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万葉集その三百五十一(うけら=おけら)

( 京都 八坂神社)
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( 同 おけら祭り )
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「うけら」は現在「朮(おけら)」とよばれ、北海道を除く本州、四国、九州の日当たりの
よい山野に自生しているキク科の多年草です。
春に摘まれる若芽は「山で美味いものは、“ウケラ”に“トトキ”(ツリガネニンジン)」
といわれているように、おいしい山菜の代表格とされています。
秋になるとアザミのような白や淡紅色の小さな花を釣鐘型の総苞(そうほう)の上に
咲かせ、枯れてもドライフラワーのように長く残るので花期がはっきりしない植物です。

「 わが背子を あどかも云はむ 武蔵野の
       うけらが花の 時なきものを 」
              巻14-3379 作者未詳


( あぁ、あの人にこの私の想いを何といったらよいのか。
 武蔵野のおけらに花時がないのと同じように、
 私も時を定めずいつも想っているのに。)

「あどかも」は東国の方言で「どのように」、「武蔵野」は「むざしの」と濁音で
発音していたようです。
 
地味ながらも長く咲き続ける「おけらの花」
その花のようにひっそりと男を慕い続けている女。
想いを男に言い表せないもどかしさ。
東国の可憐な女性の秘めたる恋心です。

「 恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の
     うけらが花の 色に出(づ)なゆめ 」 
                  巻14-3376 作者未詳


( 恋しかったら私のほうから袖でも振りましょう。
 あなたは武蔵野のおけらの花のように恋心を表に出したりなんかしないで下さいね。
 決して。 )

二人の仲をだれにも知られたくない女心。
男は人が大勢いる前で感情を抑え切れず、ついつい手を振ってしまったのでしょう。
当時、恋していることを他人に知られて噂になったら、二人の仲は終ってしまうと
信じられていたのです。

「武蔵野の うけらが花は 春駒に
      踏まれながらも 咲きにけるかも 」    安藤野雁 


ウケラはかってムラサキとともに武蔵野を代表する草花でしたが、今はどちらも
幻の花となってしまいました。

万葉集で詠われているうけらは三首あり、すべて東国のものです。
山野に住む人たちは、その若菜を摘んで和え物やおひたしにして食べたほか
根茎は利尿、解熱、胃腸などに効ありとされていたので漢方薬や屠蘇に用いていました。
また強い芳香があるので陰干しにし、梅雨の頃これを焚いて湿気や悪臭を
取り除いたり、邪気を取り払うと信じて一種の厄よけにもしています。

「白朮火(おけらび)の 風にみだれし 焔(ほのお)かな 」    田村ふみよ

京都の八坂神社の朮祭(おけらまつり)を詠んだものです。
大晦日から元旦にかけて神職が切った鑽火(きりび)で朮(おけら)を焚き、
篝火(かがりび)で邪気を払う行事です。

参詣者はその浄火を火縄に移し、消えないようにくるくる廻しながら持ち帰り
その火で雑煮を炊いて元旦を祝うと、厄災を逃れ無病息災に過ごすことが
出来るといわれています。
現在では竃(かまど)を使う家庭はほとんどないでしょうが、伝統ある行事として
受け継がれている年の暮れの風物詩です。

「まはさねば きゆる白朮火(おけらび) まはしつつ」     井上治憧
 
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by uqrx74fd | 2011-12-26 09:29 | 植物

万葉集その三百五十(もののあはれ)

( 雪月花 筑波の雪 )
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( 滝桜  福島県三春町  がんばれ東北 )
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『 「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。
  しからばその「もののあはれ」は何を意味しているのか。
  彼はいふ、「あはれ」とは「見るもの、聞くもの、ふるる事に心の感じて出る
  嘆息の声」であり、
  「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみ などいふたぐひの物にて 
  ひろくいふ時に添ふる語」である。
  従って「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」を
  「物のあはれ」を知るという。
  「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、
  おかしきこと、すべて嗚呼(ああ)と感嘆されるものを皆意味している。
  「あはれに嬉しく」「あはれにおかしく」というごとき用法は
  常に見るところである。 』
           ( 和辻哲郎 日本精神史研究 岩波文庫より)
 
「ものさびしい」「ものがなしい」「もの言い」「物にする」「物になる」
「もの心がつく」「ものわかりのいい人」「女ですもの」「急病になったもので」
「雨を降らせるもの」「もののけ」- - 。

 なんと「もの好きな」日本人よ!

「もの」という言葉は解明が非常に難しい日本語の一つとされています。
古代の人は具体的に識別できる物体のほか、あらゆる森羅万象や空漠とした
心の印象を「もの」とよんでいました。

「 世の中は 空(むな)しきものと 知る時し
    いよよますます 悲しかりけり 」
                    巻5-793 大伴旅人

( 世の中とは空しいものだと思い知るにつけ
 さらにいっそう深い悲しみがこみ上げてきてしまいます。)

727年、作者は大宰府長官に任ぜられ、筑紫に赴任しました。
その半年後、都から異母妹大伴坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂が他界したとの
知らせを受け、悲しみを込めてお悔やみを述べた一首です。

「世の中は空しきもの」は仏教用語「世間空」を翻案したもので、
人力の及ばぬ自然の摂理を「もの」という言葉で表現しています。

「 旅にして もの思ふ時に ほととぎす
    もとなな鳴きそ 我が恋まさる 」 
          巻15-3781 中臣宅守(なかとみのやかもり)


( 旅先にあって物思いに沈んでいるこんな時にホトトギスよ
  そんなにむやみやたらと鳴かないでくれ。 
  都恋しさがますます募るから )

作者は下級女官、狭野弟上娘子(さののおとかみのおとめ)を娶った直後、
勅勘の身となり越前に配流されました。
何の罪であったかは定かでありません。
新婚早々遠く別れ住む二人。
その恋の歌の数々は一大絵巻物語のようです。
ここでの「もの思ふ」は別れてきた新妻のこと、将来への不安など、
歩きながら次から次へと思い浮かんできたことの表現と思われます。

「 水鳥の 立たむ装(よそ)ひに 妹のらに
    物えはず来にて 思ひかねつも 」 
                   巻14-3528 作者未詳


( 水鳥が飛び立つ時のような慌しい旅立ちの準備にかまけて、あの子にろくに
物を言わずに出てきてしまった。 どうも心残りで仕方がない。)

遠国に旅立つ夫がその出発に際して当然妻に言うべき言葉
「体をいとい、子供をしっかり育て留守を守って欲しい」「親の世話を頼む」
「困ったことがあれば誰々さんに相談するように」など、
当然言い置くべきことがすべて「もの」に集約されています。

「 雁が音の 寒き朝明(あさけ)の露ならし
   春日の山を もみたすものは 」 
                          巻10-2181 作者未詳


( 雁の声が寒々と聞こえる。
 春日山をこんなに美しく色づかせるのは、朝明けの露なのだなぁ )

ここでの「もの」は自然現象を詠っています。
古代、紅葉(こうよう)を促進させるものは、時雨であり露であると考えていたのです。

一方、「あはれ」は「あ」+「はれ」で、ともに感動すると自然に発生する声から
生まれた言葉とされています。

「 - 卯の花の 咲く月立てば 
  めづらしく 鳴くほととぎす  
  あやめぐさ 玉貫(ぬ)くまでに  
  昼暮らし 夜わたし聞けど
  聞くごと 心つごきて 
  うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし 」
                巻18-4089(長歌の一部) 大伴家持


( - 卯の花の咲く月ともなると、
  愛らしく鳴くホトトギス
  あやめ草を薬玉に通す節句の日まで
  昼はひねもす 夜は夜通し聞くけれども 
  その声を聞くごとに 心がわくわくしてため息をつき
  あぁ、なんと趣深き鳥よ と 言わない時とてない )

作者はホトトギスを格別に好み、その初音を待ちわびる歌を多く詠んでいます。
 ここでの「あはれ」は「憐憫」の情ではなく「言葉に表せないほど心惹かれる」の
意で、万葉時代に早くも「もののあはれ」の感覚が芽生えていたことが窺われます。


『 「あっぱれ」という言葉がある。
  武将などが「いや、あっぱれな奴じゃ」などとつかう。
  おおむね男性的な言葉です。
  「あっぱれ」にくらべると「あはれ」は女性的です。
  しかし、実はこの「あはれ」と「あっぱれ」は同じ言葉をつかいかたを
  変えているにすぎません。
  貴族社会でつかわれた「あはれ」は季節のうつろいや人事や事物の有為転変を
  詠嘆するときの言葉です。
  いわば貴族の文化がみがきあげた感覚である。
  ところが、武士が登場し、政権が武門のほうに移る時代になると、
  清盛がその最初の代表なのですが、武士の棟梁たちも貴族の「みやび」が
  ほしくなり、さまざまに華麗を演じます。
  けれども武家がつかう「あはれ」はアワレとは発音しない。
  「あっぱれ」というふうに破裂音がともなう発音になる。
  それとともに「あはれ」というイメージをもう一段べつのところから詠嘆して
  みせる言葉になるのです。』
                           ( 松岡正剛 花鳥風月の科学 中公文庫より)
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by uqrx74fd | 2011-12-17 15:41 | 心象

万葉集その三百四十九(年内立春)

( 春告げ花 水仙 房総鋸南町 )
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( ふきのとう 青森ねぶたの里 )
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『 十二月の声が近づくと、もう年の瀬のあわただしさが頭にちらつきはじめる。

   「 一とせの暦を奥にまきよせて
      のこる日数の かずぞすくなき 」 藤原知家 (鎌倉時代の人)


  暦と言えば私たちは壁に掛ける日めくりやカレンダーを思い浮かべるが、
  古くをたどれば暦は巻物だった。
  日本での正式な暦の採用は千三百年ほど前、持統天皇四年(690)からと
  日本書紀は伝えている。
  百済から伝わった中国、宋代の元嘉暦だが、その後いくつかの中國暦を経て
  貞観4年(862)に施行された宣明暦は、そのままなんと800年以上も使われて、
  江戸時代に至った。 』
                        ( 海部則男 天文歳時記 角川選書 より)

「 み雪降る 冬は今日のみ うぐひすの
         鳴かむ春へは 明日にしあるらし 」
                巻20-4488  三形 王


( 白雪の降り敷く冬、その冬も今日で終わりです。
  鶯の鳴き出す春の到来は、もう明日に迫っているのですよ。)

757年12月18日に催された三形王の邸宅での宴歌で、「明19日が立春」と詠っています。
立春といえば2月の初めなのに、なぜ12月に到来するのでしょうか?
実は旧暦の「大の月」は30日、「小の月」は29日とされており、合計すると1年で
354日、つまり365日に11日足りません。
そこで、2~3年に1回、閏月(うるうづき)を置き、閏月がある年の1年は
13か月という暦になっていたのです。
記録などで年月が記載される時、閏8月とあるのは正規の8月に続きもう1回
8月が続いているということを示しています。
したがって、閏年あるいはその翌年に年内立春という現象が起きるわけです。
また、元旦1月1日が立春という年は19年に1度の割合で巡ってきたそうです。

「 あらたまの 年行(ゆ)き返り 春立たば
    まづわがやどに うぐひすは鳴け 」
             巻20-4490   大伴家持


( 年が改まって新しい春を迎えたなら、鶯よ!まず真っ先にこのわれわれの
  庭先で鳴くのだぞ )

三形王の歌に応じて詠われたもので、「春立たば」と暦の上での「立春」を
意識し、待ちに待った春の訪れを寿いでいます。

『 暦が貴族に使われるようになって初めて立春、夏至、春分などの節季が明確になり、
 暦に合わせたさまざまな節会で歌が盛んに詠まれたこともあって、
 歌人たちの意識に季節が大きく入り込むようになった。
 万葉集も初期には季節による分類はなかったが、大伴家持がはじめて四季による
 分類で巻18を編集した。』            ( 海部宣男 同 )

歌の世界における季節の分類は平安時代になると、さらに明確となり古今和歌集の冒頭
「春1」は有名な年内立春歌から始まります。

「 年の内に春は来(き)にけり ひととせを
         去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ」
               在原元方 古今和歌集

 
( 年内に早くも春がやってきたよ。
 今までの1年を今日からどう呼んだらよいのか。
 去年と言おうか、今年と言おうか。 )

詞書に「ふる年に春たちける日よめる」とあり、
   「ふる年」は古い年 「春たちける日」は「立春の日」で
   「ひととせを」は「同じ1年であるのに今までを」の意です。

大陰暦では元旦までに立春が来ることは当時としては珍しいことではありませんでしたが、
春が来たという喜びをこのようにやや誇張してはしゃいでいます。

この歌は正岡子規が痛烈に批判したことにより一層世に知られることになりました。

『 古今集といふ書を取りて第1枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」
  といふ歌が出てくる。
  実に呆れ返った無趣味の歌に有之候。
  日本人と外国人との合(あい)いの子を日本人とや申さん外国人と申さんと
  しゃれたるに同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候。 』
                          ( 歌よみに与ふる書 岩波文庫より)

      「 平凡を大切に生き去年今年 」  稲畑汀子
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by uqrx74fd | 2011-12-11 22:10 | 生活

万葉集その三百四十八(采女)

( 采女神社 奈良猿沢池前)
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(猿沢池にて)
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 采女とは地方豪族である国造(くにのみやっこ)が服属のしるしとして天皇に奉られた
 一種の人質で、その姉妹、子女の中から容姿端麗な女性が選ばれていました。
 また、国造は地方の政治だけではなく祭祀も司っていたので国造家の女性を
 采女として奉らせるということは朝廷が地方の祭祀権を掌握しその地域を支配する
 ことも意味しています。

 701年、大化の改新の詔により国造は郡司に任命され大領(長官)、少領(次官)となります。
 そして、采女も宮内省の管理下に置かれ水司(もいとりのつかさ)、
 膳司(かしわでのつかさ)という役所に属して天皇の食膳に奉仕する下級女官として
 位置づけられるようになり、中には従4位下の高級女官や本国の国造に出世したり、
 44年も勤続して80歳で退官した剛のものもいたようです。

 天皇に近侍する采女は、他の男性と縁をもつことを固く禁じられ、皇族といえども
 これに手をつけてはいけない、まして臣下からみれば雲の上の存在、憧れの女性
 だったのです。

「 采女の 袖吹きかえす 明日香風
      都を遠み いたずらに吹く 」 巻1-51 志貴皇子 (既出)


 采女のあでやかな姿を思い起こしている万葉傑作の一とされている歌ですが、
 作者もまた天智天皇と采女越智君の間に生まれた皇子でした。

 采女は天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、諸国から容姿に優れたものが
 献上されていたため、帝にみそめられて妻妾としての役割を果たすことも多く、
 子をなすものもいました。
 然しながら当時は母親の身分を重視する時代であったため、地方豪族出身の采女出生の
 子供は皇族や中央豪族の子に比べて低い立場に置かれていたようです。

日本書紀に
『 雄略天皇が采女とともに一夜を共にしたところ、女はみごもり女の子を産んだ。
 天皇は疑って自分の子と認めなかった。
 そこで大臣が「一夜にいくたびお召しになったのか」と聞くと
 天皇曰く「七回」。
 大臣「この子を産んだ采女は清い身と心を以って一夜をおつかえした。
    それをどうして疑うのか。」 
 そこで天皇はこの子を正式に皇女とし、母も妃とした。』 
というような逸話も残されています。

「 うちひさす 宮に行(ゆ)く子を ま悲しみ
       留(と)むれば苦し  遣(や)ればすべなし 」
               巻4-532 大伴宿奈麻呂(大伴旅人の弟)


( 宮仕えにいく子よ この子がいとおしくて仕方がない。
  引き止めるのは心苦しいし、そうかといって行かせるのもやり切れないことよ)

 「うちひさす」は「日が当たる」の意で宮の枕詞。  
 「ま悲しみ」は「ま愛しみ」の意。

 聖武天皇の采女として宮仕えに出かける大伴一族の女性を送る歌で、
 宮廷の内情に明るい作者が可憐な女性の行く末を思いやっている心情があふれています。

 なお、宿奈麻呂は719年備後の国守として安芸、周防2国を管する按察使(あぜち)に
 任じられ、異母妹坂上郎女と結婚し(正妻ではなかったらしい)のちに大伴家持の正妻となる
 坂上大嬢をもうけています。

「 敷栲(しきたへ)の 手枕まかず 間(あいだ)置きて
     年ぞ経にける 逢はなく思えば 」  
              巻4-534 安貴王(あきのおほきみ;志貴皇子の孫)


( あの子の手を枕にして寝ることもないままに長い時間がたち、とうとう年を
 越してしまった。
 あの子に逢っていないことを思うと切なくまた寂しいものだ。)

 この歌の注によると、作者は因幡の国出身の八上采女に対する想いを押えきれず、
 ついに通じて不敬罪に問われて配流されたことを悲しんで作った歌とあります。
 この歌の前に長歌があり
 「 この地にあの子がいないので胸が張り裂けそうだ。
   雲になり、鳥になって明日にでも逢い、お互い誰にも咎められずに心ゆくまで
   逢っていたい」と詠っています。

  作者には妻の紀郎女(きのいらつめ)や、鹿人太夫の娘の小鹿という妻妾がいたにも
 かかわらず、いい歳になって天皇の女性を寝取ったのですから尋常な仕業ではありません。
 よくもぬけぬけと詠ったものだと感心いたします。

  「 采女祭 糸で占ふ 縁結び」 河合佳代子

 奈良市の猿沢池湖畔にある采女神社で、毎年9月18日に采女祭が行われます。
 奈良時代のさる天皇(平城天皇か?)の寵愛を失った采女が猿沢池に投身自殺したとされ、
 その霊を慰める祭で謡曲「采女」はこのエピソードを題材にして作曲されたそうです。

( 謡曲 采女の由来 猿沢池にて )
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by uqrx74fd | 2011-12-03 11:10 | 生活