<   2012年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

万葉集その三百九十五(白毫寺と志貴皇子)

(白毫寺山門への石段)
b0162728_20565413.jpg

( 本堂 )
b0162728_20574542.jpg

( 御影堂と桔梗)
b0162728_2058355.jpg

( 高円山 春日野から)
b0162728_20582551.jpg

( 白毫寺から 後方は生駒山 )
b0162728_2059987.jpg

( 笠 金村の歌解説板 後方高円山 :画面を左クリックすると拡大出来ます )
b0162728_2059550.jpg

( 志貴皇子系図 )
b0162728_20594975.jpg

「 萩芽吹く 石段粗き 白毫寺」  佐藤忠

 『 寂(さ)びれの最たる寺として白毫寺がいい。
   山門を見ながら登る古びた石の階(きざはし)は訪れるたびに心が安らぐ。
   萩の最盛期に訪れるべく計画していたがかなわず、9月も終わりの夕暮れどきに、
   寸暇をさいて訪れた。
   もうほとんど散ってしまっていると覚悟はしていたが、まだきざはしの両側の
   残花は美しく、憂愁の美をたたえていた。
   両側から たわわに伸びる枝は、歩を運ぶたびに手に触れ、肩に触れる。
   白や淡紅色の残花を賞でながら山門の近くまで登ると、うっすらと汗ばんだ肌に
   一陣の風がさわやかである。』
                     (南浦小糸 花に寄せて 株式会社フジタ)
     
白毫寺は奈良市街地東南部、春日山の南に連なる高円山の麓にあります。
その昔、天智天皇の第7皇子、志貴皇子の離宮があり没後その山荘を寺としたと
伝えられていますが、寺の草創については天智天皇の勅願によるもの、あるいは
かってこの地に存在した岩淵寺の一院であったなど諸説あり定かではありません。

万葉集に残る志貴皇子の歌は6首。
何れも名歌の誉れが高いものばかりです。
 
「 石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの
         萌え出づる 春になりにけるかも」 
                     巻8の1418(既出) 志貴皇子


( しぶきをあげながら岩の上を流れる水がキラキラ光っている。
 水音も清々しい滝のほとりに ほら、早蕨が芽を出しているよ。
 あぁもう春だ。待ちに待った春がとうとうやってきたねぇ)

「 采女の袖吹きかへす明日香風
      都を遠み いたずらに吹く 」 
                  巻1-51(既出) 志貴皇子


采女は天皇に近侍するために全国から厳選された容姿端麗の女性で、
男たちの憧れの的でした。
この歌は明日香から藤原京に都が移ったのち作者が往年の華やかな女性の姿を
回想したものですが、皇子の母親は越の国の豪族の娘で、越道君 伊羅都売
(こしのみちのきみ いらつめ) といい生前 采女として天皇に仕えていました。
皇子の瞼には美しかった母親の姿が浮かんでいたのかもしれません。

壬申の乱後、天武系の天下にあって天智の子、志貴は母親の身分が低いことも相まって
肩身の狭い思いで過ごしていたと思われ、政治的にも重んじられることなく、
ほどほどの官位を得て静かな生涯を終えたようです。

715年秋、萩の花が咲く9月のことです。
あたかも燎原の火のような松明の列が高円山の兵陵に向かっていました。
志貴皇子の野辺送りです。
宮廷歌人、笠金村は問答形式という斬新な手法で長歌と反歌2首の挽歌を捧げました。

まずは長歌の訳文から。

「 長歌 意訳文(巻2-230) 」

『 大丈夫(ますらお)が 梓弓を手に持って、矢を脇に挟んで立ち向かう的
  その「まと」という名がある高円山(たかまとやま) に
  春の野を焼く野火かと見まごうほど多くの火が燃えている。

  「これは一体どうしたことだ。
   何事が起きたのでしょう?」 と

  尋ねると、道来る人が小雨のような涙を流し、白い衣を濡らしながら
  立ち止まって私に言いました。

   「 どうしてみだりに言葉をお掛けになるのですか?
     ただでさえ悲しいのに、あなた様がそのようなことをお聞きになると
     涙があふれかえってまいります。
     訳をお話しすると心が痛んでなりません。
     あの赤々と連なる松明は天皇の皇子があの世にお出ましになる
     御葬列の送り火なのですよ。」。

「 長歌 訓み下し文 」

「 梓弓 手に取り持ちて ますらをの  さつ矢 手挟(たばさ)み 立ち向かふ 
  高円山(たかまとやま)に  春野焼く 野火と見るまで燃ゆる火を 
  何かと問へば 玉鉾の 道来る人の 泣く淚 
  こさめに降れば 白栲(しろたへ)の 衣ひづちて
  立ち留まり 我れに語らく なにしかも  もとなとぶらふ 
  聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ    語れば 心ぞ痛き 
  天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の 
  いでましの 手火(たひ)の光ぞ  ここだ照りてある 」  
                               巻2-230 笠金村歌集
語句解釈
 さつ矢 :「さつ」は幸 矢の褒め言葉
 こさめ : 小雨 
 白袴(しろたへ): 白い喪服
 衣ひづちて: 「ひづつ」は びっしょり濡れる
 もとなとぶらふ :「もとな」は「元無」で 理由もなく
 手火(たひ) : 松明

「短歌」

「 高円の 野辺(のへ)の秋萩 いたずらに
    咲きか散るらむ 見る人なしに 」  巻2-231 笠金村歌集


( 高円の野辺の秋萩は 今はかいもなく咲いては散っていることであろうか。
 見る人もいなくて ) 
 
 「咲きか散るらむ」は「咲き散るらむか」の意で、満開となって散る

「 御蓋山  野辺行く道は こきだくも
     繁く荒れたるか 久(ひさ)にあらなくに 」 
                           巻2-232 同上


( 御蓋山の野辺を通る皇子の宮への道は どうしてこんなにもひどく荒れすさんで
  いるのであろうか。
  皇子が亡くなられてからまだそんなに長くは経っていないのに ) 

同じ年、元正天皇の即位があり、慶事と忌事が重なったためでしょうか、
「続日本紀」は皇子薨去の年を715年ではなく716年と伝えています。
そのような事情から表立っての葬祭は行われず、密葬のみの寂しいものであった
ことが推察されます。
作者は志貴皇子に近習していたと思われ、切々たる哀悼の気持ちが込められている
歌群ですが、長歌と短歌の間に時間的なズレが感じられ別々の時期に詠われたようです。

当時、挽歌は人麻呂の歌に見えるように、まず死者の経歴を述べて遺徳をたたえ、
最後に「主人公が亡くなって大変悲しい」と詠い上げる形式が確立されていました。
ところが笠金村はそのような形式を全く無視し、もっぱら葬式に自分が立ち会った
状態として詠っています。

まず夜の暗い闇の中から松明の光の列がえんえんと続く。
作者が登場し、「 野火と見るまで 燃ゆる火を いかに 」と驚きを表現して
聞き役にまわり、主役に話らせる。
相手が答え、二人の会話を通して事柄を読者に知らせる。
短い中にも1つの演劇ドラマを完成させるという万葉集には例を見ない手法とされ、
「笠金村の代表作」と高い評価がなされている歌群です。

 「 高円(たかまと)の 野辺の秋萩 な散りそね
        君が形見に 見つつ偲(しぬ)はむ 」   巻2-233  笠金村歌集


           「な散りそね : 散らないでおくれ

生前、政治の表舞台に立つことなく、その温雅な人柄で平穏な生涯を終えた皇子。
ところが、死後60年後に予想もしえなかった大事件が起きました。
770年、度重なる政争などで天武系の皇統が絶え、志貴の子、白壁王が62歳にして
光仁天皇として即位されたのです。
一夜にして天皇の父親となった志貴皇子。
以後は春日宮天皇と追尊されることになります。

棺を覆った後、天智系唯一の遺皇子として皇統へのかけがえのない橋渡しとしての
役割を果たされたとは!
泉下の皇子はいかに思召られたことでしょうか。
しかも、皇統は桓武天皇へと引き継がれ現在に至っているのです。

歌の世界でも志貴皇子の清新な歌風は子の湯原王、榎井王、春日王、孫の安貴王、
曾孫の市原王など名手を輩出しながら受け継がれてゆきました。

  「この萩の 雨のごとくに垂るるかな 」 山口青邨


白毫寺には皇子を偲ぶよすがとして本堂に登る石段の両脇に溢れ出るばかりの
萩が植えられており、満開の頃は、まさにかき分けてゆくような趣を呈しています。
高台からの眺望も素晴らしい。
遠くに生駒山とその下に広がる大和盆地。
寺の片隅、高円山の頂上が臨める場所には笠金村の歌碑がひっそりと建てられており、
毎年9月15日、萩の花咲く中で、お忌法要が営まれているのです。

   「萩散りて 寂もどりけり 御影堂 」   南浦小糸


ご参考.

1.万葉集遊楽で上記に関連する稿 : 数字は掲載番号 

        51 (早蕨)  166 (絵を描く万葉人:采女)  222 (むささび) 
        336 (高円山)   348 (采女)    355 (鴨)

2.志貴皇子の歌 (万葉集歌番号と主題)

         1-51(采女) 1-64(鴨) 3-267(むささび)
         4-513 (大原:=明日香村小原)  8-1418 (早蕨:さわらび)  
         8-1466 (ほととぎす)

                                              以上
[PR]

by uqrx74fd | 2012-10-26 21:02 | 生活

万葉集その三百九十四(恋する鹿)

(春日野で)
b0162728_10292290.jpg

(浮見堂で)
b0162728_10301224.jpg

( 縄張りを見張る雄)
b0162728_1030435.jpg

( 鹿のボクシング 早朝の鹿苑で)
b0162728_1031869.jpg

( 生まれたばかりです)
b0162728_10313483.jpg

( 奈良の代表?)
b0162728_1032241.jpg

( シカト yahoo画像検索)
b0162728_10321756.jpg

( 月と鹿 yahoo画像検索)
b0162728_10324098.jpg


「 宵闇や 鹿に行きあふ 奈良の町 」 内藤鳴雪

鹿は普段オス、メスの群れが分かれて生活をしていますが、秋になると雄鹿は
「ミュウーン、ミュウーン」と哀愁ある声で妻を求めて鳴き出します。
鋭く、よく透る声。 高い調子に吹いた笛の音のようです。
群れから離れた雄は何頭もの雄と妻を争い、唯一勝利したものだけが雌の群れに
入り込んで縄張りを作り、ハーレム生活を楽しむのです。

この縄張りにほかの雄が入ってくると、たちまち雄同士の壮絶な戦いが始まります。
4本の足を踏ん張り、角の下から突き上げるようにして互いに激しく押し合う。
押し負けた雄はトボトボと縄張りから去ってゆきますが、時には、
角が体に刺さって大怪我をしたり死ぬこともあるそうです。

太古の時代、鹿は日本中至るところに棲息していました。
食用や皮、角などを利用するために狩られていましたが、仏教伝来と共に
保護されるようになります。

特に奈良公園の鹿は天然記念物に指定されており、「奈良の鹿愛護会」の調べによると
1079頭棲息しているそうです。(2012年7月16日現在)
神鹿として手厚く保護されるようになったのは、その昔、春日大社創建にあたって、
鹿島神宮(茨城県)から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請した際、命が白鹿に乗って
御蓋山に入って行ったという言い伝えによるとされています。

万葉集で詠われている鹿は63首。馬の88首に次ぐ多さです。
そのうち「鹿鳴く」と詠ったものが44首。
万葉人は自らの恋心を鹿が妻を求める声に重ね、さらに萩を取り合わせて「花妻」と
詠いました。

「 わが岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の
       花妻とひに 来鳴くさ雄鹿 」 
                  巻8-1541 大伴旅人(既出)


( 我家近くの丘に雄鹿が来て鳴いているなぁ。
 萩の初花を自分の花妻だと慕って鳴いているのだろうよ。)

牡鹿が妻を求めて鳴きながら、群生する萩をかき分けながらゆっくり進んで行く。
幻想的な場面を想像させる秀歌です。
それにしても「花妻」とは素晴らしい。
世界中の男が我が妻、恋人に捧げたくなるような美しい言葉です。

「 秋萩の 散りの乱(まが)ひに 呼び立てて
   鳴くなる鹿の 声の遥けさ 」   
                        巻8-1550 湯原王

( 秋萩が盛んに散り乱れているなぁ。
 おぅ、鹿の声が遥か彼方から聞こえてくる。
 あれは妻を呼び立てて鳴いているのだろうよ )

野原一面を紅紫に埋め尽くした萩。
風に吹かれてはらはらと散っている。
清々しい冷気の中、突然、静寂を切り裂くような鹿の一声。
谺(こだま)のような余韻を残しながら響いている。

作者は志貴皇子の子(天智天皇の孫)、 父と共に歌の名手です。

「 かすがの の みくさ をり しき ふす しか の
   つの さえ さやに てる つくよ かも 」    会津八一


( 春日野の み草折り敷き 伏す鹿の 角さえ さやに 照る月夜かも )

( 春日野の草を折り敷いて寝ている鹿の角がはっきりと見えるほど、冴えわたった
 秋の夜の月であることよ )

奈良をこよなく愛した作者は「鹿鳴集」を編み多くの鹿の歌を詠みました。
幽寂な春日野の夜気。 
透き通るような月光の中に浮かび上がる鹿の角。
美しい歌です。

「 二俣(ふたまた)に わかれ初(そめ)けり 鹿の角 」 芭蕉

春に生え始めた角は角袋といい、柔らかい皮膚で覆われています。
古代の人たちは薬狩りと称して角袋を採り、陰干しにした後、粉に引き
強壮剤(鹿茸:ろくじょう)として服用していました。
角の成長が終わる秋には、表面の皮膚が破れて固い角になります。

鹿の角は1歳の終わりころから生えはじめ、2歳で2つ、3歳で3つ、
4歳以上で4つに枝分かれします。
冬の間に抜け落ちて、春に新しい角が生えてきますが、発情期の秋になると
雌をめぐって突き合って死傷したり、人が突かれることもあり、
江戸時代(1671年) 鹿の管理していた興福寺が奈良奉行の要請を受けて
「角切り」を始めたと伝えられています。

毎年10月に行われる風物詩「鹿の角切り」行事は春日大社に至る参道の南側にある
約4,500坪の「鹿苑」で行われていますが、普段は病気や怪我をした鹿の保護、
妊娠した雌鹿の収容、などに使用されています。

「 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の
               声聞く時ぞ 秋は悲しき 」 
        ( 猿丸大夫 百人一首  古今和歌集では詠み人しらず)


( 秋深い奥山に紅葉は散り敷き 妻問いの鹿が踏み分け踏み分け
 悲しげな声で鳴きながらさまよう
 あの声を聞くと
 秋の愁いは深まるばかりだ : 大岡信訳  百人一首 講談社文庫 )

鹿と紅葉が取り合わせて詠われたのは平安時代からですが
後世になると好みが派手になり、鹿は照り映える紅葉と対になり、
華麗な景が好まれるようになりました。

余談ながら、十月の花札の鹿はすべて横向きになっており、
そっぽを向いているように見えます。
このことから「シカト」=無視するという言葉が生まれました。
10月の鹿、「シカトウ」が転訛したもので、当初は警察の隠語?だったとも。

 「行燈(あんどん)に 奈良の心地や 鹿の声 」   夏目漱石
[PR]

by uqrx74fd | 2012-10-20 10:34 | 動物

万葉集その三百九十三(春日山)

( 春日野の秋 手前:御蓋山 後方:春日山)
b0162728_19514597.jpg

( 同上 左 若草山 右 春日山 )
b0162728_19522546.jpg

( 薬師寺大池から 若草山、春日山  )
b0162728_19524513.jpg

( 奈良県庁屋上から 若草山 春日山 大仏殿も )
b0162728_19531331.jpg

( 興福寺南円堂の裏から  後方春日山 )
b0162728_19534295.jpg

( 春日山原始林 )
b0162728_19541146.jpg

( 朱雀門から  付近は現在工事中) 
b0162728_19543323.jpg


「かすがのに おしてるつきの ほがらかに
  あきのゆふべと なりにけるかも 」  会津八一


( 春日野に照りわたる月はくまなく澄んで、 まさに秋の夕べとなりました )

    「おしてる」の「おし」は接頭語で「くまなく照る」こと

近鉄奈良駅から市内循環バスに乗り、破石町(わりいしちょう)で下車。
5分ばかり来た道を戻ると右手に広々とした芝の原が広がり、鹿がのんびりと
草を食んでいる様子が目に飛び込んできます。

かっては大宮びとがピクニックを楽しみ、ポロに似た打ち毬(まり)という競技に親しんだ
憩いの場、万葉の面影を伝える春日野です。
この野に立って東の方角を眺めると低い山並みが重なるように続き、左から、丸刈りの
若草山、鬱蒼とした深山を感じさせる花山(498m 通常春日山とよんでいる)、そして
手前の御蓋山。
若草山は昔、端山とされていたのか万葉集には山名が見えませんが、古の人たちは
この三つの山を総称して「春日山」とよんでいました。
東の山から上る太陽は大地を育み、山頂から流れ出る水は佐保川、率川、能登川、
吉城川となって畑を潤す。
人々が都の守り神とした春日山は四季それぞれの景観も素晴らしく桜、新緑、紅葉や、
月に雪、さらには鶯やホトトギス。
雪月花が揃った舞台に万葉人の心が躍り、恋に歌にいそしんだのです。

「 九月(ながつき)の しぐれの雨に 濡れ通り
   春日の山は 色づきにけり 」 
                   巻10-2180  作者未詳


( 長月の時雨に山の芯まで濡れ通って、春日山はすっかり色づいてきたことよ )

旧暦の9月ですから丁度今頃の季節だったのでしょう。
作者未詳の歌ながら秀歌の誉れが高く、伊藤博氏は
『 調子が単純に一気に徹(とお)っていて良い歌。
  潤いがあり、響きがある。
  「濡れ通り」の一句が鮮烈で、時雨の激しさをしっかりとらえている。
  現代文に訳するより繰り返し吟唱するにしくはない。
  かような高い格調を持つ歌が、紅葉の盛りの長月と、奈良の代表的な山
 「春日山」とを詠みこんでいる。』
と評されています。(万葉集釋注 集英社文庫 )

「 春日山 おして照らせる この月は
    妹が庭にも さやけくありけり 」
                巻7-1074 作者未詳


( 春日山一帯をあまねく照らしているこの月.
いとしいあの子の家の庭にも さやかに照り輝いていたなぁ )

作者は春日山を照らす月を見ながら、過ぎし日に愛しい子の家の庭で一緒に眺めた
月を思い出しているのでしょう。
月を仰ぎながら追憶を詠う甘美な一首で、「おして照らせる」という強い表現が
「月光が大地をあまねく照らしている」様子を浮き立たせています。

「 物思ふと 隠(こも)らひ居りて 今日見れば
     春日の山は 色づきにけり 」 
                         巻10-2199 作者未詳


( 物思いにふけり、ずっと家に引きこもっていたが、今日久しぶりに
 外へ出て見ると 春日の山はすっかり色づいているよ )

作者は恋の想いに悶々としていたのでしょうか。
すっかりふさぎ込んで家に閉じこもり、久しぶりに外へ出て見ると、鮮やかな紅葉。
心も少しは軽くなったことでしょう。

春日山の麓には藤原氏の氏神、春日大社が祀られていますが、古くは地元の豪族、
和邇(わに)氏の祭祀による御蓋山を神体とする拝殿だけの社だったと考えられています。
841年、春日山一帯は神域とされ、狩猟や伐木が全面的に禁止されました。
以来、1200年近く300ヘクタールにおよぶ原始林が今日に至るまで保護され
1924年には「春日山原始林」として天然記念物に指定されています。

鬱蒼と繁茂した巨木の林相は、カシ、シイなどの常緑広葉樹のほかフジ、
カギカズラなどの蔓性植物やシダ類、さらに針葉樹も含む175種類の樹木、
598種類の草花が生育し、60種類の鳥類、1180種類の昆虫が棲むわが国でも稀な
生態系の宝庫です。
尤も100%原始林ではなく、豊臣秀吉が1万本の杉を植栽したり、台風被害による
早期回復を図るため在来種で補植されるなど、ある程度は人口の手が加えられている
そうですが。

私たちは平城宮跡に立って東の方角に臨むと春日山、それに続く高円山を
一望のもとに収めることができます。
大宮びとも朝に夕べに春日山を眺め、愛でていたことでしょう。

修復なった大極殿、朱雀門を眺めながら瞼を閉じて古を想うと艶やかな采女や、
きらびやかな衣装をまとった貴公子の姿が目に浮かんでくるようです。

「 秋されば 春日の山の 黄葉(もみち)見る
      奈良の都の 荒るらく惜しも 」 
                  巻8-1604  大原今城(いまき)

[PR]

by uqrx74fd | 2012-10-13 19:55 | 自然

万葉集その三百九十二(飛鳥川)

( 飛鳥川 石舞台近辺で)
b0162728_2145644.jpg

( 同上  稲渕近辺で)
b0162728_21451156.jpg

( 石橋 稲渕上流で)
b0162728_2146862.jpg

( この石橋は渡れるかな? 栢森で) 
b0162728_2146165.jpg

( 女綱  栢森(かやのもり)入口)
b0162728_2147966.jpg

( 男綱  稲渕 )
b0162728_2147148.jpg

( 棚田を潤す飛鳥川 稲渕で)
b0162728_2148126.jpg

( 飛鳥近辺案内図  飛鳥への旅  偕成社より  画面上を左クリックすると拡大出来ます )
b0162728_21481525.jpg

飛鳥川は奈良県北西部、竜門岳(904m)、高取(583m)の山塊を源流とし、
石舞台の近くで多武峰から流れてくる冬野川と合流しながら飛鳥の中心部を横切り、
藤原京、大和三山の間を北流して大和川に至り全長24㎞の旅を終えます。
今は川幅も狭く水量も多くありませんが、往時は

「 世の中は 何か常なる 明日香川
   きのふの淵ぞ けふは瀬になる 」 古今和歌集 よみ人知らず


と詠われているように水かさも多く、時には氾濫することもあったようです。
この歌は
「 この世の中は いったい何をもって不変のものとなしえようか。
明日という名を持つ明日香川も 昨日は深い淵であったところが
今日は浅い瀬になるのだから 」と
明日香川と明日を掛け、昨日、今日、明日の有為転変、人生の無常を述べた歌と
されています。

神聖な禊(みそぎ)の川として崇められた飛鳥川は人々の日常生活に密着して
多くの恵みをもたらしました。
また周辺の美しい景観は人々に親しまれ、折につけて詠われた24首が
万葉集に残されています。

「今日(けふ)もかも 明日香の川の 夕さらず
  かはず鳴く瀬の さやけくあるらむ 」
                 巻3-356 上古麻呂(かみのふるまろ)


( 夕方になるといつも河鹿が鳴く明日香川
 今日もまたあの瀬は清らかに流れていることであろう
また行って見たいものだ。 )

「夕さらず」: 夕方になると相変わらずの意 「さらず」:~ごとに

平城遷都の後、古都となった飛鳥を懐かしんだ歌のようです。
「かはず」は今の「河鹿」(かじか)、
清流に棲息する蛙の一種で、雄は雌を求めて「フィフィフィフィフィフィ、フィーフィー」                     と鈴を転がすような声で鳴きます

「明日香川 明日も渡らむ 石橋の
   遠き心は 思ほえぬかも 」
               巻11-2701 作者未詳


( 明日香川 あの川を明日にでも渡って逢いに行こう。
 川の飛び石のように、離れ離れの遠く隔てた気持ちなど
少しも抱いたことがないですよ )

女から疎遠をかこつ苦情が到来したのに対する言い訳(伊藤博 万葉集釋注)のようです。
飛鳥川には大きな石を5つか6つ川床に置いて作った「飛び石」が所々にあり、
当時これを石橋とよんでいました。
川が氾濫すると流されることもあったそうですが、恋人の許に通おうと心を弾ませて
何時もの場所に行ったところ、石が消えていたので泣く泣く諦めたというようなことも
あったことでしょう。
今でも台風や大雨のあと、村の人が機械で修復しているそうです。

「 春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほに もみつ
  味酒(うまさけ)を 神(かむ)なびの山の 帯にせる 明日香の川の
  早き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 
  朝露の 消(け)なば 消ぬべく  
  恋ひしくも しるくも逢へる 隠(こも)り妻かも 」
                             巻13-3266 作者未詳
反歌
「 明日香川 瀬々の玉藻の うち靡き
    心は妹に 寄りにけるかも 」 巻13-3267 作者未詳


( 春がやってくると、枝いっぱいに花が咲き乱れ、 秋には木の葉が真っ赤に色づく
  その神なび山が 帯にしている明日香川 
  川の早瀬に生い茂る玉藻が、流れのままに靡くように
  私の心はひたすらお前に靡き寄り、 朝露が はかなく消えるように
身も消え果てるなら 消え果ててしまえとばかりに
恋い焦がれた甲斐があって 今こうしてやっと逢うことができた
我が隠り妻よ。  13-3266 )

( 明日香川の瀬という瀬に生い茂って靡いている玉藻のように 私の心は
 ただひたすら お前に靡き寄ってしまったよ 13-3267 )

語句解釈
 「春されば」:春が到来すると   「花咲きををり」:花房の重みで枝が撓み曲がる
 「秋づけば」 : 秋めいてくると 「丹のほ」=丹の秀: 赤く目立つ 
 「しるくも逢へる」:しるく:はっきりと効果があらわれて 逢へる:共寝している
 「隠り妻」 : 男がいることを人に知られないようにしている妻

何らかの事情で人に知られたくない女性に逢うことができた男の喜びを詠ったものですが、
当時の飛鳥川周辺は、春は桜、秋には紅葉、清流の流れは速く、緑鮮やかな川藻が
女性の髪のように靡いていたことがこの歌から窺えます。
「神奈備山」は神の宿る山とされ、橘寺の後方にみえる「ミハ山」と推定され、
「神の山が帯のように巻いている」とは、「山の麓を取り巻くように蛇行している」
の意です。

「 芋茎干す 飛鳥も奥の 柏森(かやのもり) 」 倉持嘉博

飛鳥川源流の麓、柏森集落入口のところに太い綱が飛鳥川に掛けわたされ、
綱の中ほどに藁でつくった大きな鈴のようなものが吊り下げられています。
女綱とよばれる女性の性器を形どったもので、稲渕の入口にある男綱(男根)とともに
子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫の村への侵入を防ぐために設けられた
結界だそうです。
毎年1月11日に新しいものに取り換える神事が行われますが、稲渕は神式、
栢森は仏式というのも面白い。

この辺りは両岸に山がさしせまり、その間を流れる飛鳥川は稲渕の棚田を潤し、
人々の生活に必要な水を配りながら飛鳥の都に流れ込み、宮殿の直径50mもある
広大な二つの庭池を満たして都人を楽しませ、水時計(漏刻)で時を知らせていました。

万葉人にとって暮らしの動脈であり、心のよりどころとなった母なる川。
飛鳥京は川の流れに沿って営まれていた水の都だったのです。

「 稲渕の 春や男綱の ゆらぎたる」 福島壺

掘辰雄は飛鳥川添いの道を気に入っていたらしく、その印象を次のように書いています。

「 - 軽のあたりをさまよった後、剣の池のほうに出て、それから藁塚(わらづか)の
あちらこちらに うず高く積まれている刈田の中を、香具山や耳成山をたえず
目にしながら歩いているうちに、いつか飛鳥川のまえに出てしまいました。
ここいらへんは まだいかにも田舎じみた小川です。
- なんだか鶺鴒(せきれい)がぴよんぴょん跳ねていたら似合うだろうとおもうような
なんでもない景色です。
それから僕は飛鳥の村のほうへ行く道をとらずに、甘樫の丘の縁を縫いながら、
川ぞいに歩いてゆきました。
ここいらからは、しばらく飛鳥川もたいへん好い。 」
                        ( 大和路、信濃路 新潮文庫より)

「 溝蕎麦に 狭められたり 飛鳥川 」 国枝洋子
[PR]

by uqrx74fd | 2012-10-05 21:50 | 自然