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万葉集その三百六十(山たづ=ニワトコ)

( ニワトコの新芽 万葉植物園(奈良) 2012、2、24)
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( ニワトコの花拡大画像   季節の花300より )
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「 にはとこの 芽のひろげもつ対生の
    柔らかき葉に 風感じをり 」  木下利玄


昔、「山たづ」とよばれていた植物は現在のニワトコとされています。
スイカズラ科の落葉低木で、まだ寒さ厳しい2月、多くの木々が冬籠りをしている最中(さなか)に
緑も鮮やかな新芽を出し、「もうそろそろ春だよ」と告げてくれる目出度い木です。

本州、四国、九州の山野に自生し、早春、暖かくなると淡いクリーム色の
五弁の小花を房状に咲かせ、夏から秋にかけて美しい赤色の球形の実をつけます。

「ニワトコ」という名前は古事記の「山たづといふは、今の造木(みやっこぎ)をいふ」の
記述に由来し、「ミヤッコギ」が「ミヤッコ」→「ミヤトコ」→「ニヤトコ」→「ニワトコ」に転訛したものと
推定されており、現在でも八丈島、三宅島で「ミヤトコ」、伊豆大島で「ニヤット-」の方言が
使われているそうです。

万葉集での「山たづ」は2首。
いずれも「迎える」の枕詞ですが、ニワトコの葉は対生、つまり鳥の羽のように
向かい合っているように見えるので両腕を広げて人を「迎える」姿に似ている、
あるいは神迎えの霊木として用いられたことによるとの説もあります。

「 君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山たづの
     迎へを行(ゆ)かむ 待つには待たじ 」 
                     巻2-90 衣通王(そとほりのおほきみ)
 

( 恋しいあの方との別離以来、随分長い日にちが経ちました。
  もうこれ以上待てません。 
  今すぐにでもお迎えに上がりたいのです。)

この歌の題詞に
「古事記に曰く軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に
姧(たは)く。
この故にその太子を伊予の湯に流す。
この時に衣通王(そとほりのおほきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして
追ひ往(ゆ)く時に、歌ひて曰く」とあります。

軽太子は 第19代允恭天皇の皇子 木梨軽皇子
軽太郎女は 皇子の同母妹で体が光り輝き衣を通すほど美しかったので
衣通王(そとほりのおほきみ)ともよばれていました。
その二人が「同母兄妹の結婚は厳禁」という掟を破ったので皇子は伊予に流されたのです。

流罪が何時解けるか分からない皇子。
禁忌の恋といえども燃え盛った炎は簡単に消えそうにありません。
衣通姫はついに伊予まで行き皇子に逢おうとしているようです。
逢ったところでまた引き離されるだけなのに- -。

「 どうしても諦めきれない! 一目だけでもお逢いしたい!
  そしてただ、ただ一言、一緒に死のうと言って欲しい! 」

姫の悲痛な叫びが今にも聞こえてきそうです。

せめて異母兄妹であったなら許されもしたことでしょう。
このような悲恋が起きたのは兄妹別々に育てられたせいかも知れません。

この歌は古事記、日本書紀の話を形を変えて転載されたものですが
万葉集では

「 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね
    迎へか行かむ 待ちにか待たむ 」  巻2-85 磐姫皇后


と、ほとんど同じ歌が作者を別にして掲載されています。
                  (詳しくは「320磐姫皇后の謎」を参照下さい)

「 接骨木(にはとこ)は もう葉になって 気忙しや」   富安風生

ニワトコは枝や幹を黒焼きにして骨折の治療に用いるので
接骨木(せつこつぼく)の異名があり、そのまま「にわとこ」とも訓みます。
なお、枝の髄は太くて柔らかいので簡単に取り出すことができ、これをピスと称して
顕微鏡のプレパラート作成の補助材に多用されているそうです。

 「 接骨木(にはとこ)の 花こぼれつつ 日は薄ら 」  
                                   渡辺芋城(うじょう)

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by uqrx74fd | 2012-02-25 20:19 | 植物

万葉集その三百五十九(雪の梅)

(筑波山梅林)
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( 雪か梅か  下曽我梅林)
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( 梅一輪  亀戸天満宮 2012,2,17撮影)
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立春はもうとっくに過ぎたというのに、北の国では吹雪が猛威を振るい、東の国も
朝夕は未だに氷点下。
この寒さに恐れをなしたのか、梅の花も気の短い慌て者だけがほんの少し頭を
出しながら「何時咲こうかなぁ」と思案気な様子です。
古の人たちは、なかなか訪れない春の便りにとうとう痺れを切らし、
雪を梅に見たてて、まだか、まだかと急き立てるように詠っています。

「 たな霧(ぎ)らひ 雪も降らぬか 梅の花
    咲かぬが代(しろ)に そへてだに見む 」
                        巻8-1642 安倍奥道(おきみち)


( 空一面にかき曇って、雪でも降ってこないものか。
 梅の花が咲かない代わりに、せめてそれを梅とでも見ように。)

「たな」はすっかりの意でここでは空一面に。
「代(しろ)」は代わりに。
「そへてだに見む」は「なぞらえて見る」

春の訪れを切ないほどに待ち望む気持ちを雪梅に託した作者です。

「 我が岡に 盛りに咲ける 梅の花
     残れる雪を まがへつるかも 」 
                             巻8-1640  大伴旅人


( 我が家の岡に真っ盛りに咲いている白梅の花、
 あまりの見事な白さに消え残りの雪と見間違えてしまったことよ。)

一見、梅の盛りの歌と思いきや、この歌は冬の雑歌の中に編入されています。
伊藤博氏は『この歌は冬の雪見の宴において雪を梅に見立てた作なのかもしれない。
冬木の枝に白く積もる雪を、つい花と見てしまうことは誰にでもある。
編者の粗忽による手違いでなければ、雪の梅花をほんとうの梅花のように
詠ったのがこの一首だと見ざるをえない。』
と述べておられます。(万葉集釋注)

「 梅の花 散らくはいづく しかすがに
      この城(き)の山に 雪は降りつつ 」
                     巻5-823 伴氏百代(ばんじのももよ)


( 梅の花が雪のように散るというのはどこなのでしょう。
 そうは申しますものの、この城の山にはまだ雪が降っています。
 散る花は雪なのですね )  

城の山は大宰府北方の四王子山。
この歌は大宰府の大伴旅人邸で催された有名な観梅の宴の席上で主人が詠った

「 我が園に 梅の花散る ひさかたの
      天より雪の 流れくるかも 」
                           巻5-822 大伴旅人(既出)


に続いたものです。
旅人が「梅の花が吹雪のように散っている」といったのに対して、
「いやあれは梅ではありますまい。本物の雪ですよ」と詠ったのですが、
宴は主人をまず立てて褒めるのが習い。
それをあえて否定する歌、取りようによっては礼を失することになります。

伊藤博氏は後の人が詠いやすいように「あいつ野暮だなぁ」と笑いものになるよう
道化役を買って出たのではないかと推定されていますが、宴は現在の暦で2月8日。
正直もので融通のきかない作者は事実をありのままに詠ってしまったのかもしれません。

「 この道をわれらが往くや探梅行 」  高濱虚子

「観梅」といえば昔も今も春のものですが、厳寒の中せめて一輪の梅でもと求めて
歩きまわる冬の「探梅」。
昔も今も、はやる気持ちを抑えきれないのは同じなのですねぇ。

以下は 柴田流星著 「残されたる江戸 」(中公文庫)からです。

『 何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を
  待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のと騒ぎまわって
  蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い怠(だる)いも言わず、鬼の首を
  取りもしたかのように独り北叟笑(ほくそえ)んで、探梅の清興を恣(ほしいまま)に
  する。 』 
  
ともあれ、日ごとに待ち遠しさが募る春の訪れです。

『 梅のたよりが届くころは陽気も穏やかに日差しもやわらかになる。
  関西の古都の梅をたずねる旅がしたくなる。
  名所の梅林の芳香と、紅白の花の光につつまれる幸福感もたまらないが、
  冬から春へひっそりと蘇りの色をみせる寺社の片隅に、
  純白の光を転じているような梅の心憎さは格別である。』 
                             (馬場あき子 花のうた紀行 新書館)

「 寒梅の 唯一輪の日向(ひなた)かな」 高濱年尾 

( 亀戸天満宮 紅梅は満開 2012,2、17) 
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by uqrx74fd | 2012-02-18 20:57 | 生活

万葉集その三百五十八(山菅=龍の髭)

( 龍:髭に注目  江戸手拭 大野屋製 )
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( 龍の髭の花   季節の花300より )
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( 龍の髭と玉  くさぐさの花 朝日文庫より)
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( 龍の玉   熱海、お宮の松の下で )
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「 龍の髭(ひげ) 葉のくらがりに 瑠璃澄ませ 」 下山博子

古代、山菅(やますげ)とよばれた植物は「龍の髭」、別名「ジャノヒゲ」という
ユリ科の多年草とされています。
全国各地の山林に生え、細くて長い葉を龍の髭に見立てたのでその名があり、
初夏に淡い紫色の花を下向きに咲かせます。

秋になると球形の実を結びますが、その実は成熟する過程で果皮が破裂して消滅し
種子がむき出しのままとなり、瑠璃紺色の実と見えるものは種子そのものという
珍しい植物です。

漢方では「麦門冬(バクモントウ)」とよばれ、根を煎じて咳止め、利尿、消炎に
用いられているようです。

「 ぬばたまの 黒髪山の山菅(やますげ)に
    小雨降りしき しくしく思ほゆ 」
              巻11-2456 柿本人麻呂歌集


( 瑞々しい女性の黒髪。 
その名を持つ山に生えている山菅に小雨がしきりに降りかかっている。
あぁ、あの人のことがむやみやたらに想われてならないことよ )

黒髪山は奈良市北部、佐保山山稜の一角で、その名は翠の黒髪の女性を
連想させ、「しくしく」は「いよいよますます」の意で雨と恋心を重ねています。

作者は山中で山菅の美しい玉を見ながら愛する女性のことを瞼に
思い浮かべているのでしょうか。
容赦なく降りかかる雨が着物を通して体に染み込み、凍えるような寒さです。
それは、悶々としている心をシクシクと突き立ててくる針のよう。

「 山川(やまがわ)の 水蔭に生ふる山菅の
    やまずも妹は 思ほゆるかも 」 
          巻12-2862 柿本人麻呂歌集


( 山川の水蔭に生い茂っている山菅。
 その名のごとく、やまずにいつもあの子は私の心から離れることがなく
 想い続けていることよ。)

 「やますげ」「やまず」と音を重ねて一途に想う心情を詠う作者。
水蔭で下向きに咲く花がつつましやかで清楚な女性を連想させます。

斎藤茂吉は「水蔭」という語に心ひかれて
「この時代の人は、幽玄などとは高調しなかったけれども、こういう
 幽かにして奥深いものに観入していて、それの写生をおろそかに
してはいないのである。」 
と高く評価しています。(万葉秀歌下 岩波新書)

「 あしひきの 山菅(やますが)の根の ねもころに
     やまず思はば 妹に逢はむかも 」 
          巻12-3053 作者未詳


( 山菅の長い根ではないが あの人のことをねんごろにずっと想い続けていたなら
 あの子に逢えるであろうか )

山菅の根茎には髭根がたくさん生えています。
その「根」と音を重ねた「ねもころ」は「ねんごろに」という意です。
ここでは一途にという気持ちなのでしょう。

「山菅」は同じユリ科の「ヤブラン」であるという説もあります。
形状がよく似ており見間違えやすい植物ですが、牧野富太郎博士は

『 「麦門冬(バクモントウ)は「リュウノヒゲ」一名「ジャノヒゲ」
古名「ヤマスゲ」の専用名である。
ヤブランの古名は全く誤り。
この歌の「ねもころに」は「こまかくからみあう」ことであり
ジャノヒゲの根に合致する』と述べておられます。

「龍の髭に深々とある龍の玉」   皿井旭川

以下は 高橋治著 「くさぐさの花」 からです

『 今はもうそんなことはいわないが、緑と青の配色は難しいとされて、
  着るものの取り合わせにも注意したものだった。
  だから緑の葉に紫紺の玉がひそむ龍の髭と同じ配色を使う青手古小谷とは
タブーに挑戦した先駆者に思える。 』    (朝日文庫)

「 少年のゆめ 老年の夢 龍の玉 」   森澄雄

瑠璃紺色の美しい種子は龍の玉。
今では見かけることはありませんが遊び道具のない昔、男の子たちはその玉を
竹鉄砲の弾丸にし、女の子は「はずみ玉」とよんで弾ませて遊んでいたそうです。
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by uqrx74fd | 2012-02-12 09:33 | 植物

万葉集その三百五十七「乞食人(ほかひひと)の歌:鹿」

( 鹿踊り  Yahoo画像検索より)
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( 鹿踊り 花巻空港壁画 ウイキペディァ フリー百科事典より)
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乞食人(ホカヒヒト)とは人家の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして
金品を貰い歩く人、即ち「門付け芸人」の事で、今でも行われている鹿(しし)踊りや
獅子舞、三河万歳、大道芸人などの先駆をなすものです。

乞食には「カタイ」と「ホカヒ」の二つがあり、「カタイ」は「傍居」で、道の傍らに
座って金銭や食物を乞う人、「ホカヒ」は「寿(ホカヒ)」で祝い事を述べ芸をする人を
いいます。
乞食(こじき)という言葉は本来、仏教用語の乞食(こつじき)に由来し、街をまわって
食物などの施しを受ける修行をさしていましたが、次第に単なる物もらいと区別が
つかなくなったそうです。

万葉集には「鹿と蟹の痛みを述べる歌」二首残されていますが、芸人は民衆の前で
それぞれの動物の衣装を着て身振り手振りよろしく節をつけて詠っていたことでしょう。

以下は「鹿の歌」長歌の一部です。

(原文) 乞食人(ほかひひと) が詠ふ歌
「 ―  大君に我は仕へむ
 我が角(つの)は み笠のはやし  我が耳は み墨坩(すみつほ)              
 我が目らは ますみの鏡    我が爪は み弓の弓弭(ゆはず) 
 我が毛らは み筆(ふみて)はやし  我が皮は み箱の皮に
 我が肉(しし)は み膾(なます)はやし  我が肝は み膾はやし 
 我がみげは み塩のはやし - - 」

            巻16-3885 (鹿のために痛みを述べて作る )

(訳文)

( - 私は天皇のお役に立ちましょう
   私の角は お笠の飾りに   私の耳は墨を入れる墨壺
   私の目は 澄んだ鏡    私の爪はお弓の弓弭(ゆはず)
   私の毛は筆の材料   私の皮は革張りの箱に
   私の肉は膾の材料   私の肝も膾の材料
   私の胃の腑は塩辛の材料 - )
 
( 語句解釈)

はやし:  装飾、材料 
墨坩(すみつぼ):  鹿の耳が墨壺に似ることによる見立て
目:  鏡を連想させる    
ますみ:  きれいに澄んださま
み弓の弓弭 :  爪先を弓の先の鉄などで固めた部分に見立てた
み膾(なます)のはやし:   生肉を切り刻んだ料理
みげ:  内臓のことで塩辛のよき材料とされた

この歌の解釈については、庶民を鹿に見立てて、その苦しみと悲しみを詠ったものと
する説と、大君に食せられて身を捧げることを光栄とする説があり、学者間でも
意見が分かれています。

光栄説: 武田祐吉(万葉集全注釈)、土屋文明(万葉集私注)、鴻巣盛広(万葉集全釈)
沢瀉久孝(万葉集新釈)、大岡信(私の万葉集) 

中西進: 詠う立場により両方の解釈できる。即ち鹿の立場なら悲しみ、
ホカイヒトの立場なら鹿はこのように奉仕しますという光栄説となる
                           (万葉の長歌:教育出版社)

土橋寛氏はその著「万葉開眼」(NHKブックス)で

『 動物が人間に食われようとすることを幸福とする思想は食われる動物の考えではなく、
 食う方の思想であり、それは殺された動物の祟りを遁れようとする人間の手前勝手な
 思想である。
 だからこの思想を律令社会に移すなら鹿が大君に食われることを光栄とする思想は、
 大君の側に身を置いている宮廷官人や御用学者が抱くものであって、
 生産物や労働力を食われる立場にある農民の思想であるはずはなく、
 まして農民社会から脱落した「乞食者」の思想であるはずがない。

 飛鳥、藤原朝の人民は、明治以後のように、普及教育を通じて国家主義思想や
 忠君愛国思想を吹き込まれていないのである。 』

と述べ、伊藤博氏も土橋説に賛意を表し

「祝歌をもじった痛み、悲しみの歌以外ではない」(万葉集釋注8)
と強く主張されております。

未だに決着が付いていない本質的な問題ですが、本稿は伊藤説に拠って話を
進めてまいります。

鹿の芸能の起源は、農作物を食い荒らす鹿が農民に捕えられて殺されようとするとき、
今後は田畑を荒らさないと誓いを立てて許され、祝言を唱えて退散するというのが
本来の筋書きであり、時代と共に変化していったといわれています。

その背景には大化の改新以後、人民の租税と庸役の負担が段々重くなり、
農民は秋に収穫した稲を納めると春までの食糧しか残らず、已む無く
次の収穫期まで5割の利息がついている官稲を借りて喰いつがなければならないような
苦しい生活を強いられていたのです。
その上に飢饉などが起きれば生活は全く破綻してしまうような状態だったことでしょう。

さらに、平城京、東大寺大仏などの造営などにより庶民の負担がますます重くなり
諸国から都に納める「調」いわゆる物納税を運搬する往復の費用も自費であったため、
帰りの食糧が尽き、途中で行き倒れや乞食化する者が多発しました。
人びとはやむなく身につけていたホカヒの芸能をもって富者の門に立ち、
その謝礼として食を乞うていったのが職業的芸能人としての「ホカヒヒト」の
始まりといわれています。

過酷な生活を強いられながら表立って怨嗟の声をあげることが出来なかった多くの庶民。
深いペーソスを秘めた大道芸は大いなる共感もって迎えられたことでしょう。
そして、次第に形を変えながら全国各地に広がっていったのです。

この歌は庶民の生活の苦しさを伝えてくれていると共に、搾取していた側、すなわち
支配階級の人達が日常の生活で膾(なます)すなわち生肉や、塩辛を好んで食していた
ことも教えてくれています。
冷蔵庫などがない時代、新鮮な生ものを食すという事は最高の贅沢だったのです。

「 人口に膾炙(かいしゃ)する 」

「人々に知れ渡って賞賛される」の意の言葉ですが
「膾炙」の「膾」は「生肉:ユッケ」、「炙」は「あぶり肉、焼き肉」のことです。
よほど多くの人に好まれたのでしょうか。
なお、膾(なます)には細切りにするという意味もあり、刺身の元祖でもありますが
魚の場合は「鱠」と魚扁の漢字が使われていました。

「 鱠(なます)にしてもうまき小鰯(こいわし)」 
                            (俳諧開花集 1881年)


番外編

余録:「 なますと日本人 」 (毎日新聞 2011年5月13日) 

なますといえば、今はダイコンとニンジンの千切りを合わせ酢であえた
紅白なますを思い浮かべる。
だが、もともと漢字で書けば「膾」または「鱠」、獣や魚の生肉を細切りにした
料理のことだ。
なますというのも「生肉(なましし)」が転じたとされる
万葉集には鹿を詠んだ歌に「吾(あ)(鹿)が肉は御膾料(みなますばやし) 
吾が肝も御膾料……」、つまり自分の肉も肝も大君に供するなますの材料だという
ところがある。
また日本書紀には雄略天皇が狩りの獲物を料理人になますにさせるか、
自分で料理すべきかを問うくだりがあった。

当時の日本人は肉のなますをよく食べていたようだ。
だから今日も「肉膾」を好む人が少なくないのは分かる。
韓国語のユッケは漢字で書くと「肉膾」なのである。

ただそれを供する人々の衛生感覚まで古代同然では困る
4人の死者を出した「焼肉酒家えびす」のユッケによる集団食中毒で牛肉の
生食にともなう危険を初めて知った方も多かろう。
ユッケはよく食べられているのに、そもそも国の生食用衛生基準を守って出荷される
牛肉はないのだと聞けば、キツネにつままれた気分だ。
しかも警察に対し、ユッケの肉を卸した業者は生食用に使うと思っていなかったといい、
店側は卸売業者が生食用の処理をすませていたはずと話している。
責任の所在は今後の捜査で明らかにされようが、お客の生命を守る衛生管理まで
細切りにされてはかなわない

国はようやく衛生基準を見直し、生肉を扱う店の規制強化に乗り出すという。
「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」は心配性の人のことだが、
厚生労働省は熱くないがゆえの膾の危険にあまりに無頓着だった。
                              ( 学友M I さん提供)

その後の記事(毎日新聞 2012年1月27日)より

<生食用牛肉規格基準> 全国で9割以上の施設が違反


焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」の集団食中毒事件を受け、厚生労働省が
昨年10月施行した食品衛生法に基づく生食用牛肉の規格基準を守っているか、
全国の飲食店などを対象に調べたところ、「生肉専用の加工設備がない」など
9割以上の施設が違反していたことが分かった。
違反施設には都道府県などが生肉の提供中止を指導したという。

昨年10~12月、牛タタキやユッケなどの生食用牛肉を扱う飲食店、食肉販売業、
食肉処理業の計445施設に都道府県などの職員が立ち入り調査を実施。
このうち418施設(93.9%)で違反が確認された。
厚労省は「新基準の周知が不十分だった」としている。
                          (以上)
なんともいい加減な話ですね
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by uqrx74fd | 2012-02-05 08:59 | 生活