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万葉集その三百四十七(榛:はり=ハンノキ)

( ハンノキ  植物図鑑 山と渓谷社より)
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( ハンの垂れ花  万葉植物事典 クレオ社)
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   「 何の木も いまだ芽吹かぬ 山峡(やまかい)の
       林の中の 榛の垂り花 」    森山汀川


『 畑には ようやく芽を出しかけた桑、眼もさめるように黄色い菜の花、
 げんげや菫(すみれ)や草の生えている畦(あぜ)、遠くに杉や樫の森に囲まれた
 豪農の白壁も見える。- -
 ひょろ長い榛(はん)の片側並木が田圃の間に ひとしきり長く続く。
 それに沿って細い川が流れて萌(もえ)だした水草のかげを小魚が
 ちょろちょろ泳いでいる。 』
              ( 田山花袋 田舎教師 新潮文庫より )

古代「榛」(ハリ)とよばれた「ハンノキ」はカバノキ科の落葉高木です。
湿った低地や河川沿いに群生し、早春、葉に先立って暗紫褐色の花穂を下に垂らして
咲かせ、花後、松かさ状の小さな実をつけます。
日本列島いたるところに自生し、稲作が広まると収穫後木に架けて稲穂を干すために
田の畔に植えられ、農家の人たちはこれを稲架木(ハサギ)とよんでいました。
樹皮と実は染料にし、後世になるとタンニンを抽出して女性の鉄漿(おはぐろ)などにも
用いたそうです。

「 いざ子ども 大和へ早く 白菅(しらすげ)の
   真野の榛原 手折りて行かむ 」 
                   巻3-280 高市黒人


( さぁ、皆の者よ!
 この白菅の生い茂る真野の榛の林の小枝を記念に折り取って大和へ早く帰ろう。)

いざ子ども: まわりの者に呼びかける言葉 
真野:神戸市長田区真野町、東、西、尻池町一帯

作者は妻、従者を引き連れ、公用で摂津の国を訪れていたようです。
その帰途、白菅 (カヤツリグサ科の菅の一種。葉は白色を帯びた緑色) が生い茂る中、
ハンノキが群生しているところを通りかかり、酒宴となりました。
おそらく紅葉の美しい時期だったのでしょう。

何度もこの地を訪れている黒人はもう見飽きたのか、すぐにでも都へ帰りたいという
気持ちを抑えかね「大和へはやく」と口に出したところ妻が詠います。

「 白菅の真野の榛原 行(ゆ)くさ来(く)さ
    君こそ見らめ 真野の榛原」 
              巻3-281 高市黒人の妻


「行くさ来さ」:いつも行き来して

妻にとっては初めての旅で見るもの聞くものすべて珍しく、
また、新鮮に感じられたのでしょう。
そこで

( あなた様は当地に何度もいらして見慣れておられるのでしょうけれど、
 私にとっては見るもの聞くもの目新しいことばかり。
 めったにない機会なのですから、そんなに急がないで、この楽しい時間を
 心ゆくまで過ごさせてくださいませ。)

と夫に甘えたのです。

仲の良い夫婦のほほえましい旅の一幕です。

「 いにしへに ありけむ人の 求めつつ
     衣(きぬ)に摺(す)りけむ 真野の榛原 」 
                    巻7-1166 作者未詳


( ここは遠い昔、どなたかが榛の実を探し求めて、衣を摺り染めにしたという
  真野の榛原ですよ。)

「いにしへにありけむ人」は高市黒人の歌も踏まえているのでしょうか。

当時、真野の榛原は風光明媚な所として知られていたとともに、「衣に摺りけむ」
つまり、ハンノキで衣を染めていたことが窺われます。
また、古人が「土地の女性を求めて我がものとした」ことも暗示されているようです。

「 雲よりも 淡きいろする 榛(はん)の木の
          若葉の山に 君と来しかな 」与謝野晶子


ハンノキは染料として重用されました。
樹皮と干して砕いた実を煮立てて、灰汁(あく)を触媒に用いると茶系統色、
鉄分を用いると黒色に染まるそうです。

以下は染色家 志村ふくみさんの「一色一生」(講談社学芸文庫)からです。

『 釜に湯をわかし、木の皮を炊き出しました。
  熱するに従って、透明な金茶色の液が煮あがってきました。- -
  榛の木は熱湯の中ですっかり色を出し切ったようでした。

  布袋で漉(こ)して、釜一杯の金茶色の液の中に、純白の糸をたっぷりつけました。
  糸は充分色を吸収し、何度か糸をはたいて風をいれ、染液に浸し、糸の奥まで
  しっかり浸透させた後、灰汁(あく)につけて媒染しました。
  発色と色の定着のためです。

  糸は灰汁の中で先刻の金茶色から赤銅色に変わりました。- -
  それは榛の木の精の色です。
  思わず、榛の木がよみがえったと思いました。- - 

  色はただの色ではなく、木の精なのです。
  色の背後に、一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです。』


「 火のごとく 榛(はり)の木(こ)の葉は かがやきぬ
       落日をみる ひとりの少女 」    吉井勇

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by uqrx74fd | 2011-11-27 07:55 | 植物

万葉集その三百四十六(筑波山に登る)

( 筑波山遠景)
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『 「常陸風土記」によれば関東諸国の男女は、春花の咲く頃、秋紅葉の節、
  相たずさえて登り、山上でご馳走を拡げ、歌をうたって舞い楽しみ、
  そこで夜を過ごす者もあった。
  筑波山へ登ってその会合で男から結婚を申し込まれないような女は、
  一人前ではないと言われさえした。
  わが国では宗教登山が最初のように言われるが、筑波山のような大衆の
  遊楽登山も早くから行われていたのである。 』
               (深田久弥 日本百名山 朝日新聞社より)

数多い万葉歌人の中でも異色の存在とされる高橋虫麻呂の出身は常陸国だそうです。
当時、国守であった藤原宇合(うまかい)にその才能を買われて官人となり、
常陸国風土記の編集にも携わったと推定されています。
もしそうだとすれば、筑波山は虫麻呂にとって懐かしい故郷の山であり、夏や秋の登山、
歌垣など多くの歌を特別な思い入れを持って詠ったのも当然のことと思われます。
まずは、秋の筑波登山の歌です。

  「夏の登山」(9-1753、1754) 、「嬥歌(かがい)=歌垣」(9-1759、1760) 

「 草枕 旅の憂へを慰もる こともありやと 
  筑波嶺(つくはね)に登りて見れば  

  尾花散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 
  雁がねも  寒く来鳴きぬ 
  新治(にひばり)の 鳥羽の淡海(あふみ)も
  秋風に 白波立ちぬ

  筑波嶺の よけくを見れば
  長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し憂へはやみぬ 」 
                                 巻9-1757 高橋虫麻呂

訳文:
( 草を枕にしての旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、
 筑波嶺に登って 見はるかすと
 尾花の散る師付の田んぼには
 雁も飛来して寒々と鳴いている
 新治の鳥羽の湖にも 
 秋風に白波が立っている
 筑波嶺のこの光景を目にして
 長い旅の日数に積もっていた憂いは 跡形もなく鎮まった。)

(語句解釈)
「師付(しつく)」: 筑波山東方の山麓、現在の下妻、下館、石岡、土浦市近郷
「新治(にひばり)」: 広く筑波山一帯をさす。
「田居」:   たんぼ
「鳥羽の淡海」: 筑波山の西側、今の真壁郡の南部、小貝川と鬼怒川の間にあった沼沢、
           現在は田園地帯となっている

古来、山で詠うのは、「国土賛歌」、「山の神を讃える」「遠くにありて家を想う」
というのが習いでした。
ところが、虫麻呂は憂さ晴らしに山に登ったと詠っています。

このような万葉歌人は彼以外には見当たりません。
さらに、この歌は平易な表現ながら心情が芭蕉や夏目漱石の境地に通じるものがある
とも指摘(中西進)されており、虫麻呂研究にとって重要な資料とされているのです。

まず、歌は
「 旅の憂へを慰もる こともありやと 」
その成果にあまり期待していないような表現からはじまり

「 尾花散る 師付の田居に 雁がねも寒く来鳴きぬ 」
「 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に白波立ちぬ 」 と

筑波登頂の途中で目にしたであろう東方の田野、頂上での眼前の西方の湖と
東西の景観を対比させます。

その景観たるや「 尾花が散り、雁が寒々と鳴き、秋風に白波が立つ湖水 」という
紅葉の華やかさとは程遠いもので、その寂寥たる風景を見て虫麻呂は積年の憂さが
晴れたというのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。

以下は中西進氏の解説です。(旅に棲む 中公新書より要約)

『 風は白波が立つのだから決して微風などではない。 
湖面に吹きつけ、湖面を騒がせて吹きすぎる風である。
雁がねも寒々としているなら、秋風も蕭条(しょうじょう)と吹きわたっている。
 尾花、白波、白の景 芭蕉の

「 海暮れて 鴨の声ほのかに白し」

を引き合いに出すまでもないが、豊穣を予祝するどころではなく、
また遠く家人を思うといったものですらない。
いま天地寂寥の相と出会ったのである。
そして彼はその体験を「よけくを見」「思い積みこし」憂いがやんだと語る。

それは寂寥の風景が、心の憂情とよく調和した。
心に抱いていたものと同質のものを風景の中に発見したのではないだろうか。
心の寂寥と景の寂寥との共鳴、心と景との調和に達して虫麻呂の心の憂情は
やんだのではないか。

それは自然との照合といってもよいだろうか。
漱石の「則天去私」。
より大きな一つの宇宙に生きて、私を個別を去るという境地は、
いまの虫麻呂の感じているものと似通っているのではないか。
天に則(のっと)るといってもよい。 』
  
筆者註: 「 海暮れて 鴨の声ほのかに白し」(芭蕉)

( とっぷりと暮れた中で水上はまだ薄明を漂わせている。
  その仄白さの中で鳴く鴨の声を作者は白いと感じた。
  白しには「顕(しる)し」と「白秋」すなわち「秋深み」の意も含む)

「 筑波嶺の 裾(すそ)みの田居に 秋田刈る
    妹がり遣(や)らむ 黄葉(もみち)手折らな 」
                     巻9-1758  同上

訳文:
( 筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っている可愛いあの子に
   あげるために 紅葉を手折っていこう  )

自ら孤独を求めて旅を続けた虫麻呂。
でも、結局は人間のもとに戻ってきました。
ただ、この歌の妹は想像上の人間、山を登る時に見かけた乙女を美化したようです。

彼の歌には魅力的な女性が多く登場します。
ところが、自らの恋の歌は一首もないのです。
愛に飢え、女性願望が強かった虫麻呂は理想とする女性を頭の中で描き、
それを友として旅を続けていたようです。
このような虫麻呂の心情を犬養孝氏は「漂泊する魂」と表現されています。

人懐かしさを求めながらも、現実の人間ではなく自ら作り上げた人間に
心惹かれた虫麻呂。
それは、彼にとって唯一の魂の救いどころだったのでしょうか。

「夕されば むらさき匂ふ 筑波嶺の
      しずくの田居に 鶴鳴きわたる 」 長塚節


「むらさき匂ふ」は古来、筑波山は「紫峰」と称されていたことをふまえたもので
虫麻呂の歌を本歌取りしています。
茨城県結城郡で生まれた作者は、朝夕筑波山を仰ぎながら虫麻呂を想ったことでしょう。

「 赤蜻蛉(あかとんぼ) 筑波に雲もなかりけり 」正岡子規
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by uqrx74fd | 2011-11-18 20:39 | 心象

万葉集その三百四十五(御蓋山:みかさやま)

( 御蓋山 後方は春日山 )
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( 能登川 春日山原始林にて)
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御蓋山は奈良市の東部、高円山と若草山との間にある山で、春日神社に接し
神域の一部をなしています。
円錐形の山容が笠に似ているところから三笠山とよびならわしましたが、
後年、隣りの若草山が三笠山とよばれたので混同を避けるため「御蓋山」と書き、
「おんかさやま」とよぶ人もいます。

標高283mの小山ながら万葉人は春日山と共にご神体として崇め、山の背後から上る
朝日を拝み、折につけ麓を逍遥して桜や新緑、紅葉を楽しみ、月を愛でて多くの歌を
詠みました。
御蓋山は平城京のシンボルだったのです。

「 春日にある御蓋山に月の船出づ
   風流士(みやびを)の飲む酒坏(さかづき)に 影にみえつつ」

    巻7-1295 作者未詳 :旋頭歌 (既出 133後の月)


( ここ春日の御蓋山に月が出ました。まるで船のようですね。 
 おやおや、我ら風流人が飲む杯にまでお月さんが映っているぞ。)

官人たちの月見の宴での歌ですが、月の船は三日月なのでしょうか。
自らを風流人を称したこの優雅な作者は、杯に映った月を詠むという今までにない
新しいセンスの持ち主です。

「 雨隠(あまごも)る 御蓋の山を高みかも
    月の出で来ぬ夜は更けにつつ 」

      巻6-980 安倍虫麻呂(大伴坂上郎女の従兄弟)


( 御蓋の山が高いからか、月がなかなか出てきてくれませんね。
  もう夜も更けようとしているのに )

「雨隠る」は雨の時に蓋(傘)の下に隠れるの意で御蓋山の枕詞
御蓋山はそれほど高い山ではありませんが、その背後の春日山が高いので、
なかなか月が姿を見せません。
待ち焦がれているじれったさが感じられるような一首です。

「 しぐれの雨 間(ま)なくし降れば御蓋山
    木末(こぬれ)あまねく 色づきにけり 」

     巻8-1553 大伴稲公(いなきみ:家持の叔父)


( 時雨が休みなくふるので御蓋の山は木々の先まで
すっかり色づいてきました)

山の紅葉を時雨のなせるわざとみて喜んだ歌です。
繊細な目で季節の移り変わりを敏感にとらえており、もはや古今和歌集の
世界に近い調べが感じられます。

「 能登川の水底さへに照るまでに
        御蓋の山は咲きにけるかも 」
               巻10-1861  作者未詳


( 能登川の水底まで照り映えるほどに、御蓋の山の花は美しく咲き満ちています。)

花は桜と思われますが正確なところは不明です。
能登川は春日山の奥を源流とし、高円山と御蓋山の間を流れて佐保川に合流しています。
その流れ出る水は聖水とされました。

「 天の原 ふりさけ見れば春日なる
          三笠の山に 出でし月かも 」 

         安倍仲麻呂 (古今和歌集:百人一首)


( 大空ははてもなく東へかたむく
 ふりあおげば夜空は円く
 鏡のような月がかかって- -
 ああふるさと 春日なる三笠の山
 かの山にさしのぼっている同じ月を
 私は今この遥かな岸にみつめている 
       訳文: 大岡 信  百人一首  講談社文庫より )

古今和歌集の詞書によれば、唐に留学していた作者が日本への帰国の旅の途中、
明州(現在の寧波:ニンポー)で友人達が別れの宴を張ってくれた時に
この歌を詠んだとあります。
大らかな調べ、雄大な景観、郷愁を誘う名歌として多くの人々の口にのせられた
一首です。

安倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生で、弱冠16歳にして716年、遣唐使
多治比県守(たじひのあがたもり) の船で吉備真備らとともに入唐しました。

当時、唐は玄宗皇帝の時代で隆盛をきわめており、仲麻呂は中国名を晁衡(ちょうこう)と
名乗って玄宗に仕え寵愛を得て活躍し、また、盛唐の代表的詩人、李白、王維とも
交遊したといわれています。

憧れの先進国で華やかなりし文化に身も心も魅了された仲麻呂は、唐に滞在すること
37年の長きにわたりましたが、さすがに老年になり故郷日本が恋しくなったので
しょうか。
 753年遣唐使藤原清河とともに帰国することになりました。

ところが、不運にも途中で嵐に遭遇し、難破して安南(ベトナム)に漂着。
再び唐に戻ることを余儀なくされた仲麻呂はついに帰国を断念して
政府高官に登りつめ73歳の生涯をかの地で終えたと伝えられています。

2004年10月のことです。
中国陜西省(シャンシ-)西安市で安倍仲麻呂と一緒に唐に渡った留学生の
墓誌が発見されたと大きく伝えられました。
没後1250年も経っているにも関わらず一留学生の墓誌が残っていたとは
奇跡的なことです。

その墓誌には
「 姓 井 字(あざな)は真成 国号 日本
 生来の才能あり、礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きなかったが、
突然の出来事により36歳で亡くなった。
皇帝はその死を悼み称号を贈って功績を讃え、盛大な葬儀を国費で行った。
多くの人が悲しんだが、日本の人々も悲しんでいるだろう。
遺骨は異国に埋葬するが魂は故郷に帰ることを願う。」

という意味の事が記されているそうです。
阿倍仲麻呂も当然その葬儀に立ち会ったことでしょう。

「飛べ麒麟」の著書で安倍仲麻呂の生涯を生き生きと書かれた辻原登氏は

『 仲麻呂はこの歌を詠んだとき、共に選ばれ一緒に唐にやってきて、
祖国のために奮励した親友 井 真成を葬った悲しみを胸に抱えていたのである。
  歴史的事実の新たな発見は、あまのはらの歌をより味わい深く、われわれを
  勇気づける響きを奏でてみせてくれる。』と述べられています。

        ( 安倍仲麻呂と井真成 別冊太陽 平城京所収 )
   
「仲麿は もろこし団子 にて月見」 ( 川柳 柳樽)

    中国の月見ゆえ唐土(もろこし)団子
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by uqrx74fd | 2011-11-12 20:44 | 生活

万葉集その三百四十四 (夕影)

( 手賀沼夕景 T.K氏 :親友の友人提供)
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( 露草と白露 )
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つるべ落としの秋の日ざし。
その中に残るほのかな光を昔の人は夕影とよびました。
ここでの「影」は「月影」と同じようにシャドウではなく光そのものを意味しています。
そして、この雅やかな言葉は私たちを紫に暮れ染まる美しい世界へと導いてくれるのです。

「 蔭草の生ひたるやどの夕影に
    鳴くこほろぎは 聞けど飽かぬかも 」
              巻10-2159  作者未詳


( 我が庭に夕方のかすかな光がさしています。
 おやおや、物蔭に生い茂っている草むらの中からコオロギの声が聞こえてきました。
 美しい音色、いくら聞いても飽きません )

  なんとなく侘しさを感じる秋の暮れ。
  目には見えない草陰の中で鳴くこおろぎ。
  深まりゆく秋色を感じさせる佳作で、
 「清純にして風韻に富み、いささかの感傷もないのが快い」(佐佐木信綱)一首です。

「 我がやどの 夕影草の白露の
    消(け)ぬがにもとな 思ほゆるかも 」
                  巻4-594 笠郎女


( 我家の庭草の上に置く露にかすかな夕光があたっています。
 この露がはかなく消えてゆくように、もう私も命が消え入りそう。
それほどに、あの方の事が思われてならないのです。 )

「夕影草」は作者の造語で、
「人麻呂の夕波千鳥に迫る美しさがある」(伊藤博)とも評されています。

「もとな」は「もうたまらなく、これ以上なく」の意で、
大伴家持に寄せる恋心を命あらんかぎりという気持で詠っています。

 暮れゆく中の幻想的な光を受けた草花とその上に置く白露。
胸の想いを精いっぱい訴えてもなんら応えてくれない、つれない男。
細ぼりゆく我が想いは露が消えてゆく儚(はかな)さのよう。
暮色立ちこめる情景と自身の恋情とが一体となった一首で、
『 誠に巧緻な表現。
  歌人として洗練され切った中から生まれてくるような歌』
  (犬養孝 万葉の人びと PHP) です。

「 我がやどの 秋の萩咲く 夕影に
    今も見てしか 妹が姿を 」   巻8-1622
        大伴田村大嬢(おほいらつめ) が妹 坂上大嬢に与えた歌


 ( 私の家の庭の秋萩が夕光の中で咲き乱れています。
  そんな美しい情景の中のあなたを今すぐにでも見たいものです。 
  おいでになりませんか )

都に住む作者から歌を贈られた坂上大嬢は当時、明日香の耳成山の麓、
竹田庄に住んでいました。
異母妹ながら互いに仲がよかったらしく、一刻も早く逢いたいという想いが
あふれています。

夕闇せまる光を背景にしてぼんやりと見える萩の花々。
その中に立つ妹のシルエット。
作者はそのような情景を瞼に思い浮かべながら詠ったのでしょうか。

「 風立ちて 夕かげ明し 刈り棄てに
   そこばくねかす 夏そばの花 」 北原白秋

    
(赤蕎麦畑 埼玉県 栗橋にて)
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by uqrx74fd | 2011-11-06 16:54 | 自然