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万葉集その三百八十六(大和三山妻争い)

( 大和三山 左から香久山。畝傍山、耳成山 井寺池後方から )
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( 天の香久山 藤原宮跡付近から )
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( 畝傍山 藤原宮跡から )
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( 耳成山 同上  )
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( 井寺池付近案内図  檜原神社の前で )
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(  藤原宮跡 後方は香久山  持統天皇の「衣干したり天の香久山」はこのあたりから詠んだ?)
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( 藤原宮復元模型 奈良万葉文化館で )
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緑なす大和国原に浮島のような美しいシルエットを見せる大和三山。
畝傍(199m)、耳成(140m)、香久山(152m) は、いずれも丘のような低い山ながら、
その配置がほぼ正三角形となる絶妙な天の配剤により、古来から多くの人たちの
ロマンをかき立ててきました。
「播磨風土記」に伝えられる出雲の神の「三山争いの仲裁伝説」や
万葉集の「三山妻争いの歌」は「天智、天武天皇、額田王の三角関係」にまで
思いを馳せさせ、私たちに尽きることがない話題を提供してくれています。

「 香具山は 畝傍惜(を)しと 耳成と 相争ひき
  神代より かくにあるらし
  いにしへも しかにあれこそ
  うつせみも 妻を 争ふらしき 」 
                巻1-13 中大兄皇子(後の天智天皇)

「 香具山と 耳成山と あひし時
    立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら) 」 
                 巻1-14 同上

訳文(1-13)

( 香久山は畝傍を手放すのが惜しいと耳成と争った。
どうやら神代の頃からこんなふうであったらしい。
だからこそ、今の世の人も妻をとりあって争うのであろう。)

訳文(1-14)

あひし時:組み合う、戦うの意。

( この印南国原は、香具山と耳成が妻争いをしたとき、阿菩大神が神輿を上げて
やってきたという地だ。)

この歌は661年、斉明天皇が征新羅のために九州行幸された途中、播磨灘海岸辺りで
詠まれたもので、印南国は現在の兵庫県加古川市、明石市にかけての一帯とされています。
播磨国風土記に
「出雲の阿菩大神(あぼのおおみかみ)が大和の国で三山が争いをしているのを聞き
仲裁しょうと播磨の国、揖保(いぼ)郡の上岡まで船に乗って急行してきたところ、
もう喧嘩は収まったと聞き、では、と船を裏返しにしてそのままここに鎮座した 」
と伝えられている地です。
作者は土地通過儀礼として
「ここ印南は大和三山とも大いに関わりがある由緒ある場所」として
祈りと歌を奉げたものと思われます。

ところが、播磨国風土記には畝傍、耳成、香久山の三山が「相争う」と書かれているだけで、
「妻を争う」とは書かれていないのです。
土着の豪族の勢力争いを比喩化したものか、あるいは万葉集よりも古い時代から
大和に男女の三角関係の云い伝えがあったのかもしれませんが、
中大兄皇子が「妻を争ふ」と詠ったことから色々な憶測を呼ぶことになります。

一見、易しそうなこの長歌は、原文「雲根火 雄男志等:うねび ををしと」をめぐって
世紀の大論争を巻き起こしました。
著名な学者の侃々諤々の応酬があったのにも拘わらず未だに決着がついておりません。

即ち「雄男志等」を「雄々し」と解するか「を惜し(を愛し)」とするかで
山の性が変わり歌の解釈が一変するのです。(本稿の訳文はA説に従っています)

「雄男志等」(ををしと) 

 A説 「を惜し(を愛し)」とする→ (男)香久山が (女)畝傍を (男)耳成と争う

   一番多い説、すっきりするが「 雲根火 雄男志」という男らしい原文の
   表現にそぐわないという難点がある。

 B説 「雄々し」とする1、→ (女)香久山が (男)畝傍を (男)耳成と争う
     (女)香久山が(男)畝傍を雄々しいと思うのはよいが、何故(男)耳成と争うのか?
     それは(女)香久山が気移りしたため今まで付き合ってきた(男)耳成といさかいが
     起こったとする。
             → 女と元カレの争いを「ツマを争ふらしき」と表現できるのか?
                という難点がある
 C説 「雄々し」とする2、→ (女)香久山が (男)畝傍を (女)耳成と争う
              当時の妻問婚の風習にそぐわない。少数説

現在では、A、B説が相譲らず、納得行く定説を打ち立てたら万葉学上不朽の名声を
残すだろうとまで言われている難問です。

素人判断では (男)香久山が (女)畝傍山を愛しいと (男)耳成と争ったという
A説に組したいところですが- -。

さらにこの長歌を天智、天武天皇が額田王を争ったとする三角関係に結びつける
解釈もあり否が応でも古のロマンの空想の世界へと導いてくれます。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」  
                       巻1-20(既出)  額田王


( 美しい茜色に照り映える紫野を行きつ戻りつしながら袖を振るあなた。
 そんなにあからさまに振ると標野の番人(野守)に見つかってしまいますよ) 

「 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば
     人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも 」  
                 巻1-21(既出) 大海人皇子(後の天武天皇)


( 紫草のように色あでやかな妹よ。そなたをどうして憎く思えるでしょうか。
  今は人妻になったあなたですが、わたしはなお一層恋しくてならないのです。)

二人は十市皇女をいう子までなした仲なのに、額田王は今や兄天智の妃。
どのような経緯で天智天皇のもとに走ったのかは謎とされています。

ただ、この二首は相聞歌ではなく宴席での余興歌として雑歌に分類されていることや
額田王は当時40歳前後となっており、自らの意思で天武を離れて天智に仕えたとも
みられているので妻争いの歌との関連なしとするのが通説です。

(詳しくは万葉集遊楽316 あかねさす紫野をご参照ください)

然しながら、学問上の解釈はともあれ、私たちが甘樫の丘や、葛城古道、あるいは
藤原宮跡から秀麗な三山を眺めながら 「裳裾引くような畝傍山は額田王」
「優しそうな香久山は天智さん」「一番低い耳成は弟の天武さん」
「 まだ妻争い? それとも3人仲良くしているのかな?」と
古代への思いを馳せることは楽しいものです。

学問上の解釈がすべて正しいとは限りません。
歌は心。
自分の心を知る者はその人自身のみであり、1300年前の作者の心の奥底を
現代の人が窺い知ることは不可能でありましょう。

「 耳成も滴る山となりにけり 」 川崎展宏

以下は、堀内民一著 大和万葉旅行からです。

『 大和三山は、ながめるところどころ、四季、時間、晴雨それぞれによって
  種々な趣をあらわす山だ。
  その趣を心に感じてながめるよろこびこそ、大和の万葉旅行特有のものである。
  さすがに千年の風雪に生きてあたらしく、美しい。
  「 大和三山が美しい。
  それはどのような歴史の設計図をもってしても要約出来ぬ美しさのようにみえる」
                         (小林秀雄:筆者註、蘇我馬子の墓)
  と書いているが、三山の美しさを語るとなると、もはやどんなことばも
  追いつかないのである。』
                                   ( 講談社学術文庫より)

    「 夕近き畝傍山頂つばめとぶ」 田上悦子

                                       ※ 後に追加画像があります。
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by uqrx74fd | 2012-08-25 21:21 | 生活

万葉集遊楽その三百八十五〈明日香:剣池〉

 (甘橿の丘から: 畝傍山、和田池 左後方に少し見えるのが剣池)
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 ( 剣池,孝元天皇御陵  後方多武峰:その手前 甘橿の丘)
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( 蓮の露 明日香にて )
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( 古代蓮 明日香藤原宮跡にて )
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( 和田池 建物の後方甘橿の丘)
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( 明日香にて )
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( 古代蓮 明日香藤原宮跡)
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( 明日香にて )
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近鉄橿原神宮駅東口から甘橿の丘方面に向かって歩くこと10分足らず。
この辺りは昔「軽(かる)」とよばれ、応神天皇(270~310年)の宮、軽島豊明宮
(かるしま とよあきらみや:橿原市大軽町) があり、蘇我氏の本拠地であったとも
伝えられています。
蘇我氏は大陸からの渡来人を積極的に受け入れて文物や高度な技術を導入し
農地の生産性を飛躍的に増大させ、政治の実権を握っていったようです。
さらに、市なども立ちさぞ賑やかな街であったことでしょう。

日本書記によると、「応神記11年に剣池、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさかの)池が作られた」
とあり、これらの池も最新技術を駆使して灌漑用に掘られたものと思われ、
中でも剣の池は、川底に剣が埋まっていると信じられていたのでその名が
ありますが、万葉集に名をとどめている池の中で唯一現存している千数百年前の
貴重な遺跡です。
池に影を映している孝元天皇の御陵の壕としての役割もあったゆえ長く残されたのでしょうか。

635年さらに644年の2度にわたって1つの茎に2つの蓮の花が現れるという
瑞兆があり(日本書紀)、当時は蓮の花が咲く華やかな池であったようです。

「 み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の
  ゆくへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を
  な寐寝(いね)そと 母聞こせども 我(あ)が心 清隅(きよすみ)の池の
  池の底 我は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに 」
                      巻13-3289  作者未詳

「 いにしへの 神の時より 逢ひけらし
     今の心は 常忘らえず 」 巻13-3290 作者未詳


(訳文:13-3289)

( 剣の池の蓮の葉にたまっている玉水が、どちらに動くか分からない様に
 私もどうしてよいのか途方に暮れていたときに、逢うべき定めなのだと、
 占いのお告げによってお逢いしたあなた。
 それなのに、おっかさんは、あの人に身を任せて一緒に寝てはいけないと言うのです。
 私の心は清隅の池のように澄んでおり一点の迷いもなく、また、池の底が深いように、
 あなたのことを深く深く、お慕いしておりますのに。
 もう一度じかにお逢いできるまで、貴方のことを決して忘れは致しません。) 

(訳文:13-3290)

( はるか古の神の御代から二人は逢っていたのでしょうか。
  私は今の今も貴方のことが気にかかり、片時も忘れることができないのです。) 

一途に男を慕う乙女は何らかの理由で母親から交際を止められていたようです。
離れて行く男に対して燃え盛るような想いを募らせている心情に諦めの気持ちが籠ります。

ここ「軽」を舞台にしてで詠われたものは紀皇女(きのひめみこ)の孤独な恋(3-390)、
柿本人麻呂の亡き妻を偲んで慟哭しながら市をさまよう歌(2-207)など悲しみとロマンに
満ちた秀歌が残されており、恋に生きる雅やかな人々の生活が偲ばれます。

「 ふるさとの 野寺の池は田となりて
        そのひとかたに 蓮咲きにけり」 落合直文


まことに奇妙なことですがこの池の底に「剣の池」「石川池」という標柱があり、
二つの池が併存しているのです。
というのは明治時代、地元の水利組合が灌漑用水を確保するため飛鳥川の水を引いて
剣の池を拡張したので、古来の池と新たに広げた池との間に境界を設けて
区分したそうですが満杯の時は全く分からないので、この池の名も「剣の池」と云ったり
「石川池」と云われたり、ややこしい。
冬になると水をすべて落として空池にするので標識が現れますが、恐らく誰も境界には
気が付かないことでしょう。

「 田植機の 泥ぽたぽたと 飛鳥みち」 横井博行

美しい蓮の花は何時の頃から消え失せてしまったのでしょうか。
周りも民家で埋め尽くされ、昔を偲ぶ縁(よすが)は池淵に立つ石碑のみです。

昭和25年5月に当地を訪れた亀井勝一郎氏は次のように書いておられます。
『さざ波ひとつない鏡のような水面を、時々かいつぶりが一條のすじをひいて走って行く。
 あとは物音ひとつ聞こえない静けさだ。
 かすかな春風に吹かれながら立っていると、歴史の匂ひがしてくるやうだ。
 日本書紀や万葉の思い出が風景に匂ひをもたらすのかもしれない。』
                                 ( 飛鳥路:人文書院より)

「 母の顔 道辺の蓮の花に見き 」  山口青邨
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by uqrx74fd | 2012-08-18 20:47 | 万葉の旅

万葉集その三百八十四(明日香:甘橿の丘から)

(甘橿の丘遠望)
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( 甘橿頂上への道)
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( 山道の途中から 真中に飛鳥寺が見える)
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( 耳成山、右香久山)
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( 畝傍山 後方は二上山)
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( 明日香俯瞰図 左上大和三山と藤原京)
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( 本薬師寺跡〈右側の森〉近くから畝傍山を望む 蓮の後方にホテイアオイが見える)
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( ホテイアオイの群生 畝傍北小学生が植えたもの 2012、8、10 撮影)
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( 同上 )
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甘橿の丘は明日香のほぼ中央部に位置し、南北に細長く伸びている高さ148mの小山です。
古代、栄華を誇った豪族、蘇我氏が大邸宅を構え、山上から天皇家をも睥睨(へいげい)していたものの
奢れるもの久しからず、中大兄皇子と藤原鎌足に攻め滅ぼされ終焉を迎えた地でもあります。
現在は国営飛鳥歴史公園として整備され、明日香全体を俯瞰(ふかん)することが出来る
絶好のビユーポイントです。

私たちは、民家の脇の登り口からゆっくり頂上へ向かいました。
丸太を横に渡して砂止めにした幅の広い階段は登りやすく、傾斜は多少きつくても
年寄りや子供に優しい坂道です。
丘の中腹あたりから後方を振り返ると、先ほど立ち寄った飛鳥寺や水落遺跡が見え、
飛鳥川が心地よげに流れています。
頂上の豊浦展望台まで約10分。

雄大な景色が目の前に広がりました。
遥かに多武峰の連山、生駒山、二上山、葛城、金剛の山々。
平野の中で瑞々しい姿を見せる香具山、畝傍、耳成山は海の中に浮かぶ島のようです。
神様はなんという不思議な摂理をされたのでしょう。
大和三山は、ほぼ正三角形に点在しており、お互いに惹かれあっている様子から
妻争いの伝説を生み、その位置は都づくりにも大きな影響を及ぼしました。

「 畝傍山 香具山つなぎ 稲穂波」 藤田佑美子

694年、中国の長安を参考にした本格的な都「藤原宮」が造営されました。
大和三山に囲まれ、泉がこんこんと湧き出ている宮殿です。
遷都にあたり持統女帝のお出ましの中、新都を寿ぐ歌が奉られます。
恐らく祝詞のような調べで詠われたことでしょう。

「- - 大和の青香具山は 日の経(たて)の 大き御門 (みかど) に
    春山と 茂(し)みさび立てり 
    畝傍の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に
    瑞山と 山さびいます
    耳成の 青菅山(あおすがやま) は  背面(そとも)の 大き御門に
    よろしなへ  神さび立てり
    名ぐはし  吉野の山は  影面(かげとも)の 大き御門ゆ
    雲居にぞ 遠くありける 
    高(たか)知るや  天の御蔭(みかげ)  天知るや 日の御蔭の
    水こそは とこしへにあらめ  御井(みい)の ま清水 」 
                  巻1-52(長歌の一部: 最後の一行のみ既出) 作者未詳

(訳文)
「- - ここ大和の青々とした香具山は 東の偉大なる御門に面して
 いかにも春山らしく 茂り立っている。
 畝傍、この瑞々しい山は 西の大御門に 瑞山と 山らしく鎮まる
 耳成、この青菅茂る清々しい山は、北の大御門にふさわしく
 神々しくもそそり立つ
 その名も高き吉野の山は 南の大御門より はるか向こう
 雲の彼方に遠く連なっている
 かくのごとき 素晴らしい山々に守られた御殿は
 高く空に聳え立つ御殿
 天いっぱいに 広がり立つ御殿
 この大宮の水こそ とこしえに尽きることがない
 この御井のま清水は  」      巻1-52 作者未詳



この歌から香具山は東 畝傍は西 耳成は北 吉野山は南の守り神とするべく
場所に宮殿が建てられたことがわかります。
香具山を「青香具山」と言っているのは「青」は陰陽五行説の東にあたり、
日の経(たて)も東を意味し、東大御門を守る鎮めの山が香具山。

畝傍山の「瑞山」は「清らかでみずみずしくも聖なる」の意で「日の緯(よこ)」は
西を表す言葉。西の大きな御門には畝傍山が控えている。
「山さびいます」は「山らしく いかつい」の意

耳成の「青菅山」は青々とした菅が生えている山。 菅は神聖な植物で禊の時に
用いられたことによります。
「背面(そとも)」は北を差す言葉で、藤原宮の北、背面。
「宜(よろし)なへ」は「それらしく、ふさわしく」

「吉野」の「名ぐわし」は「有名な」という意と「良し」に通じているので
「良き名の吉野」を掛けている。
「影面(かげとも)」は南をさす言葉です。
そして、天皇の威光はあまねく天下に行き渡り、永遠に渇くことを知らない
湧き上がる真清水のごとく、永久(とわ)に栄えるであろうと詠いおさめています。

「 青梅雨に 大和三山 みなけぶる 」 鷹羽刈行

パノラマの景色を堪能した私たちは川原展望台に向かいました。
馬の背のような丘の頂の両側には万葉ゆかりの木々が植えられ、それぞれに
名札が付けられています。
桜の木も多く、春には絢爛たる景色を演出してくれることでしょう。

小鳥のさえずりも聞こえてきました。
山鳩が餌を探しながら道の前をチョコチョコと歩いています。
歩くこと約10分。 
耳成山が近くに見え、後方に聳え立つ二上山。
手前に和田池、剣池、孝元天皇の御陵。
この辺りは亡き両親が晩年を過ごした懐かしいところで、
二人が今にも家から出てきそうな様子が目に浮かび瞼が熱くなりました。

夕日が次第に二上山に落ちてゆきます。
駱駝(らくだ)のこぶのような特徴のある山姿です。
大和三山は見る角度で形が変わり、特に畝傍、耳成は間違えやすいのですが、
「背後に二上山が見えるのが畝傍山」と覚えておけば何とか判別できそうです。

明日香散策も甘樫の丘で終点。
私は

「 采女の袖吹きかへす 明日香風
    都を遠み いたづらに吹く 」   巻1-51 志貴皇子(既出)


と口ずさみながら、来た時とは反対側の坂道を下りて行きました。

   「 野を焼いて 甘樫の丘 けぶらせり 」 若山智子
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by uqrx74fd | 2012-08-11 17:20 | 万葉の旅

万葉集その三百八十三(明日香:川原寺、飛鳥寺)

( 川原寺跡:現・弘福寺)
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( 川原寺復元模型 飛鳥展図録より )
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( 飛鳥寺 )
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( 同 裏側 )
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( 同 手前の石塔は蘇我入鹿の首塚 )
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( 飛鳥寺遠景 )
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( 梅花うつぎ:飛鳥寺境内にて )
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( 水落遺跡説明板 :写真の真中をクリックすると拡大出来ます。)
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橘寺の山門を出ると、県道を挟んだ向かい側に真言宗 弘福寺(ぐふくじ)とよばれている
お寺があります。
こじんまりとしたお寺ですが、かっては斉明天皇の川原宮が営まれたところで、
亡き天皇を弔うために天智天皇(天武とも)が勅願する川原寺として創建(670年頃)され、
盛時には約4万7000坪の敷地に300人近い僧が住み、中金堂(現本堂)を中心として、
塔、西金堂、講堂などが整然と立ち並び、飛鳥寺、大官大寺、薬師寺と共に
飛鳥四大寺の一つとされていました。

都が平城京に遷され、他の大寺は都へ移転しましたが川原寺のみ飛鳥に残ったため、
以降、寺勢が衰え、さらに度重なる罹災で往事の伽藍はすべて焼失してしまい、
今は広々とした跡地に復元された礎石の模型と本堂前にある瑪瑙(めのう=大理石)の
礎石が残されているのみです。

「 花冷えや 塔の礎石の白瑪瑙 」 神田美穂子

日本書記に686年、新羅の客をもてなすために川原寺の伎楽を筑紫に送ったとあります。
古の時代、この寺に大きな伎楽団があり楽器も多く保持されていて、雅楽などの
演奏も盛んに行われていたことを窺わせる記述ですが、川原寺の僧も「倭琴」(わごと) を奏でる練習をしていたのでしょうか。
万葉集に琴の面(おもて)に落書きされた
「世間(よななか)が常なく 儚(はかな)いことを厭(いと)う歌二首」残されています。
                     註:倭琴=(膝にのせて奏する6弦の小さな琴) 

「 生き死にの 二つの海を 厭(いと)はしみ
    潮干(しほひ)の山を 偲(しの)ひつるかも 」
                      巻16-3849 作者未詳 


( この世は、生きて行く苦しみと死に対する恐怖がたゆとう海のようです。
 あまりにも煩わしいので、苦海が干し上がったところにあるという山に
 至りつきたいと心から思い続けております。)

万葉集には珍しい欣求浄土の仏教思想が詠まれた歌です。
『 潮干の山は生死海の海水をことごとく干し上げてそこに燦然と現れる山、
具体的には須弥山(しゅみせん)などと思われ、極楽浄土の世界をさす』とされています。
                        (井村哲夫 国文学52号)
 
「 世間(よのなか)の 繁き仮蘆(かりほ)に 住み住みて
    至らむ国の たづき知らずも 」 巻16-3850 作者未詳


(  煩わしいことばかりが多い人の世の仮の宿りに住み続ける我が身。
   願い求める国へ到りつく手立ては、今もって分からないままです 。)

橘寺の僧が少女を犯すという俗な思いを詠ったのに対し、川原寺の僧のものは
落書きとはいえ悟りの境地に達したいと願う真剣な思いが込められており
内容も極めて高度なもので、自由闊達な橘寺、厳しい規律の川原寺の生活を
窺わせる歌です。

「 とんぼ湧く 礎石ばかりの 川原寺 」 都合ナルミ

白い壁が美しい川原寺の前に立ち後方を眺めると青田が続く彼方に甘樫の丘や
香具山が望まれ、すぐ横に飛鳥川が流れています。
秋になると周りは彼岸花で埋め尽くされることでしょう。
万葉時代この辺りは真神原(まかみのはら)とよばれ、狼(真神)が出没する寂寥たる
荒野であったとは想像もつかないことでした。

朝風峠から稲渕、栢森、石舞台、岡寺、橘寺、川原寺と巡ったところで、
丁度お昼になり、万葉文化館で一休みすることにします。

奈良県立万葉文化館は2001年9月に開館された万葉集をテーマとする美術博物館で、
平山郁夫画伯を初め154名の画家が万葉歌をモチーフにして描いた日本画が常時
展示されているほか、富本銭の発掘跡や古代の生活の復元展示、関係図書など
多岐にわたり整備されている万葉集総合古代学の殿堂です。

緑なす山々を借景にした広い前庭を眺めながら、懐石弁当を戴いた後、
館内をゆっくり見学し裏庭から飛鳥寺に向かいます。
ここからは徒歩の散策です。

「 飛鳥寺の 鐘なりわたる 刈田かな 」 古川京子

587年、仏教伝来をめぐり廃仏派の物部氏に完勝した蘇我馬子は、全力をあげて
本格的な寺の造営に取り組み、百済からの渡来人による新技術と蘇我氏の莫大な財力、
民を総動員した労力を結集し596年に塔を完成させました。

さらに、605年に鞍作止利(くらつくりのとり)が中心となって我国最古の金銅仏(4、85m)
釈迦如来(飛鳥大仏)の造立を開始し609年ついに最初の本格的な寺院、即ち
東西の塔を囲んで三つの金堂をもつ堂々たる伽藍配置の法興寺(当時)が落成したのです。

この寺は後に、中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会い、大化改新のきっかけになった
所としても知られています。
皇子らの蘇我入鹿誅殺という「乙巳(いっし)の変」で天皇家に摂取され、平城京遷都と共に
元興寺として都へ移されましたが、大仏は当地に残され飛鳥寺として存続しました。
その後、罹災で堂宇伽藍はすべて焼失し、本尊釈迦如来(大仏)は残ったものの
焼けただれ、長年雨ざらしのまま放置されて無残なお姿になっていたそうです。

現在、飛鳥寺とよばれている安居院は1826(江戸時代)に建立され、ようやく本尊が
堂内に安置されました。
火災に遭ったお顔は継ぎ接ぎが目立ち痛々しい感じがいたしますが、
その大陸的な風貌は白鳳初期の特徴をよく残しています。

「 故郷(ふるさと)の 明日香はあれど あをによし
    奈良の明日香を 見らくしよしも 」
                巻6-992 大伴坂上郎女 元興寺の里を詠む歌一首


( 飛鳥寺が立つ故郷の明日香は思い出深くよいところであるが
 奈良の新しい都の飛鳥寺(元興寺)を見るのもよいものだ。)

作者は飛鳥から平城京に移され、今は元興寺とよばれる寺を見るにつけて
故郷の飛鳥寺を懐かしく思い出しているようです。
寺院の移設に当たって、瓦や木材が再利用されたらしく、甍を見上げるたびに
故郷の野山や川が脳裏に蘇ってきたことでしょう。

「 首塚をかすめて平家蛍とぶ」 江口ヒロシ

飛鳥寺の裏手にまわると蘇我入鹿の首塚。 
真偽は別として中大兄皇子に討たれた首がここに落下したと伝えられていますが、
蘇我氏の守護神であったはずの飛鳥寺の裏に建てられているとは何という
歴史の皮肉なのでしょうか。

周りを見渡すと一面のレンゲ畑。
私たちは後方に見える甘樫の丘に向かって田畑を横切りながら歩き出しました。

ほどなく660年中大兄皇子が作った我国最初の水時計(漏刻)があったと
いわれている広々としたところに出てきました。
1981年に発掘され「飛鳥水落遺跡」と命名されていますが、かなり大掛かりな
建物と装置があったことが想像されます。
このあたりは明日香のほぼ中央に位置することから、水時計で時刻を計り、
鐘と太鼓で人々に時を知らせていたのです。
                  (詳しくは万葉集遊楽61 時の記念日をご参照下さい)

遺跡の左側に飛鳥川が流れ、橋を渡ると間もなく甘樫の丘です。

「 飛鳥路の 雨細やかや 夏薊(なつあざみ) 」 藤武由美子
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by uqrx74fd | 2012-08-04 18:06 | 万葉の旅