫は古代から、やんごとなき人の色とされ、聖徳太子が
制定した冠位十二階で最上位に位置せられて以来王者の地位を保ち、また
中国では紫禁、紫宮、紫微、紫宸、紫庭などが帝王の住居をあらはし、紫雲、紫霞、
紫気などは神仙の瑞兆をいう言葉とされています。

一方、西洋では紀元前15世紀ころ地中海の東、フエニキアという都市国家でアクキガイ科の
貝の内臓から採った液で紫に染める技術を完成させたと伝えられており、1gの染料を
得るのに2000個の貝を要したそうです。
それは「帝王紫」とよばれ、クレオパトラやシーザも貝紫の衣服を愛用し王族限定の
ものとされていました。
紫は洋の東西を問わず、エリート中のエリートの色だったのです。

「 紫草(むらさき)の 根延(ねば)ふ横野の 春野には
     君を懸(か)けつつ うぐひす鳴くも 」 
                 巻10-1825 作者未詳


( 紫草の根が張っている横野。 その春の野で鶯が鳴いています。
  その鳴き声はあなたを慕っているようですよ。)

横野は大阪市生野区に式内社、横野神社あたりとされています。
「根延ふ」(根が張る)と「春」を掛け、鶯に自分の気持を託したもので
ウキウキした気分が感じられる一首です。

野生の紫草が染料として大量に求められるに従い、豊後、相模、武蔵、常陸、下総、
上野、下野、甲斐、信濃、石見、出雲、大隅、日向など多くの地で栽培が
おこなわれるようになり、特に、中世の南部藩(岩手県)の紫草は名が高く、
宮沢賢治は「紫紺染について」という短編を著しています。

「 託馬野(つくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め
     いまだ着ずして 色に出(い)でにけり 」 
                      巻3-395 笠郎女


( 託馬野に生い茂る紫草、その草で着物を染めました。
 出来上がった着物をまだ着ていないのに、もう人に知られてしまいましたわ )

作者が大伴家持に贈った歌で、託馬野(つくまの)は滋賀県米原市あたりの野。                                
「託(つく)」には「色がよく付く」が掛けられています。                           
「紫草」は家持、「衣」は自分自身を暗示しており「まだ契りを結んでいないのに
あなたを思い慕っている事が世間の評判になってしまった」の意がこもります。


以下は 水尾比呂志著 「日本の色 朝日選書 大岡信編」 からの要約です。

『紫の根は掘り出したままの状態では、かすかな赤紫色呈するだけだが、
 乾燥すると深紫色に変化する。
 のみならず隣接するものに色を移すという特殊な性質を持っている。
 紫根に含まれる色素が顕著な発揮性を有し近くのものを染めるのである。
 それを「紫のゆかり」という。

 王朝人は「ゆかり」すなわち「縁」を生じる紫を恋の象徴とし耽溺した。
 彼らの理想の恋は、匂ふばかりの美しい女(ひと)の想ひにわが身が染められ、
 わが身の想ひも、また女を染めてひとしく紫のゆかりを結ぶ悦びにあったと思われる。
 その法悦の色としても、紫はまたとなき美しい色にほかならない 』

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 」
                巻12-3101 作者未詳(既出)


( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
  その椿の名がある海石榴市で出会ったお嬢さん。
  あなたの名前はなんとおっしゃるの? )

海石榴市(奈良県桜井市)には椿の木が多く植えられており、また歌垣が行われる場所と
しても知られていました。
八十の衢は街道が四方八方に通じている要路をいい、道で出会った男が声を掛けたのです。
男が女性に名を尋ねるのは求婚を意味し、紫は女、自分を灰に掛けています。
その返事は「行きずりの方に母からもらった大事な名前など教えられませんわ」でした。

以下は染色家 吉岡幸雄氏 「日本人の愛した色: 新潮選書」からです。

『 紫が高貴な色と尊ばれるのは、その染材となる植物そのものが希少であることに
  加え、実際に染めるのに大変な手間のかかる色でもあるからだ。
  植物染料には大きく分けて「単色性染料」と「多色性染料」とがある。
 「単色性染料」は色素を抽出した液に布や糸を浸ければそのまま色に染められるもの
 「多色性染料」は色素が定着するのに仲介するものを必要とし、それを媒染剤とよぶ。

  紫の色を出すための媒染剤には椿の灰を使う。
  生木を燃やして灰をつくり、その灰を樽に入れて熱湯を注いで二晩ほど放置し
  灰の成分を溶出させる。
  紫根を石臼で搗き、麻の袋に入れお湯の中でよく揉み紫の色素を搾り出す。
  これを3回繰り返し合わせたものを染液としてつかう。
  そこに何回も糸や布を入れ、そのつど椿の灰の液で同じ時間をかけて糸や布を手繰る。 
  何回も工程を重ねるほどに濃い色となる。 』

王朝文学の代表者、清少納言は
「すべて紫なるは、何も何もめでたくこそあれ。 花も糸も紙も 」(枕草子 75段)
と紫を賛美し、また、源氏物語は作者の名前が紫式部ゆえ「紫の物語」「紫のゆかりの物語」と
よばれるに相応しく、登場人物は「桐壺」(桐の花は紫色)「藤壷」「紫の上」など紫に
通じる名前、さらに「紫の紙」で書く場面など、まさに紫で埋め尽くされています。

 「 紫の ひともとゆゑに 武蔵野の
    草はみながら あはれとぞみる 」 (よみ人しらず 古今和歌集)


( 私の好きな紫草が一本生えているゆえに、いままで親しめなかった武蔵野の草は
 全部いとおしく思われるようになったよ )

東国にやってきた都の貴族が天離る鄙の風土になかなか馴染めなかったところ
ふと、武蔵野で自分が知っている紫草を見つけた時の親しみの気分を詠んだものですが、
のちに紫草を自分が愛する女にたとえ、その一族すべてがいとおしく思われるという
意味に解されるようになった一首です。

平安時代、武蔵野は紫草の代表的な生殖地として知られていましたが、江戸時代には
絶滅しており、一人の農夫が再び甦らせるべく挑戦しました。

「 杉並区などの資料によれば、江戸時代、豪農 杉田仙蔵という人物が
  紫草の栽培を試み、紫染めが盛んであった南部に出向いたり京の染色法を
  調べたりして苦労を重ね、鮮やかな「紫」を生み出した。
  それは「江戸紫」とよばれて江戸っ子に大いにもてはやされた。
  なお、井の頭池の水を染色に用いたことから池畔には一対の「紫燈籠」が
  江戸近郷の紫根問屋や紫染屋から1865年に寄進され建っている。」
             ( 吉岡幸雄 日本人の愛した色より要約 新潮選書)

江戸紫は歌舞伎などの鉢巻に用いられている青味がかった紫色。
赤味の紫は京紫といい古代紫の系統とされています。
古代の人の憧れであった紫草の栽培は19世紀中頃、石炭の副産物コールタールの
成分から誕生した化学染料の普及により急速に衰退し今や再び絶滅の危機に
瀕しています。
 
    「 紫と男は江戸に限るなり」 川柳
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by uqrx74fd | 2011-04-17 20:23 | 植物

万葉集その三百十四(茜:あかね)

茜はアカネ科つる性多年草の植物で、その赤い根を茜染めの染料として用いていたので
その名があります。
本州、四国、九州に広く分布し、茎は4角形。
小形の逆棘(さかさとげ)があり、それを他のものに引っ掛けて成長し、秋には淡黄緑色の
小花を咲かせます。
魏志倭人伝によると「卑弥呼が魏の国に国産の錦や赤、青の絹布や麻布を献上した」と
あり、我が国の人は2世紀から3世紀にかけて赤い布を作る染色法を会得し、
その染料として茜や紅花を用いていたと推定されています。
万葉集での「あかね」の用例は13首。
すべて日、昼、紫、君等に掛る枕詞として用いられており、陽光が射すような
明るいイメージを出しています。

「 飯(いひ)食(は)めど うまくもあらず 往(い)ぬけれど 安くもあらず
  あかねさす 君が心し 忘れかねつも 」 
                     巻16-3857 作者未詳


( 家の中でご飯を食べても美味しくないし、外に出て道を歩いていても落ち着かない。
 立派な美々しい(あかねさす)あのお方の優しい心を、いつも忘れかねております。)

万葉集最短の長歌で、次のような詞書があります。

「 (橘諸兄の弟君)である佐為王の邸に小間使いの女性がいた。
  ( 筆者註: 多分新婚早々だったのでしょう)
  彼女は夜昼なく殿居(とのい=宿直) 勤めが多く、夫になかなか逢えない日が
  続いたので、恋しさが募り募って気持ちはふさぐばかり。
  ある宿勤めの夜、夢の中で夫の姿を見てはっと目が覚め、思わず手探りで
  抱きつこうとしましたが、手に触れることが出来ず、ただただ虚しく空を切るばかり。
  とうとう、たまらなくなって泣きじゃくり、大きな声を張り上げてこの歌を
  口ずさんだところ、たまたま主人がこのことを耳にされ、哀れに思い、
  以後ずっと宿直を免じたという 」

中国文学(遊仙窟:恋情物語)を下敷きにしたお話で、作者は山上憶良ではないかとも
いわれています。
ここでの「あかねさす」は単なる枕詞だけではなく夫を賛美する修辞語としての
役割を果たしています。

「 あかねさす 日並(な)べなくに 我(あ)が恋は
    吉野の川の 霧にたちつつ 」 
                巻6-916 車持千年(くるまもちちとせ)


( あの方が旅に出てまだそんなに日にちがたっていないのに、私のあの方への想いは
 吉野川の霧となって立ち上っております )

古代、恋の嘆きは霧となって立つという発想がありました。
立つ霧を背景として「あかね」を枕詞として使い、おぼろげな日光がさすような
色彩感を感じさせる一首です。

「 泊瀬(はつせ)の斎槻(ゆつき)が下に 我が隠せる妻
    あかねさし 照れる月夜(つくよ)に 人見てむかも 」 
                 巻11-2353 柿本人麻呂歌集(旋頭歌)


( 初瀬のこんもり茂る槻の木の下に私がひっそりと隠している妻。
その妻を明々と隈なく照らす月の夜に、人が見つけてしまうのではないだろうか )

槻(つき)は現在の欅(ケヤキ)です。
斎槻の下とは人がみだりに立ち入ってはならない清浄な区域であることを暗示しています。
初瀬は奈良県桜井市の初瀬川の流域、三輪山山麓あたりで古代から聖地とされていました。
「隠せる妻」に他人がみだりに手を触れてはいけない女性の意がこもります。
皓皓と輝く月光の下に浮かび上がる美女を想像させる一首ですが、野外での宴歌だった
かもしれません。

「 染色の山の麓や茜掘り 」 素丸 

茜染めは、鮮やかな緋色にするために高温に保った器で根を煮出し、触媒剤(灰)を
使い、厄介な副成分であるタンニンを取り除いて、さらに紫草や紅花と交染するという
複雑かつ高度な技術を要したため極めて貴重なものでした。
それ故、茜色の衣服の着用は親王、諸王の皇族に限られ、それ以下の身分のものには
禁色とされていました。

今日茜染めと称されているものはインド原産のセイヨウアカネで染めたもので、
エジプト、ペルシャなどで古代から染料として用いられ、我国の古代染めよりも
容易に染色出来そうです。

「 あじさゐの 藍のつゆけき花ありぬ
         ぬばたまの夜 あかねさす昼 」 佐藤佐太郎


( 藍色が滴り落ちんばかり紫陽花 夜も昼もあらんかぎりの命で咲いている)

「ぬばたま」、「あかねさす」の二つの枕詞を効果的に用い、生命が躍動するような
リズム感を感じさせる秀歌です。
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by uqrx74fd | 2011-04-11 09:22 | 植物

万葉集その三百十三 (つまま=タブの木)

「つまま」は照葉樹林を構成する主要樹種であるクスノキ科の常緑高木で、
こんにちの「タブ」とされ「犬楠(ヌククス)」ともよばれています。
年を重ねて巨木に成長すると、根を盛り上げるように延ばし、さながら猛禽類が
足で岩を掴んでいるように見え、いかにも力強くて威厳があり、神木と崇められるに
ふさわしい雰囲気を漂わせている樹木です。

もともと亜熱帯地方を中心に分布していた樹種ですが、夏の頃、黒潮に乗って
北の方に流れつき、能登半島や、岩手県中部、青森県西南部などの寒冷地でも
大きく成長する強靭な生命力の持ち主です。

材は緻密で建築材、家具、器具材に、樹皮の粉末は線香をつくるときの粘結剤として
用いられ、さらに、八丈島特産の黄八丈は島に自生するタブの皮から作られる
煎汁と灰汁で染められているなど、用途が多様に亘る有用の木です。

「 磯の上の つままを見れば 根を延(は)へて
     年深くあらし 神さびにけり 」
                  巻19-4159 大伴家持


( 海辺の岩の上に立つツママを見ると、根をがっちり張って 
 見るからに年を重ねている。
 なんという神々しい姿であることか )

750年晩春、出挙(すいこ)のために古江の村に行く途中での詠。
出拳とは公の稲を貸し、秋に利息をつけて返済させる制度で、国司の重要な
政務の一つでした。
作者は巡行の途中、富山県高岡市の雨晴海岸、渋谿(しぶたに)の崎を通り過ぎる時に、
巌の上に聳え立つ巨樹を見て驚き、その姿の神々しさに感銘を受けたようです。

『 家持が見たツママも黒潮にのって南から流れてきた実が海岸に自生したもの
 であろう。
 ちょうど渥美半島南端の伊良湖(いらご)岬に流れついた椰子の実、
 あの柳田国男が見つけ、島崎藤村が詩によんだそれと同様で、
 古代版、椰子の実が家持のツママだったことになる。
 家持は藤村とおなじように、この木から暖かい南国を想いやったのであろう。
 輝くような太陽、その中で繁茂する樹木などを 』
                       ( 中西進 詩心 中公新書)

家持が見たタブの木は現存しておりませんが、彼が勤務した国府の地にある
勝興寺(しょうこうじ)の山門の前に巨大なタブの木が茂っており当時の面影を
伝えてくれています。

古名「つまま」の由来は「ツマ」は副える、「マ」は間の意で(松本彦七郎:万葉植物新考)
家屋でいえば別室のようなもの、つまり、タブの木の下で作業をしたことに
よるそうです。
確かにタブの木は巨木になり、その下は繁る葉で陽光を遮り、少々の雨なら凌ぐことが
出来るので人々が作業場として利用することはあったでしょう。
通説ではありませんが支持する人も少なくないユニークな説です。

「 たぶの木の ふるき社に入りかねて
       木の間あかるき かそけさを見つ 」 折口信夫


能登の気多(けた)大社での詠。
その地で眠る作者はタブの木に心ひかれた一人でした。

以下は山口博著「万葉の誕生と大陸文化」(角川選書)からです。

『 折口は彼一流の論法で、タブはタマすなわち玉で、日本民族の魂の
  よりどころの木と見た。
   「 私たちの祖先が、日本列島に初めて漂着した海岸は、
     タブの木の杜(もり)に近いところであったろう」 
  と折口は幻想的に語る。
  彼の脳裏にはタブの木が生い茂る気多の浜辺があった。- -
  彼は、タブの古木の神々しさに打たれているのである。
  日本民族の列島漂着と巨木を結びつけた折口は、母なるかなたの国の
  巨木信仰をも視野に入れていたのではなかろうか。 』

「 そこに太い根がある
  これをわすれているからいけないのだ
  腕のような枝をひき裂き
  葉っぱをふきちらし
  がんじょうな みきをへし曲げるような大風のときですら
  真っ暗な地べたの下で
  ぐっとふんばっている根があると思えばなんでもないのだ
  それでいいのだ
  そこにこの壮麗がある
  樹木をみろ
  大木をみろ
  このどっしりしたところはどうだ 」 
                 ( 山村暮鳥 人間に与える詩より)


南の国から流れ着き、千年余も生き続けている北国のタブの木。
その長い歴史の中で、地震、津波、暴風雨、吹雪、あるいは水も涸れる日照りに
さらされた時期もあったことでしょう。
その過酷な時を耐え抜いた雄雄しい神木は、わが日本人の魂のよりどころとして
これからも温かく見守ってくれるに違いありません。

「頑張れ日本!」「頑張れ東北!」 
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by uqrx74fd | 2011-04-03 08:59 | 植物