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万葉集その三百九十一(「べこ」は「ムゥ」と鳴く)

(北海道稚内で)
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( 萩原盤山:江戸時代。会津若松の人 奈良談山神社で「がんばれ東北」の特別展示)
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( 上野動物園 にて)
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( 見島牛  同上 )
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( 口之島牛 同上)
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( 古代貴族の食事: 「主食」 白米 「副食」 わかめ汁、鮎の煮つけ、ゆでたセリ、
              鯛、鮑と雲丹のあえもの、寒天、 枝豆、瓜の粕漬け、 生姜の酢漬け。 
              「デザート」 蘇(チーズ)(写真前列右から3番目)
                      クルミ、梅,枇杷
               「 飲物」  清酒(きよざけ) : 奈良文化財研究所にて
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( 庶民の食事 玄米、あらめの汁、茹でたノビル、塩 ) : 同上
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「 音たてて 私の指さきを吸う 犢牛(こうし)の
      ぬれた鼻さきの いとしさ 」 前田夕暮


人間が牛を家畜としたのは今から約1万年前、西部アジアにおいてであると
推定されています。
わが国での野性牛はその遺跡が瀬戸内海近辺から多数出土されていることから、
洪積世の後期から棲息していたと推定され、

『 縄文期には前世からの野性牛が生き残っていて、それらを捕獲して飼育した
ようなことがあったかもしれないが、大部分は弥生時代に家牛として
朝鮮半島、中国から渡来したものと想像される 』そうです。
                       ( 斎藤正二著 日本人と動物 八坂書房)

萬葉集での牛は4首、そのうち2首は地名です。
次の歌は宴席での戯れに詠われたもので、以下のような詞書があります。

『 ある時、舎人(とねり)親王 (天武天皇の子)が、宴席で取り巻きの者に
「 だれか、面白い言葉を使って、意味のつながりのない歌を作るものはいないか?
 皆を笑わせたら、褒美に銭や練り絹を遣わそうぞ」とおっしゃった。 』(意訳)

そこで、座にいた一人が、早速、献じた歌。

「 我妹子(わぎもこ)が 額(ひたひ)に生ふる 双六の
     特負(ことひ)の牛の 鞍の上の瘡(かさ) 」
               巻16-3838  安倍朝臣子祖父(あへのあそみ こほじ)


( うちのかみさんの おでこに生えている それは双六で使う 牡牛の
  鞍の上の おできかいな )

何のことか全く解らないチンプンカンプンな歌です。
ところがこの歌が合格。
すぐ、一座から集めた物や銭2000文を下されたそうです。
昭和57年の相場で10万円程度、今なら20万位でしょうか?
褒美を出すと云いながら一同から集めたとは!
随分ケチな親王ですねぇ。

「特負(ことひ)の牛」とは、許多負牛(ことたおひうし)の略で強健で重荷を負うことが
出来る牡牛の意で、古くから有用な家畜として運搬、耕作などに使われ、肉や乳は
食用に、皮、角なども色々な面に使われていました。

「鞍の上の瘡(かさ)」は「牛に鞍を付け、こすれてその下に瘡が出来る」のが本来ですが
出来るはずがない鞍の上としたところがポイントです。

「 黒牛の海 紅にほふ ももしきの
    大宮人し あさりすらしも 」
             巻7-1218 藤原卿(ふじはらのまえつきみ)


( 黒牛の海が紅に照り映えている。 
大宮に仕える女官たちが浜辺で漁(すなどり)しているらしいなぁ )

藤原卿は不比等と推定(伊藤博) 、南海道(四国)への旅の途中で詠われたもの。
黒牛の海は和歌山県海南市。
和歌山から船便を利用する予定だったのでしょう。
昔、黒牛に似た大石が汐の干潮によって見え隠れしていたことによりその名がある
そうです。
黒々とした岩、赤いロングスカート、海と空の青。
色彩の対比が印象的な一首です。
作者は女官の赤い裳裾に官能の美を感じていたのでしょうか。

美しい海も埋め立てられ、今やその面影すら残っておりません。

「 かくしてや なほや守らむ 大荒木の
    浮田の杜(もり)の 標(しめ)にあらなくに 」 
                      巻11-2839 作者未詳


( こうして、いつまでも、あの子をずっと見守っていかなければならないのか。
 おれは何も大荒木の杜の注連縄ではないのに )

「大荒木の浮田の杜」は奈良県五條市の荒木神社。

神社の標(神域)を譬えにして女に手を触れることが出来ない男の嘆き。
何が原因か分かりませんが、待ち続けても女の母親から結婚の許しがもらえないようです。
一見牛と何の関係もなさそうな歌ですが
「守らむ」の「む」は原文で
「牛鳴」となっており、これを「む」と訓ませているのです。


古代の人は牛の鳴き声をモォ-ではなくムゥ-と聞きなしていたのでしょう。
このような表示を戯れ書きといいますが、実にユーモア精神旺盛な万葉人です。

「わたつみに 向ひてゐたる 乳牛が
     前脚折りて ひざまづく見ゆ 」 斎藤茂吉


以下は 広野 卓著 食の万葉集(中公新書)からです。

『 万葉人はミルクを飲みチーズを食べていた。
といっても多分滋養強壮剤として摂取していたのである。
それが確認できるのは「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」で、それによると
孝徳天皇(645-654)が朝鮮半島からの渡来人が搾ったミルクを飲んだと記されている。

ミルクを搾り、チーズ(蘇:そ)を作る技術を古代日本に伝えたのは、帰化後の
和薬使主(やまとのくすしのおみ)と名乗る一族で、その渡来は欽明朝562年の
ことである。

天武朝の700年になると、諸国の農民にも乳製品の製造技術が伝授され、諸国に
蘇をつくり貢納することが命じられる。
長屋王家でも、農民が搬入したミルクを蘇に加工させているので、長屋王も
ミルクを飲み、ちーズを賞味していたことは明らかである。

ただ、ミルクや液状ヨーグルトを賞味していたのは天皇や一部貴族のみで
庶民がその恩恵にあずかることはなかった。
それというのも、ミルクを搾り乳製品に加工することは、いまのように簡単なもの 
ではなかったからである。

古代日本の乳牛はホルスタイン種のように泌乳用に品種改良したものではなく、
その体も現在の和牛よりさらに小さい。
したがって泌乳量も少なく、そのミルクは仔牛の飼育に必要であり、仔牛が飲んだ
余乳を利用するとなると搾乳量はきわめて少ない。
それこそ薬にするほどの量である。
加工した蘇は蜂蜜とまぜて服用している 』

   「初空や 烏(からす)を のする うしの鞍 」  嵐雪

             初空:月初の空、または新年の空
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by uqrx74fd | 2012-09-29 09:22 | 動物

万葉集その三百九十(土針=メハジキ)

( メハジキ yahoo画像検索 )
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( 同上 )
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古代、土針(つちはり)とよばれた植物は現在のメハジキとされています。
各地の野原や道端に生えるシソ科の二年草で茎は四角。
直立して高さ50㎝~1mに成長し、夏から秋にかけて葉の付け根に紫がかった
ピンク色の唇形の花を咲かせます。

「めはじきや 恋のいろはの 目をつくる 」 椎花 (麻田駒之助)

「メハジキ」は「目弾(はじ)き」という意味で、子供が茎を短く切って瞼の間に
弓のように張りつけ、目を開かせて遊んだことに由来するそうです。

「 我がやどに 生(お)ふる土針(つちはり) 心ゆも
    思はぬ人の 衣(きぬ)に摺(す)らゆな 」
                               巻7-1338 作者未詳

( 我が家の庭に生えている土針よ。
 お前を本気で思ってもいない人の衣の摺り染めに使われてはなりませんよ。 )

土針の葉は緑色の染料に用いられましたが褪せやすいので、移り気が多い男を
連想させています。

母親が娘に
「 浮気心で近づいてくるような男と関係を持ってはいけませんよ。
心からお前を愛してくれる人と付き合いしなさいよね 」と諭した一首と
思われますが、

娘に恋をしている男が
「 遊びで口説いてくる男と関係なんか持ったらだめだよ。
真剣なのは俺なのだから 」と訴えている歌とも解釈できそうです。

「心ゆも」は本気での意。

万葉集での「つちはり」はこの一首のみですが、
古くから難解植物の一つとされ、メハジキのほか ツクバネソウ、エンレイソウ、
レンゲソウなど諸説ありましたが、これらは人家の付近に生える植物ではなく、
摺り染めにも適した花ではないのに対し、メハジキは福島県などで緑の染色に
用いられたという記録があり、また、ツチハリ、ツチウリ、ツチバレ、チチハリと
呼ぶ地方があることから現在では最有力視されています。

「 いかでかは ゆきて折るべき 色いろに
     むらごに にほふ つちはりの花 」  経信母集


「いかでかは」 : なんとかして どうやって
「色いろ」 : 色と 、いろいろを掛ける
「むらご」 : ところどころに濃淡の差がある

( 色とりどりに咲いている土針の花
 香に加えたいのですがどこへ行けば手折れるのでしょうか )

古代の女性は色々な花を乾燥させて混ぜ合わせ、百和香という香料を作り、
衣類に焚き込めたり、匂袋に入れたりしていました。
その花の中に「土針」を加えた珍しい一首です。

なお、「メハジキ」は「益母草(やくもそう)」すなわち「母親に役に立つ草」の別名があり、
葉や茎を乾燥させたものを煎じて、産前産後の婦人用薬や利尿薬として用いられている
漢方の重要な薬草の一つとされています。

「 めはじきの 瞼(まぶた)ふさげば 母がある」 長谷川かな女
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by uqrx74fd | 2012-09-22 19:45 | 植物

万葉集その三百八十九(なでしこ=常夏)

「長野県茅野 八子ヶ峰:(やしがみね:1833m)にて」
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( 同上 )
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(  凛とした野生の花    同上 )
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 (  情熱的な常夏の花  yahoo画像検索より )
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「 撫子や そのかしこきに 美しき 」 惟然(いぜん:江戸時代)

古来「なでしこ」という花には色々なイメージが込められてきました。
その清純で可愛い姿が「愛すべき子供を撫でる心地がする」ことからその名があり、
やがて、楚々とした美しさの中にも芯の強さを秘めた日本女性の代名詞になります。
さらにヨーロッパでは古くから「聖なる花」とされて教会で飾られ、後世、
交配を重ねて「カーネーション」生まれ変わるなど、変化自在なのです。

撫子は我国原産の植物ですが、中国からもたらされた「石竹」も「なでしこ」と
よばれていたため、自生のものを「大和撫子」、渡来のものを「唐撫子(からなでしこ)」
と区別しました。
ただし、「やまとなでしこ」という言葉が歌に出てくるのは平安時代からです。

万葉集で詠われている「なでしこ」は26首。
その中で「石竹」と原文表記されているものが3首みられますが、
すべて「なでしこ」と訓読され、自生の「カワラナデシコ」と推定されています。

大伴家持は撫子に格別の想いを寄せていたのでしょうか。
11首もの歌を残していますが、すべて女性や貴人に関わりがあるものばかりです。

「 我がやどの なでしこの花 盛りなり
    手折りて一目 見せむ子もがも 」
                        巻8-1496 大伴家持


( 我が家の庭の、なでしこの花が真っ盛り。
  手折って一目なりと 見せてやる子がいればいいのになぁ。 )

花の盛りと共に深まりゆく秋。
独り身の侘しさがますます身に染みる。
華やかさの中に哀愁を感じさせる一首です。

「 見わたせば 向(むか)ひの野辺の なでしこの
     散らまく惜しも 雨な降りそね 」
                      巻10-1970  作者未詳


( 見渡すと 真向いの野辺に美しい撫子が咲いています。
 こんな美しい花が散ってしまうのは惜しいなぁ。
雨よ、どうか降らないでおくれ。) 

作者は野原を散策しながら撫子の群生に出会い感動したものと思われます。
見上げると空が急に暗くなり夕立が来そうな気配。
激しい雨に打たれて折角の花を散らすなと願う心優しい作者です。

「 なでしこが その花にもが 朝な朝な
    手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ 」
                       巻3-408 大伴家持


( あなたがなでしこの花であったらいいのになぁ。
 そうであったなら毎朝毎朝 大切に取り持って、愛(め)で慈しみましょうに。)


婚約者大伴大嬢に送った一首で「にもが」は強い願望を表します。
「手に取り持ちて」に「大嬢を掻き抱くことを幻想している?」と
すれば極めて官能的な歌といえます。
撫子をこよなく愛した家持にとって、撫子イコール女性であったのでしょう。

「 秋さらば 見つつ偲(しの)へと 妹が植えし
          やどのなでしこ  咲きにけるかも 」
                      巻3-464 大伴家持


( 「秋になったら 花を見ながら私をいつも思い出してくださいね 」 
   と妻が植えた庭のなでしこ 。
   その花が、もう咲き始めてしまったよ )

亡き妻妾を偲んだ歌のようですが、相手がいかなる女性かは不明です。
「秋さらば」は秋が訪れたらの意ですが、その前に早くも咲いた花。
これからの盛りとは逆に、深まりゆく孤独感が感じられる一首です。

家持が妾のもとに通いはじめたのは16歳。
母親に甘えるような心境だったのかもしれません。


「 我のみや あわれと思はん きりぎりす
        鳴く夕かげの やまとなでしこ 」      素性法師 古今和歌集


( 私だけが「いじらしい」と思っているのだろうか。
 こおろぎが鳴く夕陽の光の中の大和撫子は )

「やまとなでしこ」という言葉が使われた最初の歌です。

古代コオロギはキリギリスとよばれていました。
深まりゆく秋。コオロギが哀愁を帯びた声で鳴き、撫子もなんとなく侘しげです。
夕陽の中に咲く花を眺めつつ虫の音に耳を傾けて行く秋を惜しむ作者は、
瞼に美しい女性を思い浮かべているのでしょうか。

「 俊成の 仮名文字の とこなつの花 」 高野素十 
            
                        俊成= 千載集の撰者 、藤原定家の父 

撫子には「常夏:とこなつ」という別名があります。
花期が長い、あるいは永遠の美しさを讃えて付けられた名前とされていますが、
音の響きから「床」「寝床」すなわち「男女の共寝」を連想させる言葉です。

「 塵をだに 据ゑじと思ふ 咲きしより
     妹と我が寝(ぬ)る 常夏の花 」 
              凡河内躬恒(おほしこうちのみつね)   古今和歌集


( 塵すら置かないようにしようと思って大切にしている「常夏」です。
  咲いてからこのかた、愛する妻と共に寝る「床(とこ)」を思い出させる花ですから、
 お譲りするわけにはまいりませんよ。)

詞書に「隣家から常夏の花を譲ってほしいと言ってきたのでやんわりと断わった」歌と
ありますが、撫子の花を惜しんだとも思えず、深読みすれば共に住む美女を譲って
欲しいと暗に求められたのかもしれません。
とすれば余程図々しいお隣さんだったのですねぇ。

「 撫子が咲きたる 野べに相おもふ
            人とゆきけむ  いにしへおもほゆ 」 伊藤左千夫


                       ご参考:万葉集遊楽その77 (撫子:なでしこ)
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by uqrx74fd | 2012-09-15 07:31 | 植物

万葉集その三百八十八(吉野紀行2)

( 花矢倉展望台より 一目千本 )
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( 吉野水分(みくまり)神社 )
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( 金峯山寺 蔵王堂 )
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( 同上 蔵王権現  同寺パンフレットより )
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( 吉水神社 )
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( 吉野葛 )
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( 吉野周辺案内図 西行庵は金峰神社の下にある )
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私たちは苔清水の歯にしみるような冷たい水を飲んで疲れを癒した後、
杉が刈り倒されている小径を登りはじめました。
ゆるやかな勾配の山道の両側から木の香りが漂ってきます。
郭公でしょうか、鳥の鳴き声も聞こえてきました。
登ること15分。頂上に到達です。
眼下は雄大なパノラマ風景。
杉が形よく林立する吉野の山々、
はるか遠くに金剛、葛城、二上山がかすんで見えます。

「 み吉野の 高城(たかき)の山に 白雲は
   行(ゆ)きはばかりて たなびけり見ゆ 」
                   巻3-353 釋 通観(伝未詳)


( み吉野の 高城山を見ると、白雲が進みかねてずっと棚引いている。
 まるで、雲が山の気高さに感動して、見惚れているようだ )

高城山は金峰山(きんぷせん)近くの高城山(720m)ともいわれています。
万葉人も同じ景色を眺めながらうっとりとしていたことでしょう。
しばしの休息を終え、昼なお暗き森の中に入ります。

「 み吉野の 青根が峰の蘿席(こけむしろ)
    誰(た)れか織りけむ 経緯(たてぬき)なしに 」 
                         巻7-1120 作者未詳(既出)


( 吉野の青根が岳。あの苔のむしろは一体だれが織り上げたのでしょう。
  なんと素晴らしい!まるで絨毯みたいですね。
  縦糸も横糸も区別がつきません )

鬱蒼とした木立が続く中、根元に色鮮やかな緑の苔の絨毯。
その間から羊歯が大きな葉を広げています。
太古の世界に迷い込んだような雰囲気です。
奥吉野が古の姿のまま保たれているのも、神の宿る山として大切にされてきたから
なのでしょう。

約1時間のハイキングを終え、吉野水分(みくまり)神社に向かいます。
古代の人たちは山の水源地や分水嶺に神が宿り、麓を潤す水を配っていると
信じていました。
即ち水配り=水分(みくまり)です。

「 神さぶる 岩根こごしき み吉野の
    水分山( みくまりやま)を 見れば悲しも 」
                           7-1130 作者未詳


( 神々しい大岩の根がごつごつ切り立つ、ここ吉野の水分山、
 この山を見ると切ないほどに身が引き締まってくる。)

吉野を訪れた宮廷人の宴席での歌で、「悲し」は「あまりの素晴らしさに泣きたくなる
くらいに感動した」の意です。
「水分山」は吉野上千本の上方、青根が峰(858m)とされ、もともと「天の水分神」は
その山頂に祀られていましたが、後年(延喜式内社制定以前)、現在の「吉野水分神社」に
遷されたそうです。

丹塗りの楼門をくぐり、境内に入ると右に三殿を一棟とした本殿、左に拝殿、
周囲は吉野の山に囲まれ荘厳な雰囲気を漂わせています。
また、本殿に安置されている玉依姫命像( たまよりひめのみことぞう) は
鎌倉時代の代表作として高く評価され国宝に指定されています。

このお社は水の神様を祀るとともに、子宝の神様とされ、拝殿には赤子の襦袢が
たくさん積まれており、安産の祈願に1枚戴いて帰り、出産したらお礼参りをして
2枚を供えるのだそうです。
枕草子(239段)に「み子もりの神 いとをかし」 と書かれているのでかなり
古い時代から授産、安産の神とされていたようですが、その由来は
「水を配分する神」の「みずくばり」が次第に「みくばり」→「みくまり」
→「みこもり」に転訛しついに「こもり(子守)になった」というのですから面白い。

本居宣長は「菅笠日記」で「子供に恵まれなかった父親が遥々江戸からこの神社に
参って授産を祈願したところ、母が懐妊した。
さらに男でありますようにと祈り自分が生まれでた」と深く信じ

「 水分の 神の誓のなかりせば 
   これのわが身は 生れ来めやも 」


と終生感謝の気持ちを持ち続け、生前に設計し山桜を傍らに植えるように指示した
自らの墓は吉野の方角に向かって建てられたそうです。

「 水分の 神みそなはせ 遅桜 」   石井桐蔭  
                           みそなはせ:ご覧くださいませ

拝殿で大勢の人を前にして女神主さんが静かにお話をされています。
穏やかな顔つきと少し太った体は子守の母にふさわしく「玉依姫命像」の表情と
重なりそうです。

「 奥千本 峰を離るる盆の月 」 新保ふじ子

私たちは吉野随一の眺望を誇る花矢倉展望台へやってきました。
眼下に上千本、中千本、蔵王堂を見下ろせ、遠くに金剛、葛城、二上山が望めます。
花の季節には「 さくら さくら 野山も里も 
見わたすかぎり 霞か雲か朝日に匂ふ 」(古謡) 
がごとく豪華絢爛たる舞台が出現することでしょうが、青葉の季節もまたよしです。

「後ろの茶店の葛切りが美味そう」と思いつつ秘仏御開帳の金峯山寺蔵王堂へ。

「 桜東風 香煙燻る蔵王堂 」 鳥居忠一

蔵王堂の創建は白鳳時代と推定されていますが、1348年の南北朝の戦いで高師直
(こうのもろなお)の兵火で焼かれたほか3度も罹災し、その都度財力を傾けて再興された
野趣あふれる雄渾な大伽藍です。

運よく秘仏、金剛蔵王権現3体が御開帳されており堂内に。
うす暗い内陣には青の忿怒の形相の本尊、金剛蔵王。
右手に三鈷杵(さんこしょ)を持って頭上に振りかざして天界の魔王に挑み、
左手の指の刀印はすべての情欲や迷いを切り払う構えです。
左足は、盤石を踏まえて地下の悪霊を払い、右足を大きく上げて、虚空に充満する
悪魔を調伏せしめんとしているようで、怒髪天の形相は人間の心の中の悪魔を
追い払うのが修験道の理念とのことです。
権現とは、○○の姿をかりて現れる相のことで、中尊は釈迦如来、左、観音菩薩 
右は弥勒菩薩とされていますが、恐ろしい表情にもかかわらず怖いと言う感じは
致しません。
むしろ「お前たちしっかりしろよ」と励まされているようです

 「 蛙飛びの呪文響くや吉野山 」藤田子角

毎年7月7日に蛙飛び行事という奇祭が蔵王堂で行われます。
その昔、一人の男が金峯山寺の本尊の悪口を言った途端に大鷲にさらわれ
断崖絶壁の上に置き去りにされた。
今にも谷底に落ちそうな恐怖に冷や汗を流した男は大いに反省し、通りがかりの
山伏に泣きついてカエルの姿に変えてもらい何とか山から下りてこられた。
ところが人間に戻ることが出来ない。そこで吉野山の高僧が蔵王権現の前に
座らせて経文を唱え、人間にもどしてあげたという伝説に基づく行事です。

 「 葛切りや谷に迫り出す吉野建 」   中御門あや

吉野山の町並みは、いわゆる吉野建といわれる崖造りです。
馬の背のような一筋の町並みは短く、然も左側は深い谷。
そこで、人々は1,2階を道より下にかけ出し、3階が普通の平屋と同じ形にしたのです。
つまり、清水寺や長谷寺の舞台のような造りなのです。
歩いていると気が付きませんが、中に入ってトイレに行くときは、狭くて急勾配の
階段を下りて2階またはその下に行き、崖の上で憩うのです。

「 亀鳴いて 吉水院の奥の庭 」    森田公司

後醍醐天皇が祀られている吉水神社は白鳳年間に建立されたと伝えられ
元は金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)でしたが、明治維新の廃仏毀釈により
神社になったそうです。
南北朝時代、南朝の宮とされ、また義経と静が潜居したり、豊臣秀吉が徳川家康、
前田利家以下5千人もの家来を引き連れて花見をしたことでも知られています。
その折、秀吉は「絶景じゃ。絶景じゃ。」とはしゃぎ

「 年月を 心にかけし吉野山
    花の盛りを今日見つるかな 」
と詠ったそうですが

この狭い場所に5千人の花見とは!
吉野の山は人、人、人であふれかえったことでしょう。

私たちの奈良万葉旅行も吉野神宮を訪ねて終わりとなります。
大学を卒業してから50年目にして初めての5人旅。

あっという間の5日間でしたが、至福のひとときでありました。
水も滴る新緑の中、奈良公園の藤、長谷寺の牡丹、室生寺の石楠花、
長岳寺の躑躅や杜若、そして可憐な野の花々、
み仏の慈悲深いお顔。
古代のロマンに出会った飛鳥路や山の辺の道。
これらは仲間との楽しい会話と相まって終生の良き思い出となることでしょう。

各々の健康と変わらぬ友情を願いつつ次の歌を口ずさみながら吉野をあとに
したことでした。

「 皆人(みなひと)の 命も我がも み吉野の
      滝の常盤の 常ならぬかも 」 6-922 笠 金村


( 皆々方の命も 我らの命も ここ み吉野の滝が常盤であるように
 永遠不変であってくれないものかなぁ。 )
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by uqrx74fd | 2012-09-08 20:08 | 万葉の旅

万葉集その三百八十七(吉野紀行1.:吉野山奥千本へ)

( 宮滝付近 )
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( 如意輪寺 )
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( 金峰神社 )
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( 義経隠れ塔 )
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( 奥千本への道 )
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( 同上 )
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( 西行庵 )
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( 苔清水 )
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私たちの奈良万葉旅行は新緑の吉野で最終日。
近鉄奈良駅から特急を乗り継ぎ9:30に吉野駅に到着、予て案内をお願いしてた
近鉄タクシー運転手、Tさんが約束通り出迎えてくれました。
地元出身の彼は会社唯一の吉野検定合格者です。

早速、九十九折の山道をゆっくりと如意輪寺へ。
鬱蒼と茂る杉木立の中、瑞々しい若葉がキラキラと光っています。

万葉集で「吉野」を詠ったものは70余首の多きに達しますが、
桜を詠ったものは1首もなく、山川の自然の美しさを賛美し朝廷の繁栄を
予祝したものがほとんどです。
当時、吉野川のほとりの宮滝で離宮が営まれ、天皇の行幸が頻繁に
行われていたことにもよるのでしょう。
記録に残るだけでも42回。
中でも持統女帝に至っては32回(妃時代も含めると34回)も訪れています。

何故これほど足しげく吉野を訪れたのか?

国を司る立場から五穀豊穣を祈り、水の神に潤沢な雨を祈願する雨乞い説、
付近に水銀や金銀を産する鉱山がありその発掘作業の督励、
あるいは天武天皇と共に壬申の乱の際に過ごした思い出の地の追慕の情など、
様々な思いが入り混じり吉野へ向かわせたのではないかと推察されていますが、
確たる定説はありません。

ともあれ多くの官人を従えた天皇は吉野の美しい山や清々しい川を
神仙境とみなして詠い、賑やかな酒宴を催したことでしょう。

「 - -吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく
   川早み 瀬の音ぞ清き 
   神さびて 見れば貴(たふと)く
   よろしなへ 見ればさやけし ――」   巻6-1005(長歌の一部) 山部赤人


(- - 吉野の宮は 山が高くて雲がたなびいている
 川の流れが早くて 瀬の音が清らかである
 山の姿は神々しく 川の姿も宮処にふさわしく
 見れば見るほど清々しい- -  )

736年 聖武天皇行幸の時に詠われたものです。
「よろしなへ」の「よろし」は条件が備わっていて快いという気持ちを
表し、ここでは「ふさわしいの」意。

「 花朧 杉も朧や 如意輪寺 」   堀 吉蝶

高い杉木立に囲まれ如意輪寺に到着です。
中千本の桜の山々を見はるかす山の中腹にある静かな佇まいのお寺で、
延喜年間(901~923年)に建立された後醍醐天皇の勅願寺とされています。

南北朝時代、楠木正成の長男、正行が足利尊氏との戦いの前に

「 かえらじと かねて思へば梓弓
    なき数に入る 名をぞとどむる 」


との辞世の句を本堂の扉に残して出陣し、華々しく散ったと伝えられている
夢の跡でもあります。

再び車に乗り込み、吉野山奥千本の入口あたりに立つ金峰神社(きんぷじんじゃ)へ。
吉野山の地主神、金山昆古命(かなやまひこのみこと)を祀る古い社です。

金鉱を守護し、黄金を司る神としても崇められ、このあたり一連の山並みは古くから
「金御岳」「御かねの岳」「こがねの峰」とよばれていました。
背後はこの地方の最高峰標高858mの青根ヶ峰の西北山腹に道が通じており、
初期吉野修験の発生地ともされています。

「 み吉野の 御金が岳(みかねがたけ)に 
  間なくぞ 雨は降るといふ  時じくぞ 雪は降るといふ 
  その雨の 間なきがごと  その雪の 時じきがごと
  間もおちず 我(あ)れはぞ 恋ふる  妹が直香(ただか)に 」  巻13-3293 作者未詳

「 み雪降る 吉野の岳に 居る雲の
    外(よそ)に見し子に 恋ひわたるかも 」 巻13-3294 作者未詳


( み吉野の み金が岳に 
絶え間なく雨は降るという  休みなく 雪は降るという
その雨の絶え間がないように その雪の休みがないように
間もおかずに私は 恋い焦がれている いとしいあの子に ) 13-3293

( み雪降りしきる吉野の岳 その岳にかかっている雲を見るように
 よそながら見たあの子を 私はひたすら焦がれ続けている ) 13-3294

時じ:定まった時がない
妹が直香に :直接に感じ取ることが出来る雰囲気、その人固有の香り
       女性の美しさや魅力をいう「香」から生まれた言葉か。

この社の創建の経緯は不明ですが、栄花物語に藤原道長が詣でたことが記され、
その際に奉納した経筒が国宝に指定されています。(京都博物館に寄託)

脇の小径を下ったところに義経が頼朝の追っ手に追われ隠れ潜んでいたという
簡素な檜皮葺の塔があり、このあたりから大峰山への奥駈道が始まります。

以下は「前登志夫著 吉野紀行 」からです。

『 金峰神社から山道を奥に入ると、急に山気が濃くなるのを感じる
 すぐ急坂に突き当り、道が2つに分かれている。
 「左大峰」という石標が立っているが、そこから山上参りの山伏道が左手に折れている。

  右の方をほぼ真っ直ぐに、山の中腹のゆるやかな小径を行くのが
  西行庵への道である。- 
  杉、檜の小径を数分歩くと、左へ下りるかなり険しい岨道(そばみち)がある。
 「西行庵」の道しるべがある。
  一歩一歩、岩角を踏みしめるようにして、苔清水の上手(かみて)を通り、
 西行庵のある山ふところの平地に辿りつく。
 道しるべから200mほどの距離だが、岨道に馴れない人には骨が折れる。

 背後に雑木林の急な斜面が迫っているが、前方と横手は杉山、檜山の谷間がひらけている。
 谷間をへだてて前方に広がる杉、檜の山の斜面に、陽ざしがさまざまに照り翳(かけ)る。- -。

 下りてきた岨道(そまみち)の下を、横手に二百歩足らず戻ると、名高い苔清水。
 むろん今もとくとくと真清水は湧き出ている。』     (角川選書より)

西行を敬慕する芭蕉は2度この庵を訪れ、故人を偲んで一句献じました。

「 露とくとく 心みに浮世 すすがばや 」 芭蕉

( 庵跡の苔清水は、西行が詠った通り今もトクトクと滴り落ちている。
 試みに私も俗世の塵をすすいでみましょうかね。)

この句は西行の次の歌を本歌取りしたものです。

「 とくとくと 落つる岩間の苔清水
    汲みほすほどもなき住居(すまひ)かな 」 西行


( 我が庵のそばの岩間からとことくと清水が湧き出ているのだが、
 一人住いのわが身のこと、水汲みするほどのこともなかろうよ )

今に残る西行庵跡とされている建物は何度も朽ち果て、その都度地元の人が
立て直したものだそうです。
それにしても、熊が出そうなこの山奥で小屋のような住処。
よく3年間も過ごせたものです。
如何に桜に魅入られたとはいえ、冬は雪に囲まれ凍えるような寒さだったことでしょう。

「 西行庵 これが栖(すみか)か 苔清水 」氏家頼一
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by uqrx74fd | 2012-09-01 20:51 | 万葉の旅