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万葉集その三百二十一(槻:ツキ=欅)

(ケヤキ:小石川植物園)
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( 東根小学校のケヤキ:山形県東根市HPより)
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「 立ち並ぶ榛(はり)も欅(けやき)も若葉して
    日の照る朝は 四十雀(しじふから)鳴く 」 正岡子規


『ケヤキは特長ある樹形をした樹である。
 天に向かって掌をひろげたように末ひろがりに大きく枝を伸ばした姿は、
 遠くから見てもすぐわかる。
 古名はツキで「万葉集」にもツキノ歌が9首ある。
 ケヤキは若葉がさざなみのように光って見える新緑の頃もいいし、
 赤茶色に紅葉した葉がはらはらと散るころもよい。
 さらに葉を捨て切った梢が冬空の雲を掃くように揺れ動くさまにも
 独特の美しさがある。 』
             ( 筒井迪夫著 万葉の森、物語の森 朝日新聞社より)

古代、槻(ツキ)とよばれた欅(ケヤキ)はニレ科の落葉高木で我国自生の広葉樹です。
樹齢千年以上の巨木も多く存在し、神の憑代として信仰の対象にもなっていますが、
常緑の木が神木とされる中、冬に葉を落とす落葉樹が崇められるのは異例のことです。
早春、新葉とともに淡黄緑色の小花を咲かせ、花後扁平の小さな灰黒色の実を結びます。
材は木目が美しく光沢があり、しかも狂いや割れが少ないので、建築、船舶、車輛、
橋梁、楽器、彫刻、漆器木地など多方面にわたり広く使われている有用の木です。

「 天(あま)飛ぶや 軽の社(やしろ)の 斎(いは)ひ槻(つき)
    幾代まであらむ 隠(こも)り妻ぞも 」 巻11-2656 作者未詳


( 天飛ぶ雁というではないが軽の社(やしろ)の槻。
 その神木が幾代までも存在するように、貴女もこれからずっと長く
人の目をはばかって隠れていなければならない籠り妻なのでしょうか。)

想いを抱いている女性が一向に姿を見せないので半ば諦めている男。
かたくなに世間の目を拒んで家に籠る女は神に仕える巫女?
あるいは人妻なのかも知れません。

「天飛ぶや」は「天飛ぶ雁(カリ)」の意で音が軽(カル)に通じることから
枕詞として使われています。

「軽」は奈良県橿原市の大軽付近とされ、眼前に畝傍山が大きく望まれ、
 古くは市が立ち、賑わったところです。
 また注連縄が張られ手を触れてはならない神木「斎ひ槻」は巫女や人妻を
 連想させています。

「 早来ても 見てましものを 山背(やましろ)の
   多賀の槻群(つきむら) 散りにけるかも 」
         巻3-277 高市黒人(たけちのくろひと)


( もっと早くやって来たらよかったのに。
  紅葉した欅の木々は もうすっかり散ってしまっていることよ )

「山背の多賀」は京都府綴喜郡井手町多賀周辺。
作者は持統、文武期の歌人で度々三河や吉野行幸のお伴をしており、この歌も
北陸か東国からの帰路で詠われたものらしく、
「紅葉で知られている多賀に息せき切ってやって来たが、ついに間に合わなかった」
と残念がっています。

古来、旅の歌は道中の不安や怖れ、故郷への思慕の情を詠うものが多かった中で
黒人は自然の風物を感覚的にとらえて旅を楽しんでいる様子を詠い、この歌も
新しい境地の一首とされています。

「 けふ見れば 弓切るほどに なりにけり
         植ゑし岡辺の 槻の片枝 」    藤原定家


槻の木で弓を作っていたことが窺われる一首です。
弓の材料は槻のほか梓(あずさ)、檀(まゆみ)、桑が使われ、それぞれ木の名前をとり
槻弓、梓弓、真弓、桑弓とよばれていました。
「弓切るほどに」は切って弓がつくれるほどにの意。

欅はどれくらいの大木になるのか?
現存する日本一の欅は山形県東根市内の東根小学校に聳え立つ樹齢1500年、高さ28m、
根回り24mの巨木(国指定特別天然記念物)とされていますが、この欅より一回りも
二回りも大きい欅が存在していたことを白洲正子さんが紹介されておられます。

『 私は一通の招待状を頂いた。
  何でも自分の持ち山にある日本一の欅の大木が、雷に当たって倒れたので、
  その根を刳(く)りぬいて茶室を造ったから、見に来てくれ、というのである。
  私はあっけにとられた。
  日本一の欅といえば、2千年から3千年の樹齢はあるだろう。
  その大木で茶室を造ったというのならわかるが、丸ごとくりぬいた一本造りの
  建築なんて聞いたこともない。
  さすがに出雲の長者が考えることは桁はずれだと思った。』
                        (木:平凡社より)

「青黒う 繁る欅の大木は
   われとしたしむ 夏は来にけり 」 岡 稲里

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by uqrx74fd | 2011-05-29 07:37 | 植物

万葉集その三百二十(磐姫皇后の謎)

仁徳天皇のお后(きさき) 磐姫(いはのひめ)は歴史上臣下から皇后になられた最初の方です。
歴代の天皇に仕えた功臣、武内宿禰の孫にあたり、大和の豪族葛城氏の一族とされています。
仁徳天皇(313~399年)と言えば、民の竃(かまど)の煙が乏しいのを見て、3年間の免税を
断行された聖帝とされていますが、人は見かけによらぬもの、実は大の色好みだったそうです。
一夫多妻が公然と認められた時代ながら、潔癖感が強い皇后は天皇の浮気に大いに悩まれ、
その心情を余すところなく詠われました。
以下の四首連作からなる歌群は万葉集最古にして、かつ名歌の誉れが高いものとされています。

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
           巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)


( あなたが家を出られてから随分日にちが経ちました。
 毎日毎日あなたのことを想い、胸が張り裂けんばかりです。
いっそのこと険しい山を越えてお迎えにいきましょうか、それとも、
このままじっと待ち続けましょうか )

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
  岩根しまきて 死なましものを 」  巻2-86 同上


( こんなに恋焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、いっそのこと
お迎えに出ていこうかしら。
たとえ、道に迷って険しい山の岩を枕にして死んでしまっても構わないわ。)
  
「 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
   我が黒髪に 霜(しも)の置くまでに 」  巻2-87 同上


( でも、やはり、このままいつまでも、あの方をお待ちいたしましょう。
  長々と靡くこの黒髪が白髪に変るまでも  )

「 秋の田の 穂の上に 霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)
    いつへの方に 我(あ)が恋やまむ 」   巻2-88 同上


( 秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧はまるで私のため息のよう。
それにしても私の恋は一体いつになったらすっきりするのでしょう。
秋の田の稲穂の上に立ち込めている朝霧だってやがては晴れるというのに。)

この歌は、天皇が長い旅に出られ(他の女性に逢いに行った?)、帰りを待つ皇后の気持を
詠ったもので、
『 恋情のやるせなさ、死ぬほどの激しさ、ひたぶるに待つ純情、かなしいあきらめを
これほど美しくまとめあげた作品は万葉の相聞歌の中でもまれである』(青木生子)
『 煩悶、興奮、反省、嘆息、まことに見事な連作、全く見事なロマンチシズム
  女性の恋愛心理に対する理解の深さは文学精神でもある』 (犬養孝)

と最大限の評価がなされております。
然しながら、万葉最古の歌にしては、あまりにも流暢な調べのため、
「作者は本当に磐姫なのか?」との疑問が呈されており、伊藤博氏は

『 心情の流れを漢詩絶句の起承転結に託する高度な技法がその頃に存在したはずがない。
ここには誰か埋もれた作者が必ずいる。
その人が新旧さまざまな歌を組み合わせて磐姫皇后が夫、仁徳天皇を偲ぶ歌として
仮託したもの。
そしてその演出者は柿本人麻呂ではなかろうか?
何故ならば、短歌四首を起承転結構えに仕立てることを試み、また、
自然現象の「霧」を人間の悲しみや、はかなさを言う為の素材として用いたのは
人麻呂が最初の人だからである 。
元々民謡のように歌われていたものが歌物語風に編集されたのではなかろうか 』
 (万葉集釈註より要約) と推定されています。

ところが、もう一つ大きな疑問があります。
古事記、日本書紀によると磐姫は異常なくらい嫉妬深い女性だったようです。

曰く『 他の妻妃たちが天皇に対して普段と違った物言いをすると「足もあかがに」
(地団太ふんで) 妬んだ。
曰く『 吉備国から召された黒姫は磐姫の嫉妬に耐えかねて実家に逃げ帰った』
そしてさらに決定的な事件は
『 宮中で大宴会を催すことになり、皇后はそれに必要な柏の葉を採りに遥々(はるばる)
紀州にまで出かけた。
その留守中、天皇はかねてから執心の異母妹八田皇女(やたのひめみこ)を
こっそり宮中に入れた。
その事実を知った皇后は柏の葉を全部海に捨て、そのまま天皇のもとに帰らず
山城の帰化人のところに身を寄せ、再三迎えに来た天皇に逢うことも拒絶し、
そのまま夫を許すことなく五年後にその地で生涯を終えた 』

と記されているのです。

歌では貞淑、献身的で情熱的ではあるがつつましく、しおらしい磐姫
記紀ではねたみ深く、独占的で、威圧的な女性。
一体これはどうしたことでしょうか?

「愛情」と「嫉妬」とは表裏一体。
愛情深ければ嫉妬もまた強いことも一面の真理です。
万葉人は磐姫を生き生きとした人間らしい理想の女性と憧れたのでしょうか。
伊藤博氏は
『 磐姫の嫉妬は、彼女が臣下、葛城氏の出身で皇族の八田皇女と比べて
格が低い点に一つの由来があろう。
有史以来はじめて人臣の出身で皇后になるという経験をもつ磐姫にとっての
保身の術は、嫉妬しかなかったかもしれない。
しかしながら、それは天皇への深い愛情に根づいているだけに、
どんなに強烈であっても最も安心できる戦術であったのではないか。」と
磐姫の心情に深い理解を示しておられます。

然しながら更にもう一つ大きな謎があります。
それは冒頭の磐姫の歌とほぼ同じ歌が記紀歌謡に別の作者のものとして記されて
いるのです。
以下は二首の比較です。

「 君が行(ゆ) 日(け)長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  
          万葉集巻2-85 磐姫皇后(いはのひめ おほきさき)

「君がゆき け長くなりぬ 山たづの
   迎へを行かむ 待つには待たじ 」   軽大郎女 記紀歌謡


充慕天皇の皇女である軽大郎女の歌は、厳禁されている同母兄、木梨軽皇子との結婚に
走り、二人して心中に追いやられた悲恋物語とされているものですが、
磐姫歌とたった五文字入れ替わっているだけです。
なぜこの様な盗作まがいのことがおきたのでしょうか?

実は、磐姫の歌には「山上憶良が類聚歌林に載す」との註があり、憶良は軽大郎女の歌を
意識的に磐姫作に置き換えたのではないか?と憶測されているのです。

直木孝次郎氏はその著「夜の船出」で
『 憶良は聖武天皇の東宮時代、学問の相手をつとめていた。
彼は軽大郎女作とされている歌を磐姫の作とすることにより、藤原氏が皇族でない
光明子(不比等の娘)を聖武天皇の皇后にする手助けをしたのではないか。
その為に記紀の嫉妬深い猛妻の磐姫像から貞淑でつましい理想の女性への転換を
はかった。
そして、藤原氏は万葉集巻二の巻頭に置くよう編集させたのではなかろうか 』
と述べておられます。

民謡で歌われていたものに最後の一首を加えて歌物語に仕立てたあげた柿本人麻呂。
それをさらに政治的な意図をもって他人の作を磐姫作に置き換えた山上憶良。
果たしてこの憶測が真実であるかどうかは今となっては知る術がありません。

しかしながら、その経緯がどのようなものであっても、この四首の歌の価値はいささかも
損なわれることなく、古代の理想の女性― じっと耐えながら待ち続ける芯の強い大和撫子が
「ただ私一人だけを愛して」と切なく詠った恋歌として多くの人たちに愛誦され続け、
今もなお燦然と光を放っているように思われるのです。

「 人恋ふは 悲しきものと
    もとおり来つつ  たえ難かりき 
  いにしへの  夫(つま)に恋いつつ
    平城山の路(みち)に 涙おとしぬ 」
                       ( 北見志保子作詞 平城山 )


( 作者は磐姫の歌をもとにして自身の恋を重ねたものとされている )
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by uqrx74fd | 2011-05-22 10:26 | 心象

万葉集その三百十九(桐の琴をお贈りします)

729年のことです。
大宰府長官大伴旅人は朝廷の要職にあった藤原房前(ふささき:不比等の第二子 参議)に
梧桐(ごどう)で作られた琴を贈るにあたり歌二首を添えた書状をしたためました。
梧桐とは一般的には青桐(アオギリ科)とされていますが、文学作品では普通の桐
(ゴマノハグサ科)をいうことが多いようです。

書状は旅人が夢に見た琴の精である乙女との会話から始まります。

『 この悟桐製の日本琴(やまとこと)は対馬の結石山(ゆひしやま)の
  孫枝(ひこえ:根もとの脇から生えた枝) から作られたものです。
  この琴が夢で乙女になって現れ、こう言いました。

「 私は遥か遠い対島の高い峰に生え、大空の美しい光に幹をさらして育ちました。
  いつもまわりを雲や霞に取り囲まれ、山や川のもとで遊び暮らし、
  遠く海の風波を眺めながら、伐られるか伐られないか分からないまま
  立っていました。
  ただ一つ心配なことは、このまま長い歳月を経たのち寿命を終え、
  空しく谷底に朽ち果てることでございました。
  ところが幸いにも立派な工匠(たくみ)にめぐり合い、伐られて小さな琴に
  なることができたのです。
  音は粗末で響きも悪うございますが、いつまでも徳の高いお方のお側に
  置いて戴けることを願っております。 」

このように語った乙女は次のように詠いかけました。
 
「 いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ
    人の膝の上(へ) 我が枕かも 」    巻5-810 大伴旅人


( いつ、どんな時になったら、この琴の音を知ってくださる人の膝の上で、
  膝を枕に横たわることができるでしょうか。)

そこで私も歌で答えました。

「 言問わぬ 木にはありとも うるはしき
    君が手(た)馴れの 琴にしあるべし 」   巻5-811 同上


( 物を言わぬ木であっても、お前はきっとすばらしいお方の寵愛を受ける琴に
  なることができましょう。)

すると乙女は
「つつしんでご親切なお言葉をうけたまわりました。
 ありがたいきわみでございます。」と答えたのです。

私はふと目が覚めて、しみじみと夢を思い、乙女の言葉に感じ入って
じっとしていることができません。
そこで公用の使いにことづけて、その琴を御進呈申し上げる次第です。 』

それから1ヶ月後、房前から礼状が届きます。

『 謹んでお便りを拝受いたしました。
  ただただ、喜びでいっぱいでございます。
  お琴をお贈り下さった御志がいかに厚いか、この卑しい身に痛感いたしました。
  お会いしたいという気持が常日頃の百倍でございます。
  はるか白雲の彼方から届いたお歌に和し、拙い歌を奏上いたします。
  房前、謹んで申し上げます。

「 言とはぬ 木にもありとも 我が背子が
    手馴れの御琴(みこと)地に置かめやも 」 
                 巻5-812 藤原房前


( 物言わぬ木であっても、あなたさまのご愛用の琴です。
決してわが膝から離すようなことはいたしません。)    』

この一連の手紙のやり取りから古代貴族の社交の様子が窺われます。
旅人の文章は中国の文献「遊仙窟」など故事を下敷きにしており、
その豊富な知識を縦横無尽に駆使して練り上げられたものです。
それを十分理解できた藤原房前も相当な知識人であり、この礼状を受け取った
大伴旅人はさぞ満足したことでしょう。

以下は「大岡信著 私の万葉集(講談社現代新書)」からの抜粋です。

『 人に贈物をするのに、ただ物を届けるのではなく、いかにも相手が喜びそうな
  因縁ばなしを創作してこれにつけるというのが、当時の貴族の風習だったことが
  わかります。 
  相手が当然それを理解しうることが前提となりますから、相手に教養(この場合は
  中国の文物に通じていること)がなければ無意味な気取りに過ぎなくなります、
  逆に相手がこのジエスチュアを理解できる人であれば、親しみと敬意の表現として
  最高のものになるわけです 』

この贈り物が功を奏したのでしょうか。
一年後、大伴旅人は昇進し、念願の都への転任を果たしました。

「 桐の花 露のおりくる黎明(しののめ)に
         うす紫の しとやかさかな 」 木下利玄

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by uqrx74fd | 2011-05-15 08:10 | 生活

万葉集その三百十八(よき人よく見)

697年のことです。
天武天皇は皇后(のちの持統天皇)および六人の皇子達を伴い、吉野離宮に行幸されました。
その目的は、自ら体験した皇位継承をめぐる骨肉の争いが再び起きることがないよう
各々に誓約させて結束を固めることにあり、その場所に壬申の乱の旗印を掲げた地を
選んだのです。

従った皇子は、草壁(18歳)、大津(17)、高市(たけち:26)、河嶋(23)、忍壁(おさかべ:15?)、
芝基(しき:15?)の6人。
数多い皇子の中でも皇位継承の可能性がある人たちです。
皇子の宮廷における序列は年齢順ではなく、母の身分の高下などを考慮に入れて
決められており、草壁は天皇、皇后の実子であるだけに序列第1位は当然のことと
されていました。

然しながら、確固たる皇位継承の原則が確立していない当時、草壁が筆頭というものの
再び争いが起きないとも限りません。
戦乱で有力豪族の力が衰え、皇位を手にした天皇に権力が集中したとはいえ、
皇族の複雑な権力関係がいまだに存在し、とりわけ、人格、能力抜群の誉れ高い
大津皇子の存在も無視できないものがあったのでしょう。
ましてや草壁皇子は蒲柳の質の上,凡庸との評もあり、なおさらのことでした。

天皇の誓約要請にたいして、まず草壁が進み出て、
「皇子十余人、おのおの異腹の生まれですが一同、心を合わせて天皇の勅(みことのり)に
そむくことなく協力してまいります。
もし今後、この盟(ちかひ)に反するようなことがあれば、身命(いのち)亡び、
子孫(うみのこ)が絶えることも覚悟いたします。
そのことを決して忘れず、また違背することもありません。」

と声高らかに宣誓し、続いて他の5皇子も同じ誓いを述べました。

天皇は襟をひらいて6人の皇子を抱き
「もしこの盟(ちかひ)に違(たが)はば、たちまちにして朕(わ)が身が亡(ほろぼ)される
ことであろう」と宣(のたま)い、最後に皇后も
「これからは、おまえたちを同じ母から生まれた子として慈(いつく)しもう」と
盟約されたのでした。

我が子草壁の皇位継承を万全なものとする思惑があった天皇、皇后は儀式が滞りなく
無事に終わると、安堵の気持を抱かれたのでしょう。
宴の席に着くや天皇は上機嫌で高々と詠われました。

「 淑(よ)き人の よしとよく見て よしと言ひし
    吉野よく見よ 良き人よく見 」   巻1-27 天武天皇

原文 「 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三 」
 

( 昔の立派な人が、よい処としてよく見て「よし(の))」と言った 
 この吉野をよく見るがよい。 
 今の良き人よ よく見よ。 )
   
形容詞「よし」を「淑」「良」「吉」「好」「芳」「吉」「良」「四来」と
異なる文字で表記し、「よし」を8回、見るの「み」を3回繰り返しています。
リズミカルな響きをもった呪文のようなこの歌は歌いやすく、皇子達の記憶にも
強く残ったことでしょう。

「よし」の漢字はすべて佳字を当てており、そのうち最高の佳字は淑。
「淑人」を「よきひと」と訓むのは中国の古典、詩経の「淑人君子」の注解
「淑は善(よき)なり」によるものとされ、「立派な徳ある人」の意とされています。

この歌での「淑人」は天皇、皇后をさし、「良き人よく見」の「良き人」は6皇子を
暗示しています。

懸案事項が無事解決し、晴れ晴れとした開放感にひたり、文字を自由自在に操った
天皇の得意満面の表情が彷彿とされてくるような一首です。

然しながら、その7年後天武天皇が崩御されて1ヶ月もたたないうちに
大津皇子が謀反の疑いで処刑されます。
草壁皇子を天皇に立てるため、強力なライバルを早々と葬った持統天皇の陰謀とも
いわれる事件です。

ところが歴史は皮肉なものです。
689年、草壁皇太子は即位することなく28歳で急逝しました。
後継の軽皇子はわずか7歳。
やむなく持統天皇の庇護のもと皇子の成長を待ち、8年後の697年にようやく
15歳の文武天皇が誕生しますが、702年に強力な庇護者持統女帝が崩御。
そして、その文武も病弱で707年、在位10年にして崩御してしまうのです。
奇しくも残された文武の嫡男、首皇子(おびとおうじ)も701年生まれの7歳で
父親と同じ運命を辿ります。

持統天皇崩御後は、草壁皇太子の妻(天智天皇の娘)が元明天皇として立ち、
707年、元明の娘であり、文武の姉でもある元正天皇に即位します。
持統、元明、元正と三代の女帝が続いたのは、ひとえに、当時7歳の
首皇子の成長を見守り、男系の皇統を維持せんがためでした。
そして、皇子が聖武天皇として即位するのは父、文武崩御17年後の724年、
24歳のことでした。

  「 蕗(ふき)の薹(とう) 吉野離宮の 跡に摘む 」   吉年虹二
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by uqrx74fd | 2011-05-08 19:46 | 生活

万葉集その三百十七(竹の秋)

「 我が庭の 風に音あり 竹の秋 」  コンラッド メイリ

野山の草木が緑の若葉に萌えたつ頃、竹の葉は地中の筍に養分を送るため黄色くなり、
それが他の草木の秋のありさまに似ているので、竹の秋とよばれます。
そして、古い葉が若葉と入れ替わると共に、筍がむくむくと土を破って顔を出すのです。

「 我がやどの いささ群竹(むらたけ) 吹く風の
   音のかそけき この夕(ゆふへ)かも 」
              巻19-4291 大伴家持


( 我家の庭の小さな竹林に夕方の風が吹いて幽(かす)かな音をたてている。
 なんとも物寂しいこのひとときよ )

753年4月(旧暦)の初めに詠まれた三連首のうちの一。
数ある家持の歌の中でも特に秀作とされているもので、

「景情融合の極限に達した作、現代語に訳してしまうと味わいを失すること
 最も著しい歌の一つ」(伊藤博)
「まさにこの歌はバイオリンの細かい旋律を聞くみたい。震えるような心」(犬養孝)
とも評されています。

庭の一隅のわずかな竹林に一陣の風が吹き渡ってゆく。
作者の研ぎ澄まされた神経に微かに聴こえてくる風の音。
それは揺れる竹の葉であるとともに家持の心の揺らぎでもあります。

誰もが浮き浮きとした気分の麗(うら)らかな春日であるにもかかわらず、
晴れやらぬ気持で一人孤独を感じている。

時の朝廷は藤原仲麻呂全盛の時代。
後ろ盾の聖武天皇、橘諸兄亡きあと、大伴家の没落はもはや押しとどめる術がありません。
苦悩の果て、生きる力を歌の世界に求める作者です。

「さす竹の 大宮人の 家と住む
     佐保の山をば 思ふやも君 」 巻6-955 石川足人


( 奈良の都の大宮人たちが自分の住処としている佐保の山。
 あなたさまは、その山あたりを懐かしんでおられることでしょうね。 )

作者、都への転任にあたり、時の大宰府長官大伴旅人が設けた送別の宴での一首。
「さす竹」の「さす」は芽生える、勢い良く伸びる意の枕詞。
「家と住む」には「我が家の庭のように馴染んだ佐保の山々」という気持が
込められています。
佐保は大伴家の邸宅の所在地。作者は後に残る旅人の気持を思いやったのでしょう。

「植ゑ竹の 本(もと)さへ響(とよ)み 出でて去(い)なば
   いづし向きてか 妹が嘆かむ 」 
                巻14-3474 作者未詳


( 門辺に植えた竹の根元さえ揺るがすばかりに騒々しく旅立ってしまったならば
  妻はどちらを向いて嘆くことであろうか ) 

突然の旅立ち。作者は防人に指名されたものと思われます。
行く先は大宰府か対馬か? 生還も定かならない旅です。
それなのに、送別騒ぎの最中で妻ともゆっくりと別れの言葉も交わせない。
「 残された彼女は大丈夫だろうか」と思いやる夫です。

この歌の「植竹」は家庭で竹を植え、筍を食用にしていていたことを窺わせます。

「 筍に木(き)の芽をあえて祝ひかな 」  正岡子規

『 古代のタケノコは旬の食材で、近くに竹林のある家では、春には旬の味を
  味わうことができた。
 「和名抄」はタケノコを「味甘く無毒、焼いてこれを服す」と解説するので
  薬効を目的として焼いて食べることもあったらしい。
  この時代の竹はマダケで、地方によっては笹類のタケノコを食用にするのは
  万葉時代も同様だろう。
  魏志倭人伝も「竹林、叢林(そうりん)多し」と伝える古代日本はタケノコ類の
  採集には事欠かなかったようである。 』
         ( 広野 卓著 食の万葉集より要約 中公新書)

「 松風に筍飯をさましけり」   長谷川かな女

『 京都周辺、乙訓(おとくに)の向日町あたりの竹の子は、土壌が水を包んだ
  粘土質であることと、施肥と抜草して手塩にかけて栽培されているために、
  他の地方の産とは比較にならぬほどおいしい。
  あのあたりの竹薮は孟宗竹で手入れのゆき届いた、草一本ない見事な竹薮である。
  (中略)
  竹の子は、ゆず、木の芽、紫蘇、ミヨウガ、ねぎ、うど、フキ、春菊、松茸などと
  ともに、いわゆる「香りをたべる」材料である。
  これらは、季節の到来を告げる香りであると同時に、その苦味、辛味、渋味、
  滋味を賞するもので、甘味や酸味の少ないところをみると、どうやら男の好む味に
  通じるものがあるといわねばならない。
  竹の子は「竹の香り」を食べ、「竹の感じ」を賞する季節料理の筆頭格であろう。
           ( 楠本憲吉 たべもの歳時記 おうふう)

     「 筍の光放ってむかれけり 」 渡辺水巴
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by uqrx74fd | 2011-05-01 20:00 | 植物